毒多の戯れ言

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zoom RSS 趣味と仕事

<<   作成日時 : 2016/07/24 06:31   >>

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趣味って何? と、考えてしまったのは、Aさんの「あれは彼の“趣味”ですから」と言うのを聞いたから。えっ? 何それ? 彼のあれをそう表現してしまうんだ? と言いたくなった自分に笑えて少し思索。

趣味ってなんだろう? とりあえずアントニムを考える。最初に浮かぶのが「仕事」。次が浮かばないので、仕事との対比で思索しよう。おそらくAさんが言いたかったのも、趣味と仕事の差異というニュアンスだと思う。
Aさんの台詞が「あれは彼の“仕事”ですから」であれば、ふむ、と頷いて、エントリーするには至らなかっただろう。

さて、趣味と仕事(仮)の違いとはなんだろう?
実は昨日、山へ芝刈りへ逝った。楽しかった。
そこで、ゴルフは毒多の趣味だからなぁ、と言われる。
いやいやそんな真剣にやってませんから、と答えるだろう。とすると趣味といえども「真剣さ」をともなうものだ、ということがワタシのなかにある。仮に、ゴルフは毒多の仕事だからなぁ、と言われたら嫌味以外に感じられない。

はたして、趣味と仕事のどこに違いが在るのだろう?
ツアーなんかでテレビに映るプロゴルファーであれば、ほとんどの人は仕事と思うだろう。
では、ツアーでテレビに映るアマチュアゴルファーは、あれは趣味だからと思うだろうか?
趣味だと思わなくても「あれは彼(女)の仕事だから」と言う人はいないかな。
とはいえ「あれは彼の趣味だから」と言う人もいないだろう。
テレビに映らず収入のないプロゴフルファーのゴルフプレーはどちらなのだ?
「あれは彼の趣味だから」と言われれば嫌味以外の何者でもない。
テレビに映らず何も顧みずに没頭しているアマチュアゴルファーは、趣味なのか?
プロ資格があるか否かがポイントか?といえば資格がない仕事などいくらでもある。
同じスポーツでもテニスにはプロ資格はない。

趣味と仕事(仮)の違いにいくつかの浮かんだ違いが消えていく。
稼ぎがあるか否か、資格があるか否か、、そこが決定的な違いではなさそうだ。

では他者との関係が違いなのだろうか?
と、突然次の観点が浮かんだのは、趣味だから自己満足でいいんじゃない、という言葉をいつかどこかで聞いた覚えがあるから。
ワタシは心が狭いうえに疑心暗鬼の塊だから何も顧みずに没頭しているアマチュアゴルファーに「彼の自己満足でいいんじゃない」という言葉を耳にすると、かなりイラっとしてしまう。よく考えれば自己満足が悪いわけではないのに。
話はそれたが、仕事は他者の役にたつこと、というイメージがやはりある。
自己満足でなく他者との関わりをもつことは、多くの趣味はそうした側面があるので、仕事との違いにはならないだろう。
ただ「他者の役にたつこと」となると、プロゴフルファーでも微妙な感じであるが、他者の感情の起伏に寄与しているといえば、役立っているといってもいいだろう。
では、趣味は他者の役にたっていないかといえば、そうでもない。
ちびまる子にでてくるなんとか爺さんの、ワシの趣味は川の掃除で・・・、という台詞がうっすらとした記憶から抽出された。
ボランティアが趣味です、なんて人はゴマンといるわけで本質がどうであれ他者の役に立つが前提の趣味である。
完全に自己満足にみえるような趣味でも、他者の役に立ってない、と断定はできないだろう。
逆に仕事においても満足のいくサービス(他者への役立ち)が必須条件ではないことなんぞ多々思い浮かぶ。自己満足を得ることさえ少なさそうである。仕事であるのに。

稼ぎのあるなし、資格のあるなし、他者との関わりあり方、趣味と仕事の差異を思索するポイントは、他に何があるだろう?

ワタシのゴルフは趣味以前だが、生活の糧として稼ぎを得ている仕事も、これがほんとに仕事なのだろうか?という疑問をもっている。むしろブログでいいエントリーし真剣な反応があったときのほうが仕事をした感がある。それが他者の役にたつかどうかは、他者の課題なのだとすると、自己満足かもしれないが、それでもその基を提供できたという感覚が仕事感となっているのだろう。
それを他者に、「所詮、趣味で自己満足、思う存分やればいい」といわれれば、少しムッとしてしまう。ムッとするのは「趣味」の部分にである。
仕事との比較において趣味といわれると小馬鹿感を感じる。

ワタシが趣味だと思えば趣味だし、仕事だと思えば仕事なのだ。
自覚の問題で、他者にどうこうカテゴライズされる問題ではない・・・
ましてや小馬鹿にするなぁあああああ、ってね、笑

ところで、
釈迦やイエスの説教は趣味なの? 仕事なの?
池田晶子の思索は趣味なの? 仕事なの?
彼ら彼女らは、笑みを浮かべながらスルーするだろうか。
どちらでもいいし、どちらでもないといいたげである。

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おはようございます。
日曜にエントリーは珍しくありませんか? 

仕事/趣味の評価軸は、ご指摘のように「自己評価(満足)」という基準もありますけど、世間一般の基準は「他者からの評価」の方でしょう。

といって、「他者からの評価」もいろいろとレベルがあるわけで。

レベル1――稼げるか稼げないか。

レベル1ですべてを評価しようというのが、現在の貨幣経済の趨勢であることはご存知の通りです。が、そんなのレベル低すぎだろう、という批判がありますよね。

レベル2――「稼ぎ」と「仕事」。共同体を維持するための労働を「仕事」として“意識する”。お金にはならないけど、労働だということに“気がつく”というレベルです。

レベル2が1より“高い”のは“気づき”のレベルが高いから。お金は誰でも気がつきます。だけど、お金にならない労働は、気がつかない人は気がつかない。

それどころか、世の中には気がつきたくない人も、実はいっぱいいる。前エントリーへのコメントで「怨」ということを言いましたけど、“気がつきたくない”に「怨」が作用しているということに「怨」を客観化できる人間は気がつくことができます。
愚慫
2016/07/24 07:53
さて、レベル3。

レベル1も2も、いずれも社会のための労働ための労働でした。1.は貨幣経済社会。2.は共同体。社会の規模でいえば、1>2であり、2は最小の社会である家庭まで含みます。家事労働は典型的な「仕事」ですよね。

だとすれば、3があるとすると、それは個人レベルの労働になる。ブログへ文章を書くなどという「作業」は、「労働」とするならば、レベル3になります。

しかし、ここで疑問が生まれてくる。この「作業」ははたして「労働」か、ということです。この疑問は、レベル3が「趣味」なのか「仕事」「稼ぎ」なのかという疑問だと言い換えることもできるでしょう。

客観的に、というか、有限な時間を何ごとかに費やしている、というレベルで見れば「作業」も「労働」も変わりありません。ひとりゲームに夢中になっていても、それは「労働」だと言おうと思えばいえる。

ここでも問題は「気づき」だろうと思います。

ゲームをしていても「気づき」は生まれる。しかし、生まれた「気づき」は、その時点においてはその人の内側だけのものですから、共有も共感も不可能です。

「他者の気づき」を生まない「労働・作業」は、何ごとを為していたにしても「趣味」とカテゴライズするのが妥当でしょう。
愚慫
2016/07/24 08:09
しかし、その「趣味」も、「気づき」が他者に向かって開陳され、それが他者の「気づき」を誘導することになると、レベル3の「仕事」になります。

ネットが開拓しているのは、まさにこのレベルでの「仕事」です。

もともと報道、放送、あるいは本の出版というジャンルの仕事はレベル3なんです。他者の個人レベルでの「気づき」がなければ意味がない。たとえその規模が、“マス”と言われるように巨大であっても、中身は個人個人です。ネットは、それを「個人の規模」へと細分化している。技術の進展がそれを可能にしたんですね。

とはいえ、それば「稼ぎ」なるには、やはり「多量の気づき(アクセス)」が必要になる。

でも、純粋に個人レベル(レベル3)で見れば、課題の分離ができていれば、「多量」かどうかもどうでもいいことです。

そうすると、レベル3が仕事か趣味かの判定は、その判定を為す人個人の「気づき」に関わっているということになります。

「気づき」が誘発されたと思えば「仕事」だろうし、そうでないと思えば「趣味」なのでしょう。「気づき」はその人が感心を持って開かれている分野で多く発生するのは、いうまでもありません。

このことは、逆にいえば「気づき」の量が多い〈開かれたひと人〉ほど「仕事」であると認識することも多いということになりますよね。
愚慫
2016/07/24 08:23
連投スミマセン。

以上のことをもう一段整理させてくださいね。

「気づき」というのは身体反応です。

“現金”という物体があります。“現ナマ”と表現されたりもします。そう表現されるのは、現金が生々しい身体反応を引き起こすものだからです。

“現ナマ”に目が吸い寄せられてしまったというような経験は、少なからぬ人があると思います。それは、性的に発育した男が女性の胸の膨らみに目を吸い寄せられてしまうのと同様に効果をもたらします。

だけど、現ナマへの関心と性的な関心は同じではないはずです。後者は先天的な反応ですが、前者は、ヒトがいくら社会的な生物であるとはいえ、後天的なもの。ということは、「アタマ」が作用しているわけです。

これはまったく個人的な評価ですが、レベル3は1よりも高いと考えている。1はよりアタマデッカチで、2、3といくにつれ、アタマの縛りから自由になった成熟した身体反応になると思うから。

成熟とは、複雑でありながら、かつ、純粋であるというイメージです。

つまり〈開かれた人〉とは〈成熟した人〉だということです。感性が繊細で広くなって感受する情報量が増え、それをオノレの〈生きる〉ことへと結びつけることができる人間。“結びつける”ことが「気づき」です。

で、繰り返し述べますが、“結びつけること”を阻害するのは【怨】。【怨】があると、気がつきはするんです。でも、「気がついたこと」が〈生きる〉ことを阻害するようなことのように感じてしまう。そうなると、感情がイライライガイガしてしまう。過去のハラスメントの経験が“結びつけること”を阻害する。
愚慫
2016/07/24 09:01
ハラスメントという言葉は現在一般的なものになっていますが、本当の意味は、一般的に思われているような嫌がらせではありません。嫌がらせを嫌がらせと感じさせないこと、嫌なことを嫌だと表現すると強権的に罰せられてしまうこと、感性を拓くことが生き延びる可能性の減少になってしまうこと、これがハラスメントです。感性の成長という形で発現する生命の発育を阻害する行為です。

【怨】とは、ハラスメントがもたらす必然的な結末。とはいえ、ハラスメントは社会的なものですから、「課題の分離」という修練は、ハラスメント克服に有効。レベル3の仕事もまた、同様に有効です。
愚慫
2016/07/24 09:01
愚慫さん、おはようございます。

土曜日は月に一回、完全馬鹿になる予定の芝刈りだったんですが、「趣味」という言葉で頭がいっぱいになり、夢にまで見たため、一旦出力しなければシンドかったので日曜日早朝のエントリーとなりました。
エントリー中Aさんとはアキラさんのことですが、一般性があると感じたのでAさんとしました。ただ、アキラさんから件の言葉がでたことが、“ワタシのなか”では相当意外だったので、芝刈りどころじゃなくなったのだと振り返ります。他の人の言葉であれば、エントリーに至ったかどうか、、、。
「趣味」か「仕事」かは、個々の判断であるは賛同しますので、ワタシの違和感は、ワタシのアキラさんへ対する一方的な思いの「ひっかかり」であり、ワタシの課題であると認識はしています。
蛇足ですが、ワタシには空論もナスも残酷コメも「趣味」という発想が一度も浮かんだことがなかった。

同じ文脈のなかでのアキラさんの言葉で、>「その後の展開」がない。には「いい意味」で課題になっています。(最後の4行が課題のメモ)
毒多
2016/07/25 08:53
コメでのエントリーの補完ありがとうございます。
「気づき」(ワタシは、他者の課題の基の提供とした)に至る補完ところまでは、よく解ります。

ただ、まだ「身体性」という「言葉」が身体におちていません。おそらく 漠然とワタシのなかでは「肌感覚」「自然の流れ」「遺伝www」に近いのではないか、と想像しています。(「怨」も「ハラスメント」もまだまだワタシの中には落としきれていません。)

「アタマデッカチ」という言葉は、ワタシには拒否感があります。というのも、それが完全否定、もしくは完全に馬鹿にしているように“ワタシ”は感じてしまうからです。
おそらく「身体性」が阻害されている、阻害「されすぎている」現代(社会)への批判としての表現だと思いますが、、、はて、何故違和感を感じるのだろう。過激な挑発は「仕事」の幅を狭める、それは勿体無いと感じるからかな、、、まぁ、愚慫さんの表現であり、自由に使ってもらえばいいのですが、笑。

「言ってはいけない」読み終わりました。
興味深かったです。愚慫さんが読んでも面白いと思えるような気がしてきました。
毒多
2016/07/25 08:53
おはようございます。

「完全馬鹿になる」とは、「アタマを空っぽ」にすると言い換えてもいいんじゃないでしょうか?

この言い換えが毒多さんの中で成立するなら、僕が常々もちいる「アタマデッカチ」という言葉の理解への補助線になるのではないかと思います。

アキラさんがよく使う言い回しに「上虚下実」というのがありますが、「アタマを空っぽ」というのは「上虚」ですよね。ただ、おそらく毒多さんは「下実」には実感がないのでしょうね。「下実」が「身体性」ということになる。

でも、本当に実感がないのでしょうか。草刈りをしていても、「上虚」になれたときの方が楽しめるという実感はあると思います。今回は、「趣味」という言葉に過剰反応して吐き出さずにいられない、つまり「上虚」になれないと感じたわけですよね。「上虚」が「下実」を阻害しているという感触。これもまた「身体性」。

いえ、【身体性】と言うべきかな。「下実」が〈身体性〉であることとの対照で。〈身体性〉を阻害する【身体性】、あるいは〈身体性〉に「呪い」をかけて縛る【身体性】。この【身体性】が「アタマデッカチ」です。

毒多さんにも「身体性」への感度があるから、「完全馬鹿」になる要請を身体が要請し、それが芝刈りへの欲求となって現われるということなんでしょう。
愚慫
2016/07/25 10:46
「アタマデッカチ」に拒絶感が込められているというのは、そのとおりです。「趣味」というのと同じく。

ただ、同じ拒絶でも、「アタマデッカチ」はレベル3だと思っています。「趣味」はレベル2ですね。

「仕事」と「趣味」とを区分するのに、先では「気づき」というワードを使いましたが、「要請」という言葉を使っても同じように語れると思います。

レベル1――お金への要請
レベル2――共同体維持の要請

レベル2の「要請」については、僕のブログで内田樹さんのお言葉を拝借したとおりです。「要請」は「気づく」人間がいることで達成される。レベル1、2は、要請するのは、いずれも他者です。

レベル3では、要請する者が自己なんです。自己の自己に対する要請です。その要請とは「解呪」への要請。解呪への要請を具体化させるのは【怨】への気づき。【怨】とは、ハラスメントによって強いられた「アタマデッカチ」です。

「強いられている」から「要請」がある。当たり前ですよね。ところが、強いられていない人は「要請」がないから、それは「趣味」という理解になる。これもまた、当たり前。だけど、その当たり前は、「強いられている」人からみれば「ある種感性の欠如」の欠如なんです。レベル3が欠如しているということになる。

それは、ない方が幸せな感性なんですけどね。

ない方が幸せだという認識を持ちつつ、それを求めるという捻れた態度こそ、僕はルサンチマンだろうと思っています。「アタマデッカチ」とはルサンチマンが吐き出させる言葉なんですよ。
愚慫
2016/07/25 11:01
アドラーが、自己の自己に対する要請であるということは理解して頂けるのではないかと思います。

そして、『仏教思想のゼロポイント』もまた同じ。ただ、同じ要請でも、要請のベクトルは真逆。

アドラーが「自己の要請だけに集注して全力を出せ」と言っているのに対して、ゴーダマ・ブッダは「自己の要請さえ鎮めてしまえば平穏になる」と言っています。
愚慫
2016/07/25 11:05
連投スミマセン。

件の『絶歌』も、これまた「自己要請の書」だと読めば、理解しやすいのではないでしょうか。もっとも、あれは「魔境」ですけど。
愚慫
2016/07/25 11:08
なんかすごく難しそうですが。。。

「趣味」って、「(本人が)楽しく真剣にやっていること」じゃないですか?

まぁ あんまり楽しいばかりではないかもしれませんので、楽しかろうと 苦しかろうと、少なくともそれを一生懸命にやって 充実感を感じていること・・なんじゃないですかね?

僕はそう思います♪
アキラ
2016/07/25 14:26
「完全馬鹿になる」と「アタマを空っぽ」は、違います^^
言葉足らずだったのでもう少し書きます。
草刈りの場合は、ワタシにとっては草刈りをするというよりも、中学よりの旧友3人に会う、という意味合いが大きいのです。結構大切な時間です。
ガキのころからの40年弱くらいの付き合いだから楽しいですよ。ただね、3人共そこそこの規模からかなり大きめの規模の会社に30年勤め続けることができて、そこそこ出世もするような、人種なんです。
愚慫さんの言い方を借りれば、ほぼレベル1なんです。
万博があればあしげに通い、東京オリンピックを嬉しがり、アベノミクスを評価し、差別という意識さえない、いい人たちなんです。
ブログのような調子でいちいち口を挟めば、いちいちお化けを見るような目で見られるか、煙たがられます。馬鹿になって聞き流すか、興味をもってレベル1の感性を観察するかするしかない。という意味で馬鹿になる。です。
馬鹿になれば心地よい。馬鹿になるということを知ることができる。
おそらく、彼らにとってはワタシのほうが馬鹿、ということになるでしょうね、笑。
毒多
2016/07/25 16:06
ワタシにとって「アタマ空っぽ」は、週末に一人で里山の森をさまようときか、ジョギングでひたすら汗をかいているときです。前者はnoteで写真を紹介してますから、解ってくれると思います。
緑と虫と花と空気と「地面」(笑)がそのまま身体で感じて、心地良い疲労を感じています。
一年ほどやめていたジョギングも、ある日突然、身体が走りたいと言い出したんです。これ分かりやすかった。一年ほどまえ走るのを辞める前は、4年も続けたんだからここでやめてはいけない、とアタマが強要してました。この辺りが【身体性】かな。

前置きが長くなりましたが、芝刈りの旧友3人は幸せそうです。それなりのサラリーをえて衣食住や「老後」に不安はなく、子ども達はほどよく社会に馴染むよう成長し、、、、ワタシなら耐え切れないような会社内の愚痴はありますが、もう数年で定年をむかえ、、、あげく、定年したら「芝刈りぐらいしか楽しみないよなぁ」という不安のなさ(笑)

アタシはそういうのダメなんです。レベル1はまったく耐えられない、おそらく寄せ場時代がレベル2,結局そこもダメでした。で、自己を見つめるしかない、「自己への要請」になっていく、、、、って話かな、、、。
毒多
2016/07/25 16:07
アキラさん、ほんとクドく痛々しい対話で申し訳ないです^^
「趣味」なんてなんでもない言葉にひっかかってしまう。きっとドロドロなんだろうなぁ、アタシたちは。

「趣味」ってのは、アキラさんの言うような感じでいいと思います。
愚慫のアレは、「趣味」とは違うんじゃないの、と「ワタシ」が感じたのはどういうことなんだろう? ということを考えたかった。

ところで、アキラさんのブログは「趣味」ですか?
毒多
2016/07/25 16:08
僕のブログは、そうですねぇ 趣味の一環かなぁ。
そもそもの始まりは、自己承認欲求を満たしたい、満たされたい・・みたいなところは大きかったと思います。
面白いと思ったことを人に言いたいという性格なので (^o^)、それを不特定多数に向けて気軽に発信できるブログという形は、すごく魅力的だったんだと思います。

野口整体のもろもろ自体が、僕にとっては「趣味」なんですよね。
今はその中にブログでの発信も入ってる感じです。
畑も「趣味」かなぁ。

わりあいどれも一生懸命で、それによる充実感や発見は自分の糧ですね。
アキラ
2016/07/25 18:20
アキラさん、おはようございます。

ははははは、とレスを読んだよきに笑ってしまいました。
清々しいというか、おおらかといくか、、、
ブログどころか野口整体までも趣味と言ってしまう、余裕。
これぞ、ザ・アキラ、といったとこでしょうか、笑

「趣味」という言葉ひとつですれ違うはずだ。仕方ない。

くらべて自分を振り返って、なんだ、この「ひっかかり」と「こだわり」は、トホホ。
でもね、アキラさんが羨ましい、、とは、微塵も感じません。
「ひっかかり」「こだわる」のがワタシなんだと思います。
結構「ひっかかり」「こだわる」自分が好きなんです。

多くの他者は、「ひっかかり」「こだわり」の毒多を面倒くさいヤツと遠ざけます。
もしくは、それがオノレの感性と違う場合はレッテルをはり、口撃をはじめます。
(だから芝刈りのときも馬鹿になる)
ところがアキラさんはそれがない。ちょっと特別な存在かもしれません。
にもかかわらず、愚慫さんと、「言葉のいいまわし」程度でつっかかった。
これが意外だった理由かもしれません。
それこそそこに「ひっかかり」ました、笑。

ワタシが「趣味」という言葉でひっかかった最初は、寄せ場の頃です。
寄せ場のイメージは以前エントリーにもしましたのでニュアンスは解ってもらえると思います。
他者に「趣味」(音楽鑑賞や日曜テニス)と同じだといわれブチ切れた時から、過敏になっています。今回もその感覚と同じのような気がします。
今はちょっと違う感覚なのですが、それでも残るものだなぁ、と自分をみています。
今、思い出しましたが、「趣味」のアントニムは「仕事」だけじゃなさそうです。
あのときは仕事と思ってませんでしたから。
「生きる」そのものだったかもしれません。
毒多
2016/07/26 08:44
愚慫さん、おはようございます。

アキラさんのコメで「怨」という言葉の感じが分かったような気がします。(アキラさんが「憧」かどうかは保留しますが、笑)
どうもアタシは、そのときどきの具体的な感覚がともなわないと、落ちない体質かもしれません。
毒多
2016/07/26 08:45
>結構「ひっかかり」「こだわる」自分が好きなんです。
<
>そのときどきの具体的な感覚がともなわないと、落ちない
<
これ、大事ですよね。 (^^)
アキラ
2016/07/26 10:36
>大事、、そうですね^^。結局は「落ちる」とは具体的な経験や感覚に沿うしかないのかもしれません。
ただ、経験/感覚にないことを「知りたい」と思うことも、大事かなとワタシが思っているような気もします。

ところで、聞き忘れていたのですが、アキラさんにとって
>「その後の展開」
とは、なんですか?
毒多
2016/07/26 11:54
遅くなりましたが、おはようございます。

その「芝刈り(草刈りではなかったですね)」のお話し。想像がつくような気がします。

「レベル2」なんだと思います。

(「レベル」という言い方がいまさらながら引っかかりますが、ご容赦ください)

僕の手前勝手な理論による勝手な想像ですけれどw、そういうレベル1な「いい人」ほど「いい人」であるために「レベル2での承認」を必要とするのでしょうね。

毒多さんが“馬鹿になって”ご友人たちに与えているものこそ「承認」でしょう。おそらく、あちらも毒多さんが敢えて“馬鹿になっていること”は伝わっているでしょうし、それが伝わるからこそ「承認」になる。レベル1の場では手に入らない「承認」を欲求している。その欲求に答えることに、毒多さんも意味を見出しておられる。

この「レベル2の承認」をするのに、馬鹿になる必要がない人もいる。誰とは言いません(笑)
愚慫
2016/07/26 13:48
毒多さんが「趣味」という言葉に引っかかったルーツの話。「事情」というやつですね。

その「事情」を、“ああ、そうなんですね、事情があるんですね”と、耳を傾けるのが「レベル2」の基本姿勢なんだと思います。

だけど、これでは「レベル3の要請(事情)」がある人には届かない。届かないわけではないけど、解決には至らない。モヤモヤが残ってしまうんです。

毒多さんが馬鹿にならなければならない理由は、この「モヤモヤ」でしょう? いかがですか? 

馬鹿になって「モヤモヤ」をどこかに「仮置き」しておかないと身体をリリースできない。そうやってリリースした身体は楽しみをもたらしてくれはするけれども、だけど、「仮置きしたモヤモヤ」がなくなるわけではない。

世間でいう【大人】とは「モヤモヤを仮置きできること」で、その気になれば【大人】になれなくはないけど、ずっと【大人】ではいられない。

【大人】でいられない事情というのが、「レベル3の事情」です。

「レベル3の承認」に必要なのは「あなたはいい子です」というやつ。映画『みんないい子』で描かれていたアレです。

それを僕は、「呪いを解く」と言っているのですけどね。そして、「みんな良い子」を固くいえば「人間性善説」でしょ? 
愚慫
2016/07/26 14:09
愚慫さん

「レベル」という言葉はワタシもひっかかっていましたが、いまさらなので、ここだけの限定にしましょう。
で、やはり実感でしか解らないワタシの立場にのってレスしてくれたことを感謝します。

芝刈りは4人でやるレベル1がやる趣味のことです。
ワタシの実感では、社会人として成功しているマイフレンズは、レベル2という意識がほぼなく、レベル1のみで邁進しているような気がします。
ワタシもレベル1だという前提で話をしていて(レベル2-3があるという感覚がない)、承認を欲求しているようには思えません。
この辺り、どうなんでしょう。

愚慫さんはレベル1を買いかぶりしすぎていませんか?
社会人、特に会社成功人はレベル1の昇華しか(与えられたシステムの固定しか)考えていない気もします。
ワタシは、おそらく月1の「レベル」以外のどうでもいい笑い話をするためだけに参加していて、今以上の頻度での集会ではワタシは保たないと思います。

レベルがあり、1から3へとステップアップするもの、という考えがマイノリティで、通常は今の社会以外なく、今のシステム、つまりレベル1のなかで、社会が成功だと設定するものを目指す。それがマジョリティである。、、、と、これはいかがですか?
毒多
2016/07/26 16:42
レベル2は、ワタシで言えば寄せ場時代かな。
もう今は包括して(あるいは上から)みつめてしまって、そこは「そんなもんだ」と見つめている、、、この上から目線wwがレベル3?
たしかにあの時代は呪縛されていて、いまは解放されている気もします。
それにしても、実感をもって感知するワタシにとってはレベル3はつかみにくいな。

なので、別の例で、、

ここのとこ「ひっかかって」いたのが、少し前、沖縄でベイ軍属による殺人があったあとの集会で、若い女性闘士が「彼女を殺したのは本土の人間だ」というようなことを声たかだかに叫んだこと。
女性闘士がこう叫んだ推移(ワタシは呪縛だと考えています)は寄せ場時代の経験から想像できますし、「事情」は解らないでもないのだけど、その叫びは全然ちがうんだ、というのが「レベル3」でしょうか?
映画風にいけば、なんとか彼女を呪縛から解放してあげたい、、、となり、やはりワタシにもそうした感覚がありますが、この感覚が「性善」?と、こんな把握のしかたでいいですか?

とはいえレベル3でモヤモヤぐらいは、なんとなしに解りますが、具体的にどんな世界観なのかは実感できてません。
毒多
2016/07/26 16:43
えーっと、僕自身にとっての「その後の展開」ですか?
それとも、(僕の思う)愚慫さんにとっての「その後の展開」ですか?
アキラ
2016/07/26 19:13
毒多さん

「レベル」を従来の言葉で言い表すと、1.は【システム】、2.〈生活世界〉になります。ぴったり同じではなくて、1.は【システム志向】、2.は〈生活世界〉志向。

3.は、呪縛とそこからの解放のことを言っています。呪縛とはハラスメントですから、3.は言い換えれば、ハラスメント世界からの離脱志向ということになりますかね。これはもう、そのまま仏教用語で「解脱」と言っていいのでは、と思ったりもしています。


それでですね、人間のデフォルトは2.なんです。〈生活世界〉の中で生きるのが、もともとの「人間」なんだと思う。だけど、社会はどんどん【システム】になっていってしまっている。そうなると、デフォルト2を維持するためには【システム1】へ適応する必要が出てきますよね。そのことを僕はずっと【過適応】と言ってきたんですが、そう呼ぶのは、「ヒト」のデフォルトな〈適応〉は、「ヒト」にとって適切な社会(生活世界)へ「適応」であるというところから来ています。

――というのは従来の繰り返し&「レベル1への買いかぶり」ということへの返答のつもりですが、届かないかな?
愚慫
2016/07/27 09:12
アキラさん、おはようございます。

思わず吹き出してしまいました。アキラさんは実は面白い人だったんですね。脳あるタレントはギャグを隠す、笑

他者の「その後の展開」なんてアタマにありせんでした。ので、愚慫さんのですか?という選択肢を提示され、笑ってしまいました。

ワタシが聞いたのは、もちろんアキラさんのです。
趣味のブログのその後の展開ってなんだろう?というより「その後の展開」ということがよく解らないので、アキラさんのその後の展開を聞いて考えようとしました。

面白そうなので、“アキラさんの考える”愚慫さんのその後の展開も教えてもらえると、より解るかも。

毒多
2016/07/27 09:23
デフォルト2の基本単位は家族でしょうが、【システム1】で暮らすのであれば、家族の維持にはそれなりにお金がかかりますよね。

家族の維持のための「それなりのお金」でよしとするならば「レベル2」です。だけど、それ以上のお金への欲求を保持しているなら「レベル1」。「レベル1」は、【システム1】であることの資本主義社会へ【過適応】することで生まれる資本主義的労働者です。

僕はまた【強欲】ということも言っています。【強欲】とは、人間の欲が強い状態を指しているのではなくて、「欲を強いられている」ということを言っている。強いられていることを強いられていると感じなくなると【過適応】です。

レベル3は、「強いられていることを強いられていると感じなくなること」を感じている、というレベルです。「強いられていることを強いられていると感じなくなる」のはハラスメントです。

じゃあ、ヒトは、【過適応】してしまうと「強いられていること」を感じなくなるのかというと、違います。心の底から感じない振りをしているだけ、隠蔽しているだけで、本当は感じている。このときの感じが「モヤモヤ」です。本当は感じているならば身体欲求として出てくるわけで、ここでやっと「芝刈り」の話に戻るのですが、「レベル1」の人たちにとって「芝刈り」は「デフォルト2」への復帰欲求なんだろうという見立てです。

(本当に感じない人もたまにいて、それはサイコパスだったりします。)
愚慫
2016/07/27 09:29
女性闘士への「その叫びは違うんだ」というのは「レベル3」です。

「闘士の叫び」が、そもそも「レベル3」です。そして、その彼女が直観しているように、米兵が罪を犯したことの遠因が本土にあるということは「正しい」。だけど、この「正しさ」を追及したところで「レベル3の要請」が解決するか「呪い」が解けるかというと、そうではない。仮に解決したとしても、別の「呪い」が生まれるだけのこと。

女性闘士も毒多フレンズも、現実に生きているのは「レベル1」でしょう。【過適応】に成功している、失敗しているの差はありますが、暮らしているのは【システム1】の中であることにはかわらない。

では、彼らの隠蔽された欲求が、フレンズでは「レベル2」、闘士は「レベル3」になってしまうのか。その分かれ目が「成功」です。【過適応】への成功が欲求のレベルを振り分けている。

「レベル3」への欲求は、宮台さんの言葉で言えば「感情の劣化」です。

高度成長期は大半の人間が「成功者」だったので、その欲求が「レベル2」でした。映画『三丁目の夕日』や、あるいは『寅さん』などが支持されてる背景には「デフォルト2」への欲求があった。

しかし『寅さん』では「レベル3」には届きません。それで再度、『きみはいい子』という話になります。
愚慫
2016/07/27 09:44
連投続きで申し訳ありませんが、言葉が乗ってきたので、ついでに「レベル」という言葉を使った根拠(言い訳)を開陳させてもらいます。

なんのレベルのことなのかというと、演算能力のことです。

「ヒト」は複雑な計算機です。計算機というと「アタマ」というイメージですが身体も計算機なんです。身体は行為する計算機。

算盤というのがありますよね。玉を動かすことで計算する道具です。算盤は道具ですから「動かす」ですけど、身体は生命なので「動く」です。動くことで計算するのが身体。身体は複雑な並列計算が可能なんです。

「ヒト」はデフォルトで「レベル2」の計算ができる。このレベルの計算能力を発揮することが〈生きる〉です。

ところで、コンピュータは、今やヒト以上の演算能力を発揮できるようになっているといわれています。それは事実なのでしょうが、コンピュータの計算能力は単純です。単純なものが膨大な量になって、単純さで比較するなら、ヒトの計算能力を超えた。けど、どれだけ膨大でもやはり「レベル1」でしかない。

人工知能は発達するとサイコパスになるらしい。合理的な単純計算しかできないからです。

演算の複雑さといういう尺度を用いれば、レベル1<レベル2。そして、レベル2<レベル3です。

ハラスメントが要請するのは、レベル3の計算能力です。レベル2での計算をレベル1で妨害するのがハラスメント。妨害によってレベル2計算は不調を来たし、計算機がオーバーヒートする。「感情の劣化」がそうだし、器質的な計算機破壊にまで至れば精神病になる。

レベル1の妨害をも組み込んで行う計算が「レベル3」。「「強いられていることを強いられていると感じなくなること」を感じている」という計算。

「感じる」と身体は計算するんです。それが生命というものです。
愚慫
2016/07/27 10:20
だから、「レベル2」を守ろうとすると「レベル1」も「レベル3」も、どちらも邪魔になってしまう。デフォルトは「2」ですから、それはとても健全なことなんですけどね。

だけど、行き方は「レベル1」を切り捨てることになる。「レベル1」を認めて、なおかつ「レベル2」でいるというのは無理なんです。そんなにヒトは都合良くできていません。「レベル1」を認めるなら、「レベル3」に行くしかない。

まあ、それも「趣味」ではあります。(^_^;)

愚慫
2016/07/27 10:21
愚慫さん

大枠だいたい解ってきたような気もします。
多分ワタシが、おおきく勘違いしていたのは、「レベル2が人間のデフォ」というところでしょうか。
現在の社会のデフォはレベル1であり、おそらくそういう「教育」がされ、もしくはマスコミミニコミsnsによって、いかにレベル1で上手く泳ぐかを煽られる。

マイ芝刈りフレンズも、「無意識のなか」で月一でレベル2の本来の人間に戻ろうとしている、といえばそうなのかもしれません。それでもレベル1から抜け切れずにそこ基準の台詞がでる、だからワタシは「バカになる」といったとこかな。

「レベル1」への気づきからの「レベル2」への回帰は解ります。なんとなくレベル3は、レベル1からレベル2へ回帰するプロセスのような気もしますが、読んでいると微妙にちがうようなニュアンスもしますね。

レベル3に至っちまっては純粋なレベル2に戻ることはできない。ということでしょうか。もしくはレベル2では物足りない。上からすべて見ちゃうのだから、純粋なレベル2にはもう戻れない身体である、、となるかな。
>「レベル1」を認めるなら「レベル3」にいくしかない、はよいとして、レベル3に至った先、レベル4とはなんなんでしょう?
そこは趣味で至る場所なのでしょうか?
やはりそこは、ほれ、その、「その後の展開」は気になるところです、笑

ワタシにとっては、周囲がレベル1から解放されれば、気楽に楽しく過ごせるだろうなぁ、ということと、周囲がレベル3になれば、面白おかしく過ごせるだろうなぁ、、ということ、個としてレベル3の先に何があるのか興味津々、、、と、この好奇心が「生きる」かなと漠然と思っているところです。
趣味かどうかはどうでもいいや、爆!!
毒多
2016/07/27 11:31
レベル3がレベル1から2への回帰のプロセスという理解でいいと思います。

しかし、微妙に違うというのも、そう。

このときの「回帰」は、「レベル1」も持って帰るから。
本来「レベル1」は余分なもの。余分なものだけど、ない方が良いかというと、そうもいえない。「レベル1」は「文明」だから。

文明が無ければ、なかった出会いがある。ここでの対話はまさにそうですよね。

だから、「2」への回帰といっても純粋な回帰ではない。
純粋な回帰を求めるなら、アーミッシュのような行き方を選択するしかないでしょうね。イスラミック・ステート(IS)も、そのような選択なのかもしれません。行き方がより過激ですけどね。
愚慫
2016/07/27 12:53
レベル3の先に何があるのかは、想像がつきません。
想像がつかないということは、身体が動かないということです。

孔子ならば「怪力乱神を語らず」というところかな?


何にせよ、「レベル4」には苦笑せざるを得ません。「レベル」という言葉から「さらに上」を想像する心はわかります。『宇宙戦艦ヤマト』の“ワープ”に心惹かれるというような、中二病的な(笑)想像ですよね。ゴメンナサイ。

中二病を患うのは、心身の動きのバランスが崩れるからですよね。アタマの想像に身体が追いつくことができない。そうした傾向は、現代のIT社会では広く見られる現象で、『ポケモンGO』などもそうした現象のひとつでしょう。

こうした毒多さんの反応から察することができるのは、僕の論理展開がアタマでは理解できても毒多さんの身体には届いていないこと、身体に届かないから僕の身体も動いていないだろうと思っていること、もっというなら僕が中二病に過ぎないだろうと感じていることです。

ま、ここらあたりが言葉の限界というやつです。言葉は嘘を語ることができますからね。

アキラさんのいう「展開」というのも、言葉の向こう、「身体反応」のことだと僕は思っているのですけどね。また、同様のことを残酷さに慣れる訓練さんが僕のコメントしてくださっていましたよね。「饒舌なのは嘘くさい」と。

そういうのは僕自身もよ〜くわかります。(^o^)
愚慫
2016/07/27 13:10
愚慫さん、申し訳ありません。
身体的に届いていません、笑

これどう謝る??
力不足で申し訳ありません。になるの?
アタマデッカチで申し訳ありません、になるの?

いずれにしろ、今は、この場では、実感がありません。

とりあえず、愚慫さんが何とか理解させようと、説明しようとしていることを、何とか理解しようとしただけなんですが、ワタシにとっての「まずはなんとか理解」はアタマでしかできない。
アタシの場合は、実際にその体験がなければ(おそらく、今、現状がその体験のなかにいるんだ、と、いうのでしょうが、)、ワタシ自らの顕著な場面に遭遇しなければ身体には落ちない気がしています。

レベル4,ってのは漠然とゴーダマの言うとこの出家信者みたいなものとか、
禅で逝っちゃった人みたいなのを想像したんだけど、それが中二病?
もっとも噂の「中二病」ってのがどんなのかのアタマでの理解も身体的実感もありません。だから、そう言われても、、、という感じ。

愚慫さんの身体が動けば、アタシの身体に染み入るってのも解りません。
(それは野口整体のなんか??)

ということで、愚慫さんの期待の身体的な対話は、全てのことに関してはできませんよ。残念ながらね。たまにアタシの身体に落ちているところの対話もあるかもしれませんが、全部は無理です。アタシは愚慫さんじゃありませんからね。

そのへんのとこ、よろしく、としか言いようがありません。
毒多
2016/07/27 13:44
僕が言っている「その後の展開」というのは、次のようなことです。

例えば、僕が
「呼吸器というのは、体のこのようなところと関係があります。
 こことここのつながりが息を吸うということに関係が深く、こことこことが息を吐くということに関係が深い。
 さらに、これこれこんなことともつながってきて、ですから呼吸器というのはとても中間的な領域なんです」
と書いた、とします。

僕自身は向こうでも書いたように、「その人その人の現実に、それはどのように役に立つのか 立たないのか」というところでしかものを考えないようなところがあるので、
もしも上の説明が、そのままで以上、終わり・・・だったとしたら、「で 何なの?」って思っちゃうわけです。 (^_^;)

たとえそれが素晴らしい開陳であったとしても、僕の生活や明日には何の役にも立ちません。
つまり、おそらく僕にとっては「その人その人の生活や明日に、何かの足しになるのか?」ということが問題なんだろうと思うんです。
アキラ
2016/07/27 14:12
(つづき)

ですから、例えば「呼吸器の話」を開陳するのは、あくまでそのあとの本題のための前説なわけです。
それを受けて、本題たる「その人その人の生活や明日に何かの足しになるような、その後の展開」が来たい。
それを僕自身は考えたいし、“相手にとって”なにがしかの足しになるような出しかたを練りたいんです。
相手に受けとってもらえなければ、何にもならないんですから。

ですから、これは僕の「趣味」でしょう? (^o^)

「開陳」すること自体が楽しく、充実感を感じる人もいると思うんです。
僕には響かない、というだけで。
で、ですから、それもまた「趣味」ですよね。
アキラ
2016/07/27 14:12
アキラさん

なるほど「個々の具体的“足し”に結びつく」展開ということですね。
で、愚慫さんの言説にはそうした展開を見いだせない。それはアキラさんの好みではない、といった解釈でいいでしょうか?

最初が愚慫さんとアキラさんの会話だったので、ここで愚慫さんといいましたが、ワタシについても似たようなものだと思っています。とても「個々の具体的な“足し”に結びつく」エントリーになっているとは思えない、だからワタシは「他者の具体的な“足し”」を目指しているわけではないのだなぁ、と再認識しました。

それでもワタシは日記ではなく、SNSで書いているのは、他者の反応を楽しみにしている、ということはあります。おそらく共感して貰える人がいれば、楽しいし幸せを感じる。自分の興味のある対話も楽しみです。
まあ、楽しみの多くは「具体的な“足し”」ではありませんが、目に見えなく漠然とはしているが“生きる”に繋がっていると感じています。
愚慫さんも開陳だけでなく、そうした部分があるのではないか、と勝手に想像し「その後の展開」がないわけじゃない、と多少反発を感じ、では、具体的な「その後の展開」を聞いてみた次第です(実際の愚慫さんの感覚は知りませんので、ここに書いたことに語弊があるかもしれませんが。)

今「具体的な足し」につながらない戯れ言もアキラさんには響かないのかなぁ、と多少寂しく感じております。

(レベル1のハラスメントをうけ)FBをやめてnoteというSNSでMy写真の開陳をつづけていますが、ついにワタシの写真の「ファン」だという言葉に出会い、実は、今めちゃくちゃ浮かれています。写真は完全に趣味で、他者の具体的な“足し”には程遠いですが、アキラさんもFB時代の写真に「好ましい」というような言葉をかけてくれましたよね・・・^^
毒多
2016/07/27 16:32
蛇足ですが、今回のコメ欄での対話で「趣味」という言葉の個人的事情による怨念からは解放されました。皆さんありがとう。
毒多
2016/07/27 16:32
アキラさん

「相手に受けとってもらえなければ、何にもならないんですから。」

なるほど、そうお考えになるのですね。
僕はそんなふうには思いません。

僕のどのブログエントリーも、どのコメントも、全部とはいいませんが、他人から受け取ってもらうことを前提にはいません。

アキラさんには、これまでほとんど受け取って頂いていたので、受け取ってもらえるものだと思い込んでいたところはありますが、これは、責めることでもお詫びするべきことでもないと思います。ただ感謝しています。

こういう場面で、僕にとって大切な言葉は「機縁」です。僕には自負があるんです。どのエントリーもどのコメントも、そのとき僕が出せる全力を出している、というね。

いえ、これも嘘。そうでないときも過去にはあったかもしれない。

全力を出して、それで受け取ってもらえなければそれはそれで仕方がないと思っています。縁が無かっただけ。

誰かに何かを足そう、と思ったことがないともいいません。過去にはそういう文章も書いた憶えがある。だけど、例の、共感だの論理だのといった論争以来、そういうことは徐々にやめにしてきたと思っています。

健康にあるいは健全に生きるための技法は、それは論理派の連中が人格攻撃をしながら重要性を主張した科学と同じく「有用なもの」として、うまくやれば誰かに「足して」あげることはできるでしょう。

だけど〈生きる〉ことそのものは、他人は誰も足すことはできないと思います。奪うことは残念ながら出来てしまいますが。〈生きる〉ことに何かを足すことは、当人しかできかせん。足すことと奪うことの対称性が世界が残酷であることの原因ですが、しかし、だからこそ〈生きる〉ことは尊い。
愚慫
2016/07/27 22:53
なにもすべての物言いについて「何かの足しになる」ことを求めているわけではありません。
毒多さんのは「こう思ったんだけど」という記事が多いですよね。
「解説」ではないですよね。
僕のブログの記事とは、そもそもまったく性質が違いますし。 (^_^;)

世界の見え方は様々です。
ですから「世界はこうなってます」という解説も、いろいろあっていいと思います。
でも、「世界はこうなってます」だけだと、「だから何?」って僕は思っちゃうんですね。
それだけです。 (^o^)

毒多さんの写真はいいです。
僕も好きです。
毒多さんの感じているものが、すごく素直に出ているように見えます。

そんなこともあって、noteのも見てみようと思ったのですが(紹介があったとき)、登録してくださいだとかニックネームが何だとか、いろいろとめんどくさかったので、そのままやめちゃったのでした。 (^^;)
アキラ
2016/07/27 23:00
僕はひたすら自分が〈生きていること〉を開陳するのみです。それ以外に出来ることが無いから。レベル云々の話も、僕から見える〈生〉の有様を開陳しているだけ。開陳することが〈生〉そのもの。開陳するだけで、他の誰でもない僕自身の足しになる。

そもそも表現というものが、そういうものだと僕は思っています。なにより自分自身の為。その軸があって、共感がある。他者の共感や理解はその後です。この順番は譲れません。

ヒトがこの順番を譲るとき、その動機となっているのは「欲」です。アドラーのいう「課題の分離」を曖昧するもの。他者との境界線を危うくするもの。

「欲」がない人間は嫌われます。「欲」を排して「課題の分離」を為すには「嫌われる勇気」が必要。真理だと思っています。
愚慫
2016/07/27 23:03
・愚慫さん

僕は一言も『誰かに「足して」あげる』とは言ってませんよ。 (^^)
「足そう」と思ったこともありません。

「足しになるのかどうか」ということと、上のそれとは全然違うでしょう?

そういうところが違うんですよね。
アキラ
2016/07/27 23:04
連投すみません。

愚慫さんがそこまで言うなら、なぜに僕のブログの「ワンシーン」の記事に、わざわざ「開陳」を持ち込んできたのか、そこに矛盾が出てきます。
かなり饒舌でしたよ。
僕は言いませんでしたけれど、「承認欲求」だと感じました。
アキラ
2016/07/27 23:07
おはようございます。

ワタシが何故ブログを書いているのか、あらためて気づいたのは、「人間とは」が知りたいからかもしれません。
お二人の会話も疲れるけど、嫌ではありません。
もう上っ面のやりとりに嫌気がさしてきているし、薄っぺらな情報を深刻そうに語り合っている風にもため息しかでません。
上っ面のやりとりが日常なので、せめてブログでは、と今朝あらためて思いましました。
考え方が違うのも立ち位置がちがうのも、目指すものが違うのも、本音が聞きたかったのだとやっと気づきました。
だから、お二人には悪いですが、何か清々しい朝です。

永い勘違いが解けたのですから、よかったじゃないですか。
そのうえでどうするかは、個々の課題、笑。
アタシャ本音がきけたうえで尚、お二人をリスペクトしてますから、今後も絡ませてもらいますよ。
上っ面じゃない対話のできる唯一の場所だと、あらためて感じています。
毒多
2016/07/28 08:50
毒多さん、全然悪くないですよ。 (^^)
愚慫さんだから、ストレートに言っても受けとれると思ってるから僕はズケズケ言いますし、毒多さんにだって、思っていることはしっかり伝えます。

せっかく友人同士で話すのですから、上っ面だけ・・というのはバカバカしいことだと思います。
今後ともよろしくです♪
アキラ
2016/07/29 00:29
・アキラさん

承認欲求は当然あります。
僕だって社会的な欲求を抱える「ヒト」だから。

そうした自然な欲求を僕は否定しません。
「欲」というのはそうではない。僕の言葉で言えば、人間の都合」です。

僕は僕の言葉の「正しさ」を承認してもらいたいのではありません。僕が言葉を発することを承認してもらいたい。それを足しにするかどうかは、それを受ける人が決めればいい。

どんなものからでも人間は学びます。その者に学ぶ構えがさえあれば。足しにするとかしないとか、それは発話者の問題ではなく、受話者の問題です。だから、僕は言葉を発するときには自分のことしか考えない。自分の為に言葉を発する。伝わるときはそれで伝わる。それを指して、僕は「共感」といいます。

愚慫
2016/07/29 10:24
「共感」に作為は不要です。〈生きる〉ことそのものに教師が不要であるのと同じく。

僕は今、アキラさんのところで言葉を発することを承認されてはいませんよね? そうなるだろうと思っていましたけど。アキラさんは、僕の言葉を迷惑だと感じたのだから、その流れは必然でしょう。

それを必然と考える僕は、その裏に「欲」を見る。僕がアキラさんのところで発言するのは、アキラさんには都合が悪いのでしょうね。

ヒトは都合が悪いと「共感」を遮断することができてしまう。だからこそ、ヒトはハラスメントというものを受けてしまうことができる。感じる心を閉ざし、身体を動かなくしてしまう。

それは治療すれば良いというものではありません。そういうことはどうしても起ってしまうけれど、少しでもそういうことがなくなるようになってほしい。

そこに至るには、それそれが自身の〈生きる〉力に信頼を寄せること。自分を信じれば、それは自分にとって都合の良い形でしかないのかもしれないけれど、それでも他人を信じることが出来る。「共感」というものを通じて。

愚慫
2016/07/29 10:24
・愚慫さん

>僕は今、アキラさんのところで言葉を発することを承認されてはいませんよね?
<
いいえ、別にそういうことはないですよ?
発するか・発しないか、それを僕が受けとるか・受けとらないかは、ひとえに愚慫さん次第ですから。 (^^;)
どこかで「愚慫さんからのコメントは受けつけません」と僕が言いましたか?

もしかして「コメント拒否設定」している、という意味でしょうか?
それは一切ありません。
Tポポさんにすらしたことないですから。 (^_^;)

>それを足しにするかどうかは、それを受ける人が決めればいい。
<
>足しにするとかしないとか、それは発話者の問題ではなく、受話者の問題です。
<
その通りだと思います。
そこで僕は、「足しになるかのどうか」を発話者として練りたいわけです。
これは僕の趣味ですね。
「足しにする・しない」といった話は、僕は最初からしていません。
そこは愚慫さんの問題でしょうね。

つまりこれは「受けとってもらえるかどうか」を工夫したいわけです、僕としては。
なぜかというと、人様に見えるところに文章を出すということは、僕にとっては「贈り物」だからです。
アキラ
2016/07/29 16:11
(つづき)

例えば「おはよう」と相手にかける挨拶ひとつだって、どのように言えば 相手と通じることができるか、それを感じたり考えたりしますね。
優しく言うのか、元気よく言うのか、面白おかしい雰囲気で言うのか、ぶっきらぼうに言うのか、悲しそうに言うのか・・・・
僕が「足しになるかどうか」を練りたい・・というのは、そういうことです。
「受けとってもらえるかどうか」を工夫したいんです。
受けとるか・受けとらないかは、もちろん受け手の自由です。

どうも愚慫さんのは逐一ズレますね。
理解する気がないからでしょうか。
なんだろう、本当に「どうしちゃったの?」という感じです。

相手のことは考えず、「自分の為に」自分の言いたいようにだけ言って「伝わるときはそれで伝わる」。
そういう趣味があってもいいと、僕は思っています。
そこに「共感」が起こるかどうかは知りません。
「一人合点」にならなきゃいいけどなぁ・・とは思います。


>そういうことはどうしても起ってしまうけれど、少しでもそういうことがなくなるようになってほしい。
<
そうですよね、僕もそう思います。
そのためには、僕自身は、やっぱり発話者が出しかたというものを考えたいよな・・と思うわけです。
ま、僕の趣味ですけど。 (^^)
アキラ
2016/07/29 16:11
アキラさん、、、と

先に愚慫さんのコメが入ってしまいましたが、、、笑

と思っている間にアキラさんまで、、、爆

今回の対話でかなり深いところまで確認しあってしまいましたね。「生きる」の根源みたいな深さ。しかも見ている風景が違っていた。

ワタシは今回の対話で愚慫さんの思索がかなり解り納得しました(所詮アタマでですがぁ!!ふん!!ぷんぷん)。でも間違いなく愚慫さんの開陳がワタシには「足し」になっています。「足し」にしようと思う人は極限られた少数かもしれませんが、、ワタシは「足し」にしました。精神的にもかなりすっきりしました。

ここからの、「ストレート」「ズケズケ」軽くありません。かなり厳しくシンドいものになるかもしれません。覚悟がいりそうです。すれ違うことが多くなるのは目に見えてます。実はなにもかも違っていることが露呈したのだから。
「どうしちゃったの?」(変わっていしまったの?)ではないですね。今回は根源の違いがはっきりしただけだと思います。
こういうとき、どこまで戻れば確認し合えるのかなぁ、、、まあ愚慫さんには無理だな。戻るところまで含めて包括しちまっているわけだから、、、

なにはともあれワタシにとってはお二人とも友人です。
ゆったりとゆっくりといきましょうや^^

「共感」は、他者に強いるものではありませんよね。「共感」はオノレの裡で育てるものですね。
毒多
2016/07/29 16:45
・毒多さん

>間違いなく愚慫さんの開陳がワタシには「足し」になっています。
 ・・・精神的にもかなりすっきりしました。
<
よかったですね。 (^^)

毒多さんが「その後の展開」とか聞くから、話がややこしくなったんと違いますか? (^o^)

まあ僕は特に何かを問題にしてるわけではありませんので。
そもそもの言葉の話は終わってますし。
アキラ
2016/07/29 18:41
アキラさん、おはようございます。

>「その後の展開」で、、ややこしくなった
ですか、失礼しました。ペコリ。
深まったと思って興味深く読んでいました。orz

>そもそも言葉の話は「終って」ますし。
了解です。
毒多
2016/07/30 10:45
アキラさん

コメント拒否をしていないのですか?

何度かコメントをしようとして、何度も弾かれるので、そのように設定したと思っていましたが。

おかしいですね。なぜだろう。
愚慫
2016/07/31 07:49
コメントを拒否するなんて、アキラさんのスタイルだとは思えません。だけど、現象として起こったのは、「コメントは受け付けることができません」というメッセージの表示。一度ではありません。

こういうことがあると、イメージのゲシュタルト崩壊が起こって、強い【毒】が生まれる。これを消化するのはかなりシンドイ。正直、ちょっとまいってます。
愚慫
2016/07/31 07:58
おっとコメント機能の具体的なテクニカルな話だったんですね。
ご自由にここを使って解決してください。
毒多
2016/07/31 08:22
毒多さん、ありがとう。

アキラさん、それはそれとして、

発話者として出し方を考えたいということは否定しません。それは当然ありです。

順序の問題。それは構えの問題でもあります。独り合点を僕は厭いません。というより、そもそもから独り合点です。独り合点だからこそ、共感が生まれると僕は思う。

他者の独り合点に共鳴して、自分の中に独り合点が生まれる。これが共感だろうと思う。愉氣もそういうものではないかな、と思ったりもしています。重要なのは「合点」ではなく「共鳴」のほうではないのか。「共鳴」があれば、あとは身体が勝手に「合点」をしていく。

教育を施された私たちは、どうしても「合点(理解)」を求めます。「同感」というやつです。もちろん「同感」を拒否するわけではないのですが「同感への嗜好」が「共感」を阻んでいるのではないかと思っています。
愚慫
2016/07/31 08:35
毒多さん、ありがとうございます。

愚慫さん

大丈夫だったみたいですね、よかったです。
僕がそんなことするわけないじゃないですか。 (^_^;)
自分が作った【毒】は、うまく自分で解毒してください♪

愚慫さんには愚慫さんの、僕には僕の、毒多さんには毒多さんのやりようと考えようがあって、それでいいと思います。
「愚慫さんはそのように物を言う人だ」とこちらが分かっていれば、それでいいことですから。
あとは受け手の方の対応ですもんね。

愉氣に関しては、愚慫さんの言う共感とはちょっと違うと思います。
愉氣をする側に、そもそもの主張がないですから。
だから「だいじょうぶ♪」も感じられるのだと思っています。
アキラ
2016/07/31 08:57
今回のこれはわりと典型的な例なのかもしれないと思ったので、単なる感想として書いておきます。
何かを議論しようというつもりは まったくありませんので。

最近の愚慫さんは、「はずだ」という見なしが多いのが特徴的だと僕は感じていました。
「はずだ」という見なしを使って、その上に論を重ねていく。
まぁ それはそれでいいんだろうと思います。

「僕がそんなことするわけないじゃないですか」
というのは、≒
「僕がそんなことするはずがないじゃないですか」
ということですから、これだって見なしですよね。

なのに、その見なしが多い愚慫さんが、「アキラがそんなことするはずがないじゃないか」という見なしはしなかった。
出来なかった。
つまり僕からすると、それは、そう信じられなかった、ということです。

なぜだろう・・と思うわけです。個人的な興味として。
そして「一人合点」から、自分で【毒】を作って、それに自らヤラれてしまっていた。

僕が、『「一人合点」にならなきゃいいけどなぁ・・とは思う』と思うのは、そういうニュアンスのことです。
アキラ
2016/07/31 18:34
(つづき)

そのままに、「自分の為に」自分の言いたいようにだけ言って「伝わるときはそれで伝わる」なのだとすると、結果的には 何もないところに自分の【毒】を振りまくばかり・・になっちゃうような・・と思いました。

あと、身体にも【偏り】があるということは、重々承知をしておく必要があると思います。
大体ほとんどの場合に【偏り】があるんです、身体に。
自分では気がつけないような。
当然、僕を含めて。

それがそのままに「合点」していけば、結果はやれやれなものになるのは目に見えてます。

共感がうまく成り立つことを阻んでいるものの中には、そういう【偏り】もあると思います。
アキラ
2016/07/31 18:35
アキラさん

>「自分が作った【毒】は、うまく自分で解毒してください♪」

そうですよね、アキラさんにはこの言葉の重さがわからないんですよね。ここのところの感性が欠如している。繰り返しいいますが、それが健全なんですけどね。

鬱で頑張ることができない人に、がんばれと励ますのは良くないことだという理解は、もはや常識になっています。

他者に植え付けられた【毒】にもがいている人間にとって、アキラさんの言葉は鬱の人のがんばれと言っているようなもの。

鬱にがんばれということが常識になっても、いまだにそれに違和感を憶える人が後を断ちませんよね。鬱の感覚がわからない人には、なぜ励ましていいのかが腑に落ちない。

ハラスメントという言葉は一般的にはなってきましたが、それでも本当の意味での理解にはほど遠い。そのことが理解できていれば、「自分が作った【毒】」なんて言葉はでてきません。
愚慫
2016/08/02 15:59
ブログへのコメントが弾かれてしまった。それが一度ではなく、日にちをおいても同様の現象が起きる。

「目を疑う」という言葉がありますが、そういう類いのことです。だが、自分の目は疑うことができない。

原因がある。考えられるのは2つ。ブログ管理者がそのように意図したか、機械的なエラーか。これは、コメント投稿者からは見えない。

こうした場合、後者だと思い為すのが人類学的にも合理的です。それが素直に出来れば【毒】も生まれない。

ところが「呪い」のかかっている人間は、そのように心身が動かない。アタマでは合理的だと理解しても、動かない。動けなくしているのが他者から植え付けられた【毒】であり【怨】であるし、これがあるかぎり、アタマで合理的に考えて前者であるかのように振る舞っても、それはルサンチマンにしかならない。

状況に即して述べましたが、これが僕が抱える「事情」です。

そうした「事情」に応えるには、独り合点でしかありえない。【毒】が作用すると、他者からどのように手をさしのべられようとも、心身が上手く感応しないから。

【毒】に愉氣は効きません。少なくとも僕には効かなかった。身体に効くことはよくわかったけど、だからなお、【毒】には効かないことがよくわかる。なので、行氣するしかない。

僕がいま、このコメントを打ち込みながらやっているのも行氣です。

もちろん行氣は比喩です。そうであっても、妙な行氣ですけどね。他者の問いかけに行氣でもって応えるなんて。行氣を為す機縁に導かれて、行氣をしています。

この機縁をつかみ取る能力を、共感となんでしょうね。
愚慫
2016/08/02 16:16
>そうした「事情」に応えるには、独り合点でしかありえない。
<
僕もそう思いました。
愚慫さんは、愚慫さんの在りかたでそのようないき方にしたのだな、と。

僕が愚慫さんに「自分が作った【毒】は、うまく自分で解毒してください♪」と言うのは、愚慫さんがもっとも(らしい)ことを言うからです。

ならば、甘えずに、自分の【毒】にしっかり自分で向き合うべきでしょう。
「(他人の)感覚が欠如している」とかいう物言いで、ごまかすべきではありません。
もっとも(らしい)ことを言うならば。

それは愚慫さんが言うように、ほかの人にどうこう出来る話ではありません。
その人自身がその人自身で どうにかしていくほかないことです。

それについて、よそからつっつかれてほしくなければ、静かにしているほかありません。
が、愚慫さんにはそれは出来ないでしょう。
だからこそ、自分自身でどうにかしていくほかないのではないですか?

>他者からどのように手をさしのべられようとも、心身が上手く感応しないから。
<
仰るとおりです。
まったくその通り、だと思います。
僕にそれを振る必要はありません。
アキラ
2016/08/03 01:01
あ、そういえば、ここはワタシの庭だった、笑
さてさて、どうしたもんだろう。
とりあえず地雷でも踏み入ってみるかww

二人のだけの問題であれば、公開しないで話す手段があることは知っている。
まあ、成り行きでここで話されたということもあるだろうが、第三者への問い(ジャッジでなく)特に庭主および数少ない来訪者へのメッセージということも含むと考える。
その後、非公開で対話されているかもしれないが、知るよしもなく、他者へのプレゼンは必要ない、というものだろうから、なにもいえねぇ。

で、ここでのテキスト、これまでのテクストだけ。
とはいえ、言葉が上等すぎて分かり難いな。

どうやらアキラさんは、上から目線で「甘え」んじゃねぇよ。と言っているようだ。教えをこうなら、そのような物言いがあるんじゃないですか? 
それぞれの生き方があるんだから、他者を例題(批判)にしてそれを確認するんじゃなくて、黙って自分の道を全うしたまえ、・・・いつになく厳しいな。
毒多
2016/08/04 09:49
愚慫さんにしてみれば、それも含めて「共感」「同感」「共鳴」が異なったり、成り立ったりする流れを自分の様相もふくめて思索している。鬱の例をだしたのは失敗したかもしれないが、いや、助けをこうつもりなんて毛頭なく、【毒】についての考察を織り入れただけなのに、これまでは「信頼」でもって、その辺りは都度説明しなくても、前提省略で対話できたはずなのに、長いあいだそのつもりで公開対話してきたのではなかったのか・・・僕に振るんじゃない、なんて、冷たいこと言うなよ。
(愉氣やら行氣はまったく解らないので書かない)

どちらが悪いとか、どちらが正しい、という問題ではないな。
「信頼」と「甘え」は紙一重。立場の違いで変わってくる。立場だけじゃなくて、体調や気のあり方、へたしたら天気や環境でも変わってくる。だって人間だもの。とはいえ、根底お二人の「信頼」からの会話であることはワタシにも解るのだけどね。
まあ、ワタシも含めて、お二人の根本の違いが確認できたのはよかった。
ネットで公開する「思い」も、それぞれなんだろう、ことも今更確認できた。
毒多
2016/08/04 09:50
アキラさんは、そのようなお付き合いということだから、確認し方針まできめちゃったみたいだけど、愚慫さんは確認してどういう方向でいくんだろうね。
アタシは自覚(ひとり合点)をネット上で確認しながら、アンタはどう思う、という愚慫さんスタイルは好きな上(ワタシもその傾向)に、思考の方向が似ている(愚慫さんにしてみればオマエみたいな低レベルじゃないんだよ、と思うかもしれないが、、(笑))ので楽しいんだけどさ。

ま、差異が確認でき受け入れれば、お互いに刺激も享受もできるんじゃないの・・・よかったではないか、、、、と、二人に上から目線で言ってみる。こりゃ楽しいね。

とりあえず、ワタシはお二人のように、深く根付いた何かがあるわけじゃないんだなぁ、ということも確認したんだけのね、ふんっ、だ orz、笑
毒多
2016/08/04 09:50

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