毒多の戯れ言

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zoom RSS 佐村河内守さんのこと

<<   作成日時 : 2014/02/10 10:57   >>

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 なんかね、なんだかね、あまり書きたくなるネタがなかったんだけど、こういうのは面白いと思うから思わず書いちゃうのが筆癖でありオッチョコチョイと言われる所以。
 ワタシは、アダ名も名前も知らなかった「現代のベートーベン」であるとこの「佐村河内守」さんが売れっ子の作曲家で、でも実はゴーストライターがいて、売れた曲は佐村河内守さんが作曲していたのではなかったという物語。
 このブログを綴りはじめて初期のころ、和田義彦さんという画家さんの絵が盗作かどうかってネタで「どっちでもいいじゃん」と書いたり、辻井某さんという盲目のピアニストのことを取り上げたりしているから、ホントこういう物語にワタシは思索をくすぐられるのかもしれない。で、和田義彦さんのときはバカテレビが相当叩いていたんだけど、今回はどうなんだろうね、その後テレビをみてない知らないんだけど、恐らく面白がり叩いたりしてるんじゃないかなぁ、と想像する。バカテレビはいつもそういうのが好きそうだしね。まあ観たがる人がいるからなんなんだろうけどさ。

 で、曲が良ければ誰が作ってもいいじゃん、、、っていう本質は、スケートの高橋大輔君が既に言っちゃったみたいだし、多くの人がそう考えるだろうから別のラインから書かないと、わざわざエントリーする意味がないんだろうなぁ。そういえば、和田義彦さんのときコメント欄で日和ってしまった。だから、今回ははっきり書いておこう。作者、クレジットなどは本質と全く関係がありません、、、とね。ただ「金」とは多いに関係ありますが、、、ということです。金と関係あるということは生活と関係あり、生活と関係あるということは次の作品が生み出される環境と関係がある。となるのか? でも本当にそうか?とも思うわけで、整えられた環境だから素晴らしい感性が芽生え、良い表現を産むか、といえば疑問があり、心を打つ作品の作家が貧しい生活環境だったなんてことはざらだろう。むしろ、そうじゃなければ、ホントのとこは表現できないんじゃないの? なんて感じちゃったりもする。とはいえ、恵まれた環境だって良い作品は生まれているのだろうから、つまりはそこは本質じゃないということになるんだろうな。
 だからやはり作品そのものを聴く、観る、感じるしかないということが本質。
 でもさ、じゃ、今回、心を打たれた人がいたかもしれない曲、その曲の脇にある例えば「難聴の作曲家」っていうサイドストーリーは曲そのものと関係ないの?といえば、どうなんだろう、と、再度思索してしまうのが今回のテーマ。

 作品というのは、作家の感性の表現、、ということが言えると思うわけだけど、その感性というのはその人の環境をふくめた経験が生成していると思う。つまり作品のなかにはその人の環境やら経験やらがバックボーンとしてあるわけだ。それが証拠に人はひとつの作品に感銘をうけたら、その作品に留まらずにその作品が沸き起こった背景生み出した人(の経験、環境)を知りたくなる。この「知りたくなる」が作品とはまったく違うサイドストーリーと、言い切れるのかどうかが問題なのだ。
 感性やら何やらのバックボーンはすべて作品のなかに含まれるから、その作品だけを受け止めればいい、、と言えるのかどうか? いやいや、言葉としてバックボーンなりサイドストーリーが知りたいのだ、、、と感じるのは「違う」と言えるのか? いやいやいやいや、読み違えの自由やら、観違えの自由、聴き違えの自由があり、つまり受け手には作者が表現したかった感性と違う受け取り方をする自由があり、その受け取りかたは受けての環境や経験に沿っていると考えられるのだから、それが作者の感性と違っていてもいいというか、あたりまで、それでも受け手に何かを感じさせるのが良い作品で、つまりやはり曲が良ければいい、、、となるのか? それでもやはり、受け手の感受とは別にしておいて作品オリジナルのバックボーンを知りたいと思うのも人情で、、、えっと、作品そのものが本質でなく、作品を通じて人と人が共感するのが本質で、、、てなこと言うとわけわからなくなったり。
 つまりね今回の場合だと、曲がよければそれだけでいい、、と、ワタシも思っていたのだが、そういう言い方で本当にいいのかなぁ、とすこし疑問を持ったわけ。
 
 いずれにしろ、「作品が良い」という観点においてボックボーンがメインで全面に来て作品が後からついてくることは有りえません。いや、バカテレビのなかでは多いにあるのですが放置すればよろしい。まず作品があり、そのなかにバックボーンがあるということです。今回は佐村河内守さんという人の感性を別の人が表現したというだけのことで、それもバックボーンのひとつだったということでしょう。なんだか作曲の人が「共犯者」と言ったみたいだけど「共作」でいいとちゃうの? 「共犯者」とはそういう世界での物語。恥ずべきは、みずから「そういう世界」の土俵に乗ってしまったこと。その土俵はバックボーンがメインで作品が付属という世界であり、つまり作品そのものとは本質がまったく別の土俵ということだな。ちなみに、その「違う土俵に乗ったこと」はバックボーンとはいいません。チープな土俵のチープな物語。

 でもね、ワタシを含め、うっかり本質とは別の土俵にのってしまう、つい、のらされてしまうという罠に嵌まり、チープな物語をホントだと勘違いすることはよくあるので気をつけたいね。

 

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コメント(23件)

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お久しぶりです。愚樵です。
そういえば、この前は失礼しました。拙ブログにコメントいただいたのに、スルーしてしまいました...m(_ _)m


私がこの事件について最も興味深く感じるのは、当人曰く「共犯者」です。その動機。当人が共犯者というくらいですから、確信犯ですよね? 

この「共犯者」の動機が作品とサイドストーリーの関係に深く結びついていると思うんですよ。

まず、確実に言えること。「共犯者」新垣さんは、交響曲を書きたかったに違いない。

昔、諺(?)で、「男の夢・指揮台・風呂屋の番台」なんてのがありましたよね。クラオタの私などは強く共感するところですが、オーケストラってなかなかに凄まじい表現ツールなんですよ。何十人、時には三桁の人数の奏者が多様な楽器でもって音を奏でるわけですから。これに匹敵するツールはなかなかない。

そういうオーケストラを使って音楽を奏でる。もしくは、自分の音楽をオーケストラを使ってリアルな音にする。音楽に携わる人で、そのことを夢見ない人はいないと思います。そして、オーケストラ音楽の「王様」といえば、交響曲なんです。

ところが、です。現代の作曲者は交響曲なんてもはや書かないんです。その技量がないわけでは決してない。新垣さんでなくても、交響曲を作曲できる人はそれなりにいると思います。でも、「王様」なのに、書かない。なぜか?

「王様」がそうであるように、交響曲がもはや賞味期限切れなんです。そういう認識があるから、書きたいと思っても書けない。書く機会がない。「共犯者」はそういう状況のなかにいた。おそらく。

(続く)
愚樵
2014/02/13 17:07
(続き)

件の交響曲『HIROSHIMA』を一部聴いてみました。決して悪くはないが、陳腐だと思いました。美しいけど、まあ、どこかで聴いたような音楽です。

これは、駄作ということではないんです。『HIROSHIMA』という表題に相応しいメッセージ性はあるんじゃないの? と感はじました。ただ、その表現そのものが、耳に新しいものがなくて陳腐になってしまう。優れているほど、どこかで聴いたようなものになってしまう。そのことを「共犯者」は熟知していたはず。

すごい表現力をもったオーケストラという装置がある。その装置を駆動させるのならば、交響曲が王様。でも、もはや陳腐。そういう状況を打ち破るには、方法はふたつあります。

1.新しい表現を開拓する
2.新しいメッセージ性を開拓する。

主犯と共犯の二人が選んだのは、2.だった。毒多さんのいうところの「サイドストーリー」ですね。でも、これが虚構だった。
愚樵
2014/02/13 17:19
(続き)

ここは毒多さんの認識と異なるのですが、近代以降の芸術作品において「ストーリー」はメインなんです。つまり、芸術とは、芸術家からのメッセージある。音楽において、そうした姿勢で創作活動を始めたのは、だれあろうベートーヴェンなんですね。ベートーヴェン以降、芸術作品は作者と切り離すことができなくなった。鑑賞する側も、切り離さないで受け止めるのがスタンダードになった。作者の「(言語化できる)ストーリー」こそがメインなんです。

メインだったからこそ、また、「王様」だったからこそ、「ストーリー」の表現方法は様々開発されました。それらの作品は、現代では古典してオーケストラによって奏でられています。表現は開発され、体系化され、その結果、“このストーリーだったら、この表現だよな”というところにだいたい落ち着いてしまって、そこを突破できない。陳腐です。

だからといって、オーケストラそのものの表現力が減退したわけではない。いささか下品なたとえですが、ファッションが洗練されて女性はどんどん魅力的になっていくのに、手を出したら犯罪、みたいな? でも、「大義名分」があれば、すなわち「新しいメッセージ性」「ストーリー」があれば、手を出せる! 爆!

「共犯者」は、自覚していたと思います。

おわり。
愚樵
2014/02/13 17:42
愚樵さん、おはようございます。

ご無事でよかった、、、、って、なんのこっちゃ?と思うかもしれませんが、ネット人格の意識的なスルーはいいのですが、リアル心身(人格)に何かあったのかと勝手に妄想てました。まあ、あったのかもしれませんが、取り敢えずお久しぶり。
それと、戯言はやっぱ愚樵さんに乗ってもらわないと、ね(笑)ってのもあり、ちょっぴりハッピーです。

興味深い疑問にひとつを明確にしてくれてありがとう。

>2.新しいメッセージ性を開拓する。

です。やはり、バックボーンとというかサイドストーリーが重要な要素となってくるというか、「メイン」なんですか?というか、まずストーリーありき。ワタシが「バカテレビ」とか言ってしまっているのですが、あながちバカでもないとなるでしょうか。
ワタシにしても、どこかで「そうかもしれない」と思っているので、今回のエントリーに繋がったのですが、たしかに表現者が主体と考えればストーリーが主体になる。
今回の件でいけば、ストーリーが捏造された、いや創作されたかな?? でもそれはなんとなく「いけない」こと、、という暗黙の了解がある。「共犯者」というのはその暗黙の了解を裏切った「罪」という意味において「共犯者」となると解釈。愚樵さんが仰るような、そも「陳腐」であり、「陳腐」の上にのっかった「共犯者」とは考えませんでした。
毒多
2014/02/14 09:05
ところで、今回はストーリーがなければ評価されなかったのかなぁ? ストーリーがメインとするとその可能性はある。すると、捏造(あくまでもストーリー)が判っても、買い求める人がいるってのは、どう解釈すべきか?

それと、音楽作品ってのは、作者(表現者)と指揮者(これも表現者)、演奏家(これまた表現者)、さらに聴衆(またまた表現者だな)・・・今回の場合は元の表現者と作者が別ってのもあり、まさにカオス。これを「共犯者」といってしまえば、、、エブリバディ・・・

いかん、仕事をしなければ、、、、とりあえず、湧き出る表現のメモとして。


毒多
2014/02/14 09:05
毒多さん

ご心配、痛み入ります。

リアルの私は、う〜ん、あんまり健康とはいえない状態だなぁ...。いろいろと表現したいことはあるのですが、時期が来るまですべきじゃない...、と、こんな感じですかねぇ。【正義】を振りかざすことができるなら、楽なんですが。

ま、そちらはさておき。

>今回の件でいけば、ストーリーが捏造された、いや創作されたかな?? でもそれはなんとなく「いけない」こと、、という暗黙の了解がある。

はい。なぜなら、創作の余地があるのはあくまで「作品」であって、作品のベースとなる「ストーリー」は創作不可能なものですから。「ストーリー」とは、創作者その人の人生とか、魂とかいうようなもの、なわけですから。

「ストーリー」≒「魂の真実性」

であり、その表現が芸術、アート。
そうでない表現は、工芸、クラフト。
(という区分はあまり適切とは感じませんが、一応、便宜上)

代作がアートと見なされないのは、「魂の真実性」と表現(作品)とが直結していないように感じられるからでしょうね。

>それと、音楽作品ってのは、作者(表現者)と指揮者(これも表現者)

ここは、「魂の真実性」は誰が表出するのか? という問題だと思います。

「魂の真実性」なんてものは、客観的に語ることなど不可能なもの。なので、表現者だけでは完結せず、主観的な受け手を必要とします。

古典音楽などは、作曲者と演奏者がともに表現者ですが、同じ曲に多数の演奏者の演奏があり、それらはみな個別に作品と見なされている事実からすれば、だいたい察しはつくのではないでしょうか。
愚樵
2014/02/14 17:00
>ところで、今回はストーリーがなければ評価されなかったのかなぁ?

「本ボシ」は創作ストーリーによる評価を狙っていたようですよね。それをNHKあたりが創作と見抜けず、真実の烙印を押したので評価が高まった。

「共犯者」は、そのような過大評価の状況に慌てたのではないでしょうか? 

>すると、捏造(あくまでもストーリー)が判っても

「ストーリー」は創作不可能なもの。ストーリーの創作が露見したことで、創作不可能なストーリーが露見しました。それに興味を持つ者が現れても不思議ではないし、毒多さんだってそうして興味を持った者のひとりではないですか? もしかしたら、「創作ストーリー」に惹かれた者よりも、「露見ストーリー」に惹かれた者の方が数としては多いかもしれません。そして、「露見ストーリー」に惹かれた者の一部がCDの購入にまで至ったとしても、不思議ではないでしょう。

まあ、この場合、「サイドストーリー」が動機と言うべきでしょうが。

愚樵
2014/02/14 17:14
おはようございます。

【正義】を振りかざす・・と、楽・・・【】に気づいてしまうと自ら至難を課すしかなくなる。ああ、つまりは今回のことも【ストーリー】だったと言えるわけで、そこから産まれるものは【作品】だった。でも、そこから聴こえるのは【感動】でしかないのか?・・・ここは思索するにあったって、まだまだ面白いところかもしれない、と考えています。

まだまだ色々と疑問はあるのですが、ひとつは、作品と商品との関係です。〈ストーリー〉から生まれた〈作品〉であったとしても、商品(ここでは敢えて〈〉も【】もつけません)として流れだしたとき、徐々に魂の真実性が削がれてしまうのか、否か。おそらく、削がれることはないと感じていますが、もともと商品を意識して作られたものを作品と呼ぶのか? おそらく今、問題になっているのは、「商品としての価値」ですね。そもそれが作品であるか否かは、置き去りにされている、、、のかなぁ。【サブストーリー】がメインというのは、商品先行であり、云々・・・

毒多
2014/02/15 08:44
と、ここでクラオタの愚樵さんにお聞きしたいのですが、例えばベートーベンは表現した作品をどうしていたのだろう? 売っていたのか、発表だけしていたのか、、、、ベートーベンか誰かは忘れましたが(同様に著名な天才)、まるで生活能力がなく、明けても暮れても作曲をしていた、もちろん金にも頓着がなく、ただ表現せずにいられなかった、、つまり天才とはそういうもの、、というのを、どこかで読みました。「魂の真実性」ときくに当ってこのことを思い出しました。
ワタシなんかは他人のことは言えませんが、やはり思ってしまう「何か当てて一儲けできたらいいな」と、その「何か」は決して作品にはならない、ということがよく分かります、爆!!

あと、指揮者(表現者)のこと。別のそれぞれの作品になる、ということは、どういうことか。生み出された元の〈ストーリー〉はどうなってしまうのか? の辺りをご教授願えるともう少しスッキリするのですが、、(いまいち察することができません)、笑。


毒多
2014/02/15 08:44
毒多さん、レス遅れてすみません。

>今回のことも【ストーリー】だったと言えるわけで、そこから産まれるものは【作品】だった。

「共犯者」は、【作品】という評価に墜ちることを避けたくて、名乗り出たのではないかと思うんです。「共犯者」として名乗り出ることで、「ストーリー」と「作品」の繋がりを絶つことで、【ストーリー】ゆえに【作品】という評価が少しでも固まらないように。

また、【】ゆえに【】という流れへの抵抗は、「作品」と「感動」の間ででも可能でしょう。自身が「作品」に感動したのは、自身のなかに「ストーリー」があったから。たとえ作曲者の「ストーリー」がニセモノであったとしても、「作品」によって掘り起こされた自身の「ストーリー」はホンモノだ...といったようなことは十分にあり得ることでしょう。

そうした鑑賞の仕方に至れば、最初に毒多さんが提示された疑問

>その作品だけを受け止めればいいのか? 

への答えが、またひとつ、出るのではないでしょうか?
愚樵
2014/02/17 17:31
>作品と商品との関係

これは“価値”と“価格”の問題として一般化できるのではないかと思います。

価格は誰が決めるのか? 
価値は誰が決めるのか?

作品の価値を受け手が自ら決めるのであれば、価格は全く関係ありません。作品につけられている価格は、単なる偶然に過ぎません。

作品の価値に他人の意向が反映されるなるならば、価値が価格化していく道を踏み出したことになります。ただ、そうはいっても、自分一人で作品の価値を決めるのは難しい。この難しさゆえに「魂の真実性」が削がれていくことになるのだと思います。

>つまり天才とはそういうもの

これは「ストーリー」のテンプレートではないではでしょうか? (詐欺師はこうしたテンプレートを利用して人を騙します)。創作能力と生活能力(経済力を含む)が反比例するのはありがちなことでしょうけれども...。ただ言えるのは、創作能力に他人が助力するのは難しいが、生活能力は容易ということ。

>その「何か」は決して作品にはならない

いやぁ、それはそのように自分を納得させているだけではないでしょうか?(^_^;  売れる物にはそれなりの「真実性」はあると思います。まあ、売れる「真実性」とそうでない「真実性」はあると思いますし、売り方の問題もあるでしょうけれども...
愚樵
2014/02/17 18:12
>あと、指揮者(表現者)のこと。別のそれぞれの作品になる、

他の分野の作品を考えてみれば、想像がつきやすいのではないでしょうか? ポップスでも、別の歌い手のカヴァー作品が最近はやりですが、カヴァー作品だって立派な「作品」でしょう。

楽譜は、舞台や映画でいうならば、脚本ですよね。同じ脚本を違った俳優が演じれば、それぞれが別個の「作品」として認められる。楽譜や脚本に通じるに従って、奏者や演者への関心が深まる。奏者・演者の多様性が楽譜や脚本の「真実性」の幅を広げるということがあるようです。

「真実性」というのは、決してひとつではないんですよね。
愚樵
2014/02/17 18:19
- UR(アンダーグラウンドレジスタンス)に代表するように「匿名である」ことが特徴的なクリエイターがいますが、Redshapeであるあなたもまた「匿名である」と思います。その意図について教えてください。

「自分がレコードを買っていたときにしていたことを再現するためだ。私はレコード屋に行き、何者かの12インチを買っていた。その人の本名、家族、ヘアスタイル、どんな映画や本が好きな人物なのかなど知らない。私はただ、音楽を聴き、そしてその音楽が好きかどうかというだけ、つまり”自由”ということだ。今だからこそ気付いたことだ」

module-tokyo.com/topics/interview/192
より、仮面のテクノ・クリエイターRedshapeのコメントです。

私個人はこういう音楽の聴き方を長年してきましたが、別に他人が音楽を受容する上でのマナーに口を挟むことはしません。めいめい勝手にやれば良いことだと思います。

実作者である新垣さんについて言えば、新垣さんにとって佐村河内さんはRedshapeの「仮面」に相当する装置だったのでしょう。
他者に対して自己を抹消するための装置。

ただし、一方はあくまで「何物でもない存在」になるために仮面を着けているのに対して、もう一方は「顕名の存在」となるために仮面を着けた。

セルジュ・ゲンズブールは生前、「猥褻という仮面を着けたら、外れなくなった」とジェーン・バーキンに語ったそうですが、新垣さんは「佐村河内守」という仮面を着けたら外れなくなったことに恐怖したのではないか。私はそう考えています。こちらの場合は仮面自身に自我があるのだから、さらに始末が悪い。
楳図かずおの『猫面』に通じる怖さです。

「カミングアウト」だけが、仮面を外すための解呪の手段であったと。
平行連晶
2014/02/23 13:55
オリンピックが終わったようです。
いろいろな競技があり、それぞれに成績を残しました。
一鑑賞者としては、(正直に申しますと(笑))日本人が好成績を収めた場合には「ほう」と感じます。しかし、多くは初めて見る選手ゆえに薄っぺらな「ほう」という頷きのような気がします。
ところが、浅田真央の場合、長いあいだ見ていて、ストーリーを知っている選手だと、確かにそれなりの感慨がありました。
単純に浅田真央のストーリーを(ちょっとですが)知っているだけでなく、観ていて知っていたという自分のストーリーなかに浅田というストーリーが加味されている気がします。それでもまだ薄く、もしワタシが自分でもフィギアスケートをしていて、それなりの経験をしていればさらに違ったストーリーがあり、浅田選手の表現を通して自分のなかのストーリーを増幅させ、感動するのではないかと考えています。音楽鑑賞でいうところの「耳を肥えている」って感じでしょうか?
ただ、この例だと、浅田真央のストーリーは、思う表現を表現できるようにするためのストーリーで、そのストーリーははたして、>「魂の真実性」となりうるのか?という新たな疑問がないわけではないのですが。

平行連晶さんがいうところの「匿名」の意図は、こうしたストーリーの排除で、ストーリーというよりも「先入観」の排除を促し、純粋に表現だけを感受させる、という意図になりますね。もちろん平行連晶さんが仰る通り、「人それぞれでいい」と思いますし、もともとワタシもそういう感じだったのですが、今回ちょっと疑問に思ったので再考してみました。

>「仮面」
これはおもしろい表現ですね。処世術なのでしょうか?
仮面自体に自我があるのか、仮面まで含めて自我のような気もしますが、仮面はストーリーにはならないということは確かですね。

毒多
2014/02/24 14:43
>仮面はストーリーにはならない

それは違うと思います。
仮面が紡ぎ出すストーリーがあまりに強大な影響力を持ち過ぎて自分の手に余ると感じたからこそ、新垣さんは恐怖したのではないかと。

新垣さんが仮面と手を切りたければ、詐欺的な騙りにこれ以上加担することは出来ない、などと訴えるまでもなかったんですよ。本来は。
ただ仮面に対して「創作のインスピレーションを喪った」とだけ告げて、あとはのらりくらりとスコアの完成を延ばし続けるだけで良い。
それでもう仮面の側は手も足も出ないはずですよね。

しかし、18年間も新垣さんは仮面のためにスコアを書き続けた。
何故だと思いますか?

実は、佐山河内さんがビジネスの道具として新垣さんを欲したよりも遙かに切実に、新垣さんは仮面を渇望していた・仮面に依存していたからではないでしょうか?

仮面を着けることによって、新垣さんは「(普通の現代音楽家であれば)恥ずかしくて書けない」スコアを書くことに没入できた。彼は耳の肥えたクラシック愛好家が「劇伴もどき」と冷笑するような《陳腐な》曲を書くことに歓喜していたはずです。でなければ10数年も続けられるはずがない。

しかし、それだけでは済まなくなった。

仮面が力を持ち過ぎた。
新垣さんの予想を遙かに超えて。
と同時に、彼自身も仮面の力に魅了されてしまっていたのでしょう。だからサポタージュも不可能になってしまった。

私は新垣さんの音楽を、聴いていません。これからも聴くことはない。
私は彼と仮面のストーリーを、結構気に入っているのです。だから彼の音楽は、私のイマジネーションの中に留めておきたい。
平行連晶
2014/02/25 23:39
さて。
“近代以降の芸術作品において「ストーリー」はメイン”という愚樵さんのコメントを、別方向に転がしてみますね。

現代美術の世界にはかつて、これに逆行する動きがあったんです。
クレメント・グリーンバーグという人がおりまして。この人は美術評論家でアメリカの現代美術、とりわけポロックやバーネット・ニューマンらを評価し、アメリカ現代美術の思想的支柱としての働きをしたようです。
悪名高いウィキペディアから、この人の思想を抜粋します。

“グリーンバーグの説明する「場」とは、部分や要素の集合ではなく全体性や構造こそ重要視されるべきとしたゲシュタルト心理学を応用したものである。カラーフィールド・ペインティングで作られる絵画平面では、色面に中心や焦点がなく、「地」と「図」(柄と背景)の区別もなく、厚みもなく平面的で、どこをとっても均質で、画面を越えて色面がどこまでも続いているように見える、「オールオーバー」といわれる画面作りがされている。ここでは、絵画はのぞき窓ではなく、絵具を乗せた単なる平面だと認識された。そのため、画面の中に三次元の奥行きや世界があるように錯覚させる陰影や透視法などヨーロッパ絵画の伝統的な「イリュージョン」は否定されている。また花や人物、幾何学的図形といった主役となる中心(ヒエラルキー)は「地」と「図」の区別をつくってしまうためこれも否定されている。色彩はこうした陰影や物を描くために従属的に使われるのではなく、平面自体が主役となるような場を作るために使われている”

↑ウィキペディア「カラーフィールド・ペインティング」の項より
平行連晶
2014/02/27 20:30
ここでは、絵画と向き合うにあたり伝統的な「イコノロジー」という概念が完全に否定されていることに気付くと思います。また、グリーンバーグは、画家のバイオグラフィーや、生育した時代背景などを評論の対象とすることも排除したそうです。まあ必然的な流れですよね。

つまり、現代美術を観る行為から「ストーリー」を追放したということです。
絵画平面とは、3次元の(人力)コピーとして現実世界に従属するものでもなければ、ましてストーリーに従属するものでもないという主張です。

美術の世界でこういった見立てが可能になったのは、絵画が「視覚系」に属する芸術だからでしょう。絵画は時間を包含する芸術ではない。他方、音楽は「運動系」の芸術です。運動により時間の遷移を体感させる芸術。「演奏」によって人力で時間の遷移を作動させないといけない。特にライヴ演奏は、人力で演奏(或いは録音物の再現)を見せることが大前提です。

音楽を聴くという行為は、人間の演奏という運動を観る行為と言えます。録音物の普及によって今日の状況は大きく変わっているとはいえ。

私は、「音楽を聴く」という行為は、大半の人間にとって「音楽を演奏している人の時間を体験する」行為なんじゃないかと思っています。
実は、発振される音それ自体を聴いているわけではない。
平行連晶
2014/02/27 20:51
毒多さんが浅田選手の話をなさいましたが、前述したように音楽もスポーツも運動系という点で繋がるんですね。観賞者は、演奏する・歌う・走る・跳ぶ・投げるといった人間の「運動する時間」を体験するわけです。

この「運動する時間」と「ストーリー」とは、互いに近似なものであることがお分かりになりますか? 「ストーリー」とは「運動する時間」を記述したもの、とも言えるかも知れません。

また個人的な話な話になりますけれど、私が20歳くらいからアシッドハウスを聴くようになり、その後ノイズやIDM、アンビエント・ドローンなどにのめりこむようになった理由は、グリーンバーグが絵画平面に対して行ったような見立てを音楽に対して行おうとしていたのではないかと、今になってそう思っています。こういった音楽には、音楽を「人力の運動」から「音の発振そのもの」に還元しようとする創作者の意志みたいなものを感じるのですね。

ロックやクラシックは、余りにもストーリーと懇ろ過ぎるように感じていたのかもしれません。ストーリーというものは、時になんとも煩わしい・鬱陶しいものなんです。
平行連晶
2014/02/27 21:07
たびたびのカメレスすみません。

人的なストーリーを排除する、、、恐らく最初ワタシが考えていたのはこのことに繋がっていくのでしょう。
ストーリーを排するということは、音楽なり絵画なり、接することからの連想やら妄想を排除してそのものを「感じる」という感じになるのか?
表現者は何かを意図して伝えていこうとする、、とすると、鑑賞者は、ex「表現者はここで悲しみを感じさせたくて・・・その悲しみは突然表現者を襲った運命が起因で・・・・」ってなこと想像することもなく、すべてを邪念として思考を滅却しながら、ただ純粋に悲しみそのものだけを感じる。ってな具合になるわけですね。しかもその感じ方が(ストーリーを伴う時よりも)薄っぺらでは意味がない。できるんかなぁ?
そこに鑑賞の中心をもってくるならば、>ストーリーは煩わしいという、意味は分かります。けど、、できるんかなぁ?と考えだしたワタシがいます。
毒多
2014/03/05 08:40
もうちょっと、のこしておこ。
スポーツ鑑賞好きのワタシは昨夜もサッカーを観ていいたのだけど、最近の傾向であるとこの試合前にストーリーを延々と綴るのは辟易としていて、鬱陶しいと感じている。もう、なーんもいらんから、とっととゲームだけ映しとけ、と心底思っている。これは浅田真央が滑る前のバカテレビの前振りも同じ。これって、どうなのだろう? ずっと観てきて自分のなかで生成された浅田真央物語とちがって、とってつけたストーリーの押し付けだと感じているのかもしれないな。実際に押し付けストーリーのなかにはワタシの知らない「情報」もあるのだが、その「情報」にさして感じるものはない。「生成ストーリー」と「押し付けストーリー」と区分けすることができるのかもしれない。「生成ストーリー」とは、オリジナル(例えば浅田真央自身にあるストーリーとちがって)個々別個のストーリーのような気もする。

さらに別途。
人為表現であるとこの「受け手」「鑑賞者」ということも考えている。ストーリーを排除しての、表現そのものに対する感受にしても、もともとの表現は人が行い、そこにはやはりメッセージがあるのではないか、という疑問を感じたのは、「自然」に対する感受を考えたとき。
ときに人は「自然」を観て、絶景とか美しいとか優しいとか感じるのだけど、「自然」は人間に魅せたり、何かを伝えたりするためにその造形なり音、光、存在しているのではない、、と思う。何かが伝わってくると感じるのは人間側のみの勝手な思い込み、、、だとしよう。
それに対して「芸術」は人為であるということを考えると、受けてのみの感受でなりたつ「対自然」とは別のところにあるものではないかという思索。
毒多
2014/03/06 08:46
>そのものを「感じる」という感じになるのか

毒多さんにこんな文章を紹介したいと思います。

ameblo.jp/eriko--imai/entry-11787515711.html
「音楽は伝わると信じて。」

今井絵理子さんの3月4日付ブログエントリです。
今井さんは現在、ろう学校の子供さんたちの前で歌ったり、絵本の読み聞かせをしたりといった活動をしているそうです。記事には写真が掲載されており、ギターを抱えた今井さんの周りに子供さんたちが集い、中には手を伸ばしてギターに触れている子も見えます。

子供さんたちは「ろう者」ですので、歌もギター演奏も音としては認識できません。音の発振=「(音)そのもの」は感じられない。そういう子達を前に今井さんはギターを弾き、歌います。

では写真を見て、子供さんたちが何も感じていないように見えますか? どうですか?

今井さんは当該記事でこんな風に語っています。

“息子が聞こえないと知って、
音楽を憎み、歌をやめようと思った。

実際、聞こえない子を持つ親は音楽から遠ざかる傾向があると聞きました。
聞こえないから、音楽を聞かせない。

わたしもそうだった。

でも、息子の笑う姿を見て、
息子にしか聞こえない音っていうものがあるかもって”
(引用おわり)

歌や演奏を通して今井さんが投げかけているものと、子供さんたち一人一人が受け取っているものは、それぞれに異なっていると思います。イコールである必要はないし、今井さんも「ここはこう受け取って欲しい」と要求してはいないでしょう。
ただ、音楽を演奏し・歌うという「人の営み」から「音の発振」を差し引いた時に残る何かを互いに共有しているのではないかと、そのように言えると思います。
平行連晶
2014/03/06 22:56
今井さんの佇まいや息遣いからを通して、子供さんたちに流れ込む、何か。
それは言葉に置き換えられないような霊妙な感覚であったり、美しいお姉さんと過ごす和やかで穏やかな「時間」であったり、言葉として記述できる出来事であったりするのでしょう。

ここにはストーリーの萌芽があると思いますが、一旦ストーリーとして書き上げられてしまえば、子供さんたちが感じているかもしれない多義的な豊饒さはみずみずしさを奪われて硬直してしまうのではないでしょうか?

ストーリーそのものに罪があるのではない、しかし一つしかないストーリー(マスメディアが提供するストーリーは、その殆どが一枚板で多義性を含まないものです)は、それ自体が権威となって多義的な豊饒さを喪わせてしまうのではないでしょうか?

毒多さんが「ストーリーを延々と綴るのは辟易としてい」るのは、そんな、あてがわれたストーリーの硬直性に対して反発を感じているからでは?
平行連晶
2014/03/06 23:12
おそらく思索するということ・・・言葉に置き変え、綴って積み上げて、理解するということ、はアタマデッカチに陥りやすいということなのかもしれません。

紹介の記事の「伝わる」は思索とは別の時限にあるものでしょう(さらにいうなら五感とも別なのかもしれない)。ついそうした「何か」を忘れがちになる。その次元の当事者同士の「伝えたい」「伝わる」というものは、ストーリーとは別の次元にあるものかもしれません。

ワタシのようなアタマデッカチがいつか何処かに置き忘れた何か・・・ふぅ、タメイキ。
毒多
2014/03/07 13:32

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佐村河内守さんのこと 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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