毒多の戯れ言

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zoom RSS ある誕生をみつめながら

<<   作成日時 : 2017/08/13 08:37   >>

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知らなかったが8月11日は休日のようである。さて、
読みかけの本を読むか、ここのとこ考え込んでいる思索をテキストに表すか、たまっているビデオをみるか、、、
雨が降っていればそれらのどれかでいいと思うのだろうが、晴れた休日ではどれもいまひとつだと感じる。
そんなときは森へ足が向いてしまう。癖である。細胞の聲の形かもしれない。
森へ行きたがるのは、深層心理よりもさらに奥の感性を写真で表しにいきたがっていると思うのだが、どうも最近自我が楽を覚え撮影が駄々草になっている。
たしかに被写体は駄々草、、というか駄々葉か、駄々虫とか駄々光とかが多いのだが、撮影そのものが駄々草になってはいけない。
身体が感じて特に目が留まってしまう光景をちゃんとそのまま焼き付けたいと感じるからだ。
撮影が駄々草になるということは細胞が感じている感性を怠惰にしているような気がする。
その時々の感性に丁寧にむきあうことが「生きる」ことのような気もしているわけで、「生きる」を惰性にしているようで自分に腹ただしい。
ということでより丁寧にを目指し、重い三脚、レリーズをもって森に入った。
そんなときに限って身体が震え足を止め視線が留まってしまうような「生」に出会わない。
ただ、汗と草の露と森の湿気とセミの小便でズボンをベトベトに濡らしながらひたすら歩く。
いつもならば止まってしまう蔓のスパイラルや芽生えたばかりの葉に振り向けない。
汗と露にただぐしょ濡れた衣服をひきづりながら、ひたすら歩き、いつもの溜池の堰堤までたどり着き水を飲もうと座った。
ふと池を見下ろすと見たこともないカエルが堰堤の流出の淵に浮かんでいた。
日本に棲むカエルのうち十数種は知っている。でも、そいつは
みたことないのだ、、、、

画像


ちょっと望遠気味のレンズを覗き焦点をあわせ確認すると、それはカエルではなく鳥だった。
水鳥の雛だ。堰堤の排出口の脇である。
昨夜の豪雨で巣から流されてきてしまったのだろうか? 親鳥はいない。

何枚かシャッターをきってから、三脚があることに気づき動画をとることをおもいついた。(なんとか動画を貼ろうと1時間ほどトライしたのですができませんでしたのでリンクにしました。よければ見てやってください)

動画:https://youtu.be/YWFXT59Reks

水に浮かび少し潜ったりしている。やがてたまった落ち葉に上がってきた。
かわいそうに親鳥とはぐれたとなるとこの子の生命もわずかかもしれないな。
かといって掬って救ってやることもできないし、すくう気もおきない。
風呂に水を張り、浮島に落ち葉を乗せて、ミミズか虫か?いや水鳥だから小魚か?を2-3時間おきに、、、という絵が一瞬浮かんだすぐに手で消した。
このままここにいても、水に流され高さ10メートル以上ある堰堤の排出滝に落とされるか、ヤマカガシに食われるかカラスかオオタカに食われるか、ふう。
いずれにしろ自然の円環であり動的平衡である。人間が観念という虚構を発動して手を出すことあるまい。
その子は生まれて生きている。人間のように「法律」という虚構により【正しい】堕胎されることなく生まれた。
「自然の円環」という言葉で正しいとされ、母親の手により白蟻を媒介して天地を走らせることもなく生きている。
いくら水量か蛇やら猛禽やらありとあらゆる困難が予想されようとも、だから生まれさせないということもなく生まれて生きている。天の聲が聞こえるという虚構に左右されることなく生きている。
言葉によって意識することなく、自然な成り行きとしてただ生きている。
人間のように自己満足か自己安堵により手を下すようなことではないのだ。
とは解りながらもつい目を閉じてせめて大きくなるまで育って欲しいと「祈って」しまったのは、自意識なのか身体の自然なのかは解らない。
目をあけると、落ち葉のかたまりの逆のふちに動くものが見えた。
なんと卵を割りいま誕生しようとしている別の命があった。

画像


(前の動画をみて気づいたのだが、動画の終わりのあたりの右上に卵を割でてくる雛がいた)
流された落ち葉の吹き溜まりは「巣」だったのだ。
まだ割れてない卵もあるではないか。
生まれたばかりの雛が割れた卵から脱出する姿をかなりながい間見入ってしまった。
(かなり長めの動画にはなるが癒やされたい人におすすめします)

https://youtu.be/2mh1kgAsXqU

なんとか卵の殻の外で動き出した生まれたばかりの命。
なんとなく感動している自分に笑った。
はたしてこの感動はなんなんだろうか?
デフォで備わった感動なのか、絵本やら聞かされ美談により教育された感動なのか?
なんの思索も言葉もなくあとで感動している自我に気づいたとこをみると自然に備わった感情なのかもしれない。
そしてそんなことを、観念とか虚構とか自然の円環とか動的平衡とか「言葉」にされたとたんに感情を分析にしていることに嗤えるわけだ。
そう、言葉以前のなにかしら裡から溢れるものを感じることが「生きる」と思って森に来たのではないか、笑。
そんなことを裡(身体)からの感性を「考えてしまう」のは性分である。
だって人間だもの・・・
仕方がないな、と自嘲していると、なんと先に生まれた雛が生まれたばかりの雛にちかより突きだした。

画像


おいおいおい、やめなはれ、と、またしても人間の観念を発動させる。
生まれて始めての試練が、水でも蛇でも猛禽でもなく、兄(姉)の口撃?だったのだ。
この辺りは人間も似たようなものかもしれないな。ははは。

https://youtu.be/cChtuuWdbus

いずれにしろ親鳥に気づかれないうちに離れたほうがいいのだろう。
また会いに行きたくなる人間的な感情も棚上げするとするかな。笑

画像

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タイトル (本文) ブログ名/日時
身体的価値と言語的価値 (前半)
思索をしていると、ふと「自身の言葉」が湧き上がってくることがあります。 ...続きを見る
愚慫空論
2017/08/18 09:06

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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時

覚醒せよ
言葉の蓋を解放せよ

他者の言葉は魂を護る装甲板である
同時に魂を縛る拘束具でもある

他者の言葉は感じることを歪める
感じたことに覆い被さって 他人事と為してしまう

言葉に絶望したのなら そこは嗤うべきところでない
「終」と為し「始」と為すべきところ
言祝ぐべきところ

他者の言葉はカルネアデスの板である
自分が死ぬか他者が死ぬか
他者の言葉という板の上では
他者を殺せば自分が死に
自分を殺せば他者が死ぬ

自分を殺して
自分だと思い込んでいたものを殺して
自身の海へ身を投げろ
自身の海で言葉をサルベージせよ

そして覚醒せよ
自身の言葉で語れ
愚慫
2017/08/15 09:34
お早うございます。

熱くヘビーな、、、コメントというか、詩ですね?、、ありがとうございます^^

響きを理解できるだけに、熱くヘビーにならざるえない、ということ感じています。が、もしこれを他者へのメッセージ的な詩だとすると、どこまでいっても誤謬なのかもしれません。

>自身の言葉で語れ

という言葉自体もまた他者の言葉で、言われたからといって、どうなるものでもありません。
恐らくは拘束具を打ち破り自らの裡から覚醒する言葉は、自覚のちに自らの感性によって生まれ、自身に向けて語られるものでしょう。
それが言葉として漏れ出るものを他者がヒントにすることはありでしょうが、、、、
とはいえ

>他者を殺せば自分が死に
自分を殺せば他者が死ぬ

といってしまえば、お手上げです。
ワタシは他者と自己は補完関係だと信じます。
だって「人間」だもの。

詩のような域での言葉は、すでに発話を必要としていないかもしれない。というか「言葉」ですらないかもしれない。、、、とそのように「感じて」います。

という意味において、ここにかかれた「詩」は、他者の言葉として多いに賛同しますが、、、愚慫さんの愚慫さん自らへむけた言葉(詩)と理解します。
毒多
2017/08/16 08:28
おはようございます。

>>自身の言葉で語れ

>という言葉自体もまた他者の言葉で、言われたからといって、どうなるものでもありません。

それが言葉の限界というものです。

言葉はそもそも「他者の言葉」としてしか始まりません。
自分だけの言葉は、他者には伝わらないがゆえに、言葉ではない。言葉は「他者の言葉」でなくてはその役割が果たせない。

その意味で、「自身の言葉」は、言葉ではない。
詩というのは、言葉ではない言葉です。

ですから、それは投げ出されたもの。委ねられたもの。誤謬を前提としたもの。誤謬すべきもの。換骨奪胎すべきもの。

他者の言葉の上っ面だけ(シニフィアン)を汲み取って、自身の表現すべきもの(シニフィエ)を象徴させればよい。言葉の共通性をベースにするならばそこにはそもそも「誤解」がありますが、そのズレからにじみ出てくるものが「オノレ」です。

他者の「オノレ」は、「自身の言葉」を確立してはじめて感得できるものです。「言葉の共通性(正しさ)」に囚われているうちは、「オノレ」はノイズとしてしか感知されません。
愚慫
2017/08/16 09:28
こうした対話をしていると「嫌われる勇気」(という他者の言葉)を思い出す。「嫌う」というのは、他者が、ズレを感知してノイズとしてオノレを捉えている結果で、つまりは自己の課題ではなく、「嫌う」他者の課題のわけだ。他者の課題に対して「勇気」もクソもないわけだから、つまり「嫌われる勇気」などという覚醒は他者基準の甘い言葉だと、今、感じた。

自己の課題は重々承知。「嗤う」などと誤魔化してくれるな、というメッセージも受け取った、というか、そうした表層を俯瞰して嘲笑したのだがww。
とは別に、他者(の言葉)基準がデフォが大多数、、(つまりこれがNTなのだが)、、というなか、拘束板をぶち破り覚醒、解放される他者が増えるのは「楽しい」だろうな、という思いもあるわけだ。覚醒された他者の言葉に他者の裡なるオノレが吾を補完する楽しさを夢見る。
それをリアルのなかでどれだけ確認できるか、、ちょっとそんなことを考えている。
毒多
2017/08/16 15:08
>拘束板をぶち破り覚醒、解放される他者が増えるのは「楽しい」だろうな

切実にそう思います。
それこそがぼくの「天命」だとすら思っていますww

ここでいう拘束具が【システム】であることはいうまでもないでしょう。



文明というコルセットをはめた【人間】は【システム】によって拘束されると同時に、わが身を護る装甲板となし、【アイデンティティ】を保つ。

【コトバ】によって生成された【アイデンティティ】。
カルネアデスの板に乗っかった【アイデンティティ】。

が、それは〔ヒト〕のデフォルトではない。

【人間】が〈ヒト〉に立ち戻るには覚醒が必要だけれど、これはこれで悲しいことでもある。

動的平衡の円環の流れを悲しいと感じる感性。  
【アイデンティティ】が崩壊するときの悲しみ。
愚慫
2017/08/17 07:54
>切実にそう思います。

こうした共有は嬉しいものです。

ただ、ここからまた対話のあたまに回帰する。

・他者の言葉の限界、、、
・自ら拘束板を打ち破るしかない、、、
・自ら覚醒するしかない、、、

しかしながら、おそらくここでの対話は誰にも解らない。ヒント以前の対話です。カルトだ宗教だキチガイだと言われるのがオチですwww

さらには、多数NTにとって【システム】が防御板であり拘束板であることの「気づき」が、かなり困難であるのです。絶望的に無理なのです。
もう可能性としては一旦【システム】から打ちひしがれ、弾かれ、疎外されるしかない。それでもそんなNT多数は、もがいて【システム】に回帰しようとするか、自殺を考えるか、引きこもるか、、、本当は「真に生きる」可能性があるトップランナーなのに脱落ランナーのレッテルを自ら貼ってしまう。
もしトップランナーであるという自覚のきっかけになるのなら、「言葉」の可能性を信じたい、という本音を吐いておきます。
毒多
2017/08/17 16:11
>【システム】が防御板であり拘束板であることの「気づき」が、かなり困難であるのです。

この「気づき」は、天動説に対する地動説のようなものです。「気がつく」だけでは足りない。天動説を信じている、天動説を【アイデンティティ】と為しまっている、ゆえに地動説を認めることができないというところにまで気づきが及ばないと、「気づき」にはならない。

すなわち、呪縛の構造です。


>可能性としては一旦【システム】から打ちひしがれ、弾かれ、疎外されるしかない。

これが【逆接】です。
【システム】に絶望しないといけない。
【システム】に絶望することを「終」と為し「始」と為さなければいけない。
ここには大きな断絶があります。
ただし、乗り越えられないわけではありません。
〔ヒト〕にはその能力が備わっている。


言葉にできることは【逆接】を言語化することです。
〔ヒト〕は【逆接】に生まれてくるわけではない。
【社会】が【逆接】に育んでしまう。

とはいえ、サピエンスの誕生とともに人間社会が【社会】であったわけではない。その事実が【逆接】の言語化の可能性を示しています。
愚慫
2017/08/18 06:20
人間社会には数多の宗教と言われる言説があります。
いかがわしいものもあれば、まっとうなものもある。
人間社会を少しでも「わがもの」として対峙したことがある者ならば、いかがわしいものとまっとうなものとがあるという事実には気がついているはずです。

ということは、いかがわしいものとまっとうなものを区別する「差異」が存在することにも気がついているはず。

なのに、その「差異」を見つめようとはしない。
宗教の真正を認めると、そこへ棲み込んで【アイデンティティ】と為してしまう。『ジョナサン』の最終章が描き出していたところがこれです。

真正といえど、宗教は虚構です。
つまり、虚構だからといってすべてがいかがわしいわけではない。

ぼくが〈からだ〉といったようなことを言うのは、それが虚構の真正を識別するものだからです。


〈からだ〉は〔ヒト〕それぞれです。
ゆえに「虚構の真正」もそれぞれになる。
「虚構の真正」が言葉で表出されると「自身の言葉」です。

ところが「自身の言葉」は言葉としての機能を果たすことができない。そもそも誤謬を前提にしたものだから。それでは秩序を維持できない。〔システム〕が維持できない。

でも、それはテクニカルな問題に過ぎません。
これまでの人類は、誤謬を前提にしてしまうと秩序を維持できない言語しか生み出すことができなかったというだけのことです。
愚慫
2017/08/18 06:56
誤謬を前提としてなおかつ秩序が維持できるような言語体系は構築しうる。もうすでに人類は、それだけのテクノロジーを保有しています。

なのに実現しないのはなぜか?

テクノロジーがあるのに実現できないのは、イノベーションが起こっていないから。イノベーションが起こらないのはマーケティングが拙いからです。

では、どこをマーケティングすればいいのか。

野口整体はマーケティング手法のひとつ。
〔ヒト〕そのものを見据える為の技法。
でも、それだけはどうやら足りません。

マーケティングには歴史も必要。
虚構そのものを見据えるために。

科学も必要です。
イノベーションに至るには、科学は必須。


それらのことを他者に伝達可能な言葉で記述したい。
この具体的な希望が、言葉の可能性を信じるということです。

「信じる」と「信じたい」には大きな差があります。
「信じる」は、具体的なことでなければなりません。

それにはまず「自分の言葉」で記述をしないといけない。他者に伝えることよりもまず、自身で理解し記述ができなければならない。そこを経て次へ行くことができる。

〈世界〉は決してデタラメではないありません。
〔ヒト〕はデタラメのなかから生まれてきたわけではない。ここは信じるに足る事実です。
愚慫
2017/08/18 06:57

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