毒多の戯れ言

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zoom RSS 「かもめのジョナサン 完成版」読了・・・とりあえず“あるべき姿”の一考察

<<   作成日時 : 2015/07/23 16:36   >>

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ジョナサンは飛びたかった。
どれだけ飛べるのか、知りたかった。
どれだけ速く、自由に、思うままに飛べるのか知りたかった。
そして飛びたかった、飛ばずにはいられなかった。
そのために練習した。練習に練習を重ねた。ただそれだけのこと。
ジョナサンが他のかもめと違っているとすれば、かもめの「あるべき姿」が、現実に『在る』ことを感知していたのかもしれない。
かもめとしてあるべき姿。それは自然に委ねるのではない、削ぎ落とされきった求めるべく、あるべき姿。当然、他者との比較でも認知でもない、ただ、あるべき姿・・・

かもめの「掟」はそれを知ることを許さなかった。
その風景をみることを許さなかった。
「掟」にしたがわなかったジョナサンは追放された。
多数は「掟」に自ら縛られ、ジョナサンを異端とした。
それでもジョナサンの視線はそこにはなかった。
ただ、飛ぶことだけに没頭した。
やがてジョナサンは「その風景」へたどり着く。

時はながれ、ジョナサンはかつての自分と同様に「掟」の外で飛ぶ練習をするかもめのために戻った。
そこでジョナサンに教えを請う弟子に囲まれた。
ジョナサンが再びそこを去ると、じょじょにジョナサンは神格化された。
いつしかジョナサンは神となった。
やがて神話だけが一人歩きしはじめ、信じぬかもめがでてきた。
そんなかもめの横に速く、美しく飛ぶかもめとしてジョナサンは舞い戻った。
一羽のかもめとして。ジョナサンとして。

このさい、「掟」のことをとやかく言うのはやめよう。
解る人は、何もいわなくても解っていて、解らない人には、どれだけ言っても解らないことだから。ましてや、かもめの単純な「掟」ではなく、人の「掟」は複雑怪奇で執拗に絡み取られ、絡み取られることさえ解らなくなり、他者を自らの「掟」によって絡みとろうとしてりうことも解らなくなる。。アンチ「掟」という「掟」で、従来の「掟」に対抗してもなお、それは「掟」から解放されてはいない、そんなことにさえ気づかない。


問題は、ジョナサンがたどり着いた「あるべき風景」が在ることをジョナサンは知っていて辿り着いたのか?否か?はたして、辿り着こうとして、練習に練習を重ねたのか?
やはり否、ジョナサンはただ飛びたかったのだ。そのために練習をしたにすぎない。ジョナサンに才能があったとしたら、どうしても「飛びたかった」という感性なのだ、、、、

著者リチャードバックの意図とは違うかもしれないが、誤読の自由はあるだろう。まあ、当然「飛ぶ」は「生きる」と置き換えるくらいのことは著者のなかでも想定内なんだろうけどね。
とすると、「生きる」練習、、鍛錬もしくは修行をしていれば、自由に「生きる」ことができるようになり、あるべき風景をみることになる、となりそうだな。それは「掟」から自由になるではないな。「掟」に縛られないに拘る、とは全然別に次元なのだろう。
かといって、ただ自然に「生きていて」も見えない風景なんだろうな。

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コメント(67件)

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誤読の自由。もちろんありますとも (^_^)

が、その「言わずもがな」に言及するということは、
ジョナサンをネタに語りたいということ? 
愚慫
2015/07/24 10:34
世間にとって「言わずもがな」が必ずしも「言わずもがな」でないので、書いてみました。
エントリーしたことで第一目的は達成しているので、ジョナサンネタで語ることを特にお願いしていませんが、ワタシにとってオモシロイ対話になるのであれば、全ての対話は歓迎します(笑)
まぁジョナサンネタでは、普通すぎて盛り上がりは期待出来そうにありませんが、、、
毒多
2015/07/26 14:11
世間にとっては「言わずもがな」は、必ずしも「言わずもがな」ではない。なるほど、ご指摘の通りです。

むしろ世間的には「誤読の自由」はあまり認められないでしょう。「正しい」読解が求められますね。

ところで、僕はジョナサンは読んだことがないのです。読んだことがないどころか、『カモメのジョナサン』自体がネタだと思っていました。このエントリーが上がるまで ^^;
愚慫
2015/07/27 06:33
「正しい」は読解どころか、何かにつけ強要されます。
まあ、「掟」みたいなものですね。

「かもめのジョナサン」が最初に流行ったのは、私も小学生の頃だったような気がします。その頃は、ジョナサンネタとしていろいろあったような気もしますね(笑)
どうやら、今回は、その時の第3章発刊+4章で再発刊されたようです。
「普通」とは書いたものの、まぁ面白かったですよ。
毒多
2015/07/27 08:35
うん、「掟」ですよね。
僕的には【掟】かな?

...ところでジョナサンは、なぜカモメなんでしょう?
たとえば、ツバメではダメだったんでしょうか? もしくはハヤブサとか?

もしジョナサンがツバメやハヤブサだったら、

「どれだけ速く、自由に飛べるかを知りたかった」

と欲してもさほど違和感ないですよね。そう欲することが「掟」であったっていいくらい? まあ、人間の勝手なイメージでしょうけど。
愚慫
2015/07/28 07:50
>カモメ
なんとなく、ゆったりと風に身を任せという人間のイメージがありますね。
身近で愛嬌があるみたいな路線を狙ったかもしれません。
リチャードバックは港あたりに住んでいた可能性もありますね。

もう少しネタばらしをすると、小説のなかの、カモメの「掟」は、漁にでる漁船の周辺で漁獲の「おこぼれ」やら漁師のパンやらを糧にして生活する、という設定です。その安定から飛び出るな、という秩序にかんする「掟」ですね。
という意味では、公園の「ハト」という設定もあったかもしれません。
速く飛ぶ、限界に挑戦するハトはいなさそう、、、なので、物語は成り立ちそうですが、、、やっぱりカモメかな、、ハトじゃねぇえよなぁ、、、、、
小説には【宗教】批判的な側面もありそうなので、シンボルとしてのハトじゃ受け入れられない(キリスト教)と考えたかもしれません。

ところで、「掟」に〈掟〉と【掟】はあるでしょうか?
【掟】のイメージは簡単に浮かぶのですが、〈掟〉となると、、、「掟」という言葉じゃなくていいんじゃないの、、と思えてしまうんですがね。同族を殺してはならないという不文律は〈掟〉かな??習わし、言い伝え、と掟は違うのか?、、とか、、、理に適うのが〈掟〉となるのか? おっと、「理」かよ、、とかさ(笑)

ちょいと小説より引用

「正しい掟というのは自由へ導いてくれるものだけなのだ」ジョナサンはいった。「それ以外掟はない」

引用終わり(^^)

「正しい」でましたよwww。そして「自由」。永遠のテーマですwww。
やっぱり、ワタシは、内容を語り合いたがっているのかな?ははは、爆!!
毒多
2015/07/28 10:18
「正しい掟というのは自由へ導いてくれるものだけなのだ」

ふ〜ん、なんだか未成熟なセリフだなぁ (^_^;)

「掟」は制約であり自由を阻害するものでしかない、ということでしょうかね? だとしたら、傲慢ですね〜。アメリカ的? 

掟があれへんかったら自由もへったくれもあらへんがなw
ジョナサンも自己愛型パーソナリティ?

たとえば、「掟を破って追放する者には、旅立ちに十分な資金を用意しなければない」という掟があったとしたら? これはジョナサン的には「正しい掟」なんでしょうか?


「掟」というと理不尽という先入観がどうしてもありますけど、これはあまり理性的な態度ではないと思います。「掟」が生まれるはその必要があったから、のはずなんです。その必要性が諒解できれば、「掟」は〈掟〉になる、と思います。
愚慫
2015/07/28 12:51
「掟への諒解」というのは、たとえばこういう事なんだと思います。

『誤審と確信も…二盗のイチロー「審判への礼儀」で一度ベンチへ』
http://www.daily.co.jp/newsflash/mlb/2015/07/25/0008242939.shtml

どうでっしゃろ?
愚慫
2015/07/28 13:12
もともとジョナサンは「飛びたかった」だけだからねぇ。
飛べるようになっても、まだ飛びたかっただけだから、ある面、未成熟かもしれないなwwww

>「掟を破って追放する者には、旅立ちに十分な資金を用意しなければない」
みたいなことも考えられないアッパラパーなヤツです。
それとジョナサンは自己愛性パーソナリティ障害には描かれてませんね。

で、先の台詞に戻りますが、悲しいかなフィクションなので、そのまま受け止めるとするとリチャードバックの思考になるのか、あるいはそういう台詞をジョナサンに喋らせる意味があったか。
ただ台詞を読むと「掟」を全否定しているわけではななさそうです。自由へ導く「掟」があると読めますね。一方でカモメの群れの「掟」、自由を阻むものも「掟」としている。

>「掟」が生まれるのはその必要があった。

そうですね。ただ「生まれた」のか、「捏造された」のか、、が〈掟〉になるのか【掟】になるのかの岐路ですね。
〈宗教〉と【宗教】みたいなものも描こうとしているので、この本は、そこに繋げたかったのかもしれません。
毒多
2015/07/28 16:41
時節柄、〈法律〉と【法律】でもいいかもしれません。
毒多
2015/07/28 16:43
おっと?

スパム判定されたコメントが今頃になって反映されたようですね?

毒多さん、お手数ですが、後のふたつは削除していただけますか?
愚慫
2015/07/28 21:13
読んでないので控えようかとも思ったのですが(^_^;

誤読どころか訳語なので「すべて読んだ人」の「読み」でしか判断できないのかと思うのです。

たとえば「掟」と書くとそれらしいけども、もともとは「置き手」なんですよねこの言葉。「ここに留め置きたい手法」で、具体的には「遺言」だったり、「言いつけ」だったり、「アドバイス」だったり、けっこう大事な「ことづて」みたいなことだったりするんですけど。源氏物語の作者が好んでつかいました。で、当時は今みたいな重苦しいニュアンスはないです。やさしくて。

んで、ではここでの決め事をあらわすのに他に適当な言葉は、とか考えてみたとして、なら「戒め」というのはどうだろう、と。でもこの言葉も「戒律」とかいうと何やらいかめしいんですがもともとは「今し」+「める」で「今を刻みつける」、今風に言えば「いつ覚えるの?今でしょ?(忘れんな)」みたいな意味のことばで、やわらかい。

逆に言えばこういう言葉しか通じなかった。たとえば誰かに、ここには死んでも守らないといけない法がある、とか言われたら、あんたあほですか?みたいな。死ぬより大事なことないでしょ、と。
ごん
2015/07/28 21:31
ジョナサンが自由の名のもとに逃れ?ようとした「掟」が、どんなものか読んでない僕にはわかりません。が、ジョナサンが「人からおこぼれをもらうのに何の疑問も感じない自由な鳥」ではなくて「考える人」であるかぎりこの「おきて」からは逃れられない。

けど、「法家」のいう「律令制度」とは違った、人にやさしい「法」というのは存在するのだと思います。たとえば、今の日本国憲法みたいにやわらかい。

まあ、ちょっと何言ってるのかわかんないという人はいるだろと思う、というか単純にこの話つまんないと思う方のが多いと思うんですけど(^_^;

ごん
2015/07/28 21:37
愚慫さん、スパムというより、保留コメントへの直行すみませんでした。
以前リンクアドレス入りのスパムが多量に送られたことがあり、リンクアドレス入でスパム指定のままになっています。
後ろのコメントはイチローのを見ないでのレスです。
ただ、イチローの行動は、ワタシにとっては「掟」ってイメージじゃないす。礼儀ってっ感じかな。とはいえ、もともと「掟」にリスペクトの要素があるということであれば、解ります。
毒多
2015/07/29 14:04
ごんさん
原書英語の「掟」とは違うかもしれませんが、日本訳語の「掟」の語源のご教授ありがとうございます。
もともと「やさしい」かったり「やわらか」かったりしたのは、そうだったんだ、という感じです。いつしか「置き手」「今しめ」から「掟」「戒め」へ質が変化した。その変化は、元々の相手を思いやるものから、オノレの立場や利権を守るものに利用するものに変えられた、というのをイメージしてします。掟や戒めを破ると自らが躓くんだよ、、から、掟や戒めを破った者には罰が与えられる、の辺りから、イメージが変わったのでしょう。
本の「掟」は後者として書かれています。

>ジョナサンが自由の名のもとに逃れ?
エントリーでの、粗筋の書き方が悪いとしか考えられないのですが、これはまったく違うんですね(笑)。ジョナサンが欲したのは「自由自在に飛ぶこと」(だけ)だったんです。この辺りはねアキラさんの修業を連想させるんです。・・・説明しにくいね。まぁ、機会があったら一読どうぞ、としかいいようがない。もちろんお願いしているわけでも推薦しているわけでもありませんが。
ただ訳者の五木寛之があとがきで、>(カモメのジョナサンは)人によってはサン=ペグリジュペの「星の王子さま」を思い浮かべる読者もいるかもしれない<と書いていますので、結構好きな類の本かもしれませんよ(^^)
ワタシは逆に未読「星の王子さま」を読んでみたくなりました。

>この話つまんないと思う方のが多いと思う
多数がそうであっても、ワタシが面白ければまったく問題はありません。
毒多
2015/07/29 14:04
五木寛之さんでしたか。

なんだか半分、納得です。僕はどくたさんのエントリを読んでまずはじめに「よだかの星」を思い出したんです。みにくくも飛翔することに長け、また、思いを届けるに十分な声質と声量を持つあの鳥の天への挑戦を。

だからこの「おきて」という訳は、誤訳ではないかな、と。ここは「食べるために(よりうまく)飛ぶ宿命。食べられないために(よりはやく)飛ばされる宿命」で、人為ではどうにもならぬものではないのか、と思ったのです。「おきて」というのはやわらかくも厳格にも、人為ですからね。

人為なら、人はいつでもそこからはなれて自由になれます。

でも、私の理解は半分ですね。なぜかというと、「すべて読んだ」どくたさんが否定してますので。

>ジョナサンが欲したのは「自由自在に飛ぶこと」(だけ)だったんです


ジョナサンが欲したのは宿縁からの解脱ではなかった。

これは仏教人の訳者が「人為こそが逃れられない宿命なのだ」という作者の感性に触れて、「そこを問題にする」人々へのリスペクトから生み出されたものかもしれない。

仏教人の訳者が、まったく別の論者による「解脱とは違う自由」について尊敬の念とともに書いたものが、どくたさんの心に触れ、そうしてアウトプットされたものが「解脱について書いてある」ように見えた。

(全部違うかもしれないけど)すごく僕には面白いです。そういうのは。

ごん
2015/07/29 18:08
あと、もし『星の王子さま』を読むのならきっと堀口大學さんの訳でお読みになってください。他は別物です(と言っても否定しているわけではありません。批判の意図もありません)。僕にとっては。
ごん
2015/07/29 18:17
ちなみに僕がこのエントリに触れて思い浮かべたのはビッグマウス、カシアス・クレイです。

「リングの上ならいつでも俺は敵を殺す。だが、俺の敵はベトナムにはいない」

ごん
2015/07/29 19:03
>「よだかの星」「カシアス・クレイ」

言葉によって思いを伝えることは難しいのですが、読み手(の経験、環境、g現在の興味や意識)によって、書き手の意図とはまるで違う受け取られ方をするんだなぁ、とあらためて実感しています。書いたとこで自己満足しているエントリーなので、丁寧に伝えようというのが抜けていることの要因が大きいのかもしれませんが(笑)

>ジョナサンが欲したのは宿縁からの解脱ではなかった。

はい、ワタシの書きたかったことに近づきました。
一方で著者は「宿縁」を「掟」として描いています。著者こことの関わりもやはり描きたかったのでしょう。、、、えーと、話は変わりますが・・・私は「全て読みました」が、一度読んだだけですし、読み込んだわけではありませんので、ワタシの解釈はワタシだけの感覚かもしれません。もう一度読み直すと別のイメージが浮かぶかもしれませんし、他者が「全て読んだ」ときに、ワタシのエントリーとはまったく違うイメージをもつ可能性があることは、「言わずもがな」でいいですよね(^^)
毒多
2015/07/30 13:07
>仏教人・・・

そこです。コメントのこの下りは面白い。読み手は著者訳者からはなれ、個々の興味によって個々のなかでイメージされます。ここを思索するのが面白い。著者・訳者・読者のダイナミックな絡みやら空回りやら混沌やら同意やらスレ違いやら、、、

すこし内容にふれると、ワタシのなかのイメージでは「人為」は「社会」です。で「解脱」はいろいろある、「社会からの解脱」「オノレ(固定観念)からの解脱」「体癖からの解脱、笑」・・・ジョナサンには「解脱」という観念さえなく、どこかへ向かっている。ただひたすら向かっていく。向かう先になにかが「在る」と意識なしに感じている(のかもしれない?でもそれは「飛ぶ」ことではない他のなにか)。ひたすらひたむきにやれること、何かが「在る」と感じること、これらは才能なんだろうなと思います。で、それを結果としての「解脱」と読み取れることもできるのか、、、とすると、解脱に気づくのも「才能」かな、、、思索が広がっていく。面白いです。

「星の王子さま」の訳者の情報ありがとうございます。
毒多
2015/07/30 13:07
考えを自由にたどるうちに、

「生きるということに命をかけてみたい」甲本ヒロト

とか、

「どれだけ遠くまで歩けば 大人になれるの?」キヨシロー(訳)

とか、口ずさんでしまいます♪

で、その答えはどこにあるのかといえば、きっと風の中に、も、あるのでしょうけど

「完成は、手を加えることがなくなったときではなく、削ぎ落とすものがもうなくなったときに達せられる」サン=テグジュペリ(ごんうろ覚え全然違うかも)

というのもそのひとつかもしれないですね。
つながってきました(遠くなった?笑)


ごん
2015/07/30 20:03
レスありがとうございます。
「(^^)」で、すませようと思いましたが、、、ちょっと思ったことを自分のメモとしても残しておきたいので書きます。

何か不思議なものを感じています。
ワタシが変わってきている。
変わってきているワタシに気づいた。
ついこのまえまでは、好きな歌のフレーズからの広がりに思いを馳せていたのですが、今回は響かない!? 何か違うと感じているワタシがいる。これはコメを頂き初めて気づきました。
上手に表現できたフレーズであるほど違うとさえ感じる。
不思議です。(ワタシの今の感覚で、喧嘩を売っているわけではないことをご理解ください)

甲本さんはよく知らないので、なんとも言えませんが、あれだけ口ずさんだ清志郎の伝えようとする個々のメッセージに意識が向かない。
意識してしまうのは、メッセージではなく、その人そのもの。人でもなく、「セざる得ない」ということ。
清志郎は、ただ「歌わずにはいられない」、どんな状況であってもどうしても歌わずにいられなかった、というそのこと。そのことに何かを感じてしまう。そのことこそが才能だと感じているワタシ。(私には才能がないという落胆とともにですが、orz)

つまり「完成」もありません。才能のまえでは「完成」とういう概念そのものがないのではないでしょうか。手法である手を加えるも削ぎ落とす、、よりも、もっと根源的な「セざる得ない」。才能にあっては、目的は必要じゃないのではないか、という想像させます・・・・という不思議な気持ちです。
毒多
2015/07/31 08:46
才能という言葉にすごく違和感を得るのですが。どくたさんのおっしゃる自由の飛翔、その練習のイメージ(あくまでも僕の受けたの)と背反してように思えて

ちなみに僕自身は、人は「ペルソナ」を得て人間になるのだ、と思っているので、人為からの解放というのは良くも悪くもその「ニンゲン」性を脱ぎ捨てることだと思っています。

カシアス・クレイはボクシング(闘うこと、殴り合い)が好きだったから、練習した。自ら欲するままに。でもそれは、ベトナムに行って敵を殺すためのものではない。鍛え上げた精神、身体は、戦闘員としての役割に応用は利くかもしれないけど。

だから、アメリカ人としての兵役を拒否して、生まれ変わった。自分を選び直した。モハメド・アリとして。

ごん
2015/07/31 18:32
残念ながら僕は(先に「人為ならいつでも脱ぎ捨てられる」などと嘯いていながら)自分自身が人為(今の自分のペルソナ)を脱ぎ捨てることは有り得ない、と断じています。責任を取らねばならない子がまだ子どものままでいますので。

ゴータマ・シッダルタ(後の仏陀)が自らの妻と子ども(ラーフラ、悪魔、と名づけよ、と言い放った。 手塚治虫訳)を遠ざけたのは、生来的に(才能?)そのことを知っていたのかもしれないですね。

ごん
2015/07/31 18:46
前にもどこかで書いたかなと思うんですが、僕は芥川龍之介は漠然とした不安などというわけのわからないもので死ぬような人間ではないと思っています。

彼が死んだ理由は我が子のためです。

「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」

これは龍之介死去の前年に制定された治安維持法の条文です。

芥川は書きました。書かずにいられないから。でもそれは島崎藤村のように、文学を言い訳に幼い我が子を餓死させあのた大小説家のように、大日本賛美の文を書くためにではなく、もちろん労働者の悲哀を書くためでもない。彼は自分のために書いてきた。彼が才能がなければ、もしかしたら子煩悩で賢明な父親として、余生をまっとうしたかもしれない。でも、世間はそれを許さなかった。だから、狂った河童に生まれ直して、彼は死んだのです。

人間性(自らの守るべきものたち)を捨てることができなかった才能の末路ですね。

島崎藤村の特に詩的な才能は誰もが認めるところですが、僕は芥川の「(島崎藤村)ほどの老獪な偽善者に出会ったことはなかった」という言葉を信じています。

ごん
2015/07/31 19:26
もちろん、サン=テグジュペリが、あの有名な飛行機乗りが、人類史上初の空中戦に参加するために空を飛ぶ練習をしたわけでないことは、言わずもがな、ですね。
ごん
2015/07/31 19:48
芥川が島崎藤村が老獪な偽善者だ
というのは、子どもを餓死させたのではないのにそのように思わせた、ということではないかと考えております。
大学病院に入院しているその子どもの写真が残っているのですよね。何らかの難病であった?と思っているのですけれど。
メゾフォルテ
2015/08/02 08:00
多分、ワタシは発狂しています。
「社会」基準での発狂です。
ワタシは「社会」外のことを話していると気づきます。
ところが「社会」外では発狂ではありません。
「才能」という言葉は、たしかに社会性のなかでは違和感をもつかもしれません。
社会性を超越した「天才」という言葉から「才能」という言葉を連想したのだと自己判断します。
「才能」は社会基準で役立つ、通常の肯定的な意味の才能ではありません。
「才能」は社会基準でいえばむしろ害悪かもしれません。
通常の「才能」のない多数は害悪はやってはいけないことと認識します。
社会的責任をもつというあたりまえの前提で「セざる得ない」をしない判断をします。
その認識や判断に囚われないことは、ある種の才能ではないか、という意味で、通常の社会基準、社会前提の才能とは相反する。
言葉のチョイスは間違いかもしれませんが、とりあえず「才能」といいます。
社会基準、社会前提と別世界に在る「才能」として。

「才能」の人は、社会の人が評価するしないの、外に居ます。
天上天下唯我独尊です。
でも、この言葉も社会基準の人が「才能」につけたレッテルであり、
「才能」の人にとっては、関係ない、という認識もない、と思われます。
毒多
2015/08/02 11:00
さて、ワタシは何をいいたいのか?
なんだか、ジョナサンを持ち上げている社会の人であるワタシがいるけれど、
皆にジョンサンのように「才能」に気づき開花させるべきだ、と言っているのか?
皆が開花できたなら、社会は崩壊します。
それを望んでいるわけでないし、ほとんどの人は「才能」はない、と解っています。
社会基準でいけば「幸せな」ことに「才能はない」です。
もっとも「才能」の人に「幸せ」「不幸」という認識はないと想像します。

ワタシはおそらく、「才能」をもった者が「才能」にしたがっていくと、結局、何を見るのだろうか?
何を見ているのだろうか?そこに人間そのものの本質があるのだろうか?
という興味を思索したいだけなのです。
社会性、ペルソナにあっては「人間の本質」はみえないと思っているに違いない。
なので、「才能」の先の世界の一つ(本質)かもしれない、を描いてみせた、この物語が面白かった。
それが正しい、間違いは別として面白かった。なので、
まっとうな社会人がジョナサンを読めば、腹立つと思うのですが、それでも売れている、そんなことも面白い
といったところです。
少しだけ、普通に社会生活をしながら、その「才能」の行く先の世界の一端を観れないだろうか?という虫のいいことを考えていますが・・・(笑)

ああ、ちょっとまてよ、もしかして、だけど、ひとつ、気づいた。
ワタシってやつは、フィクション、“ノンフィクション”に限らず、上のような興味で思索してしまう。
施策せざる得ない。
ノンフィクションに限らず、、、、って、これは、ほんのちっぽけな「才能」かもしれない。
社会基準にとっては、非常識な、ふざけた、不謹慎なヤツであり、反社会的なヤツで許しがたいと、映るに違いありません。
申し訳ないことです。でも止められない。
毒多
2015/08/02 11:00
施策セざる得ない
→思索セざる得ない
毒多
2015/08/02 11:06
バブルの頃かその少し後か、キヨシローが太田光と対談してる内容を読んだことがあります。

「もともとシャイでエキセントリックな僕らが戦争反対!と声をあげているのは、今がそういう時代だからだよ」清志郎
「新人類と言われてる若い人々も声を上げることはできるけど、今はまだその時ではないと思ってるんじゃないかな」太田光
「そんなこと言ってるうちに君の子どもが戦争に行くんだよね」清志郎

例によってうろ覚えです。すいません。

今の若い人たちは、清志郎をまず知りません。でも、僕らが隠そう、消し去ろうとしない限り、かの天才の残したメッセージは、若い魂にとって、色あせることはないでしょう。若い人たちがこれからどういうふうに社会と対峙し、敗残し泥にまみれていくのか、僕にはわかりません。でも、歌にすらならないような、たとえば浅間山荘やダッカ事件を象徴とするような終わり方だけは、させてはいけないのだと思います。

だから、やっぱり必要だと思うんです。自由を体現しているような才能が、また戻ってきて一緒に飛んでくれることが。一度俯瞰して地球の美しさに出会い、街の灯のあたたかさに気付き、バカバカしいじゃないか戦争なんて、と思えるような「作品」を指し示すことが。

僕は彼らが一緒に飛んでくれたおかげでずいぶんと幸せな思いをしてきました。もう飛ぶことはできないかもしれないけど、飛ぶことができたおかげで、何が自由なのかを知っている。知っていますよね。

ごん
2015/08/02 18:30

人々は来て訊ねます「その歌の意味は?」と。
わたしは 何と答えてよいか分からないのです。
わたしはいいます「ああ 誰にこの意味が 分るでしょう?」
人々は微笑し 軽蔑し切って 去って行きます
そしてあなたは微笑んで そこにすわっていられます。

タゴール


才能のない僕らは、そのことを若い人たちに伝えていくことが、この仮の住まいを、だいぶ汚してすみにくくしてしまったこの地を託す際の(と言ってもルームシェアしている相手に自分が出て行く時、その時ににどうしても言って置きたいことやらを書いた手紙みたいなものですけど)大切なつとめなのだと思います。

ごん
2015/08/02 18:32

シェクスピイアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している。わたしは大正十二年に「たとい玉は砕けても、瓦は砕けない」と云うことを書いた。この確信は今日でも未だに少しも揺がずにいる。

『侏儒の言葉』芥川龍之介


この確信があったから、最悪の時代に子らを託して彼は「死ねた」のだと思います。


わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。

『侏儒の言葉』芥川龍之介

 
ごん
2015/08/02 18:42
三人の子を「難病」で亡くしたのなら、そのことについての言葉が欲しかったのだと思います。島崎藤村の文学的素養を深くリスペクトし、自らの子を愛している芥川龍之介としては。でも、あろうことか、真実一路の節を曲げて大日本賛美の文を書き始めたんですよね彼は
ごん@フォルテシモさん
2015/08/02 21:33
ごんさん、いい感じですね(^^)
この辺境・社会性破綻ブログのコメントにするのは、勿体無い感じがします。他の「いい感じ」がマッチしたブログのコメ欄で語れば、きっと多くの共感を呼ぶでしょう。(いまどこがそんなブログか知りませんが)
ワタシには、もうそうした「いい感じ」の呼び掛けができなくなっています。すでに「いい感じ」の向こうに逝ってしまった。(もしくは、逝ってしまったと勘違いしているのかも、はたまた逝きたいと思っているのかもしれませんが、タメイキ、、、、、誤解なきよう、「いい感じ」というのは、皮肉や否定で言っているのではなく、素に社会的に「いい感じ」です。人間と社会は切り離せないことは解ってますので、素に「いい感じ」でもいいのですが、ここがワタシのポイントなので。)

ごんさんのコメントは完結していて、社会人としての私には解るのです。が、正直にいえばワタシには面白くない。なんだろう、うまくまとまり過ぎているからか、それともワタシが完結そのものを拒んでいるのかもしれません。
こんなことを言えば、ごんさんにとっちゃ「なんじゃそりゃ、どないやねん」となるかもしれませんが(笑)
毒多
2015/08/03 13:25
ということで以下は、はたまたワタシ自身の思索メモとして。(放置してもらってかまいません、分けわからない内心でしょうし)


ジョナサンでは「社会(=掟)」と「才能」を対立するものとして読めたが、どういう関係かは再度考える必要がありそう。
会話の清志郎は「社会人」だよな。という一方で「歌わざる得なかった」清志郎は「才能の人」という感じは確かにする。おそらく「社会問題ネタ」でなくても、売れなくても、歌い続けた気がするから。
それであるな「社会」と「才能」は本来対立するものでない。とすると、次元の違うもの? 個としては別次元を行き来している?それとも、個のなかにある「社会」と「才能」は、それぞれの側面?表裏?
それとも「社会」と「才能」は両極の「どちらか」ではなく、グラデーションによって繋がっているもの?
「才能」といっても、現れ方が多岐とすると、「社会性」と重なった現れ方をした場合は理解されやすいが(キング、ガンジー、清志郎?)、そうでないとただの変人。社会に危害をくわえる破綻者。このときに「社会」と「才能」の対立が生じる。(ただし、「社会」の側からの対立で、「才能」の側からは関係ない。)
いやいやちょっとまて、「才能」をシフトしきっちゃうと設定しているわけだから、グラデーションってのは違う。むしろ表裏か?
シフトしきっちゃう先の世界は、たとえば禅の修行の先の悟りみたいなものかもしれないとすると、噂にきく悟りってやつも「社会」と表裏なのか? 社会という多数の標準との比較において「才能」ってやつは認識されるのか? ちがうだろ「才能」は単独で存在しうるし、もしかしたら「才能」がなくてもそっちへ向かうことはできるのではないか? あるべきを描く。あれ、そんなんことをジョナサンは言っていたのか?
毒多
2015/08/03 13:25
大得意になって書いた「象を呑み込んだうわばみ」の絵が他の人には「帽子」にしか見えないのは、絵が下手だからではなくて、象を呑み込むうわばみのことなど興味が無いからです。『ジュラシックワールド』の予告編にはサメに食らいつく海竜のシーンが出てきますが、あれはすごいですね。劇場だとさらにすごい。実物を見たらもっとすごいだろうと思います。水しぶきと轟音と、血の匂い。海面の下にその怪物がいる、そう考えるだけでぞくぞくします。

ところが、象はすごくない。でっかい象を呑み込むうわばみはすごいけど、でっかい象自体はまったくすごくない。なぜか。現実に対する愛着をなくしているからです。麒麟なんてキリンビールのあれより実物ははるかにすごいのに、誰も驚かない。

では、大蛇はすごいか。すごいです。サメも、トラも。獰猛だから。危険だから。こういうのは興味を持ってみないといけない、というのがインプットされているんでしょう。なぜだか「惹きつけられる」んですよね。

それでよく錯誤を起こす。だからサメを好きだという人を見たら、珍妙な気分になってしまう。サメは生体デザインとして完璧ですよね。無駄がない。美しい。

マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心だ」と言いました。

私もそう思います(^^)




ごん
2015/08/03 15:09
僕はですね、以前、毒多さんが仰っていた「道楽としての思索」という言葉がずっと引っかかっていたんです。というか、今も引っかかってはいるんですけど。

しかし。僕は毒多さんの言った「道楽」の意味を些か取り違えていたような気分になってきました。かなりきわどい「道楽」のようでww

いずれにせよ〈生きる〉ことは道楽ではありません。言うまでもなく。

社会基準で発狂しているのは、社会が発狂しているからかもしれません。僕はそう考えていますし、そうなった理由も(自分なりにですが)理解して(いるつもりで)います。その理解ゆえに確信的に発狂している部分がある。この「確信」は「道楽」とは相反するものです。

自らを社会的に発狂していると自覚する毒多さんの「思索という道楽」。それが「あるべき姿」とどう重なっているのか。興味が湧いてきましたww
愚慫
2015/08/03 16:43
確かにここでわたしの言っていることは、「既成品」のように「完成」されていますね。そしてそれは誰かが言ったことの焼き直し、つまりは「陳腐」でもあり。


どこにでも好きな方に歩いていける。

ぼくは自由だ… 

だが、この自由はほろ苦かった。

世界と自分が、

どれだけつながっていないかを思い知らされた。

サン=テグジュペリ


でも今回と同じように何かを探す「ため」に読むのであれば『星の王子様』にはその答えは見つかりません。

いくら「あるべき姿」を求めても。「おきて」だとか【掟】だとかの記号にとらわれている限り。そこにあるのは、自己満足だけです。それはそれで実に人間性豊かな楽しみですがどくたさんはそこを追求しているわけではないのですよね。


人間であるとは、

まさに責任を持つことだ。

自分には関係がないような悲惨を前にして、

恥を知ることだ。

サン=テグジュペリ


僕は「読んでいない」のでとんでもない見当違いをしているのかもしれないですが、なぜジョナサンが還ってきたのか。そこが何より気になりました。そこへの言及が欲しかったです。

もし、その僕の見当違いでどくたさんが何らかの腹立たしい思いをなされたのであれば、あやまります。ごめんなさい。

ごん
2015/08/04 09:47
ごんさん

2つ前のコメントは解りません。
現実逃避すんなよな、という忠告かと思いました(笑)
もしくはなにかしら教育的なメタファ、、、か?
てなことを考え、少しタメイキは漏れました、が・・・

直前のコメントは分かります。
すべての言葉は思索に繋がる可能性があります。なので、どんなコメントであっても腹はたてないようにしています。謝る必要はありませんが、謝ろうとする気持ちは受け取ります。とはいっても、今回腹が立つこともありませんでしたが。
毒多
2015/08/04 17:31
以下ランダムに

ワタシ自身何のために思索しているのか、解らなくなります。もしかしたら自己満足のためかもしれない、と感じることもある。ただ思索のための思索にしかならないのかもしれない、とも。だとすると、これはもしかして娯楽かもしれない?と考えたりもします。才能なきものの宿命哉。わずかな才能の破片をたよりに「天才」の真似事をしているうちに、何かが見えることもあるかもしれない、という甘い識る。

ワタシがどれだけ「社会」と無関心を装っても、天才でないワタシが完全にそこと別次元に在ることは不可能です。生活と生きるがやはり完全には不可分であるかぎり、必ず「社会」もついてまわる。ただ、だからといって「社会」前提でものを考えると、罠に絡め取られる。ここに注意しています。
自己満足の自己完結でも別にいいと思っていますが、ただの自己満足のための思索であっても、いつか社会と繋がることもある、結局はそうならざる得ない、とは思っています。

ワタシにしても天才が遺した言葉には、「何か」を感じ、「いい感じ」はします。
ただ、その言葉に「至る」が解らないので、「至る」に思索は走ってしまいます。「至る」の思索はワタシのなかのものです。そちらを知りたいので、結果として表出した天才とはいえ他者のセンテンスをそのまま「前提」にすることに安易に乗れないワタシがいます。それがワタシだけの事情であることも自覚しています。ワタシが、引用で組み立てられたコメントに違和感を感じるのはそのなところかもしれません。
毒多
2015/08/04 17:31
>なぜジョナサンが還ってきたのか
本を読んだときは、ああ、これは「キリスト」だ、と感じました。とすると、西洋人の著者は「キリスト」と「キリスト教」の乖離的なことを批判しているのかもしれないと感じました。それは、まあいいのですが、
ジョナサンは何故もどったのか? 
なぜでしょうね?戻りたかったから戻ったのですが、何故戻りたくなったか。後進に「自由に飛ぶこと」を伝えたくなったから。他者にシェアしたくなった。それ以外にあまり意味付けしたくないワタシがいます。単に「自由に飛ぶ方法をシェア」したかったくなったから。かな。
その深層心理は、、、まだわかりかねています。

毒多
2015/08/04 17:32
愚慫さん

言ったっけ?、それにしても「道楽として思索」とは、(我ながら)なんとも酷いねぇ。
ちょっとばかり、斜から「所詮、空論」っていうときの、「“されど”空論ってのがあんたに解るかい?」って感じは入っているかな(笑)
「ワタシの思索は〈生きる〉に繋がるのだぁあ!!」、、と大声で言いたいけれど、正直けっこうヘビーだよ、ってのもある。そんなにマジなのかよオレ、って自己に問いかける。現実は社会に流されながらダラダラ【生きている】面も多いわけで、、といっても、完全に「社会」におんぶにだっこで「生活」のために「生きてやるもんか」ってのはあります。さらには「社会」のために「生きてやるもんか」となるのか??、、、とこの辺りが思索のしどころなのですが。

んで、また何やら難しいことを言うね。
「社会基準で発狂しています」ってのも、その直前までのコメントのやりとりで思わずでた言葉で、自分でも驚いてはいるんです。
ワタシはワタシをまともだと思っている。にもかかわらず、コメントを読んでいるとまともではない気がしてくる。そこの分岐点として考えられるのが「社会」ということで、まともだと考えているワタシは社会的ではないのではない、とすると社会外なんだな、ということ。
社会外のまともなワタシが、社会に流されダラダラ生活している私、を狂っていると感じている、んだろうね。

いずれにしろ、残念ながら、買いかぶりすぎです。
きわどい「道楽」も、、あるべき姿、とどう重なるかも、ワタシのなかに意識はありません。「あるべき姿」は思索しつづけますが、、、ということで、続きエントリー楽しみにしてますんで、よろしくたのんます。
毒多
2015/08/04 17:32
わたしへのマスクがかかっている方には引用で組み立てた方が伝わる場合があるのでその方法をとります。現にどくたさんは上の二つのコメントでそう反応しましたよね。わたしの文にはメタファとか教育的とか忠告とか別の意味を受け取ろうとした。

最初のコメントは惹かれるからと言って、いいものであるとは限らないし、つまらない、というか興味をひかないからと言って、そこに答えがないわけではない。考える人は人の言葉を映す自分の心にマスクをかけますので。という当たり前のことを言いました。

わたしは才能がないので今回も失敗したみたいですが(^^)

ごん
2015/08/04 18:30
その後のコメントは返答をいただけたのでまずはご理解感謝です。僕は、ここは冷静にお聞きいただきたいのですが、今のどくたさんの思索はカルトだなと感じます。なぜか、というと、宗教が絡んでいるものを読んで、そこについて思索する際にその原点を素通りするからです。

この人はキリスト者だからといったマスクをかけたくないのだ、と仰るかもしれませんが、どくたさんの思索には、この人は、この物語は宗教を否定しているのだ、という、前提があるように見えるのです。というより無視か。現行宗教に対する無視。

どくたさんが思索することに何の異論もございません。でも、先人のやり方を無視し、新たな造語を駆使して人のあるべき姿を求めてもそこには答えはないでしょう。答えなど要らないならそれでもまあいいでしょう。でもたとえば、毒饅頭を毒壺と言いかえて、それで自身の追求する答えが見つかればいいというのなら、それはカルトです。

キリストも釈迦もはじめは神と向き合う人々の間では異端でした。でも、カルトとは違います。それは言わずもが、の話ですが。



ごん
2015/08/04 19:04
毒多さん

>ワタシはワタシをまともだと思っている。にもかかわらず、コメントを読んでいるとまともではない気がしてくる。

そうした客観性が「まとも」の証でしょう。精神病理的には「自分はおかしいかもしれない」という疑いを保っているうちは、まともだといいますからね (^_^)

それにしても「カルト」呼ばわりされるくらいには際どい。なかなかの「道楽」ですwww

>社会外のまともなワタシが、社会に流されダラダラ生活している私、を狂っていると感じている

それ、よくわかります。そのギャップから「道楽」という言葉が出てきたのだろう、というのが、僕の唯我独尊な解釈ではあります。いいかえれば「道楽」というのは、毒多さん自身に対する「リミッター」のようなもの。家族とか社会的立場とかに対する、つまりは「義理」に対しての(社会的)責任でしょうね。

そのリミッターが外れると、シャカ族のシッダールタが我が子を「ラーフラ(障害)」と呼ぶようになってしまう^^; そういうのを感知しているのなら、社会的に十分まともでしょう。

僕の毒多さんの個人的な期待としては、そういう「際どい道楽」を「あるべき姿」として追究してもらったらなぁ、と。
愚慫
2015/08/04 22:59
毒多さん、すみません、もうちょっと言わせてください。

先の『絶歌』にせよ、今回の『ジョナサン』にせよ、僕が想像するのはある種の「憧れ」といったもの。毒多さんの、反社会的なものへの。「リミッター」が効いているが故の。

反社会的であることを是としているわけでは、もちろん、ないでしょう。社会的な「是」よりも優先すべき基準(?)がある、という思いがある。そこに(幸か不幸か)至った者に対するリスペクトがあると感じるですね、毒多さんには。

元少年Aも、その被害者の遺族も、そういう意味では共通するところがある。青カンも、もちろん、そう。おそらく『ジョナサン』もそうなのでしょう。これは社会的な是非に基準を置いてしまうと、見えてこないものです。

そういった感受性が生来的なものか、青カンの方々と交わったことによる社会的なものなのかは、わかりませんけどな。あるいは、その両方かな?

誰からも強制されたわけでもないのに、自身の欲求に従って、ヘビーな思索を自分自身の言葉で為していく。そういった内発性を「才能」と呼ぶのであれば、僕は同意します。正確を期するなら「メタ才能」とでも言えば良いか? そして、それが社会的(先人とやらの教義に沿っている)かどうかは、反社会的な「憧れ」を抱いている者にとっては二の次なのは言うまでもないことで。いえ、そうでなくても、「才能」を社会的基準でもって人為的に淘汰するのは冒涜的な行為でしょう。
愚慫
2015/08/04 23:59
「あるべき姿」というのは、決して事前に定められているものではないありません。「あるべき姿」は事後にしか感知することができない、という人間の有限性。全知全能ならざる人間の能力の限界。

となれば、持って生まれた資質かあるいは後天的な環境の影響によるものか、「あるべき姿」が社会的になるか否かは“それこそ神のみぞ知る”ということになります。日本人的には“敬天愛人”と言えばいいか。〈生きた〉結果が社会的になるかどうかは、乱暴に言ってしまえば、運任せといったところでしょうか。

たとえ「運任せ」であったにせよ、自身の内発的欲求に従って、自身が為したいことを為す。それがある一定レベルに達したとき〈あるべき姿〉が事後的に立ち現れる。

問題は、その「一定レベル」というのが何処にあるか。ここは、あるいは社会的な尺度が入ってくるのかも知れませんが、いずれにせよ、そこを第一に据えると「あるべき姿」は抑圧された【あるべき姿】にしかならないと思います。
愚慫
2015/08/04 23:59
置き土産です。

毒多さんは、『WATARIDORI』というドキュメンタリー映画を観たことは、ありますか。DVDにもなっています。タイトル通り渡り鳥の飛行を、鳥の群に混じって飛行しながら撮影した映画です(一部仕込みもあり、飼育した鳥の飛行を撮っている部分もあります)。
飛行する渡り鳥のフォルムを見て気付くことがあります。カモメに代表される渡り鳥のような滞空時間の長い鳥の体は、飛行に最適化された形状をしています。飛んでいる状態こそが彼らの真の姿であり、気流に乗ってより高くより遠く巡航する方向に収斂する形で、淘汰圧がかかってきたわけです。

ジョナサンこそが本来の彼らの姿であり、人間からのfeedを前提とした、小説の中の俗なカモメたちは、文明化したライフスタイルとも言えましょう。

ところで、「読み」とはその行為を通して読み手自身の中から何かを掘り出すことです。中に何もなければ何も出てこない。
だから、見方によってはこういう見方も出来ます。
実は、港で人間にfeedされて気楽な暮らしをしているカモメの中には、ジョナサンよりも高く早く遠く飛べるカモメが何羽もいるのかも知れない。ジョナサンの到達した場所を遥か昔に通過していて、それでも港で餌をもらって暮らす方が性分にあっているから、そうしているのかも知れない。そもそも本来の資質を、別にどうでもいいからと思って捨てた連中がゴロゴロしているのかも知れない。

ジョナサンやジョナサンの周りに集まった信奉者は、そのことを知らないだけかも知れない。
残酷さに慣れる訓練
2015/08/05 00:34
掟に抵触するタブーとして「飛翔能力」を選んだのは、個人的には小説の筋が悪いんじゃないのかと考えます。飛翔能力を高めることは、単純に機能の増強です。
カモメを人間のメタファーと見做せば一目瞭然ですが、機能の増強それ自体をタブーとする掟など、どこの共同体にもありません。少なくとも私は見たことも聞いたこともない。
人間からfeedを享受できる社会の中では「大してありがたみのない、修練してまで手に入れるメリットのない」能力に成り下がっただけで、別に成員がその能力を得ることで共同体の存続が危うくなるわけでもない。

余談ですが、私の居住地の近くには渡り鳥(マガモ)が冬場に停留する池があります。近隣の住人がfeedするために渡りを止めてしまうカモが出てきてしまい、給餌を禁止する看板が立てられています。餌を食べ過ぎて体が重くなり、渡りの途中で死んでしまう個体もいるそうですよ。寧ろウェイトコントロールと飛翔訓練が必要なくらいです。現実はね。

さてここで問題があります。
作中、俗なカモメたちが食わせてもらっている「人間」。
『かもめのジョナサン』の世界を人間社会のメタファーと見立てるのであれば、作中の「人間」とは、私たち人間社会におけるところの何なのでしょうか。

私が『ジョナサン』世界のカモメであったとするならば、正直掟なんぞはどうでもいいです。
重要なのは「人間」です。
人間からfeedされて生きるとは、どういうことなのか。
人間とは、何なのか。
自分たちの先祖は高く飛ぶことを捨てて、人間に寄り添って生きることを選んだ。それはどういうことなのか。
残酷さに慣れる訓練
2015/08/05 01:08
現実の鳥の中にも、カラスやスズメやツバメなど、人間を選んだ鳥たちがいます。ウミネコもですね。ウミネコはカモメの仲間ですが、渡りをしません。渡りを止めたのかもともと習性にないのかは知りませんが、彼らは人間の傍で生きています。
カラスは人間の生活圏に暮らすことで栄養の摂取量が増え、それが脳の体積の増大→知能の向上へと繋がったという説もあります。

前言を反故にして喋り過ぎました。
他人の掟は別にどうでもいいですが、自分の作った掟を曲げるのは嫌なんです。自分を律するのが好きなんでしょう。
ですから掟を破るのはこれが最後です。

何とぞお元気で!
残酷さに慣れる訓練
2015/08/05 01:12
誤読の自由、自身の掘り起こし、異論はありません。問題は、神格化されたジョナサンが再びカモメたちのもとに戻ってきた、そのことをまるで石ころのように扱う思索の様態です。

もちろん、一言一句きちんと吟味しなさいということではありません。なぜそこを取るに足らないことのように扱うのか、ということです。

手塚治虫はラーフラに注釈として悪魔という訳を当てました。そこをわざわざ言い換える。その理由は何なのか。解釈の幅を狭めるためです。悪魔という語句についている宗教色を取り払うため。僕がおきてという語句に対してやったのと全く逆のやり方ですね。

どくたさんが以前、堕胎を殺人だと言い放つのはカルトだ、という言葉に逆上したのも同じ理由によるものです。

このコメント欄がにわかに色めきたったのも。

堕胎が殺人だという非道な言及に反応せずに、それはカルトだという言葉に過剰に反応する。これがカルトの危険性です。その教義、あるべき姿の追求を理由に大切なものを取り違えている。



ごん
2015/08/05 07:58
ワタシはイエスも釈迦も嫌いではありません。
むしろ好きです。
ただ、今、目に見えるキリスト教やら仏教には疑問があります。
ジョナサンは神格化されて戻ったのではなく、戻って再度去ったあと神格化されました。

カルト、、、別に腹が立ちません。
これは、ごんさん的にはいい感じなのでしょうか?
おもしろいものです。
私はごんさんを否定していませんよ。
普通の優等な社会人だな、と思います。
言わなくてもいい色眼鏡を白状すれば、いい教師だなぁ、とも思う。
それはいいことじゃないですか。

ただ、ワタシの思考と視点には圧倒的な溝がある。前々回も前回も今回も。
ワタシのほうが社会的異端であってもかまわないし、その可能性は高い。
それはごんさんも解っているはずなのに、、、絡んでくる。
おもしろいものです。



堕胎は殺人です。



繰り返すのは、ワタシにとって面倒ですのでやめましょう。

毒多
2015/08/05 17:19
愚慫さん

リミッターは、外しません。というか外せません。
外す、外さない、と言っている時点で「才能」ではありません。
「才能」の人は意識せずに外せる。か、最初から外れている。
私はただの平凡な社会人です。
オメーには会社勤めは無理だ、とはよく言われますが ww

もちろん、社会に拘束されていない人は好きです。
リスペクトしています。イエスも釈迦もご本人方はそうした人々です。
ただね、少年Aのときは社会に戻ろうとしていることには好感をもった。
だから社会外にいてしまう人を全てリスペクトしているわけでもない。
しいていうなら、反社会と社会外は違う。
反社会は社会があり、反である。
社会外とは社会とは別物。社会のなかでもいいが、社会でない。
反社会ではなく、社会外と言いたいのはこんなところかもしれない。

子どもの頃から社会性を教えることがデフォの教師と反りが合わないなんて、要素のかけらかもしれません。
青カンの世界が楽しかったのは社会外の空間だったからでしょう。
青カンから離れたのも、そこが青カンを社会化しようとする運動だったからかもしれません。
そんな運動はそれでよかったのですが、何かしら面白くなくなってきた。
まあそこに関わったから、社会外に「憧れる」www感性は養われたのでしょう。
感性があったとしても、それでどうなん? ということは解らない。

あるべき姿は事後にしか感知できない、なるほどねぇ。
あるだろうということは事前に意識できますね。意識するのがよいか悪いかは解りませんが。
毒多
2015/08/05 17:20
残酷さに慣らされる訓練さん

読後の方と語れるのは嬉しいものです。
いつも鋭い視点ありがとうございます。なるほどの連続です。

通り一遍読んだきりですので、不確かですが、
確かジョナサンは、掟の通りにfeedされることをやってみたけど、続かなかった気がします。
確かに機能の増強そのものは、群れに危害を加えることはないかもしれませんが、群れには「異端」を嫌う面はありませんか?
一羽二羽の許容はあるでしょうが、「異端」が増えることは長老たちにとっては、甚だ不安である、という心理。
もしくは手に入れたシステム(人間に依存しfeed)に逆行を拒否する。

この物語を人間に対するメタファとするなら、、、うーん。
現実の人間は何者かによってfeedされているというメタファになる。
物語のカモメの群れは、渡り鳥であるもともとfeedされていなかった。
それが人間にfeedされることになった。システムを手に入れた。
思いつくままに並べてみると、「地球」「神」「文明」・・・「社会」?
なんだろう??

ちょっと時間切れ、続けて考えます。

毒多
2015/08/05 17:20
神格化されたあと、再、再度、還って隣を飛んだのではなかったのですね。誤読しました。僕は僕の偏見にもとづいてどくたさんのエントリを読んでいたのでしょう。まあいつものことですが。

昨日から故郷の島に戻ってます。相変わらず美しいです。

いつものビーチに、昔の僕のブログに載せたあのビーチですが、三羽の白い鳥がいました。カモメではないと思います。三羽でけたたましく鳴いていました。泳いでいる我々のことなど気にも留めずに。

これまで見たことがなかったので一番上の子に、なんでこんなとこにいるんだろうね、と問い掛けました。魚食べに来たんじゃね?という返答でした。

ビーチには業者のパラソルが並んでいます。数年前からそこを陣取って所場代を稼いでいるそうです。

そういえばずいぶんこの風景も変わったな、と思いました。

楽しくお話しできてよかったです。今回もわたしは
ごん
2015/08/05 19:38
あと、ひとつだけ。

どくたさんは、わたしのパートナーと、今後堕胎を選ぶすべての人を、殺人者だと決めつけました。リミッターがないんですね。そこには。


ごん
2015/08/05 20:00
だいたいなんでさ、面と向かって言えないようなことこんな簡単に言えるようになるの?これがどくたさんの発狂?自分だけは夢追い人だから?人のこと人殺しだと言えるわけ?なら産婦人科の医者代われよ。お前がほじくりだせばいいじゃないか。人殺しをすればいいじゃないか
。誰かに勧められて山羊殺してみたのと同じように。


ごん
2015/08/05 21:51
せっかく「魚食べに来たんじゃね」という、引用なしオリジナルの今回一番思索をくすぐる、いいコメントで気分よく終わると思ったのに、せめて>ひとつだけ、で済ませときゃいいものを、、、タメイキ。
毒多
2015/08/06 09:58
マジ面倒なヤツだな。

「堕胎は殺人」は、何十回も百回も殺人の片棒を担がさせられるツレアイとあるたびごとに状況を聞き、話題にしてきたんだからテメーが何を言おうと変わらんよ。ましてやお前の事情なんて個別ケースで変わるわけねーだろうが。
20数週の同じ頃、事故による超早産の超未熟児で生まれてきて、障害が残るだろうが保育器で育つ子(と共に生きようとする両親)もいれば、ヘラヘラ笑って他人任せで殺される子(殺す両親)もいる。・・・まあいい、これはリミッタ超えでも、発狂でもない。正常思考内だ。

ちゅうか、オノレは何が言いたいんだ?
あんたも、実は「堕胎は殺人」だと解っているんだろ。他者にほじくりだして殺させる殺人って知っているんだろう。誰よりも拘るあんたは「堕胎は殺人」から解放されずにいるんだ。他者にそれを否定してほしくて、いつまでもウダウダと乗り込んでくる。ただの甘ったれなんだよ。
じゃあなにか?、「そうだねいろいろ事情があるし、堕胎もしかたないね、人殺しなんてとんでもない、そんなこと言うやつは非人間だ、しかたないよ」と言っていい子いい子と頭でもなでてほしいんか?
アホか、ちゅうねん。オノレの問題だろうが、オノレで解決せなあかん問題を他者のせいにして、「堕胎は殺人」なんて言っているひどいヤツがいる、ボクは絶対に許さいないんだ、こいつを叩いとけばボクの罪が消えるんだとばかりに、自分の問題を他者の問題とすり替えて逃げてるだけとちゃうんか。あまえんじゃないよ。ガキかよ。
毒多
2015/08/06 09:58
「むしろいいんじゃない」

これがリミッタ切れで発狂なんだよ。

せめて他者(胎児)の命を奪った自覚せーよ? その命のうえに立って生きるなら、そうすれば、のんべんだらりと社会人をしているワタシなんかより、ずっと本質的に〈生きられる〉ではないですか。それは何もないよりいいではないの、とさえ思う。
愚慫さんが、自分の手で殺せ、といったのは自覚の問題だとワタシは受け止めている。テメーのように、他者のせいにして、自覚も揉み消そうとする甘ったれたヤローとは違い、愚慫さんと話をしたいと思うのはそこが了解できるからなんだ。

傷つくのがいやなら、こんなブログに近づくんじゃねえよ。ひっそりと人知れずテメー基準の無茶言うやつのいない世界で生きていけばいいだろうが。それでも近づくのは、実はオノレの甘さを知っているからなんだよ、それを否定したくて近づく。そめてそれぐらい自覚せーよ。
元少年Aはテメーみたいな無自覚な生き方はしなかった。自覚してそれでもなお、生きることを愛したいと言った。
毒多
2015/08/06 09:59
だいたいな、誰それが何かいったから、本を読むのはやめた、誰かがこう言ったから映画を観るのをやめた、、、って、アホちゃうか。どんだけ自分に甘いんじゃ、
たかだか本の一冊ぐらい読みやがれちゅうの、映画の一本ぐらいみやがれ、それで怒るなら怒れ、打ちのめされるなら打ちのめされろ。文句を言うなら文句をいえ。
アキラさんは読んだ。そして観た。いつもワタシがどうだろう、と問いかけると読む。観る。「もういいや」と言ったものさえ読む。読んでから、毒多は違う、と言う。これは信用できるんだよ。テメーのように読む観るさえ他者のせいにしているヤツとはちがうんだよ。挙句テメーの妄想だけで、モノ言うやつが信用できると思ってんのか?

ワタシとあんたとの深い溝はここなんだよ。

自覚のないやつが近づくブログじゃねぇよ。
毒多
2015/08/06 10:00
おっと肝心なところをコピペし忘れている。

ワタシは堕胎という殺人を断罪するつもりはない。
それぞれの事情による堕胎を否定するつもりもない。

から、

「むしろいいんじゃない」

に繋がる。

「むしろいい経験なんじゃない」
自覚があれば、、、

おそらくこれは社会的には言ってはいけないことという自覚がリミッターで、外れることが発狂に繋がる。
毒多
2015/08/06 13:47
わたしが今回リミッターを外したのは、先の発言でどくたさんが溝を埋める気がないということがわかったからです。わかってる人間はわかる。わからない人はいくら言ってもわからない。その言葉の行き先がわたしにも向けられているんだな、と思ったからです。はい。また、どくたさんのせいにします。それが言葉を使う人間の責任だと思うので。

わたしは今後も相変わらず人への期待をやめないでしょう。甘えですね。それ以外の自分はここにいません。こういうとヒロイックに絶望してみせる。嫌なやつなんですが、その通りですね。

ただ、まあ、今度のコメントはけっこう強烈でした。でも、この気持ちは残念なものではありません。久しぶりにどくたさんの言葉が聞けたような気がしました。

人殺しと言われたことのある人間に、そうではないと嘘をいうことが、僕の目的ではありません。できるのなら責任を肩代わりして僕が殺したことにしてもいいと思います。でも、それも嘘ですね。文学にはそこを上手に包んでくれるような、一緒にその罪の痛みに立ち向かってくれるようなあたたかさを期待します。その際には、やはり使うべきでない言葉は控えて欲しい、対話できるその場面から、対話者のもとをはなれて、話者の思惑とは無関係に毒素を撒き散らすような、そんな言葉は使わないで欲しいのです。あまいですね。
ごん
2015/08/06 19:05
僕はこの夏たくさんの映画を観てこれからも観ようと思っています。現段階で、ここ20年で劇場に行った数を上回りそうです。子どもたちと一緒なのでその興味に任せてて正直つまらないものもありました。でも、その後の子どもたちとの会話はすべて楽しいです。

認識のその溝が。そこを埋めるやりとりが楽しいんです。いつかこのおっさんとはやってられない、になるまでは、たくさん色んな映画が作られ続けて欲しいと思います。そしていつかアラビアのロレンスや時計仕掛けのオレンジや僕のオススメの映画を一緒に観ることを夢見ています。
ごん
2015/08/06 19:19
今回もまた、面倒くさいやりとりに言葉を尽くしていただきありがとうございました。と言ってもどくたさんの思索は続くわけですから、自分だけがさっぱりしてジョナサンのことを何処かにやるのは都合よすぎる話ですが、これが性分ですので許してください。ではまた。
ごん
2015/08/06 19:28
溝は「埋める」がデフォ、と、溝を「俯瞰する(覗く、認知する、許容する、包括する、埋める、滑落する、飛び込むetc)」がデフォの感性の溝を思索、ということで、このコメ欄は終了でよろしく。
毒多
2015/08/07 17:36

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「かもめのジョナサン 完成版」読了・・・とりあえず“あるべき姿”の一考察 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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