毒多の戯れ言

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zoom RSS 「北の国から」24話まで

<<   作成日時 : 2016/09/21 15:11   >>

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世間的には、なにを今さら「北の国から」なのだろうとなるに違いない。
巡回先のブログのひとつでは定期的にとりあげられ、別のブログではとあるエピソードを深い思索とともに取り上げられた。もともとそのエピソードについて何か残すつもりで、でも、そのパートだけ観て何か書く自信もなく、勢いにまかせて本編すべてを観ていたら、既にそのエントリーでは周回遅れとなったわけで、、、
なるほど物語のエピソードを切り取って短く深く思索するころができそうなパートは満載だ。
たしかに全体について何か書くには壮大すぎて、それに古くに放映された物語であり、人気もあったと聞くわけで。だから、すでに評論や分析はされ倒されていて、今さら特に気の利いたことも書けそうもない。それでも何かを感じさせる物語でやはり何かを書きたいと思った。

とりあえずは視聴直後の、全体的な印象を記録しておこう。

これは両極を切り取り際立たせた物語である。
片方が東京のど真ん中で文明文化の最先端であり、片や北海道のど田舎自然のど真ん中である。
片方は誰もが憧れる時代が進行中の最先端であり、片や時代遅れどころか誰もが逃げ出す時間の止まった森林である。
片方は苦しみを乗り越えた街であり、片や苦しみが続く村である。
片方は別の苦しみが生み出され、片や過去の苦しみが脈々と続いている。
片方は次から生まれる新たな快楽が消費され、片やじわじわゆっくりと楽しみが創られていく。
片方は【社会】に悩まされ(呪われ)、片や〈自然〉に悩まされる。
片方は【システム】に呪われ、片や・・・・・

そんななかに、純がいて蛍がいる。五郎がいて、玲子がいて、雪子がいて、草太がいて、涼子先生がいて、笠松の爺さんがいて、、、

五郎は【社会】に抗い、〈自然〉に戻ろうとした。〈自然〉に戻ることよりも、【社会】に抗うことがモチベーションのようにも見える。
玲子は玲子にとっての「社会」以外考えることはできず、【社会】であっても目を瞑った。
純は「社会」に呪われ始めつつ、〈自然〉に連れてこられ、「社会」と「自然」の葛藤しながらも〈自然〉に喜びを見出しつつ育つか否か。
蛍は「社会」に呪われるまえに(若干呪われてはいたが)、〈自然〉に連れてこられ、〈自然〉のなかの葛藤のなかで育つ。
雪子は【社会】から逃避し、涼子先生は【社会】から追放され、
笠松の爺さんは〈自然〉に抗う呪いに縛られ、草太は、、、

もちろん全ての人々にワンセンテンス表現できるほど単純ではなく、
それぞれに、それぞれの物語があるわけで、、
でも誰もが両極の岸の間で揺れていて・・・。

これは「私」の両極から双方をみつめた物語でもある。
登場人物全てに「私」を感じる。

片方は「ワタシ(意識)」が肥大し、片や「ヤツ(裡なるもの)」が生きるを感じ。
あるものは「ワタシ」(外部とやりとりし考える私)であり、あるものは「ヤツ」(裡なる要求であるとこの私)である。
あるものは「ワタシ」と「ヤツ」が混ざり合おうとし、あるものは「ワタシ」と「ヤツ」を切り分けようとする。「私」は一つであるのにもかかわらず葛藤し、合体し、分離し、「私」は「ワタシ」と「ヤツ」の間で揺れいている。
だから、全ての登場人物に感情移入できる。
すべてのエピソードに「私」を感じる。
全部「私」の物語である。

拝啓 けいこちゃん
とりあえずこんなところで、
人間とはつまるところ、こんな風に狭間で揺れる存在であり、
狭間で阻害されたり、超克したりしてをり
それがつまり原動力でもと考えられるわけで、
〈自然〉を忘れることで〈社会〉が【社会】となり、
それでも、実のところ【社会】に触れることで〈自然〉に戻れるのも必然かもしれず、
つまりそれが「生きること」だと思うわけで、、、。

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コメント(23件)

内 容 ニックネーム/日時
「拝啓 けいこちゃん」は、毒多さんの創作だったんですね。

あれ、そんなのあったっけ? と本気で思ってしまいました(^o^)

愚慫
2016/09/23 08:49
ははは、純が〈社会〉とか、【社会】とか、いわないでしょう、笑

87年初恋まで観終わりました。
五郎を観ていると自分を観ているようで〈嫌〉になります。あ、これワタシだ、みたいな。ほんま情けないやっちゃなぁ、、、^^
毒多
2016/09/23 09:48
エントリ記事から話題が離れますけれども、noteのphoto、拝見しました。

小型の昆虫にとって、表面張力は「死の呪縛」です。
滴の中に取り込まれたら、そこから逃れるのは難しい。
脱出が叶わねば、水の檻で溺死です。

仏の昆虫ドキュメンタリー映画『ミクロコスモス』に、球形の滴の中から必死で逃れようとする虫の姿が捉えられています。
calibre 111
2016/09/25 14:03
追記です。
こちらにnoteの記事について書くのは脱線なんで控えていたものの、ついでなので。

昆虫の美しさを撮ることの出来る人というのは、私にとって尊敬の対象です。
特にハムシ類やオトシブミのphotoは素晴らしいと思います。彼らの身体の美を的確に捉えていると感じます。クワガタのカラカラに乾いた死骸も美しかった。

全体に、静物画のようなphotoが多い印象です。静謐です。
別におだてているのではなく、率直な感想。
calibre 111
2016/09/26 07:12
calibre111さん、おはようございます。
昨日も一日森に紛れていました。雨の後のせいかキノコ類が一斉に時を得たとばかりで、色とりどりでした。
noteの話題がこちらでも構いません。

実はあの写真はもともと葉にぶら下がる雨粒を切り取ったもので天道がいることに気づいたのはmacのモニターで観ているときでした。なので天道はアウトフォーカス。でも、いることが解り感動したので採用しました。
ミクロコスモスは当時観ました。が、すっかり忘れていました。雨粒に叩きつけられるバッタ?の映像が浮かんできます。
昆虫目線での人間の視覚化。
でも、映像を思い出してもなお昆虫のホントのところは解りません。おそらく水による生、水による死は表裏だとは思いますが、やはり想像でしかありません。知る由もなし。
毒多
2016/09/26 09:15
解らないことといえば、

話は飛びますが、最近解らないことが多いです。「空論」の対話も(みなさんの知識、感性に驚嘆し、自己が惨めにかんじるほど)羨ましく、なんとか解りたいと思っていたのですが、対話する者同士ではコメントが消されるほど消耗されるものだったとか、「ナス」のほうの会話の納得のされかたもさっぱり解らなく。身毒丸の本質も解らず、星の王子さまが何をいいたいのかも解らず、きっと私がバカなのだろう、と思っています。
とはいえ、私が森に対峙するときの「裡なるヤツ」が前面にでて喜んでいる感覚は、他者の「解る」とは違うのだろう、ということは解り、そんなものかもしれない、とようやく、思い始めることができるようになりました。
伝えたい気持ちはあります。(特に虫は好きです。率直な感想ありがとうございます。)
photoによるのは「言葉」を超えているようで好きです。ただ私もまた「言葉」を信望していますので、、また一方で言葉による絶望もあるかもしれない、と感じていますので少しだけ言葉を添えることにしました。

また話は戻りますが、昆虫にとっての雨粒は人間にとって言葉のようなものかもしれません。
希望と絶望の表裏、生きると死せるの表裏。
なくては生きてはいけません。あると死ぬかもしれません。
毒多
2016/09/26 09:15
毒多さんは全然バカじゃないですよ。多才な上に強靭な精神を持っている方だと私は思います。photoに付されたキャプション(というと軽薄な言い回しですけど)にも優れた文才が顕れています。

テキストによる対話の件、最近私なりに色々思うところがあります。でも自分から立論・発信するタイプではないので、こちらでそれを説明する感じでもないのです。
それと、毒多さんも含め界隈の対話って、何だかんだで恵まれた人のものなんですよ。観念的に思索する力・感受し読み取る力、そういうものに恵まれた「特権的な」存在。そういう人が集まって対話していると、それが当たり前みたいな感覚になってしまう怖さもあります。
ものさしがズレてしまうのですね。『身毒丸』だってなかなか難しい作品です。あの短い作品を読み通せない人って結構多いと思います。

アレを出してくる人って、受け手の「読む力」に信を置いていないと出来ないことをしていると思います。それが成り立つ空間の特権性を見失わないようにしたいと思います。その特権性に見合う責任についても。
calibre 111
2016/09/26 14:39
承前。

毒多さんもでしょうけれど、私も自分の直観を信じるタイプです。私の場合は説得力のあるものに対する懐疑性を含んだ直観。

でも、その直観自体に多分にバイアスが掛かってるんです。
例えば、視覚的に平面に見えるものが、手で撫でてみるとヒケがあって凸凹だと気付くことがある。
視覚からダイレクトに出力される認識は「平面」なんですよ。でもって、触覚で対象に歪みがあるぞと認識が修正されても、視覚的にはやっぱり「平面」なんです。
対象を撫でなければヒケには気付かないままでしょうね。

ではその対象物を「平面」と説くか「曲面」と説くか、「視覚上は平面であり、且つ触覚上は曲面」と説くか。
それとも「『平面』は概念の上でのみ存在するもので、現象世界には存在しない」と説くべきか。

最後のは、説明としては正しいです。人によっては面白いという感覚を持つかも。でも平面が概念であると直観し得ない人もいるでしょう。
またその説明が意味をなさない場面だって、あるでしょう。

そういった「人」「場面」が存在し得ることを理解するには、そのためのものさしが必要になりますよね。

また、バイアスそのものは「呪い」のようなものではない。様々な生物種に固有の基本設計に由来するものです。
calibre 111
2016/09/26 15:28
若干付け加えます。

ご存知かと思いますが、ブータンではドラッグ汚染が進み問題になっています。
『カンタ・ティモール』の東ティモールも、解放闘争に参加した人の「貢献度」判定により給付される恩給に差が付けられたり、庶民の暮らしに格差が生じたりしているとの現地報告があります。
朝方まで大音量で音楽を鳴らしてたむろする他にすることのない多くの若年層の人たちや、そこに忍び寄るドラッグの影もあると言います。
ドラッグ密輸の中継地点として東ティモールが使われているという説もあります。

現実の世界には、ある場面を捉えてもそこに様々な色が存在します。
私たちがその中から物語を紡ぐ時には、どうしても各々が手持ちの画材にある色で物語を描くことにならざるを得ません。描く人により好きな色・好きでない色・無関心な色だってあるでしょう。
その時に流行している色や描き方からも影響されるでしょう。

そして、描かれた物語の色彩が現実の世界のそれと似ているようでどこか何か違っている時、元の世界の色を恣意的に収奪したことになってしまってはいないか。
自分はどうしてその色を選び、他の色は選ばなかったのか。その色を選んだ責任が自分にはあるのではないか。

そんなことを自問自答しています。
いずれにせよ簡単に答えの出る話ではありません。ただ、何か気付きがあった時、今までと同じままでいたいから気付かなかったことにしよう、目を向けないことにしよう、無かったことにしようとは自分は思わない。
自分が過去に為してきたことに対しても、誤魔化したくはない。
そんなことを思っています。
calibre 111
2016/09/26 18:07
calibre111さん、おはようございます。

まあ、この周辺では相対的にバカじゃないかと自覚するわけで、一般的には平均です。
それどころか、特権ではなく一般だと感じるnoteのなかでの「photo」「歌もどき」はちょっと一般以上で、いいな、と自負しています^^。
私を「強靭な精神」と感じさせるなら、それは(ここの周辺では)バカであり、「特権」を識りたいという自覚がなせる技でしょう。
愚慫さんのテキストの感覚はワタシに合っている(クラッシクの引き合いはまるで解りませんが)。
で、ワタシもまた「特権」でありたいと感じている。
宗教であっても狂っていてもいいと、叩き合いでいいと「私」は感じている。
ここはそういう場だという気持ちがどこかであります。
だから強靭な精神が必要ですし、バカだと自覚させられてもいいと感じている。
魔術に嵌っていますかね、爆!!
毒多
2016/09/27 09:10
calibre111さんは、愚慫さんのnoteは目にされますか?
「空論」とはまるで違います。一般に寄り添おうとしていると私には感じられる。
けっして孤高を目指しているわけではないし、全ての面で「狂い」でいるわけではありません(このあたりはアキラさんもリアルの付き合いを書いていましたね)。
多分、愚慫さんや私はそういう面では不器用な人間です。
不器用にも凹凸、多面あります。
「ナス」のコメ欄を観ました。
納得しあっている内容は理解できました。
それでも賛同し難いのは、「ものがたり」の途中なのか、別のベクトルへ進んでいるのか、同一線そこをぶち抜けてしまう質なのか解りません。もしかして「狂い」の部分はほっといてくれよ、かもしれない。
まあアキラさんの世界からしたら未熟と映るのかもしれませんが(笑)
(以上のことは全てワタシの感覚であり、愚慫さんは違うのかもしれません)
毒多
2016/09/27 09:11
「幸せの国」ブータン、「カンタティモールの国」東ティモールの別の顔のことは知りませんでした。ご教授ありがとう。さほど驚きもしない程度には、全ての可能性を感じることはできます。

「バイアス」の話は面白いと感じました。
直感では「生物固有の基本設計に由来」、私の思考では「裡なるヤツの領分」とは感じなかったので面白いと感じたと思います。むしろ「アタマであるとこのワタシ」ではないかと思っています。
ちょっと振り返ってみます。
私はある人物gに好意をもっていた。あるときからgが解らなくなった。gはしゃしゃり出て解らないことを言うヤツ、という「バイアス」がワタシのなかにできた。
以後、gが登場すると内容よりも、まず構えて対峙するという「バイアス」が働いた。
「バイアス」とうのはワタシのなかのものです。
gのなかにあるわけではない。
gに好意をもっていた私はgを凹凸のあるものとして見ていた。
あるときからワタシが働き、gを平面として見るようになった。
「裡なるヤツ」はもとより凹凸を感受できるのではないでしょうか。むしろアタマであるワタシが平面にしてしまう。自ら「呪」を発生させている。
「バイアス」とは狭窄です。狭窄へむかう「ワタシ」と戻ろうとする「ヤツ」の闘いです。
お三方(愚慫さんもふくめ)は、バカなワタシと違ってバイアスを「取り除けたのだ(解呪)」と考えていました。(元々ないよ、なら失礼orz)
こう考えていたのが、「生物固有の基本設計に由来」ではないと考えた理由です。
毒多
2016/09/27 09:11
>毒多さん

認識の順番について想像してみてください。
フィールドで昆虫撮影をする時、毒多さんはまず触って昆虫を認識(経験により前もって昆虫の知識がある以上、触れば昆虫と直観するはず)し、しかる後に眼でそれが昆虫であると再確認しますか?

もう一つ。これは今度フィールドに出た際、出来れば試してみてください。

草木などに止まっているチョウやトンボを見かけたら、触ってみてください。捕まえるのではなく、そっと触れるのです。蜂でも良いですよ。巣から離れた蜂は基本的に攻撃的でないので。まあとにかく敏捷で反応の敏感な虫が良いです。

その際、チョウやトンボに触るまでに、毒多さんがどの感覚をどのように働かせているかモニタリングしてみてください。

あと、これについて考えてみてください。
「擬態」はなぜ成立するか。

それぞれ、答えを返して下さらなくて良いです。毒多さんが、バイアスについて捉えるきっかけになればと思って書いています。「解」を要求しているわけではないですよ。毒多さんご自身で感じて貰えたら。
鹿を殺すことに比べたら遥かにハードルが低いですし、しかも殺さなくても出来ることです。

もう長い間、私はほとんど鳥獣の肉を食べません。もともとは肉好きなんですけどね。
calibre 111
2016/09/27 21:32
noteについては、お二方の対話も拝見しています。
“僕と対話すると、彼は彼の「先生」というポジションを守れなくなると感じたんだろう”
“もう「学びません」という宣言でしょう。そういうことは毒多さんのところでも何度も述べておられたし。ああ、閉じたんだな、と”
こういった発言も含めて。ほぼリアルタイムで。

その上で、私の敬意には変わりはありませんと伝えています。

誰かのことを他者がどう評価しようが、そんなのは基本どうでも良いことだと思います。大事なのは、毒多さんご自身がどう思うかです。
ただ、様々なやり取りを丹念に虚心坦懐に見つめて、その上で気付きが訪れることもあるでしょう。その気付きに関して、他者に感謝することや己を省みることはもちろんありましょう。

私は「魔術」を使わないようにしています。
「魔術」は面白いですよ。
その面白さに呑み込まれるのが恐ろしいのです。それだけです。
calibre 111
2016/09/27 21:49
そういえば、noteのphotoを拝見して思い出したことが。

ウラナミシジミって成虫に変態すると毎年北上するのですが、北房総より高緯度に北上した個体群は全滅してしまうのです。
卵も死んでしまうので文字通りの全滅。

翌年になると暖地に留まって越冬した個体群が繁殖し、その中からまた北上する。
そして北へ向かった個体群は全滅。
この繰り返し。
北に向かえば全滅するのに、何故そうするのか、わかっていません。

私が知っているのは、世界とはそういうものだということだけです。
calibre 111
2016/09/27 22:24
おはようございます。

バカだと自覚しながら、同じバカをやってしまうあたりが自覚が足らなく前に進まないのでしょうね。自分の理解できるようにしか理解できず、その理解に押し込めるように納得しようとする。繰り返しです。

>認識の順番・・・ですね。
(聴覚からの場合もありますが)まず視覚からです。可能なかぎり舐め回すように位置(平面)を変えて観ます。多数の平面の組み合わせでかなり立体化されます。「順番」と言われるまでは平面、立体を意識せずに行っていました。
次にファインダーを覗きます。ファインダーでは焦点と被写界深度を確認します。立体を意識されます。
基本的に触れません。触れることができません。トンボ、蝶であれば困難という経験的認識があります。が、次回はトライして「私」を観てみます。
「バイアスがかかる」を識りたいと思うワタシのために。
毒多
2016/09/28 08:53
>noteの「学びません」
そのあたりの会話をしたことは覚えています。ただ「私」がどうレスしたかは覚えていません。辿れば解るのかもしれませんが、そういう気持ちが起きません。今考えれば「私」なら、先生は嫌らいだ、と言うような気がします。
人は「閉じる」ことはあると思っています。一旦、閉じなければ、なんともしがたい自己に会います。「私」の場合は繰り返しです。幾度も閉じ、幾度も解放される。学習能力がないんじゃないかと思うほど。このあたりもバカです。でも諦めました。いま少し解放期に向かっています。落ち着いてきています。

ウラナミシジミの北上も知りませんでした。
ウラナミシジミの事情やウラナミシジミの気持ちは解りません。
世界がそういうもの、、、、かもしれません。
そうとしか言いようがない、、、のかもしれません。ただ
こういう話は想像したくなります。創作です。理由の捏造です。
楽しいです。それを公開することはいけないことでしょうか?
毒多
2016/09/28 08:54
・・・理由の捏造、、は違いました。
ホントを識りたいプロセスとします。
誰のためのプロセスでもありません。
毒多
2016/09/28 09:18
>毒多さん

ヴェルナー・ヘルツォーク監督に『キンスキー 我が最愛の敵』というドキュメンタリー映画があります。監督が自作品の主演に好んで起用したクラウス・キンスキーとの関わりを描いています。自分の分身みたいな存在だったのでしょう。

クラウスってのは癇性で尊大で気難しく、言っちゃなんですけどかなりクズい人なのですよ。『アギーレ/神の怒り』撮影時には、出演している現地のインディオたちに癇癪を起こして小屋に発砲し、インディオの指を飛ばしています。それでインディオたちがヘルツォークに、クラウス殺しちゃっていい?と陳情したりしている。
ヘルツォークは「オレが殺す」とインディオたちを説得してます。
監督も実はかなりサイコな人なんですよ。観ているうちにそれが解って来る。

で、ですね。ラストに印象的なシーンがあります。
ヘルツォークがバスト〜ウエストショットくらいの近距離で映されています。どこからかチョウが舞い寄り、彼と戯れるんです。
クラウスは、指先や掌で何度もひらひらと舞うチョウに触れる。チョウはクラウスから決して離れようとせず、まるで愛おしむように彼の手と遊ぶ。

チョウはクラウスを愛で、彼はそれに応えた。ともに遊んだ。
クラウスは至福の表情を浮かべている。

チョウは、クラウスの“愛でるに足る何物か”に惹かれたのでしょう。この傲岸不遜で気紛れで粗暴な男の裡に。
calibre 111
2016/09/28 20:44
私はとてもそこまでに達していません。己を低くして、虫たちに触れる許可を貰うのが関の山です。それでも幼いころには、アシナガバチかトックリバチを掌に乗せて、小さな箱に入れて持ち帰ったことがあります。ハチは静かでした。私にそれを許してくれた。

「愛でる」というのは、己を低くして相手に投げかけるという次元の行為だと私は捉えています。そうでないなら、単なる収奪です。
相手から何かを吸い取る行為に過ぎない。

私はその美しさに於いて、己を一匹の昆虫に勝っていない存在だと思っています。故に己を低くする。

またぺらぺら下らない話をしてしまいましたね。
すみません。
私はメ●フォルテさんに対して筋を通すと嘯きながら、都合三度も誓約を破ってしまいました。まるでダメですね覚悟の無いのは。
今度こそ、本当の最後です。お邪魔致しました。
ありがとうございます。
calibre 111
2016/09/28 20:54
一箇所、致命的な誤記がありましたので訂正。

>ヘルツォークがバスト〜ウエストショットくらいの近距離で映されています

クラウスがバスト〜ウエストショットくらいの近距離で映されています

確認して良かった。
こんな間違いで締めるポンコツなところが、私らしいといえば私らしいかも知れません。リアルでは「粗忽な人」で通っているので。
では。
calibre 111
2016/09/28 22:21
calibre111さん おはようございます。

>「愛でる」
なるほどそういう感じなのかもしれませんね。
おそらくワタシのなかに染み付いている、「たかが虫」という“上から”な感性は愛でるまで到達するのかどうか。何もしないからシャッターを切るまでは逃げないでおくれ、では、いけませんね(笑)

それにしても、はたして「たかが虫」、虫だけにおいて「愛でる」が解ってないのかな、と自問するところです。このあたりが、おそらくcalibre111さんが言いたかったものに繋がるのかな、と感じています。
「愛でる」、、己を低くして相手に投げかける、これは己を低くして「裡なるヤツ」に投げかける、から始まるのかな、という気がしています。

おそらく私にとって、虫に会いにいく、は死ぬまで続くと思います(笑)。少し「愛でる」を気にして触れてみることにトライし続けてみたいと思っています。
写真としての結果も変わるかな^^

「虫」以外も「愛で」たいものです。
毒多
2016/09/29 08:57
追記
もう解ったと思いますが、Mさんの書き込みは一旦「保留」されるようしています。あれ以来、数ヶ月に1度づつ3度ほど書き込みがあり設定により「保留」に回されました。
そのときは特に必要を感じなかったので「公開」にせず一読に留めているうちにシステムの関係か、コメントはなくなっていました。
3度とも書き込みの内容は、以前同様、つまりワタシを発狂の機会をあたえ愚慫さんアキラさんにヘイト感をあたえ、calibre111さんにジャッジさせたあの時とおなじ口調でした、笑。
私には、もう怒りやヘイト感はなくなっていました。
ジャッジする気もおきません。
ワタシやcalibre111さんの疲弊した過去などどこふく風、婆あは、「なにマジになっているの、大したことじゃないでしょ」と言っているように、私には思え、清々しささえ感じました。

calibre111さんご自身の「筋」に私が何をいうこともありません。公開されないコメの報告はしとくべきだと感じ追記しました。もしまた「あの口調」の書き込みがあっても、公開することはないでしょう。ひとりでニヤリと笑て放置します。

(「戯言」は、呪われたブログという自覚はあります。他者のせいでなく私自身の呪として。それでも私は続けるような気がします。)
毒多
2016/09/29 09:03

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