毒多の戯れ言

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zoom RSS 「サピエンス全史」 in the forest

<<   作成日時 : 2017/03/03 16:18   >>

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 サピエンス全史 3部まで読み終わり タメイキ一つ 春はすぐそこ^^

 これまでのモヤモヤの正体が虚像だったんだ、と納得できるよう説明されると「落胆」など通りこして笑えてくる。笑いながら涙すると街などにはいられずに、無性に森へ行きたくなるわけだ。
 実体に触れたいと身体がいっているようだ。居ても立ってもいられず、いつもの森へ行く。もちろん虚構を識ってしまったかもしれない今(サピエンス全史に洗脳された今!)では、見えている世界が違う。森なかにいるワタシは狩採取の民の目で周辺をみている。なんのこっちゃ!!
 しかしそれはホモ・サピエンス初期の目であり、自然を支配する人間ではなく自然のなかの一種にすぎず、自らの力と知の範囲で可能な狩りや採取をして生きていく。虚構ではなく、直の感触を伴い直に触れ合う範囲での物語の世界である。

 この辺りは森といえども里山の周辺であり、近代のイベント以降自然保護公園的な地域になっている。そんなわけで以前丈が四尺もあるお化けわらびに驚き、その一本引きちぎってブログにアップしたところ、「自然公園内で云々」とキィキィと鬼のような抗議のコメントが入ったといういわくつきの森で、もし自然薯など掘ろうものならお縄頂戴よろしく、滅多打ちにされるだろう。たとえそれが「自然」のものであろうが、「所有」と「権利」と「法」に支配されているのだ。
 小川には小魚がいて、木々には小鳥が、脇に道の泥には猪の痕跡が多数残されているのだが、いまでは虚構の絶対的な力によってそれらを狩って食うことは許されない。ワラビの1本でもいけないのだ。日本(虚構)という島と周辺の海域(虚構)では、すべて虚構(「所有」と「権利」と「法」)に支配されている。ということで先史へ戻ることはできず、ピダハンにはなれない。

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「所有」と「権利」と「法」の虚構に凍え 生きるため自然薯を掘ることも許されじ 冬の道


 なんちゃってね。たとえそれらを狩ることが許されようと、果たして、現代に生きるワタシが、そうして生きていけるだろうか?(笑)
 すでに5時間ちかく歩きまわったのだが、知識も技量もなく何ひとつとして採取できていない。春は近いといってもまだ冬である。あるのは枯れ木か枯れ草、萎びたキノコが食えるものかどうかの知識もなく、カメラのファインダーにさえ捉えきれないすばっしっこい小鳥を捕らえることが可能とは考えられない。もし仮に猪などに出会った日には、ラッキーどころか、返り討ちにあうのは目に見えている。
 たしかにこれまでも、所有と権利の虚構の目を掻い潜り季節ごとの採取をしてきた。フキノトウやら土筆やら蕨、野蒜、雪乃下、キノコ、アケビ、etcetc、それはレジャーであり一食分にも満たない副食であり「季節を愉しむ」などという愛想であり、うたかたの物語なのだ。生活とはなりえない。

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ファインダーでさえ逃げる小魚さえ捕まえることなき陽の光


 ああ結局はなにも採れないまあ歩き疲れて日が暮れて森に取り残されて一気に寒く暗くなっても火もおこせない。木の根元に座りこみ途方に暮れてしまうとは、、冷たい空気のなか響く鳥の声とわずかな風に揺らされる木の枝以外になにも聞こえない。さてオレは何かに祈るしかないのだろうか? 木の霊、草の霊、土の霊、鳥の霊、、、、どんな霊も慰めてはくれず、狐に化かされることもない。
 そうか、ここは里山なのだ、200mも歩けば里に出る。頭をさげて軒先を借りようか?それとも、頼み込んで居座らせてもらおうか? 歩き回る採取にピリオドをうち、田畑を耕し食っていこうか? 疫病と収穫予想と隷属と天候と腰痛にビクつき怯えながら定住と村と鎮守の神に身を捧げる農民になろうか? もう昔とちがって取れ高の大半を年貢にすることさえなく、むしろ不作でも保護してもらえる。そんな虚構の社会になってきた。虚構バンザイ!!
 でもね、この里はもうそんなことでもない。もう、とうの昔に田んぼを諦め、捨てられた田んぼはすでに自然体験農園に生まれ変わっている。疫病も天候も収穫予想も関係なく、売り飛ばしたか貨幣で貸したかの定収入に変わった。物好きな市民は日曜日ごと楽しみ、自然農法という虚構を信望して、収穫祭の「おにぎり」「もちつき」を目指して稲に隷属する。稲したら不満たっぷりの適当な隷属かもしれないが良識派(という虚構)の自然思考の市民には関係ない。そもそもがいかに品種改良だろうが、土壌が不自然だろうが、無農薬なら自然農法なのだ。信じるものは救われる。
 というわけで、オレは採取時代への回帰どころか農業革命への回帰にも失敗した。
 まあ、気落ちすることもない。未来への分かれ道はいくらでもある。とりあえず、ひとつの道の選択として街へ帰ることにするか。虚構のなかから抜け出すのは一筋縄ではいかないな、笑。
一筋縄どころか、不可能だとしっているサピエンス。
ただ、歩き回った5時間だけは、すこし虚構から逃れたと、日記には書いておこう。
 

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街ならば薄氷さえ張らず 気づかぬままに溺れていゆくかな




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火を焚きなさい 〜山尾三省

山に夕闇がせまる
子供達よ
ほら もう夜が背中まできている
火を焚きなさい
お前達の心残りの遊びをやめて
大昔の心にかえり
火を焚きなさい
風呂場には 充分な薪が用意してある
よく乾いたもの 少しは湿り気のあるもの
太いもの 細いもの
よく選んで 上手に火を焚きなさい

少しくらい煙たくたって仕方ない
がまんして しっかり火を燃やしなさい
やがて調子が出てくると
ほら お前達の今の心のようなオレンジ色の炎が
いっしんに燃え立つだろう
そうしたら じっとその火を見詰めなさい
いつのまにか --
背後から 夜がお前をすっぽりつつんでいる
夜がすっぽりとお前をつつんだ時こそ
不思議の時
火が 永遠の物語を始める時なのだ

それは
眠る前に母さんが読んでくれた本の中の物語じゃなく
父さんの自慢話のようじゃなく
テレビで見れるものでもない
お前達自身が お前達自身の裸の眼と耳と心で聴く
お前達自身の 不思議の物語なのだよ
注意深く ていねいに
火を焚きなさい
火がいっしんに燃え立つように
けれどもあまりぼうぼう燃えないように
静かな気持で 火を焚きなさい
愚慫
2017/03/03 22:26
人間は
火を焚く動物だった
だから 火を焚くことができれば それでもう人間なんだ
火を焚きなさい
人間の原初の火を焚きなさい
やがてお前達が大きくなって 虚栄の市へと出かけて行き
必要なものと 必要でないものの見分けがつかなくなり
自分の価値を見失ってしまった時
きっとお前達は 思い出すだろう
すっぽりと夜につつまれて
オレンジ色の神秘の炎を見詰めた日々のことを

山に夕闇がせまる
子供達よ
もう夜が背中まできている
この日はもう充分に遊んだ
遊びをやめて お前達の火にとりかかりなさい
小屋には薪が充分に用意してある
火を焚きなさい
よく乾いたもの 少し湿り気のあるもの
太いもの 細いもの
よく選んで 上手に組み立て
火を焚きなさい
火がいっしんに燃え立つようになったら
そのオレンジ色の炎の奥の
金色の神殿から聴こえてくる
お前達自身の 昔と今と未来の不思議の物語に 耳を傾けなさい
愚慫
2017/03/03 22:27
ヘェ〜、山尾三省という方なんですね。
知りませんでした。
素敵な詩の紹介ありがとうございます。
毒多
2017/03/04 15:59
なぜか火が浮かんだんですよねぇ (^O^)
愚慫
2017/03/04 18:54
エントリー中「なにも採れないまま日は暮れて」以降はフィクションですが、「火が浮かぶ」というのは深く同意します。なので、ご紹介の詩も染み入るように入ってきました。^^
火を焚きはじめたのは、「認知革命」以前なのですよね。サピエンス全史にもなんらかの記述があったような気がしましたが、詳細は思い出せません。サピエンスだけだったんかな?ネアンデルタールは火を焚かなかったのか、そのあたりの記述があったのか?
認知革命で人間になる以前に火を焚くで人間になる、というの頷きたくなります。
毒多
2017/03/05 09:23
ホモ・ネアンデルターレンシスは火を焚いていたと考えられているようです。ネアンデルターレンシスの前のエレクトス(北京原人)も使っていただろうという説があります。

人類が火を焚くようになったのは、認知革命以前なのは、まず確実かと。


火には根源的な安心感があるような気がします。
それは 認知革命以前、まだ人類が取るに足らない存在だった頃の記憶と結びつくているのかもしれません。

現在と違って 圧倒的に生存の不安に怯えていたと思うんです。でも、火を焚いてさえいれば、「敵」は近寄って来れなかった...

あ、現代は別の意味で圧倒的に生存の不安に怯えていますね(^_^;)
愚慫
2017/03/05 12:05
 科学革命まで読みすすんでいます。
 認知革命以前の生存の不安は、直接的感覚のものですね。それに対して現代の圧倒的な生存の不安は「虚構」によるものでしょう。
 つまり古代には怯えなくていいものに怯えるようになってしまった。
 生存の不安というよりは、生活の不安。将来を案ずるがあまり過剰な不安に襲われる。虚構信望、、というよりは、街(虚構)に溺れていることに気づかずにアップアップしている感じです。溺れていることに気づかないから悲観して自殺してしまう。さらには虚構の自覚がないものは溺れるに決っているからといって他者、とりわけ胎児のうちから殺してしまう。虚構ゆえの殺人です。
 善・悪のジャッジも虚構っぽいのでしませんが虚しいものです。絶望はしませんがね、^^
毒多
2017/03/06 11:07
>つまり古代には怯えなくていいものに

そうなんです。
確かに、その代償として古代には怯えていたものに怯えなくても済むようにはなっています。爆発的な人口増加は、そうした「怯え」の現象が主観的なのではなく、客観的な事実として捉えられるということを示しています。

さはさりなが、世界人口が100億人であろうが、1万人であろうが、「わたし」や「あなた」にはどうでもいいことです。
どうでもいいのに、どうしようもないことになっているのが問題だし、どうしようもないからといってどうにかしようとすると、暴力的な方法しか出てこないのはさらに問題。

とんでもない悪循環で、ほんと、絶望的です(^_^;)


>生存の不安というよりは、生活の不安。

火を眺めると得られる安心。
スイッチをひねると火が出てくる機械を眺める安心。

同じ安心でも、感覚的には相当違うと思います。
不安の質も違う。

後者は機械的ですけど、同時に虚構的でもある。
虚構がうまく作用しないと機械は作動しません。先の地震は、そのことを実証して見せましたね。

結局、ぼくたちはもう十分に〔人間〕にはなったから、ここらで〔ヒト〕に戻ろうよ、ということに落着くんだと思うんです。

では、どうやったら、安心しながら〔ヒト〕に戻っていけるか、です。
宗教もひとつの方法ですけど、ね (^_^;)
愚慫
2017/03/06 12:04

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