毒多の戯れ言

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zoom RSS 「問題の根本」に立ち返る

<<   作成日時 : 2016/09/09 09:52   >>

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 ブログエントリーしてたり、コメしたり、他者のエントリーをみつめていると、何が何だか分からなくなる。他者の理解を頂こうとするのがいけないのかもしれない。一旦オノレの言葉で組み立ててみることはしておいたほうがよいだろう。
 はたして、なぜ歌なのか(自分で言い出したことなのだがww)、何が訴えなのか、どこが物語なのか、どうして情動で震えなのか、なにゆえの自我の発現、、、、そも、どうしてこんなことを考えるのか?うぎゃぁああ、解らないぃぃぃ、アッチョンプリゲorz
 まるでワタシが軽蔑する頭の悪い会議の中心になったようだ。そもそもの議題を忘れ、派生した話題に左右されている。いやちがう、周囲はすべて議題を解っているなか、ワタシだけが議題を忘れたアホなヤツ。で、なにがなんだか解らないI!!と、ひとりで踊っている闇夜のシャドウ。もう暗中で何を模索しているかもわからない惨めなシャドウ。大笑いである。淚ものだ。
 だいたい、こんな何年も言葉をつづりエントリーしてきたのは、何のためだ。書評や音楽について語るためか? 事件やら政治やらの現象の感想を書くためかよ。政治話題でケンカして、現象話題で仲違いするためか? それとも共感し共有するためか? 結果どちらであってもいいのだが、もともと何がしたくてケンカしたり共感するのだ?
 なにか根本を忘れていないか? いや忘れるというか根本がないままただ漫然と綴らなかったか?漫然とケンカしたり共感したりしてなかったか?
 ひたすら漫然と理解しようとしなかったか?
 だから何がなんだか、解らなくなったのではないか?
 もともとの問題とは何だったのだ?
 やっと少し見えてきた気もする。
 もともとの問題。問題の根本。

「生きている」

ということ。この自明が前提すぎてつい問題として忘れてしまうことが問題だったのだ。だから当たり前すぎる前提に思いもよらず、前提のうえで起きるあれやこれやが問題だと勘違いしたのだ。根本を思い出すことで、なにについて対話していることも解ってくるのではないか?そうなのだ、
 まず、「生きている」ことの不思議を感じたのではなかったか?
 そして「生きている」ことの意味に何故を感じたのではなかったのか?
 だからどう「生きている」ことがいいのかを知りたかったのではないか?

 便宜上、毒多と名付けられた「ヤツ」は受精卵から始まる?そもそのヤツがどこからやってきたのかは解らないが、取り敢えず受精卵からとする。身体というガワの裡なのか身体そのものなのかを根拠に発現した。ヤツは外界とやりとりしながら身体の様相を変えつつ生きてきた。外界とは自然であり他者つまり社会であるのだが、やり取りは多岐に亘る。ヤツと外界のどちらが欠けても「生きる」はなしえない。ヤツが生きるは外界が生きるということ。ある時からヤツには「意識」が芽生え始めた。「意識」は毒多と名乗り言葉を操った。はたして意識はヤツの一部なのか、全部なのか、別物なのか解らないが、ヤツの要求を意識は言語化しているだけではないように感じる。が、ヤツを無視して意識が動くようなときもある、とする。(風邪というのはヤツの要求であるにもかかわらず、意識がヤツの要求を阻害し薬を用いるというようなこと、らしい)ただ、ヤツを知ろうとしたり理解したりするのも意識によるもののような気がする。いずれヤツと意識は密接に関係していて離れることは「生きる」なかではない。ヤツを意識することが自我なのか?
 ヤツは、外界に順応したり阻害されたりしつつ「生きる」。それにともなって意識はヤツを応援したり妨害したりする。そも意識の力など露ほどもないとするなら、ヤツ自らそういう「意識」を面白がっているのかもしれない。
実はヤツは「生きる」という言葉であらわせない存在なのかもしれない。ただ在る。
意味を持ちたがっているのは意識のほう。
意識は意味を持ちたいので、外界とのやりとりに意味をもとうとする。
外界とのやりとりにあれやこれやと意味を持たせ、これがメインとなる。
ちょっとまて、外界が生きていなければヤツも生きられない、となると、外界とのやりとりにあれやこれやと意味を持たせるのものヤツらの意思に対する要求なのかもしれない。
ここで「ヤツら」にしたのは、他者の裡なるヤツと、自己の裡なるヤツは相互に作用していて「生きている」、とすると根本の要求は同じだからだろう、という意味。
ところが意識はヤツらの目論見を裏切る。意識間の外界とのやりとりに齟齬がでてくる。齟齬がでてくると対話になるのか、ケンカになるのか、拒否になるのかいろいろなケースがあるが、そこばかりにそれこそ意識がむかい、ヤツらのことを忘れる。極端なのが殺人、他者の身体を損傷をあたえることで身体そのものか身体の裡なるものかのヤツを殺す。自殺もしかり。
殺人までいかなくとも意識の齟齬の物語はあれこれある。そこばかりに意識がいってしまう。

このように根本の問題が忘れ去られると上滑りなことになる。
こうして意識したすべてのセンテンスが思索の対象になりうるので正解ではないが、根本に戻らなかれば何を理解しようとしているのか解らなくなる。
ワタシはずっと解らない状態だったのではないか、と今感じている。

さて、いろいろなやりとりを読みなおすとするか、笑。

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ひとことだけ。

「在る」と〈生きる〉の違いです。
それは、静的と動的の違い。

「在る」は静的。
〈生きる〉は動的。

〈生きる〉のなかには“成長”が最初から含まれています。
愚慫
2016/09/09 11:20
そうですね。
重要なところですね。
その違いは認識しておきます。
毒多
2016/09/09 11:27

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