毒多の戯れ言

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zoom RSS 「街場の共同体論」内田樹

<<   作成日時 : 2017/01/14 15:47   >>

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♪表は雪が降ってる、一面の雪化粧・・・♪と、つい雪が降るとさだまさしを口ずさんでしまういつもの癖を無意識に発露しながら眺めていた「光るナス」のエントリー。そこで紹介され、薦められた映画「この世界の片隅に」。この地方の上映スケジュールを確認したら、今日の午後しか時間がとれそうもないので、さっそく行ってきました。受付の前に20人ほどの行列はできていたものの極寒の雪中です。開演30分も前にならべば楽勝でしょ、と高をくくっていたらなんとワタシの前のアベックでソールドアウト!! 思わずマジか!?と声がでてしまい、もし、前のアベックの時点で最後の一席ならアベックは諦めたかな?なんて考えながら、雪がシンシンと降るなかを1時間ほど歩いて帰ってきましたorz 。【システム】嫌いを公言している仕返しをされたようで、人生こんなもんだよな、なんて笑えてきます。
で。時間が空いたので書きかけのエントリーでも書いてしまおうかな。

昨年の内に読み終った「街場の共同体論」(2014)です。相変わらず内田樹してるなぁ、小気味よくて分かりやすいです。
ざっくり言うと、現在進行形で共同体が解体されていて、それでは社会は立ち行かないのではないか、ということです。
資本主義自由経済は、ミクロのほうでは消費を促進させるためてに家族を解体して個人にした。家族で共有する金は自由にならないけど、個人の金なら自由に消費させることができる。で、家を個人に解体させた。解体の共犯者としてフェミニストと左翼の個人人権主義がある。マクロのほうでは、グローバル経済を促進させた。地域や地方ごとの文化や価値観を解体させて同一の価値観にて単一の商品に価値があるように仕向け、単一の商品を効率よく生産でよくなるようにした。国家の垣根を解体させ安価な生産地や安価の労働力の自由な行き来を促した。全体を通して競争をベースにして勝ち負けが当然という意識を育て、個人的に金さえあれば他者に頼らなくてもよいという価値観を育てた。大人の幼児化であり、他者を許容するということもなくなり、共同体が解体された。そうした社会が長続きするはずがない、と、前半部分で書いてあったことのイメージです。これもまた【システム】です。

ワタシ個人的にはかなりズキズキきましたね。
過去にはサヨっちとして個別権利を言い立てましたし、「家」制度の縛りをかなり理不尽だと感じているし、村社会どころか近所付き合いがかなり面倒な感じがしている。他者に極力たよらずにいたいとどこかで考えているところも然り。端的には嫁と財布が別々、爆!! お互いほぼ相談もなしに好きな買い物をしています(アタシのほうは金欠にて映画をみようとするとかww,でなければ本ぐらいしか買ってませんが、笑)。
まあ、勝ち組になりたいと思わなかったし、金さえあれば、、というほど金もないし、少しは損得ではない社会貢献的らしきこともしてきたので、内田樹さんのいうところの、今の生活のままでいいから少しは無償の社会貢献をしましょう、ぐらいはなんとかクリアしてそうなのだけど。
とはいえ、【システム】のなかにあって「ある程度の生活ができている」ことが、すでに【システム】に染まっていて、そこに乗っているからなのかなぁ、とじっと手をみてしまいます。

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コメント(34件)

内 容 ニックネーム/日時
>個人的に金さえあれば他者に頼らなくてもよいという価値観

これ、分かりやすいですね。 (^^)
確かに今の時代はその通りかもしれない。

>【システム】のなかにあって「ある程度の生活ができている」ことが、すでに【システム】に染まっていて、そこに乗っているから

これもそう思います。
自給自足の生活が自分に可能かどうか、現実的に考えてみるとよく分かりますよね。
実際に出来そうなことは、かなり少ないでしょう? (^^;)
僕はハッキリ言ってムリ・・って思っちゃいます。
アキラ
2017/01/16 09:36
「個」でいいと思うんです。
「個」であるということは、主体的であるということだから。

身体は個的です。
個的以外になりようがない。


が。
どれほど「個」になっても、ヒトは共同体を創る。
それがヒトという生き物の宿命です。

【システム】は旧来の共同体を破壊してきた。
そのことは、僕はさして問題ではないと考えます。

【システム】は、新しい共同体を創ることも阻害する。
問題はこちらのほうです。
この【システム】の阻害が「疎外」です。

現代にだって新しい共同体を創ることができる人はいますよ。

「スペックの高いヒト」
「コミュニケーション能力の高いヒト」

旧来の方に囚われない「新しい共同体」をどんどん創っています。

スペックが高くて、【阻害】のハードルを越えられるヒトはすでに創っているんです。

だったら、ハードルを下げようよ、という話です。

究極の目標が、
共同体を創る能力のないヒトをリーダーとして共同体を創ること。
そのようなヒトを包摂する共同体を創ること。

ハードルが下がり、ヒトが持つ共同体創造能力が〈自在〉に発揮できるようになれば、できると僕は思っています。
愚慫
2017/01/16 10:43
追記。

【疎外】が「個」の中に内面化し、共同体創造能力を阻害するように作用するのが「ハラスメント」です。

ハラスメント特性は、社会的には「障害」です。
生来的な一次障害もあれば、
社会的【疎外】から生じる二次的障害もある。

もし、一次的障害がヒトの共同体創造能力を決定的に阻害するのであるなら、そういうヒトは進化的に淘汰されているはずです。

ヒトは社会なくしては生存できない。
そのなかに社会(共同体)存続を疎外する要因がある。

そして現実、ヒトは存続している。
一次障害を発生生み出す遺伝子も存続している。

だとしたら、ここから導き出される答えは、

一次障害の破壊力<ヒトの共同体創造能力

です。 
不等号の向きが逆なら、
ヒトが存続していないか、
一次障害者が淘汰されるかのどちらか。

そして、今、私たちの社会は存続の縁に立っているという感触がある。

だったら、原因は二次にしかありえない。

二次を引き起こすのは【疎外】。

上のコメントの補足でした。

愚慫
2017/01/16 10:53
追記、追記でスミマセン。

>【システム】のなかにあって「ある程度の生活ができている」ことが、すでに【システム】に染まっていて、そこに乗っているから。

そう考えて、主体性を放棄することが【隷属】です。

「私にだって生活があるんだ」と開き直った原発関係者と同じです。

「乗っかっている」ことそのものには善悪はありません。乗っからなければ生きていけないのだから、是非はないんです。

だからといって、「乗っかっている船の針路を考えても仕方がない」にはならないわけだから。論理的に言ってもね。

「この船に乗っかっていると、いずれ沈む」

そのような「個」的認識を持っていて、なおかつその認識に従えないということが主体性の放棄、すなわち【隷属】です。

この船が危ない。
では、どうするか。
考え、行動する。

これが主体的であるということです。
状況が困難だというのは、言い訳にはなっても理由にはなりません。

愚慫
2017/01/16 11:03
アキラさん
「光るナス」のコメのほうで、「染まっている」ではなく「そのもの」と言われて、ワタシはそこはかとなく悲しく感じました。アキラさんにとっては達観かもしれませんが、「染まっている」と思い込みたいワタシにとっては「絶望」と感じたからかもしれません。
それでもかなり本気でヒトの本質は「そのもの」じゃないと「盲信」しています、笑。
アキラさんにしても、「そうじゃないと言いたい」部分もあるから「この世界の片隅…」を薦められた気もしています。違いますか?(悲しいかな、この映画は観られなかったので内容はわかりませんが、、、ORZ)

>ハッキリ言ってムリ
多分ワタシもそう思っています。でも、なんの根拠がなくてもそれを認めることがスタートで違う世界を夢見ているのかもしれません。

別件ですが、この本の後半では内田樹さんの「師弟論」がでてきます。
師と出会った人ということで、、アキラさんが浮かびました。内田さんの説とあいまって、師のいないワタシには師がいるアキラさんをかなり羨ましく感じましたよ、^^


愚慫さん

逝きし人々もピダハンも「共同体」はありましたね。
かなりヒトの本質に近い共同体と感じていて、両者はとても似通っていると思いますが、この件はピダハン読後に別エントリーにしますが、共にローカルな多重構造のなかの共同体。
逝きし人々にとっては武士、商人ではない庶民の共同体。ピダハンはブラジルや周辺先住民でない共同体。
愚慫さんのこのコメ欄で言われている共同体とは、具体的に日本の中にあり日本という括りとは違う共同体のことですか?
「染まりビト」や「そのものビト」には、「具体的な」イメージを浮かべることもできません。
毒多
2017/01/16 11:22
愚慫さん、、11:22毒多記は
愚慫さんの追記以前の投稿です。追記以降はこれから読みます。
毒多
2017/01/16 11:26
読みました。
ワタシに関しては【システム】にさえ疎外されていて喜んでいるわけですが、笑、、、それでもなお、、ということですが、まあいいや。
で、愚慫さんは「具体的」にどう「行動」してますか?
とはいえ別にここのコメ欄で答えなくてもいいんだけどさ。
毒多
2017/01/16 13:51
働いています。
上機嫌で。

上機嫌であること
上機嫌であろうとすること

が「具体的な行動」です――
という答えは、一般的には抽象的でしょうけど、スミマセン。


といって、いつも100パーセント上機嫌でいられるわけではありません。【社会】は、不機嫌に満ちていますから。特に今は、「不機嫌の溜まり場」みたいなところにいますし。

なんていうのかな。
「主体」であることを抑圧されているヒトが、
辛うじて「主体」であることを社会的に許される場所?

抽象的だな、笑。

そういう場所で「主体」を保ちつつ、上機嫌でいること。

これ、実はテクニカルな課題だったりするんですが、
そのあたりは、また追々ということで。
愚慫
2017/01/16 16:01
毒多さん

僕はヒトに ある意味 絶望してます。 (^^)
その上で、今を人間として生きている自分が愉しく灯り続けられる範囲で、やるべきことを淡々とやりながら 生きていようと思ってるんですよ。
アキラ
2017/01/16 16:21
愚慫さん、おはようございます。

>すなわち【隷属】です
客観的に診てそういう面もあります。まぁ、それが全てでないとは思っていますが。誰もが「一単語」でラベリングされるほど単純じゃありませんよ。

>働いています。上機嫌で。
いいですねぇ。ワタシにはそうしたことも「たんたん」なんですが、、、笑
毒多
2017/01/17 08:37
アキラさん、コメありがとう。

絶望してます、という言葉を書くアキラさんと、お会いした時とかFB(1年以上前ですがW)の明るいイメージとギャップがあるので、不思議な気持ちです。ギャップありすぎだろ、笑。ワタシがもつ勝手なギャップが「ある意味」なのかもしれませんね。
「絶望してます」というアキラさんがアキラさんの本質だ思っていますが、、、笑

>愉しく灯りを続けられる範囲で、、、たんたん

ワタシもリアル生活もそんな感じですよ。
このワンセンテンスだけなら多くの人々もそうでしょう。【システム】なんて思いもせずに意識もなく当然のように乗っている大多数が。ふいに「絶望」なんて言ってみると、キョトンとしてる人々もやはり、出来る範囲で愉しく生活していると思います。

なので、ワンセンテンスだけをみてもそれぞれが違うと考えています。

ワタシもたんたんですが、「絶望」に疑問を感じてしまう。どこかでヒトの本質は違うんだ、と思い込みたくて絶望したくない自分がいます。ということをアキラさんの言葉で確認している自分がいることに気づきました。
毒多
2017/01/17 08:44
微力な「個」が具体的にできることって、それくらいしかないんです。

ただ、僕は欲張りなので、、、

いや、そうじゃないな、バランスが悪いんだな(苦笑)、ただ生きているだけではいられない。

だから、思索する。

いったい何が、バランスを崩すのか?
身体か?
社会か?

バランスの良い人からすれば過剰に映るのかもしれないけど、どうしてもそれが必要な者にとっては、過剰もまた、「たんたん」です。

愚慫
2017/01/17 11:52
バランスが良い、、、のかなぁ??
大多数のヒトは「バランス」という発想がないのでは?それとも「解ってて」バランスがいいのだろうか?そんなヒトいなさそうな気がします。
バランスの悪さを感じられるヒトは、思索に走る?か、「ある意味」絶望する?か、それとも、、、笑。
思索にしても、たんたんと思索するしかないんじゃないですか。
思索に同意するか反発するかは他者自身の意志。
(ワタシは愚慫さんの思索(エントリー)は読んでいますよ、結構同意もするし教えられるのですが、既読主義のワタシは正直おいつけていませんorz)
対話になり思索が深まればいいのですが、「バランス」の感じ方もそれぞれ違い、そんなこんなで不毛になることも散々ありましたからねぇ、^^
(なんとなく最近挑発じみたコメが多いように感じますよ。別にワタシが言うことでもないうえに、好きにすればいいんですが・・・)

ワタシ自身の問題として、思索と現実の乖離をやはり考えてしまいます。
毒多
2017/01/17 14:09
バランスというのは、あまり上等な言い当て方ではなかったようですね。

つい最近も引用した気がするんですが、ウィトゲンシュタインが、「哲学とは、水に浮かない者が溺れまいともがくようなもの」と言った、そういう意味です。

身体構造的に浮かない人間はいないはずなんですが、身体がアンバランスだと力が抜けなくて、自然に浮けない。浮くには、アンバランスを意識してキャンセルしようとしなきゃならん、みたいなことがあるんですよ...

>思索と現実の乖離

それはふつうはというか、大多数はそうなんだと思います。ニューロティピカルです、おそらく。

僕はそれがないわけではないけど、たぶん、ずっと標準より小さいようなんです。

例の「しょうぶ学園」のバンド。あそこで一心不乱に演奏している人たち。「小さい」という意味では、ああいう人たちに近いような気がしています。

これはたぶん、僕の抱える「一次障害」。
だけど、僕の立場からすると、思索と現実が分離してしまうのは、障害になる。
単に相対的、というわけです。

そういう理解にたつと、アキラさんの絶望もわからなくはないんです。

思索にせよ、現実にせよ、「虚構」が作用しますよね。それが「人間」という生き物です。「ヒト」が成長した「人間」。ニューロティピカルという障害者。

それなのにアキラさんなんて、虚構を排除して、いうならば「ヒトとしての身体」を体現しようとしておられるわけで。

僕のような人種は、もともとあまり「虚構」が作用しない特性なのでさほど問題にならないんだけど、ニューロティピカルだと、健全に「虚構」が作用してしまうので、難しいとだろうなぁ、と思わなくはない。

あ、これも挑発的なコメントかなぁ(^_^;)
愚慫
2017/01/17 15:56
余談ですが。

若かりし頃、冬山登山によく出かけていたころの話なんですが。

あるとき、仲間と議論(?)したことがあったんです。

低地でも、雪が降った後を車が通ったりすると、タイヤの下になった雪が固められてツルツルに凍ったりするでしょう。ああいうことが、雪山では、風に叩かれ起こる。もちろん、斜面でです。

そういうヤバイところはなるべく通過しないようにするんですが、どうしても通らないといけないときがある。そして、そういう場所は得てして、見通しがよい。谷底まで、ずっと見通せる。

つまり、ちょっとでも足を滑らしたら、谷底まで一直線(笑)

そんなヤバイ場所は、どんな覚悟で挑むか? そういう話をしたんです。

仲間は、「オレは絶対大丈夫・・・」と、自分に言い聞かせながら、挑むと言った。

僕は、「落ちてもいいや」と思いながら、臨む。

ふたりでどうあるべきか議論したけど、当然、結論なんか出ません。

「落ちる」というのは、「虚構」です。
そうなるかもしれないけど、まだ可能性でしかないわけだから。
自身に背反する「虚構(想像)」ですよね。

僕は、背反しようがそうでなかろうが、「虚構(想像)」を受け容れるのにあまり抵抗がない。「虚構(想像)」と「可能性」を分離するのが、生来的なんでしょう、あまり難しくない。

そういう特性が、思索と現実の乖離を小さくしていると思うんです。

ニューロティピカルだと、この乖離を超えるのはなかなか大変みたいなんですよね。

けど、大変であろうが、可能性は可能性ですから。想像は想像ですから。
愚慫
2017/01/17 16:12
愚慫さん、おはようございます。

なんとなく解ってきました。
ニューロティピカルと一次障害者とでは「見えてる世界」が違う。というとですね。
ピダハンに見える精霊がニューロティピカルには見えない、というのも同じでしょう。
「現実に見えている世界、風景が違う」
幾度となく本から学び、何度となく思索したことがアタマのなかだけだったことが分かり、今、現実とくっついた気がします。
うん、ということは、ニューロティピカルのワタシが感じた「挑発的」も一方的な世界感です。失礼しました。

ニューロティピカルにもグラデーションはあります。
他所のお庭での愚慫さんのコメ「実際に殺生して喰らう」も実は、ニューロティピカル的には挑発的だと感じましたが、ワタシ自身はかなり愚慫さんの感覚に近いものがあります(そのコメに全く違和感は感じませんでした)。
アキラさんがニューロティピカルかどうか判断しませんが、絶望のちヒト(の身体)への回帰、が本当ならかなりニューロティピカルから離れている気もします。
そも大多数はニューロティピカルであることさえも自覚しようとしないわけで、ワタシやアキラさんなんか相当変人でしょ。愚慫さんと対話をしようなんてピュアニューロティピカルじゃ考えませんよ、爆!!。
毒多
2017/01/18 08:39
>「虚構」
まったく振り回されます。現実的にはとりあえず、「老後」ね。(嫁の口癖、笑)
明日死ぬかもしれない、とアタマでは思いながら、【システム】の営業トークについ乗せられそうになります。
ピダハンは考えない。一次障害者もこうした虚構に振り回されない。ということですね。
ニューロティピカルがこうした乖離を超えるのが困難なのは、後天的に身にしみたものなのか? そもヒトではなく人間になるということはそういうことなのか?
一旦ニューロティピカルになってしまうと、なかなかの試練がまっています。
毒多
2017/01/18 08:39
老後ww

いや、失礼。
切実ですよね、わかりますww

けどね、僕の感覚だと、笑い事の類いになるんですよ。

「杞憂」という言葉がありますよね。
空が落ちるのではないかと心配して、鬱になったという男の話。バカだよね〜、というと挑発的になりますが。

空が落ちるという可能性は考えることができる。
虚構です。だが、実現の可能性はない。
もし実現するとしたら、考えても仕方がない。
世界に仕組みそのものが変わるのですから、思考です。

老後は虚構です。虚構ですが、いずれ実現する。
だけど、老後という現象が、それだけ単独で起こるわけではない。社会との関連で起きる。

杞憂と逆なんです。
社会は崩壊しないと無意識のうちに考えています。
だから、老後を心配「できる」。

構造的に考えて、社会が崩壊したら、その社会に上に乗っかって成立する「老後」なんて何の意味もないじゃないですか。

けど、ニューロティピカルは、この意味のないことをやるんです。

社会崩壊の可能性は感じている。
だから心配をしていなくはないはずなんです。
なのに、思考からの除外が可能です。
思考しても無意味になる可能性は除外できてしまう。

「できてしまう」は、無意味になると考えることが「できない」でしょ? だったら、障害ですよね。

同じ構造なんです。
原発がぶっ飛んだら、原発を開発してきたことが全部、ぶっ飛びます。その可能性は把握しているのに、思考から除外できる。

「生活があるんだ!」
「老後があるんだ!」

同じでしょ?


「老後がある」が切実だから
「生活がある」と言われると、立ち止まってしまう。
それで絶望する。

僕は絶望しません。
老後なんて考えてないからww

挑発的でスミマセンww
愚慫
2017/01/18 10:16
調子に乗らしてもらって、挑発コメを続行、ゴメンナサイ。

>実際に殺生して喰らう

ここ。
とても大切なことです。

直接間接は別にして、現実に食らっているんです。私たちは。

だったらどうするか。

選択は2つります。

現実と向き合うか。向き合わないか。

挑発というのは、向き合わないと決めている人間の、事実を突きつけられたときの拒絶反応です。

そういう事実を認識するレセプターがない者は、そもそも意味がわからないから挑発すら感じない。

向き合わないものは、挑発という言葉や態度を用いて抵抗します。その時、無意気にのうちに使うのが、「多数」という拠り所。ニューロティピカルは多数ですからね。

では、向き合うとすれば。

直接体験するか。
体験できない自分に向き合うか。

いずれにせよ、主体はオノレです。

対して向き合わないときは、すでに主体を譲り渡しているんですね。「多数」というものに。「社会」というものに。なのに、その認識が見事にない。

だから、他人の心配をしているつもりで、規則を押しつける。規則に従わなければ幸せになれないよと、本気で心配してくれる。

だけど、それでは、そもそも規則に従う能力を持っていない人間は幸せになれませんよね。
元少年Aとか。

けど、実は心配する人は、もとよりAのことなんてどうでも良いんです。心配なのは規則なんです。無意識のうちにオノレを譲り渡したその先のほうが、ずっと心配。

障害者だな、と僕は思います。
愚慫
2017/01/18 10:33
では、その「無意識」はどこから来たか。
「障害」であるとして、それは一次か。二次か。

二次だと僕は思う。
「逝きし世」に接してから、そうだろうと感じていましたけど、ピダハンの存在を知って、ほぼ確信しました。

二次なら「治療」可能です。
愚慫
2017/01/18 10:36
いやいやいや、今回はまるで挑発的とは「感じません」でしたよ。
なぜなら、、解ったからです。・・・思索と現実が一部繋がった感じ。
とても爽快な朝です。

>「老後」
かなり、いい虚構の「例え」でしょ。笑
乗せられかかっている滑稽な自分のニューロティピカル部分が見えて嘲笑っています。というわけで絶望などしませんよ。
まあ、正直なんの【システム】が宣伝するような用意もできてませんし、仮に【システム】が継続していて、ワタシが【システム】に乗れなくなれば、放浪もよし、、、むしろ、そっちのほうがいいかな、とも感じています。

ニューロティピカルな自分から少しずつ解放されていく感じはとても素敵な気分です。
毒多
2017/01/18 10:39
他所さんの庭を、自分の覚え書きみたいに使って、ゴメンナサイ。

では、「治療」の方法です。
が、これは一筋縄ではいかない。

そもそも「障害」という概念が、「多数」に即することができないという意味でしょう。多数が多数に従うのは障害ではないし、だったら治療も発生しない。

言語理論的なそうなりますね。

けど、現象をよくよく観察すると、障害としか言いようがない。自己免疫疾患のごとき症状を呈しています。

このように根本が矛盾するときは、根本を疑う。

治療という概念は、まず、正常という発想があって、正常に合わせて訂正する、ということです。

では、何が正常なのか。

今、僕が異常と見なしたのは、「オノレを譲る」という行為です。この行為はニューロティピカルが多数を占める人間社会においては正常だと見なされていますが、ヒトとしては異常。

 ヒト−正常/人間−異常

は逆接ですね。根本的な。

だけど、「オノレを譲る」を正常だと考えてみる。もちろん考えてみても、異常という事実は変わらない。そうすると

 正常にするにはどうしたらいいのか?
 
という問いが生まれてきます。

「オノレを譲る」が正常であって、それがヒトと齟齬をきたすなら、

「オノレを取り戻す」あるいは
「オノレを返してくれる」

ことを正常行為にすればいいということになる。

仏教的な言葉になりますが、

「オノレを取り戻す」は自力です。
「オノレを返してくれる」は他力です。

どちらのするべきか。
ここは「べき」で考えます。

「オノレを取り戻す」は、奪う【システム】を無意識のうちに認めていることになるんです。
愚慫
2017/01/18 11:02
内田さんの共同体論で指摘されているように、そしてこれは内田さんだけの指摘ではないのですが、【システム】は、システマチックに「奪う」。
システマチックに「奪う」ものから「取り返す」は、奪うことは認めているということになるし、そうなると、取り返す能力のあるなしが無意識の焦点になる。

それをさらけ出したのが、例の「言ってはいけない」ですね。


システムだということは、設計変更が可能だということです。「オノレを返してくれる」ような〈システム〉は、けっして不可能ではない。

そういうことができれば、「オノレを譲る」というニューロティピカルの障害は、障害ではなくなってしまいます。

ニューロティピカルの一番の性質は「システムに従順」です。身体がシステムに反発していることを識りながらも、それに従わざるをえないのがニューロティピカルです。「オノレを譲る」性質ゆえに。

話は飛びますが、たとえば愛国心です。
「オノレを譲れ!」と強要してきます。
バカな話ですが、バカな話とわかっているんだけど、いつまで経っても治らない。そういう性質だから。

けど、同時にニューロティピカルは「オノレを譲る」ことの快感をよく識っています。だから「譲る」「譲りかえされる」ということを大切にしようとする。

大切にするからこそ、返ってこないことが薄々わかっていても、譲ろうとするし、譲ることの美徳を言い立てるし、だから愛国心の跋扈が治まらない。

その点、僕のような障害者にはそこいらがよくわからない、あるいはわかりにくいところなんです。


愚慫
2017/01/18 11:14
追加コメもありがと。おっと、さらに追加コメだ、、、とりあえず、10:33愚慫コメまでのレスね、笑

「殺生して喰らう」はワタシのなかではかなり大きなテーマで、かなり以前からあるのはご存知だと思います。
以前のやぎは飼い主が延期のち計画が消滅してしまいましたが、その頃はかなりワタシ自身もかなり葛藤がありました。
今、街なかでは機会はありませんがそのうちお声もかかるでしょう。いまは葛藤はありません。

>挑発コメ
いずれにしろ、気づくのは自らしかありません。「自発的」ですね。他者から言われるのはキッカケです。キッカケを思索のもとにするのも「自発」です。というわけで、
何度も同じことを繰り返すのはやめなはれ、クドいし、他所のお庭だし、無限ループだし、、とニューロティピカルのワタシは思いましたよ。
挑発したければ、ワタシにどうぞ。
いまは、ワクワクします、笑


ワタシは、ニューロティピカルになったのるのは後天的だと考えています。その因子というかDNA(ex限りない欲望)さえないと考えたいと思います。やはり理由は、「逝きし…」と「ピダハン」かな。
二次ですね。
【システム】で生きていられなくなって息苦しくなり、揺り戻そうとしている状態が三次。三次で自殺に走る人は多いと考えます。
自らニューロティピカルの状態は違うと感じられる人。自ら治療しようとする人、治療される可能性のある人。
だから自殺しなければいいのに、と感じてしまいます。

あとは、後ほど・・・
毒多
2017/01/18 11:23
「譲る」「譲り返す」は、交換です。
経済です。

私たちは、交換をするときに、少なからず「オノレ」も交換しているんです。

そのことを昔の人間は良くわかっていました。近代経済学の祖といわれるアダム・スミスの主著は『感情道徳論』です。『国富論』ではないんですよ。

それがいつの間にか唯物論になった。交換はモノだけだと見なされるようになった。マルクスはまだ「疎外」という概念を用いてモノだけの交換の危うさをしてきしましたけど――このあたりは、もしかしたら内田さんの『マルクスの心』に書かれているかも、と期待しますが(僕は買ってはあるんですが未読ですw)――、現代は、そういう危うさすらも切り捨ててしまっています。それがデフォルトの【システム】になっている。

しかし、この【システム】は、人類の生来的なものではない。【進化】してきたものです。

ということは「二次」です。
社会の【進化】によって障害が起こっているのなら、二次障害と考えるのが合理的であり、ということは、治療可能なんです。
愚慫
2017/01/18 11:23
おっと、途中でコメが入ってますね。

以上で挑発コメは一応、終了。


>何度も同じことを繰り返すのはやめなはれ、クドいし、他所のお庭だし、無限ループだし、

いや〜、ご指摘はごもっともだと思うんですけど(^_^;)

申し訳ないんですが、言葉というやつは、そうそう都合良く行かないんですよ。

同じことを繰り返す、といっても、まったく同じなわけではない。繰り返しているうちに、新たな言葉の発見がある。これが快感でやめられない(^_^;)

迷惑してるだろうなぁ〜と思いつつも、快感に負けるんです。障害者ですねぇ...

開き直ってしまってますが、これはもう、障害者とはつきあえないと拒否される覚悟と裏腹です。もっとも、迷惑をまったく顧みないつもりなわけではないですけど、迷惑のほうを優先すると、オノレではなくなる。障害者だという自己認定は、それこそ二次障害になりますからね。

もっとも、挑発といっても、やりようはあるわけです。自覚しているんですが、どうしても挑発に【怨】が混じるんです。だから、「挑発」という技法が純粋になものにならない。

挑発をテクニカルなものと捉えたときの、構造上の問題ですね。今、その構造改革に取り組んでいるつもりですが、果たしてうまく行くかどうか。
愚慫
2017/01/18 11:36
コメントの内容はなんとなくは解りますが、だんだん難解になっていきますね。いつも言いますがワタシは「基礎学力」が貧相なので、アタマの悪そうな当て外れのことしか書けませんが、笑
>他所の庭に「覚え書き」とのことですので、、、感想程度に、笑

>治療、、、ですね。

そもそもなんですが、ヒトとして健常な(人間としては一次障害の)愚慫さんは「治療」の必要が(少)ないですよね。にもかかわらず「治療」に関して熱心に公表する、その心は??

1.ニューロティピカルが多数では生きにくいから、ニューロティピカルに自己治療するように提示。
2.沈みゆく舟を黙ってみてられずに警告。
3.刺激的な思索が止まらない。
4.その他

ちなみに、ワタシがエントリーしたりリアルでいろいろしているのは、1-3の理由と4.その他として自己治癒です。
毒多
2017/01/18 14:14
>オノレを譲る

経済のなかでのこれは、「逝きし世の職人」を思い出しました。いやいやでなくて、損得でなくて、交換でもなくて、自己主張でもなくて、、、細部にわたるまで細やかで華やかでしかも実用的な職人をワザを銭金でなくて費やす、という記述がありましたよね。唯物論でなく魂が篭もるみたいなイメージ。あれは〈システム〉が働いている感じがしますね。
現実の【システム】のなかでピタリとくる例が、仕事のために、やりたくもないグループに属する。多くはグループに入るように強要されてきました。やりたくもないものは断り続けた結果、仕事が激減しました、爆!!
またまた、noteに「自分のほうが障害者かもしれないよ」ってなことを書いたら、総スカン食らったので早速消去しました。オノレを譲ってますねぇ。orz

>快感でやめられない

ふりかえってみると、「やめなはれ」というワタシの台詞は、非常にニューロティピカルっぽいですねぇ、爆!! まあ、それにしても、やるならもう少し上手くやれるほうが、快感のリターンが多いかもしれませんよ。構造改革、うまくいくといいでんなぁ、笑
毒多
2017/01/18 14:14
追記:要治療の自覚からしか治療は始まらないので、障害という自覚のないニューロティピカルが自ら治療を始めることはないですね。
毒多
2017/01/18 14:19
その心は、自分でもよくわからないんです。

1.2.3.の提示は、全部その通りではだと思います。思いますが、部分的で、どれも100パーセントではない。
まあ、「やりたいこと」というのは、そういうことなんだろうと思うんですけどね。

そうそう、4.には、自己主張があります。思い返せば、最初は4.の動機が大きかったかも。今は思い返せばという程度になっていますが、これが果たしてどういう状態かは、自分ではわかりません。動機として希薄になっているのか、隠蔽しているのか。

隠蔽すると、無意識のうちに振る舞いとして出るんだと思います。人間はそういう無意識の振る舞いに、無意識のうちに敏感だと思うんです。だから、希薄になっているか隠蔽かは、他人が教えてくれると思います。
愚慫
2017/01/18 18:19
>それにしても、やるならもう少し上手くやれるほうが、

努力してみます。(^_^;)
愚慫
2017/01/18 18:21
>唯物論でなく魂が篭もるみたいなイメージ。

おお、そこを感得したんですね。嬉しいなぁ(^o^)

まずそもそも人間は、そういうことをイメージできるんです。そうしたイメージは架空の物語の中には、しばしば登場してきますよね。

ところが「逝きし世」は、架空の物語ではない。現代の私たちにはユートピア的に感じられることが、時間的にも空間的にも限定的とはいえ、実現していた。

いえ、現代でもユートピア的なことは現実にある。うまく治まっている家族だとかね。そういうのも、昭和の時代には、平成の現代より数多く見られたと思うんです。

つまり、時代を追うごとに、そうしたユートピアが出現する条件が狭まっているということ。現実的思考をすれば。

では、その条件とは何か。経済的なことであるのは直観できると思うんですけどね?
愚慫
2017/01/18 18:46
僕が最も大切だと思うのは「イメージできる」という事実です。イメージできないことは実現できません。というより、しません。誰もしようとしないから。

イメージできても実現できないのは技術的な問題か、あるいは「立場」の問題です。

「立場」の問題で例を挙げると、ホットなところで従軍慰安婦問題とか。日本国内の政治的な問題でいうなら、歳入庁の設立問題とか。ゲイノーの話題でいうなら、SMAPの解散問題とかw 個人のことで言うなら、老後の問題とかww

生産者としての立場はいずれ守れなくなる。だけど、消費者としての「立場」を守って老後を過ごしたいわけでしょ?

誰だって居場所は必要です。だから、「立場」を守ることが悪いとはいえない。だけど、問題は、それが虚構に支えられたものに過ぎないということです。その虚構にすがりつく心が、次の可能性の実現を阻んでいる。

僕が気に入らないのは、ここのところです。
既存の虚構が成長を阻害する。

それの一番の被害者が子どもです。
社会的な疎外が社会人たる大人を抑圧する。
大人はそのはけ口を子どもに向ける。
子どもはより弱い子どもに向ける。

社会全体の生命力が衰えるのは、至極当然です。
愚慫
2017/01/18 18:47
ワタシがイメージしたのは「逝きし世の・・」という本から受けたもので、それで「感得」と言えるのかどうか、わかりません。
ワタシはどちらかといえば、イメージが湧かないほうで、子どもの頃から形にするべきなにか、とか、将来の夢とかもなく、その日暮らしでした。人生上の分かれ道が現れるとそれから考えるタイプですので、リアル自分の(特に未来の)イメージはできないタイプだと思います。ということもあり、「たんたん」とその日暮らし、ということを書きました。
そのときしたいことや思い立ったことを「たんたん」とです。
これが、「立場」故イメージが抑え込まれているかどうか? さほど「立場」のない子どものころからなので、性癖なのかもしれません。
そうそう思い返してみれば、サヨっち時代は、こういう世の中にしたい、などとイメージなど浮かばないままに「否定ばかり」してましたなぁ、(遠い目)。もちろん今も老後のイメージなど浮かびません、笑
毒多
2017/01/19 14:37

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「街場の共同体論」内田樹 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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