毒多の戯れ言

アクセスカウンタ

zoom RSS 差別@いじめられっ子

<<   作成日時 : 2017/03/09 11:10   >>

ナイス ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 42

 それにしても、いじめられっ子と言われるのもなんとも物悲しい感があるなぁ、そこはかとなく哀愁を感じる(遠い目)。なぜ物悲しいのか、ちょっと考えている。いじめはいじめられる方にも責任がある、というのをどっかで感じているからかもしれないな。いや違うか、きっと寂しさは「弱い者いじめ」という言葉からのイメージだろう。
 つまり、ワタシは弱い者であり、だからイジメられている(と映る)。ワタシのなかのどこかに「弱い者」は「ダメ」、「強く」なければいけない、という価値判断があるに違いない。では実際にはどうか、対話はできないと感じているのに指名されて対応してしまう弱さ。その対応にしても毅然と主張できない弱さ。もしくは全てを包み込むように許容できない弱さ。そして結局は拒否することで自己保全をしようとする弱さ。・・・これでは確かにイジメられてもしかたない。でもまあ、そうした弱さが自分にある、ということの自覚はして、いじめられっ子であることを受け入れるとしよう。サピエンス全史を読んで「虚構」をしり、まったくもってここまでの価値観が崩壊してしまった以上、なんの主張もできない。かといって他者に「そんな主張、なんでできるの?」なんて聞く気にもなれない以上仕方ない。いじめられっ子、いいではないか。オノレの弱さを受け入れることにするさ。リーガル・ハイみたいになってきたな、笑

 で、ふりかえりね。
 ネット上に「公開されているものには批判も当然あり」「被批判が嫌なら公開しなければいい」というのもまあ、そうだな。確かにネットというのはそういう部分はあるかもしれない。といまさらか、笑。される側からすればストーカーにしか思えないでもないんだが。ん?ストーカー?ストーキングをされるということは好かれているのか? そういえば血気盛んな頃は、他所に出張して意見を言ったときもあったけど、別に好きだからってこともなかったな。ああそうか、これまで出張意見をしてきたんだから他人事のように言うのはよくないわな。
 と、こんな愚痴を書くためにエントリーしても仕方ない。ひとつ思索ネタを得たのだからそこは感謝すべきかな。
 
 それは「差別」だ。と指摘されたこと、これは同感なのだ。確かに差別だ。
 ワタシ個人の感情として、ヤノマミの若い女子の産後殺しは許容できて、現代日本の若い女子の堕胎に嫌悪感がある。どちらも「出産すぐ」「胎児」ということでは同じだし、「殺人」という意味でも同じなわけで、かたや許容できてかたや嫌悪の対象であるというのは、確かに「差別」以外のなにものでもないわな。しかもワタシの裡なる感情に押しとどめるだけでなく、そう公言しているわけだから、異論には応えなければならないのかもしれないし、ワタシのなかでも感情のただの矛盾として放置するのではなく整理しておきたくなってきた。
 ワタシは現代日本の若い女子(以下日本女子)の堕胎場面に直接対峙したことがない。ではなぜ嫌悪感をもつのか?・・何故だろう?・いつかみた、腹のなかの胎児の成長の様子の映像が記憶にのこっていて、そのうえでのツレアイの実際に日本女子の堕胎にくる“態度”の話しからだ。もしかしたら、「ヘラヘラと病院にきて、堕ろしてヘラヘラと笑っている」、、殺人の介助をさせられたことに怒っているツレアイの感情に寄り添おうとしているのかもしれない。実際にワタシ自身が対峙しているわけではないので、その可能性は高い。ツレアイは堕胎以外にも職場の愚痴を言う。ワタシはそれを聴き、愚痴の対象になっている人物の表面にでている言動を誘引している裡なるものの可能性を少し言ってみる。そうするとツレアイは愚痴から脱出することができることがある。ちょくちょく愚痴としてでるヘラヘラ日本女子の愚痴の場合も、実は「ヘラヘラ」の要因、それが辛すぎるが故にヘラヘラ笑うしかない、という可能性をワタシは思う。さらには、堕ろさなければやっていけないと考える社会要因【システム】も認めたくはないが解らないわけではない。恐らくツレアイもそんなことぐらい解っているだろう。
 ヘラヘラの時は裡なる可能性を言いたくないワタシがいる。ただ、怒りに寄り添いたいと思うのはやはり、ただ純粋に生命が奪われることの嫌悪感に違いない。
 じゃあヤノマミの若い女子(以下ヤノマミ女子)の場合はなんなんだ、となるわな。まったくもってその通りなのだ。その批判は正しい(とワタシは感じる)。
 ヤノマミ女子の堕胎にも直接対峙したことはない。1冊の本による伝聞だけだ。そこには今、日本に暮らすワタシたちとはまるで違う世界観が「好意的」にかかれていた。もしかしたら単に「好意的」に書かれていたことに騙されているのかもしれないが、不思議な気持ちになったのは事実なのだ。嫌悪感ではなく不思議な感情。その感情は嫌悪感に値する殺人を許容している。冷静に考えればヤノマミのそれもそうした「システム」であり、母親だけに殺人、遺体処理を行わせる【システム】といえるかもしれないのだが、不思議にそうした発想は浮かんでこなかった。ワタシたちが知る「システム」とは全く別の原理が働いてると思わせていた。そう感じさせたのが現地で生活した著者が感じた「自然の円環」という表現である。その出産殺人、遺体処理の場面だけでなく、たとえば150人以下の集落であり狩り採取生活であり、直接体験でなりたつ生活であり、虚構でなりたつ肥大世界の「不自然な円環」ではまったくないからこそ、「精霊返し」の場面を受け入れた気がする。受け入れなさい、と、ワタシのなかのなかの何かが察知したのかもしれない。(ちなみに本のなかにはこんな解説はなかった、気がする。本は旅にでているので再確認できない。「自然の円環」という言葉だけでワタシは納得した)。

 とはいえ、やはりこれは「差別」である。差別とはヒエラルキーの産物であり、つまりは虚構からなりたつ。虚構から生み出される「差別」。ワタシとしては拒否したいものである。にも関わらず、ワタシのなかに差別が生まれてしまった。
 でもな、なんかな? もともとヒエラルキーは上部が下部のうえにたつという構造だろう。つまり上部が下部を差別するとなるだろう。サピエンスの発展のなかでは発達人が未開人を差別する、〔人間〕が〔ヒト〕を差別するのがシステムだと考えるのだが、ワタシのなかでは逆になっているのだ。意識として〔ヒト〕のほうが上部にある。つまり差別ではあるのだが、逆差別なのだ。虚構により発展してしまった〔人間〕「不自然な円環」を拒否したく、そうした発展をしなかった〔ヒト〕「自然な円環」を是とする、ワタシ個人的な感情なのだろう。
 とするならば、ヘラヘラ日本女子個々に嫌悪感を持つのは間違いかもしれないな。彼女らに〔人間〕「不自然な円環」の代表を背負わせて、代替標的にして批判することにまずいな。 よし分かった。今後はそうした態度、公言はやめにしよう。
 でもね、しつこかもしれないけれど、ヤノマミ女子は自分で殺してそれを請け負っている姿が見えたんだよね。ワタシの感情はそこまで含めて感動していたのかもしれないな。もちろん日本女子の世界の「システム」ではそれも許されないということは知っているんだけどね。許されたら許されたで「人権」が発動されるんだろうし。


 ついでなので別記:つまらぬ作文について
 作文のお題は「福祉の仕事をしたい動機」です。事務文書の文章力はワタシはみていません。「つまらぬ」はワタシの個人的な読み取りです。一般的に「つまらぬ」が正しいのかどうか解りません。「つまらぬ」という言葉では本人にはいいません。質問は「つまらぬ」という表現以外、つまらぬとワタシ個人が感じている部分についても実際に書いてある内容にそってします。対話になるよう笑顔で話しています。対話をしていると「思い」が篭っていないときは解ります。就職指導によって書かされたようなとってつけた文章も良く分かります。真剣味みたいなものを確認したいと思っています。命を預かる仕事のため、動機と真剣さをみています。
 介護施設が【システム】であることは、ワタシよりもむしろ、専門的に勉強してきた入職希望者のほうが詳しいと感じます。もちろん入職希望者へは、実習や待遇説明はまえもって行われています。雇用側が入職希望者を観る場であると同時に、入職希望者が施設(人まで含め)観る場になっていると思います。実際の仕事以外にも平和運動とかやっていて土日とかでなければならないことがあるよ、ということは言ってます。
 日本全体として【システム】により厳しくなっていますが、人的には「やりがい」をもって仕事をできる「法人」だと感じています。と、ここまで説明して「つまらぬ」と言わなければならないのは信用されてないな。まあしょうがないか。
 一方的になるのでこのぐらいにします。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
ナイス
ガッツ(がんばれ!)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(42件)

内 容 ニックネーム/日時
・毒多さん

〔人間〕は虚構です。
〔ヒト〕も虚構です。
そのように認識することができるというにすぎません。
認識できるからといって一般化(現実化)するとも限りません。

ですので〔人間〕より〔ヒト〕を上位に置く、あるいはその逆は、その人の内面的自由に属することです。

差別が生じるのは内面的自由から逸脱した時です。


では内面的自由は、表現を為したら逸脱するのか?
この問いもまた、虚構上にしか答えはない。
イスラームの世界なら「逸脱する」が答えになるかもしれませんが、僕たちが所属する社会では「しない」が回答です。

「表現の自由」とは、そういうことです。
愚慫
2017/03/09 15:59
毒たさんのことを「いじめられっ子」と言ったわけではないのだと思います。

あの場はあくまでも僕の大人気ない、卑劣な、振る舞いに対するものであり、それ以外の含意はないでしょう。

>差別とヒエラルキー

産み落とした後で、(風習にしたがって)蟻塚に供えるのと、自らの体とまだつながっている子を傷つける行為は、カラダの面からも、ココロの面からも、だいぶ違うでしょうね。

gon
2017/03/10 08:08
愚慫さん、おはよ。

>〔人間〕、〔人〕、ヒエラルキー、上下、差別・・・
ワタシたちは、というか、ワタシはどこまでも「虚構」からのがれられないんだなぁ、と再度エントリーを読み直して感じています。
すべては「表現の自由」ですね。主張も批判も意見も同意も感情の噴出も、、、解ります。
理解したうえで、冷静に受け取るようにします。「虚構」を意識しつつ。
毒多
2017/03/10 08:58
gonさん、おはようございます。

 今回のことでワタシのなかの未消化なものに一段落つけることができました。(汚名をかぶるかもしれない)勇気ある指名に感謝します。
 「いじめられっ子」については、「毒多はホントばかだなぁ、ははは」と、アキラさんを笑わせてやろうという枕です。アキラさんに含意がないことはもちろん解っています。でも、せっかくなので、少しだけ自分を振り返りました。「弱さ」は自覚したい。

>産み落とした後で、、、体とつながって、、、

 本文にも書いたのですが、ワタシは、ワタシのなかの別のわだかまりを彼女たちに投射して、何かしらを判断しようとのかもしれません。という前提で、、、
毒多
2017/03/10 09:05
 どちらの心の深いところは解りません。想像でしかありません。おっしゃるように、体内のうちの行為、産後の行為は体の面、心の面、違うと想像します。また自らが手を下す、と他者が(見えないところで)、というのも違う気がします。いずれもワタシ自らが体験しようもないことです。体も心も。(もしgonさんが永きに亘りこうしたことを言おうとしていたなら、やっと解りました。)

 彼女たち自身の心身は想像しかできませんが、彼女たちをとりまく世界(観)は、ワタシも片方は実感することができるところで、考えたいと思います。それぞれの世界観があたかもそれが当然のように、彼女たちに「正しい」を強要して、そうした決断をさせているのか、彼女たちの身体、心まで染み入ったうえで決断をしているのか?。日本の場合は法律によって堕胎は「正しい」となり、ヤノマミの場合は風習によって母親の判断は「正しい」となっている。いずれの「正しい」が本人と同化しているのか? それは何故か? ではワタシのいる世界(観)とはいったいなんなんだ? 今はこんなことを考えています。思索のなかでは彼女たちを利用している、となるかもしれませんが、少なくとも彼女たちを批判することはやめます。

 本に書かれた、ヤノマミ、ピダハンはともに面白いと感じました。まだ未読でしたら、是非、、、、と、また懲りずに無理に読ませようとすることを繰り返している。すみません。気が向いたら・・・気が向いたときに、、、。
毒多
2017/03/10 09:05
毒多さんのことを「いじめられっ子と言ったわけではない」というのは ぼくもその通りだと思います。

もっとも、そのことが「いじめはなかった」というのとは違います。

いじめは必ずしも「「いじめられっ子」を生むわけではありません。いじめに負けると「いじめっれっ子」になりますが、負けなければそうはなりません。たんに「いじめられている(た)子」です。

毒多さんは「いじめられていた子」ではあったし、それに負けない子でもあったんだと思います。

自身の「表現の自由」を守り、表現の元になる思索を深める方向へより歩みを進めた。「負けない」ということですね。


「負けない」は「勝つ」ということとは違いますよね。
「負けない」が「勝つ」になってしまうのが「腐臭」の為せる技。

ぼくはどうしてもそうなってしまいます。
その点、毒多さんは、最初から「負けない」けど「勝たない」という構えでした。

いまさらながら、気がつきました。
愚慫
2017/03/10 09:26
愚慫さん

>腐臭 とはそうしたことなんですね。
やっとなんとなく雰囲気は解りました。
それを消していくのは、なんとなく、犬夜叉の「浄化」ってやつを思い出します。

ワタシも腐臭まるけです。
そも「挑発」もそうですし、レスをするのもブチ切れるか、拗ねるか、いっそ消えるか、完全に無視するか、かなり揺らぎました。
こうした態度は、自分のなか矛盾の隠匿ですね。
隠匿を踏みとどまれたのは「サピエンス全史」のおかげです。
自分のなかの「矛盾」を認めたこそ、少し進歩することができた、となるのでしょうか、(笑)

勝ち負けも「虚構」ですね。それもあまり意味のない。勝ったところで、「だから何?」かな。それよりも面白いことがあるはず。
今回のことで、ちょっと何かをつかんだ感覚があります。この感覚を大切にしたいと思っています。
毒多
2017/03/10 16:48
「浄化」ね...

たぶん、そんな都合のよいものはないんだと思います。
いえ、あるといえばあるのかもしれません。ただ、それに要する時間は、人間が「浄化」に望む時間よりずっと長いのだろうと。

>勝ち負けも「虚構」

そう言いきれるのは、涅槃に到達したような人ではないでしょうか? (^_^;

ぼくは、涅槃になんぞ行きたくはありません。
毒多さんは行きたいですか?

虚構にも勝ち負けはあります。
現実化した虚構が「勝ち」です。

堕胎が人殺し云々。
ごんさんの言うことはわからなくはないんですよ。
彼は勝って現実化した虚構を背景にして思いを述べている。だから「恥ずかしい」とか言えてしまう。彼は「道徳的」ではあるんです。

もちろん、道徳は虚構です。
勝利した虚構。


昨年から「ゲス不倫」とかが話題になっていますよね。
〔ヒト〕の生物学的な特性は乱交だというのが、科学的な見解のようです。

女性の子宮は男性の精子を競争させるような作りになっている。その競争は、ひとりでなくても良いわけです。同時に多人数でもOKです。

でも、こんなことは「言ってはいけない」ことです(笑)
「道徳」に反するから。
生物学的特性よりも、虚構のほうが上なんですよ。〔人間〕ですからね。
愚慫
2017/03/10 23:25
ぼくも毒多さんと同じく、〔人間〕より〔ヒト〕を上に観たい者です。しかし〔人間〕も〔ヒト〕も虚構です。

現代は〔人間〕という虚構が〔ヒト〕という虚構に勝利して現実化しています。乱交は不倫だし、堕胎は殺人だと認識されません。それはそれでいい。

「それはそれでいい」は、同時に「そうでなくてもいい」です。どちらも勝たない。〔人間〕という虚構も〔ヒト〕という虚構も、どちらが上だということはない。

そういう均衡が実現していけばいいと思うんですよ。そうなると、〔人間〕は自ずと〔ヒト〕に帰って行くだろうと。

そうなると、やはり大切なのはまずは「表現の自由」です。勝利して現実化した虚構を持って表現を抑圧するよう構えには抗っていかないと。勝ってしまってはいけない。だけど、負けてもいけない。

そうした均衡を一個の人間の中で実現しようと思えば、それこそ涅槃にでもいくしかないでしょう。だけど、別に一個の人間の中に実現しなくてもいいんじゃないかと思います。社会の中でそれが実現できれば。

――なんて思います(^_^;)
愚慫
2017/03/10 23:42
>勝ったところで、「だから何?」かな。それよりも面白いことがあるはず。


同感です。 (^o^)

アキラ
2017/03/11 09:03
愚慫さん

「涅槃」かぁ、、、

そういえば思い出した、「仏教思想のゼロポイント」が途中読みで投げ出したままだった。サピエンス全史を読み終えたら、なんとなく読めるような気がしてきた。読んでみよう。
と、いうことで「涅槃」がどういう状態か解りませんが、ちょっと思うのは、おそらく悟りの境地では、「勝ち負けも虚構だな」という感覚さえないような気がします。「勝ち負け」という言葉、というか発想がない。やはりそんな境地へは辿り着けません。ワタシには「勝ち負け」をネタにして、「だから何?」とするのが限界です。
そうではあるけど、やっぱり勝ち組である〔人間〕から逃れられないとは思っているので、その矛盾は否定できません。ただ、矛盾なきところに進展なし、ですよね^^

生物学的特性よりも虚構である道徳のほうがうえ、というのもやはりワタシにもあります。その矛盾も抱えています。自覚しようとしながらですが、、、
ただ「不倫」(乱交)というのは面白いですよね。日本では法律とか道徳とかでサピエンスという生物学的特性より上にきています。じゃあ、虚構による統一以前のピダハンやヤノマミはどうか、というと、たしか、パートナーの怒りや悲しみはあり、パートナーによる罰もあったようなことが書いてあった気がします。で無制限に不倫が行われているわけではない。(ヤノマミは別の部族との間だけだったかな?最近すぐに忘れる、とほほ)
サピエンスでは、虚構による規制よりもパートナーへの気遣いによる自主規制も働くのではないかなぁ、ということも感じました。
毒多
2017/03/11 14:36
>社会の中でそれが実現できれば。

そうかこれだな。微妙なすれ違いは。
この壮大な思いがワタシのなかにはない。とりあえず個人として実現していこうかな、ぐらい。個人として虚構を自覚して、そこに呑み込まれることなく、勝ち負けでなく、ちゃんと表現していくでいい。勝たずにいて結果、社会が変わるならそれでいい、、ぐらいしかありません。
ただ、「サピエンス全史」も相当売れているらしいので、だんだん変わっているのかもしれませんね。
毒多
2017/03/11 14:37
アキラさん
うん、そんな感じになってきました(^^)

ところで、こんなとこでなんなんですが、助け舟ありがとうございました。愚慫さんも今さらですがありがとう。ワタシにとって「逃避」することにブレーキがかかりました^^
毒多
2017/03/11 14:37
いえいえ・・というか、どのへんが助け舟になっていたのかが、よく分かってませんが。 (^o^;)

でも、どの皆さんも、「呪い」を好んでいるとは思えないので、だったら建設的な方向だけを見ればいいんじゃない? って思いましたです。 (^^)
アキラ
2017/03/11 22:26
「呪い」を好む者はいませんねぇ〜

だけど、「いのち」は案外「呪い」のことが好きなのかもしれませんですよ。表面上は反発しているのに裏では逢瀬を重ねるいかがわしい関係、みたいな(^_^;)

いのち
愚慫
2017/03/12 08:46
アキラさん

>どのへんが助け船になっているかわからない

発するほうはおうおうにしてそうなのかもしれません。受け取る側だけの気持ちかな。
まあ、感謝をいいたくなったから言ってみただけ、ということで、笑



愚慫さん

「呪い」もなければ進展もしない、てか^^
毒多
2017/03/12 08:56
変なたとえかもしれませんが

〈いのち〉が母親で〈私〉が子どもだとします。

母親は子どもを産んだ後、父親とは離婚している。
その母親が別の男性といい仲になる。
子どもにとって、別の男性は「呪い」に相当します。

子が母を祝福したいとおもったら、別の男も受け容れるしかないじゃないですか。このときに生まれる複雑な感情。

「呪い」は嫌いだけど、でも、「「呪い」を呪う」ことをやってしまうと、〈いのち〉そのものを呪ってしまうことになる。自己嫌悪がまさにそれですね。
愚慫
2017/03/12 08:57
自己愛というのは、自己嫌悪に陥らないために、あるいは隠蔽するために、「「呪い」を嫌う〈私〉を愛する」というやつになります。

たとえでいうと、別の男性を嫌うことで自身のアイデンティティを保つ でしょうね。

でも、それでは、母親との関係性は切り裂かれて行ってしまいます。

母親と男性の間が変わらないなら、その男性を受け容れるしかないんです。

受け容れるというのは、好きになるということではない。「呪い」から目を逸らさず、しっかり付き合うということですよね。


『福島の子どもたちの15歳の旅』には そういうところがキチンと捉えられていると思います。

「宿命」と言ったりしています。この言は「諦め」なんですが、ネガティブではないんです。
愚慫
2017/03/12 09:08
「呪い」が好きなのかもしれないのは、「いのち」ではなくて、「ヒト」あるいは「人間」なんじゃないかと思いますね。
アキラ
2017/03/12 10:26
おはようございます。

愚慫さん、エントリーには書き忘れましたが、やっとワタシの理解力の「弱さ」を解っていただき感謝です。
こうした例え話は理解力が弱点のワタシには分かりやすい、うえに笑わせて頂きました。^^
ワタシは漠然と「呪い」は感情と固定観念かな、と思っていましたが、例え話は少しかぶっているような気もします、笑。

「呪い」が“好き”なのは、、、という設定がややこしいのかな?
感情は人間にとって必須、、、とか
感情は人間のいのちとは切り離せない、、、とか、という意味で同意です。


あきらさん
「人間のいのち」でなく、すべてのものの「いのち」と「呪い」の相関はない、という意味ならば同感です。
「人間」と「人間のいのち」の違いということになると、、同じかなと感じます。そこを区分した上でやはり違うでしょ、となると、やはりワタシがまだ解ってないのかな。
毒多
2017/03/13 08:34
「いのち」+ある種の「虚構」=「人間」
でしょ?

この『ある種の「虚構」』がなければ、いわゆる「呪い」もないんじゃないか?というのが 僕の感触です。
アキラ
2017/03/13 09:33
そうそう、それが言いたかったの。
ワタシも〔人間〕〔ヒト〕以外の命には「呪い」はないと想像しています。真相は解りませんが。
愚慫さんは、人間のいのち、、の「人間の」を省略したと読んでました。
毒多
2017/03/13 12:56
あっ、ちゃうんか、「人間のいのち」でも、いのちでなく、そのうえの+虚構の人間のほうではないか、ということね。
ホント、あたまが弱くてすまぬ。
毒多
2017/03/13 14:06
あたまが弱いということではないと思うんですけど(^_^;)

>『ある種の「虚構」』がなければ

そうそう、そうなんです。

で、〈いのち〉にとってみれば、「ある種の虚構」なにもないんじゃないかな、と思うわけです。

たとえばニューロティピカルとかエイティピカルとかいう区分があります。区分自身は虚構ですが現象としてもある。

現象がニューロティピカルしかなければ、ニューロティピカルという虚構もなければ、エイティピカルを「呪い」として捉えることないでしょう。その逆もまた然りで、エイティピカルだけなら、それがニューロティピカルだという話。

で、〈いのち〉そのものからすればニューロティピカルもエイティピカルも、それぞれ違った方向性ではあるけれど、〈いのち〉の発露には違いない。そこは「好き」と言って差しつかえないかと。
愚慫
2017/03/13 15:21
>〈いのち〉の発露

はい、それは解るんです。というかワタシにも〈いのち〉の「発露」という言葉と発想がありました。
ですが、アキラさんのコメントをみたときに、〈いのち〉は人間だけの占有物じゃないでしょ、ということを考えてしまったのです。すべての種の〈いのち〉にそんな「発露」はないでしょ、人間だけでしょ?と問われているようで再考。
つまり「呪い」という発露も人間特有のもので、〈いのち〉でなく〔人間〕でしょ、とアキラさんの言葉からワタシは考えました。で、つぎに、考えたのはどんな〈いのち〉も普遍的で同じだろうか?ということです。もしかして虚構をもち〔人間〕になってしまった〔人間のいのち〉は、、、そんな〔人間〕からフィードバックされた〈いのち〉はすでに万物共有の普遍的〈いのち〉ではなく、特殊な「いのち」になっていて、愚慫さんはそれを前提で言っているのではないか?とアレコレ考えているうちに混乱に繋がり、アタマが弱いなぁ、となったわけです。

人間のいのちも、普遍、特殊、どちらと言っても虚構なのでしょうが、ちょっと「自殺」に思考が向いているワタシだからの混乱かもしれません。
毒多
2017/03/13 18:25
〉そんな〔人間〕からフィードバックされた

これはその通りでしょう。虚構まみれの〔人間〕は〈いのち〉でさえもラベリングせずにはいられませんから、特殊なもの/そうでないものをどうしても区分けするし、「区分けをしない」ことまた虚構上の操作でしかできません。

それでもなお、ぼくは「区分けしない」方を支持しますけど。だからこそ、ヒューマニズムなるものを嫌悪したりするんですけど(^_^;)
愚慫
2017/03/13 19:41
・愚慫さん

だったら「ニューロティピカル」とか何とかみたいなラベリングも、まったく意味がないでしょう。

僕はそう思います。
所詮それはラベリング(虚構)の世界で、「その人」自身を感じとってる話ではないですよね?
つまりそれはリアルではない。
所詮「虚構」。
アキラ
2017/03/13 23:50
>ぼくは「区分けしない」方を支持しますけど。だからこそ、ヒューマニズムなるものを嫌悪したりするんですけど(^_^;)

僕には愚慫さんの文は区分け(そもそも言葉とは区分けにほかならないのだけど)のオンパレードに見えるんですよ。で、切り分けた反対側の生命の(要請の)重みを切り捨てる。

それで『この世界の片隅に』に描かれている世界を矮小化してしまうのです。普通の大切さ、はかなさ、〈普通に生きている人々〉のかけがえのなさ、じゃなく、すずだけの持つ特殊な【普通】の物語として読んでしまうのです。

先入観(≒偏見)というやつですね。

ヒューマニズムと孔子や仏陀を切り分けていらっしゃるような言及がそれを象徴していますね。

人の書いた文についても同じようなことが言えます。(自分ありき〉という先入観なしに人の書いたものを読めない。だからその読みは切り分けの作業にしかならない。それが愚慫さんの弱点です。

まあもともと虚構なのだからどの読みにも良し悪しなどないのですけど。



gon
2017/03/14 06:27
・毒多さん

これから「平凡な」作文を書いた若い人たちと一緒に仕事をしていくなかで、彼らがどれだけ豊かかに気付かされることが(毒多さんなら)あると思います。

彼らの中には「仕方なく」作文を書き、「仕方なく」ここに来たというような方も多いでしょう。でも、そんなことはどうでもいいことじゃないですか。

そう考えれば、彼らの作文の中にある「希望」の方を輝かすように接することはできるはずです。

gon
2017/03/14 06:48
「虚構に意味はない」という虚構(言葉)に意味はあるのか?

これ、「「クレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言った」という例で語られる自己言及のパラドクスというやつですが。

アキラさん
ごんさん

あなた方の言われいることは、自己言及のパラドクスに陥っていません?
愚慫
2017/03/14 08:34
おはようございます。

愚慫さん

概ね解るんですが、ワタシにとってのキーワードは「ヒューマニズム」かな。
多少、福祉施設と関わりをもってしまったので、福祉施設を思い浮かべているのですが、おそらくピダハン〔ヒト〕の世界では区分けされてしまういのちを「区分けしない温かい虚構」が「ヒューマニズム」かなという感触があり、嫌悪の対象になるというところが解りにくいです。
もっとも、過去のワタシの「人権運動」を思い出すと、少し解るような気もしますが^^;

毒多
2017/03/14 08:42
gonさん

入職希望者の件、解りやすいコメントありがとうございます。伝わりました。
おっしゃることに同感です。ほとんどの休職希望者に「期待」していますし、「希望」をもって仕事ができればいいと考えています。

以下補足です。
「つまらぬ」「平凡」はワタシの裡の隠匿しない気持ちで、ワタシ自身がそうした言葉を持っていることを特に記録しておきたいと思っています。逆に「素晴らしい」についても、その評価がワタシだけのものであり、一般性はないです。またさほど自分に自信があるわけでもありません。

残念ながら今の立場では狭義の意味、具体的に、>彼らと一緒に仕事していく、、ことはありません。もちろん一緒に仕事もできれば、彼らから得るものも多いとは想像します。現状彼らと会うのは、十分二十分というほんの短い時間です。ワタシとしては、その短い時間で極力「希望を引き出す」言葉のやりとりをしているつもりです。力量不足を自認しながら。
また、理事長には、一年に一度ぐらいは新規入植者と対話する席を設けてはどうか、とは言っています。

いま思い出しましたが、ワタシ自身が新卒のとき「つまらぬ」「平凡」な入職希望者でしたので、そう感じる今の入職希望者にシンパシーを感じるとともに頑張って欲しいと、意識せずに裡のどこかにいるのかもしれません。

毒多
2017/03/14 08:44
・毒多さん

ヒューマニズムは「温かい」虚構です。
でも、「区分けしない」は違います。

ぼくがヒューマニズムを嫌悪するのは、いえ、正確にはヒューマニズムそのものは嫌悪もなにもないんです。嫌悪するのはヒューマニズムを振り回す〔人間〕の方なんですが、その理由は、

『フードインク』

のようなものを生み出してしまうことへの反省がないからです。

血なまぐさい臭いに抗いながら殺生をして、自分の手で食物を確保したことがある人間なら、ヒューマニズムという区分けがいかにくだらないものかは明白なんですが。
愚慫@毒多さん
2017/03/14 09:37
とりあえずのコメです。

gonさん、、とりあえず訂正です。
休職 入植  いずれも  入職 です。

愚慫さん
>正確にはヒューマニズムそのものへの嫌悪ではない

これを言わないと、とりあえず嫌悪感もたれると予想しますよ、まぁ、わざとかもしれませんが、、、^^;

>ヒューマニズムを振り回す人間

これはワタシも感じるとこがあるのですが、ワタシの腑に落ちる感覚を自分自身でもうすこし探ってみます。

毒多
2017/03/14 12:10
>これを言わないと

言わなければわかりませんか?
同じようなことはさんざん議論してきたじゃないですか。

「愛国」は、いいも悪いもありません。
だけど「愛国者」は始末が悪い。

「正義」は、それはそれでいい。
だけど「正義を強要する者」は始末が悪い。

ヒューマニズムも同じです。



挑発的な言い方をしていますが、もちろん、わざとです。

「発言」から嫌悪感が生まれるのではありません。
先に嫌悪があるんです。
嫌悪を抱いている者は 嫌悪を吐き出す出口を探しているだけ。

アドラーの目的論が指摘するところです。


毒多さんにも覚えがあると思います。
嫌悪の言葉の吐いた後の後味の悪さ。

嫌悪の言葉は、一時的に快楽をもたらしてくれます。だけど、ぶり返しがくるでしょう? 自分で自分に気分がわるくなる。自己嫌悪がやって来る。

これから逃れる方法は2つ。

嫌悪依存症になるか。
自己嫌悪を元から絶つか。

「嫌悪」というのは「腐臭」ですね。


自らの「腐臭」に気がついていない者、いえ、気がつこうとしない者に、

「ああ、だいじょうぶ、臭くないよ」はダメです。

「臭いぞ、オマエ!」

と言わなければならない。
そりゃ、自分だって臭いんだけどね(^_^;)

どうしたって剣呑になります。
剣呑でなくやれる方法があるというのなら、ひれ伏して教えを乞いたい。誰も教えてくれないけど。

イド・ケダーさんの気持ちがよくわかります。
愚慫@毒多さん
2017/03/14 12:33
挑発ついてでに、小咄(?)を。

登場人物はA,B,Cの3人。

A(わたし、臭うかな...)
A「Bさん、わたし臭ってないかな?」

B(Aさん臭うけど、言っちゃ悪いなな...)
B「いえいえ、気になりませんよ」

A「そう? よかった。安心した。」
A(臭っているかもしれないけど、気づかれてはいないんだ)

B(臭っているけど、ガマンできないほどじゃないし)
B(Aさんの気分を害するよりは、いいよね...)

C「いや、Aさん、臭っていますよ」

A「!」
B「!」
A&B「Cさん、アンタ嫌い!」

C「???」
愚慫
2017/03/14 12:40
↑ のような現象を「ニューロティピカル現象」と呼びます。ぼくだけですが(^_^;)

他人の気持ちがわかると、こういった「隠蔽」が起きてしまいます。

AとBはニューロティピカル、Cはエイティピカルです。

AとBはこのようにして互いに自己嫌悪を隠蔽し合います。そして、そのはけ口をCへと向ける。Cを嫌悪の対象とし共有することで、ますます自己嫌悪の隠蔽を深めていきます。

そして自己愛、ナルシシズムが深まっていくんですね...
愚慫
2017/03/14 12:46
>これを言わないと

確かにニューロティピカル的な物言いですね、笑
ワタシは別にいいんです。解っていますし。
ワタシのなかの最近の事例では「教育勅語」だな、と読みながら同時に考えていましたし。
上の台詞をわざわざ書いたのは、またやりあっちゃうのかな、さんざん繰り返しているなぁ、いつも不毛だし。やっぱこれも勝ち負け的になるんじゃないの? 超閉鎖的なここでやりあっても「社会」となんか関係あるの? 別に隠匿ということではないですよ。そろそろ別の手に変えてみても良い気がするんだけど、てなニューロティピカルな感性が働いたからでしょうね。
それともう一つ、愚慫さんがエイティピカルだということを、今ひとつ認識不足だということかな。

自己嫌悪の隠蔽を深めるか、それを否定するか、そうした解釈自体を否定するか、、、は、愚慫さんの問題ではないでしょ? ワタシはワタシの問題として否定せずに考えますが、みながワタシのように考えるかどうか、ワタシは知りませんし、愚慫さんの物言いで考えるというワタシは相当特殊かもしれませんよ^^;
毒多
2017/03/14 17:39
・愚慫さん

>あなた方の言われいることは、自己言及のパラドクスに陥っていません?

仰る通りです。

「先入観なしに人の書いたものを読めない」というのは僕ら人間の宿命みたいなものだと思うので。

あとは自覚の問題かな。で、その後の展開。

そこが僕らの弱いところだな、と自覚して、より「あたたかい」方向に持っていく。

人も動物もすべての生命が同じ地球を共有しているのだから、どの生命も大切だよね。と。

まあ、何かを隠蔽しているのかもしれないけど、別にいいじゃないですか。こんなことを思えるのも人間なのだから。

あと、他の雄の子と、成体の雄を一緒にするのはすごく危険なことだよ、ということぐらいは「教えて」おきたいですね。若い母親には。

gon
2017/03/14 19:08
・毒多さん

ご心配には及びませんよ。お庭をお貸しいただきありがとうございました。僕はそろそろおいとまします。

飼い犬が手を噛むので。^^

(拝み釦さん有り難い教えをどうもありがとう)



gon
2017/03/14 19:15
・毒多さん

はい、毒多さんは毒多さんで考えみてください。それこそがぼくの望むところ。

>愚慫さんの問題ではないでしょ?

はい、それこそが【システム】の問題です。

誰もが「自分で感じて考える」ことを阻害するのが虚構です。自立を妨げるのが虚構です。

誰もが虚構に頼らず自立するようになれば、できることは自分でやるし、できないことには自らヘルプを出すようになる。それだけではなくて、諍いも自身で判断して対処するでしょう。

ヤノマミ女子のように。

虚構による諍いへの援助は、サピエンスがネアンデルターレンシスと諍うときには有効でした。有効すぎた。その過剰な有効性は現在、サピエンス自身を苛んでいる。諍いをするのに、虚構の助力を頼むのが当然になっている。


>超閉鎖的なここでやりあっても「社会」となんか関係あるの?

社会とおおいに関わりがあります。
ここは別に閉鎖的だというわけではない。「世界の片隅」なだけです。

いいじゃないですか。世界の片隅で、それぞれが自立して、その結果として諍いがあるのなら。世界のど真ん中で、虚構とそれによってできあがった協力およびその成果(科学技術)をもちいてやり合うより。

【システム】は諍いの総量を増やすだけではなく、諍いを集約する機能もある。そうやって生まれるのが戦争です。

諍いがなくなることはないでしょう。だったら、増やさない、集約させないことが大切。世界の方々で、自立した〔人間〕たちが、必要に応じて自ら事を為したり、協力したり、諍いを為したりする。

諍いも隠蔽してはいけないと思います。隠蔽したら、別の場所、吹き出しやすい場所で吹き出すだけです。そうやって弱い場所に集約するのが「いじめ」です。だったら、自立したもの同士が諍っているほうが10000倍マシです。
愚慫
2017/03/15 09:16
本当にニューロティピカル的な歯切れ悪く終わらせたのが良かったのか、と思ったのだが第一感。
ワタシ自身そこを望んだのかと自問はする。
それは腐臭の隠匿ではないか、と問われれば否定する自信はない。

>自立したもの同士が諍っているほうが10000倍マシ

「自立したもの同士」・・・たしかにその通り。
そもワタシ一人だけが井戸の底にいて、他者がまったく別のステージに立ちわかっていて諍っているのかもしれない。ワタシだけが何も分かってなくて、分かってないことの隠匿のため諍いを嫌っているのかもしれない。
ワタシには、すずもオーケンも星の王子さまもクラッシックも若者の可能性も身体の感触もワカンナイ。正直にホントにワカンナイ。
そんなワカンナイワタシが諍うステージに立てないことで、隠匿をするべきではないな。

愚慫さん 了解。次があればニューロティピカルを発揮せず見つめています。ワカンナイことの自覚をしつつ・・・思索しつつ・・・

毒多
2017/03/15 10:32

コメントする help

ニックネーム
本 文
差別@いじめられっ子 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる