毒多の戯れ言

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zoom RSS 一度自分のほうが障害者だと考えたほうがいい(かも)?

<<   作成日時 : 2017/01/07 17:17   >>

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今日もまた街なかをぶらつき写真を撮っていた。
帰ってきて数枚チョイスしてsnsにupするのだが、そのとき歌みたいなキャプションをつける。
写真と歌もどきを眺めていると、確かに「疎外」を感じているのかもしれないと思った。
誰も気にしない疎外されたものが気になり、誰も立ち止まらない疎外をうけたものに立ち止まる。
野良猫ならまだいいのだがドバトや烏、綺麗でもない雑草や落ち葉、だれも愛でない花、なんでもない階段やはては錆びて朽ちた鎖、笑。
気になってじっと見つめてしまう。おそらくワタシの性癖なんだろう。
普通の社会の普通の社会人の普通のあたりまえがつまらなく感じ、そこに溶け込みその一人であることに自己嫌悪を感じる。どこかでこんな社会から疎外されたがっている自分がいるのかもしれない。


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階段を降りる者にさえ気づかれることもなし 花ただ咲き誇る


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用水にハト 光と水と陽気とにただ戯れん飛び立つこともなし

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枯れ枝の桜の下の自転車は寒さを感じることもなくじっと主をまつ忠犬ではなく

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何に役立ちいつ朽ちたのか知りたがる者もなし 沈黙の錆だけの記憶


だから、愚慫空論で教えていただいた・・・

『自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」

こんな対話に感銘を受ける。そこはかとなくいいなと思う。
オノレら多数が障害者とちがいますか? なんて言われると嬉しくて首肯したくなる。そうです、ワタシが障害者です。と。
おそらく無責任なんだろう。自分のex「子ども」が、障害者じゃないからお気楽に無責任なことを言っていると思われるかもしれない。
やはり96%が障害者の世界では、4%の正常者が異端なのだ。生活もままならなくなる。96%側の人間が障害者だと自覚して喜んでいる場合ではないのだ。ふう、確かにそれが現実だろう。
でも、96%側の障害者が4%に対し教育や支援という語を使って福祉は介入して、彼らの世界を変えなければならないのだし、他者の賛同を求めるためにブレまくっている 96%の障害者が、ブレず態度を変えない4%の自立している正常者の「自立支援」をするとはどういうことだ!?
いくら無責任と言われようと、そういわれればそうだよな、と感じるワタシがいる。

と、これまでのブログはここで終っていたのだが、大きな声では言えないが実は「障害者グループホームのメンバー選定委員」を第三者という立場で頼まれている。性格がいい加減なのですぐ安請け合いしてしまうのだが、リアル責任があることだとは考えている。
現実には5名の定員に対して数十倍の応募があるとのこと。
障害者と仕事レベルで付き合ったこともなく、身内に障害者もいない。グループホームがどういうものかも知らなければ、そこでの課題や問題点も知らない。現時点では何も解らず、おそらく、それぞれの家庭の現状を精査や、メンバー本人のグループホームとしての生活が成り立つかどうかなどで、苦悩の選択として定員にあったメンバーをきめることになるのだろうと想像している。
選定委員に第三者を入れなければならないのは、法律によって決まっているのだろうか?
ワタシの意見で選定されることもないだろう。ベテランの職員が何人もいるのだから。
だけど、ここで愚慫さんに教えてもらった対話を読んでしまった。
「4%の本人の希望はどうなんでしょう?」とは、言ってしまいそうだな。

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