毒多の戯れ言

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zoom RSS 当たり前かどうか?

<<   作成日時 : 2016/09/12 08:56   >>

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一応続きである。ただし「当たり前」かどうかは解らない。
 とりあえずヤツについて確認する。というか、これが一程の答えだと考える。
 ヤツは「生きている」。「人間」として生きている。
 「生きている」ということは、成長すること。また変化すること。
 ヤツは「外界とやりとり」をしている。
 「外界」とは、ヤツという境界の外のこと。「他者」のこと。「世界」のこと。
 「やりとり」とは、取り入れたり、出したりすること。
 ヤツは「外界とやりとり」をしながら「生きている」。
 ヤツは外界とのやりとりのなかで、ヤツ自身が変化、成長し、外界を変化させ、成長させている。
 他者の裡のヤツもまた同様に変化し、成長し、変化させ、成長させている。
 その変化・成長を「表現」という言葉で表すこともある。
 視覚、聴覚、触覚、ヤツのもつすべての感覚を駆使し「表現」する。
 もちろん、感覚以外にも「言葉」があり、人間として「生きる」大きな要素であることに間違いない。
 「表現」は変化であり、ヤツの裡にたいしておこない、外界に対して行う。
 「表現」はつまり「生きている」と同じである。
 「生きている」「表現」に理由はない。ヤツの根源である。
 「生きている」と「ヤツ」は同じである。
 「生きている」と「変化する」と「表現する」と「ヤツ」は同じである。
 「変化させる」と「表現させる」もまた「ヤツ」と同じである。
 ヤツにしろ、外界にしろ、変化せずに、成長しないものを死という。

 さてワタシとはつまり意識である。
 ワタシという意識が発現するまえからヤツはもくもくと生きてきた。成長してきた。
 やがてワタシという意識が「ヤツの上に」発現した。
 おそらく最初に発生発現したころ、ワタシはヤツの代弁者だったような気がする。
 眠い、腹減った、あれしたい、これしたい、ヤツの要求をそのまま言葉にしていた。
 ワタシはヤツの要求の外界への拡声器であった。つまりヤツの一部だった。
 かなり長い間ワタシとヤツという分かれたものではなく、ひとつだった。
 ヤツとワタシは同一のものであり、ワタシは外界とやりとりする役割だった。
 やがて外界はワタシを通してヤツに我慢とか抑制とか、道徳とか、規則とか、つまり社会を教えはじめた。ヤツとワタシは社会を学び人間へと成長しようとした。ヤツは外界からの言葉に耳をかたむけ、ときにヤツは外界からの干渉に反抗した。
 それらの中間にワタシ、つまりヤツの役割でありツールであるワタシという意識が仲介した。
 ところがそのうちに、ワタシはヤツのことを忘れワタシのなかで完結していると思い始めた。ヤツの要求を抑制してヤツとの分離がはじまった。
 もともとワタシはヤツの一部であり、一体のものであるはずだった。
 もともと一つだったものが「分離」した。
 外界とヤツとの壁、溝ができはじめたた。
 外界つまり「社会」とはそれほど強力なものとして存在した。
 これは、ヤツだけの問題ではなく、他者の裡なるヤツについても同じである。
 社会という強力なものの介在のなかでワタシ(意識)の力は増大し、他者のワタシ(意識)もまた同じであった。
 ワタシつまり意識がヤツの前に立つがデフォとなった。
 なぜ前面にたつのか? ワタシが社会的外界とやりとりにするから。ワタシは外界とのやりとりがヤツの要求通りにいかせようとしているものの、ヤツの要求の防御壁、装甲板であるため。裡から外界へ対しては、ヤツの要求、生きる、変化、表現を「抑止する」役割をしている。外界から裡へ対しては、「言い聞かせる」役割をしている。
 ワタシはヤツの一部とすると、「抑止」「言い聞かせ」もまた、成長、変化、(表現)と考えることができる。
 ワタシがヤツから飛び出してしまった別物とすると、ヤツの成長、変化、表現を制止するものと考えることができる。
 またワタシは、ヤツの要求を「素のままでやりとり」する、「抑止」「言い聞かせ」するにあたって、特に後者については「合理的」な説明、言い訳をしている。

 はい、ここまでが毒多の確認で、復習である。正解か、間違いかは後に考察する。
 このあたりを前提で話している愚慫さんやアキラさん、calibre111さんの言っていることが解らなかったのは、3氏にとってのこの前提を毒多が理解していなかったという理由。

 そうしたうえで、前エントリーででてきて解らなかった「統合」とは、毒多の言う「ヤツ」と「ワタシ」の「再統合」だと解る。もともと一体だった「ヤツ」と「ワタシ」は、外界とのやりとり、つまり強力な社会の影響で分離する。分離し「ワタシ」だけが暴走し、「ヤツ」が忘れ去られる。
 再びヤツを認識して、ヤツからするとワタシを(ヤツの一部)呼び戻して、再結合、再統合、再合体すること。
 呉智英が言うところの自我とは「ヤツ」と「ワタシ」が合わさったものを言い、自我の発現とは、「再」発現のことである。
 ただし、以前の発現はワタシが芽生え始めたころの自我であり、常に生きている、つまり、変化しているヤツにとっては、一旦ワタシが先行した後の発現とは、変化の段階であり、以前の統合、発現とはまるで違うものである。

 愚慫さんが言う、「同感」「共感」とは、自我の発現、自我の統合される前か後かによる。
 「同感」とは統合の前段階、つまりワタシ(つまり意識)単独によるもの。「共感」とは統合後つまりワタシを通してではあるが、ヤツに直に「響いて」いるもの。

 愚慫さんが言う「物語」は、ワタシのヤツに対しての合理的な「説明」「いいわけ」。

 calibre111さんの紹介の「飼い犬に手を・・・」を聴いて、毒多の裡なるヤツは何かを感じたのだが、毒多のワタシはそれを抑止した。また、同じくcalibre111さん紹介のチャールズ・マンソンは、ヤツに影響をあたえた外界に対してワタシがまったく働かなかった例。
 また対話中、歌については、ワタシに訴えるのか、ヤツに直に響くのか、ワタシ経由でヤツに響かせるのか、という話題があった。また言葉を介在することで「社会的外界」の部分を排除しきれない。言葉不明の、言葉のない、「音」のみの表現ではどうなるかを、calibre111さんが紹介してくれた。などなど、、、、

 アドラーはワタシ優先でなく、ヤツの元に帰って統合してみろという。 

 ・・・全て振り返ると、長くなるので別途振り返ることにする。
 他者多数にとって下らないエントリーだが、ワタシにとって、つまりヤツにとっては結意義なエントリーであったことに間違いはない。自らが理解できる言葉と道で再編成するのは成長、変化、表現したいヤツにとってもそれと「共感」しているワタシにとっては、必要不可欠だろう。
 さて、これで難解な愚慫空論やそのコメ欄のやりとりが読めるようになるかどうか、あらたな理解に繋がるかどうか、楽しみである。  

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コメント(21件)

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復習とありますが...、

毒多さんは「言葉以前のところ」では、もう、すでに識っているんだと思いますよ。

難しいというよりも、面倒臭いのは「言葉にすること」です。おそらく言葉というのは、そういうことを表現するのには向いていない。おそらくは音楽の方がずっと向いていると思います。

「言葉にすること」には、何らかのスペックのようなものが影響するかもしれない。『言ってはいけない』が指摘したような現実はあるかもしれない。だけど「言葉以前」においては関係ないと思います。
愚慫
2016/09/12 11:47
愚慫さんコメントありがとうございます。
感謝と謝罪をのべる機会を与えられました。
アキラさん、残酷に慣れる訓練さんにも同様の感謝と謝罪です。
今回、これまでは、対話の内容が何かが解らず「やりとり」していたと感じました。
また、ここで切れるなら「これまでになっても仕方ない」という決意をもって真剣に対話はしていなかった。これも内容が解らなかったからだと思います。
ワタシという意識が肥大して、解らないことを隠匿して、誤魔化し甘えていました。
申し訳なかった、とともに、いまいちど自らを確認しようと決意させてくれた、愚慫空論と対話欄、アキラさん、残酷に慣れる訓練さんに感謝します。

愚慫さんに「言葉以前のところ」を識っている、と言われ、そうだろうなぁとは感じます。
おそらく毒多の裡なるヤツは識っていると思います。が、ワタシという意識が阻害している。
それを確認。そうでなければ、今回の確認復習の意味がない。
毒多
2016/09/12 13:38
「言葉」というのは、不思議なものですね。音楽や絵画とは違っている。
音楽や絵画は裡なるヤツがダイレクトに外界とやりとりできます。表現です。
音や色・造形で、外なるヤツに訴えかけ、外なるヤツから訴えかけられ成長(変化)できます。
ところが「言葉」は違う。「ワタシという意識」を経由するからだと考えています。そのクッションのなかでそれこそ「物語」が加味される。もしくは「ワタシという意識」が裡なるヤツを無視して言葉を捏造できる。アタマデッカチというやつですね(この言葉も今回はじめてちゃんと共感できた気がします)。もちろん、そこまで含めて身体であり自我であるということは言えるかもしれませんが、、、、(まだこれからの思索課題です。)
ところが母国語になると「ワタシという意識(アタマ)」をスルーしてダイレクトに響いてくることがある、揺らしてくることがある。ダイレクトインプットです(今回の飼猫、、)。
そして、これはホント、稀に体験したことがあるのですが、アウトプットに関しても「ワタシ(アタマ)」をスルーしてダイレクトにアウトプットされることがある。それこを〈言葉〉による〈表現〉だと思います。
裡なるヤツがダイレクトに喋っているような感覚。
毒多
2016/09/12 13:39
おそらく、愚慫さんや、(まったくなっていませんが)毒多が目指しているのは、この表現ではないかと感じています。
これにも確かにスペックが影響するかもしれない。音への感性が研ぎ澄まされているヤツもいれば、色や構成への感性が思い通りに表現できるヤツもいる。個性です。今に至る経験だけでは語りきれないような気もする。
愚慫さんの裡なるヤツには音や絵に秀でているヤツと同様異種、言葉に独特の感性を持っていて、言葉により「表現すること」で変化している、つまり生きている気がします。毒多は残念ながらスペック不足。
ワタシ(意識)も稚拙ですが、裡なるヤツの声に耳を済まし、そこを目指していきたいと思う。つまり生きたいと思う。
といことを今回学ばさせて頂きました。ありがとうございます。
毒多
2016/09/12 13:39
ps
言葉による表現といえば、詩、句、歌があるな、、、、愚慫さんの表現は詩人のそれとは違うなぁ、
でも、裡なるヤツのダイレクト感性が言葉に宿ったということは詩歌でなくてもあると思います。
毒多
2016/09/12 13:42
スペックということでいえば、毒多さんの写真と「短歌もどき」の組み合わせは、とてもスペック高いと感じます。

ちょっと真似のできない、独自のものです。

なんていうのかな、やっぱりどこか「戯れ言」なんですけど、真実味があるんですよ。

写真と「短歌もどき」の関係性は、一見、捻れているようで、しかし深いところで繋がっていて、その繋がりに「毒多」という個性が浮かび上がってくるというような感じ。

追究して欲しいと思います。
愚慫
2016/09/12 15:00
短歌もどきも、裡なるヤツをダイレクトに言葉にしているのがいい、と感じています。写真にとるときの感性をそのまま言葉にするような。
ワタシ(意識、アタマ)がいろいろ考えるとダメですね。
毒多
2016/09/12 16:31
>「ワタシがヤツから飛び出してしまった別物」
<
そうですね、僕はこのように捉えています。
というか、「ヤツ」と「ワタシ」は基本的には分離したものではないだろう・・と。
まぁ、現実的には、完全に分離しちゃってる人もいると思います。

ネアンデルタール人は言葉を獲得しなかったけれど、ホモ・サピエンスは言葉を獲得した。
ネアンデルタール人のノドの構造からは、ホモ・サピエンスのように言葉を操る呼吸のコントロールは無理だったろう・・といった推論を(誰だったかが)していて、なるほど面白い♪と思ったことがあります。

かつ、ネアンデルタール人の住居跡から出てくるいろいろな痕跡を調べていると、いわゆる人間的な情緒の表現をすでにしていたであろう・・とも。

で、その他そのような諸々から、ネアンデルタール人は、そういう情緒表現や情報表現・伝達をハミングのような音楽的なものでやっていたのではないだろうか・・という推論があります。
僕はそれがすごく面白く感じました。
あり得る♪ と。

言葉というのは、そのもの自体が「ワタシ」の側のものですよね。
一方で、音というか 音楽というか メロディというか、そういうものは「ヤツ」の側に近いのかもしれません。

なおかつ、言葉においても、話されるものに関しては、そこには必ず「音楽」的なものが付随していますよね。
僕らはその話される言葉の、どこをどのように受けとっているのか。
そういうことも興味深いと思います。

テキストだけのやりとりのデメリットは、少なくともこの「音楽」的な要素が言葉から消し去られてしまうことだと思ったりします。
的な
アキラ
2016/09/13 09:51
あれ? 最後の「的な」は余計です。 (^o^)

消し忘れかな?
アキラ@追伸です
2016/09/13 09:53
アキラさん、コメントありがとうございます。
甘えかもしれませんが、救われます。
空論での愚慫さんとの対話、本当にありがとうございました。
やっと真剣になれました。やっと少しの理解に至ったという自覚があります。
アキラさんの力が大です。感謝。
アキラさんはアキラさんの興味(表現)のために愚慫さんと対話したのかもしれませんが、第三者的他者への影響は大きいですよ。すくなくとも一人の他者(毒多)にはかなり響いています。

ネアンデルタール人の話、面白いですね。
言葉がなかったことが、ワタシ(意識、自我)がなかったことにはならない、ということですね。
音を感じて表現をしていた。こうなってくると、確かに「ものがたり」つまり身体の純粋なやりとり、が根本にあるということを感じます。身体(ヤツ)と意識(ワタシ)が一体を疑えません。
ヤツの感じがままに淚するとかwww
やがて外界と内界とのやりとりのなか、言葉を得た、現在の身体が現れる。
「物語」が生まれるのはここからのような気もします。
「物語」と「言葉」は切れない関係。
そして、身体(ヤツ)と意識(ワタシ)の分離を考える。分離して考えるほうが合理的な言葉で語れる。といったところでしょうか?そうした「現在の身体」も身体ですね。
明らかに「物語」は在るように感じる。「ものがたり」の上にですが。
毒多
2016/09/13 10:48
>現実的には、完全に分離しちゃっている人もいる

アキラさんの言う、これは、どういう人ですか? 
私(ワタシ+ヤツ)は、「しちゃっている人もいる」どころか、結構いっぱい居ると思うのです。ちゅうか、ほとんどそうじゃないかと思えるほど。身体を忘れ、「ものがたり」を忘れてしまっている、「物語」が全てという人。このことが分離だと思うのですが、如何でしょう?
それは私でもあります。
だから思索して人間性、身体を取り戻そうとしているのではないか、と思えます。
思索して身体を取り戻す、、、これは矛盾なのか?
いや、言葉でも音的に身体から発することもできる、、、気がしています。
毒多
2016/09/13 10:49
僕自身は、僕自身のために愚慫さんと対話していたわけですが、それが多少でもほかの誰かのヒントになっているというのは、そう聞くと 僕としてもとても嬉しいものです。 (^^)
よかったです。

はい、身体(ヤツ)と意識(ワタシ)の分離を考えるのだって、それがその人の「現在の身体」です。
そして、それがその人の「ものがたり」。

僕が漢字で書いちゃうとごっちゃになると思って平仮名表記にした「ものがたり」は、いいも悪いも、「ヤツ」メインでも「ワタシ」メインでも、順接だろうと逆接だろうと、そういうことすべてをひっくるめた その人なりのそのときまでの「ものがたり」ということです。
そうして、それは今現在の身心としても表現されている・・ということです。

「現実的には、完全に分離しちゃっている人もいる」というのは、前に愚慫さんがどこかで話していたような、数字やデータといったもので合理的にやりとりして、それで済んじゃうような人のことを念頭に書きました。
情動や感情が、それにほとんど絡まずに それを行なえてしまうような人。

普通は「分離してる」と言っても、衝動や情動、感情といったものに、その人が自覚してる・してないは別として、けっこう左右されてるものです。
そういうことがほとんどなく、やりとり出来ちゃう人、ですかね。

ただサイコパスみたいなのとは、ちょっと違う気がしてます。
ああいうのはまた別口かな・・と。
アキラ
2016/09/13 21:48
レスにはなっていませんが、、、^^;

>すべてをひっくるめたその人のそのときまでの「ものがたり」

はい、これはそうでしょう。否定しようがありません。
万事をこう捉えることができるアキラさんの「ものがたり」ですね。
おそらく私(ヤツ+ワタシ)は、その「ものがたり」の中身を知りたくなる質で、その過程でヤツとかワタシとか(順接、逆接、物語、とか、これは愚慫さんの表現ですが、、、)を考えてしまう。
まあ、アキラさんにしたらそれまで含めて「ものがたり」となるのでしょうが。
でも、アキラさんが、その中身を知りたがってないとは思っていません。
おそらく、私の言葉でいう「ヤツ」(アキラさんは「ワタシ」まで含めた全てというかどうかはまだ解りませんが、、)と直接会話しようとしている。しかも言葉ではなく。
これは凄いと思いますよ。
でも、私は、そのやり方を習いたいとは思わない。いまのところは、ですが、、、
なんだろう、とっても七面倒臭いやり方かもしれませんがワタシ経由の会話が好きなのかもしれません。
言葉で翻訳するのが好きなのかもしれません。
ヤツが〈世界〉だとは思います。裡に〈世界〉(=無限)を包括していて、ワタシ(=言葉)という有限というか超狭範囲で表現できないことにトライしている感があります。だから、すぐに解らなくなってしまう。
けれど、そういう方法を選んでいるのが私ではないか、とも感じるのです。

>分離している、、、サイコパス
了解です。会ったことはないけれど^^
毒多
2016/09/14 08:40
僕は「ヤツ」が「ヤツ」になった時点で、有限だと思うんですよね。
「ヤツ」を構成しているエネルギー自体は無限のように思えますけど。
その一部が「ヤツ」になった時点で、それはやっぱり有限のような・・・。 (^^)
アキラ
2016/09/14 11:27
>ヤツになった時点で、有限

そ、そうなのかっ!?
確かに「ヤツ」が無限であるという思いは、ワタシが綴った「物語」かもしれない。
ワタシには解らないから「無限」だと考えた。
認知できない〈世界〉が無限に広がっている、と。
ワタシには解らないとはつまり言葉で表せないからなのだが、、、
むしろ「物語」を創作する能力としてはワタシのほうが無限かもしれないな。
言葉の限界は感じるが、、、

エネルギーは無限かもしれないといえば、受精卵の前、「死」のあとはどうなのだ?
普通に考えれば、エネルギーは心身の源で心身が在るときのみ無限としても、なければ無い、となると有限のかもしれない。
〈私(ヤツ+ワタシ)〉が有限というのはそうい意味なのか?
毒多
2016/09/14 13:02
横から失礼。

>ヤツになった時点で、有限。

ああ、それそれ。その「有限」を認識したときに、エネルギーがまた出てくるんですよ。

「ヤツになる」というのが〈学習〉の〈習〉です。〈学〉によって外部からワタシのタネ(?)を受入れ。〈習〉を経てヤツになる。そこで、

 知之為知之、不知為不知

之知るを知ると為し、知らぬを知らぬと為す。
すなわち、「有限」を認識する。すると、

 是知也

知るということを起動するエネルギーが新たに湧き出てくる。

〈学〉でワタシのタネを受入れ、〈習〉でヤツと為す。
以下、その繰り返し。

繰り返しができる回数は有限です。人間には寿命がありますからね。生物学的な制約は超えられない。だけど、その制約ないでは、なんど繰り返してもいい。その意味では無限です。

言葉によるならば、データ圧縮と解凍・展開。幾度でも、好きなだけ。
愚慫
2016/09/14 14:08
>むしろ「物語」を創作する能力としてはワタシのほうが無限かもしれないな。
<
ウケました。 (^o^)!
アキラ
2016/09/14 23:43
おはようございます。

アキラさん、笑い事ではありません。
お二人が解ってらっしゃるようなことが私にはピンとこないので、また一晩、考えこんでしまったのです。
(実は非常に単純明快なことを回り道して考え込んでいるのではないか、という疑惑もありますが、)

>ヤツになった時点で、有限。

です。
私は、現在の対話を理解するうえで、ワタシとヤツを切り分けました。
ヤツという存在(理解する上で)は、そこで発現しました。
これが「ヤツになった時点」と考えます。
つまりこれまで漠然とワタシが司る私だったのが、一旦ワタシとヤツの分離です。
分離された時点で、有限。つまり限りを見た、、、限りを満た(「見た」の前に偶然に行われた誤変換ですが、何かひっかかります、笑)一旦、の限りが満たされた。と考えればいいのでしょうか。
一旦、限りを満て知るが満たされる。そこから新たなスタートが始まる。
その「新たなスタート」は無限だよ、、、と。
とすると結局は「無限」ということになるのだが、漠然と最初から無限という認識で限りない海を泳ぐのではなく、「有限」を確認し、有限を満たす、さらにそこから次の有限を見る、有限を満る。
一旦有限が満たされた、そこからのスタートを「掘り下げる」となると有限のなかの無限のような気もするなぁ。
毒多
2016/09/15 08:48
アキラさん
昨日noteにて、ヤツから発せられる「何か」をなるべくワタシが阻害しないように言葉にしました。
ワタシには認知できない溢れ出る「何か」をただ赴くままに言葉にしていったという感じです。
そのなかに、
>出会いは無限にある。ただし自分を閉じない限り。
とありました。あとでそれを読んだワタシは苦笑しました。
ヤツの生きたいをワタシが阻害しています。
ということで、「光るナス」の読者復帰することにしました。
また読まさせていただきます、^^
毒多
2016/09/15 08:48
あぁ なるほど。

僕が言っている『「ヤツ」が「ヤツ」になった時点』と、愚慫さんが言っているそれとは、違うかもしれませんね。

僕が言っているのは、エネルギーの海の中から ひとつの波頭のようにしてエネルギーの偏りが起きて、それがどのようにかは分かりませんが、この世に受精卵といういのちの形となったときに、それが「ヤツ」になる。
・・という意味です。

ですから、その時点で有限・・という意味です。

「ワタシ」が「ヤツ」に気がついた時点で・・ということではありませんでした。

あと、僕はnoteには登録してないんです。
あっちもこっちもになってしまうと、とても面倒になってしまうので(あと 登録のときにいろいろ聞かれるのがめんどくさい)、2度ほどトライしたのですが、やめました。 (^_^;)
アキラ
2016/09/15 13:04
こちらこそ、あぁなるほどです。>受精卵が発現したとき、、、ですね。
ならば、とりあえず有限ということは解ります。形あるものは有限。
ただ私はヤツが分かり切ってないので、絶対有限というのは保留しますが、、

それにしても、
>エネルギーの偏りが起きて、、、受精卵
は面白い「表現」の仕方ですね。
私も何かが来たと感じますが、「表現」する「言葉」が浮かびません。
このあたりがワタシが「言葉が有限」と感じたところです。

noteは残念ですが、個々の思いの自由です、としかいいようがありません。私もFB(やツイッター)を葬ったわけですし^^;
(それにしても2回もトライしたのに気持ちよく登録できないのは、note事務局の無能さがあるのかも)
毒多
2016/09/15 13:34

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