毒多の戯れ言

アクセスカウンタ

zoom RSS 「自己責任」ってやつのこと

<<   作成日時 : 2015/01/30 17:55   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 29

前のエントリーからの続き。
真の「自己責任」とは、自ら行動する権利のこと、だと思うのですね。決して他者に押し付けられるものではない。(押し付けるものでもない)。
個としてオノレの生き方を追求する。いかに生きるかを自分自身で思いや考えで遂行する。それを「自己責任」としたいですね。
オノレで、といって、他者の言葉や助けを否定するものではありません。他者の言葉や助けもオノレのなかに取り込んでオノレで考え、オノレのものになったとき、すでに他者のものではなくなっているまで昇華でき、それが行動に繋がる、そこに自己責任はある。、、ただ、そうしたときの他者の言葉や助けは、その他者の計算や見栄や欲ではなく、その他者についても「善い」に基づき、真に言葉を発し、助けたい、と思うものでなければなければだれも咀嚼できない。他者のそうした決心による言葉や助けのみが、オノレのものになります。
「国家目線」の言葉や助け、その状態(ex後藤さん)を利用した言葉(安部自身の言葉や安部批判の言葉も含め)は雑音でしかありません。

という意味で、今回の後藤さん事件も、あまりに計算や損得、託けた批判に基づいた言葉や助けが多すぎる、ということを感じているので、こうしたエントリーやコメントをしました。

後藤さんの決意は他所に、すでにテロリストvs日本政府ということになっている、のは事実ですが、、、
テロリストvs日本政府も両者とも後藤さんを利用しているだけで、後藤さんの自己責任には関係ありません。テロリストのご都合、国家のご都合でしかない。ネット言論しかり。
国家が純粋に後藤さんの無事のために言葉を発し動くと思いますか? ありえないし、批判する気もおきない、そこに怒りも感じない。それが国家です。(結果、後藤さんの無事につながることはあるかもしれませんが、、、)。
そしてテレビやブログなんかで主に語られているのは、この国家立場とか国家擁護とか国家批判とかです。後藤さんの自己責任という決意とはまるで違う次元にある。ここに違和感があるんです。
そんなに後藤さんを支持し応援するなら、後藤さんがオノレの死よりも世界に伝えたかったことを伝えてやれよ、、とさえ、思ってしまします。
という、ワタシは後藤さんと後藤さんの情報を全く
く知らないので、後藤さんの情報に全く思い入れはないのですが・・・

今回のような場合でも、オノレの「自己責任」という決意さえなく行動し、国家に「助けてくれ〜」というのであれば、国家が助けてやればいい。それを否定はしませんし、軽蔑もしません。そうした場合に、始めてオノレと国家という関係になります。国家に対するあれこれが始まるのはそれからでしょ。

あと、人命うんぬん、ということも言われますが、後藤さんは「ただ我欲に溺れて漫然と生きていればいい」とは思わなかったとしたなら、それに基づいた自己責任の行使なら死んでもいいとちゃうんですか。
人はいずれ死にます。
死が最悪の結果なんてことは誰も言えません。
だれも死を知らないわけですし。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(29件)

内 容 ニックネーム/日時
殺されたようですね。
愚悄
2015/02/01 15:30
うーん、今日、後藤さんの言葉の切れ端を知ったばかりなのに、残念です。
安倍さんは「テロと闘う」と言ってますが、後藤さんの思いは伝わってない、ということが解りやすい。
毒多
2015/02/01 17:07
庶民の想いなど、初めから眼中にないでしょう。
愚悄
2015/02/01 18:01
今回の一件で「自己責任」というものが機能できる範囲が明確になったような気がしますね。

いつかアキラさんが言った

「自分の手の届く範囲」

でしょう。それ以上は、及ばそうと思っても原理的に無理。
愚悄
2015/02/01 18:04
愚梢さん、悪い、コメの意味がよくわからい。
もしかしたらアキラが言った「自分の手が届く範囲」ってのもよくわかってなかったかもしれない。

「自己責任」が機能したり、手が届くのは文字通り「自己」でしょ。他者の責任にすれば「自己責任」じゃなくなる。

あっ、「自己責任」に他者が関与する(機能する)範囲ということか?
つまり、後藤さんを助けることに機能できる他者の自己責任の範囲ということですか?


というようなことを考えていたら、助けるための行動をしている者は「自己責任」で行動しているのだろうか? ということが浮かんできた。どうなんだろう?
毒多
2015/02/02 14:32
アキラ、、、じゃなくてアキラさん、ね。
毒多
2015/02/02 14:32
後藤さんは湯川さんを自己責任で助けに行こうとしたんだと思うんです。想像でしかないけど。

それは「手が届く」と思ったからだろうなぁ、と。
愚悄
2015/02/03 09:01
なるほど、そういうことですね。解りました。
実際に「手を届かせよう」としたわけですね。
どうもワタシ、そこよりも、ジャーナリストとしての仕事の続きとしての行動というイメージをもっていたようです。

国内で後藤さんを助けようとする行動は、手が届かない、と解ってもやらざる得ない、「祈り」だったかもしれないなぁ。その「祈り」を表明するのは自己責任でやっているんだよね。自己責任でやっていて欲しいと考えている自分がいます。
毒多
2015/02/03 09:30
おお! 祈り‼︎ その言葉はピッタリですね。

手の届く範囲ではない。だけども手を伸ばしたい。そういう「願い」が「祈り」。

そう考えると「祈り」というのは、とても主体的な行動ですね。
愚慫
2015/02/04 08:39
>主体的行動

自己責任の前にくる行動(意志)ですね。
あるいはイコールかな?
国家の行動というのは、どうなんだろう?ということは考えます。
なんとなく根底にあるものが「やらされている」「やってやっている」「やらざるえない」みたいな気がします。
そこに向かって主体的に批判する気になれない。

毒多
2015/02/07 09:07
>真の「自己責任」とは、自ら行動する権利のこと、だと思うのですね。決して他者に押し付けられるものではない。(押し付けるものでもない)。
個としてオノレの生き方を追求する。いかに生きるかを自分自身で思いや考えで遂行する。それを「自己責任」としたいですね。

一個人の人生には恋愛や就職など様々な選択をしなければならないときがあるんだろうけど、それら全てに毒多さんが考える「自己責任」を求められるとなんか辛い(それは…四捨五入をすると40歳になるにも関わらず、未だ大人に成りきれていないのだろうねw)

ただ…今回は一個人の選択により不特定多数の人間が「毒多さんのいう自己責任」についても強制的に問われる事態になった

例えば…強制的にテロと交渉しなければならなくなった後藤氏の嫁は「オノレの夫を助けるか?助けないか?」の選択を迫られた
で…助けるという選択をし、世論にテロリストの声明を発表までしたが→結果、後藤氏は殺害された

では…自己責任において「夫を助ける」以外の選択があったのか?
助けるという選択をした嫁が結果の全てに責任を負わなければならないだろうか?
嫁だけでなく、オノレの仕事だからと危険な地域で情報収集のために活動した政府関係者も結果責任が問われるのか?

それら全ての責任は後藤氏の命一つでチャラに出来たのか?

「自分の手が届く範囲」が自分で分かれば→世の中で何も問題はおきないだろうね
NAN
2015/02/08 21:28
近代国家と国民との間には「契約」があります。

この契約は必ずしも個人の自由意志に基づいているわけではないですけど、近代国家は欧米型の思考体系に基づく組織ですから、ベースには必ず「契約」があります。

「契約」がある以上は、互いに自由ではありません。国民は国家に制約されるし、国家も当然制約される。無関係ではいられない。

個人がたとえ「自己責任」だといったとしても、国民と国家の関係では「契約」を放棄したことにはなりません。国籍がある限り関係があるし、国家は国民を保護する義務があります。

この「契約」の関係から考えれば夫婦に家族を助ける義務があるのも当然のこと。契約がある以上は選択の余地などありません。
愚慫
2015/02/09 08:21
実はこのブログもそろそろ終焉かなぁと、思っていたんだけど、まだコメントを頂けるとは、、終わるタイミングを悩んでしまうね(笑)

NANさん、コメありがとう。
レスを考えているうちに愚慫さんにコメをいただいて、また加味して考えるべきなんだろうけど、とりあえず、愚慫コメ以前の思索について。

生きていると「自己責任」以前に多くの不測の事態はおきるでしょう。
自然災害や、交通事故や、病気、通り魔、なかには嵌められた、ってなこともあるかもしれません。どれだけ気をつけて「予防」しようとしても避けられない。噴火する恐れがある富士山近辺に住んでいる「自己責任」ってなことを言い出したらきりがない。
「生きている」限りなんらかの事は起きる。
たとえば後藤さんのツレアイさんのように。
起きたときに「どう生きるか」が問われると思います。◯◯のせいにする、、、ではなく、真に問われるのは自己の生き方。他者の責任を追求するではなく、では自分はどう生きるのか?ではないでしょうか?
◯◯のせいで自分に不幸が襲われた、だから、一生をかけて◯◯の責任を追及するのだ、、、が、とても切ない生き方に感じる。
自己に何か災難が降りかかったときに、自己の「生きる」に直面して真剣に考えることができる、ということはよくあると思いますが、本当は何も起きなくても「生きる」を考え行動することができる。しなくてはならない、、、これが真の自己責任ではないのかな?
毒多
2015/02/09 09:25
最近、大野更紗の「シャバはつらいよ」という本を読みました。難病女子は、身体的生きにくさを病気のせいにも社会のせいにもしてない。自ら「善く生きる」を遂行していようとしています。
あとがきのなかで、

「そんなこと、できるわけない」
「絶対に、変わらない」
 たいして長く生きていないこの人生の中で、そういう台詞を人から言われ続けられました。

と書いています。
そんな他者の生きるを束縛する傲慢な言葉に負けることなく自己の生を生きています。
損得でなくね。

すべての人は◯◯のせいと思っているわけではないでしょ。
手が届かず後藤さんの無事を「祈った」のは損得でも◯◯のせいとも思っていないはず。そしてその「祈り」は強制されるものではなく、オノレの意志で行った。どれだけの人が後藤さんのおかげで「生きる」を真剣に考えなければと気づいたでしょう。強制的ではなくてね。

損得でも、チャラでもありませんよね。
毒多
2015/02/09 09:25
愚慫さん
「契約」ですね。定義上そういうことになるのでしょう。
それにしても「国家」ってやつは何なんでしょう? マジで正体のよくわからんものと「契約」しているなぁ、というのが実感です。
しかもなんとなく保護より足蹴にされているような感覚があったりして(笑)

契約によって行われる責任遂行(義務)と、自主遂行(自己責任)による責任遂行(権利)はやはり違うとしたいです、ワタシは。
毒多
2015/02/09 13:21
それにしても「国家」ってやつは、って?
今まで散々「国家」を論じてきたのにwww

まあ、僕も偉そうにいえるわけではありません。爆!

「契約」というのは、たぶん、宗教感です。日本人はなんとなく神を信じることができません。ここは「契約」という感覚がよくわからないから、という気がします。そのかわり「空気」みたいなものには感度がある。

「契約」に感応する欧米人には「空気」はおそらく感知できません。日本で蔓延している「自己責任論」も正体は「空気」でしょう。

なので、「契約」と「自己責任」との間に齟齬を感じるのは、日本人としては、普通のことだと思います。

となると、日本人的には「自己責任」はどこへ収束していくのか、という問題が出てきますね...。
愚慫
2015/02/09 14:16
>今まで散々「国家」を論じてきた、、、ああ、そうだ、そうでしたね(笑)
でもね、今回のことも含め改めて考えると幻想感が強くて、なんだろう?と考えてしまったわけ。ってなことを言っていても仕方ないので、国家は在って「契約」しているとしてww
それとややこしいので、蔓延する「自己責任」を【自己責任】とします。ワタシの言う特殊な「自己責任」は〈自己責任〉だと思ってます!!、爆!!

建前として「国家」のすべての役割は「国民」のため、ですね。100%国民のため。そういう「契約」でいいと思いますが、個人が国家と契約した部分に関しては国家に縛られる、でいいのですが、それは100%ではない。たしか義務と権利と自由がそれぞれあったと思います。
個人が国家と契約した義務や権利などはたかだかしれている(とワタシは思う)。でも、個々によって10%なのか50%なのか99%なのかは違いがある。意識ですね。
いずれ内心については100%自由なのですが。

【自己責任】を叫ぶ者のほうが、国家依存度は高いような気がするのですが、現実は「契約違反」を推奨しているんですよね。逆に国家の「契約違反」を叫ぶ者も国家依存度は高のかな?(こうして全ての人を敵に回すことになるww)

ほぼ脱線したコメントなんですが、【自己責任】の収束先ですか?? 国民を護らない【国家】ですかね。それを多数が望んでいるのでしょうか? 自分は【国家】に隷属したいからみんなするべきだ、、、かな? で、国家ってなんだっけとなるんですが、、、

国家って政府や官僚じゃないんですよね?
国民の総意ってことでもないし。
契約している全国民ってことだと、契約者と非契約者が同じってことで矛盾が生じるし。
国家そのものが【空気】なのかもしれないwww
毒多
2015/02/09 17:49
>改めて考えると、幻想感が強い

いいですね、それ!
そういう状態から改めて掴みなおすのが〈学習〉といいうことだと思います。

>【自己責任】を叫ぶ者のほうが国家依存度は高い。

はい。国家にせよ、貨幣にせよ、そうですね。

>逆に国家の「契約違反」を叫ぶ

こちらもそうですね。
ただ、こちらの方も「契約」というところまで思います至らないですよね。盲点なんです。

「契約」だと考えることができれば、「契約からの自由」も考えることができます。
愚慫
2015/02/10 08:00
あれこれの「知的」議論をしているうちに
日本が戦争に引き込まれそうですよ。
この流れには断固反対したいと思います。
えっ?
ぐしょう様は従う心に変えちゃったんですか?
メゾフォルテ
2015/02/10 13:30
kuronekoさんのとこで紹介していた、宮台真司の論考。おもしろいので又紹介しちゃお。
沖縄問題を語った宮台真司の見解(1)−その紹介−
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1019200174.html
毒多
2015/02/10 14:46
知的な議論ではなく理性の確認だと考えていますが、それはいいです。ところで

>この流れには断固反対したいと思います。

どのように反対をされるんですか?
毒多
2015/02/11 07:04
戦争へと向かうとき、嗜虐的な人間が多くなるようです。これは煽られる面もあるでしょうし、もしかしたら自然の周期もあるのかもしれません。
なんとかこの嗜虐性を丸め込む方法を考えたいと思うんですけれども・・・・
何か名案はありませんでしょうか。
メゾフォルテ
2015/02/19 21:53
>嗜虐的を丸め込む

人間の嗜虐的な側面が周期的にあらわれる、、というのは、現実はどうかわかりませんが、なんとなくあるような気がしています。それが自然なのかどうか、解りません?
これまた直感ですが、それを「丸め込む」これは非常に拙い気がします。

おそらく、スポーツなんかは「発散させる」意味があったのかもしれませんね。

そもそも、戦争とは、一部金持ちのために仕込まれた、さらに金を儲けるための機会とすると、嗜虐的な側面(あったとして)も利用されている可能性がありますね。
毒多
2015/02/20 09:12
川崎の事件からも映像というものが嗜虐性を広めていくということがありそうです。
とくに10代の若者たちの脳に影響がありそうです。スポーツ以外にも多くの大人が目を向け話を交わす必要があるのではないでしょうか。
メゾフォルテ
2015/02/27 23:06
>スポーツ以外にも

いやいや、そういう意味で「スポーツ」を出したわけではありませんから(笑)

ありそうです。ありそうです。あるのではないのでしょうか。
想像で物をいう部分が多くありませんか?
毒多
2015/02/28 10:24
引きこもり気味の私にとっては読書からの知識と想像がほとんどですね。とはいえ、息子2人を育てた経験と高校講師の経験があるので・・・・
高校では問題がある生徒は、当然のように中退させるという方針にびっくりした思い出があります。
義務教育の中学校でも、學校に出てほしくないのが本音かもしれません。休みがちだと授業が苦痛になりますからね。
下層家庭の落ちこぼれの子どもたちの教育をしっかり考えることが必要だと思います。
メゾフォルテ
2015/03/02 18:54
私にしては珍しく日曜日に出かけてみました。
4人の子連れの母子を電車とバスで2組見かけました。乗り換えのどこかでケガをしないか心配でした。一方で神経質そうな子供を連れた親子も見かけました。
また幼い女の子が髪を長くしているのは気になるんです。この子供達のおばあさんにあたる方たちが働いているとすれば、家庭での育児支援力がかなり落ちている?
あるいは育児に対しての基礎力が落ちている?
と思ってしまいました。
あ、こういうコメントはこちらでは不適切だったでしょうか?
メゾフォルテ
2015/03/08 23:14
内容が分かり難いので反応しにくいです。
毒多
2015/03/09 09:42
毒多さんは学童保育にご関心があるようだと勝手に思ってしまいました。
最近の子どもにはスキンシップがたりない場合が多そう、と余計なお世話で考えたりします。
メゾフォルテ
2015/03/13 20:24

コメントする help

ニックネーム
本 文
「自己責任」ってやつのこと 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる