毒多の戯れ言

アクセスカウンタ

zoom RSS 「法治国家と正義」・・・リーガルハイをみちまったぜ

<<   作成日時 : 2013/10/23 15:24   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 こうも久しぶりだと、筆が進まない。
 週に2つ3つエントリーしていた頃は、主張の落とし所が決まっていなくとも、なんとなく惰性で筆がすすみ書いているうちに言いたいことを表現できたり、オチで締めることができたりもした。「慣れ」とは結構な能力なのかもしれない。
 ところがである。書かないでいると、もともとシンドい作業なので「別に、まぁ、いっか」という気持になったり、無理やり書きアップしたりすると如実にアクセス数が減り、さらに「ま、いっか」という気持になる。そんなこんなで、さらに書かなくなる「ま、いっか」スパイラルである。
 が、エントリーのアップ以上に「思索しなくなる」ということに陥る。書くことと思索することはセットなんだと、つくづく思う。エントリー(書く)を「しなくても、まぁ、いっか」というのは、思索を「しなくても、まぁ、いっか」と近い気がする。そして惰性で生活し、ただ生きていく、ことになる。惰性で生活するという「生きる」に、意味あるのかなぁ、、と、思う。
 惰性で生活しながら半沢直樹を観て、仕方がないので「半沢直樹」でエントリーする。まったくもって惰性である。惰性な生活はつづき、堺雅人繋がりから「リーガル・ハイ2」というドラマを観ている。いま進行しているのは、「リーガル・ハイ2」でこれは週に1話しか観ることができない。「2」があるということは「1」があるに違いない、というワタシの推測はかるがると正解した。既に終了している「1」があった。「惰性」で生活しているので、一気に観ることができる。惰性で観たわりに、これを面白いと感じる。半沢直樹よりずっと面白かった。
 「リーガル・ハイ」とは堺雅人扮するところの、金を積めば裁判を引き受け、常に勝つ、という弁護士が主人公のドラマである。一話ごとにいろいろな裁判が展開される。毎回面白いのだが、とりあえずこのブログのエントリーとして面白いのは第4話「日照権裁判」の回だろう。
 ここのところ、弊ブログでも「保育園の日照権問題」をとりあげたり、「みんななかよく」や「秘書室」で話題になった「秘密保護法」やら「認知症老人の裁判結果」やら、すこしまえなら京都でのヘイトスピーチに対する「人種差別」に関する判決がでたり、、、と、いうのをチラ見したり、なにやら「リーガル・ハイ」と被ったりするので、面白いと感じているのだろう。
 
 「リーガル・ハイ」の第4話では、高層マンション建設計画における日照被害をうける町が、建築反対運動を展開する。町内会は「人権派弁護士」を雇い闘い、堺雅人扮する古美門弁護士が業者:ゼネコン側の弁護を引き受けることになる。また古美門の部下の黛という弁護士は、気持は日照被害を受ける住民側なのだけど、古美門事務所ということでゼネコン側に立たされることになる。
 金で解決しようとする古美門に、黛は、実際の日照被害によるささやかな生活が疎外される「社会正義」を訴えるのだが、古美門は黛に、ゼネコンの下請け仕事で生活がなりたっている小さな工務店を見せる。未亡人である女社長は、そのマンション建築がなくなれば首を括るかもしれないという。たじろぎ、ゼネコン側に心が傾いた黛に対し、、、「これは創作だが、実際にこうした工務店がある可能性はあるのだ」と古美門がいう。

以下ドラマに忠実に台詞を再現してみよう。

「君が正義とか抜かしてるものは、上から目線の同情にすぎないのかもしれない。その都度、目の前の可哀想な人間を哀れんでいるだけだ。」
腑に落ちない黛は「だったら、それを否定したら、正義はどこにあるんですか?」と、古美門に問い返す。
「神でもない我々にそんなこと、解るはずもない。正義は特撮ヒーローものと少年ジャンプのなかにしかないものと思え。自らの依頼人の利益のためだけに全力を出して闘う。我々弁護士にできるのはそれだけのことであり、それ以上のことをするべきでない」


 ドラマのこのやりとりに聞きいってしまった。いろいろなことが浮かんでは飛び散る。
 うーむ、拝金主義のゼネコンとそこと手が切れない工務店かぁ、、、。どっかで聞いた話だなぁ。沖縄で米軍基地に苦しまされながら、そこから出る仕事と金で生活ができている人。原発も同様。もちろん米軍基地も原発もなくし、しかもその地の人々が生活できるようにするのが政治であり、正義なのだぁ、と言うのは簡単だが、大小雑多な同じ構造の全てを解決できるのだろうか?
 だって、目の前の可哀想な「カルデロンのりこ」のその後のことなど知らないし、名張の事件に巻き込まれ続けた人のことを考え続けたこともない。すでに目の前の「可哀想な」青カンを哀れむことはなくなったし、自分の感性だけを根拠にする社会正義を、声高に叫ばなくなっている。
 国家と法治に雁字搦めになっている、、というよりも、自ら献身している我々に「社会正義」を語ることができるのか。国家と法治から完全に解放され神になれるのか。
 おそらく多くは神ではなく、「国家」と「法治」の前提のうえで思考している。ウヨピーだろうが、サヨっちだろうが同じである。「国家」は地球を区切り「自国」の安全と利益をおうシステムであり、法治国家では法が正義となる。ウヨピーとサヨっちがどれだけ言い合いをしようが、「国家」というシステム前提の議論でしかない。「法」が正義だと思っているのだ。いやこれは反論されるか。ただ、いずれ「法」が前提で思考するので「悪法」だと断罪するわけだ。義であるところの法は、誰かの利益によって変化しつづける。つまり法という仮正義も変化しつづけるわけだ。真理であるとこの正義ではない。
 ワタシとて同様である。国家にあるまじき「法」であるとこの憲法九条でさえ、法であり、「法治」前提でなければ九条を護ろう、ということにもなりはしない。
 真理である正義、それが国家と法から完全に解放されていたものであれば、憲法九条も真理じゃないわけで、云々。

 ただね、、、古美門の言う「我々弁護士にできるのは、依頼人の利益を守ること」は、正しいだろう。弁護士は「法治」を前提に存在しうる職業だからなぁ。さて、我々「弁護士」を我々「人間」にしたら、どうなんだろう。ちょっとだけ「国家」や「法」を棚上げにして、人間にとって「正義」を考えるほうが、素になって共感を得やすい気もするんだけど、はたして自らすすんで心身ともに「国家」やら「法治」に縛られなければならないものなのかなぁ? もう少し自由でもいい気もするんだけどね。
 現実には「国家」や「法」が理由による、起きなくてもいい対立がおきているわけだしさ。
 


ちなみに、ドラマに戻るが、この回では、人権派弁護士と庶民である町内会長との、こんなやりとりも出てくる。ちなみに町内会長は古美門に別件で安価な示談金で納得させられたのだが、

「このへんが落とし所だとおもうですよね」と言う町内会長に対し、人権派弁護士は、
「何をいうんだ。この国の諸悪の根源、政治家とゼネコンに血反吐を履かせるんだ」といきり立つ。
「そんなことしてどうなる」逆ギレ気味の町内会長が食い下がる。
「それが社会正義だぁ」と、声高に叫ぶ人権派弁護士にたいし、
「それはあんたの自己満足だろ」と、庶民の町内会長は言い捨てる・・・・・


なんとなく既視感、、、、ずっと昔の自分を見ているみたいだ。>人権派弁護士ね。
かといって、町内会長にもなれそうもないや(笑)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「法治国家と正義」・・・リーガルハイをみちまったぜ 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる