毒多の戯れ言

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zoom RSS 「食品偽装」・・・意識の麻痺はやっぱり怖い

<<   作成日時 : 2013/11/09 09:23   >>

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 これを芋づるっていうんかな。芋づるにしちゃ、高級そうなんだど。
 どこぞのホテルの高級レストランのメニューで嘘表示をしてたってのが問題になったとたん、あれよあれよという間にウチもウチもと言わんばかりに出るわ出るわ。
 ホテルの高級レストランやデパ地下の高価な調理から、メチャほど遠いワタシにとっちゃ関係ないわな、と思いきや、喫茶店のコメダまで・・・しかも「ホイップクリーム」が「生クリーム」だったなんて、セコっ、笑!!
 あ〜あ、「売上伸ばせ」「利益を上げろ」と上から無理難題言われ続ければ、現場としては、ちょっとした工夫もしたくみるわな。なんて擁護しちゃあ大問題かもしれないが、ちょっぴり同情する人がいてもいいんじゃない、なんてね。
 しかも、どうみてもその「ヒゲ」伊勢海老じゃねぇだろう〜!!という写真を見せられては、もうなんだか、と思うしか無い。
 数少なくないいろいろな場所で、相当な期間こうした偽装が行われていたらしいけど、買ったやつ、食ったやつ気づかんかったんかい!! ことのほうが恐ろしいよ。文字による表示を信用していて、裏切られたと言う人の自分の舌や味覚の信用はないの? 文字表示次第なわけ? 文字表示で美味く感じて、納得してたんならそれでいいじゃん。なんて毒を吐いて嫌われることになるわけだな。

 なんて思いながらも、提供するほうの偽装への罪の意識がなくなることは、やはり拙いことだと強くいいたい。
 味覚、視覚、嗅覚をもって判断できるものはいい、見えないうえに無味無臭の放射線汚染の食品を「検査済み」と意識が麻痺して売られた日には手をあげるしかない。
 

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コメント(57件)

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今年に入って、市場では海老(それも全種類)の値が高騰しているとか…

その理由について、主に

★海外の海老に病気が蔓延している※養殖なのか天然なのか両方かは不明
★中国が大量に消費し始め、日本と奪い合いにw

等で輸入に影響が出てしまった(在庫は十分にあるらしいが)からとの事

しかし、関係者内では「知ってて当然」の話であっても消費者には寝耳に水(特に病気)であり…もしも日本の消費者と業界でその情報が共有されていれば、少なくとも海老についての種類偽装はなかったのかも知れない(メニューの値段を上げても消費者は容認する)

尚、一連の騒動以降は伊勢海老の値が爆上げ中!
もしかすると…ホテルや百貨店だけではなく…天麩羅屋等の専門店でも…
NAN
2013/11/10 12:55
バナメイエビ・ブラックタイガー→安物、、、、車海老・芝海老→高値と「味」ではなく、「貨幣的数字」によって世間の判断は行われることがベースで偽装が行われ、騙されたと判断することは明確に表れましたね。
エビの価格が高騰ですか。
でもはたして、バナメイエビ・ブラックタイガーが高騰して高値になっても、「高級品」となるのかなぁ。メニューに高らかと「バナメイエビ」「ブラックタイガー」って謳われない気もします。とするとネームバリュが価値基準なのか?
ネームバリュと味が直結しないことも多々あったりして、なんとも奇妙な感じもしますね。

一連の騒動によって伊勢海老の値段をあげる利点が解らないのですが、なんででしょうかね?

毒多
2013/11/11 08:49
みんな、本気で信じてたんですかねぇ…魚沼産こしひかりがあっちこっちにあるとか…魚沼はたぶん北海道くらいあるんじゃないかと思う…イベリコ豚だらけとか、黒豚って、そんなに流通してるんかよとか、比内地鶏って特別天然記念物じゃなかったけとか←つう話を昔からよくしてたので…あと、味なんか、わかるのかよとか…学生の頃、寮にコーヒー好きの奴がいて、いつも、「ブルマンはやっぱ、こくと香りがちがう」って言って、豆から挽いてたので、UCCか、どこかのコーヒー飲料に豆入りってのがあったので、そのコーヒー豆をセコセコ貯めて、入れ替えたことがあった(はい、私は悪者です)…当然、つうか、やっぱり、ばれなかった…正直、そんな(すり替え)いたずらなら、何度もやってる…なので、美味しんぼとか、グルメ関連の話は、いつも眉唾だと思ってた…自然農法とか、バカじゃなかろかと…テレビのグルメ情報とかも、そんなに美味しいなら、みんながやってる…回転すしのエンガワはヒラメ、カレイのエンガワではないってことは、いまなら、小学生でも知ってる…産地偽装は逮捕されるが、外食は逮捕されないのは、やっぱり、企業規模の問題なんでしょう…百貨店は財閥系ですからね…
sv400s_dracin
2013/11/11 17:01
>とするとネームバリュが価値基準なのか?

毒多さん、おじゃまします。

現代の大量消費社会においての価値基準は「記号」なんだそうですよ。消費者が求めていたのは、芝エビや伊勢エビの「味覚的価値」ではなくて、"芝エビ”"伊勢エビ”という「記号的価値」だったわけなんです。だって、「味覚的価値」はその味覚を感じる分けることができる者にしか価値はないけど(だから少数の者にしかわからないけど)、「記号的価値」は芝エビ、伊勢エビについてのちょっとした知識さえあれば価値が生まれるわけなんですから。

需要があるなら供給する。これ、経済の原則。消費者が「記号消費」を欲しているのなら、それを供給するのは、はたして悪でしょうか? まして、支払われる貨幣が記号消費経済で発生したものならば。

一連の偽装事件において、悪とされるべきは告発の方ではありますまいか? 告発がなければ、sv400s_dracinさんが指摘されているような現実があるにせよ、「自分が食したものはホンモノだ、なぜなら一流の店でそれに見合った対価を支払ったのだから」という思い込みを信じていられた。「記号的価値」の拠り所は、その「記号」への信頼以外ないのですから、その拠り所を破壊することこそが悪ではないでしょうか?

告発は、消費者が享受した「満足」が破壊してしまう行為です。消費者欲するのが現代消費社会では「満足」なのですから、それを破壊するのは悪と位置づけてよいのではないでしょうか?
愚樵
2013/11/12 08:15
v400s_dracinさん

みんな本気で信じていたか、どうか? まあ、適当に信じていた、、か、嘘だと判っても許容していたのかなぁ。しかも、街角インタビューでも「本気」で怒っているようには見えないですね。
今回「本気」で怒っていないのは、結局自分に返ってくるって、薄々気づいていたからかもしれません。いたずらされて、「やっぱブルマンは美味いなぁ」といっちゃうのが、ちょっぴり恥ずかしいと感じるようにね。

結局、マスコミの「ここは怒らせよう」という台本に乗らされてる人が怒っているのかもしれない、としたら、別の問題として厭な気がします。

毒多
2013/11/12 09:12
愚樵さん

いやぁ、昨夜オフ会があって、愚樵さんを肴にしつつ「名古屋コーチン」の団子を本物かなぁと、頬張り、呑みや食いやでもって、ベリンベロンの二日酔いです。誘ってくれたお二方も呆れていることでしょう、ガハハハ。

で、頭痛が痛い頭で考えているのですが、言われていることの何かおかしいような気がしなくもない。
「記号消費」までは納得ですが、「告発が悪」に引っかかる。
「記号」なので「実態」がなんであろうと関係なく、「記号」を信じていて、納得していたわけだから、「実態」に焦点を当てて何をやいうのは、「筋違い」でもって、悪。かぁ、、、、まぁ、そうなんだけど、何か引っかかりますぞよ。と、考えているのですが、論破できそうにないな。
でも引っかかるのは何だろう?
はは〜ん、「記号的価値」を前提にするから「告発が悪」になる、とすると、多分、ワタシは「記号的価値」そのものに疑念があり、「記号的価値」を享受して「満足」する消費者を冷ややかにみている。もっといえば、自分もその消費者の一人かもしれないと、どこかで思っているから、引っかかっているわけだ、、、ということかな。

しかし、いってみりゃ「記号」を食っているってことになるんだよなぁ、なんだか無味乾燥な世の中だなぁ。ふぅ、sigh

毒多
2013/11/12 09:13
昨夜はオフ会? いいなぁ、私も参加してみたかったです...。

ま、それはさておき。

私だって「告発が悪」なんて本気で思っているわけじゃないですよ。記号消費を前提にするならばそういう論理も成り立つかなと思うけれど、記号消費だけが前提なんて、アタマデッカチじゃないですか。いやですよ、そんなの。

なのにわざわざ引っかかるようなことを書いたのは?

「提供するほうの偽装への罪の意識がなくなることは、やはり拙いこと」というのもまた、アタマデッカチだと感じたからです、すみません。

もし、提供する側に消費者の記号消費需要への供給という確固たる信念があったとき。私たちはそれを悪だと断罪できるのでしょうか? 偽装は提供する側に利益を、消費者には満足をもたらし、さらには希少資源である高級品の需要を減らして、生態系の保持に寄与する。三方丸く収まる、とすら言えるかもしれない。損なうのは、たかだか提供する側の信頼くらいのもの。

こうした問いかけから浮かび上がってくるのは、「偽装への罪」というのもまた相対的前提でしかなく、「偽装への罪」というのも消費される記号でしかない、ということでしょう。
愚樵
2013/11/12 12:32
>オフ会
あれれ、アキラさんがメールしたって言ってたけど・・・、遠すぎるので、お誘いのメールではないと思いますが。
「次は三人で粟島へ行こう」なんて別れたけど、最大の難問はワタシのフットワークの悪さのような気がします、爆!!

で、エントリーのほうの問題は
>提供するほうの偽装への罪の意識がなくなることは、やはり拙いこと
でしたか。ふむふむ納得。「記号消費」論で考えると確かにアタマデッカチかもしれませんね。

言い訳ですが、汚染食品は偽装しないでほしい、という結論を書く前段階で書いたセンテンスで、そのセンテンスは「メニュー偽装」ではなく、最後の段落へ向かってます。
いつものように、結びつけ方が強引かとは思ったのですが、「メニュー偽装(記号消費)」とは全く別の問題として、放射線汚染食品がスーパーに並ぶという不安は今の日本にあるなか、「記号消費」のなかだけで完結すればいいのですが、「記号消費」で慣れてしまった手法が、別の問題においても使われては拙い、と考えてしまった小市民。・・・・そんなことはないと良心を信じてはいるのですが・・・。

>「偽装への罪」というのも消費される記号でしかない
これはsv400さんへ書いたコメントの最後の部分を指してますか? マスコミの煽りもそれを受けての怒りも「記号」として消費される、かな。

「記号」があるなら「非記号」もあるでしょう。「非記号」は何でしょうか?、「実体」? 汚染食品なら「実害」? それとも「人間性」?「本質」?「自然性」? 繰り返しになりますが、
「記号」は「記号消費」のなかだけで完結するのか?
「非記号」は「記号」に駆逐されるのか?
毒多
2013/11/12 17:17
どもです、お疲れさまでした♪です。 (^o^)
オフ会、愚樵さんもいたら最高だったんですけどね。

>いってみりゃ「記号」を食っているってことになるんだよなぁ
<
言い得て妙ですね、これ。
確かに。

例えば安い回転寿し屋なら、v400s_dracinさんが仰っているように、言われてるままの素材を使ってるわけがないと誰もが薄々 あるいは確信を持って思うわけですけれど、
今回のは、そういうウソをつきそうにないようなところがそれをやっていたというところが、皆さん気に入らないんじゃないでしょうかね。

ダイレクトな関係でさえ、その「表示」に対しては「信頼」を介して受け取るしかないので、この問題は僕は「何を信頼するのか問題」なんじゃないかな?なんて思ったりします。
アキラ
2013/11/13 00:16
アキラさん、おはようございます。

>愚樵さんもいたら最高

うんうん、だんだんフットワークが軽くなる気がします、笑

>「何を信頼するのか問題」なんじゃないかな?

回転寿司ならOKで、デパート・ホテルではNGということは、そういうことになるのかな。風来坊の名古屋コーチンはどちらになるのでしょう(笑)。騙されていても声をあわせて笑いそうなので、前者かもしれません。

食材そのもののみならず、回転寿司、風来坊、デパート・ホテル、、、さらには産地も「記号」になってますね。偽装OKという記号、NGという記号かぁ、その頂点が価格の高低という価値基準で、結局、信頼のもとは「価格」という記号になるのかな。
きっと引っかかるのは、ここなんだよなぁ、、、、。
毒多
2013/11/13 08:32
毒多さん、アキラさん、おはようございます。

オフ会の件は、フェイスブックからお知らせをいただいていました。しばらくフェイスブックにアクセスしていなかったもので ^^;

粟島の方は、これから海が荒れてアクセスしにくい季節に突入です。いつ船が出るかわかない。おいでになるのでしたら、たっぷりと時間をご用意なさってくださいね。(^^)

さて。コメントの方は核心に迫ってきました。こういうやりとりは久しぶり? 久しぶりでも偉そうですみません。

実は私が引っかかったのは、たった一文字。「罪」という文字なんです。ここは「恥」だろう、と思ったんですね。

偽装することの罪は他者に向いています。消費者を裏切った罪ですね。

偽装することの恥は自身に向いています。プロは車エビとブラックタイガーの違いをわかっているはず。自身の感覚に【蓋】をした。可哀想な人たちです。

罪ならば、前提が違えば問われる罪の在りようも違ってきます。確信犯に罪を問うと、行き着くところは神学論争です。アタマデッカチです。

ですが、プロが自身の習得した感覚に基づいて言葉を使役しなかった事実だけは揺るがない。「恥知らず」です。これは事実が公表されるか否かに関係がありません。他者は関係がない。

しかし、「恥知らず」は原理的に信頼のしようがありません。「恥知らず」は感覚と言葉とが結びついていない。そのような言葉をいくら信頼したところで、感覚の発展には結びつかない。

記号消費が目的なら、もともと消費者は感覚の発展を望んでいるわけではないのだから、プロは偽装の罪に問われない。しかし、消費者は、いや、人間は、感覚的発展を望まずにいられるのか? 感覚的発展を望まない者もまた「恥知らず」でしょうね。
愚樵
2013/11/13 08:54
というふうに毒多さんのエントリーに突っ込みをいれるのは、いいわけですけど、ほとんど「恥」の感覚に基づいて書かれているからだと思うからなんですよ。

>文字による表示を信用していて、裏切られたと言う人の自分の舌や味覚の信用はないの? 文字表示次第なわけ? 文字表示で美味く感じて、納得してたんならそれでいいじゃん。

というのは、消費者自身への「恥」への喚起ですよね。自分の舌や味覚への信用がなくたって、素人ならば「罪」には当たらない。でも、「恥」には相当する。

だったら、なんでプロには「罪」になってしまう? 「罪」と言ってしまうと、消費者は被害者ということになるし、それは法的にも事実なんだろうけれど...、

>放射線汚染の食品を「検査済み」と意識が麻痺して売られた日には手をあげるしかない。

いえいえ。その意識さえあれば、消費者がひとつひとつを自身でチェックすればいい。コスト的には無理かもしれませんが、原理的には可能です。

放射能汚染食品がどうしようもないところは、感覚的に感知できないというところです。感覚的に感知できないということは、感覚的発展を望めない。原理的に「恥知らず」です。ここのところが恐ろしい。

愚樵
2013/11/13 09:15
>海が荒れて

ちゅうか、冬は峠を越せないので新潟までも無理。
たっぷりな時間も無理。
春以降ということで。

>こういうやりとりは久しぶり

うんうん、楽しいねぇ。

>ひっかかったのは、たった一文字「罪」

物書きとしては一文字にも魂を込めないとダメだから、たった一文字のことでツッコむかぁ?、なんて言わないです。って、だれが物書きなんだよ、爆。けっこう重要な一文字なんでツッコまれ甲斐があると思います。
「恥」への言い換えは納得で、面白い一文字ですが、汚染偽装食品にかかる一文字として書きなおしてもやっぱ「罪」とかいてしまうかもしれないワタシはアタマデッカチかな、もしくは神学論争好き?、、そんなことはないのですが。

仰るようにエントリー全般として「恥」への換気(ツッコミ)をメインに書いています。出すものの恥、出される側が怒るのも恥ですね。主に出される側の恥ですが。
ほぼ「恥」をメインに書いていて、突然「罪」がでてきたことへの指摘は解りました。
ん? 突然「罪」としたから引っかかるのか? 突然でなくても引っかかるのか?
愚樵さんは、提供する側の「恥」もされる側の「恥」も同質で、いずれも「記号」へ洗脳されている(この言い回しの是非はあるでしょうが)ことの「恥」。さらにいえば、される側は、感覚を研ぎ澄ますことを放棄している「恥」、ですね。

毒多
2013/11/14 08:26
まあそうなのですが、ブラックタイガーやバナメイエビなら「恥」でいいが、汚染偽装であれば「恥」じゃなくて、知っていて提供する側の「罪」としたい自分がいます。ブラックタイガーと汚染食費の間に線引をしている。前提が違うとすると、前提の線引です。
線引は「感覚で計り知れるか、否か」です。いや違う、感覚が鈍いやつは汚染食品を食うのも仕方ない、とは思えませんので、「実害」があるか否かが線引です。
同じ偽装という行為でも、線引によって「恥」になり、線引を過ぎたら「罪」(罪でなくてもいいのだが、恥とは違う一文字)としたい。「恥・知らず」という恥の延長(線引の前と同じ土俵)で語りたくない。って、エントリーで延長として語りだしたのはワタシか? あれれ? そこが問題なのか?すみません。ロジックは苦手だ。

恥に慣れっこになってしまい、線引に麻痺することで「罪」とな変化する可能性があるのかなぁ、、、ってなとこに引っかかっているんだけど・・・。

毒多
2013/11/14 08:27
放射能汚染に関しては「罪」としたいという毒多さんに、私も同感です。この場合、「罪」でいいと思います。

罪状は、「恥知らずを強いる罪」。
感覚的に感知しえないものは、「恥」の知りようがない。そんなものをばらまかれた日には、アタマデッカチになるしかない。

自身が口にする食品をひとつひとつチェックする。その意識があれば原理的には可能かもしれないけれど、そんなの、この上なくアタマデッカチじゃないですか。
愚樵
2013/11/14 15:41
私が21のギャルとリメイク版『キャリー』を観ている頃、みなさんはオフ会を開かれていたのだな。

>自身の感覚に【蓋】をした

感覚的に差異を捉えているものを、言葉を置き換えることにより隠蔽する。当事者が自らに心理的な負担を強いる行為で、こうした心理的負担を「恥」と呼ぶ慣わしだった(のでしょう)。

この見方に立脚した上で異見をのべると、そもそも食品表示偽装の問題は、当事者(食材納入業者やら板場やら)に心理的抵抗が生じる(=恥を覚える)ほどに感覚的な差異が存在しない/或いはとても希薄なんだと推測します。


前提となっているのは、
a:(視覚と比較した)味覚の粗雑さ
b:コモンネーム或いは商品名の名付けにおける感覚の杜撰さ
平行連晶
2013/11/15 04:46
ホテル阪急インターナショナルの食品表示偽装問題で、霧島ポークと偽って神戸ポークを納品していた業者が面白いことを言ってます。私が今回の騒動で関心を持ったのはこうした業者の発言だけです。理由? 面白いから。

「神戸ポークで品質も悪くなかった」
「品質は間違いない(豚を)提供しているので、食べて悪くはない」

取材に応じた業者の発言です。これが彼等の生の感覚で、決して嘘や誇張ではないと私は思います。現場の人々にさしたる感覚的差異など、おそらくない。いや、正確に言えば差異は感覚できるんだけど、それが記号的な差異と釣り合っていない。
感覚的差異に、記号的差異に見合うだけの意味がない。

豚は霧島ポークも神戸ポークも同じ《Sus scrofa domesticus》。分類学上は同一の肉ですよ。
これに比べたら、ニホンイシガメもキンセンガメも一緒くたに「ゼニガメ」と名付けて売っていた昔のペット屋のほうがよほど質が悪い。種小名どころか属名まで異なる生物を一緒くたにしていたのですからね。習性が異なるので飼い方も変えないといけない。

では昔のペット屋は恥を知らなかったのか?
違うでしょう。ニホンイシガメとキンセンガメの間には、分類学以前に視覚的つまり感覚的な差異があるが、ペット屋にはその差異には大した意味がなかった。つまり感覚に蓋をするのに大した負担がない。

バナメイエビを芝エビと呼称していたのも、これと同じ原理でしょうよ。板場では似たような外観のエビを全て「芝エビ」と呼ぶ慣習があったという。ゼニガメと同じ。外観は違うがあえてコモンネームを区別する意味がない。
剥いて調理(調味)すれば、外観以上に感覚的差異は小さくなる。いや差異はあるのでしょう。松坂牛と丹波牛程度の差異は。

しかしその感覚を隠蔽することに、どれほどの心理的負担があるのか。どうですか?
平行連晶
2013/11/15 05:36
愚樵さん

>罪状は、「恥知らずを強いる罪」

まずは「罪」への同意ありがとう。ロジックでいけば「恥知らずを強いる罪」となるのですね。正直かすかな引っ掛かりがあるのですが、それはとても感覚的なもので言葉を組み立てていくと「恥知らずを強いる罪」となりそうです。

平行連晶さんに、恥以前に麻痺と、麻痺というより意識なし、というコメントを頂きましたが、「汚染食品」に対して、「意識なし」とならないことを祈るばかりです。一点一点自分で計測するなんてアタマデッカチというかめんどくさくて、やってられません。

毒多
2013/11/15 09:21
平行連晶さん

うぎゃぁ、なに、なんだって、50前のおっさんの飲み会のときに、ににに、に、にじゅういち、21のギャルと映画鑑賞???だってぇぇえええええ!!!!!! ところで、ほんとに21? ほんとにギャル? 「偽装」だったりして、「偽装」だとしたら、、、(笑)

【蓋】をした意識さえなく、もしくはいつしか無くなっていて、というか最初からないのが食品業界とな?
だから、阪急辺りの最初の謝罪会見は、強弁とか開き直りみたいな感じになったのかぁ、意識さえないのに叱られれば、謝罪する気もおきないな。
◯◯ポークのように分類上は同じ肉というので、関サバが浮かんできたのですが、あれ、同じ海でとれるサバも関漁協(?)が捕るものだけしか「関サバ」を名乗れないなんて、まったく同じサバが「関サバ」と「◯サバ」になるというのは記号の最たるものだよなぁ、ということ。
他にも多々例がありそうですね。こういうのが当然になれば、意識はなくなるものでしょう。
毒多
2013/11/15 09:22
>しかしその感覚を隠蔽することに、どれほどの心理的負担があるのか。どうですか?

負担なし、なのかもしれませんね。そういう業界で「恥・知らず」という意識もない業界なのでしょうか。

余談ですが、カメはペット屋の意識によって違うかもしれませんね。好きでペット屋になった人は、めちゃこだわるでしょうし、ついででカメも売っているペット屋ではおっしゃるような混在を同一のものとして売る。
ギターなんか興味のない人は見た目すべてギターでしょうが、東海楽器をマーチンとして売る店はないし、テニスラケットも見た目で同定できる人はあまりいないけど、メーカーはちゃんと表示して売る。メーカーが介する業界の意識は記号的だとしてもちゃんとありますね。
これらを偽装されたら、怒りますよ、ワタシは!!(笑)

意識が麻痺する業界と、そうでない業界の違いの法則はどこなんでしょう。何かありそうですね。
毒多
2013/11/15 09:23
平行連晶さん、お久しぶりです。絡ませてもらいますが、やはりまず、ここから。

>21のギャルと

その頃私は、JCたちと一つ屋根の下で過ごしていましたよ? もはや嬉しくも何ともないですが。

さて。

私がかつて属した林業業界にも似たような慣習があります。それを指摘したこちらの記事

http://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/2013/10/post-8a70.html

材木の業界では『吉野スギ』といえばブランドなんですね。が、『吉野スギ』のすべてが吉野産とは限らない。

“名もなき地域のスギを吉野に運んだら何でも吉野杉になるわけではなくて、吉野杉と見紛うような品質の木をよりすぐって送っているのだと。”

これを記事の著者は悪しき慣習と断じていますが、私はそうは感じない。良質の材は、吉野の市場へ運ぶと値が高くなるという事実がある。というのは、良い買い手がいるから。良い買い手は、良い物には良い値段を支払う。売り手は良い値を期待して、良質の材を吉野へ送る。

このような売買が成立するのは、売り手の方にも買い手の方にも、良質の材を見極める感覚があることが条件です。そういう条件が日本中いずこの原木市場でも成立すればいいのですが、残念ながらそれは無理。特に買い手が揃うにはいろいろと条件が重なる。それが揃っているのが吉野(だけではないですが)。

だからといって、すべて『吉野スギ』とするのはよくないのではないか、という意見はあるでしょう。確かにそうなんですが、それは材木業界の話。原木を売る林業業界では、吉野は、良い材を良い値で買ってくれる市場。つまり、木材を見る目を成長させてくれる場なんですね。なので、吉野へ出荷することは、隠蔽どころか誇らしく感じることだった。
愚樵
2013/11/15 09:55
(つづき)

この「誇り」は「恥」と対になっているのは理解いただけると思います。

で。

>「神戸ポークで品質も悪くなかった」
>「品質は間違いない(豚を)提供しているので、食べて悪くはない」

「誇り」を持ってそう言えるのなら、いいと私は思います。

>しかしその感覚を隠蔽することに、どれほどの心理的負担があるのか。

心理的負担がなくなるから【蓋】と表現するわけですが。

心理的負担がなくなっていくのは、そのように教育されるからでしょう。システマチックに。
上記『吉野スギ』の例も、システマチックに教育されてしまった事例かもしれません。林業業界と材木業界は(地続きなのに)別、だなんて放言してしまうのですから。
愚樵
2013/11/15 10:07
「ブランド」という概念があります。これは、差異の恣意的な区切り、それも上質な区切りを指すものだと言っていいと思います。

『吉野スギ』というブランドにおいて、意味のある区切りは材木の品質です。産地という差異は、意味のある区切りではない。ブランドの上質さを保つ意味において。

『霧島ポーク』『神戸ポーク』も同じように言えるのかもしれませんが、私は食肉業界のことは知らないので、なんとも言えません。

ただ、今回の問題は、『霧島ポーク』『神戸ポーク』の差異がホテルのブランド保持に意味があったかどうか、ではないでしょうか? 

ホテルのブランドなどというものは、記号消費の最もたるものでしょう。同じコーヒーを飲んでも、ホテルのロビーで飲めば高くなるのは私でも知っています。「ホテルのロビー」というブランド代が含まれているのを認識しているから。

そのブランドを支えていたのは何か? 記号消費であるからこそ、記号の差異が大切なのかもしれません。

その点、食品の世界とホテルの世界には、感覚の差異があるのかもしれません。
愚樵
2013/11/15 10:23
>毒多さん&愚樵さん

年の差自慢大会かい! ギャルの方は、20の頃に免許証を見せてもらったんで、まあ本チャンでしょ。免許証が偽装という可能性もありますがね。つけまと黒コン装着でお顔は現代的に偽装しておりましたよ。

で、「麻痺」ではなく「意味がない」のではないかと私は推測しております。
感覚が発展するということは、既に感覚している差異が極大化することではないでしょう。微細な差異を感知できるということ。
感知出来る差異は微細である。犬の聴覚は人の6倍〜10倍といいますが、人の10倍大きく聴こえるわけではない。

板場や食品納入業者は感覚が発展した人たちと考えて差支えないでしょう。以前TVで、大間のマグロ漁師が、大間のクロマグロと近大(養殖)マグロの利き味をするという番組を観ました。彼は暫く熟慮する場面もありましたが、利き味は成功させてました。

おそらく彼は、感覚的な差異を記号的差異(価格差)に置き換えることは良しとしないでしょう。技術障壁を突破して量産されたという意味で希少な近大マグロ。捕獲が困難という意味で希少な大間マグロ。両者の差異と、発展した感覚に依拠した微細な差異をオーバーラップさせることには、殆ど意味がない。

感覚が発展したが故に、差異を感覚できるが故に、意味がないと気付く(領域に達する)。私が説く意味のなさとは、そういうことです。

彼らはバナメイエビと芝エビの仕入れ値に倍近い差があるからといって、感覚的に美味さが倍近く違うわけではないと、知っている。発展した感覚が、そう教えてくれる。
微細な差異を感じることは、バナメイエビが不味くて芝エビと同列に見ることは出来ないと感じる類のものではない。それは「味の区別が付かないこと」とは完全に異なります。
平行連晶
2013/11/15 13:31
>心理的負担がなくなるから【蓋】と表現するわけですが

言語感覚の差異なので、言語で埋めることは難しいですが、私の場合は【蓋】で心理的負担はなくならないんですね。

【蓋】は耐え難い心理的負担を閉じ込める、まさしく蓋、或いは封印というイメージです。
抑えがたい根源的な悪意、絶望、もはや償いようのない罪に対する後悔、そんなものを閉じ込めておくための心理的防壁。だから蓋は常に蓋として感覚できています。

偽装で雲散霧消する程度の心理的負担に【蓋】をするなら、もとの心理的負担そのものが極めて軽微であろうというのが、私の視点です。当事者が感覚的差異に意味がないと認知するから、偽装にもさしたる抵抗がないと見なしています。
平行連晶
2013/11/15 13:50
私流に吉野スギの話を解釈するなら、「発展した感覚で差異において優劣が認められない」のであれば、材を名前で区別することにはもはや意味がなくなるはずです。記号的差異への欲という意味を除いては。

そもそも自然物には人工物と大きく違う点があります。現代の人工物は多かれ少なかれ、記号的差異に対する人間の欲望を原動力に製造されるものですよ。
同じ価格の、同一規格の製品は「同じ」でなくてはならないという観念そのものが、大量生産なるイノベーション以降に固定されたものでしょう。こうした観念の発生に同期して、同じものは好まない、差異が欲しいという欲望が強化されました。人間は他者から疎外されるのは嫌だが、全く同じなのも嫌なんです。こうした人間の両義性に奉仕するのが人工物の役割です。

他方、自然物の差異(=多様性)は本来人間の欲望とは無関係です。ハナアブとミツバチが似ているのは、人間の欲望とは関係ない。アリとアリグモが似ているのも同じ。
しかし人間は欲望を原動力に自然物を利用します。人間は自然物を感覚により分類し差異を見いだすけれども、自然物を感覚に依拠して記号化できない。

なぜか。

だって、記号じゃないじゃん。
うちに出没するアダンソンハエトリですら、人懐こいのもいれば臆病で用心深いのもいる。みんな違う。個物なんです。でもその「個」を感覚したところで、記号的差異にとっては意味がない。ハエトリグモに対する感覚的差異なんて、記号化しようがないでしょ。

記号的差異は人間の欲望を数値化したものに過ぎません。感覚とは関係ない。
バナメイエビは芝エビの半分の仕入れ値で云々とか、バカバカしい話です。ツギオミカドヤモリなんて昔は数百万と言われてたのが、今は10万程度ですよ。ツギオミカドヤモリそのものが変化したわけではないことは、言うまでもないでしょう。
平行連晶
2013/11/15 15:06
平行連晶さん、おはようございます。

「意味がない」とおっしゃることの意味は、わかります。

『吉野スギ』は、地理的歴史的偶然が重なって成立したブランドです。条件が異なれば『東京スギ』となっていたかもしれない。吉野と東京は、置き換わっても意味が材の品質という点では意味が変わらないという点で、意味がないと言うことができます。

ですが、それでも私は意味はあると思っています。

「意味がない」という論理と感覚が通用するのは、感覚的に差異を感知できる業界内(玄人)の中だけです。業界外(素人)には感知できない。玄人の「意味がない」という論理は、玄人内で閉じていると素人側からは感じられる。その閉じている感が素人からの信頼を損ねるだと考えます。

吉野の市場に原木を売る林業業界は、閉じていても許される。というのは、買い手も玄人だから。けれど、『吉野スギ』ブランドの木材を売る材木業界は、開かれていなければならない。買い手は素人だから。

もっとも、許されるからといってそこに甘んじてしまっては【蓋】になってしまう。この場合、【蓋】となっていく心理的抵抗は小さいでしょう。

ホテルにも同じような構造が作用していたのではないでしょうか。
愚樵
2013/11/16 07:01
興味深い記事があります。

『阪急阪神前社長 「誤表示」名乗り出たので世間は納得と誤解』
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131114-00000005-pseven-soci

「自ら率先して不祥事を発表したことを、まるで英断のように思っていた節がある」

この“英断”の元になったのは、玄人の閉じた感覚だったのでしょう。「偽装」ではなく「誤表記」と強弁した裏には、平行連晶さんがおっしゃるところの「意味がない」という論理がある。「意味がない」から偽装しても意味がない。なので、単なる表記の間違いでしかない。

が、素人の側からすれば、そのような閉じた玄人は、信頼に値しない。感覚が未発達な素人にとっては、記号こそが感覚を発達させる上での道標だから。

自分の感覚を正直に言語化するということの意味は、ここにあると考えます。感覚に裏付けられた信頼ある記号は〈学習〉への道標となる。〈学習〉への姿勢を放棄することが「恥」。記号だけでおなかいっぱいになってしまうのは、「恥」です。また記号への信頼を放棄してしまうことも「恥」。

けれど、「罪」かというと、そうではないと思うのです。(一神教的宗教観に基づくなら「罪」でしょうけど。)
愚樵
2013/11/16 07:17
阪急ホテルも島屋も伊勢丹もパルコも、そして椿山荘etcも、板場や食品納入業者や経営陣らには皆同じことが言えるんですね。

消費者を、信じてない。

「ブラックタイガーを使ったマリネです。でもクルマエビと同じように頑張っておいしく作りました。ぜひお召し上がりください! お値段も勉強させていただきました」

何故これが言えない?

消費者が
>記号だけでおなかいっぱいになって
しまっていると決め付けている(まあ事実でもある)からでしょ。
「ブラックタイガー? 安物じゃん、クルマエビじゃなきゃヤダ!みたいな馬鹿舌のお前らには言ってもどうせわかんないんだろ。黙ってりゃな〜んも判らず“まいう〜、まいう〜!”でご満悦なんだからよ」
こんな感じだったんじゃないかと推測します。
もちろん、自然物ですから漁獲高により仕入れ値も刻々変化しますし、物自体が入らないこともありますよね。消費者が自然物に対する理解を根本的に欠いていることもありましょう。
料理人は基本体育会系職人みたいな連中の集まりですしね。いちいち説明するのも面倒、みたいな。

でも料理は、コミュニケーションですよね。

>記号こそが感覚を発達させる上での道標

作り手はこれを信じて、料理を届ける。
受け手は作り手を信じて、受け取る。

>自分の感覚を正直に言語化するということの意味

仰るとおりだと思いますよ。魯産人流の食材への拘りに雁字搦めになって自分の感覚を信じることを止めてしまった(これは消費者側の問題でもあります)。それが愚かなんですよ。
平行連晶
2013/11/16 08:14
それと、繰り返しますが記号的差異は感覚そのものとは繋がっていないのですよ。自転車のカタログを穴が開くほど眺めても、乗ったことのない人にジャイロ効果で自転車が自立前進する感覚は得られません。乗らなきゃ分からん。不立文字。

・ブラックタイガーの仕入れ値はクルマエビより安い。
・安いものは高いものよりも劣る。
・従ってブラックタイガーは以下略。

こうした刷り込みは、人工物に対する価格設定のロジックがフィードバックされているのでしょうが、本来自然物に通用するロジックではないことを消費者サイドはほとんど忘れている。
それが、人工物に囲まれて暮らすということなのかも知れませんが、私から見れば滑稽です。

でも、私は愚樵さんみたいに優しくないんで、基本悪意と冷笑モードなんで、「滑稽ですわなあ」で終わらせてしまうんです。

実際に「クルマエビ」と表示されたブラックタイガーを使った料理を食べて、「美味い」と感じたのなら、ブラックタイガーは美味いんですよ。
それが「実はクルマエビなんで…」と言われたら、「でもブラックタイガー美味かったよ♪」でなく「テメー騙りかよコラ」となってしまうところがね。自分の舌なんて端から信じてないってことでしょ。学習も発展もあるわけないですよね。
平行連晶
2013/11/16 08:35
 おふた方のコメはそれぞれに納得しました。興味深く繰り返し読まさせて頂きました。優しかろうと、冷たかろうと、俯瞰して述べられているので、わかりやすい。で、お前はどう思う? と問われれば解らない、と、しか応えられない。なぜ解らないかというと、「玄人」の感覚が解らない(俯瞰してもそこの内面が解らない)。ほんとに玄人が解ったうえで、記号越えをしているのか、「素人は黙って言うことを聞いとけ」といっているのか、の確信がもてない。と、言ったところだと思います。だから素人は信頼しかなく、玄人は信頼に応えなければならない、と、いったところでしょう。
毒多
2013/11/17 10:57
>記号への信頼を放棄してしまうことも「恥」。

 これを言うか?、と感じたものの、過去の実績から成立するのが「記号」でしょうから、それが道標になるというは頷けます。ただ、ファッションのように意図して生成された「記号」も多々ありそうなので、今では「記号」の選別という作業が附加されている面はありそうです。この作業は本来の作業ではなく、とりあえず疑う(信頼の放棄)もありかな、とは思います。
 調理という人工物でいけば、街角の中華料理屋のエビチリ。ワタシの行くほとんど中華料理屋は「エビチリ」としか書いて無く、クルマエビチリともバナメイエビチリともかいてありません。自分の感覚だけで、美味い、不味いと判断してます。おそらく、ホテルのエビチリ(車海老使用)と書いてあっても、不味ければ、不味いと言うと思います。多分、、、、ホテルで食ったことないけど、、、、エビチリに車海老は合わないとかあるかも、、、、うーん、、、、素人だ。素人が感覚を磨くのは、玄人の助言(記号を利用したでもOK)があれば磨かれるのか,,
そも感覚というのは磨かれるものなのだろうか? これにも疑問があるなぁ、、、生まれながらのものもありそうな、、、、ある感覚に突出した人など希だと思う。ほぼ素人のままが多数、、、、って、だんだん、書き方がsv400さんみたいに、、、なって、、、き、、、た、、、なぁ、、、
毒多
2013/11/17 10:58
>一神教的宗教観に基づくなら「罪」でしょうけど。

 この場合の教祖様は「記号」でしょうか。教祖「記号」が前提である「罪」という言葉をあてる違和感は納得しました。
 前提のちがう汚染食品についてワタシが「罪」で語りがっているのは、おそらく一神教的宗教観に基づいているからでしょう。教祖が何であるか、考えています。「存在」かな?「生(死)」かな?。
 ある線引のこっちが「恥」で、むこうが「罪」。「恥」は「存在(生死)」に実害を及ばさない側で、実害のおよぶ「罪」は線引のむこう、、、「恥」と「罪」が同一線上にあるとすると、ある「恥知らずを強いられる罪」という言い方がなりたつのか? 線引して分けて考えることではない、同一線上(延長線上で考えることもできる)。ただ、線引のこっちの話しはこっちの話しという前提で話しているときに、線引の向こうの話もごっちゃにするとややこしい、と思索。
 
毒多
2013/11/17 10:58
>そも感覚というのは磨かれるものなのだろうか?

いい答になっているか自信ないですけど。
老夫婦が2人で切り盛りしている個人経営の定食屋があって、馴染みの店なんです。時々切干大根煮定食が店のメニューに載るんです。
これがとても美味い。滋味に富むっていうんですかね。大根そのものの味や歯応えが総菜屋のとは何か違うんです。

おかみさんに「美味い。美味いですねえ」と言うと、「郷里の身内が手作りで、天日干ししてるものだからね」と答えました。
大根を収穫して人力で短冊に切り、空気が乾燥する時季に天日干しするんですと。すると機械で送風して乾かしたものより甘みが出る。そういう話。

私は明瞭な差異を感覚し、料理人はその差異をを「手作業・天日干し」という記号で説明する。
私の感覚と記号が紐付けられる。

ただし注意しなければならないことが2つ。
1:「手作業・天日干し」という記号が味覚における「普遍的な」感覚を担保しているわけではないということ。
2:上記の紐付けは私が定食屋のおかみさん(料理人であり仕入れ人でもある)の言葉に個人的に信を置くことで成立しているということ。

でもって、主に2の作業を飛ばすことで成立しているのがブランドと呼ばれる記号なのでしょう。個人的に信を置くまでには、時間も手間もかかるんですよ。この手間を短縮したものが、外部に集積された信用を記号化した「ブランド」と言い得ると思います。
平行連晶
2013/11/17 15:11
で、その切干大根煮。私はとても美味いと感じるので「出るでしょ」と訊くと、定食屋さんの夫婦は「そんなに出ないよ、今の若い人はこういうの好まないしね」と答えます。

この店で最も出る(注文が多い)のはハンバーグ、生姜焼き。特に若い人を中心に。
こういうお客さん達が切干大根煮を食べて、「美味い」と思うかどうか。私はスーパーの惣菜と区別付かない人も少なくないと思います。

別に私は特別な感覚を持った人間じゃないですよ。母親が料理上手で幼い頃から和食を良く食べさせてもらっていたんで、食べ慣れない人に比べて場数を踏んでいるだけです。経験値がある。
こういった経験の積み重ねに則った感覚というものは、ブランドと呼ばれるような外部化された信の集積や、定食屋のおかみさんの感覚と概ねずれることはないと思うんですよ。これも経験的に私が体得したことです。

いつぞや養老孟司が書いてました。密林で暮らすインディオの中には、遠近感が未発達な部族がいると。密林は木々で常に視界が遮られるので、そこで暮らす人たちは遠近の差異を感覚する能力が発達しないというのです。しかしこうした人たちが開けた場所で暮らすと、ほどなく遠近感を獲得するそうですよ。
感覚にはある程度可塑性があるのでしょうね。
平行連晶
2013/11/17 15:39
「素人からすれば、玄人の感覚はわからない。だから、素人は玄人が発する記号を信頼するしかない」という結論になってしまいました? それではちょっと悲しいですよね…

今までの議論は、玄人=強者/素人=弱者 という前提になっていますが、この前提は常に正しいのでしょうか? この前提に立てば、素人は玄人からの一方的な記号発信を受け入れるか受け入れないかの二者択一しかない構造に陥って行きます。

こうなってしまうのは「記号」という表記に問題があるような気がします。なので、以下、「信号」という表記に改めます。「信号」ならば、弱者(例えば子ども)が発しても違和感はないでしょうから。

記号操作の未習熟な子どもでも、様々な信号を発します。子どもを理解しようとするなら、まず、この信号を信頼するところから始めるしかありません。子供が発する信号を疑い無視するならば、子どもの発達は抑圧され、大人の学習も進みません。

玄人/強者という図式を取り払い、「記号」を「信号」だと解釈すれば、寄せる「信頼」の在り方は、決してに二者択一でないことを感覚的に想像できると思います。

記号が消費されてしまうものになるのは、「記号は強者が定めるもの」という前提を受け入れてしまっているからでしょう。そして、「罰」という感覚にも、強者/弱者の区分けが底に潜んでいる。「罰」とは、強者に対して犯す誤りのことです。一神教的宗教観では、究極的に、絶対的強者である超越神に対する誤りというところへ行き着きます。対して「恥」には強者も弱者もない。自身に対する誤りの感覚だと思います。
愚樵
2013/11/18 10:45
おはようございます。
ちょいと忙しくなってきて、レスが遅めです。遅くなるのは忙しさばかりではありませんが、、、(笑)

平行連晶さん

ワタシがその切干大根を食べて、美味いと思うかどうかは微妙です。というのも、切干大根はワタシの数少ない苦手なメニュー。進められれば試しますが、まず、間違いなく進められてもいないのに、定食を食べることはありません。母親もツレアイも切干大根が好きで、昔から今にいたるまで、食卓にちょくちょく出ていたので場数は踏んでいるのですが、ダメです。これは記号以前の問題。スタート時点で好き嫌いという感覚の違いが生じています。こうした個々の感覚の違いがあり、>そも感覚は磨かれるのか? と、書いた。ヒトによって千差万別、個人のなかでも体調や時間、環境で変わってしまう。
それと、例の「芸能人格付チェック」を思い出したから。
磨かれるor磨かれないの二者択一はできないのはその通りですが、根本的にもってうまれたものがあるのではないか、と思います。
どれだけ記号を介して、鍛錬しようとも感知しないものは感知しない、、、、平行連晶が切干大根を美味いと思った。が始めで、後で聞いてみたら、大根を干す手間というエピソード(記号)があった。となるのではないでしょうか。
その切干のエピソード=記号として、その記号はそれ以降の道標にはなるかもしれませんが、、、

毒多
2013/11/19 08:24
ワタシの経験の話しをしますと、あるときイオンモールを歩いていると、カバン屋のまえにデイスプレイしてある肩掛けカバンに目が留まった。なんともセンスのいいデザインだったからです。あまりこういうことはないのですが、その時は足をとめてシゲシゲとみました。タグをみてみましたが、聞いたこと無い全く知らないメーカー。寄ってきた店員が勝手に喋り始めたのですが、日本の小さな工房の手作り、近頃ファッション雑誌に載って人気を集めている、と説明しました。ワタシはファッションを見ることもなく、カバンに興味があり数を見ているわけでもない、それでも、思わず足を止めてしまい、どうしても忘れられずに次の週、買いにいきました。(みどりのカバン)。ただ、だからと言って「日本の小さな工房の手作り」もしくは「そのカバンのメーカー」が全てにはなりません。あくまでも自分の感覚。

毒多
2013/11/19 08:24
ということで、

愚樵さん

>素人は玄人の発する記号を信頼するしかない

という結論でなくて、自分の感覚に頼るしかない。記号に振り回されてもしかたない、、と、思うんです。

まあ、一程度、経験をしてきた年寄りだから、こんなことを言っているのかなぁ、とは思いますが。ある意味、頑固な強者(アタマデッカチですか?)だとは思いますが(笑)

>二者択一
「恥」に分類される全てのことにおいて二者択一はないことは解っていますが、どうも、言葉として納得しようと、書き進めると二者択一的な進め方してしまいます。

毒多
2013/11/19 08:25
>自分の感覚に頼るしかない

愚樵さんに振られた話を私が拾うのも何ですけれど。
何にもないところから、自分の感覚に頼っていくというのはなかなか無理なプロセスじゃないですかね。毒多さんの自覚していないところで、感覚のフィードバックと記号との紐付けを継続してるんだと思いますよ。

私は所持している「服」の殆ど全てがブランド物(下着の一部・靴下を除く)というブランド好きですけれど、購入した服はテーラードジャケットからカットソーまで自室で裏返してカッティングから裏地の縫い付けまで全部チェックします。ボタンホールの縫製・位置もチェックする。
自分の場合、体型が特殊(身長182cm/体重63kg/袖丈65cm/肩幅41cm前後)なため量販品では適合するサイズがないのがブランド物を着るようになったのが直接の理由なんですが、ブランド物といっても単純な縫製ミスはままありますし、特殊な生地やカッティングを採用しているため強度面で問題を抱えている製品もあります。

検品なんてしたくてしているわけじゃないですが、長年やっていると服の品質が自分なりに感覚できるようになってきます。原材料費や工賃とは異なる「意匠」に費やされている労力もね。
ブランドは記号ですが、実際に私が着るのは「もの」ですから、「もの」とのコミュニケーションがあるわけです。質材を介して得られる感覚もあれば、作り手のアイディアとの接触もある。一言に消費と言っても、単なる一方的な押し付けと受容ではないと思います。

「もの」との対話を通して、感覚を発展させる。感覚が更新されて、記号と関連付けられる。こうした営為の繰り返しはたとえ当人が視覚していなくても、常に行われていると思います。
平行連晶
2013/11/19 20:42
>当人が視覚していなくても
→当人が自覚していなくても

訂正ついでに追記すると、私は子供の頃西瓜・冬瓜・干瓢など瓜科の食べ物が揃って苦手で、特に南瓜は嚥下するのが苦痛なくらいでしたよ。
親が栄養があるから我慢して少し食べなさいというので親の顔を立てて嫌々食べていましたが、食べていると面白いことに「食える」南瓜と単に不味いだけの南瓜があることが分かってきました。味付けではない、南瓜そのものの生り具合に由来するものです。

今は南瓜を普通に食べますけれど、南瓜に対する味覚は、子供時代に感覚した当時の差異をそのまま残しています。やはり生り具合により美味いのと不味いのがあると感じます。

ですから、苦手だから発展しないとか、そうことは必ずしも言えないと思います。

以前にストラディバリウスの話で諏訪内やヴァシリエヴァの発言を引用しましたが、ああいう人たちは技能を極限の高みにまで発展させていく過程で感覚も極限まで発展させた特殊なケースですよ。
私はあの手の人たちを「異常者」だと思っています。

私たちが日常生活の中で感覚を発展させていくプロセスと全く異質で過酷な訓練を、上記の方々は20年も30年も日々自らに課してきているわけで、そこを一緒くたにするのはどうかなあと思うわけであります。
平行連晶
2013/11/19 21:14
おはようございます。

>自分の感覚に頼るしかない

はい、プロセスを無視した無茶な書き方でした。すみませんでした。
最後はそうなるのだろうと(最後というのはないのかもしれませんが)と、感じたものをプロセス抜きで書いてしまってます。
またケースバイケースで、最後がないものもありそうですし、ホント無茶な書きかたです。

プロセスとしては、「記号」「信号」を意識する意識しないは別としても、利用し、相互やりとりのなかから、社会全体で技能・文化etcを創りあげてきたのは間違いないでしょう。食材→料理にかぎらず政治etcまでふくめて、、、

元に戻りますと、社会全体で創りあげる利用するための「記号」「信号」が、先にたってしまい「利用されて」しまったのが問題で、「利用されている」自分を棚上げして、怒っている、が問題である、とこんな感じでいかがでしょう。

個人的なことに戻りますが、「罪」にこだわったり、最近の社会や政治に対する自分を顧みますと、「自分の感覚に頼るしかない」と言ってしまうのが端的に今の自分を表していると言えるのかもしれません。
反省してエントリーを上げ続けることにしょう、と。

毒多
2013/11/20 08:20
>毒多さん

これは私からのお願いです。「すみません」は無しでよろしくお願いします。

そもそも、私のコメントはご託宣でも正答でもありません。単なる私見です。毒多さんからすみませんと言われる理由がありません。

それから毒多さんのブログのコメント欄は、言わば毒多さんの縄張りです。書き込まれたコメントを煮て食おうが焼いて食おうが毒多さんの自由です。読むも読まぬも良し。返信するもせぬも良し。
もしもコメント欄が承認後掲載型であったのなら、気が向かない時は私のコメントを掲載しなくても良いのです。それが当然であると私は考えます。

私はこちらのみならず、余所様のブログにコメントさせていただく際はいつも「対価も支払ってもいないのに私のコメントを読んでくださって、どうもありがとうございます」という思いで書き込んでいます。別に卑屈になっているのでなく、只で自分の話を聞いてもらえるというのは決して当たり前のことではないと考えているからです。

媚を売るためにコメントしているわけではありませんので、異見は異見として率直に書いておりますが、それをどう扱おうとブログ主の自由であり、「すみません」と仰られては却って恐縮してしまいますよ。
平行連晶
2013/11/20 22:46
了解です。すみません(・・・ギャグです、笑)

「すみません」が、異見という理由でなく、また平行連晶さんにだけ発せられたものではなく、自分のなかに「すみません」と書く何かがあったと思います。
ワタシが書く、コメントの内容がふらふらしていて、掴みにくいものになっていること。これは直接の対話者のみでなく、ROMの人(今は少ないとはおもいますが)に対しても、申し訳ないなぁということも含まれます。
とはいえ、以後「すみません」はやめときますね。

毒多
2013/11/21 08:05
毒多さん、おはようございます。そして、すみません。

(この「すみません」は、ギャグではなく)

今回久々のロングコメンテートなのに、毒多さんとはちょっと悲しいコミュニケーションになってしまったような気がします。

これは久々だからではなくて、私のコメントが「悲しい」からのように感じます。私は私の感覚を信頼して、すみませんと書込みます。

言葉というのは難しいです。何かを伝える「信号」であると同時に、言葉は世界を分割してしまう「記号」でもあります。

「記号」としてしか伝わらない言葉は、悲しいと感じます。
愚樵
2013/11/21 09:20
おはようございます。
すみません、、と、言われても、平行連晶さんの気持ちがわかる気持ちです、笑。

なんとレスしたものかと、昨日から考えているのですが、、、、言葉の難しさ、、ふむふむ。
この展開は、どのようなレスしても空虚感が遺りそうで、一旦うちきるのがいいでしょう。言葉のみの難しさをなんとなく感じるだけで、次に繋がるかもしれない、ということにさせてください。
毒多
2013/11/22 08:20
真贋と感覚について、最近こんな報道があったのでちょっと書いてみます。

<拳銃誤射>教諭、中学で…生徒から没収、模造と思い
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131125-00000077-mai-soci

本報道で私が面白く思ったのは、拳銃を没収した教諭が、模造拳銃(ガスガンorモデルガン)かと勘違いしたという点です。

多少なりともモデルガンやガスガンに触れたことがあれば、真正拳銃と見分けることは容易です。ここで縷々説明はしませんが、モデルガンであれガスガンであれ、真正拳銃とはあからさまに異なる外見上の相違があります。法規制により構造上の相違を持たせざるを得ないからです。
ですから、模造品を見れば本物を知らずとも本物と区別が付きます。当該の教諭は、恐らくトイガン全般に触れたこともなかったのでしょうね。

今回誤射した拳銃はリボルバーだったようで、近年流通している真正拳銃の中にはポリマーフレームを用いた“プラスティッキーな”製品もあります。こうした拳銃をトイガンと勘違いする可能性はなくもない。
Sturm Luger LCR
www.youtube.com/watch?v=rt-u9CRbuX0
しかし今回の事件について言えば、こうしたポリマーフレームのリボルバーが現在日本国内に密輸されているとは考えにくいです。恐らく今回の銃はスチールフレームであったと推測します。
平行連晶
2013/11/26 22:54
金属製の冷たく重い真正拳銃を感覚の優れた掌で触れ、握っても本物と感覚出来ず、模造品と決め付けてしまった。本物か模造品か区別出来ないのでなく、模造品と判断した。
拳銃を入手した状況が、教諭にトイガンであると思い込ませ、その先入観が感覚に勝ったのですね。

>実際に私が着るのは「もの」ですから、「もの」とのコミュニケーションがある

とコメントした私の見方は、そもそも全く間違っているのかもしれません。人は直接触れている「物」すら、まともに見てもいず感じてもいないのかも知れません。
感覚とは、所詮その程度のものに過ぎないのかもね。
平行連晶
2013/11/26 22:57
おはようございます。

拳銃のニュースはテレビで見てましった。
ワタシには、何故?という感覚があたのですが、ワタシであっても、この教師と同じことをするかもしれません。
まず、日本の普通の市民生活のなかで本物の拳銃がある、という意識がほぼ皆無。さらには、本物もトイガンも触ったことがない(小学生のころ一度だけモデルガンを触ったことはありますが、感触はまったく忘れている。プラスティックの水鉄砲なら解る)。
ことから、経験が皆無で感覚がまるで学習されていない。知識として、引き金を引くと発弾する(かもしれない)。さらには、本物ではないという思い込みと知識の結果、引き金を引く可能性はある。・・・やってみたい誘惑に駆られるなにかがある。実際にやるかどうかは、今はわかりません。

感覚は、天性のものと経験や興味によって意識されるものがあると思います。天才的な前者はよく分かりませんが、後者の後天的なものは、やはり不確定要素はあるような気がします。が、意識なしで感じられる熟練的な感覚もまたあるでしょう。
かといって、熟練でも、意識がないときに体調の悪いとき、ブランクのあるとき、に感覚が鋭いままでいられるのか?

いずれにしろ、経験(記号によるものを含む)+意識になるものでしょう。

と、「特定秘密保護法」に、ムチャぶりしますが、「これが通ると戦争になる」という「感覚」はどうなのだろう?と考えています。感覚が「経験」+「意識」とすると、「意識」のみでそう感じている人も多いはず、、、、とするとき、この感覚は、、、、またエントリーしようかな。
毒多
2013/11/27 09:58
>Sturm Luger LCR
→Sturm Ruger LCR
まず訂正。かなりみっともない間違いです。Lのルガーはドイツのルガーですね。

で、ですね。この教諭についてちょっとキツイ評価をすると、自分の手で真正拳銃&実包を触った上でトイガンと区別が付かないというのは、備前長船の太刀(もちろん刃引きなんかしてない)を模造刀と勘違いするくらい「感覚が鈍い」ボンクラということになります。私から見て。

毒多さんが例示された「特定秘密保護法」であれば、それ自体は単なる条文に過ぎません。運用者の意思次第で凶悪な抑圧のツールになり得るのみ。
しかし実包をローディングした真正拳銃はそれ自体が凶器です。引金を引けば手にした人がどんな意思を持とうがお構い無しに弾丸は発射され、火線上に人がいれば傷害されます。場合によっては死ぬ。そのような凶器から危険性を感覚できないこと自体が、生物として鈍すぎると感じます。

目の前の「もの」が何であるのか良く分からないのであれば、納得の行くまで仔細に検分する。虫でも獣でも当たり前にしていることです。
人間という生き物は、お膳立てされた「安全」に浸りきって、生物としての基本的な鋭敏さすら半ば放棄した、堕落し切った生き物に見える瞬間があります。

「特定秘密保護法」については、法文そのものよりも、それを欲する人間の意図こそを恐れるべきでしょう。人間に対する警戒心、です。私は権力者にこういうツールを易々渡したいと思うほどに「人間」を信じてない。
平行連晶
2013/11/27 22:26
おはようございます。

>生物的な勘がにぶい

これ面白いです。
この教諭にしても、みたこときいたこともない、例えば、宇宙人が落とした殺傷能力のある武器を突然手にした時のことを想像すると、まずそれが武器かどうかも解らないのですが、とりあえず「警戒」する気がします。
これは生物的な勘でしょうか?

とすると、この教諭は日本の普段の生活に本物の拳銃があるわけがない、という思い込みが「生物的な勘(感覚)」より勝ったわけですね。しかも引き金を引くと何かがおきる、という中途半端な知識もあった。
この思い込みと知識は「社会」のなかで獲得したものでしょう。
しかし、現実には、生物的勘を働かせなければいけない場面だったとすると、「社会的な獲得物(社会的経験・社会学習的知識)」は「生物的勘(感覚)」を麻痺させる、、、と、言えるような気もします。

大元に戻りますと、記号は「社会的な獲得物(社会的経験・社会学習的知識)」となり、味覚や聴覚は「生物的勘(感覚)」とすると、記号によって生まれながらの生物的感覚は麻痺するのか否か?
生物的感覚と社会的感覚のどちらが人間的感覚なのか?

>人間を信じていない

「特定秘密保護法」に賛成するか、否定するかの根本的な分岐は、「政治家を信じているか、否か」だと思います。ワタシは政治家を信じていない、よって、「特定秘密保護法」を否定する、、になるのです。
信じるか、否か、、、というのも、「感覚」ですが、これは「社会的に獲得した感覚」なのか「生物的感覚」なのか、、、どちらですか?
政治家であれば、前者だと考えますが、「人間」となると、、、、どちらなんだろう?


毒多
2013/11/28 08:47
>生物的感覚と社会的感覚のどちらが人間的感覚なのか

記号による認識は、「生物的」感覚に由来する認識をよりコストダウンさせるんでしょう。
例えば、毎晩同じねぐらで眠るのに、毎朝起きるたびに見知らぬ場所のように感じていたら、そう…クリストファー・ノーランの『メメント』のような世界に生きていたら、感覚面の負担が大きくてしんどいでしょう。

信じるというのは、生物的な感覚の動員を低減させるんですよ。これは本物か偽造品か、これは安全か危険か、そういった判断に忙殺される
感覚面のコストを減らし、生きる上での負担を軽くする。
信じることは、そういう負担軽減の働きをしていると思います。

私は「人間」を信じないと書きましたが、まるきり信じなければ何も出来なくなりますよね。表を歩くことも、公共インフラを利用することも、食べることも飲むことも出来なくなる。だからどこかで折り合いを付けて、ある程度は信じている。
信じるということは、対象に向け生物的感覚による走査を繰り返しかける営為を間引くこと。

間引けば、その分負担は減る。しかし間引きすぎると、見落としが生じる。だから食材の名称に囚われて味覚による区別が付かなかったり、真正拳銃をトイガンと勘違いしたりするのではないですか?
平行連晶
2013/11/28 20:27
文明社会というところは、そういう間引きをより大規模に、より徹底するベクトルを必然的に抱えるものだと考えます。

あらゆる「もの」は予測可能になり、コントロール可能になり、数値を見ればそのものの質が把握できるようになる。記号とスペックが全てになる。そのようでなくてはならない。

だから体の調子がおかしな人が医師の診察を受けても「数値が正常ですので、どこにも不具合はありませんよ。とりあえずお薬出しましょう」なんてコントのように倒錯した状況が生まれる。

話を拳銃に戻しますと、中学生が学校にリボルバーを持って行って没収されたということは、おそらく学校に持っていくまで実包をロードして引金を引くことをしていなかったはずです。
チャンバーが空の状態でドライファイア程度はのことはしていたかも。もしかしたら子供の感覚で「トイガンにしては、なんか危険な感じがする…」と思っていたのかも知れませんよ。うすうす本物じゃないかと疑っていた可能性も。

話変わって、私は「政治家」だから信用できないとは思っていません。
ただ、政治家は市井の人々よりも権力を恣にする欲望、動かせる金を確保しておかねばならないという強迫観念、失脚への怖れ…といった諸々に囚われる可能性の高い立場にあるとは思います。
在職年数の長い議員が、新人の頃よりおしなべて歪んだ不快な顔相を呈しているのを見るにつけ、政治業界は人間の精神を汚染していく魔窟のような領域なんだろうなあとも感じています。まあ個人的感慨に過ぎませんが。
平行連晶
2013/11/28 21:11
>生物的感覚と社会的感覚のどちらが人間的感覚なのか

この問いは面白いですね。

感覚は、個体が生き延びるためのもの。単純に言うと、何が最大の敵か。敵の種類によって発達する感覚も異なる。

生物学的感覚の場合、敵は自然環境。社会的環境だと社会環境でしょう。端的に言えば、生物学的には敵は他種。社会的には、敵は同種(人間)です。

ヒトは社会的な動物種です。社会的な動物はヒトだけではありませんが、ヒトには際立った特長があって、それは、社会的な社会を作ることができるということです。生物学的社会を作る動物は他にもいるが、社会的社会を作る生物はヒトだけ。

生物学的社会の大きさは、その生物の情報処理能力に比例する。チンパンジーは50匹までの社会。ヒトは150。生物学的社会しか作れないチンパンジーは社会の大きさが50が最大だが、ヒトは社会的社会を作ることによって、生物学的社会の限界を超えてしまう。そして社会的社会は生物学的社会より強い。単純に大きいから。生存競争をすれば社会的社会が勝つ。

愚樵
2013/11/29 12:24
150の情報処理能力しかない「ヒト」が、社会的社会を作って「人間」になる。けれど、「人間」になったからといって情報処理能力が増大するわけではない。そこで、情報処理を軽減するために「記号」が必要となってくる。「記号」を使えば、150しかない情報処理能力でも、何万何百万何億という大きさの社会を作ることができる。

けれど、大きな社会ですから、飛び交う記号は膨大な量になる。社会的社会では、個々の情報量は小さくても、膨大な量の記号を処理することが求められる。記号の情報処理に適応するための営為を、私たちは「勉強」という。

>記号によって生まれながらの生物的感覚は麻痺するのか否か?

感覚というのは情報処理です。視覚でいうなら、眼は単なる「センサー」。脳に送られ情報処理されて「感覚」になる。

記号によって秩序づけられた社会的社会(文明社会)では、生物学的な五感を発達させるよりも、社会的感覚を発達させる方が有利。発達させるとはいっても有限な処理能力の枠の中でのことですから、ヒトとして持っている情報処理能力1150のリソースをどう分配するかということになる。社会的社会に適応するのが生存に有利なら、そちらへ多く配分するのは合理的ではありますよね。結果、生物学的五感は蔑ろにされる。

早い話が「勉強」に忙しいと、五感を鍛える余力などないということですよ。

もっとも。特定の環境に適応するように特化した生物は、絶滅の道を辿ることになる可能性が高いのですがね。
愚樵
2013/11/29 12:47
すみません。調子に乗ります。
「特定秘密保護法」について。

文明社会では、敵は、端的に、同じ社会の中の人間です。民主主義という統治方法は、敵は同じ社会の中の人間だと認めるところからスタートするのだと考えていいと思うんです。敵同士だから闘争する。ただし、記号で体系づけられたルールに則って闘争する。

記号が必須の文明社会ですから、記号化されたルールの乗っ取るのは合理的。すなわち記号の前に平等が民主主義の根幹なんです。

その観点から「特定秘密保護法」を眺めてみると、これは、法律(記号体系)によって、情報(記号)へのアクセスを不平等にしようというもの。すなわち、記号文明社会への反逆以外です。

けれど、そもそも日本は記号文明社会ではないのですね。だから民主主義的感覚がない。感覚がないから、反逆も平気。

日本的エリートは、欧米的民主主義的感覚がないことに加えて、生物学的感覚もない。機械的な記号情報の処理に長けているだけ。そして、そのような人間ほど、人間を恐れる。

「特定秘密保護法」を作ろうなんて思う連中は、怯えているのだと私は感じています。情報処理ばかりで、自身の感覚を信じる力を養ってこなかったんでしょうし、自身の感覚を信じられない人間は他人を信じることしかできませんから、自分が信じられる記号を独占することで、他人から身を守ろうとする。

そういったねじ曲がった精神が法となって国家権力(暴力)を振るうことになるなんて...、呆れるほかありません。
愚樵
2013/11/29 13:12
平行連晶さん、愚樵さん

カメレスごめん。

あまりに面白すぎて、いろいろ考えていてコメをかけないでいたんだけど、その間忙しくなっちゃって、それでまた書けずにいます。
今、繰り返して読んでいるけど、ほんと面白いなぁ。
とりあえず、「面白い」とレスしておきます。

毒多
2013/12/03 17:12

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「食品偽装」・・・意識の麻痺はやっぱり怖い 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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