一応続きである。ただし「当たり前」かどうかは解らない。 とりあえずヤツについて確認する。というか、これが一程の答えだと考える。 ヤツは「生きている」。「人間」として生きている。 「生きている」ということは、成長すること。また変化すること。 ヤツは「外界とやりとり」をしている。 「外界」とは、ヤツという境界の外のこと。「他者」のこと。「世界」のこと。 「やりとり」とは、取り入れたり、出したりすること。 ヤツは「外界とやりとり」をしながら「生きている」。 ヤツは外界とのやりとりのなかで、ヤツ自身が変化、成長し、外界を変化させ、成長させている。 他者の裡のヤツもまた同様に変化し、成長し、変化させ、成長させている。 その変化・成長を「表現」という言葉で表すこともある。 視覚、聴覚、触覚、ヤツのもつすべての感覚を駆使し「表現」する。 もちろん、感覚以外にも「言葉」があり、人間として「生きる」大きな要素であることに間違いない。 「表現」は変化であり、ヤツの裡にたいしておこない、外界に対して行う。 「表現」はつまり「生きている」と同じである。 「生きている」「表現」に理由はない。ヤツの根源である。 「生きている」と「ヤツ」は同じである。 「生きている」と「変化する」と「表現する」と「ヤツ」は同じである。 「変化させる」と「表現させる」もまた「ヤツ」と同じである。 ヤツにしろ、外界にしろ、変化せずに、成長しないものを死という。 さてワタシとはつまり意識である。 ワタシという意識が発現するまえからヤツはもくもくと生きてきた。成長してきた。 やがてワタシという意識が「ヤツの上に」発現した。 おそらく最初に発生発現したころ、ワタシはヤツの代弁者だったような気がする。 眠い、腹減った、あれしたい、これしたい、ヤツの要求をそのまま言葉にしていた。 ワタシはヤツの要求の外界への拡声器であった。つまりヤツの一部だった。 かなり長い間ワタシとヤツという分かれたものではなく、ひとつだった。 ヤツとワタシは同一のものであり、ワタシは外界とやりとりする役割だった。 やがて外界はワタシを通してヤツに我慢とか抑制とか、道徳とか、規則とか、つまり社会を教えはじめた。ヤツとワタシは社会を学び人間へと成長しようとした。ヤツは外界からの言葉に耳をかたむけ、ときにヤツは外界からの干渉に反抗した。 それらの中間にワタシ、つまりヤツの役割でありツールであるワタシという意識が仲介した。 ところがそのうちに、ワタシはヤツのことを忘れワタシのなかで完結していると思い始めた。ヤツの要求を抑制してヤツとの分離がはじまった。 もともとワタシはヤツの一部であり、一体のものであるはずだった。 もともと一つだったものが「分離」した。 外界とヤツとの壁、溝ができはじめたた。 外界つまり「社会」とはそれほど強力なものとして存在した。 これは、ヤツだけの問題ではなく、他者の裡なるヤツについても同じである。 社会という強力なものの介在のなかでワタシ(意識)の力は増大し、他者のワタシ(意識)もまた同じであった。 ワタシつまり意識がヤツの前に立つがデフォとなった。 なぜ前面にたつのか? ワタシが社会的外界とやりとりにするから。ワタシは外界とのやりとりがヤツの要求通りにいかせようとしているものの、ヤツの要求の防御壁、装甲板であるため。裡から外界へ対しては、ヤツの要求、生きる、変化、表現を「抑止する」役割をしている。外界から裡へ対しては、「言い聞かせる」役割をしている。 ワタシはヤツの一部とすると、「抑止」「言い聞かせ」もまた、成長、変化、(表現)と考えることができる。 ワタシがヤツから飛び出してしまった別物とすると、ヤツの成長、変化、表現を制止するものと考えることができる。 またワタシは、ヤツの要求を「素のままでやりとり」する、「抑止」「言い聞かせ」するにあたって、特に後者については「合理的」な説明、言い訳をしている。 はい、ここまでが毒多の確認で、復習である。正解か、間違いかは後に考察する。 このあたりを前提で話している愚慫さんやアキラさん、calibre111さんの言っていることが解らなかったのは、3氏にとってのこの前提を毒多が理解していなかったという理由。 そうしたうえで、前エントリーででてきて解らなかった「統合」とは、毒多の言う「ヤツ」と「ワタシ」の「再統合」だと解る。もともと一体だった「ヤツ」と「ワタシ」は、外界とのやりとり、つまり強力な社会の影響で分離する。分離し「ワタシ」だけが暴走し、「ヤツ」が忘れ去られる。 再びヤツを認識して、ヤツからするとワタシを(ヤツの一部)呼び戻して、再結合、再統合、再合体すること。 呉智英が言うところの自我とは「ヤツ」と「ワタシ」が合わさったものを言い、自我の発現とは、「再」発現のことである。 ただし、以前の発現はワタシが芽生え始めたころの自我であり、常に生きている、つまり、変化しているヤツにとっては、一旦ワタシが先行した後の発現とは、変化の段階であり、以前の統合、発現とはまるで違うものである。 愚慫さんが言う、「同感」「共感」とは、自我の発現、自我の統合される前か後かによる。 「同感」とは統合の前段階、つまりワタシ(つまり意識)単独によるもの。「共感」とは統合後つまりワタシを通してではあるが、ヤツに直に「響いて」いるもの。 愚慫さんが言う「物語」は、ワタシのヤツに対しての合理的な「説明」「いいわけ」。 calibre111さんの紹介の「飼い犬に手を・・・」を聴いて、毒多の裡なるヤツは何かを感じたのだが、毒多のワタシはそれを抑止した。また、同じくcalibre111さん紹介のチャールズ・マンソンは、ヤツに影響をあたえた外界に対してワタシがまったく働かなかった例。 また対話中、歌については、ワタシに訴えるのか、ヤツに直に響くのか、ワタシ経由でヤツに響かせるのか、という話題があった。また言葉を介在することで「社会的外界」の部分を排除しきれない。言葉不明の、言葉のない、「音」のみの表現ではどうなるかを、calibre111さんが紹介してくれた。などなど、、、、 アドラーはワタシ優先でなく、ヤツの元に帰って統合してみろという。 ・・・全て振り返ると、長くなるので別途振り返ることにする。 他者多数にとって下らないエントリーだが、ワタシにとって、つまりヤツにとっては結意義なエントリーであったことに間違いはない。自らが理解できる言葉と道で再編成するのは成長、変化、表現したいヤツにとってもそれと「共感」しているワタシにとっては、必要不可欠だろう。 さて、これで難解な愚慫空論やそのコメ欄のやりとりが読めるようになるかどうか、あらたな理解に繋がるかどうか、楽しみである。 |
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タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
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内 容 | ニックネーム/日時 |
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復習とありますが...、 |
愚慫 2016/09/12 11:47 |
愚慫さんコメントありがとうございます。 |
毒多 2016/09/12 13:38 |
「言葉」というのは、不思議なものですね。音楽や絵画とは違っている。 |
毒多 2016/09/12 13:39 |
おそらく、愚慫さんや、(まったくなっていませんが)毒多が目指しているのは、この表現ではないかと感じています。 |
毒多 2016/09/12 13:39 |
ps |
毒多 2016/09/12 13:42 |
スペックということでいえば、毒多さんの写真と「短歌もどき」の組み合わせは、とてもスペック高いと感じます。 |
愚慫 2016/09/12 15:00 |
短歌もどきも、裡なるヤツをダイレクトに言葉にしているのがいい、と感じています。写真にとるときの感性をそのまま言葉にするような。 |
毒多 2016/09/12 16:31 |
>「ワタシがヤツから飛び出してしまった別物」 |
アキラ 2016/09/13 09:51 |
あれ? 最後の「的な」は余計です。 (^o^) |
アキラ@追伸です 2016/09/13 09:53 |
アキラさん、コメントありがとうございます。 |
毒多 2016/09/13 10:48 |
>現実的には、完全に分離しちゃっている人もいる |
毒多 2016/09/13 10:49 |
僕自身は、僕自身のために愚慫さんと対話していたわけですが、それが多少でもほかの誰かのヒントになっているというのは、そう聞くと 僕としてもとても嬉しいものです。 (^^) |
アキラ 2016/09/13 21:48 |
レスにはなっていませんが、、、^^; |
毒多 2016/09/14 08:40 |
僕は「ヤツ」が「ヤツ」になった時点で、有限だと思うんですよね。 |
アキラ 2016/09/14 11:27 |
>ヤツになった時点で、有限 |
毒多 2016/09/14 13:02 |
横から失礼。 |
愚慫 2016/09/14 14:08 |
>むしろ「物語」を創作する能力としてはワタシのほうが無限かもしれないな。 |
アキラ 2016/09/14 23:43 |
おはようございます。 |
毒多 2016/09/15 08:48 |
アキラさん |
毒多 2016/09/15 08:48 |
あぁ なるほど。 |
アキラ 2016/09/15 13:04 |
こちらこそ、あぁなるほどです。>受精卵が発現したとき、、、ですね。 |
毒多 2016/09/15 13:34 |
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