毒多の戯れ言

アクセスカウンタ

zoom RSS 「絶歌」元少年A     読了

<<   作成日時 : 2015/06/14 16:53   >>

ナイス ブログ気持玉 8 / トラックバック 0 / コメント 181

「絶歌」読み終えた。
 本屋の店頭で15pまで読んだところで、躊躇なくレジへ持って歩いていた。
 家をでるまえは、金を支払うことに抵抗があったにもかかわらず。
 この本は読まなければならないと感じた。
 この事件のときも、また今日に至るまでの理解不能の殺人事件が多発していて、思わず「なんでやねん」と呟いてしまう。この本は、その「なんでやねん」に当人が丁寧に応えた本だろう。「なんでやねん」とつぶやき問いておきながら、いざ応えようと言葉を発したものに、そんなもん聞けるか!!という矛盾を正当化するわけにはいかないのだ。
 「なぜ、そうなる」と疑問に思い、問うたものの責務として読まなければならない。
 もちろんワタシ自身も責任を負う意味をこめて、金を払い購入して読んだ。
 

 とはいえ、どうやら被害者遺族の方に出版差止めと本の回収を求められているようだが、はたしてこの本が葬られるべきものなのだろうか? 遺族感情がなによりも最優先にされるべきかどうか? いや、遺族感情の想像はつく、うそだ、想像がつかないほどの複雑な感情に支配され、またそんな自分と闘っていて、その感情がこの本を許さないと言っていることは解りたいと思う。
 この「本」を許さない、と「言っている」ことは解るのだが、で、遺族でないワタシまで遺族感情に支配され目を、耳を、口を閉ざすのは正しいのか? それは違うと感じる。万が一にもこのエントリーを遺族の方が読むことはないだろうが、ワタシには「文字だけの謝罪」とは感じなかったことは書いておきたい。そう感じた人間がいることを表明しておきたい。
 そも、この本は、謝罪を綴ろうとしたものではない、だろう。
 たしかに謝罪はされている。こまかな情景描写、自己分析にくらべてその分量はすくなく、謝罪だけをダイレクトに表すものとする本なら薄情かもしれない。でもオノレの特異性から逃げずに全てを晒し出し、そこから続く謝罪に軽薄さは感じられず、むしろ納得さえ覚えることを白状しよう。第三者であることで前提の納得であることは解っている。


 そんなワタシにしても、本に表出された、殺人に至るAの自己分析の具象は理解できない。
 おそらく多くの通常の普通の常識的な日本人は理解できないだろう。大多数の感性とは違うのだ。社会適応において「正常」という言葉がなりたつなら、彼はやはり「異常」だろう。理解もさることながら、本を読むまでは想像さえできない具象である。
 事件当時何もしらず、無責任に彼を批判していたワタシ自身を振り返る。
 14歳の少年が考えられない殺人を犯すには、理由があるはずだと考えた。その理由とは正常な人間にも理解できる範疇のものという前提だった。
 ワタシは、まず彼の「生育環境」を疑った。母親、両親、環境の非を想像した。
 本を読む限り、その断定的な想像は間違いだったのではないか、と考える。祖母、父母、兄弟ともにいたって普通で、というよりはむしろ良い人で育児も環境も良いという印象である。
 事件前も事件後もAに寄り添い、生きていこうというふうにしか読み取れない。「生育環境」云々というような、解ったようなことを「想像」した自分を批判するしかない。反省して、解らないことを断定的想像をしないようにしなければならない。彼の親族にも謝罪する。

 普通の人間の普通の想像では辿りつけない心理・精神構造をもつ人間もごくまれにあり、「生育環境」云々、「社会の在り方」云々とは違う(かもしれない)、社会的理不尽の行動に移ってしまう、そうした人間も存在するのだというを認識するべきだと思う。もちろん、だからといって理解不能な殺人があることも許されるという結論にはならないのだが、それにしても何かそうした社会と離反する因子をもって生まれてくる人間が存在するということ。その因子をほぼ認知されてないことは覚えておくべきだろう。
 この異常ななにかしらを持って生まれてしまった人間が、この殺人と殺人から派生する多くを何とかするためには、為す術がないことをしり、それでも前に進むには、もう出版するしかできることがない、と、Aは感じた。それしか「生きる道」はない、とした決意を解りたいと思えるのも、本を読めたからこそである。むしろ読む前は被害者遺族の気持ちのほうに偏るワタシがそう読み取れてしまったのだ。
 

 よく、全ての人間には「生まれてきた」意味があり、「生きることは素晴らしい」と朗らかな言葉を耳にしたり、ワタシも10年に一度位は自ら発したりするが、こうしたごく希にいる人間も含めてなのだろうか?
 あえて、「含めてです」と言いたい。
 事件後のAの変化、これは更生という意味ではないのだが、「生きる」ことと向き合っている言葉を読むに当たり、しかも異常な殺人を犯した者が発する言葉を識るにあたり、やはり深く思索に導かれる。

>「死ぬ」ことよりも「生きる」ことが何千倍も怖かった
から
>僕は今頃になって「生きる」ことを愛してしまいました。
に至るひとりの人間。

 決して幸せになれないという自覚、「苦しい」「辛い」と思うことさえ許されない、と自分を律するにあたり、それでも「生きる」ことを愛した、というAを、、人間を識りたいと感じずにはいられない。

 おそらく彼が続篇を出版するなら、ワタシはまた金を出し読んでいるだろう。





 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 8
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(181件)

内 容 ニックネーム/日時
読んでないから内容については語れないけれども…
毒多さんの文章を読むかぎりは「少年A」の成長日記?

で、感想(ブログ記事についての)なんだけれども…

毒多さんは「少年A」の成長を好意的に捉えているようだけれども、自分は彼について少年法の影響からか「罪を償った人」という感覚がない。
よって彼と同じ社会に生きているということを許容できない。
しかしながら彼を殺すことも出来ないので彼を「空気」のように考えることにしている(ちなみに女子高生コンクリート事件の犯人なども)。
その「空気」が自己主張を始めると自分の心に妙なさざ波が立つのでなんか鬱陶しい。
彼のこの世での存在意義は遺族の好意と彼自身だけに成立しているだけというのが自分のあらためての認識。
よって彼が本にしたためたことは遺族に直接言うか、遺族に聞いてもらえないなら墓場まで持ってけっていうのが自分の結論となりました。

ところで、毒多さんは遺族や遺族感情について触れられたけれども、別に出版することを非難するのは遺族だけではないね。自分は少なくとも「少年A」が実名で今回発表してることを願う。そしたら彼に直接抗議できるだろうしw
NAN
2015/06/17 15:27
NANさん、こんにちはお久しぶりです。
コメントありがとうございます。

正直いって、感情をベースにした大衆の代弁のようで、NANさんらしくないコメントと感じました。(わざとこうしたコメントをぶつけてみた、ということではないですよね?)
「未読の固定観念」にはレスしにくいのですが、他ならぬNANさんですのでコメントに添ってレスします。できることなら冷静に受け止めてください。

>成長日記
「絶歌」は猟奇殺人者本人による、自己分析/状況・心理の回顧録および、法律上の罰を終えてから現在に至る生活をしるした記録です。

>好意的に捉えている
自分では好意を持っているという自覚はありません。読前は、NANさん(大多数)と同じように嫌悪感、反吐感をもっていたにもかかわらず、一気に通読してしたこと、読んでよかった思えたこと、また好意を持っているのではないか?と他者に印象を与えることを考えると、そうした面があるのかもしれません。

>「罪を償った人」という感覚がない
おそらく当人、被害遺族、第三者(ワタシ)をふくめ「日本国法律」以外のほぼ全てが「罪を償った人」という感覚はないと思います。当人も一生償える罪ではないと考えていると読み取れます。

>同じ社会を生きているということを許容できない。
これは元少年Aではなく、NANさんの問題です。NANさんが自ら解決するか、解決しないで「ないものにする」かを決め、ご自身で行動するしかない。
後者を選択する場合、SNSのコメントも含め「ない」を考えなければなりません。
事件後と読前のワタシにも多少そう(許容するか否か)感じる面がありましたので、ワタシの問題の解決として「読みました」
毒多
2015/06/18 11:50

>彼を空気のように・・・鬱陶しい。
無視できない心のさざ波もNANさんの問題です。元少年Aの問題ではない。

>彼の存在意義
彼だけでなく、人間の「存在意義」を人間が決めことができるのですか?
NANさんは、他者の存在意義を決めつけるほど傲慢な人間なのですか?

>彼がこの本にしたためたことは、、、
何故、「未読」なのに、こう言えるのでしょう?
コメントの最初のセンテンスと矛盾します。
これまでのNANさんは、一応自分を第三者的におき、資料等を提示し、それから物を言っていたはずです。まったく、らしくない。感情におもむいたままのなんとなくな結論が他者を納得させると思いますか?

>出版を非難するのは遺族だけでない
むしろ、ネット上では、非難しかみえないと思えるほど、大多数が非難轟々であることは知っています。だから何?、ではないのですか? どうしてしまったんですか?  大多数であるから「正しい」わけがないでしょ。むしろ感情による大多数は疑うべきではないのでしょうか? あなたが多数に迎合する人間であれば、ここにコメントしなかったはずです。また多数の感情と同意であれば自分を疑ってみれる人ではなかったのでしょうか?

>実名
どちらでもいいけど、つまらないことです。
だいたい抗議前提ってのは思考停止ではないでしょうか。


 正直に申しまして、精神科医と診療心理士と教師には、読んでみましょう、と進めますが、オノレの感情が絶対に正しいと信じ込んでいる多数に「読んでみましょう」と素直に推薦できる本でもないのです。
 知りたい、と思う人が読む本でしょう。自分を確認するために読みたい人も少なくはない。出版された意義はあると思います。
 
毒多
2015/06/18 11:51
本を読んでいません。ただ、最近の事件なども合わせて考えますと、人間を殺人に向かわせる何らかの技術が開発されているのではないか(第2次世界大戦で研究されたとか)、あるいは記憶をあいまいにする、記憶をつくりかえる心理操作みたいなものがあるのではないか、と考えたりしております。
オウム真理教ではそういったマインドコントロールが行われていたように見受けられました。
しかし、あれすらも見る側のマインドコントロールになっていた可能性もありますね。

脳科学分野での倫理規定など必要ではないか、と思われます。
メゾフォルテ
2015/06/19 09:33
はぁ〜、またかよ、ためいき。
多数のヒステリックな「未読の固定観念」とは違いますが、「未読の妄想」が激しすぎます。
ものをいいたいなら、まず、読みましょう。

せっかくですので、いいことを教えてあげます。
「絶歌」をかいた元少年Aのバイブルとして上げている本は「金閣寺」です。もちろんあの三島由紀夫のです。
「絶歌」読後、ワタシは何十年ぶりに「金閣寺」を再読しました。彼と溝口は通底するものがあります、、、、どうでしょうか?少しは読む気になりましたか?
毒多
2015/06/19 11:36
こんにちは。

この本、定価はいくらなんですか?
アキラ
2015/06/19 13:22
アキラさん、、、世間の空気に息がつまりそうです。orz
おっと、定価ですね。1500円+税です。

あげましょうか、と言いたいところですが、ツレアイが読むかどうか悩んでいるところなので、いつになるか解りませんから、約束できません。

蛇足ですが、印税についていろいろ言う人もいますが、何か言う人は、実は「ただ羨ましがっているだけ」だと思います。おっと、また余計なことを、、、反省。
毒多
2015/06/19 14:33
┐(-。ー;)┌ やれやれ

>他者を納得

最初に自分の感想と断りをいれてるし、いままでもこれからもネットで他者に影響を与えようなんて思わないねw

ていうか…人に冷静を求める前に自分が冷静になろう!
自分を確認するのはいいけど本から影響されて自分を見失うのもどうかと思う
はっきり言ってここのコメント欄でも新記事でも少し攻撃的で唯我独尊すぎると思うよ(毒多さんがしたように逐一コメントをあげることはせんけれどもw)

らしくないね
NAN
2015/06/20 19:08
NANさん、対話になりませんでしたね。残念です。



人は、自分に理解できないことを、反射的に否定する
「汝らは、汝らの量る秤で量られるであろう」
その人の限界(自ら引く)
考える悦びとは、未知を知る悦びである

池田晶子「リマーク」より
毒多
2015/06/21 05:27
メゾ フォルテさんからもコメントを頂いていますが、読後感想のエントリーにおいて、「未読」の方と対話はできないのは道理です。以後、このエントリーにおいては何かご意見をご感想を書きたい方は、読んでからにしてください。 なお、読む前提での、読前の疑問質問についてはこの限りではありません。
毒多
2015/06/21 06:27
1500円+税・・なんですね。
アマゾンで見たら3000円以上したので、やめました。 (^o^)
『金閣寺』と通底するというニュアンスでしたら、敢えて(義務的に)読む必要もないかなと思い。。。

「彼」が何をどう思っているかは分かりませんが、「そういう人ってのはいる」ということだけは理解できます。
アキラ
2015/06/23 22:10
3000円は信じられないボッタクリです。
金閣寺の溝口と通底すると書きましたが、私感で敢えて言えば、ということと訂正します。自信はありません。

生まれ持った因子なのか、裡なる何か、としてはどうなのか、「ワタシが読み違えているのか?」などなど、アキラさんの感想を聞きたいワタシがいます。
ただ、義務的に読んでもらうのは本意ではないですから、、、考えます。
しばし、お待ちを。
毒多
2015/06/24 08:34
残念ながらといいますか、当然の成り行きといいますか、程なく古本屋にて廉価で並ぶだろうと予想します。
読むのはそれからでもいいか、と僕は思っています。

この本もまた「消費」されていくでしょう。僕はそれでいいと思っています、プレミア価格が一時的に付いてしまうのはセンセーショナルに取り上げられたためであって、いうまでもなく、本そのものの価値とは何の関係もありません。

「消費」するにせよ、心に留め置くにせよ、現下で興味深いのは、出版が巻き起こした「騒動」の方ですよね。
愚慫
2015/06/24 10:02
愚慫さん、お久しぶりです。生きててよかった。

もちろん本を読むのはいつでもいいですね。
古本屋に並ぶのも待つのぐらいなら、いっそ古本も買わずに待つのもありでしょう。思わずいつかどこかから手に入るかもしれませんし・・・(笑)

このエントリーは、私が読んだ、ワタシのタイミングです。ワタシは少し対話すことができたらと望んでいます(いました)が、じゃあ、他者に今(ワタシのタイミングに合わせて)読め、ということは言えません。
まどマギが話題になったとき他者に観ろと言われなかったように、イスラムが話題になったときにご指定のイスラムの本を読めと言われなかったようにね。
ただ、将来、愚慫さんが読んだときにワタシの興味が持続しているかどうかは解りません。消費というか消化されてしまっているかもしれませんから。

ただね、まどマギを観てこう思った、イスラムのこの本を読んでこう思った、という話をしているなかで、観もしない、読みもしない者がオノレの妄想だけで何かを言う、そんなヤツの話は聞けません。本当は相手すらしたくないかった。このコメ欄の上のほうのようにね。自分のブログなので仕方なく相手をしましたが、案の定です。まあいいんですけど。

>現下での興味は「騒動」
それはそれで一つのテーマかもしれません。
・・・「印税」やら「子供への影響」とか「犯罪抑止」とか「表現の自由」とか「出版そのもの」とか、、ワタシにとってはホントどうでもいいことですが、それにしても最低読んでから物言えよ、とは感じてしまいます。・・・ホントもういいや。
毒多
2015/06/24 17:02
今回は、なんだか対話のハードルが高いんですね。

『絶歌』を巡っての態度は、とりあえず4つに分類できるように思います。

1.肯定的も読んだ者。
2.否定的に読まなかった者。
3.否定的に読まない者。
4.否定的ではないが、読むタイミングに巡り会わない者。

1.は次の記事にコメントをされましたよね。でも「対話」は始まらなかった。始めなかった。

3.と4.は、対話を始める資格がないようですね。

では、2.なら対話が始めるのでしょうか?
そうでないような感じもするんですが...

毒多さんは、一体、なにを求めておられるのでしょうね? 僕には対話を求めているようにはあまり感じられないのですけれど...。

愚慫
2015/06/25 05:54
>対話を求めていない

確かにそうかもしれません。
「読んでなお否定的」な人とは対話できるのだろうか、と考えましたが、今は、はたして対話になるのかどうかも疑問です。

もともとのとっかかりが、「未読の拒否感」の否定感はありました。これは自分に対するものでもあり、それで、実際に読みました。で、「未読の拒否感」に対する否定感は強まりました。そのうえで、
「内容」に何か感じ入るものがあった、この自分の感性はどうなんだろう?、とつづき、知りたいと思いました。

さてワタシは何を求めているのでしょう?
ワタシの(読後の)感性の肯定を求めているのかもしれません。つまりは安心、安定を求めてる。共感を求めている。
もちろん、そこを求める単純ではない経緯はあります。
とはいえ、他者に求めるのは甘えかもしれませんし、ましてや、強要するものでもない。そんなつもりもありませんでしたが、多少ムキになっていたところは認めます。

ワタシは何を求めているのでしょう?
とりあえず、読んでみて欲しい、、でしょうか・・・

4.読むタイミングに巡り合わない者

そうしたことを責めるほど傲慢ではないつもりです。
ただ、読んでしまった者として、「現下の騒動」を切り離してで対話できなくはなっています。
毒多
2015/06/25 09:36
>「現下の騒動」を切り離してで対話できなくはなっています。

ここは強く感じます。なので、僕としては同じ土俵に乗りたくない、と感じるところではあるんです。

毒多さんが「読むタイミングに巡り会わない者」を責めるほど傲慢だとは思いませんが、しかし、それにしても、今回はいつになく攻撃的な印象です。義憤というよりもっと近くて、自身か身近の者が攻撃されたときの反撃という趣すらあります。

次エントリーなど、その攻撃性がご自身に向いてしまったような。

いったい『絶歌』の何が、毒多さんをそのように覚醒(←エヴァンゲリオン的意味w)させたのか?

それは『絶歌』を読むと理解可能でしょうか?
愚慫
2015/06/25 10:06
>攻撃的

ですね。確かに。
これが強いと、全ての未読者を責めるように感じらるかもしれません。また読む意志のある現状未読者にとっても不快かもしれませんね。
反省します。

愚慫さんが未読故に土俵に上がりたくない、という感覚に、敬意を表します。

さて、ワタシが「覚醒」した?wwのは何故でしょうね?
「絶歌」の世間の全否定のみが理由ではないとは思いますが、トリガーにはなっていたのでしょう。なんとなく、いくつかの要因は察しはつくのですが、今はまだ解明中です。
個人的な要素が多そうなので、「絶歌」を読んでも「覚醒」については理解不能かもしれません。
毒多
2015/06/25 11:54
愚慫さんが仰るように

>この本もまた「消費」されていく

…のは、消費文化の持つ必然的帰結であって消費者個人がそうそう抗えるようなものでも無かろうと思います。
一方で「人の生きざまをコンテンツ化してぱくぱく食べちゃうことのあやうさ」
twitter.com/kuko_stratos/status/613618543465119744
という問題もあります。当該のツイートは別の文脈から発したものですが『絶歌』にも通じる部分があります。
この手記は事実とそれに伴う個人の自己省察が綴られた体裁のもので、著者個人の人格から完全に切り離した上で作品そのものとして鑑賞することが不可能に近い種類の作品です。そういった類の作品を著者個人が自由意思で執筆し、世に出したものであるから良しとして受容することは、果たして本当に良いことなのかという懐疑が私にはあります。
お前が消費しているものは、果たして本という消費財なのか?という自問。

「彼の側に立ちたい」という思いもエクスキューズに過ぎず、所詮は特異な人物の数奇な人生を、安全なところから他人事として消費しただけではないのかと。お前がやっていることは、エレファントマンの見世物ショーを木戸銭払って眺めることと何がどう違うのか、そう自分自身から突き付けられている気がします。


眞一
2015/06/27 11:56
 確かに、愚慫さんが言われる「消費」も、さらに展開した眞一さんの書かれていることも一面を言い当てている、ような気がします。
 でも「消費」という目線(一面)には「現下の騒動」的な目線を感じるんです。社会的目線です。社会目線では、木賃払って安全な高み的な「消費」されていくのかもしれませんが、そうした一面だけでしょうか?
 理解し難い猟奇殺人をおこなった人間が、自らの口で振り返り、それを知る。そこから人間そのものとか人間の存在を考察するのも、いやただ知りたいと思うのも、やはり「消費」になってしまうのでしょうか?
 
 今、「自閉症スペクトラム」である東田直樹という一人間の手記を読んでいます。健常発達に分かりやすい言葉でかかれています。自閉症スペクトラムのその見た目、言動は理解しがたい、言葉を通してしか知り得ない、そんな内なる声を読んで知る。
 一緒に買った本は、ろくでなし子の「私の体がわいせつ?」という本で、例の3Dまんこの作者です。
 後者は未読のためよくわかりませんが、他者の理解し難い思考回路、嗜好、行動、感性、心性を知ろうということを一括りに「消費」とするとするなら、それには抵抗はあります。
毒多
2015/06/29 15:05
>毒多さん

元少年Aさんの投げかけたものを受け取って、それを自分なりに消化し切ったという自覚があれば、私個人の感覚に照らして「より良い」と言えましょう。

ただ現状、私には消費と消化の境がよくわかりません。

例えばダンベルカールとかでしたら、始めた当初は5回も上がらなかったダンベルが20回は上げられるようになりましたといった風に、変化や拡張を身体で感じ取れます。
もう大分以前に「血肉化」という話題がエントリで交わされましたが、inputに対して感覚しやすいoutputとそうでないoutputがあります。「血肉化」が見える。一方、outputが明瞭に意識されないものは、inputがどう働いているのかも見えにくい、

消費についていえることは、受け手の目線(構え)がどうであろうが、現代人は膨大な情報を消費するというマナーが既に身に付いています。書物・絵画・音楽、何が対象であっても。そこからは容易に逃れられないというのが私の考えです。
『絶歌』読了後数日間、私の心には余震が残っていました。揺れていました。しかし1週間も経つと私の精神状態は全くもとに戻っていました。確かに私の覗いたことのない領域に到達して、更に私たちの日常に戻ってきた人物の稀有な言葉に触れることができました。
心が揺さぶられた。思索した。
それで、私はどうなったの?という自問。何か変わったの?という自問。そこに懐疑があり、確信がありません。
時間の経過に伴い、目が開いたような感覚も雲散霧消し、結局読んだという事実だけが残るのであれば、他人の稀有なドラマを消費した以外の何なのだろうという懐疑が頭から消えないのです。
眞一め
2015/06/29 19:31
「め」って何? どこから紛れ込んだのか…。

まあ私は毒多さんに比べるとずっと懐疑的なタイプのようで、自分の感覚に対してもどこか確信が持てないところがあるんですよ。
「信じたい」ってのも、どこかに信じきれない自分がいることを自覚してのことでしょうしね。
こうして書いているコメント自体、本当にそう思っているのか自分で疑っているところすらあります。
眞一
2015/06/29 19:41
情報としての「消費」は解りますし、事実一面だと思います。
なんとなく、それ嫌だ、と感じ「消化」と言い換えてみたところで、何かが血肉化されたか実感などありません。

「絶歌」の何に揺り動かされたのか、をなんとか知ろうと、元少年Aが好きだという「金閣寺」を再読し、「トニー滝谷」を読んでみましたが、さっぱり解りません。解らないまま「本」から少しづつ気持ちは離れています。

前出 自閉症スペクトラムの内面世界を言葉で表された本を読了しました。これにも「絶歌」とは別の驚きと認識ができました。かといって何かが血肉化されたという実感はありません。
これもやはり、消費というのでしょうか?

しょうひせう―01【消費】
(名)スル
@ 物・時間・エネルギーなどを,使ってなくすこと。「時間を無駄に―する」
A 〘経〙 欲望充足のために,生産された財貨サービスを使うこと。

うーん、考えてしまいます。

まあ、自分の感覚に確信がもてないのは、ワタシも同じです。
なんの確信も自信もありません。
毒多
2015/06/30 16:56
なぜ、本にして売るという方法を選んだのか。という点だよね。みなさんおっしゃるのは。どくたさんのおっしゃる生きるため、というのが生活の糧を得るため、だとしたら、謝罪文をそこに使う薄気味悪さ。引っかかるのはそこ。僕は、読みたくないなそれなら。

はじめからそこを問題にしてるよね。アキラさんは


ごん
2015/07/02 20:04
ありゃ?書きこめちゃった。

びっくりついでに書きます。このエントリ好きでした。コメントに対して、読んでからものを言え、というのが出てくるまでは。

どくたさんはご自身の息子さんにも同じようにこの本を勧めたのでしょうね。わたしはたとえば、ドストエフスキーも、朔太郎も、すすめません。こんなかたちでは。読んでから批判しろ、とは。決して言いません。もちろん、生徒たちにも。

ごん
2015/07/02 20:24
ワタシとて意外な方の書き込みに驚いております。
ネット空間では、その時々の思考、興味、感情、勢いですれ違うこともありますので、ある時点の思いにより「この人もうダメだ」とシャットアウトしないように自分に言い聞かせております。コメ禁なぞ、すぐに解除しています。たとえ「水」で対立した人とであろうと、必要であれば対話できます。
いずれにしろ、お元気そうでなによりです。

「薄気味悪い」等、猟奇殺人者の出版に関しての個別判断や個別感情についてあることは認識しています。また、「読んでから物言え」というのも、しょっぱなのコメへの感情の反応からの勢いもあり、言い過ぎかな、と多少の反省もしておりますが、やはり、このエントリーは読後感想なので、「このコメ欄」においては、「読んでから物言え」も間違いだとは思っておりません。
上で愚慫さんへのレスでも書きましたが、未読の出版への判断・感情と既読の出版への判断・感情が異なることが有ることを理解ください。未読、既読かかわらず、このエントリーのコメ欄以外での「物言い」については、ワタシがとやかく言うことではないと、思っております。
毒多
2015/07/03 10:51
「本を勧める」ことは意識せずに行っています。が、流石にこの本に関してはアキラさん、愚慫さん以外の方へは勧めておりません。アキラさん(価格によっては)、愚慫さん(古本なら)、という読む意志を感じましたので、勧めました。
ご想像のように、息子にも勧めておりません。父が読んでいるという認識はあるでしょう。ツレアイは最初「読む」と言っていたのですが、ワタシが「殺人あたりの理解できないホラーのような現実」のくだりを読んだあたりで、「読まないほうがいいかもしれない」と伝えました。最後まで読んで、「読んでみてもいいかも」と言い直しましたが、ツレアイの「読まない」という言葉で、やりとりは終わりました。
ネットでもリアル周辺でもの上記お二方以外には勧めておりません。どんな本も紹介しないうちの一冊ではなくても、教師が生徒にすすめる本ではないと思っています。

読んでから批判しろ、は、このエントリーにこのコメ欄へのわざわざ批判コメをされた方への、この場の言葉です。

あ、どこかに精神医と臨床心理士と(もしかしたら)教師は、読んでもいいんとちゃう、、みたいなことを書きましたが、もちろん、今後元少年Aのような少年に遭遇したときのために、という意味です。

毒多
2015/07/03 10:52
誤)ご想像のように、息子にも勧めておりません。

正)ご想像とは異なり、息子にも勧めておりません。
毒多
2015/07/03 10:54
おや?

懐かしい人が、相変わらずの「お姿」を見せておいでですね。(^▽^)
愚慫
2015/07/03 16:50
毒多さん、ありがとうございます。
とりあえず、第一部まで読みました。

まだ中途なので感想は変わるかも知れませんが、とりあえずの印象は「正直」です。この著者は、この著者なりに正直に書いていると思います。

でもって反社会的。「正直」が「反社会的」なんでしょうね、この人。

人間はそもそも社会的な生き物です。
そこを基準にすれば、病的なんでしょう。
おそらく生来的に。

その「生来的に病的」な部分は、僕にも共通のところがあるな、と思います。

もしかしたら、毒多さんとも?

一般的な理解はなかなか難しいというか、ハードルが高いと思います。まずは専門的な研究対象となるようなものだという気がします。
愚慫
2015/07/03 16:59
この『絶歌』の問題。3つのレイヤに別れると思います。

1.著者の表現、という問題。 
2.出版物である、という問題。
3.出版が巻き起こした問題。

1.は、著者の心の問題。
2.は、著者と出版社の問題。
2.は、社会問題。

この3つは密接に絡んではいますが、だからこそ、切り分けて考えるべき問題だと思います。

1.に焦点を当てるなら、読んでみないとどうしようもない。

2.3.は、読んでみないでも意見を述べることはできますね。

特に、3.は、読んでいない方が純粋に意見できるという思いがあります。

「消化」「消費」という言葉が出ましたが、「消化」は1.に関して、「消費」は3.に関して当てはまると考えて頂けるとわかりやすいのではないか、と。

もっとも、上でも述べたとおり、「消化」に関してもかなりハードルが高いというか、特殊な“消化酵素”を持ち合わせていないと難しい類いのものだと思いますが。
愚慫
2015/07/03 17:14
1.の「著者の表現、という問題」についても、この本の著者は「本当にあの少年Aなのか」という問題も出てきます。
匿名である以上、確かめようがない。

加えて。
あの事件は事実です。
が、この「著者の表現」はその事実に関して綴っているものなのか、それともある種の創作表現なのか、そこも曖昧模糊としています。
そしてこれも確かめようがない。

ですので僕の場合は、ちょっと真剣な考慮の対象にはなりにくかなと感じています。
その意味では、そのどちらであってもあまり関係なく、波長がそもそも合う人にしか響かないのでは?・・と思ったり。
アキラ
2015/07/04 00:08
アキラさん

まず最初に、、、
貴重な時間と手間を取らせてしまって、申し訳なかった。どうも、すみません。悪かったね。ごめんちゃい。とりあえず謝らせてください(笑)

本人かどうか?という疑問を呈されたことで思い出したのですが、このブログの北星学園の学生さんにメッセージを送るというエントリーをたてたさいにも、アキラさんは、最初にその学生の真偽を疑っていたことを思い出しました。
アキラさんらしいという感じはまったくしないのですが、アキラさんにある一面なんだ、と新たに認識しました。もちろん真偽の疑問はあると思いますが、、、そこに、あまり気にしないのがワタシの性格かもしれません。

表現は、脚色もふくめて「本人(として)」の内心だと思っています。
もしかして、ワタシは「事件が事実」ということをあまり重要視してないのでしょうか?、もしくは、本の表現とは別物としているのでしょうか? 1.に重きをおくということはそうした心理があるのかもしれません。2.3に重きを置くとは、「事件が事実」に重きを置いている、、ということはあるのか?????
毒多
2015/07/04 15:44
アキラさんのコメントを読むと、本人の真偽、表現ということよりも、「波長」の問題のような気もします。こうなってくると、全てを超越してしまいますので、言葉では、太刀打ちできません。たとえば、NANさんなんかとも、ここの周波数違いが問題となると絶対に分かり合えないでしょう。
多分、アキラさんにとっては、ここにコメントすることもスルーすべきことだったと想像します。私が名前を出してしまったばかり、書かなくていいことをコメントさせたとしたら、申し訳なかった。です。
いろいろ、ごめんね。

あらたな疑問として
「波長」はどこで生成されるのでしょうか?
DNA?、生育歴?
「波長」は常に変化するというか、是々非々でしょうか?
この件に関して、波長が合わない、、となるのか? そんな気はしてますが、、、(全てにおいて波長が合わない人も存在します。)
整体的に波長の問題が提示できるのでしょうか?(これ、もしあると長くなりそうなので、別の機会でいいです)

毒多
2015/07/04 15:45
愚慫さん、もしかしたら対話になるかもしれない、ということで、レスの順番を変えました。

とはいえ、対話は最後まで読まれてからに、、しましょう。

1部まで読まれて、疑問点(アゲンスト)も含めて、ある程度波長(ここでの波長を言葉で表すと「生来的に病的」ww)はあっているような感じですが、全てを読まれて波長が異次元となると、対話にはなりませんね。推薦した私は自己嫌悪に陥りそうですが、祈る気持ちで読み終わるのをお待ちします。

レイヤ分けによる整理は、解りやすいです。
特に「3.は未読の方が純粋に意見できる」には納得。
その「純粋さ」は、内容とは関係ないものですね・・・でもその「純粋」って??とふと思いました。と、これも含めて、読了をお待ちします。

まったく少しも慌ててはいません。ごゆっくりお読みください。
毒多
2015/07/04 15:56
レスありがとうございます。

この原稿が完成したのはいつごろのことでしょうか。あと、こういう風に出版物として発表することに思いいたった経緯について、信用できる形で著者からの説明はありますか。

もちろん、自分で読んで確かめろ、ならそれでも構いません。いずれ、読むでしょうから。

あと、こんな妙なところに突っ込みをいれるのはなぜか、と言えばもちろん嫌がらせでも、論争をふっかけてるのでもなくて、相変わらずメディアというものを信用してないからです。

メディアはうつしたくない現実が存在するとき、代わりに一面を飾ってくれる記事を欲しがるものですから。
ごん
2015/07/05 09:53
わたしは、メディアの煽りや著者の金儲けのほとぼりが冷めたら読もうと思っています。

わたしは今回の件で、テレビよ。有名になりたくてジョンを殺したクソを映すのはやめてくれ。という言葉を思い出しました。

サカキバラとして書くのなら、本として出版するという形を選ぶべきではなかったし、文筆家になりたいのなら、別人として自分を表現すればいい、と思います。彼がわたしの生徒だったら、そう伝えます。

本人にそのつもりはなくても、あなたのやっていることは、殺人者としての自分を売ることであり、そんなことは止めなさい、と。

ごん
2015/07/05 10:12
あと、もうひとつ。

わたしが薄気味悪いと言ったのは、彼の犯した罪のディテールではなくて、彼が殺人者としての自分を売ること、です。それをしつつ、彼が本の中で贖罪や彼にとっての生の本質を語っているのなら、薄気味悪いということです。
ごん
2015/07/05 10:23
・毒多さん

いえいえ、読まなければ分からないことがあるわけですから、それが出来てよかったです。(^^)

僕自身のことで言えば、本人を知っていて、なおかつその人をより理解していくときには、その人の創作したものに触れることは、その人を知っていくよすがの一つになるので、積極的にやりたいところです。

けれどこの本の場合は、そういう意味でのよすがにはなり得ないかなと思います。
ですので、彼自身を知らない僕としては、読み解いていくモチベーションがありません。
単にそれだけの話なのだと思います。

毒多さんの場合は、本物の元少年Aと、この本の中の元少年Aとが、どれだけ照合するのか 解離するのか、そこのところはある意味 どうでもいいのではないでしょうか?
この本の中の元少年Aが あの少年Aだ…ということでよい、と。
アキラ
2015/07/05 12:54
「波長」という言い方をしましたが、要するには意識的でも 潜在意識的でも、その人が何となく気にかかっていることについては反応してしまう…ってことじゃないんでしょうか。
僕にはこの本に対して、あるいはあの少年Aに対して、それがないのだけれど、毒多さんにはある、と。
だから、何かよく分からないけど惹かれるんだよね〜 ってことになるのかなと思います。
アキラ
2015/07/05 12:55
読了しました。

一昨日、コメントを投稿した後すぐに読み終えてはいたのですけど、少し言葉を暖めていました。

まず、アキラさんのコメントが興味深いです。おそらくですけれど、僕もアキラさんと同じようなことを感じています。著者の“表現”から著者の“生身”が想像できないんですね。

それは第一部で感じたとおり、第二部でも同じです。そのことを僕は「正直」と評し、同時に「反社会的」と言いました。

同じタイプの“表現”に心当たりがあります。

例えば、サルバドール・ダリの絵画。
ヘルベルト・フォン・カラヤンの音楽、などですね。

これらの“表現”から表現者の“生身”を感じ取ることはできません。というより、“表現”と“生身”が切り離されていることこそが、その芸術の特徴と言えます。同じ事を、僕は『絶歌』の“表現”に感じます。

そのことをが良く感じ取れた、ということが「正直」という感想です。
愚慫
2015/07/05 14:45
表現と中身とが隔絶されてしまっている。アキラさんが指摘されたように、「通常」は、

その人の創作したものに触れることは、その人を知っていくよすがの一つになる

のですが、そうではないんです。だから、「病的」であり、「反社会的」です。

カラヤンとダリには、性格上の共通項が指摘されています。“自己愛性パーソナリティ”と言われます。おそらく『絶歌』著者も同じでしょう。
愚慫
2015/07/05 14:55
以上は、もちろん、僕の主観的な推測です。
以下、推測を元に、問いを提示してみます。

表現と中身が(生来的に)隔絶されていたとして、では、著者が表現しようとしていた「中身」は、ホンモノかニセモノか? という問いです。

この問いは、他者からは確認しようがありません。
なぜなら、他者が受け取ることができるのは、表現のみであり、その表現と中身が隔絶しているとするならば、中身の確認のしようがありません。

そうすると、次の問いが提起されてきます。

確認できないものは、存在するのか、しないのか?

哲学的を通り越して、神学的な問いですねw

僕は、存在すると思います。

というのも、僕にも同じく、程度の差こそあれ、「表現と中身の隔絶」が存在するからです。

「隔絶部分」に中身がないのかと自身に問えば、それは否です。間違いなく存在します。こここそ、「私が私」であることの核心部分です。

だから、ダリにもカラヤンにも『絶歌』著者にもあるに違いないと確信します。もはや“信仰”です。
愚慫
2015/07/05 15:06
もう一段、推測を進めます。

隔絶されていても「中身」はある。
にも、かかわらず、伝えることができない。

僕が「正直」と評した根源的な理由はここにあります。

つまり、「伝えることができないこと」を伝えようとしているというふうに感じられる、ということです。

この部分は、あるいは僕が想像で補っているのかもしれません。いえ、まずそうでしょう。

想像で補ってしまう、というところが、アキラさんの評した「波長」ということになるのではないか、と思いますが、これもまた、想像でしかありません。
愚慫
2015/07/05 15:12
ごんさん、
再コメありがとうございます。

出版の経緯は知りません。考えもしなかったところをみると、そこに興味はなかったということでしょう。本を読んでもそこは書かれてなかったような気がします。

メディア云々について、当初は言われるように騒がれていることを知りませんでした。そこは少しオノレの振り返りたいと思います。

私がこの本の出版を知ったのは、とあるSNSで取り上げられていたことから始まります。そのSNSのコメ欄には、愚慫さんのレイヤ分けでいうところの 2.3.出版に関する感情とSNS主の反発(これも2.3ベース)のみが書かれていました。
私は、確かに最初『出版への「反感」に反感』を持ちました。もしかしたら、この初感をベースとして意地になって、引きずっているかもしれません。出版そのものに大きく疑問を持つことはなく、最初から「読まなければならない」「読まなければわからない」と感じ、即読みました。読んでみて、『「反感」への反感』は、むしろ強化されたような気がします。読んでなお「反感」への反感『のみを根拠』に意地になれないだろう、と、自分を顧みています。
いまとなっては、出版への疑問を多数が持っていることを知り、私には、既読ゆえに出版そのものへの反応に純粋さがないことは感じています。これは上で指摘された通りです。
毒多
2015/07/06 11:28
ということで、「メディアの煽り」はまったく知りませんし、メディアの意図的な弊害は知っているものの(ここの感覚は昔と変わりません)、この本の出版については、その発想はまったくありませんでした。本当に「一面」を飾る勢いで噂になっているのですか?まったく知りません。
事件が「猟奇」であるというイメージは私のなかにも残っていて、その(元)犯人が出版することに驚いたことも思い出しますが、やはり、繰り返しになりますが、むしろ純粋に読みたいと感じたのが最初でした。
この感覚がどこからくるのか解りません。そもそのことがワタシの波長なのかもしれず、世間とズレている部分かもしれません。その辺りを知りたがっているワタシがいるのかもしれない。
いずれにしろ、メディアで話題になっている故からくる二次的思考は、今回の私には抜けています。
また、事件「事実のあったこと」そのものへの感情も薄れているのかもしれません。被害者遺族の方々との温度がまるで違うということも感じますし、認めます。ここが社会的には最大の問題なのかもしれません。

別名で執筆活動という考え方があるということは否定はしません。生徒にそういう風にいうことの是非は、、、私には解りません。ただ、
>あなたがやっていることは、殺人者としての自分を売ることであり、、、、
には、違和感があります。本を読んでしまったからかもしれません。
毒多
2015/07/06 11:29
>「薄気味悪い」
これはすみませんでした。私の書き方が悪いです。作為的に悪意をもって言い換えたわけではありません。お許しください。

確認ですが、エントリー本文にかいた
>生きるため
は、生活のための現金収入を得るため、、という意味ではありません。
話はずれますが、なんだかワタシは、「金」そのものに薄情になっている気がします。たとえ、誰かが悪さをして金を得ても、ズルいとも羨ましいとも思わないワタシがいます。

さてワタシが拘っているのは何に対してでしょうね。
社会人の私にとって、元猟奇殺人犯を擁護したり、発売を肯定したり、内容を好意的に紹介したり、ましてや他者に薦めるメリットは何もありません。むしろデメリットのほうが大きいような気がします。現実に何人かの友人からは気味悪がられていることでしょう。
ただ、間違いなく、こうしたエントリーを書かざる得なかった、書きたかったワタシがいます。私はそうしたワタシ(の波長?)を追求しつつも、信じたいと感じています。

乱文失礼。

毒多
2015/07/06 11:29
アキラさん

>波長
了解しました。ワタシにはあった。アキラさんにはなかった。
非常に分かりやすく、納得です(^^)
あとは、よろしければ愚慫さんへのレスで読み取ってください、、、とはいっても難解です。多少時間がかかるかもしれません。
毒多
2015/07/06 11:38
愚慫さん

少し時間をください。
毒多
2015/07/06 11:42
そうですか。自分の書いたものが出版されることについて、彼が思いをめぐらせた経緯、出版にいたるまでのやりとりについては、この本にはない、と。

少し、というか、だいぶ残念です。彼が自分の妄想を実現するのを止められなかったわたしたちは、やはりまた、彼が誰かの興味のもとに得体の知れない自分を自分としてさらけ出さなければならないところに追い込んだ。

わたしは、人間てそんなに得体の知れないものだとは思わないのです。わたしたちが今なお彼を、モンスターとしての彼を欲している。それで彼はその仮面をよく考えもしないまま再び被らされた。

どくたさんは彼の教師だったら、この文章を書いた彼に出版を勧めますか?



ごん
2015/07/06 19:09
あと、この本は売れました。宣伝、メディアの煽り以外に理由があるとすればそれは、わたしたちの興味、ということになる。

単純に、興味あるけど本当は興味持ちたくないよ、興味持たない人間でいたいよ。だから世に出すなよこんなもん、というのも、真っ当な感覚だと思うのです。

ごん
2015/07/06 19:18
どくたさんの仰る、彼の生きること、が金儲け、売文でないのなら、わたしの言う、殺人者としての自分を売ること、に違和感を覚えるのは当然です。

まっすぐな応答、ありがとうございます。おかげでこの本を読むのが早まりました。

ごん
2015/07/06 19:30
僕も毒多さんに質問してみたいですね。

もし仮に、毒多さんのお子さんが何か事件か事故を起こしてしまったとして、です。

「オマエは世間から悪い奴と言われているんだから、外へ出て遊んじゃいけません!」

と言って叱りますか?
愚慫
2015/07/06 23:18
ごんさん、おはようございます。

実は「本」そのものは、今、手元にありません。旅にでました。
出版にいたる経緯が本に記載されていたかどうかは、記憶のなかでは「ない」のですが、確認しようがありません。
(載っていた可能性もあります)

ごんさんの仰りたいことが解ってきました。
彼(元少年A)を思ってのことですね。教師として彼の最善を彼にどう助言するか。
世間はエレファントマンをみるように、彼を再度認識しようとしてる。
彼のモンスター性を再度さらして見世物(出版)しようとする危惧。
エレファントマンをみたいという、人間のなかにあるある種の興味。
その悪趣味な興味を萌芽させないために、見世物小屋など建てるんじゃない。
見世物小屋なんか見たくないという「良心」を「まっとう」としたい(と言っていっていいんではないか)

もし、ワタシの理解が正しいならば、一程度の納得はします。
私がネット上で読んだ、反出版の多数は、猟奇殺人モンスターを忌み嫌う、と受け取っていました。
それは許せなかった。

ただ、その一方で、ごんさんは「読む」、と言われる。
別の可能性をご自身で御確認されようとしている。
彼自身がもがき苦しみながら、それでも生きる道を見出そうとしている可能性。
全てを晒すことがその道ならば、、、という可能性。
読んであげてください。
毒多
2015/07/07 06:04
ワタシはかつて「未読の固定観念」そのものでした。
そんなワタシが青カンと付き合い始めました。
そして自分に気づきました。(ご存知ですよね)
ワタシの「まず読まなければならない」はここから来ているのかもしれません。

質問の答は(非常に悩みましたが)、草稿を読んだうえで「彼が出版という形を望むなら」応援する、です。

もちろんアキラさんが言われるように、全てを正直に信じているワタシが甘いのかもしれません。
ちゅうか、バカかもしれない。(アキラさんがワタシをバカと思っているという意味ではなく、私がワタシをバカかもしれない、と思っているという意味)
でも、そう思われてもいいです。
毒多
2015/07/07 06:06
愚慫さん

質問のほうは、彼(子ども)が望むなら、外で遊ぶことを全力で応援する、、彼が望まないなら、望むようになるまで見守る、です。

もしかしたら、ワタシは彼の術中に嵌まり、出版社の金儲けに加担し、悪しき広告塔になっている可能性もあります。
表現が作為であることは間違いない、生身と乖離していることもあるでしょうが、指摘されても、そう受け止めなかったワタシがいます。
ワタシは甘いのかなぁ、、今の彼となら友達になりたい、とさえ思ったんですが。
生身と表現の不一致はありうるでしょう。
私にもあります。ただ、社会的な「私」は騙せても、「ワタシ」を騙しきることはできない気がしているんですね。どうしても滲みでる。
その滲みでたものを甘受したワタシの感覚を信じたい、という感じなのかもしれません。
だんだん自信がなくなっていきます。その喪失は哀しいことである、という気持ちです(笑)

ワタシには彼が「自己愛性パーソナリティ(障害)」だとは思えません。
ただダリもカラヤンも名前しかしらず、その言葉も昨日wikiで読んだだけなので、なんとなく「思えません」でしかありません。
毒多
2015/07/07 06:07
ああ、すみません。
アキラさんが、言ってないことを書いてしまっています。
どっかでそう受け止めているワタシがいるのかな、訂正します。誤記が多いなぁ、ごめんね。
毒多
2015/07/07 06:12
デリケートな対話になると、一文字で誤解を呼ぶかもしれない。

>見世物小屋なんか見たくないという「良心」を「まっとう」としたい(と言っていっていいんではないか)

>見世物小屋なんか見たくないという「良心」“も”「まっとう」と“言っていっていいんではないか”

よく解らない奇っ怪なものは、“アンタッチャブル”として放置されていく是非、と相まって考えてしまいます。
とはいえ、これが「彼サイド」に立った考えではないことは理解しています。
もし、嫌がる彼に執筆させ、金儲けのために出版させる出版社という構図が現実ならば、私はオノレの誤りを認めなければならないと考えています。
でも、そうではない、と感じているワタシがいます。
なお、後で知ったのですが、出版社社長のいう(聞いた気がする)、(これからの)犯罪防止に役に立つ、という発言はまったく認められません。本当にこれが出版した者の言葉なのだろうか、と一抹の不安を感じます。
毒多
2015/07/07 08:27
愚慫さん

「伝わらないこと」を「伝える」ということはあるのでしょうか?
どれだけ表現しても「伝わらない」は事実だと思いますが、解っていても「伝えたい」と考える方が楽です。
この本から「何か」がワタシには「伝わった」と感じているのは事実です。
それは「伝わらないこと」が「伝わった」ということではい、他の何かです。
それはワタシにだけかもしれませんし、残念ながらそれを表現する言葉はありません。
波長ということで納得してもいいことだと思います。
たぶん、愚慫さんも同じことを言われているのでしょうね(笑)

ところで、愚慫さんは、「何か」を感じたのですか?
毒多
2015/07/07 08:36
おはようございます。

>表現が作為であることは間違いない

なるほど少し誤解されたかもしれません。というより、そもそもまた伝えるのが難しいことかもしれませんが...

僕は彼の表現に「話を盛る」といったような作為があるとは感じていません。その点、彼は「正直」だと思います。僕が言いたいのは、彼の正直な表現が他者からは作為に受け取られてしまう、そうした“捻れ”のことです。

>ワタシは甘いのかなぁ、、今の彼となら友達になりたい、とさえ思ったんですが。

甘いと思います。

いえ、毒多さんがそう思うのに是非はありません。ただ、彼の側では受け付けない。「友だち」という感覚がわからないと思います。

本の記述に出てきますが、彼は徹底して「同じ感覚」を共有することを避けますよね。家族が彼に寄り添おうとしてくれている、また、とある篤志家が彼を経歴を承知した上で彼を受け入れ、彼の情緒を理解しようと努めてくれている。彼はそういったことを理解した上で、なお、彼らとの離別を選択します。そうしないと自分がダメになると感じてしまう、と記述していますよね。

毒多さんの本は、今、僕の手元にあります。出版についての経緯は記されていません。後書きのような形で、唐突に、「どうしても書かずにはおれなかった」と詫びているだけ、です。これにはとってつけたような印象を抱く人が多いと思います。

ですけど、彼の行動規範からすれば、それが自然だと思います。おそらくですが、出版に関しては、遺族にはおろか彼に寄り添おうとした人々にもまったく相談していないと思いますよ。そんなことを考えも付かないんでしょうね。

まったくもって「唯我独尊」です。
愚慫
2015/07/07 09:20
そんな彼ですから友だち感覚をもって接しても、裏切られるだけでしょう。

だからといって、彼が反省していないとは思わない。しかし、その反省が「唯我独尊」なんです。自分のためのだけの反省。

端的に言ってしまえば、

 私は反省しました。
 だから出版しました。
 以上、終了!

というのが、今回の彼の行動です。
その行動に、彼に反省を求める者は満足するでしょうか?
するわけがないですよね、どう考えても。

伝わらない。

でも、彼は本当に反省していると思います。
反省したことを伝えたいと思って、手記を出版したのだと思います。
伝わらないことを伝えようとして。

文章そのものも「唯我独尊」の文章だと思います。
愚慫
2015/07/07 09:28
少し脱線かもしれませんが、カラヤンの話を。

カラヤンは目をつむって指揮棒を振るというナルシスティックなスタイルだったんですが、インタビューでその理由について聞かれて、こう答えているんですね。

「私のなかの“理想の音楽”を聴くため」

凄くアタマデッカチ。そして唯我独尊。

音楽を奏でるというのは、身体的な行為です。
指揮者は音は出さないけど、身振りで音楽を伝え、プレーヤーがその身体と楽器を使って実際に音を出す。

人間は「何か」を感じ取ることができる生き物です。人間だけではありません。生き物は「何か」を感じ取るものです。そしてそれは身体的なもの、上のコメントの言葉で言えば“生身”と形容したものだと思うんです。

目をつむってオノレの理想の音楽を追い求める。それはいいんですが、そのことでオーケストラプレーヤーと生身のコミュニケーションは蔑ろにされてしまいます。カラヤンは蔑ろにしているとは露ほども思っていないでしょうけどね。必然的にそうならざるを得ない。

生身のコミュニケーションを欠く音楽が、どれほど壮大流麗でも「何か」を欠く空虚なものになってしまうのは、必然だと思いませんか?

では、カラヤンに身体的な「何か」はないのか?
音楽に身を震わせることはないのか?

ないとしたらモンスターですが、そうだとは思わない。
身体的な動機がなくて、あれほど精力的に活動ができるとは、とても思えません。

ということは、カラヤンだって「何か」を伝えようとしているはずだという結論になりますね。人間というものを信じるなら、そういう結論になるのが道理です。

でも、その「何か」を伝えるために、唯我独尊になってしまう。だから伝わらない。
愚慫
2015/07/07 10:29
ただ、伝わないことは良いことでもあるんです。他人の「何か」が伝わらないがゆえに、自由に表現に自身の「何か」を反映させることが許されるから。ナルシスティックに音楽に没入することができる。

昨今は生身のコミュニケーションより、自己完結的なマスターベーションの方が好まれる傾向が強いようです。アニメに代表されるような「萌え」とかね。そう考えていけば、『絶歌』の彼は、極端かも知れないが、特異ではない、ということもできるでしょう。
愚慫
2015/07/07 10:29
カラヤンの唯我独尊は楽員・コンマスを力で捻じ伏せることが出来るが故の唯我独尊でしょう。彼らが従わなかったらそれで「終わり」ですから。力あるものだけが行使できる唯我独尊です。

ダリのような画家は「描画」という実時間を情報商材として売っているのでなく、描画の結果である「もの」に記名性(これは実名でも雅号でも構わない)を担保したうえで売っています。記名性を担保されたものには一定の権威が生じます。この権威こそが唯我独尊であり、今日この唯我独尊に抵触すれば著作権侵害・違法コピー・身分詐称と呼ばれます。

他エントリに書いたことと重なるかも知れませんが、元少年Aさんは、とても弱い人です。弱者です。手記によると彼は刑事さんから「頭もええし度胸もある」と言われたそうですが、違いますよ。弱い子が容量パンクしただけです。

メジャーな版元の篩にかけられて、第三者による編集・出版という手続きを介して記名性を担保された商材『絶歌』が世に出ることにより初めて彼は、「ただの弱者」から「元少年A」という唯我独尊の存在になれたわけです。この手記が没原で終わっていたら、今も彼はただの不可視の存在です。32年間そうであったように。

しかし面白いですね。
弱者は一般に「人道主義を愛でる」ような方々から大層好まれるものですが、元少年Aさんのようなタイプの弱者はこういう方々からすら嫌悪され・疎まれます。何をしても嫌われる。そりゃ権威なんぞが付与されようものなら蛇蝎の如く嫌われましょう。
眞一
2015/07/07 12:49
おそらく、多くの人にとって犯罪者とは「強くて」「悪い」存在であってほしいのだと思います。そして多くの人は心の底では、特に小児や児童を殺害するような犯罪者が「弱者」であることに気が付いている。

耐えられないんですよ。弱者が人を殺すことの惨めさに。正視できない。だから屁理屈を捏ね回して攻撃的な態度を示す。
眞一
2015/07/07 12:59
「唯我独尊」はうえのほうで、ワタシも言われていますね、爆!!

カラヤンは、クラッシックに無知な私さえ名前を知っていて、人気の指揮者だと認識しています。
人気がある(が正解ならば)は、多数に「何か」が伝わるからではないのでしょうか?
また、生身の奏者がカラヤンの指揮で演奏するのは、ねじ伏せる力があるからだけでしょうか? それだけで人気のある演奏(をさせること)ができるものでしょうか?
全ては人気があるという前提の話ですが、、、

一番の問題は、ワタシには彼の表現が、唯我独尊には感じなかったということかもしれません。勿論唯我独尊と感じた愚慫さんの「感じ」を否定するものではありません。
もしろそうした受け取り方もあるんだ、、という感じです。
ワタシには、唯我独尊というよりも、むしろ助けを求めているように聞こえた。終盤あたりの彼はすでに弱者じゃなく、助けを求める自立した人のようにさえ感じました。
「弱者」のままであっては、本のような振り返りができるとは思えません。

>彼となら友達になりたい
が、甘いか甘くないかは、ワタシの問題です。彼がワタシの申し出を受け入れ友達になる、ならない、は彼の問題です。彼に拒否されるのは別の問題です。
いいたかったのは、これを簡単に言葉にすることは、甘いのではないか? ほんとうにそんな覚悟あるのか、という自問です。生半可な覚悟で青カンとかかわって破滅した経験からくる自問かもしれません。絶対に許されない罪を背負うという自覚をもっている人間と友達になれるほど、ワタシはできた人間でもなければ、覚悟ももっていないという意味で、やはり甘いのはワタシ自身だと思います。
毒多
2015/07/07 14:16
覚悟もないのに、言うような科白ではないですね。
毒多
2015/07/07 14:19
感じ方は人それぞれですので、それでいいのではないでしょうか? その当否を議論してみても詮無いことだと思います。

個々人が感じたことをベースに対話をしているわけですから、その意味では我々だって「唯我独尊」であるわけです。互いに「唯我独尊」であっていいのだと思います。

ただし、この唯我独尊には条件があって、それは、毒多さんが示したように、

 「読んでから言えよ」

ということですね。読んだ上で自身の感覚を披露するのは唯我独尊でいいし、また、そうであることを尊重されなければならない。

この前提条件を外した【唯我独尊】は、他者への攻撃性と裏腹になっていて、頂けません。毒多さんや眞一さんの嫌悪感を僕も共有するところです。

なお、気になったので記しますが、眞一さんのお使いになった「唯我独尊」は、他者への攻撃性・排他性を伴ったほうの【唯我独尊】だと感じます。同じ言葉ではあるのですけど、ニュアンスが異なります。僕は彼の「唯我独尊」の中に攻撃性を感じたわけではないことを記しておきます。

なお、カラヤンの「唯我独尊」も同じ。攻撃性はないのです。記したように、むしろ許容の自由度が高い。
愚慫
2015/07/07 15:02
「攻撃性」という言葉が出たので、付け足しをさせて頂きます。
(付け足しできることは、いくらでもありますww)

『絶歌』著者は、過去に異常な攻撃性を発露しているわけです。そして、その攻撃性の源泉が性衝動であることを、第一部で告白していますね。

僕は人間の攻撃性には二種類あるのではないかと思っていまして、ひとつは身体的なもの。もうひとつは精神的なもの。ハッキリ線引きできるとは思いませんが、大まかに2つの傾向に分けられると考えています。

身体的な攻撃性の源泉が性衝動だと考えるのですね。これは人間にだけでなく、動物全般にみられるものです。
(人間に特徴的なのは精神的な方で、こちらの攻撃性の源泉は「ハラスメント」というのが僕の考え。)

淳君殺害の動機に彼が上げているのは「親密さ」です。淳君の(おそらくは先天的な)「無警戒」に対して、彼は攻撃性を発揮してしまったというようなことが示唆されています。

もっとも親密だった祖母の喪失と性衝動との連結が、「親密さ」への攻撃性へと転化した――というようなことが彼の記述からは読み取れるのですが、そういうことが果たしてあるのか?

僕は上のコメントで専門的な研究対象云々と書いたのは、この部分が念頭にあります。

攻撃性の研究は専門ではないでしょうが、ヒトの身体的な作動が専門のアキラさんに、このあたりの意見を聞いてみたいと思って期待していたのですが...、もう、お出ましにはならないかな?
愚慫
2015/07/07 15:35
>愚慫さん

愚慫さんの論旨には特に異論はないんですよ。「唯我独尊」という術語が、そこだけが妙に嵌ってないなと思っただけです。
西洋古典音楽を例に出すと、チェリストのヨハネス・モーザーによると彼はダヴィド・ゲリンガスに師事した際、先ず生徒の全てを否定して壊してから土台から作り直していく「ロシア・ソビエト流指導法」の洗礼を受けたそうです。本当に辛いレッスンだったそうですよ。
大勢の優秀な生徒がこれで篩い落とされる。弱いものは潰れて力のあるものだけが生き残る。コレは極端な例でしょうが、私も西洋古典音楽を何年かやっていたから解ります。カラヤンはこういう世界で勝って勝って勝ち抜いて、頂点に立った人間です。

唯我独尊の例に彼を採用すれば、自然にその唯我独尊は力(能力)で他者を制して伸し上がった「器」に収まるものとなります。
器の例としてそぐわないなと思っただけです。元少年Aさんは、そういうタイプの器じゃないんでは?というだけです。

絵画に対する身体の中身の問題は、あえて避けました。このエントリにそぐわない話になりそうですし。
眞一
2015/07/07 16:57
>終盤あたりの彼はすでに弱者じゃなく、助けを求める自立した人のようにさえ感じました。
>「弱者」のままであっては、本のような振り返りができるとは思えません。

毒多さん、ごめんなさい。これは完全否定させていただきます。
自分のオリジナルな名前を隠して、自分がこれまで生きてきた過去を隠して、自分の素性が明らかにならないよう息を殺して生きなければならない人間は「弱者」以外の何者でもないですよ。

ただ、彼は前述の弱者と異なる意味でですが、自分が生来の弱者であることを幾らか許せるようにはなったのだと思います。
また私も含めて、大概の弱い人は人生の早い時期に自分の弱さを認め、その上で生き延びる戦略や戦術(コミュニケーションの定石や、他者の表情や口調の微細な変化から感情の流れを察知して、流動的に対応を変える訓練なども含む)を自覚的に研究していくものだと思うんですが、それを(恐らく)ほとんどせずに32年生きてこられたことに感嘆しています。人を殺すのでなければ山田花子・新井博子・ねこぢるみたいな末路を辿る可能性が高いのですがね。
眞一
2015/07/07 17:25
『絶歌』を読んだ後、こういうものがあると知って視聴しました。
出版に至ったいきさつが、宮台さんによってざっくりと語られています。
僕の感じた本への感想と似たようなことを彼がコメントしていたので、「あぁ やっぱり僕は宮台チルドレンなんだろうなぁ」と苦笑しました。 (^_^;)

https://youtu.be/tSIDuQa1iFE
アキラ
2015/07/07 20:54
読む視点についても感性についても、それぞれだということに気付かされます。
「唯我独尊」といえば、「死と生きる」という本は、死刑囚と池田晶子の往復書簡をまとめたものですが、死刑囚の言葉には「唯我独尊」を感じたことを思い出しました。池田晶子にもそいういうところは感じますし、愚慫さんの文章にも感じることがあります。どころか、オノレの書き言葉(場合によっては話言葉)にも感じることがあります。
でもAにはそれを感じないのです。といっても眞一さんの言われるような厳密性のある「唯我独尊」ではありません。

Aが弱者か否かというのも、ワタシ自身の読了にあたっては、強弱の判定はしなかった、発想がなかった。気にかけなかったので、眞一さんの言葉で再度思考したことです。完全否定されても構わないのですが、現状やはりあの本だけでは類推ではないでしょうか? 
というよりも、弱者から強者になったのでは、、、というワタシの類推は、ワタシが望む物語なのかもしれません。ワタシはこの本を読んで何かを感じた、、、そこからワタシの「彼がこうあって欲しい」という「ストーリー創り」がはじまった。「弱者から強者になった」もまた、ワタシの望むストーリー、物語。
毒多
2015/07/08 14:39
ともあれ、「弱者」というポイントが眞一さんのひとつの視点なんだという再認識ではできます。。
間違いかもしれませんが、ごんさんには教師的視線を感じますし、香山リカが「痛々しい」と言ったのは、精神科医的な視線のような気がします。
愚慫さんの「唯我独尊」と感じ取ったのがどういう視線かはわかりません。
宮台のVを観ました。宮台は社会学者の視線です。とってもまっとうで異論も反論はほぼありません(ひとつふたつはあるのですが、ここで書くのはやめます)。宮台が指摘した箇所がまさに、ワタシがツレアイに読まないほうがいい、と言った箇所です。しかし、宮台の話はまともすぎてイラツキます。異論反論はないのに反感を感じます。それはワタシ独自の感性なんだろうと思います。ワタシのなかの反社会性からの視線かもしれません。

あれ? ワタシは、、、
反社会そのものだった少年A(第一部)が、社会性を取り戻しつつある(第二部)ところに、心打たれているのだろうか? そこを自己に投影しているのか?
それでも絶対に社会的に許されない存在である、それがワタシの本質だと思っているのだろうか? そんな視線なのか、、、やはり、解らない。
毒多
2015/07/08 14:39
そんなワタシは病的なのかもしれない。
毒多
2015/07/08 14:41
今朝、お借りしていた本を発送しました。期待していたより収穫の多い読書になりました。

誠にありがとうございます。
愚慫
2015/07/08 16:31
宮台さんの動画、僕も見ました。
僕もイラっときました ^_^;

今回の件において、僕が最も関心を持っているのは、実は、ここの「イラっとくる」ところなんです。先のレイヤわけに従うと3.に該当します。

つまり、イラっとくる理由です。

宮台氏も明らかにイラっときていました。僕はその「イラっ」が僕に伝染してくるように感じた。

僕が考えるに、毒多さんの「イラっ」も宮台氏の「イラっ」も、ベクトルこそ違うものの、根源的に同じ源泉から出るものです。

(ここら辺りの考察の補助線はアドラーと論語、それからイスラームです。)

先に毒多さんが、3.について「純粋」とは何かと問うておられますが、ここでお答えしておきますと、それは、

「イラっ」に巻き込まれないこと

なんです。
愚慫
2015/07/08 16:45
元少年Aは「表現せざるを得なかった」と言っています。
ですから、書かざるを得なかった。
書かないと、自分を保てなかった。
それはいいことだと思うんですね。

問題は、愚慫さんの言うように、出版されたことにまつわるいろいろでしょうね。
で、例えばこれが「自費出版」という形で世に出ていたら、どうだと思いますか?
オッケーなのか、アウトなのか。

毒多さんだけでなく、愚慫さんなどの意見も聞いてみたいですが、もちろん気が向いたらでけっこうです。
アキラ
2015/07/08 20:44
毒饅頭はひどいですね。

少年Aの聖なる実験の対象がもう少し年上の女性だったら、その詳述を30歳を超えた人間の自由意志に委ねて出版させていいのか、という思考実験も必要かもしれませんね。

母子殺人事件の彼だったら、と考えてもいいと思います。
ごん
2015/07/09 06:44
宮台さんはこれが、芸術か猥褻か、の議論に収斂されるのが嫌なのでしょうね。ここでの議論にも見られるように。宮台さんはその議論なら芸術(かもしくは本の持つ社会的価値)の側に軍配を上げたいのだけど、残念ながらこれは芸術ではない(し、死ぬまで傷みを抱えたまま生きなければならない遺族の感情に波風を立ててまでも出すほどの社会的価値はない)と判断した。それでもこれを芸術だと言い張る人は出てくるだろう。

……これはそういう議論になる前に、早々に収束させるのがいい。だから毒饅頭だ、と。

ごん
2015/07/09 07:52
結局ワタシはワタシが読めてよかった。ワタシの裡の一部と波長があった、シンクロした、ということです。非常に利己的、自己中なものです。
それだけの理由で、社会的、道義的な出版の是非をすっ飛ばしてエントリーしています、そんなワタシ自身の社会性に問題があるということを認めます。

ワタシの裡なら何かにとっては読んでよかった(それが自費出版であろうと)ですが、社会的道義、被害者遺族の感情、その他もろもろの社会的影響とを「秤」にかければ、後者のほうが重いでしょう。それを解る私はちゃんといます。
本の内容に不満しかなければ、ワタシとて後者に同意していたでしょう。という意味で、ごんさん言われる「宮台氏の葛藤」は理解できます。宮台氏には許容できないものだった。ちゃんと手順を踏んで、ちゃんとした内容で出版しろよ、と言いたい「イラっ」であるのかもしれません。
ワタシは芸術としてこの本を捉えている、とは自覚していません。
おそらく、彼の「書かざる得なかった」と「被害者遺族の感情」を秤にかけているのかもしれません。読んだ結果、前者を重く感じた。(感じているワタシ自身に「イラっ」としているかもしれないことを含めて)それはそれで道義だと言い訳をする私がいますが、そこは人それぞれでしょう。
毒多
2015/07/09 10:09
いずれにしろ、他者に薦める本ではありませんね。自己責任で読む本です。
「薦める」という点では、私はいくつか失敗しています。が、薦めたお二方は私が何か言おうとも、読む時は読む、読まないときは読まない、方だと認めていますし、コメ欄で薦めてしまった、ごんさんについても同様だと認識しています。

繰り返しになりますが、出版にかんして、ワタシにとって意義があった。が、それは利己的、自己中的な意義である、です。
元少年Aにとっても(経済的物質的なことではなく)、今後「生きる」にあたって意義があったと信じたいのですが、それも利己的、自己中的なものだったとすると、「書くのみに留めたほう」が善かったのかもしれませんね。
・・・でもとすると、こうしたブログのエントリーも書くのみで公開することの是非を問われますね、、、あ!?、内容次第か、、、ふぅ、、、
毒多
2015/07/09 10:10
宮台さんの議論の矛先はまず出版社です。

世をはかなんで死にたくなるような心の傷を抱えてそれでも生きていかなければならない、生きるために苦悩しているのは遺族も同じです。そして、だけれども、だから出版するな、ではないのですね。

大前提としてあるもう一方の当事者の感情への配慮、そこをクリアできそうもない、それでも出版するなら、それだけの準備をせよ。と。

せめて我々が今こうしてやっている議論くらいなことは。

でも、件の出版社の物言いにはその姿勢が見当たらない。本にもその配慮は見られない。(配慮というのは、悪く言えば検閲です。出版社の側が、自ら出版にいたったその価値に照らして、不要な、そして出してはいけない部分の削除なり、置き換えなりです)

なんでもかんでも出版していいとは誰も思わない。出版してはいけないものもある。ならば誰がそれを判断するのか。国でも政権でもない。出版社とその姿勢を問題にする一般読者なのだ。

というようなことかなあと思います。宮台さんの仰るのは。

ごん
2015/07/10 08:16
だから、出版されたこの本をお読みになって、少年Aへの悪意に満ち満ちた言論がはびこっている現状に対して、それはおかしい、と声を上げていくのとは別の話だと思うのです。

議論を丹念に追っている人以外にはものすごくややこしいことになってしまうのですが。それが嫌なんですよね。宮台さんは。

どくたさんは何も悪くないと思います。ご自身の信頼できる方に、現状打破への期待を込めて教師とかにこの本を薦めたことも含めて。

ごん
2015/07/10 08:25
はい、仰ることはその通りだと思います。

>どくたさんは何も悪くないと思います。
ありがとうございます。救われます。
もう少しだけ思索させてください。

おそらく宮台氏の言うことは、氏が言葉にする以前からワタシも感覚としてもっていたものです。
今のワタシが考えなければならないのは、それでも「購入して」読んだ。ということ。
ワタシのなかに「(出版社と)共犯、共同正犯にならなければ」読んではいけいない、みたいな感じがありました。
それ以前に「読む」だけでも、一程度の責任を負う。宮台氏も読んだ責任としての言葉のような気もします。
「読んでから物を言え」と言ってしまったのも、一程の責任を負ってから物を言わないのは卑怯だ、というイジケた心理があったのかもしれません。
本を旅立たせたのも、共同正犯をつくり安心したかったのだろうかとさえ、考えてしまいます。ただ、買わないという人に、購入して読め、というような完全共犯者にはさせたくない、という思いもあって本を送ったのかな。自分のことながら解りません。

ワタシが出版者ならば、出版したいと思っています。
幻冬舎が踏み切れなかったところを乗り越え、、、、本名のAとともに世間に殺される覚悟で、、、、無理だな。すみません。ウソです。それほどの勇気も覚悟もありません。
とすると、購入した程度で共犯ってのも烏滸がましいですね。
毒多
2015/07/10 09:18
今日の朝刊(朝日)に被害者遺族の言葉が「本名」で載っていました。
Aの書く遺族にあてた3年まえの手紙には「涙がとまらないくらい胸を打つものがあった」とありました。ここ2年は「・・・小説を読んでいるようだった・・・」と。
本が全編にわたり、「小説」のようだったとしても、ワタシは3年前の手紙のような部分を感じているのかもしれません。
本の突然の出版は、被害者遺族としては「裏切られた」と載っていました。遺族としてはそうした感じしかないでしょう。ほんとうに手順を踏んで出版されなかったことが残念です。

新聞にある、遺族の言葉を転機します。
、、、終生許してはいけない人に出会った私にとって、人生のテーマは『赦しとは何か』です。憎しみはほとんどないけれど、赦しはまだ見つかっていません。Aが変わりかけているという淡い期待は破られました。次の手紙に訴えるものがあったなら、またつながるかもしれないというわずかな思いを持っています。、、、、

この遺族の方は、ちゃんと「生きよう」としているんだ、と感銘を受けます。『赦し』ですよね。「生きる」ですね。この遺族の方の言葉が聞けてよかった。
・・・読んでしまったせいか、Aの立場でこの言葉を聞いているワタシがいるような気がします。読んでしまったからこそ、深く染み入っているのかもしれせん。(ただし、すべてがワタシにとって、ということで、他者に共感をしてもらおうとは思っていません。)
毒多
2015/07/10 09:18
中途半端な転機と間違いの部分がありますので、補足します。
「小説のようだった」手紙は今春のものであり、はじめて事件当時のことが書かれている手紙と書いてありました。
もしAが悔恨のなかで、事件当時を振り返るとするとどんな書き方なら許されるのか、どんな書き方ができるのか、、、どう書いても、感情を逆なでするのではないか、、、やはり、いろいろ考えてしまいます。
毒多
2015/07/10 09:41
これまでの少年の手紙をそのつど真摯に読んだこと。そこに書かれている内容について、出版はやめて欲しい旨伝えたはずのものが世に出された。そのことに深く失望している、と、読み取れます。

深く切ない記述です。



ごん
2015/07/10 11:23
僕にはなんだかいろいろ腑に落ちないんですよね。

『絶歌』は出版されるべきではなかった――そういう【正義】を振り回すのは、いい加減にしてくれよ、と思います。

それを言うなら、そもそも、です。事件そのものを報道する必要を見当しなければならないのでは?

事件は起きた。これは事実。
ですけど、どれを広く一般大衆に知らしめる必要がどこにあるんです? そういう事件を知りたいという【需要】はあるでしょう。その【需要】に応えることが「正義」ですか?

『絶歌』が一般に広く受け入れられるベースを作ったのは、一般報道です。にもかかわらず、そこに非を鳴らず意見は見られんよね。

ごんさんも「みたくないものを見せるな」と言っておきながら、事件報道そのものには触れない。なぜ? 事件報道は見たかったの?

『絶歌』の出版にしてもそうです。その存在がこれほど早く知れたのは、一般報道されたからでしょう? それは良いのに、『絶歌』そのものがダメという理屈が僕にはわからない。

眞一さんがいうように、彼は「弱者」だからですか?
愚慫
2015/07/10 13:06
著者が『絶歌』を執筆し、出版を望んだ理由は、金だったと僕は思っています。その根拠は『絶歌』そのものにあります。一般人として生きて行く上で、頼りになるのは金だけ――と彼自身が記述している。

そういう「生き方」に意見はあるけど、批判しても詮無いことですよね。それに、「頼りになるのは金だけ」という気持ちを、【正義】をかざして「悪」を売りまくっている連中に批判する資格があるとは僕は思わない。

遺族の「感情」とやらにも、僕はあまり共感しません。だって、遺族だって出版しているでしょう? 

被害者遺族は出版してもよくて、加害者はダメなんですか? なぜ? ――って僕は思う。どちらにしても「読者の需要」があっての話でしょう? その「需要」に応える、あるいは需要を喚起させるというのが「出版キャピタリズム」の性格。

そこに正邪は問われない。そのようなものを問う仕組みとは相性がわるいんですよ、このシステムは。正邪を問う仕組みをそのなかにビルトインするには、「権力」を使うほかないんですが、ビデオの中で宮台さんが懸念していたように、それは非常に危険なことです。『絶歌』出版の是非を問うというレベルの話ではない。



彼が責任ある人間として、遺族に仁義を切るべきだったというのは、その通りだと思いますけどね。でも、これは別レイヤの話ですよ。

私たちの暮らしのなかに組み込まれている「本を読むためのシステム」に、一部の人間は排除されるべきという意見には僕は組みしません。僕は本を読みますからね。そして、これからも辞めるつもりはありません。

それは「差別」だと思いますね。
愚慫
2015/07/10 13:22
僕はむしろあのときメディアにさらされた少年Aの懊悩と反省に基づく述懐だからいろんな手順を無視して克明な犯罪描写録が出版されてもいい、ということなのか、と問うているつもりですが。

慮りを以て世間に表出されなかった犯罪の詳述はいくらでもあります。僕はその点では日本のメディアは、(あくまでもほかのひどいところと比べて、ですが)道義的だと思っています。
この事件にそのメディアの良心が作用しなかった、作用させきれなかったのは、ほかでもない、少年Aが選んだからです。被害者の遺体を登校中の子どもも目にせざるを得ないような場所に晒すという方法を。

そもそも僕はこの本について読みたいとも読みたくないとも思いませんでした。件の出版社が差止要求が出ているのに出版するというのを見て、ひどい話だなあとしか。正直興味がなかったんです。彼に。

僕はたとえば北九州の事件や尼崎の事件、オウム、あたりには興味があります。でもこれらには強烈な自主規制が作用しています。仕方ないんじゃないかなと思います。興味があっても、自分自身の『知る権利』を主張するまでの「価値」を説明できないので。

でも僕はこの本『絶歌』を読もうと思っている。僕がこの本を読む理由はただ、どくたさんの仰る可能性に惹かれたからです。正義も卑怯もへったくれもなくただ興味がわいたからです。

一度ここにいたるある時点で買おうとしましたが、買うのはやめました。なので、手に入るまで時間がかかりそうですが、読みます。

ごん
2015/07/10 14:20
どくたさんの仰る「読んでから」ってのも、すごくわかるのです。でも、コメントし続けたのは、読んだ後、正直に自分の思いをコメントできるか自信がなかったからです。

まあ卑怯ですね。
ごん
2015/07/10 14:26
愚慫さん
「イラっ」の原因は、そこなのんだな、という感じです。
具体的に書いていただき、少しすっきりしました。
合法出版の線引を誰がするのだ、ということは宮台氏も言い切れませんでしたね。
道義というのも曖昧と言えます。もやもやします。
良心に訴える、という良心も強要されれば【良心】になりますね。
宮台氏の「イラっ」もそこなのでしょうか。

「責任をもって」書く、「責任をもって」出版する、「責任をもって」読む、、ということも「個々」の意識のもので、他者に強要できません。
他者を批判できなくとも、自分に厳しくは在れる。
個々の問題なのでしょうね。

>「本を読むためのシステム」に、一部の人間は排除されるべきという意見には僕は組みしません。

はい。決意をもってそうしたいです。・・・なぜ「決意」を持たなければならないのか?
社会風潮との闘いだけではなく、自分との闘いでもあります(ワタシはね)。だから責任をもって読むとしか言い様がない。(被害者遺族に対しても責任をもって読みます、と伝えるしかありません。)

ところで、どうやらこの本は売れているようですね。
自分のことを棚に上げていいますが意外です。
毒多
2015/07/10 17:42
ごんさん
私の購入した本は旅から帰ってきました。
もしお望みならば、再度旅立たせてもかまいません。
共同正犯をつくる目的ではありませんし、
読んだ結果、ワタシの感性を完全否定してもかまいません。
裏切られたという可能性も含めて、自己責任で読んでください。
そちらへ旅立たせるためには、個人情報が必要になりますので、
拒否、回避されてもなんの問題もありません。
一時的に右カラムの上へ「メッセージを送る」を復帰させますので、なんの他意もなく純粋にお貸しするだけ、という条件でお望みならば、連絡ください。
1週間ほどは気にしていますが、あまり時間がたつと気づかない可能性もありますので、意志があればお早めにお願いします。
(1週間ほどで「メッセージを送る」は撤去します)
毒多
2015/07/10 17:42
ありがとうございます。

実はまだ揺れている自分がいます。

そのへんを自然に任せたいので、せっかくのお話しですが今回は遠慮させていただきます。

(「メッセージ」はbiglobeidでのログインを要求されたのでこちらに書きました。すみません)
ごん
2015/07/10 18:51
ごんさん、おはようございます。
「メッセージ」の件失礼しました。
登録が必要なことを忘れていました。
「遠慮」の件了解です。
葛藤に敬意を表します。
出版の是非を個々で深く思索することへの敬意です。

私は「購入」にこだわりましたが、「揺れている」という言葉にさらに考えてしまいました。
「読む」ということは、出版を是認したということになるのでしょうか? おそらくそうでしょうね。出版されなければ読めない。きっちり白黒つけるなら出版を批判するなら読まない。ということになるでしょう。(アキラさんのように、読まないと言ったにも拘らず、私との人間関係を尊重して読んだ、というパターンは別だと思いますが、、、)。

宮台氏がもし、「匿名」と「仁義・手順」を理由に出版を批判するならば、読む必要はない。にもかかわらず、読んだ。2度も隅々まで。読んで本人が書いているとして「内容批判」に移行している。あげく内容ゆえに出版批判のようにも聞こえる。やはりおかしい。
愚慫さんのレイヤー分けで考えても、矛盾しています。
ロジック崩壊です。でも、宮台氏ともあろうものがロジック矛盾を喋るわけない。レイヤー分けはしなかった。で、道義という曖昧な言葉に至った。でも道義なんてもの測れるものじゃない。曖昧です。そうした基準をつかった自分に気づいているから「イラッ」としているように見える。

というワタシにしてもそうです。
どこかに出版に否定的、懐疑的なところが残っています。被害者遺族感情一点なのですが、、、だから、「共同正犯」などと茶化してみたり、「責任」とか「決意」などと言ってみたりする。
ロジックでいけば、愚慫さんの言葉が正しいとワタシには思える。一方で、それを否定したいワタシもいます。
毒多
2015/07/11 09:00
愚慫さん、おはようございます
突然お門違いかもしれませんが、「水」のときを思い出します。
共感派vs理論派でしたっけ(笑)
正直いってあれがどういう色分けでそうなったのか、どういう結論になったのか解りませんが、ワタシはながい間、態度保留でした。
理論派の一人に「どっちつかずのコウモリ野郎」と言われたのを忘れません(←書かなくていいセンテンスをまた書いている、爆)。
愚慫さんは共感派でしたよね。今回、共感派で別れるのは、Aに共感するか、被害者遺族感情に共感するか、ということになるのかな。でも今回の愚慫さんは理論派のようにも感じる。
当時、ワタシのなかでの判定は理論派に偏ってましたが、絶対許せなかったのは、「エセ科学で間違っているから、ブログに書くんじゃない」という否定、批判です。
水のときも今回も、愚慫さんの視座が「共感、理論」ではなくて、「他者の表現に縛りをかけること」に対する批判とあらたに感じましたがいかがですか?
毒多
2015/07/11 09:02
誤解を呼ぶかな?

ワタシがAに純粋に共感しているわけではありません。
ただ、こう、なんというか、なんとか、どうにか、、前へ進んでほしい、と思っています。
その可能性に共感する、といったとこだと思っています。
毒多
2015/07/11 09:06
私が、買わない、と決めたのは少年Aが「金のため」にこの本を出版した。という人が出てきたからです。どくたさんはお気になさらなかったみたいですが、僕はだいぶ気になりました。そこが。どくたさんがそこをスルーしたのが。

あと、宮台さんの『道義』というのは、社会のためにならないもの、は、そのことによるマイナス要因を差し引いてまで、たとえば誰かの感情を傷付けてまで出すものではない、という簡単なものだと思います。

drさんがここの管理人として「出していい」コメントと「出してはいけない」コメントを判断するのと同じように。

そして、ここでの宮台さんの、社会のためにならない、という価値の基準は、権力の介入を煽るようなもの、です。『社会を損なう出版社を潰せ』みたいな権力の介入、それが宮台さんの『かくあるべき社会』を破壊する。宮台さんはそれが嫌なのです。

そして、『この社会の問題は権力を持ってる側だけの問題ではなくて、みしろそこを支持する我々の問題でもある』わけで、だから、『不買』だし、『毒饅頭』なのです。
ごん
2015/07/11 10:12
『遺族の感情に配慮せよ』というのには、当然の道義が含まれているわけですから、そこに慮りを欠いた意見が世間の上部に持ち上がってくると、どうしても権力の介入を要望する声が上がってくる。

宮台さんはそれが嫌なんですよ。

僕は、たとえばこの本の著者が、先の遺族の手記を読んで、どくたさんと同じように『感銘を受けた』旨発言したらまずいな、と思いました。世間はそれを許さないと思います。

もちろん彼がそういうことを言うのを止める権利は僕には、誰にもないのだけど。
ごん
2015/07/11 10:26
あと「水」の話は、当事者の一人としての思いもありますので、もう少しオープンな場でお願いしたいと思います。もちろんただの要望として。

(『レイヤー』とか『資格』やらいう裁断処理用語がちらついていますので、息苦しくなってきました)
ごん
2015/07/11 10:43
>「金のため」
ワタシがスルーしたのは、それを気にしなかったからでしょう。
言われてなお、気にならないところをみると、やはりそこを重要視してないからかもしれません。
期待にそえずに、すみません。

>息苦しくなってきた
基本的にそれぞれの視点が言葉で表現され、必要と感じた人が、それぞれの思索に役立てばよい、ぐらいのコメ欄です。
同意を得られれば嬉しいのですが、なかなか難しいことを知ってなお、継続しているブログです。
今回ワタシ自身はコメントがすすむにつれ当初の息苦しさが薄らいできているのですが、逆を否定するわけではありません。
息苦しくなったり、イラツイたりしても絡むほどの意味のあるブログかどうかも微妙ですので、もし息苦しさを感じられるなら、一旦ブレイクされて、離れるのがよいような気がします。

>水
あまり当事者意識のないワタシが「例え」にあげたのはよくなかったかもしれませんね。「要望」とはすれ違うかもしれませんが、今後このブログで例えとしても取り上げるのはやめておきます。
蛇足かもしれませんが、「要望」に反感はありません。


今回、ごんさんと話ができてよかったと感じております。
毒多
2015/07/12 10:09
終了モードのようですがもう少しお付き合いください。議論に、ではなくて、この本のことについてです。どくたさんがわたしに勧めた。

これは確認ですが、僕が本を読むにあたって、そこ、出版の理由を重要視していることは知っていたはずですよね。

それどころかここには「悪しき商業主義」への加担に対する韜晦なりも書いてある。軽いんですかそれはそんなふうに気にしないでいられるほど。
ごん
2015/07/12 11:03
正直僕はこの本が出たことを「裏切り」と評している遺族の手記を読んで「遺族の言葉が聞けてよかった」という切り口に愕然としました。

僕は今回の件でどくたさんと話をしてよかったのだろうかと今も悩み続けています。

ごん
2015/07/12 11:10
おはようございます。
正直に言えば、「息苦しさ」を感じていたのはワタシ自身でエスケープしようと思ったのですが、「息苦しい」と感じた時こそもう一歩進むチャンスかもしれませんので、コメントを続けます。
ただ、ワタシの問題として、ワタシの思索を整理するだけで、ごんさんの確認に応えるものになるかは、解りません。

>遺族の手記が読めて良かった
とワタシが感じたのは、「赦しとは何か」という本質的なテーマを身体化しながら「生きる」という遺族の意志を知ったこと。「裏切られた」と感じながらもなお、次の手紙に期待し「赦し」を実践しようとしていること、に触れられたことです。これがワタシにとって感銘であることを書き記すことはワタシの問題にとって自然です。
遺族感情への気遣いといいますが、この遺族はワタシなどが気を遣うよりも遙か高いところで「生きている」気がします。
また、遺族はメディアに手記を載せることで、出版を認めている。遺族は自分の問題として自分と闘っている。ワタシはそこから何かを貰わずにはいられない。
手記、本ともに読めてよかった理由はこんなところです。
毒多
2015/07/13 08:59
>「金のための」出版
「生きる」ためには「生活」をしなければならない。「金のための」イコール「生活のため」。「生きる」だけを思索したい者にとっては、後者は「生きる」を卑しめるもので無い限り、あまり気にかからない。
「金」「生活」のため「だけ」に出版したのではない、むしろ別のものを読み取れた、と読了のワタシが感じてるということです。

>「悪しき商業主義」
申し訳ありません。(読んでしまったからかもしれませんが)そこに思考が向きません。そこの問題はワタシにとっては軽いです。
そこを重要視している人に薦めるのは軽率だったかもしれません。

ごんさん、、、
今回、話してよかったか、否か、とあなたが感じるのは、あなたの問題です。ワタシが判断することではありません。
読む、も、読まない、のもあなたの問題です。
「遺族感情」を無視した「悪しき商業主義」と「本そのもの」を秤にかけるのもあなたの問題です。
ここでの対話が意味なかったことと判断するのも、ご破算にするのもあなたの自由です。会話したことで、ご自身の最初の感覚を強化してもワタシはかまいません。ワタシにとっては何の問題もありません。
ごんさんに薦めたるのは取り消します。
ご自身で判断ください。

※次のエントリーでのご指摘は仰る通りだと考え、修正しました。ご指摘ありがとうございました。
毒多
2015/07/13 09:00
始終了解しました。

彼の続編を読んでみたいと思うどくたさんの気持ちが伝わってきました。わたしはご遺族の手記から彼の続きを読みたいという思いを読み取れませんでした。なるほどそうですね。

ここに至って、赦し、という言葉をおつかいになるご遺族を癒す、解放することができるのは彼しかいない。

僕は、彼にサカキバラを捨てる道を勧めたかった。普通の幸せを知って初めて罪を知るという陳腐かもしれないけどやはり僕の思う最善の道を。僕は相変わらず偉そうに僕のやり方が最善だと思うのですが、

どくたさんのやりかたもいいのだと思います。

本は手元にあります。


ごん
2015/07/13 18:56
訂正

どくたさんのやり方ではなくて、

ご遺族と、どくたさんが彼にかけた一縷ののぞみ、おそらく無理だろうと思いつつ、彼のその次にかけるのもいいのだと思います。です。

駱駝が針のあなを通るような可能性ですけどまっすぐで人間的でいいのだと思います。

この可能性は。どん底、を経験したような方にはすごくいいものかもしれないと思う自分がいます。傍観者でしかないのにそこに興奮している自分に、大丈夫か俺は、と冷静さを鼓舞しつつ
ごん
2015/07/13 19:24
毒多さん。こんばんは、です。

些か遅レスですが。

>水のときも今回も、愚慫さんの視座が「共感、理論」ではなくて、「他者の表現に縛りをかけること」に対する批判

仰るとおりです。

少し話が変わるようですが。

内田樹の『辺境論』の中で落語の『蒟蒻問答』が取り上げられていて、とても高く評価されているんですね。雲水がこんにゃく屋のジェスチャーを高尚な仏教的教えと勘違いして勝手に合点する、というような筋書きですね。

勘違いして勝手に合点する。これこそ〈教育〉でしょう。

もちろん【教育】というものもあって、こちらは「勝手な合点」を許容しないもの。先生と同じ理解をしなければならない。だから「勉(めて)強(いる)」になる。

〈教育〉はこれまた〈生きる〉ことでもあります。
〈生きて〉いれば、癒やしも赦しも、自ずから湧き出てくるもの――と、僕は信じていると言っておきましょうか。

勝手に合点してしまう〈教育〉には、必要な要素が一つあって、それは、「リスペクト」なんですね。相手へのリスペクト。内田樹には『先生はえらい』というタイトルの著書もありますが、ここでいう「えらい」の意味は、尊敬に値するほど高い教養や人間力を持ち合わせている――例えば宮台氏のように――ということではなくて、先生が本当はえらいかどうかなんてどうでもいい、「先生はえらい」と思いなすことが大切なんだ、ということです。そこにリスペクトがあれば、先生の言葉を勝手に合点して勝手に成長してしまう。人間とはそういう生き物である――と、これまた僕の勝手な思い込みですが。

で、今回、毒多さんは「元少年A」を“えらい”と思いなしたということなんだと思います。
愚慫
2015/07/13 23:05
「『水からの伝言』騒動(懐かしいですねw)での共感派、理論派を主張を今回に件に当てはめてみれば、

『絶歌』をリスペクトするのはケシカラン、なぜなら「元少年A」は殺人者だからだ――理論派。

そんなの関係ない――が共感派、ということになろうかと思います。

殺人者であろうが、非科学的な表現であろうが、リスペクトがあれば、そこから読者が勝手に合点することは起こりうる。何をどうリスペクトされ、どのような合点が生み出されるかは事前に予測は不可能ですが、「殺人者」や「非科学的」という【レッテル】は、たとえそれが事実であっても、読者の自由の可能性を制限してしまいます。

読解の自由の制限は確実に言えることなので、これには僕は反対。

とんでもない「合点」が生まれてしまう可能性だってありますよ。『絶歌』ならば、残酷な描写が悪しき影響を与える可能性がないとは言い切れない。でも、それは事前にはわからりません。

またちょっと飛躍しますけどね。僕が今回の件で連想したことのひとつに「出産前検査」があるです。生まれてくる生命を事前に検査して、障害があるかどうかを調べる。障害があると判明すると、堕胎する。

「合理的な考え」ではありますけど、甚だ「リスペクト」に欠く考え方ですよね。もちろん僕は反対です。事前検査には。
愚慫
2015/07/13 23:20
付け加えて言うならば。

【レッテル】を貼り付けて「勝手な合点」を抑制することには反対ですが、【レッテル】を貼り付けることそのものは容認するしかないと思っています。【レッテル】を抑圧することもまた、「勝手な合点」の抑圧ですからね。

【レッテル】もまた、それを必要とする者には〈生きる〉ために必要なもののようです。【レッテル】を張ってそこに向かって【毒】を吐き出す。『絶歌』を巡っておきていく現象の多くは、「毒を吐く場所」としての毒壺(?)みたいな需要なのだろうと、僕は思っています。毒多さんのような「リスペクト派」は、残念ながら少数でしょう。

【毒】を吐くのはあまり好ましい行為ではありませんが、【毒】を溜め込んでいる以上は容認するほかないですよねw。どこにも吐き出すことができない方が、もっと大変ですからね。

(【毒】云々は、毒多さんの次記事のテーマですね)

先に「3つのレイヤ」を示しましたが、これらを分離が大切なのは、そうしておかないと【毒】がどんどん回って行ってしまうから、なんです。『絶歌』という毒壺からあふれ出した【毒】が出版というシステムを冒さないようにしなきゃいけない。宮台氏は、だからこんな「毒壺を出しちゃダメだ」と言いましたが、社会が【毒】を抱えている以上、『絶歌』でなくても、どこかに吐き出しますって。

今回の宮台氏の主張の効用は、この視点から見るならば、

  『絶歌』は毒壺

だと“ミヤダイ”の名において認定したことでしょう。これで安心して毒を吐くことができるw 


蛇足ですが。

宮台氏はしばしばこういうことをするので「チルドレン」が湧くのでしょうね。そういうことをしない内田さんは、多くのファンがいても「チルドレン」はいないのと、良い比較対象になると思います。
愚慫
2015/07/13 23:37
僕もその出生前診断には反対です。ですが、今出生前診断なんて技術はないほうが良かった等と言っても詮無いことです。また、この社会で親になっていこうとする人が出生前診断をするのを止める権利は誰にもない。

ただ、僕は人間の自由への究極のハラスメント「堕胎は殺人、殺すのなら自分で殺せ」との論には与しません。

望まれない妊娠で生まれた子を昔は川に流しました。また、産婆の「この子はやっていけない」という判断で命をたったという話もあります。今の親に、今これから親になる人だけ、それをやれと。それがお望みですか。

どくたさん、今、「中絶反対派」に向けて寄付を募っている妊婦が話題に上っていますが、これについてはどう思いますか。

わたしがこの話題に乗ったのは、ずっと類似性があると思っていたからです。でも、そのことは表に出さなかった。上で出されてるような、「都合のいい総括」をしたくなかったからです。だから、どくたさんが、ここではこの話はやめて欲しいというならやめます。

というか、わたしは前回で言いたいことは十分言ったので、伝わらなかったようですけど、だから場を移動させてもあまり乗る気はないのですが。
ごん
2015/07/14 06:21
ごんさん

多分、遺族にとってAは何度「裏切られた」と感じようと(Aが裏切ろうとしているかどうかは別です)、切り捨てることはできないのではないでしょうか。彼なしでは解放に至らないかもしれません。でも最終的に解放に至るかどうかは自分の問題だと考えています。
いずれにしろ世間でまかり通っている 元少年A vs 被害者遺族という構図は違うと思います。

>Aは普通の幸せを知って罪を知る
本の最後の方になんとなく、そんな感じの風景が描かれていた気がします。「生きることを愛してしまった」に至る風景。

ワタシにとって時間の経過とともに本の内容が、すでに薄っすらとしたイメージになってきています。これだけ対話をしたあと、再読すればまた違う発見もあるかもしれませんが、今再読するのは、ちょっとしんどい気もしています。
毒多
2015/07/14 17:45
愚慫さん

>〈生きて〉いれば、癒やしも赦しも、自ら湧き出る、
賛同します。自らの裡から湧き出る。癒やしも赦しも自らの問題で自ら達するもの、自ら湧き出るもの、、ですね。

それにしても絶歌は毒壺かぁ、、それで、売れているんかぁ、、哀しいなぁ、リスペクト派(笑)としては、、、
マジョリティ公認のレッテルで、毒を吐いても誰も文句なんかいいやしない。眞一さんじゃないけど、もはや反論を言う気もおきませんよ。
そういえば、SNSの「友人」で、虐殺死体でみつかった猫も「絶歌」の影響で太田出版は責任をとれ、と息巻いていたヤツがいたなぁ、、、遠い目、もうあのSNSは辞めようと思う、ワタシにとっては、精神衛生上よくないことことうえない。

問題は、【レッテル】やら【レッテル】からの【毒】ってのは、「吐き出す」ものなのかなぁ、吐き出して毒抜き、浄化されるならいいのだけど、吐き出しがマジョリティの場合、大量の【レッテル】【毒】が蔓延し増幅して肥大しそうな気がします。【毒】が【毒】を呼ぶ。犬夜叉のなかの風景のように、、、それが〈生きる〉に繋がる気はしないなぁ。
抑圧しようというわけではないですが、自ら気づき自らの解毒しなければ、いつまでも【レッテル】と【毒】から解放されない気もします。
自らのなかで消化、昇華、浄化、させるのが本来ではないでしょうか?
と、こういうことを言うこと事態が、抑圧になるのかもしれませんね。
ワタシは絶歌を毒壺とはおもっていないので、そこが今回は根本的に宮台氏とは相容れないのでしょう。
毒多
2015/07/14 17:45
再びごんさん

>「出生前検査」
そういえば、以前決定的に決裂したのは、これに関してからでしたね。
そして今回、愚慫さんが飛躍といいながらも例えにだし、ごんさんも類似性があると感じているということは、今回の件と何か繋がりがあるのかもしれないんですね、、、正直にいってワタシは、ピンとこなかったし、こないんですね。
二人が想起したのに、ワタシはしなかったのは、ワタシの感性が悪いか頭が悪い、もしくは見当違いなところに立っている可能性があります。
前回だされた極論「堕胎は殺人殺すなら自分で殺せ」が、どうしても許せないというごんさんの感性、ご意志は解りました。ただ、そこを中心にぶり返すのは、このエントリーと話が離れることを危惧します。

愚慫さんの言う、「合理的だけど」「リスペクトに欠く」ってのは、(合理的ってのにはなんとなく腹がたちますが、)まぁ解るのです。これ胎児(=少年A)の側に立っていると考えられる。

ごんさんの感じる今回のエントリーとの「類似性」をもう少し理解の悪いワタシにも解るように説明していだけるのなら、聞きたいです。
毒多
2015/07/14 17:45
コメントされる方にお願い

どうしても相容れない感性だとしても、他者の否定の方向ですすむことは望みませんので、宜しくお願いします。
毒多
2015/07/14 17:46
社会と向き合うとき、僕はいつも僕の生徒へ向けての視線でものを見ます。だから、前の時もそうだったように、実は胎児の側の視点については、抜けている、のです。堕胎の胎は胎盤の胎だと言ったのを覚えていますか?

今回もそうです。バイオモドキ神の名の下にサカキバラを生み出した、透明な少年Aが、遺族との交渉を生きて、期待してもらえるところまで生きて、また、それでもまた、再び理不尽な殺人ショーを世間に現出させるのか、と。何のために。と。

どくたさんは、たとえば、子を虐待で死なした親に、その親が、次はうまくやるから、と言って子を産もうとしたとき、どんな言葉をかけますか?

ちゃんと考えたのか、と。僕なら尋ねます。できれば、もちろん、誤解のないようにうざい書き方をしますが、あくまでもできれば、産むのをあきらめてもらうために。僕はその子がちゃんと考えたのかを尋ねます。

その、できれば、というのは、生命を選別する不遜を自分が背負いたくないから、という理由ではないです。やはり、産む決断をした責任は当人でしか背負えないと思うからです。いや、責任を背負って欲しいのです。親には。

期待を込めて。
ごん
2015/07/14 18:36
どくたさんは、サカキバラを生み出した彼が、獄を生きて、遺族との交渉を経て、やはりサカキバラとして、責任を背負いたいと思っている、というふうに読んだのかな、と僕は感じました。

僕もそれを感じたら、この子はきちんと親になれるだろうか、という疑念を忘れます。

あまりうまく言えませんがこんな感じです。類似点は。全然違うような気もしますが。いろいろと。
ごん
2015/07/14 18:54
これは余談かもしれないですが、わたしはまだ子を産み育てる自信がない、という子には、なら止めなさいという用意はあります。いつでも。まだその経験はないですが。
ごん
2015/07/14 19:01
あと、類似点を如実にあらわす例として、

「中絶を人殺しと仰るあなた方、わたしはこれからその人殺しをしようと思っています。止めたければここに寄付を。わたしが子を育てるために必要なお金を、寄付してください。わたしが安心してこの子を育てる寄付があつまったら、わたしはこの子を殺しません。中絶反対派はのみなさんがほんの少しずつ金を出せば、この子は殺されないのです。どうぞよろしく亅

というようなでたらめな人の例を出しました。が、斜め上過ぎたようですね。

ごん
2015/07/14 19:20
繰り返しになりますが、彼の出版の目的は、金のために、ではないと仰るどくたさんが、僕の例示した、中絶反対派に寄付を募る女性、についてスルー、というかピンと来ないのは当然というか自然だと思います。

僕は少年がそんな筋の通ったデタラメ、薄気味悪いと形容しましたが、を言っているわけではないよね、と思ったので、ここにこだわったのです。

どくたさんが問題にしなかったここに

彼が今一度サカキバラとして世に出ることについてしっかり考えたのか、という疑念とあわせて
ごん
2015/07/14 19:37
ああ、前にごんさんと揉めた時の話題が出生前診断だったんですね。そんなこと、すっかり忘れていましたよ (^_^;

「殺すなら自分で殺せ!」なんて、誰が行ったのかと思ったら、僕じゃないか、爆!! ひとり大笑いしましたよ。

ま、僕も含めてみんな変わらないということですなぁ..

ここで出生前診断の話題を持ち出したのは失敗だったと思います。けど、謝罪すべきことだとも思わないので、あしからず。
愚慫
2015/07/14 23:06
ああ、あなたはあの人でしたか。全然わかりませんでした。人の話を変なふうにそらしていちいち注釈を要求する面倒くさい人がいるなとしか。

ちなみに、僕がこの本に疑念を持ったのは題名が「ぜっか」だったからです。この題名でなければもう少し素直にどくたさんの話が聞けたのかもしれません。

嫌いなんです。そういうときにそういうことをする人が。草生やしたり。大人になった少年Aがそうだとは言うわけではありません(シニカルなのがだめだと言っているわけでもありません。議論自体を第三者的な高みから小バカにするような、話者や聴衆を貶める、ぱっと見それ以外の意味を感じることができないような言辞ですね。ぬらっとした薄気味悪い。ちなみに宮台さんのことを言っているわけでもありません)
ごん
2015/07/15 05:34
毒多さん

宮台氏にイラっときた、と言いましたよね。そして、僕も同じことを感じた。

この「イラっと」というのが【毒】なんだと思うんですね。

宮台氏に【毒】があるかどうかは不明です。ですが、僕と毒多さんの中にはある。それが誘発されて化学反応を起こして「イラっ」になった。第三者的高み(笑)からみれば、受け取る側の問題なんですね。

ですが、受け取る側の主観からすると、それは宮台氏に【毒】があるように感じてしまう。

同じことが『絶歌』にも起きていると思います。

>自らのなかで消化、昇華、浄化、させるのが本来ではないでしょうか?

この「自ら」が何を指すのか、が難しいところです。

ニンゲンは、他者との関係性の中で「自ら」を確認します。「自我」というヤツですね。こちらの「自ら」であるなら、他者に【毒】を吐くのは、ごく【自然】な作用です。

もう一つは、身体的な、アキラさんが「自ぃ識」と呼ぶような「自ら」ですね。こちらだと、【毒】を自身の身体に流し込んで消化しようとする。これはニンゲンは無意識のうちにやっているはずです。だから【毒】で身体がやられる。本当に病気になる。

>こういうことを言うこと事態が、抑圧になるのかもしれませんね。

そうなんです。他人に吐き出すことができなれば、自身の身体で引き受けるしかなくなりますからね。
愚慫
2015/07/15 09:04
>吐き出しがマジョリティの場合

怖ろしいですね。僕はそれこそが「ナショナリズム」というものの正体だと考えるようになりました。

この視点で考えれば、甚だ気持ちの悪いことなんですが、『絶歌』程度で【毒】が沈静化してくれれば、まだマシだと言えてしまう。「ナショナリズム」はリアルな戦争を呼びますから。

まあ、でも、毒多さんが懸念するように、【毒】が【毒】を呼ぶ可能性が高い。これは宮台氏も、同じような感触を得ていたのだと思うのです。
(でも、だとしたら、なぜ「毒壺」認定したのかなぁ?)
愚慫
2015/07/15 09:04
申し訳ないけど、ちょっとだけ言わせてください。

ぼくはごんさんのコメント群に、かなり共感を抱いています。
でも僕はここにあまりコメントをしたくない。
というのも、僕はこの記事というか、「この記事を書いた毒多さん」にけっこう違和感を抱いているからです。
その違和感は本を読んでから出てきたものですので、結局はこの本を読むきっかけを作ってくれた毒多さんにはとても感謝をしています。

なにかね、元少年Aの書いたものを自分の側に引っぱり込んでいる気がするんですよ。
元少年Aの書いたものを元少年Aの書いたものとして見ずに。
毒多さんの中で、自分の思索のためのネタとして位置づけされてしまっているように感じるんです。
そこが違和感のあるところで、なので僕が感じていることはここに書きようがないんです。
元少年A自身のことは、あまり関係のないような感じなので。

世間の反応とやらも、そうなのではないでしょうか。
自分の中の【毒】のためにこの本を引っぱり込んで、その自分の【毒】を吐き出すために使ってるだけ。
元少年A自身がどうとか、全然関係ない。
その意味では、別に『絶歌』じゃなくても何でもいいんだと思います。

毒多さんに対しては、そこまでのものは感じていないのですが、何かそれにちょっと似たような、自分の(必死の)思索のためにこの本を引っぱり込んで、その結果出てくる自分の思索を吐き出すために使ってる感じでしょうか。
何かそんなニュアンスをちょっと感じてしまうので、コメントができないのですよねぇ。。。

すみません、批判しているわけではありません。
何も書かないよりも素直に思っていることを伝えようと思いまして。
ごめんなさい。
アキラ
2015/07/15 11:03
愚慫さん

別に出生診断の話を持ちだしたのは失敗じゃないでしょ。二人が関連付けているのは偶然じゃないだろうし。
謝罪は、本当に自分が悪いと思ったとき以外はしなくていいですね。昔、誰かは忘れましたが、謝罪を要求していたブロガーがいたことを思い出しますが、、、、爆
毒多
2015/07/15 12:59
ごんさん

なるほど、ほんとうに教師の目線ですね。
ごんさんの「正しさ」によって指導する、というのが伝わってきます。
教師というのは、自分の意見(「正しさ」)を持って、それを基に指導(アドバイスでもいいのですが)する、という仕事なのでしょうね。それを私が批判や、とやかく言うことはできません。まったく教師という仕事を(教師側として)理解していないし、その位置に立っていないからです。
ただ、ワタシは昔からオノレの「正しさ」(多くは社会的正しさ、礼儀、掟)によって指導する先生が(生徒側として)好きじゃありませんでした。「リスペクト」できる先生がいなかったからかもしれません。それは「ワタシは」ですので、一般性がまるでないことをご理解ください。気を悪くされたらすみません。
今も昔もワタシには教師という目線はなく、対峙している他者も生徒という感覚はまるでありません。ここがすれ違う原因のひとつかもしれません。

前回の「中絶反対派に寄付金を求める女性」のはなしは、敢えてスルーしたわけではありません。よく意味が解らなかったうえに調べる時間もなく、質問の意図もわからなかったので、置いておいたのです。今回の解説で意味も意図もなんとなく解りましたが、突然よくわからない質問をぶつけて相手の反応をみるのも教師の方法ですか? ワタシは試されているようであまり好きではありません。・・・ごんさんは、このエントリーでのワタシを生徒を観る目でみてますか? 違うとは思っているのですが、、、
毒多
2015/07/15 13:00
意図してスルーしたと判断され、誤解されるのは本意ではないので、今回は、なるべく順にそってレスしたいと思います。全てにレスするのは、(自分の正しさがなく、あやふやな人間にとって)けっこうしんどいんですよ。

堕胎の胎は胎盤の胎といわれたことは、覚えていません。ワタシは「胎児」の胎として一人格だと思っています。眼の前にいる妊婦(生徒ではない一人格)だけでなく、もの言えぬもう一人の人格があるとして、考えています。

今回、本により「理不尽な殺人ショー」ではなく、「人間は変われる」ということを知りました。それを伝えるためには、過去の「理不尽な殺人ショー」を振り返らなければなりません。大多数にとっては、「理不尽な殺人ショー」の再現もしくは、「毒壺」かもしれませんが、そうでない読み方をした人間(ワタシ)もいることは事実です。

子を虐待で殺した親がなぜまた子どもが欲しいのかはじっくり言葉を聞きます。そのうえでワタシなりの意見は持つと思いますが、それをなるべく丁寧に伝えるまでしかできません。(その事例毎で変わる設定を一括して応えることはできません。)
Aがなぜ出版したのか、じっくり聞いてみたい。つまり読んでみたい(本から読み取りたい)、、、と同じ感覚です。
毒多
2015/07/15 13:00
Aからサカキバラという過去は消えないでしょう。それを背負ってなお「生きる」しかないと思います。
>「この子はきちんと親になれるだろうか」、、、Aに、この「子」(に教えてあげる?)という発想はありません。対等な人格だと思っています。

「中絶反対派に寄付を募る女性」から、Aとその出版が結びつきません。この「中絶反対派に寄付を募る女性」の真意やそこに至る心理は、この短いセンテンスからは解りかねます。(今回の出版のように)本人がこのセンテンスに至る経緯を赤裸々に表し、ワタシが知りたいと思い、かつ読む。それからしか判断しかねます。

 Aが出版にいたる決意は軽かったとは思えません。
 ただなぜまた「殺人ショー」として多くの【毒】によって攻撃されることが解っていながら、そうした渦中に現出させるのか!!!という、ごんさんの気持ちは解ります。Aが、それが全てではない、と思ったかどうか、、ワタシには解らないのですが、、、

 ところで、ごんさんは、何故ここにコメントするんですか?
 自分の正しさを確認するためですか? 自分の感性とはちがう他者の感性を確認するためですか? とすると、確認するのは生徒への指導をより「正しい」にもとづいて、するためですか?
 ワタシは自分のためにエントリーしてレスをしています。
 ワタシはワタシです。
毒多
2015/07/15 13:01
再び愚慫さん

とりあえず、
けっこう「しんどく」なってきたのは、自らの【毒】が身体を侵し始めたからかもしれない、、、、うぐぅうう、
(コメントには同意しかありません。)
毒多
2015/07/15 13:04
アキラさん

謝らなくてもコメントは自由です。
もちろん、しないのも自由です(笑)。

やはりワタシはムキになってますかね。
なんとなくそう感じるところもあるのですが、なかなか自分では認めにくい。
ここのコメント群でも、ワタシはワタシの都合の良いように、少年Aを創作しているのでは?と書いたり、ついにはワタシはワタシのために思索している、、ということを、ごんさんへのコメントの最後に自供してしまいました。
生身の少年Aを前提にするのは、ちょっと無理目かな、とは感じないでもない。
ただ、確かに本から何かを感じいたことは事実です。
生身の親身でないにしても、本から何かをもらったのも事実です。

どんな本でも良い一冊の読後感想が、暴走してえらいところまでいってるんじゃないの?というならそうかもしれませんね。「絶歌」にたいするニッポンALLバッシングが許せないだけのことかもしれません。(まあ、コメント欄のおかげで、ごんさんのようなアンチ出版があるということも知り、必ずしも、「アンチ出版」でまとめられない、ということが解ったのですが、、)
いずれにしろ、アキラさんがワタシに違和感を感じているという言葉は受け止めます。

第三者じゃなければ解らないこともあると思いますし、いったん離れたり、時間をおかなければ、見つめ直せないこともあります。今のワタシそうした状態でない、なんてことは言えません。ぐらいの冷静さはあります。
書きたくもないのに、書かずにいられなかったアキラさんの苦言はワタシの片隅においておきます。

どうも、ありがとう。
毒多
2015/07/15 13:26
おいおい、ちょっとまてよ。
アキラさんの言葉を認めちゃうと、ワタシが自分のことしか考えてない、ただ自己中、利己野郎で、他者を利用するだけの、、、Aを利用しただけの冷血であることを認めちゃうってことになるのか?   まぁ、そうかもしれないな。、、、絶対に教師にはなれないタイプだ。
毒多
2015/07/15 13:37
なんか、言葉の端々が誤解を呼びそうな、、、

ごんさん、
ごんさんが生徒を「一人格」として見てないと言っているわけではありません、上下関係ではない、対等(もしくはオノレのほうが教えを乞う関係)を「一人格」と書いてしまいました。どうか、全般にわたって好意的に読んでください。・・・無理か、、

毒多
2015/07/15 13:44
ところで、

この本を「思索ネタ」にするのはいけないことなの?
毒多
2015/07/15 14:25
>ところで、ごんさんは、何故ここにコメントするんですか?

しょっぱなのコメントはどくたさんが以下のようにおっしゃったからです。

>教師には、読んでみましょう、と進めますが、オノレの感情が絶対に正しいと信じ込んでいる多数に「読んでみましょう」と素直に推薦できる本でもないのです<

その後コメントを続けたのは、以下のアドバイスからです。

>正直に申しまして、精神科医と診療心理士と教師は、読んでもいいんとちゃう、、みたいなことを書きましたが、もちろん、今後元少年Aのような少年に遭遇したときのために、という意味です<

僕はどくたさんのことが好きですけど、ここでのどくたさんの思索には興味ありません。

ごん
2015/07/15 19:23
>ごんさんの仰りたいことが解ってきました。
彼(元少年A)を思ってのことですね。教師として彼の最善を彼にどう助言するか<

全然違います。

>ごんさんには教師的視線を感じますし<

こういうふうに見えるんですね。とだけ。

>なるほど、ほんとうに教師の目線ですね。
ごんさんの「正しさ」によって指導する、というのが伝わってきます<

僕はここで一度も善悪の話などしていません。

ごん
2015/07/15 19:30
僕がここで「社会と向き合うとき、僕はいつも僕の生徒へ向けての視線でものを見ます」と言ったのは、僕が表に出て目にする生身の人間が生徒たちだからです。他意はありません。

>オノレの「正しさ」(多くは社会的正しさ、礼儀、掟)によって指導する先生が(生徒側として)好きじゃありませんでした。「リスペクト」できる先生がいなかったからかもしれません<

はい。これがどくたさんの「教師」への視線ですね。僕が「教師の視線」だと決めつけた。もう少しいいものだと思っていたので否定しませんでしたが。

ごん
2015/07/15 19:37
>ごんさんは、このエントリーでのワタシを生徒を観る目でみてますか? 違うとは思っているのですが、、、<

もちろん違います。

>ワタシは「胎児」の胎として一人格だと思っています。眼の前にいる妊婦(生徒ではない一人格)だけでなく、もの言えぬもう一人の人格があるとして、考えています<

僕は生身の胎児と向き合ったことがないのでそんなふうには思えません。自らに宿した親は向き合っているかもしれませんが。

ごん
2015/07/15 19:48
僕は生徒全員が少年Aになりえる、どくたさんの言葉を借りれば「いつか出会うであろう少年A」として。そんな一個の人格として生徒たちと向き合っています。

でもまだ出来上がっていないのですね。できそこないなんです僕を含めて人はみないつまでも。でもだからこそ磨けば光る、若い子は。そこに敬意をもって接しています。若くない僕は自分の経験を頼りに彼らと。

常に教えられることばかりですよ。



ごん
2015/07/15 19:55
どくたさん

宮台さんは「毒饅頭」と形容しました。残念ながら僕も直近のやりとりでその判断を支持します。おいしそうだけど消化不良を起こす。つまり「この本は読む価値がない」と言っているようにしか聞こえませんでした僕には宮台さんの言は。

さすがだな宮台さんは。最高のネガキャンだよこれは。と思いました。

だから、あくまでも「毒饅頭」です。「毒壺」とは言っていない。「毒壺」なら面白そうですからね。

だからあんまり考えないこの本の支持者はそこに「イラッ」とくるんだと思います。

ごん
2015/07/15 20:05
>この本を「思索ネタ」にするのはいけないことなの?

善悪の判断はよくわかりませんが、どくたさんがその「思索」をたよりに誰かを批判するのだとしたら、どくたさんの次のエントリで「批判」の対象となっている「本を読みもしないで少年Aを批判している人々」と同じです。

ごん
2015/07/15 20:12
>どうか、全般にわたって好意的に読んでください。・・・無理か、、<

無理です。
ごん
2015/07/15 20:14
「金のために書く」ことと、「己の中に書かざるを得ない何物かがあって、それを書く」ことは何ら矛盾しません。

ウェイン・ハッセイは曲作りについて尋ねられた際に「エクソシズム」(悪魔祓い)だと答えました。
エクソシズムいう語には、恐らくラテン語由来でしょうけれど「中から出す」という意味があります。

私は『絶歌』を読み、私なりに彼の文章(文体や手癖)を真摯に吟味した結果、これは執筆を生業にする誰かが書いたものではなく少年Aさんが書いたものであろうと結論付けました。そして書かれたものが彼が過去に辿った感情・思考の流れを逐一正確にトレースして文章化したものか否かはさておき、少なくとも彼が(記憶の改変や思い違いも含め)自ら思いなした事柄が書かれているのだという実感を得ました。
ただしその実感を誰に押し付ける気もありません(件の弱者云々は『絶歌』を読むずっと前からの、私にとっての元少年さんに対する見なしに過ぎません。もちろん、読後その見なしがより強化されたのは事実ですが)。

『絶歌』彼なりのエクソシズムの産物だと私は見なします。その産物は、滅多に心が揺らぐことのない私の心を大きくぐらつかせました。それは確かな事実です。書かれた内容よりも、彼の文そのものが持つ肌理というか、撚れや歪みに“conjure”されるものがありました。
“conjure”されたのは「彼が為したこと故」でなく、それを為した彼自身が持つ特異性故であると私は感じています。彼は稀な、特異な人物ですよ。『絶歌』の類書が存在していないこと自体が、それを示しています。特別だから云って特別扱いするべきではない。しかし、特別なものは厳然としてあるのですよ。
眞一
2015/07/15 23:02
実のところ、毒多さんと私の「元少年Aさん観」はかなり異なるのだと思います。

例えば(あくまで一例として挙げさせていただきます)アキラさんがコメントで
>「そういう人ってのはいる」ということだけは理解
と書かれましたが、私にとっては「こういう人が存在すること、そのものが重要」なんです。

この差は途方もなく大きいですよね。そして、アキラさんがこの世界で生きているように、私もたぶん一応同じはずの世界で生きています。私はアキラさんではなく、故に当然ながらアキラさんにはなれないのだから、私としてこの世界を生きていかねばならない。

私にはこんな風に自分のことを書くことしかできません。そして、私がこのようなコメント欄に対しても求めているのは、前述のように他者である個人の「エクソシズム」であり、それによって導かれる“conjure”に他ならないということでしょう。何分オカルト的な表現で申し訳ありませんが、これが私の地なのでどうにもなりません。

個人の裡から必然的に出てくるもの以外には、全く興味がありません。自己欺瞞がかたちになったものに触れると、冗談抜きで具合が悪くなります。多くの「毒」が有害なのは、それが悪意から生じるものだからというより、おそらく自己欺瞞によって姿を変えられているからだろうと感じています。
必然的な撚れや歪みでないから、有害になる。
眞一
2015/07/15 23:38
「自己欺瞞」はひどいですね。

ここは「この事件を利用して自己満足を得たい。そのために毒を吐く」ですよ。「自己満足」です。「欺瞞」というのは真実がそこにあるからつかえるわけで。

「相変わらず極めて特異な少年Aがそこにいる」というのも自己満足でしかありません。どこかのコメント欄に長嘆息するための。
ごん
2015/07/16 07:17
どくたさんは「まだ見ぬ少年A」に最初に出会う人、つまりは若く、これから親になろうとするすべての人にこの本をすすめませんでしたね。

>教師が生徒にすすめる本ではないと思っています<

それはもう一方の当事者「被害者の親」がこの本の出版を拒んでいたからですか。

ごん
2015/07/16 07:25
>毒多さん

付言します。
「自己欺瞞」という表現を使うにあたって念頭に置いたのは、次エントリへのコメントで触れた「昔親しかった人物」です。過去の親しい交流に基づく知見があり、その人となりを把握していました。
本コメント欄の幾ばくかの発言程度ではデータが乏しすぎて、他者の内心を洞察することは私にはほぼ不可能です。

また、そこまで迂闊でも短慮でもないつもりです。
眞一
2015/07/16 09:06
ごんさん
前半コメは概ね解りました。
ワタシの「教師」に対する不信感は子どものころからずっとあって、愚慫さんが引用した内田樹の「先生」の話にさえ抵抗があります。ただ、それは今となっては、ワタシの教師だった人たちの問題ではなく、ワタシの問題であり、ここに書くのは場違いだったで、一般性はないです。
ましてや、
>そこに敬意をもって接しています。
>常に教えられることばかりですよ。
と言われるごんさんへのコメ欄に書くことではないですね。
失礼しました。
毒多
2015/07/16 09:12
眞一さん
ワタシはあなたほど読み込んでなく、元少年Aその人への思いも、ベクトル深度ともに甘いかもしれません。
では、大衆の「猟奇殺人者」というシュプレヒコールに対する嫌悪感を吐くために、元少年Aを利用したのか?と言われれば、それは違うと自己判断するのは、読了して自分が変わったと感じたからです(ここがアキラさんとの分岐点だと思います)。
そうした純粋にAに対する「ワタシ」と、社会的に処置(こういう人もいると認識する)「私」の二面性がときどきによって顔がかわってしまいます。このあたりがダブスタ野郎と言われる所以だと知ってはいるのですが、、、
「自己欺瞞」については、常に自分に問いかけたいと思っています。
毒多
2015/07/16 09:12
ごんさん
次のエントリーでワタシは【毒】を吐きました。で、自己満足を得られたか? むしろ【毒】は増強されたような気がします。
ただ、これだけ対話するなかで、次エントリーのような気持ちは薄れているように感じます。

>アキラさん、愚慫さん、以外(他多数)には薦めていない。
被害者遺族の出版否定をふくめ、出版の是非の判断はできてない、からかもしれません。

>教師が生徒にすすめる本ではない。
本の第一部、殺人にいたるから殺人後の回想、描写があまりに怪奇、ショッキングで、子どもが読むには問題がある、と考えたからです。あくまで、ベテラン教師の視点ではなく、ワタシの価値観です。

ワタシが「教師」に薦めたことに、真剣に対峙していただき感謝します。正直、現役教師から深部にいたるクエスチョンがあるとは思っていませんでした。対話からワタシも考えさせられました。
今は、「はたして、ワタシは自己欺瞞なのか?」「生身の他者と直に対峙しない思索は意味あるのか?」と考えてしまっています。ので、質問には応えますが、ワタシからこれ以上何か言うことは出来なさそうです。
毒多
2015/07/16 09:16
眞一さん

付言が、私の投稿と重なりました。
「自己欺瞞」が次エントリーの「昔仲のよかった人物」を念頭においた、は了解しました。が、やはり自分を振り返らずにいられないワタシがいます。

この場を借りての追記ですが、
前の眞一さんへのコメントのなかで、
>読了して自分が変わった
は、
>読了して自分のAへの見方が変わった
です。
毒多
2015/07/16 09:24
誤 >出版の是非の判断はできてない
正 >社会的な出版の是非の判断はできてない
毒多
2015/07/16 14:44
いえいえそんなたいそうなものではございません。

この間も「加齢臭」という言葉に反応して「顔だけじゃなく心もブスなんだな」と返して一騒動巻き起こすという大失態をやらかしました。

(元)少年Aが自らこの舌禍を生み出したのでなければ、少年・遺族双方にシンパシーを持つものは、ただだまって、見守ることしかできないのだと思います。この絶望的な事の顛末を希望の持てるものにすることができるのは彼と遺族の間にしか存在しないのだと思いますから。

唐突に渦中に投げ込まれた遺族の側、何の前触れもなく重い重い荷物を背負わされた側、この本の出版を拒んだ側に僕のシンパシーは大きく傾いています。ので、この本は読みません。この本をわたしに託した方との約束通り、その方は「返さなくていい」と言っただけですが。この本は捨てます。ごめんなさい。
ごん
2015/07/17 05:52
こちらは朝から雨が降っています。昨日強烈な西日にあてられつつ娘と台風9号の風に吹かれた桜(本土のとは違います)の葉、風のあと何日かして落ちます、を片付けたのですが。そちらは大丈夫ですか。どうぞご自愛下さい。
ごん
2015/07/17 06:10
そうですか、捨てますか。
その決断に、静かに微笑んでいるワタシがいます。
微笑みが、敬意なのか、安堵なのか、充実なのか、残念なのか、、いつかどこかに繋がると思ってのか、、、わかりません。
おそらくワタシは2部のみを再読するでしょう。
本文にも書いた、元少年Aの
>僕は今頃になって「生きる」ことを愛してしまいました。
というセンテンスを読みたいだけなのかもしれません・・・・それだけのために、無理を承知で言葉を費やしたのかもしれません。そんな自分にも微笑えんでいます。

今後も生身の「自分」に向き合うために考え続けると思います。それで善いと思うし、それしかできないと思っています。それをブログで書くのは「自分」は、必ずしも自分ではないことを知りたいからかもしれません。
毒多
2015/07/17 09:02


昨夜から吹き荒れる台風の風は、少しだけ開けた窓によって、本来より強くすさまじく鳴っています。そんな風を感じながらじっとしています(笑)
お気遣いありがとうございます。
毒多
2015/07/17 09:03
なんなんだろうね、この結末。

誰に元少年Aのことを批判する資格があるのだろう?
愚慫
2015/07/17 10:48
>毒多さん

どっとはらいモードのようですね。ちょっとしたおまけ。
kuronekoさんのところ、2015-07-15 12:54:11 エントリにコメント入れております。その中で紹介した分類になぞらえると、元少年Aさんはカテゴリー1. からカテゴリー5. へとシフトチェンジしたいのだと私は思っています。

こういう「なぞらえる」行為自体を不謹慎であると見做す向きもありましょうが、個人的には不謹慎と見做されることにさして関心がありません。
眞一
2015/07/18 00:01
おまけ・その2です。
『絶歌』を読んだ際、昨年観に行った『死刑囚絵画展』を思い出しました。展示作品の中に北村孝紘さんの絵が何点かありました。こういった作品です。

www.roadsiders.com/_mailmagazine_data/20130403_h26c5MtYkDE4c/image1_44.jpg
www.roadsiders.com/_mailmagazine_data/20130403_h26c5MtYkDE4c/image1_41.jpg
rr.img.naver.jp/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140315%2F44%2F4202194%2F4%2F610x863x0ba70ca43d0d0e06f6740fd3.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=600&qlt=80&res_format=jpg&op=r

一瞥でお分かりと思いますが、突出した画才を持つ人です。リンクサイトが無いのが残念ですけれども、私が特に気に入ったのは『福引き地獄』という作品で、緻密で勢いのある描画の中に、凄惨さとユーモアが同時に込められた奇妙な絵です。死刑を待つ(or処刑された)方々の手による展示品中、残酷さとユーモアを一枚の絵に顕わしているものは稀有でした。
また彼は文章も書ける人で、漫画実話ナックルズに『死刑日和』という連載コラムを持ち(未読)、編集部に自らの血を染料として描いた絵を送ったこともあります。画題は絞首された血塗れの、彼自身の生首です。

彼が何をして死刑囚となったかは、ネットで容易く知ることが出来ます。私は彼が綴った短い手記を読んだこともあります。
そこには概ねこういった内容が書かれていました。
眞一
2015/07/18 00:51
「私を含めこの福岡拘置所で暮らす死刑囚たちは、犯した罪に対しての罪悪感や、被害者の存在などは意識せずに日常生活を過ごしていると思う」

「(中略)金が必要になるのだ。(中略)そういう面で死刑囚は現実的な問題に頭を悩ませ、時間に追われて生きている存在だと私は思う」

「親のための自切り(懲役に行くこと)こそ進んで上げるのが、ヤクザのあるべき姿である」(北村さんの実父は北村組の組長、つまり二重の意味で「親」)

「我が身を省みずに親の為に忠実に仕事をこなし、自切りを上げたという名誉ある行為だったのだ。恐らくこれは間違えた考え方なのだろう。正直に言うと、今では半分言い訳であり、私の唯一の拠り所でもあるのだと思う」

「だが、もし今、先にあるすべての状態を理解した状態で事件前に戻ったとしても、私は同じ行動をとるだろう。もし私がやらなければ、親や兄が手を下すことになる。家族に人殺しはさせることはできない」(けれども結局彼を含め一家4人は死刑宣告を受けました)

「私は死刑囚という立場ながらも、死刑制度には賛成だ」
以上、『実録 死刑囚』(ミリオン出版)より
眞一
2015/07/18 01:09
未決死刑囚として、拘置所の独居房という特殊な空間で死刑執行を待つ日々を送る北村孝紘さんと、医療少年院を経て実社会に復帰した元少年Aさんとでは置かれた状況が異なるのですから、罪に対する向き合い方から己の命に対する意識に至るまで異なっていて当然です。

私は北村さんの文章を読んだ時、『絶歌』を読んだ時のように心がぐらぐらと揺さぶられることは全くありませんでした。
それは何故かと考えると、北村さんが罪という重荷をあまり意識していないように見えるからということもあるかも知れません。しかしそれ以上にずっと、罪を負った人間が(その存在を知れば決して己を許容しないであろう)他者の群れに身を投じて孤独に生きるということ、その中で時に出会う他者の優しさや気遣い、共感に触れて心が揺れている姿が文面から立ち上がって来るか否かの差があるからではないかと感じています。

北村さんの文章は既に出来上がっていて、自己確立されているように見えます。だからといって、私は北村さんの考えや意識を受け入れ難く思ったり悪意を抱いたりすることはないのです。そして、彼の考え方に触れることは私には重要なことです。もちろん私は猟奇犯罪(者)マニア・死刑囚マニアではありません。
私なりに人間を理解するために、彼のような存在に触れる必要があるのです。

ところで、私は彼の絵が非常に好きです。手許に置きたいくらいに。彼の絵にはたとえ人を殺していなくても、同じように私を魅了する力があったと思います。彼が人を殺さずに生きる道はどこかにあったのではないか。そんなことを思います。

たぶん彼の絵に触れなければ、そんなことは思いもしなかったでしょう。
眞一
2015/07/18 01:47
眞一さん、亀レス失礼します。

北村さんのことは知りませんでした。
絵も観ましたが、上手だな以上の何かは感じませんでした。
また、短い紹介ではあるのですが、本を読んでみたい、という直感も働きませんので読まないと思います。読まないのでとりあえず何かを語るのはやめようと思います。

>罪を負った人間が(その存在を知れば決して己を許容しないであろう)他者の群れに身を投じて孤独に生きるということ、その中で時に出会う他者の優しさや気遣い、共感に触れて心が揺れている姿が文面から立ち上がって来る

とても共感します。
やはり「絶歌」を読んでよかったし、ワタシの糧になっています。
毒多
2015/07/20 16:21
御初にお目にかかります。私は先日絶歌を初めて拝読しました。絶歌を読んだ私の感想はこうでした。
「なんだ。思ったより普通の人じゃないか」

えぇ、どこが気持ち悪いのか異常なのか分かりませんし、彼はちゃんと過去を見つめ反省してるのだろうと読み取れました。

過剰に見える抽象的表現は、彼なりに人の気持ちや感情を勉強した表れに見えましたし(不器用ですが)、解剖も私からすればそんなに異常な事ではないです。数を重ねていけば、人間相手へとエスカレートしていくのも十分有り得ることです。どうなるのだろうかという強い好奇心。彼はそんな妄想を毎日し続けて、ついに実行しただけの事のように感じます。

殺害後の神格化された表現も「あいつは反省してない」と話題になってましたが、私はあの表現、やりたかった目標が1つ達成されたんですからそりゃ反省の前に酔いしれるよ。この本は、被害者のための本じゃないですから。自己救済のための本なので、バカ正直にその時の感想を述べたのだと思います。まぁ、それで情緒豊かな方々に批判をくらってると・・

勿論2人の命を実際に奪ってしまったことも事実なので、その罪や罵倒を受け入れなければいけない気もしますが、実際の当事者でもない周りが過剰に騒ぎ立てることでもないだろうとも思います。

元犯罪者ではなく犯罪を起こす前の一般人の皮を被った人のほうが怖いです。

まぁ、ここまで言っておいて私は実際に会ったわけでもないので、本当に彼の本を理解できているのかは分かりません。
ただ、あの本は私と考え方が近かっただけでした。これを理解出来たら異常や病気というならば、私は同じ病人として共感出来ただけでしょう。

毒多さんの世論に流されずに自身の見解を示したこのブログに目が留まりましたので、拙い文章ですが少し書かせて頂きました。
シオン
2015/12/14 16:05
シオンさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。

まず、読まれたうえでのコメントに賛同します。
コメ欄にて随分議論したことが思い出されますが、この本に関しては、読んだ人としか話はできない、と改めて感じます。
読まないことへの批判はしませんが、読まないで「批判」するリアル周辺に対し、人物としての色分けをしていたことを思い出します。
こうして友人は減っていくのですが、、orz、、まあ、いいでしょう(笑)

おそらく、シオンさんも彼(少年A)への理解(理解しえないという前提のうえ)というよりも、本により彼と接しったときのオノレの感性や感覚をじっくりと感じ考えたいタイプの人なんだろう、と思いました。
オノレのなかにある多面性、オノレの意識として捉ええない身体の裡を想像するにいたり、「思ったより普通の人じゃないか」と書かれたのではないでしょうか?

世間的には少ないタイプの人ですが、ワタシは好きです。
毒多
2015/12/15 08:41
返信ありがとうございます。
私も毒多さんと同じく、彼の犯した罪を責めたとしても、一人格や本に関して責めるのは問題外です。社会が生かした元犯罪者には、人格すら持つことを許されないのでしょうか・・

えぇ、人が完全に理解し合える事などないと思ってますからそうかも知れません。
普通だと思ったのは、私も彼もクラスの端っこにいるようなタイプで、友人もごく僅か。1人で木や自然に寄り添っては音楽を聞いたり、ナメクジ・カタツムリ・カエル・猫(私の場合は猫と犬を飼っていたので鳥でした)を小学生から殺しては解剖し、人間に興味が移る工程。児童相談所へのカウンセリング。
ふとした時に襲われる暴力的好奇心も似ています。彼は同級生や男の子を意味もなく殴りました。私も話してたら急に殴りたくなったり、時に階段上から突き飛ばすなどの危険が及ぶ行為をおこなっていた時期があります。やる前はきっと理由があったと思うのですが、終わったあとはスッキリとして理由が何だったかもあまり思い出せないのです。(そして怒られる前に理由を自分で再び探し出す)

第一部で「あるある!」と言ってしまいそうな共通項の多い文を見て、思ったより身近な人として「普通だった」という位置づけになったのかも知れません。
私もだいぶバッシングを受けてしまいそうだな・・ore

ただ、殺して性的快感を得ていたという描写は理解できないので、それはもう男女差か性癖の違いなのでしょう。
シオン
2015/12/15 13:56
再コメありがとうございます。

ワタシはどちらかというとクラスの中心周辺にいまして友人も多かったのですが、思い出してみると小学生の頃、ワタシも小動物を殺していました。片方で可愛がりながら、やはり虐待してしまう。どこかで罪悪感は感じるものの。ある種の「衝動」を抑える意識は未成熟でした。これが、ごく一部の異常な人間(子ども)の異常な行動かといえば、友人とともに虐待していたことも思い出すと、そうでもないのかもしれません。あくまで小動物で、それが大きくならなかったのは何かしら理由があったからでしょう。身の程をしっていたのかもしれません。
それらの虐待が性的な衝動だったのかどうかは解りませんが、そうした意識はありませんでした。
ある頃からそうした行動はしなくなり、いつしか、動物虐待に怒りを覚え眉を顰める人間になっています。(ただ、状況や環境によってはどうなっているかなど解らないぐらいの想像はつきます。ナチの対ユダヤや、悪魔の飽食731部隊の例を挙げなくても列挙できるでしょう)。

人間のそうした一面を実感をもって想像できるかどうか、はやはりオノレに振り返るしかありません。
多くの世間は「動物虐待に眉を顰める今の自分」しか認識できない。つまりません。

ただ、ワタシはこの本は、1部のみで終わっていれば、もしくは2部だけであれば、評価しなかったと思います。2部があってこその1部であり、2部を書くために1部は不可欠だと感じています。
ただ1部から2部に人格が変わっていく要因を思索は必要ですね。

毒多
2015/12/16 08:45
おぉ!毒多さんもそんな時期があったのですね。そう考えると、殺害願望が進行する人と止まってしまう人の差は何なのでしょうかね?単独か複数人数でやるかなのか・・うーん、これは謎です。

私もそのお話には大きく頷きます。1部あっての2部ですね。先天的なもので未だ他者の痛みには世間ほど共感出来ていないのかも知れないけれど、彼なりに他者に興味を持ち、その人自身のことを考えようとしてる姿勢がしっかりと感じられます。
ただ如何せん『第三者に事前に相談する』ということが少し抜けていそうな、何といいましょうか・・自分がやろうとしていることの分野が分かる人以外には『分からないなら話す必要ないか』という考えも持ってるのかなぁっと思いました。
本の出版、見城氏への手紙、万人受けが難しいHPやブロマガ等で、やる前に第三者の意見やアドバイスを貰えたら、また少し違ったのかなと。(まぁ、それが彼の個性なのかも・・)

変わった要因はきっと収容生活での実体験を経てなのでしょうが、国をあげての政策なようなので考慮したんでしょうかね。
シオン
2015/12/19 17:07
暴力(殺人に至ってしまっても)が「悪い」というのは、日本の社会の決まり事、のようです。というのも「暴力」(殺人に至っても)を肯定しステイタスとなる「社会」もあるということを聞きました。
日本をはじめ多数の社会では、暴力はいけない、と、そういう「決まり」になっていますが、あくまでもその社会の道徳であり規則です。生まれたときからもっているものではなく教育によって植え付けられる。
教育がうまくいかなかったり、教育の過程(教育以前)であれば、そうした社会に背く行為を行う可能性も「素の人間」にはあるでしょう。

2部のようになってよかった、と感じているワタシも、その社会道徳をよしとしている教育によって社会に染められた社会人だからなのかもしれません。
収容というのが、社会に馴染めるような「再教育」とすると、それが成功したと言えるのかもしれませんが、、
また、第三者にきくのも、社会的な同意を得られるか、社会的な解決はなになのか、ということかもしれません。

暴力、殺人がいけないという社会の決まりはワタシも同感ですが、つい社会を穿ってみてしまうワタシにとっては、なにかしら少しもやもやしたものが残ります。
毒多
2015/12/21 17:16
本人(元少年A)いわく市橋達也(の本)に感化されて書いたのね…

「謝罪」とか「生きる」とか書いた本人以上に思索する読者は当然市橋達也本も読まないと『絶歌』を読んだと言えないよね♪と要らぬ情報をいれてみるw

本年は人生初のコメント削除を経験させていただきありがとうございました。
来年は見るだけに専念しますのでお体に気をつけてblog更新頑張ってください。

【追伸】

ゴルフ三回目のラウンドでやっと初バーディ!才能ないね(泣)
NAN
2015/12/23 22:59
3回目でバーディは、才能あるんじゃないんですか。
来年は書きまくる予定です。予定は未定だけどね、笑
よいお年を、、、^^
毒多
2015/12/24 08:35
もしそうであれば、彼は人に共感できないのではなく、共感できる(社会に背くのが普通)人種が周りにいなかっただけかも知れませんね。
誰かのブログで書いていましたが、『発達障碍者同士は健常者同士と同じように共感性を持つらしい』と書かれていました。その方はアスペルガーの気がある人で元少年Aの本を読んで心底共感されてたコメントをしていました。私も軽度ですが偶然アスペルガー障害を持っています。毒多さんも惹かれたのであれば、性質という部分で惹かれたのかも知れませんね。実証出来ないので全くの思索ですが・・

いえ、成功だと思いますよ。だって彼は人を殺していないのだから。性格に難があるのは個性だと思っています。誰だって長所短所がありますからね。

市橋達也に感化されたというのはあると思いますが、今はそこまでではないと思います。より表現者として根付き始めたのは佐川一政ではないかと。佐川さんの言葉は胸に来るものがあります。(人としてはどうしようもないですが)
テレビというものは情報操作の社会です。全て信じるには疑いも必要かと思います。見城社長氏や被害者の一件のように。
シオン
2015/12/24 17:27
シオンさん

ワタシもアスペかもしれない、と自分を疑ったこともあるのですが診断したことがないし、特有の突出した才能もないので違うのかもしれない。
ただ、おそらくシオンさんが読まれたブログ主も多数の検証をしたわけではないのでしょうか? 人間は想像以上に複雑で多岐であるのでパターンに当てはまらないことも多いとは感じています。
純粋に「絶歌」を読めてよかった。でもいいのかもしれない。(これじゃ身も蓋もないか、すみません)


蛇足ですが、

>テレビというのは情報操作の社会です。

はい、そうですね。なにかしらメリットがあるのか、ただ騒ぎたいだけか解りませんが。
ネット上の素人の書き込みもまた似たような部分はあるかもしれません。オノレの感性や思考の正当性を確認したいのでしょうか?、情報操作以前の訳の分からない論を吐く者も多い。
陥りがちなので気をつけなければなりませんね。
毒多
2015/12/25 17:18
くくりにしてしまえば、感性の違いということでまとまってしまいそうですね。ただ、職場の人でこれまた偶然アスペルガーの診断貰った人がいて、話を振ってみたら実は解剖が好きで人間にも興味があったとか聞いてしまうと「え、やっぱりアスぺってそっち系なん?(。-`ω-)」と妙な可能性を感じてしまいました。
現在絶歌を知り合いの人に貸しているのですが、年明けにどんな感想を聞かされるのか少しドキドキしています。ボロクソな批判だったとしても、それを一つの意見だと取り入れ少年Aを擁護せずにいられるのか自分に少し不安です。

やはり、情報だけではなく、実際に彼と話してみる事が一番ですね。毒多さんのように、どんな人物なのか実際にネットでも触れることが出来たなら、よりダイレクトに手ごたえを感じられるのになと思います。
シオン
2015/12/30 08:26
シオンさん
まずワタシなら、知人にお貸しして「読んでみた」とうだけでその知人を評価します。歪んだ自己保身の深層心理から、とりあえず「絶歌」を否定する人(そのオノレに気づかない)がマジョリティとして存在しているからです。
おそらく、その知人がアスベだとして社会に疎外をもち、なにかしら振り返っているとしたら、全否定はされない気はします。

実は、愚慫さんというこのブログ上から知り合いになりリアルでも友人となったワタシが信頼を寄せている人がいます。このコメ欄でも上の方で登場しています。
その愚慫さんがシオンさんとワタシのやり取りを見てか見ずか、最近鈍っているワタシの理性に変わって、一つのエントリーを上げてくれました。たんに感性の違いとは違うというエントリーです。
今のワタシが言葉にできなかったことをテキストにしていてくれます。もしよろしければ是非ごらんになってください。^^

http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-807.html
毒多
2015/12/30 13:59
毒多さん
なるほど。「最後まで読んだ」という前提の門を潜った事への評価ですか。見習いたいと思います。
貸した知人はアスぺではない、俗にいう一般的な70代の方です。彼は事件を苦々しく感じています。息子も居ますし、被害者と年の変わらない孫も居ます。
色んなフィルターがかかっている状態で本を見るのです。否定への不安もありますが、私は今、苦々しく紡ぐ知人の顔を観察する機会を待ち望んでいる状態かも知れません。
反応が見れたら、まとめてみようと思います。

愚慫さんのブログ、URLから拝読させて頂きました。邪悪と協調性の欠落ですか。とても面白い言葉の展開ですが大きく納得できる内容でした。どの問題も想像でしかない、というのも禿同です。
私は『元加害者』の本は読んでも、『被害者の遺族』の本は読んだことがない。興味がないからです。テレビで泣いていても亡くなった息子の遺影を抱えていても、まるでコマーシャルのようです。家族を引き合いに殺される想像もしてみましたが、体験しないと何故想像だけで悲しくなれたり憤ったり出来るのか私には理解できません。
そういう意味では、例え根源が邪悪であった者が居たとしても、その感受性豊かな脳と己ならばと置き換えられる想像能力は素晴らしいと拍手を送りたいです。
愚慫さんの考え、とても好きです。ちょっと上のコメ欄も頑張って読んでみようかな^^;
シオン
2015/12/30 18:47
シオンさん

リアル知人がもし完読されたなら、確かに「絶歌」にどういう反応をもちどういう感想をもつかは、自分を確認するためにも興味がありますよね。読後も苦々しい思いをされたとしても、自分の気づかなかったことを教えてくれるかもしれない。
もし何かしらまとまったなら、また教えてください。

被害者遺族の本を読む気がおきないのはワタシも同じです。おそらく、この事件や出版についての揉め事を相対的に見る気がないのでしょう。
ワタシのなかの本音が、別に社会的な公平な判断ができなくてもいい、と思っているに違いありません。一冊の本を読んで何かを感じた。これが全てでした。

上のほうのコメ欄は、ワタシも相当、世間(特に未読の固定観念)に敵愾心を感じ、感情的になっている部分を感じるかもしれません。反省はしますが仕方ないとも思います。
もし、コメ欄を読まれるなら別に誰に肩入れすることもなく、冷静に読んでいただければいいかなと思います。
よいお年を・・・
毒多
2015/12/31 11:39
毒多さんも遺族の本に対して興味が薄いのですね。絶歌の本から感じた事だけについてだけ追及していきたい主旨であるという事でしょうか。私もまた、絶歌に触れて何かを感じたから元少年A(個)に興味がわいている。
・・とすると、もう話す事なくなっちゃいますね。完結しちゃった(笑)

コメ欄、全て目を通しました!今、自分へのご褒美にガラナを一気飲みしていた所です。皆さん難しい単語が多く、バカの頭で必死にWikipediaとの闘いでした。
自分が納得できる内容もあれば、首をひねってしまう内容もありましたが、たくさんの意見や考え方があって随所勉強になりました。
宮台さんや北村さんは直接には関係ない人なので、URL先は辿っていないのですが見る価値はありましたか?(毒多さんにとって)

あと数分後には来年ですね。よいお年をお過ごしください!
シオン
2015/12/31 23:38
シオンさん、カメレス失礼。年末年始は、ばたばたしていました^^
>もう話すことがなくなっちゃいますね。
そういえば、「絶歌」読後にAが挙げていた「金閣寺」を読みなおしたり、村上春樹の短編を読んだりしたことを思い出しました。
多分、その本だけでも話すことはあるのでしょうが、ワタシにとっては、正直ちょっと時間が経ってしまった感はあります。

このブログは10年近く続けています。長いあいだに友ができたり、敵^^ができたりしました。エントリーを更新して新たな思索を書きますが、やりとりは積み重ねです。進んだり戻ったり、言い争ったり、解り合ったり、離れたり、再会したり、そんな風にずっと変化し続けている気がします。「絶歌」もそんな変化の一因です。この本だけの純粋な評価、、みたいなことを書きましたが、やはり結局はワタシ自身の変化とコメントを頂いた人の変化が第一なのかもしれません。
と、新年をむかえそんなことを考えています。
毒多
2016/01/09 09:31
毒多さん
16日程経ってしまいましたが、新年明けましておめでとうございます。
なるほど、確かに本書に色々小説名が挙げられていましたね。基盤に興味が無かったので、試験も相まって私はまだ率先して読む気が起きないのですが、来年あたりじっくり読んでみようと思います。

10年ですか、感慨深い数字ですね。その時々の環境や心境にもよりますが、人ってたった10年でも驚くほど変化していきますから面白いものです。
確か毒多さんはお子さんがいらっしゃるんですよね。絶歌を読んで圧倒的に負けたな(という表現もおかしいが)と思ったのが、元少年Aが母親を想う描写があるのですが、ふと「そういえば自分にも母親がいたな」と7年ぶりに思い出したんです。学生の頃家出してから母親の存在を最初から無かったかのように思い出さないままの私より、よっぽど元少年Aのほうが人間らしくて思わず鼻から笑ってしまいました。まさに「あんたは親でも捨てられる子だよ」と母親に言われたとおりに育ってしまい、毒多さんのコメントを見て今こそ自分も人間らしく変化しなくてはならないなと感じます。
そういえば、去年に知人に貸した絶歌なのですが、猫殺しに飽きて被害少年を殺して校門に飾ろうと思い立った部分で、知人は気持ちが重たくなってページをめくる気が起きなくなってしまったようです。途中までの感想は『色んな人がいるが、俺も子供の頃は鶏なんかの首を興味本位で友人と切ったことがある。だが、その時は周りの大人にバレて「それはやってはいけないことだ」と怒鳴って殴ってくれた人がいたから、「あぁ、これ以上はやめよう」と進行はしなかった。彼にはそういう人が居なかったか、バレなかったから進行してこういう結果になってしまったのかも知れないな』という事でした。うーん、そもそも論ではありますが、事前という意味で納得でした。
シオン
2016/01/16 13:03
対話をしながら自分を確認するというのは、ブログのいいところだと思っていますので続けます^^
(自分というのは、もちろんお互いに“オノレ”です)

元少年Aの家族については本を読んで反省させられました。事件当時は「生育歴」やら「家庭環境」が原因だと決めつけた自分がいましたから、そこは間違いだったと知れてよかった。これも本を読んだからこそ解ったことです。
「生育歴」やら「家庭環境」後天的なものでないとすると、またシオンさんが言われる「指摘する人」の有無以前には、人はそうしたことをしてしまう、とすると人にはそういう「性癖」があるのか? 「社会的」には「性悪」とされ「教育」されるのだが、もともと人間がもっているものなのか? 社会的悪はそうだとして人間そのものの「善・悪」ではどうなのか? 神のみぞ知る、と言ったところでしょうか。

話はかわります。「絶歌」からも離れますが、私は「社会的事件」がおきたとき「生育歴」「家庭環境」が要因的なことをずっと考えていましたが、アドラーを紹介した「嫌われる勇気」を読んで少し考えが変わりました。余談ですね^^

そうですか、知人の方は、「そこ」から先が読めませんでしたか、正直にいえば「そこ」はワタシもツレアイに「読むのはやめた方がいい」と告げた箇所です。ただ、最後まで読んだ者として2部を読んで欲しかった、とは思います。
2部を読まなければ元少年Aは少年Aのままだし、「オノレ」も変わりようがない。残念です。

毒多
2016/01/19 09:24

コメントする help

ニックネーム
本 文
「絶歌」元少年A     読了 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる