毒多の戯れ言

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zoom RSS 「言ってはいけない」(橘玲/新潮新書)読み始める・・・

<<   作成日時 : 2016/07/19 08:59   >>

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タイトルで「言ってはいけない」と言っている。
帯にも「気安く口外しないでください」と警告されている。
まだ読み始めたばかりで、いかほどのものか解らない。
ただ、ちょっと、こう、なんというか、何かを感じたので、書いてみる。
おそらく言ってはいけないというのは書いてもいけないのだろう、が、たぶんワタシの社会を唾棄している因子が、別にいいんじゃない、と呟いているのだろう。

この本の最初では、「知性」について書かれている。
「知性」は遺伝である。と。
生まれながらにして(遺伝によって)「知性」は決定づけられていて、後天的な努力では埋められない差がある。
実は皆がウスウス感じ知っているのだけど、「言ってはいけない」のである。
同じ生まれつきでも「リズム感」「身体能力」については許容され、受け入れられる。
洒落ですみ、笑い話ですむ。
「リズム感」「身体能力」が生まれつき(遺伝、自然な)の違いがあるように、「知性」についてあるのも当然だろう。
では、なぜ「リズム感」「身体能力」については許容され、「知性」については言ってはいけないのか。
知性が社会のベースだから。
社会のベースは「知性」であり、そこに「生まれながら」差があるということを認めると社会のベースが崩れるからだと言う。
ベースである「知性」については皆が同じであり、スタートは同じでなければならない。
実際に差がでるのは「環境」の違いだとする。
同じ環境で同じチャンスを与えられれば、誰にでも同様に「知性」が育つ。
だから貧富の差や環境の差によっての差をなくし、均等の機会があたえられるような社会にしなければならないのだ。
リベラルである。
均等なチャンスであれば、あとは努力次第でだれでも(社会的)成功することができる。
と、いう物語でなりたつ社会である。
「知性」ベースで成功する社会である。
最近いわれる金持ちの子どもが金の力で高学歴から成功を得るのではない。
もともと「知性」の高低で成功(金を得るか得られないか)が決まる社会のなかで、金を得る高さがある「知性」を持つ親の子ども(遺伝/自然)だから生まれながらにして「知性」が高いのである。

長身が遺伝と同様にデブも遺伝である。
デブは本人の甘えと社会によって批判される。
デブ攻撃は「言ってもいい」

犯罪を犯す(暴力性向のある)因子も遺伝(自然)である。(詳細略・著書にデータとともに紹介されています)
これは「言ってはいけない」
(イギリスには犯罪をする以前に因子をもつ人間について軟禁治療する法律もあるらしい。リベラルでなくても人権侵害だと感じる)

子どもを殺す因子も遺伝(自然)である。(詳細略・著書に具体例)
これは「言ってはいけない」
(以前のごん氏との中絶に関する対話も再度考えなければならないのか・・・!?)

レイプも不倫も遺伝(自然)である。以下略。

反社会的な行為をリベラルなワタシは社会の歪から「毒」がはかれ、「呪い」がかけられることによって生じる行為と漠然と思っていた。

人間は「自然的生物」であり、「社会的な生物」である。
ただ、これは平行して在るわけではなく、大きく「自然的生物」という背景のなかで、「社会的」を組み立てている。
「社会的」は「自然的生物」の部分を100%受け入れることができない。
「みなが違っていてみんないい」なんて、社会内で許容される範囲においてのみである。
許容されない殺人、レイプ、不倫を「みんないい」という反社会的が許容されるわけがない。
社会が成立しないからである。
たとえそれが自然の流れであっても、社会性がないからである。
だから「社会」は、社会を構成するのに不都合な人間の「自然」についてを規制する。

暗黙の「言ってはいけない」現実ももちろん100%ではない。
著作の科学的データの具体的な数字も高い確率としての紹介であって100%ではない。
環境が要因のことも多々あるだろうが、そちらも100%ではない。

そして単一因子で語れるものでもないのは、
ブログ近隣にも「知性」は高くとも、社会的な成功を望まない反社会者もいるという事実である。

さてワタシはなんだろう。ワタシのなかにある反社会的因子は感じるのだが、、、

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コメント(46件)

内 容 ニックネーム/日時
たとえば「少年A」の遺伝因子の犯罪(=反社会的「自然」行動)の可能性。
「少年A」としては「自然の流れ(遺伝子)」にそった行動だった。
人間の生物としての「自然の流れ」は、「社会」では収まりきらない可能性。
そこを無視、タブー視、もしくは無理矢理、別の理由(環境、教育、時代)をつけることで、永遠に社会的平和などありえない可能性。
・・・身も蓋もないが、現実かもしれない可能性
一旦これまでのことを棚上げして、考えなおさなければならないのか?
毒多
2016/07/19 14:22
知性が社会のベースだなんて、知性が足りていないのでは? と思います。

社会の先進性や攻撃性のベースが知性であるというのであれば納得しますが、社会のそのもののベースを知性とするのは、違うでしょう。

もっとも、知性をどのように定義しているのか、という問題が先にありますけど。高い言語操作能力といった類いなら、そんなものが社会のベースではないと断言します。

エリート主義者の宮台さんあたりでも、そういうのではないでしょうか?

社会のベースは共感性です。
共感性はヒトが社会を構築しようとする意志そのもので、知性とは関係がありません。共感性がないと「共同体感覚」を持ち得ない。

共感性が病的に欠如した人間を「サイコパス」と言いますが、彼らはおしなべて知性が高いことが知られています。この事実を知っていて、かつ、まともな知性を持っているなら、社会のベースが知性だなどいう推論をしないと思うのですが。
愚慫
2016/07/19 14:26
>「みなが違っていてみんないい」なんて、社会内で許容される範囲においてのみである。
<
なんですよね〜。 (^_^;)

いわゆるナチュラル派は、僕は好きではありません。
(^_^;)
アキラ
2016/07/19 20:03
愚慫さん、おはようございます。

まだ最後も読んでなくて読み返すのもつらいので、現時点でのイメージで誤読もあるかもしれませんが、この著者がいう「知性」は「IQ」のことです。
また「ベース」という言葉に齟齬があるかもしれません。
社会としての人と人の繋がりの「ベース」(根本)が「知性」と言っているのではなく、社会の運営・システム・ルール等、また階級や収入が「知性・IQ」がベースで決まってくる、と言っていると読解しました。(音感の高い者や身体能力が優れた者が社会のデザインをするというふうにはできてない。やはりIQがベースex学力試験、入社試験、資格試験、要領、)
砕けて言えば、頭がいいやつが高学歴となり、官僚となり政治家をつかい、好きなような社会設計をする。か、頭がいいやつが高学歴となり、金持ちなり、指示者なりになる。という意味での「知性」がベースと書かれています。(だから、スタート時点では「知性」については、みなが一緒でなければならないが、実は違う)
毒多
2016/07/20 09:18
こうした考えが「知性」的ではない、ということに「ワタシ」は同意しますが、現実の社会人はどうなんでしょう。こうしたイメージを持つ人が多いような気もします。
とはいえ、「知性」をもつ人の全てが上のシステムにのっかるわけではない。のは愚慫さんがよくご存知だと思います。
この本でも統計調査(進化心理学など)をもとに話がすすめられますが、100%に近い数字はほとんどありません。アベレージ、傾向、というものです。本のなかでベル曲線という言葉がでてきます。グラフでベル型のセンターが一番高いベル状で裾がやや広がっている曲線。このX軸に垂直に2本の線をひき社会の範疇を決める。おそらく前提では社会とはベルの裾の広がった外に線を引くことになっている。全ての人間が社会の範疇のなかにいるという前提。現実は裾のが2本の垂直線の外にはみだす。そのはみ出しすのは「遺伝(=自然)」による人間である。
毒多
2016/07/20 09:18
>「病的」に欠如した「サイコパス」
この「病的」という表現は社会の範疇を前提の表現で、自然からみれば自然なんですよね。「知性」に乏しいワタシは、今ごろ、ここに気づいた自分に驚いているところです。
さらに最近感じているのは、ワタシは「共感性」が欠如しているのではないか?という疑惑。だから反社会的だと感じているのではないか?
「IQ」は数値化できますが、「共感性」を数値化することはできるのでしょうか? もしできるとするとワタシの数値はアベレージより低そうです。(もっとも社会の範疇のなかにはあるでしょうが)。そも共感性は環境によるものでしょうか?また努力で高まるものでしょうか?努力で高まる共感性というは何やらおかしな気もします。社会的に共感性が低いのも遺伝(=自然)なワタシかもしない、と、本を読みながら考えています。(ちっぽけな社会ですが、過去やったFBやnoteでも共感できるものが極端に少ない。べつに悩みではないのですが、笑)

一人の人間にも、いろいろな因子のいろいろなベクトルがあります。
単純に一つの因子のひとつのベル曲線にたいする2本の垂直な線による範疇ではないでしょう。続読します。
毒多
2016/07/20 09:18
アキラさん、おはようございます。

実はここのとこ貧知性なりに、「自然の流れ」「人間の都合」・・・「社会」の都合、、、を(表現の違いはおいといて、笑)考えています。
この本にはたまたま出会ったのですが、、、
社会の中で犯罪とされていること、道徳的、倫理的でないと言われているこも、自然の流れ(ex遺伝)のなかでは自然である、、ことが一程の割合(少数でない)でいるということを気づかないふりをしていたのではないか、という自らに対する疑惑をもちました。
「気付かないふりをさせている」ことが社会の都合かもしれないと。それが人間の都合と同じであるかどうかは、まだ考えていませんが、テヘペロ。
毒多
2016/07/20 09:19
毒多さん、おはようございます。

(以後の対話を前提で)否定的な言い方をしましたが、著者の橘玲さんは、良心的かつ知性的な型だと思います。が、「知性が足らない」と感じたのも嘘というわけではありません。

知性にせよ、理性せよ、最善の形は「自省」になります。「言ってはいけない」こと、つまり「盲点」ですが、そこを理解するのは知性、盲点を「盲点だ」と指摘するに“留める”のは理性です。それがないと「盲点だ、ケシカラン!」という、いわゆるサヨク的な、感情の劣化を促す知性の発露になってしまう。

だけど、それが最善でないと感じるのは、「なぜ盲点を盲点だと言ってはいけないのか?」という疑問へと至っていないこと。この疑問がなければ、「なぜ盲点は生じたのか?」という問いもまた生まれないこと。

>こうした考えが「知性」的ではない、ということに「ワタシ」は同意しますが、現実の社会人はどうなんでしょう。こうしたイメージを持つ人が多いような気もします。

「社会的地位のベース」を「社会のベース」と言ってしまうという時点で、現実的なイメージを著者は受け入れているだろう、と僕は(とりあえずは)判断しました。

言葉をはじめから「社会的地位のベース」とすれば、知性が格差を生じせしめるという事実は、「言ってはならないこと」とにはなりません。「言わなければならない」ことです。
愚慫
2016/07/20 10:12
難しいのは、動物としてのヒト(「自然の流れ」)の時点で、ヒトは群れを作って生活する習性がある、ということだと思います。

この「群れ」レベルのものと、いわゆる「社会」レベルのものを、どのへんからどう区別するのか。
そこをまずしっかり考えないと、ちょっとおかしなことになってきそうです。

このへんは愚慫さんの方が、よく考えられていると思うんですよ。
「ヒト」の都合・「人間」の都合・「社会」の都合、、として考えていくのは、そういうことにすごく役立ちそうです。
(愚慫さん、向こうで提案しましたが、この表記ならオッケーですよ。 (^o^) )

けど、いつも文章が難解なので、もうちょっと分かりやすく書いてくれるといいんですけどね。 (^_^;)

「群れ」の段階でも、毒多さんが言うように、群れる習性にあまりそぐわないような個体は、生物学的な「エラー」を含め、一定程度の割合で出てくると思うんですよね。
それは確かに自然なことですが、ただ その場合、やっぱり群れが崩壊しかねない振る舞いは 許されないと思うんです。

で、追放とか、村八分的なことになって(あるいは処刑されるかもしれない)、独りで生きていくか、あるいは群れの周辺で 何とか暮らしていくとか、結局そういうふうにはなるんじゃないかと思います。

(愚慫さんから紹介された『NHKスペシャル ヒューマン』では、実際にそういうことが行なわれていたらしいことが紹介されていましたね)
アキラ
2016/07/20 10:26
(承前)

あ、「言わなければならないこと」は、サヨク的な言い方で、ということではありません。「自省」という形で問いかけるという形式ですね。

>そも共感性は環境によるものでしょうか?

毒多さんの共感力は低くないと思っています。noteに上げておられる写真などを拝見してながら、そう感じます。ただ「閉じた感」があるのも正直な印象ではあります。

共感力が努力で高まるか? 僕の答えはイエスです。ただし、その人が個性として持っている潜在的共感力の範囲内でしょうが。

しかし、そもそも潜在能力を完全に引き出すことが難しい。ほとんどの人はそれができない。多くの人が潜在能力を100パーセントとは行かないでも十分に引き出すことができさえすれば、共感性の無さといったことが問題になることはほとんどあるまいと思っています。病的なヒトを除いては。

「生きづらさ」とは「共感性の阻害」「(ヒトの本来的な)社会性の阻害」でしょう。

何度も繰り返し述べていますが、【阻害】の原因は、「ヒト」にあるのではく【社会】にあります。もちろん【社会】を作っているのは「人間(ヒト)」ですから、突き詰めれば「ヒト」に原因があることには違いない。だけど、そこには「事情」があります。「事情」を取り違えて「都合」にしてしまうから【社会】になってしまう。

「事情」を「事情」として理解すれば、それを解決しようとする人間的力学(?)が自然に働きますよね。知性・理性はそのように発露するように、そもそも自然にできているはずです。そういう“事情だから仕方がない”と知性・理性の働きを止めてしまうと、「事情」は「都合」になってしまいます。そして、「都合の悪いこと」は「言ってはならないこと」になる。「事情」ならば「言わなければならないこと」なのに。
愚慫
2016/07/20 10:31
・アキラさん

こちらではなんなのですが、、、ご指摘の件をそちらのコメントしようとしたのですが、なぜかコメントを受け付けてもらえませんでした。

正直申し上げて、「あの後」、しばらくはアキラさんのところを伺う気分になれなくて...。また、改めてコメントさせてもらいます。


>ただ その場合、やっぱり群れが崩壊しかねない振る舞いは 許されないと思うんです。

僕もそう考えます。そのように考えていく思考の先に「ヒトの都合」「人間の都合」「社会の都合」という“言い分け”が生まれてくる――という「言い訳」はここではやめにしておきますが。

群れを崩壊させる個体を排除しなければ、群れは崩壊するという「事情」であるなら、それは致し方のないことです。残酷な世界の中で、そうでなければ生き残れないのであれば、それ以外に選択肢はありません。

たとえその個体が泣声を抑えることができない赤子であったとしても、その声が敵に察知されれば群れが全滅するのであれば、その子が「死んでしまっても致し方」がないとしか言いようがありません。

これは「事情」です。しかし、「街が戦場になったら(敵に発見されるから)赤子は殺せ」と言えば、その理由は同じであっても「都合」ですよね。

サイコパスの存在にしても、同じことです。それが自然である以上、そういう個体が出現することは避けられない。その「事情」を理解して解決しようとするのか、「都合」に合わせて処理しようとするのか。この違いは決定的に大きい。

後者のような社会では、宮台さんが声を大にして指摘されているように「感情の劣化」が著しい。「感情の劣化」は「事情への理解」を阻害する。「事情」を理解しようと知性・理性を駆動する共感力(人情)を、劣化した感情が阻害するのですね。
愚慫
2016/07/20 10:50
本の著者の名誉のため、先にコメントしておきます。
不安になり、ざっくりぱらぱらと本の前の方のページを流してみたのですが、ワタシの記憶が言葉の置き換えをしていたようです。

本のなかでは「知性」ではなく「知能」

また「知性がベース」はワタシの造語の可能性が高い。

なので、愚慫さんの批判(ご意見)はそのままワタシへの批判(ご意見)として謹んで受けたまわります。(失礼しました)
意図的な記憶違いはしないので、ワタシのなかで置き換えられたと考えています。もしかしたらワタシのどこかで「知性がベース」という考えを自覚なしに「許容」している現れかもしれない。
ただ、著者のもつ社会のイメージはそれほど大きく外していない、とは思います。だから「社会的地位のベース」。

「社会的地位のベース」として「他者に言ったうえでのあなたの立場は知りませんよ」という意味での「言ってはいけない」といいながら、著書にて「言っている」わけですから「言わねばならぬ」を自覚しているのかもしれませんね。愚慫さんのいう「自省」を促して入る可能性もあります。
毒多
2016/07/20 13:47
「社会的地位のベース」として「他者に言ったうえでのあなたの立場は知りませんよ」という意味での「言ってはいけない」といいながら、著書にて「言っている」わけですから「言わねばならぬ」を自覚しているのかもしれませんね。愚慫さんのいう「自省」を促して入る可能性もあります。

人が能力のうちの一部しか引き出せていないのはそうでしょう。おそらく100%引き出せてしまっては、何かが壊れるような気もします。
共感力が人間に備わっているというのも同意します。ただ共感力そのものを高めようとすることには無理があるでしょうし、やはりおそらく環境次第で自然に高まりもするし、阻害され低まることもある。ということは、阻害されない環境(社会)を目指すということになるでしょうね。そこも同意。
ただね、共感力にかんしても0から100のベル曲線のような気もするんですよね。

共感力が0(もしくは社会の線引から外れるベル曲線の裾)のサイコパスは、どうしましょう。
群れの存続に危機をもたらすとしたら、、、

この本では、犯罪因子をもった人間を犯罪をおかす以前に治療するという例がでてきます。映画でも時計仕掛けのオレンジだとか、カッコーの巣の上でなど、ロボトミーがこの例でしょうか。
こうした方法が、事情を理解したうえでの解決策になるのか、なにかひっかかるところもあるのですが・・・。

(社会視点からすると)「エラー」を出すのも自然の流れ、種の存続に必要な自然の摂理とだとすると、、、、ふぅ
毒多
2016/07/20 13:48
自覚があるかどうかは、著作を読んでみてみないとわかりません。ご紹介の本は近いうちに読んでみます。「足りない」といった手前、責任を感じています。(^_^;)

>「エラー」を出すのも自然の流れ、

――ではありますが、そこは種の存続には基本、反するところでしょうね。なので、人類が他種との生存競争を現在ほど有利に進めていなかった時代では、「エラー」の排除はやむを得ない事情だといえるかもしれません。

ですけど、現在は違うではないですか。人類社会存続リスクの最たるものは、微生物やウィルス、あるいは恐竜絶滅に至らしめたような環境の激変など考えられますが、何より人類それ自身でしょう。地球の生体中で圧倒的優位な地位にあるのが今の人類です。

だとすれば、「エラー」といえど、存続を脅かすようなリスクにはならない。社会の運営方法によってはいくらでもカバーできるだろうし、現にしてきただろうと思います。

このことは犯罪因子の存在確率と発現率を比較すれば科学的に推測可能だろうと思いますけど、そうした記述はないのでしょうか。

愚慫
2016/07/20 14:27
「犯罪を犯す前の治療」というのは、「社会の都合」だろうと思いますよ。

赤子は泣くので敵に発見されやすく、敗戦の要因になるので「適切」に処置すべき――と言うのが「都合」であるように。
愚慫
2016/07/20 14:30
いやいや、ワタシの紹介の仕方がまずかったので「足りない」と言わせたわけで、責任はワタシにありますorz

反社会性パーソナリティ障害の基準率などに関する数字は書かれていたと記憶していますが、犯罪と発汗しない人間の関連とか、犯罪にはしるものの脳内分泌の量がどうのとか、生まれながらの身体特長と障害がある率についてのデータ、事例紹介でした。

それにしてもこの本、はたして愚慫さんが読んで興味をひくかどうかは保証できませんよ。どうも最近の愚慫さんは知性がぶっとびすぎていて、難解になっていますからねぇ。マイナスのベクトルの「エラー」で社会の範疇から外れることばかりを話題にしていますが、プラスのベクトルの「エラー」でいっちゃっている人もいますからね、ゴーダマとかイエスとか・・・、愚慫さんもお気をつけあれ♡
毒多
2016/07/20 16:27
毒多さん

すみません、一度だけ私信にここを使わせてください。 m(_ _)m

・愚慫さん

反則なのは重々承知なのですが、あんまり寄りかかられたままというのは僕は好きでないので。

ここへのコメントで、愚慫さんがどういうつもりでいるか分かりました。
僕の方の「事情」は汲んでもらえないということですね。
あるいは、「そんなにイヤなら、自分の方が別の言い方に代えればいいじゃないか」ということですよね。
そのように了解します。
今後は、それを踏まえた上で愚慫さんには対応させてもらいます。 (^_^;)
残念ですけどね。

毒多さん、ごめんね。 (^_^;)
アキラ
2016/07/20 23:22
アキラさん、おはようございます。

件の私信を書くのは構いません。むしろ歓迎です。
なぜなら、ワタシにも書いてもいいよ、という許可がおりと勝手に判断できるからです。
光るナスのコメ欄はワタシにとっては結構興味深いやりとりでした。
今回たまたま平積みされていた本をパラパラめくり買ってしまったのも、アキラさんとこのコメ欄の余韻が残っていたからだと思っています。

印象としては、二人共頑固だなぁ〜、羨ましい、と言ったとこでしょうか(笑)
譲れないのは表現(言葉)の「違い」とか「混同」とかではないからかなぁ。
問題は言葉の奥にある根本のようなきがするんですね。

以下ひとりごと、、です。

全ての事象は「自然の流れ」(神のツゴウ)といっては、それで終ってしまう。
全ての事象は、人間の理解と表現の範疇によってしか行われないので人間のツゴウといえる。
人間の合理的なツゴウさえ背く事態がある、それはあらたに生み出される社会のツゴウではないのか。
社会のツゴウといえども、それを行うのは人間であるので、人間のツゴウと言ってもいいのではないか。
そも社会とは各地の人間集団、各思いの人間の集合で創りだされた、個別のこと。
個別社会のツゴウがぶつかるときに生まれるツゴウが、人間の合理性に反する。
社会でなくとも、個別人間のツゴウで相容れないこともしょっちゅうあります、ね。
個別のツゴウを都合にするのか事情にするのかも、個別人間によって分かれてしまう。
共感性でそこが埋めれるものか、否か。
ワタシは共感性が低いので、結構いろいろなことが埋まらずにいますが、、、

ひとりごと、さえ煮詰まってしまう。このあたりが貧知性なんだろうね。orz
毒多
2016/07/21 09:23
毒多さん、ありがとうございます。

ま、難しい話ではなくて、折り合いがつくかどうか・・というだけの話なんだと思いますよ。 (^o^)
僕は彼を(真剣に)試しているので、愚慫さんが(向こうに)コメントする気がなかなか起きないのは、その通りだろうと思います。

つかないなら、つかない状況をもろもろ踏まえた上で、可能な対応をすればいいだけだと思いますしね。
アキラ
2016/07/21 11:26
アキラさん、いろいろありますが^^

お二人の対話のなかにワタシが入るのもなんなんで、ここまでにしますし、愚慫さんの代弁もするつもりもなく、アキラさんの言い分も解るのですが、せっかくなので、もう少し書かせてください。

ワタシにも周囲の皆が「折り合い」でいいと判断しているなかで、言葉ひとつであっても引けない、、、むしろ「言葉」であるから引けないときがあります。ワタシのなかではそこを言い換えてはワタシではなくなる、という、ある意味独我的ではあるのですが、そんな感覚に取り憑かれることがあります。これはワタシの事象で愚慫さんに当てはまるかは解りませんので、またまたひとりごとです。(アキラさんに「事情」を返上したら、と言っているわけではありません)

ワタシが自分を共感力が低いと判断するのは、こうしたコダワリを自覚しているからかもしれません。

それとね、>僕が彼を「試して」いる、、、というセンテンス(言葉)は、ワタシの知らない何かがあったのかもしれませんが、あまりいいイメージをもてませんでした。(ここのコメ欄で出されたので、あえて書いてみました。)

毒多
2016/07/21 15:40
・毒多さん

ごんさんにも「飲み込め」と言われてしまいましたしね。 (^^;)

以前の「中心」話のときもでしたが、僕の側の感触からすると 相当いやがらせされてる感はあるわけで、ある種の腹立たしさがあるんです。
ですから、彼が日ごろ言っているようなことが さてどれほどのものなのか、それはこちらも試させてもらいましたよ。 (^_^;)

足踏まれててもニコニコしてるようなお人好しではないので。 (^^;)
でも、もういいです。

ごめんなさいね、やっぱりこんなやりとりになっちゃいました。
もうこれきりにします。m(__)m
アキラ
2016/07/21 17:10
しばらく考えていました。
ずっと何かを見落としていたような感覚はあったので。

考える手がかりになったのは「事情」という言葉です。先の毒多さんへのコメントで、ふとこの言葉が浮かんだ。「都合」の対義語として具合がいい言葉です。なぜもっと速くこの言葉が浮かばなかったのだろうと思いました。が、残念なことに、言葉はそんなに都合のよいものではない。あちらからやってきてくれるのを待つしかありません。

「待つ」ことが「考えること」です。

「事情」という言葉を用いれば、アキラさんのところでの展開はもう少し違ったものになっていたかもしれません。だけど、だとしても、問題の焦点はそんなところにあるのではない。

アキラさんは、自身の言葉使いを「事情」だと言いました。正直申し上げますけど、僕はずっと「都合」だと思っていましたよ。他人に言葉に鑑賞するだなんて、都合の良いことを言っている、と思っていました。だから、守るべきは「都合」なんだろうという推測になってしまいました。

このことは、この場を借りてお詫びしておきます。申し訳ありませんでした。

あ、毒多さんにもお詫びします。事後になりましたけど、申し訳ありません。
愚慫
2016/07/21 22:29
アキラさんがそうであるように、僕の言葉の用法もまた「事情」です。そのことは申し上げたつもりです。

申し上げたつもり。ここに罠があったように思います。僕のほうは「事情」なのだから察してくれるだろうし、察してくれないのならそれは「都合」に違いない――。

自分が「事情」なら相手は「都合」に違いないというのは、思い上がった見下しでしょう。自分に「事情」があるなら、相手にも「事情」があるはずだ考えてもよいはずなのに、そうはならなかった。

なぜか、ということはここでおいておきます。この理由の探求は「人間の都合」というワードを用いての思索にかかってくることですが、ここで披露するのは「愚慫の都合」でしかないでしょうから。


ただ、これだけは申し上げておかなければなりません。

他人から眺めてみれば、おそらくはバカバカしい諍いだろうと思います。だけど、他人からどのように見えようが、バカバカしいことではない。微妙なことですが、微妙なことだからこそ譲れないところがある。そこのところを譲ってしまうと、これまで組み上げてきた思索や言語感覚に大きな影響が出てしまう。

またもや例え話ですが、複雑系というのがそういうものなんです。現象をモデリングしてコンピュータでシミュレーションにかける。モデリングが精密なほどわずかなデータの誤差でシミュレーションの結果が大きく異なる。粗いモデリングでは想像ができないような出力差になってしまうといいます。

この「出力差」は、僕にとっては深刻な「事情」です。
アキラさんにとってもそうなんでしょう。

だとすると、お互い「そんなところまで来た」ということなんだろうと思います。
愚慫
2016/07/21 22:53
「そんなところまで来た」という解釈が正しいかどうかはわかりません。自身のブログのコメント欄で言及しましたが、そんなことを考えてしまうのは「魔境」に入ってしまったからなのかもしれない。もしくは、それ自体が思い上がりなのかもしれない。それはわかりません。

わからないけど、自身の感じるところへ従って進むしかありません。誰からなんと思われようと、そうした「事情」があるということ。なので、自分の振る舞いを弁解するつもりはありません。

といって、開き直りたくもない。学習の糧にできたら良いと思っています。
愚慫
2016/07/21 23:05
アキラさん、おはようございます。

残念ながら、「もういいです、、これきりにします」で終わりませんよ。何故なら、ここはワタシのブログだからね。ここに書いたのが運の尽き、笑。
もっとも、アキラさんの事情でもうこれっきりにします、というならそれは尊重します。ので、そうでしたらワタシが勝手に書いているなぁ、とスルーしてください。

>いやがらせされて、、、腹立たしい

そうだんったんですね。これなら解るんです。なんといってもワタシは10年にもわたりそうした思いでいますから。この際アキラさんの怒りに便乗して言いたいだけ言ってやろうと思っていましたが、先にコメントされたので、約108行分の怒りを省略します。

アキラさんがあまりに「大人な態度」でしたし、アキラさんは冷静であるという思い込みから、怒るはずがない、と勝手に思い込んでいました。だから、「試す」にも違和感をもった。勝手にアキラ像を創っていました。申し訳ない。
毒多
2016/07/22 05:49
それにしても、吐き出し放題のごんさんが「飲み込め」とは、、笑。
ワタシはそんなことは言いませんよ。この際、徹底的に怒りを怒りとしてぶち上げてはどうでしょう、と言いたいのですが、もういいや、なんでしょうね。であれば了解。

ところで、怒りをぶちまける、けっこうデトックスかなぁ、でも他者にとっては「貯める」もとになるのか、、、、身体中の毒をだすことで解毒はされるが、外にでた毒が他者に触れれば、その他者は毒に犯されることになるのか?

そもそも「怒り」というのは「自然の流れ」なんだろうなぁ、と思うんです。「怒り」が心身に生じる自然なのか、「怒り」によって吐き出す(デトックス)ことが自然なのかは解りませんが、いずれにしろ自然の流れ。それを抑える(飲み込む)のは、「社会」の都合。各社会人が「怒り」というデトックスを自然の流れのまかせていたら、社会運営に支障をきたす。だから「大人になり」「飲み込んだ」ほうがいいと言わせる。
飲み込ませるシステムをつくる。飲み込み、貯めこんだ怒りによって個人の事情が悪化する。その集合体である社会は当然歪む。
「怒り」という自然だけでなく、「社会」の都合により規制される。
システムに飲み込まれていく。

と、こんなことを考えてしまいました。
毒多
2016/07/22 05:50
・愚慫さん

僕には「都合」と「事情」の違いはよく分からないので、向こうにも書いたように、僕の都合でお願いしていたことです。

僕からすれば、『「人間の都合」というワードには、僕なりの時間の積み重なりも思い入れもある』というのは、僕の都合です。
「事情」というわけでもない。
(何せ両者の違いがよく分かりませんから。
  説明は要りません。 (^_^;) )

まぁ 愚慫さんが上で言っているようなことだと思います。

「都合」「事情」に関わらず、それを一貫して汲んではもらえなかったわけですから、僕にとってはそこが一番ポイントなんです。
よしんば「事情」だったにしても、愚慫さんは汲まなかったでしょう?
僕の再度の提示にも関わらず、敢えてここでも普通に使っているのですから。

愚慫さんに少しでも人のことに想いを馳せるつもりがあれば、このワードが、僕が以前から使い続けてきたものであることに、すぐに思いが至ったろうと思いますよ。

でも、もういいんです。
愚慫さんにとって 何が大事なのかは分かったつもりです。

いずれにしても、難クセのついた言葉ですから、僕ももう使いませんので。
アキラ
2016/07/22 08:16
愚慫さんが、奇しくも元のエントリーの草太兄ちゃんみたいなことになっているのが、興味深いことだなぁと思いました。
愚慫さんが以前とは変わったとは思いません。

人との関係の中で、相手が嫌がっているのに、愚慫さんは自分の方にしか目がいっていないので、相手のそれが分からない。
それは愚慫さんの特性なのでしょう。
でもそれは相手にとってはハラスメントになることもあるのですから、愚慫さんはそのことを学習しないといけないのだろうと思います。

そのスタンスのままでは、愚慫さんの言う「共感」は、共感ではなくて「一人合点」でしかなくなってしまうからです。
それを「共感」だと思い込み続けるのは、オソロシイことだと思います。

いずれにしても、お互い よい学びになったと思います。
アキラ2
2016/07/22 08:17
・毒多さん

いろいろありがとうございます。

これらのやりとりが、僕や愚慫さん自身の場ではなく、中立的な、けれど僕らの友人の、やりとりに興味を持ってくれている毒多さんの場で出来ていることが、実はむしろとてもよいことなのではないかと、思えてなりません。
ヘンに感情的にならずに済みますし。
重ね重ね ありがとうございます。

それから ごんさんのは、どうも違ったみたいです。 (^o^)
ごんさんからコメントありました。

怒り、自然の流れ、毒、デトックス、、、毒多さんの言っている通りだと思います。
だから僕は普通に吐き出します。
ますが、吐き出しかたは考えます。 (^o^)
吐き出しかたを考える余裕のないときは、そのときは一期一会の真剣勝負です。
だけど、共感(共鳴?)は捨てません。
アキラ3
2016/07/22 08:19
アキラさん

ほんと愚慫さんに対してズケズケとよく言えますね。
愚慫さん宛に書かれたコメント(特に「共感」について)はワタシも考えていたことですが、どう言ったものかと、考えていました。おそらくズケズケとはいえなかった、笑。
ズケズケ言えるのは、やはりどこかで愚慫さんを信頼しているのでしょう。
そも、信頼していな相手なら「怒り」をもつこともない。
愚慫さんにしても、他のsnsでは柔らかめの物言いなので、信頼をもとに甘えているのかもしれません。

>ごんさんのは、どうも違ったみたい

そうですか、ちがいましたか、笑。流石に「飲み込め」とは言わないでしょ、びっくりしました。
毒多
2016/07/22 09:17
愚慫さん

10年ほど怒りを貯めていた、というのは本当です。まあ愚慫さんのほうにも確信犯的なとこはあったでしょう。たまに(ちょくちょくかな、爆)怒りを露呈したこともありましたが、ワタシのイメージのなかでは貯めてきた、です。かなりストレスでしたが、おそらく教育によって社会の都合を植え付けられたか、不完全な対処法で自己防衛していたか、していたと思います。これらに関しては「ワタシの課題」なので、いまさら愚慫さんに文句を言うつもりはありません(108行の文句も冗談です)。

最近、といっても、もう数年たつかな? 愚慫さんにとっては「自然」な、しかし社会にとっては「不都合」な独自の「事情」があると伺いました。
このときから少し見方が変わったかもしれません。
それは、個別「自然な事情」については、ワタシが社会の都合基準で許容しないでいるな、と考えたとき努力して許容しようということ。少なくとも自分のなかにある植え付けられた「社会の都合」基準は意識しよう、ということです。
ただ、今回のアキラさんとのことのように、お互いの根本(生命線)に触れた時は、社会の都合どこではなく、個人の都合でぶつかることになるでしょうが。
(残念ながらワタシには愚慫さんやアキラさんのように確固たる生命線が確率されてませんが、なので、怒りを抑えこむことができるのかもしれません)
毒多
2016/07/22 09:18
それにしても「共感」も難しいところですね。根本の生命線にふれたら「共感」しえない。「共感」以前の問題。かといって「社会の都合」的な慣れ合いの「共感」なんか、いらない、となるでしょう。
おそらく愚慫さんは、普遍的「共感」を目指しているのでしょうが、掘り下げれば掘り下げるほど孤独になっていく。「共感」から離れてしまう。

それでも
>共感は捨てません
確かに、まずはここかもしれないな。
毒多
2016/07/22 09:18
おはようございます。

抑制が外れた、というより、理性的に抑制を外していった述懐は、とても興味深いです。

僕が草太のように見えていたのは、そうだろうと思います。僕もアキラさんが、これではまるで草太ではないか、と思っていたので。

僕が自分の方しか見ていない、という批判はそうなのでしょう。他人の気持ちがわかならいところがあるのは、僕の特性――というより、発達障害に区分される性質なのだと自分でも自覚しています。

ですけど、僕はそんなことを盾にするつもりもないし、そういうところへ理解を落とし込むことも違うと思っています。

アキラさんが「人間の都合」という言葉をずっと用いられていたことはもちろん知っています。そうしたよしみを無視していると仰っていますが、それは僕の(独り合点な)理解では違います。

「人間の都合」という言葉は、僕自身がHatenaでブログを始めたときに使った言葉。よく憶えていますが、「自然のルールと人間の都合」を考えたいがために僕はブログを始めた。これは、まだアキラさんや毒多さんと知り合う前の話です。そして、右往左往していはいますが、そのことはずっと考え続けています。

だけど、こんな話は「愚樵の都合」です。どちらが先が、どちらが拘っているか、といったような話は「特性」の話に理解を落とし込むのと変わらないと思います。「人間の都合」などという言葉は、だれが使ってもいい言葉です。

愚慫
2016/07/22 09:26
僕とアキラさんが「人間の都合」に関心を持ったのは、偶然ではないと思います。アクセスを始めた場所(整体・林業)は違いますけど、それぞれそれなりに必然性があったのだと思う。そして、これまでは、互いの「人間の都合」の解釈が誤差で済んだ。もう少し言うと、この部分はアキラさんに寄り添っていけば事足りていた。

それができなくなったことを、残念なことだと僕は思いません。むしろ、このように「毒」が生まれてくることは好ましいことなのだろうと思ってすらいます。

>でもそれは相手にとってはハラスメントになることもあるのですから


>これらのやりとりが、僕や愚慫さん自身の場ではなく、

この点は僕もまったくもって同感です。毒多さんには感謝します。
愚慫
2016/07/22 09:30
毒多さん

毒多さんが僕にストレスを抱えていたことはよく知っています(^_^;) そのストレスが毒多さんのエネルギーになっていたであろうことも。

そうした「毒」をエネルギーに転換できる体質を毒多さんはもっておられる。

もっとも、ストレスをエネルギーにするのは動物の性質だろうと思います。もともと持っている性質だけど、その性質が特に優れているという特性がある。その点、僕と同じだろうと思っています。

くだらない話かもしれませんが、そういう特性はHNによく顕れているような気がするんですよ。「毒多」なんて、もろだしw。「愚慫」とかいうのは、ひねていますww 「ごん」もねww。その点「アキラ」は、ひっかるものがなにもない。アキラさんはアキラさんですよね、という以外にない。

>愚慫さんにとっては「自然」な、しかし社会にとっては「不都合」な独自の「事情」

焦点はまさにそこです。こここそが僕のストレスでありエネルギー源です。もっと言うと「怨」です。「怨」をどう解決するか。これが僕にとってはどうしようもない、のっぴきならない「事情」です。

そして、またストレスを与えるようなことになるだろうと思いますが、良い機会なので言及させてもらうと、毒多さんにも同様の「怨」があると僕は踏んでいます。

正直に申し上げますね。毒多さんは知性が低いとか、そういう言い方をされますが、僕はそうではないと思っているんです。逃げているんだろうと常々感じている。「怨」を抱えている自分自身から、ね。だけど、逃げ切ることもできないから、「戯れ言」で誤魔化しているという構図なんだろう、と。
愚慫
2016/07/22 10:09
あ、そのことが悪いと言っているわけではありません。そんなことは批判の対象にならない。そんなのはそれこそ、個別の「事情」です。僕だって、子どもがいたら毒多さんのような「事情」になっていただろうと思いますからね。


だけど、アキラさんは違うと思います。「怨」を感じるレセプターがあることは今回のことでよくわかりましたが(アキラさん、ごめんなさい)、それにしても「怨」は少ないというか、まず感じません。アキラさんのエネルギー源は「憧」なんだろうと常々感じています。羨ましいことに。

これはね、僕には無理なんですよ、どうあがいても。「憧」であろうとすればするほど「ルサンチマン」になってしまう。「怨」がある限り「ルサンチマン」の軛は消えない。だけど、このことは「怨」がない人間にはわからない。

独り合点ででしょけど、そう考えると、ゴーダマ・ブッダがなぜ「涅槃」に入ろうとしたのかがよくわかります。彼も「怨」の人間だったのでしょうね。神格化されてしまって、そんなふうには捉えられなくなってしまっていますけど。

アキラさんにはこれがわからないな、というより、本能的に拒絶しているな、と確信したのは、毒多さんが取り上げた「元少年A」についての反応でです。ああいう「毒」に拒絶反応を示すのは、本当に健全なことだろうと思います。だけど、そういう人間は希少種です。文明社会においてはね。孔子がいう「君子」。僕や毒多さんのような人間の方が「普通」なんです――というのは、僕の理解ですけどね。

もう一歩、踏み込んでいいですか? 毒多さんは、アキラさんが僕に対して「怨」の反応を示されたとき、嬉しくなかったですか? 共感しませんでしたか? 共感したなら安心したと思います。

いかがですか?

愚慫
2016/07/22 10:33
僕も、というか、僕は、そうです。けど、これはとても残念なことでもある。そんなふうになりたくなかった。心の底からそう思います。

だけどね、仕方がないんです。事実そうなんだから。ここは、逃げようと思えば思うほど「ルサンチマン」の軛に絡まっていく。でも、それでも、「普通」の人は逃げたい。逃げて安心したい。

>掘り下げれば掘り下げるほど孤独になっていく。「共感」から離れてしまう。

こうなる理由は上に示したとおり。「怨」に向き合いたくないから、「怨」に向き合おうと掘り下げていく人間を拒絶する。これはこれで、健全ではあるんです。
愚慫
2016/07/22 10:34
愚慫さん

まあ、すべて言い当ててますね。

もう10年ですものね。ワタシがブログを始めた頃から唯一途切れずに言い合っている、、、ストレスが嫌ならとっくの昔に離れているでしょうから、何かがあるのでしょう。
怒りをやる気に変えるエネルギーもそう、「怒り」の種類によりますが、怒ったままサヨナラとはならなかった、仰るよう怒りを期待しているのかもしれませんね。

アキラさんは、いい人という印象です。絶歌のときの反応も基本的なかまえ、人格が違うんだろうな、とは感じましたが、別にいやではなかった。たしかに毒はなさそうです。「憧」というのはピンときませんが。
今回、アキラさんの怒りを見て、嬉しくはなかったな。むしろ驚きでした。愚慫さんに対する言い分には共感する部分はあったのは上のほうで書いたとうりです。

「逃げている」に関しても異議はない。政治談義に逃げ、同窓会に逃げ、FBに逃げ、notに逃げ、日常に逃げ、酒に逃げ、結局なにも満たすものはなかった。つまらなかった。で、いつのまにか気がついたら、愚慫さん、アキラさんと喋っている。笑えます。
多分、本気で喋れる相手がいて安心している。腹も立つが楽しんでいる。だから、アキラさんが愚慫さんへ三行半のような物言いをすることに嫌悪感があったのでしょうね。

付け加えのようで申し訳ないのですが、残酷さに慣れる訓練さんにもシンパシーを感じています。
彼はこのブログへはワタシの運営のしくじりで訪れることはないと思いますが、愚慫空論なり光るなすでの彼との対話を眺めるのは楽しい時です。

決意表明ではありませんが、「楽しい」が確認できましたので、しんどくとも楽しいから逃げずにいくとしますか、笑
毒多
2016/07/22 17:58
・愚慫さん

>「人間の都合」という言葉は、僕自身がHatenaでブログを始めたときに使った言葉。よく憶えていますが、「自然のルールと人間の都合」を考えたいがために僕はブログを始めた。
<
そうでしたか、それはまったく知りませんでした。
すみません。

>「人間の都合」などという言葉は、だれが使ってもいい言葉です。
<
これもまた、その通りだと思います。

・・ということもありますし、愚慫さんと今度はちゃんとやりとりが出来て気が済んだのもありますし、僕の方はいずれにしても表記を代えましたので、愚慫さんは「人間の都合」を引き続き使ってください。
ま、言われるまでもないことでしょうけども。 (^^;)

僕の方に、それについてのこだわりは もうありません。
アキラ
2016/07/22 20:55
・毒多さん

>ズケズケ言えるのは、やはりどこかで愚慫さんを信頼しているのでしょう。
そも、信頼していない相手なら「怒り」をもつこともない。
<
これ、そうだと思います。
愚慫さんだったから、腹立たしく思ったのかもしれないですし。

毒多さん含め、また毒多さんが言うように、こんなことを言い合える関係だというのも、今までのあれやこれやがあるからだと思います。

ごんさんの感性も好きですし。
あの突拍子もないようなつながりようは、僕自身にはまず不可能。 (^_^;)
毒多さん
2016/07/22 21:02
しまった、ニックネームを間違えました。 (^_^;)
アキラ
2016/07/22 21:03
アキラさん、おはようございます。^^

愚慫さんが言うとおり、やはり、ワタシや愚慫さんは「毒」深き人間だと思います。
普通の人は「毒」を毛嫌いするか、見ないふりをする。「毒」深き人間を毛嫌いするか、攻撃したがる。
ところが、「毒」に引かれていく人間も少数いるんですね(愚慫さんの言うところの「怨」を掘り下げる人間)。ワタシについては、寄せ場の深いところまでのめり込んだのが証左のような気がしています。
以前オフで、「例の食堂がまだやっていたらご案内するのに」とワタシが言ったとき、アキラさんは拒否しましたよね。多分愚慫さんなら、面白がって「やってないこと」を残念がったと思うんです。
「毒」深い人は「毒」に寄せられていく。
アキラさんはそうではなかった。

でも、アキラさんは「毒」深い人間を毛嫌いも、スルーもしない。「毒」深い側(exワタシor愚慫さん)も信頼に足ると感じている。
貴重な存在です(笑)。
あらためて、今後ともよろしくお願いいたします、爆
毒多
2016/07/23 04:18
おはようございます。

毒多さん、お騒がせして申し訳ありませんでした。
なんだか余計なところまで問題を広げてしまったみたいで。それはそれでよかったみたいで、(自分が火をつけたのに)ホッとしていますが。

アキラさん

>僕の方はいずれにしても表記を代えました

そうなんですね。

...

でも、どう返答をすればいいんだろう?

ありがとうございます?
申し訳ありませんでした?

どちらの言葉もちがう感じがします。

せっかく収りそうなのに、また騒ぐようで気が引けるのですが...

僕はやっぱりアキラさんの気持ちがわかりません。
だけど、アキラさんの「表記を変える」という決断のおかげでわかったことがあります。それは、僕は、もともとから言葉を独りよがりなものだ考えている、哲学用語で言えば、独我論のような立ち位置にいるんだ、ということです。

哲学の認識論でよくあるのが、「私の見ている“赤”は、あなたの見ている“赤”と同じ“赤”か」という問いがありますよね。言語学的に言えば、シニフィエとシニフィアンが一致するのかという問い。

僕は、こうした問いその者に意味を感じていません。人それぞれで見ている“赤”が違うのは当然で、それで何の問題もない。問題を生むのは、そのような問いをそのもの。100%の一致を求める姿勢が問題を生む。「正しさ」という問題。80%の一致で十分――だというふうに考えている。

だから、同じ現象を観察していて、同じ言葉を使っていて、その言葉が異なった内容を指し示しているという事態に、なんの不自然も不都合も感じていなかったんです。

愚慫
2016/07/23 08:53
だとしたら、もし話が一致したとしても、それぞれ異なった理解になっていたということになりますよね。それでいい。それこそがいいことだ思っている。そういう自分勝手な理解があってこそ「共感」がある。

もっとも、だからといって、どのような言葉遣いも許されるというものではありません。80%の方がトラブルにならないなんてことはないわけで。今回だって、この例えで言うなら、80%が種だったのでしょうし。

――というふうに、アキラさんの気持ちがわからないということは、わかったような気がしています。もちろん、だから「それでいいんだ」と言いたいのでありません。わからない理由がわかったとしても「わからない」ことには変わりがないし、わからないものをわかったふりをすることもできません。

そう考えていくと、やはり、「わからないこと」に「ごめんなさい」を言うべきなのでしょうね。「わからないこと」に頭を垂れることが、相手への尊重なのだろうと思います。

考えてみれば、こんな簡単なことを、ここまで掘り下げてみないとわからないということそのものがバカバカしいことかもしれません。「わかる人」にはきっと直観的にわかるのでしょうね。だけど、僕にはここまで掘り下げないとわからない。

なんだか、最後は、上で「盾にするつもりはない」ということを盾にしてしまったようです。ほんとうにごめんなさい。
愚慫
2016/07/23 08:53
・愚慫さん

いやいや、もう謝らないでください。 (^_^;)

僕はそんなに言葉の表記自体には こだわりはありませんし。
アイデンティティも崩壊しないし。 (^^;)

代えた表記の方が愛嬌があるような気がしてきていて、むしろ好きになり始めているくらいですから。
もう済んだことにしてください。

腹立たしい一番のポイントだったのは、「ちゃんとオレと話ししてない。それで“共感”とか言うな」ということでしたし。
大事にしたかった、こだわっていたのは、「僕の都合」であり「愚慫さんの都合」でしたから。

「わからない」ということが、一番大事なことなんじゃないですか?
僕はそう思います。

向こうでごんさんに返事をしたように、僕と愚慫さんは元々見たいものがずいぶん違うんですよ。
アキラ
2016/07/23 12:13
アキラさん

そうですか。
では、感謝を。
愚慫
2016/07/23 22:17

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