毒多の戯れ言

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zoom RSS その作文に心惹かれたわけ

<<   作成日時 : 2017/02/11 15:31   >>

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 その作文は、とっても小さなコミュニティの要請で書かれ、数人だけに読まれたもので本来ならオープンにしてはいけないのだろうが、忘備録的なメモぐらいなら許されるだろう、と勝手に判断して私的な所感の覚え書きをする。
 というのも、「良い作文」として小さなコミュニティのなかで共有できるものだと感じたワタシの思いが、どうやらワタシだけのものだったということが解ったから、そのことも思索するメモ。
 要点を簡略化して書くと、作文主は

・小学校のときにイジメをうけ、「特別支援学級」の係を6年間「やらされて」いた。
・「特別支援学級」の生徒(障害児)を「真っ直ぐで素直で一生懸命」と見ていた。皆に奇異な目でみられている、ことに疑問をもっていた。
・障害者雇用均等法によって一般企業に雇われた「障害者」が、表に出さない、椅子に拘束される、などの差別を受けることに抗議し是正しようとした。

と、こんな感じの短い作文。ニューロティピカルのワタシにはなかったことばかりだな。

 小学生活6年間いじめを受けた。出身地をみると田舎の小さな小学校だろうから、ほぼ逃げ場なしで、6年間いじめられ抜いたわけだ。6年間ということは教師のフォローもなかったのかもしれない。小学生のメンタリティとしてはこれだけでかなりハードだと想像する。孤立し、いじけても仕方ないなぁ、という情況どころか、ことと場合によってはときより新聞で報じられるような自殺の可能性だってないとはいえない。そんなかでおそらくイジメの罰ゲーム(いじめる方の感覚)とばかりは考えずに切り離して真面目に「特別支援学級」の係を務めたんだろうなぁ、と想像する。ただ、今作分にイジメられて6年間、係だったと書いていることから、今となってはそれが罰ゲームだったかもしれない、と認識はあるのだろう。
 そんななか特別支援学級の児童たちが「真っ直ぐで素直で一生懸命」であることを見抜いた。見た目が多数とは違うことで畏怖を感じるうえに言葉は通じず、内面をみることはできない「普通」のなかで、障害児の内面を見ることができるのは才能だと思う。小学生のワタシとてアタマで理解し差別はしないと考えるものの、「真っ直ぐで素直で一生懸命」であることを知ったのは、東田君、イド君らが言葉で伝えてくれたつい最近なのだ。
 それを小学生の彼(女)には感じたのだ。小学生の彼がアタマで判断して、「真っ直ぐで素直で一生懸命」と感じることができるのか?そうじゃないだろう。出力に障害がある児童たちの内面が解るとは、周囲に惑わされることなく自立していたのではないか。
 もしかしたら性同一性障害にそなわった才能なのか?、ワタシには解らないが。

 そんな彼(女)は成長して、職をもとめて街にでたわけだが、就職先でまた「障害者」に出会う。障害者雇用均等法により雇われた人々だった。法律による義務で雇われた障害者。作文によるとかなり酷い虐待をうけていたようだ。
 作文からちょっと脇にそれるが、おそらく、障害者雇用均等法は、「運動によって勝ち取った権利」なのだと思う。誰も何も言わなければ、ニューロティピカルが多数を占める世界で、自然にそのような法律はできないだろう。で、勝ち取って法律ができた。そこから、法律の義務があらたな虐待を呼んでいる。なんか嗤ってしまう。社会の多数の意志で豊かな気持ちのある〈社会〉を目ざし、障害者もともに働こう、、でないなかの、権利による押し付けのしわ寄せが当事者にくる。権利を勝ち取った闘士は、それで終わるのか? 法律の義務により障害者を雇う【社会】に従順な差別者に、人権を叩き込んで正義を教え込むのか?
 これぞ、ザ法律ってやつだな。自殺防止法ってやつも同様の違和感を最近感じたのだが、、、。
 法律にあるからやってはいけない、法律になければやっていい。法律にさえなけれりゃたとえ悪でも悪ではない、がまかり通る。法律があることは心がなくてもやらなければならない。法律の抜け道を探せ、、、ギャグだな。いや【システム】だな。「殺人」についての思索もこのあたりが考える手がかりになりそうだが、脇にそれすぎるのでやめておこう。
 元に戻ると、ワタシが惹かれたのは、彼(女)がそのカンパニーに抗議をした、ということ。
 今のワタシならば徹底的にやっちゃうかもしれないし、おそらく、この作文に感動しない福祉専門家も「抗議」は当たり前だと考えているのかもしれない。
 自ら物言えばいじめられて育った20歳そこそこの彼(女)が、ど田舎から街にでてきて、就職した先で多数にむかって抗議する。なぜこのことに感動を覚えないのだろう。ニューロティピカルの空気の壮絶さの怖さ知らずかよ。絶対多数のニューロティピカルのなかで抗議できる、、、20歳のワタシだったらどうだっただろう、と思い出さずにいられない。・・・あ、あれ? やはり言っちゃったかもしれないなぁ、そういえばワタシも結構、若いときほど後先考えず空気も読まずに言いたいことは言うタイプだった。ちゅうか、ケンカを売るタイプだったわ。思い出した、テヘペロ。
 とはいえね、この齢になるまでいろいろ世間を観てきたなかで、彼(女)みたいに行動できる人と(寄せ場以外では)ほとんど出会わなかったなかで、ほんと久々出会ったのだから嬉しさもこみ上げてくるわけだな、孫崎さんの講演とくらべて格段響くものがあった、と、こんなことをメモをしておこう。^^

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コメント(4件)

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詳細の公開は憚られる作文についての防備録ということなので、立ち入ったところに踏み込むのは控えます。一般的な話ということで...

性同一性障害と、他者の認知機能(社会性)についてのニューロティピカル/エイティピカルの区分は、カテゴリとしてはまったく別のものではないかと考えます。

つまり、性同一性障害を抱えつつ、ニューロティピカルであるということがあり得る。というより、性同一性障害者も、大半はニューロティピカルでは?

エイティピカルの僕の目から見ると、他者の気持ち、たとえば「真っ直ぐで一生懸命」だとかを認知できるという時点でニューロティピカルに見えます。

『COCORA』にもありますが、自閉症の人間は、そもそも他人に自分とは異なる心があるということが理解できない。ニューロティピカルにとって「他人には自分とは異なった心がある」ことが先天的な理解のなのでしょうか、エイティピカルにとっては学習を必要とする後天的なこと。

出力に障害云々も、あまり関係ないかもしれません。母親は赤ん坊の気持ちを察するものらしいですし、ぼくの体験からいっても、ヒトとは異なるプロトコルを持つ動物の気持ちも、もちろん後天的にですが、学習して把握できるようになります。

学習する動機に切実なものがあれば、学習そのものはさほど困難なことではない。学習の速度は才能によるかもしれませんが、着実に積み重なっていくものだと思います。
愚慫
2017/02/11 22:44
おはようございます。

詳細の公開が憚れるとはいえ、作文そのものを載せているわけではないし、公開が禁じられているわけではなく、しかも賞賛の方向でのことなので大丈夫だと思います。これだけでは特定もされないでしょうし・・・。
それに、彼(女)がどうのこうのではなく、ワタシの考えについては多分ご意見を求めて公開しているふしがあります^^;
どうも、ワタシの感動が「普通」をかなり低く見ていて、この程度のことでも「感動」と言ってしまうのではないか?という疑問を持っています。逆に感動してない多数は、「普通」を正当に評価していて「これぐらい当たり前でしょ」と感じているのか、、、まあエイティピカルの愚慫さんに聞くことではないのかもしれませんが、、、笑

>「真っ直ぐで一生懸命」だとかを認知できるという時点でニューロティピカル
なるほどね、そうですね。どうも、ニューロティピカル/エイティピカルを知ってっから、そのことに引っ張られ過ぎているのかもしれません。その線引では語り得ないことのほうが圧倒多数でしょうね。「問題」の多くのニューロティピカルのなかで生じていて、【システム】の犠牲もニューロティピカルにも多数います。(割合が圧倒多数なので当然ですね。)まぁ「出力障害者」も実はニューロティピカルだと感じているぐらいですし。

「真っ直ぐで一生懸命」を感知できる才能はなかなか凄いと「ワタシ」が感じている、、ぐらいの些細なことなのかもしれません。
毒多
2017/02/12 09:34
おや、スミマセン。
ツッコミどころが違ったんですね。

毒多さんに突っ込めと。
ならば、遠慮なく(^o^)/

その作文に心惹かれたわけ。
それは、毒多さんが
「モチベーション・イーター」
だからでは? と思ったんです。

あ、モチベーション・イーターはぼくの造語ですw
動機を喰らう者、ですね。
人間の動機に関心を惹かれる。

ぼくもモチベーション・イーターの気はあるし、あまり他の人の気持ちとかが分からない人間なので気がつかないでいたのですが、大半の人は、他人のモチベーションにほとんど関心を示さないみたいなんですね。

モチベーション、動機付け、ということは盛んに言われるけれど、それはあくまで何かの「役に立つ」から言われるまでであって、純粋に、人間の持つ動機そのものには、驚くほど無関心です。

その意味では、毒多さんは、人間が持つ「純粋な動機」への感受性が高いような気がします。そして、それが「役に立つ」かどうかは、どうでもいい。

『COCORA』も著者の動機が際立つ作品ですし、『絶歌』もそうでしたよね。

逆に『この世界の片隅に』は、際立つ動機がほぼない。いえ、ないというより、すずが「動機」を持ち始めたところで物語は終わるんですよ。

そういう意味で、ぼくは「大人になる」とふうに表現したのですけど。
愚慫
2017/02/12 16:28
>モチベーション・イーター

なるほど。おもしろいこと考えますね。
確かにそういうことかもしません。
いわゆる、流行りの「モチベーション」ではなく、「純粋な」、、というのは、身体的なのかもしれません。「社会的に役立つ」とか「アイデンティティ・自我の確立」というめんでいえば、より「役立つ」から遠いものにこそ、惹かれている気がする。

「ウォッチャー」ではなく「イーター」というのもその通りです。おそらくワタシ自身の「純粋な動機」は欠損しているか育っていないか、麻痺している。だから見るではなく喰いたがっているのかもしれません。
自分の変化を促しているのだろうか?。見えていなかった世界を見るために。

>(すずが)「大人になる」
うーん、なんだろう?いろいろ考えてしまいます。

周囲(環境)の変化と自分の不変化。
周囲(環境)の不変化と自分の変化。

みたいなことを・・・

毒多
2017/02/13 08:41

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