毒多の戯れ言

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<<   作成日時 : 2016/08/11 14:56   >>

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おそらくワタシは今、世間に醜態を晒している。
他者は自意識過剰と言うのだろうが、オノレが感じているのでワタシのなかでは正しい。
他者のワタシに対する批判を気にするあまり、その批判がなされている場所から距離をとった。
その場所は好きな場所だったのだが、距離をとらずにいられなかった。
惨めなヤツだ。
たかだか、他者の批判である。
それを気にして距離をとる。・・・つまりその他者の批判を受け止めたわけだ。
お話にならない、とアドラーなら言うだろう、笑
どれだけ強がってみせてもダメである。
情けなさの渦中にいる。と感じている。
自信がないのだ、つまり自分を信ずることができていないのだ。
真に自分を信ずることができれば、どれだけ痛烈(破滅的)な批判(それが的を得ていようが、的外れだろうが)にも冷静に向き合うことができるだろう。
今回は怒りは全くなかったものの、離れたほうがいいと判断した。自信のなさの現れだろう。

こんなワタシだが過去にいくども自信があるときもあった。
しかし今思う。それは本物の自信だったのだろうか?
変わった経験をしたとか、たんに賛同者が多いとか、同意の声があったとか、
もっと有り体にいえば、(ブログで発言した場合)訪問者が多いぐらいのものではなかったか?
ただの根拠の薄い承認欲求が「満たされていた」だけのことではないか?
それを自信と勘違いしていたのではないか?
それこそが真の醜態ではないのか?
ふう、、、、

少し自分を見つめなおさなければいけないのだろう。

果たして自分を信ずる、自信とはなんなのだろう?
ワタシは経験と思索の結果だと考える。いや違う。
経験とその思索の結果、裡より発芽したものをさらに思索、思索し開花させたたワタシ(自ら)を信ずること。発芽し更に思索した開花の結果が正しい、正しくない、ではなく、それを行ったワタシを信ずること。信ずればその結果の再思索、再々思索もできる。
発芽させ開花させたそのものでなく、させたオノレを信ずる。

ワタシが勘違いしていたのは、ワタシの経験はワタシのものでしかない、ということ。
勘違いはワタシの経験と他者の経験は同じだという前提にたっていたこと。
どこまでいっても他者の経験は、ワタシは未経験なのだ。
同じコンサートへ行って隣同士で音楽を聞いて同じようにスタンディングオベーションをとったとしても、同じプログラムに参加して同じように歓喜しても、同じ社会闘争をして同じように怒り叫んだとしても、他者の経験とワタシの経験は同じではない。
同じだと思う勘違いから間違いがはじまる。

その他者とは違うワタシ自身の経験から発芽し、他者と違う思索から開花するものは当然違う地平にある。その開花を他者が批判しようとも、それの批判は他者のものでしかなく、それに共感するかどうかはワタシの問題なのだ。
当然、共感により湧き出した芽はワタシのものなのだ。
その湧きだした芽が共感元と「似通っていても」違うものなのである。
そこを勘違いしてしまうと、他者にたいする欲が発生し、欲が支配を呼び、支配が(当然の帰結として)失望感、裏切り感を呼ぶ。なぜ解ってくれないんだ、と。

もちろん他者とワタシの発芽、開花は違うものであるのだが、さらにワタシに戻り再発芽することもある。繰り返すうちに、どんどん開花するものが類似してくる。どこまで距離がなくなり類似する。それは喜びであり、そうした往復ができることを信頼と呼ぶのだろう。
それでも、ワタシのなかにあるそれはワタシのものであり、信頼する相手のなかのそれとは別なのだ。勘違いしないようにししなければ、でなければ、何度でも同じことを繰り返すに違いない。

ワタシは承認多数によって自分を確認する者ではなく、オノレにたいする信用からオノレを認める者でありたい。それだけの経験と能力を擁していると自分を信ずる。信ずるための努力しつづける。

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