毒多の戯れ言

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zoom RSS 「はだしのゲンが焚書?」・・・なんで今さら?

<<   作成日時 : 2013/09/01 11:04   >>

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 ん、はだしのゲン? もちろん読んでましたよ。マタンキのメタグソ団といっしょにね(笑)
 ワタシは小学生でしたから、「はだしのゲン」で原爆を知ったといってもいいと思っています。表情も読み取れないほど爛れ落ちた顔とドロドロにたれ落ちる血肉の両腕を「小さく前にならえ」のように前につきだし歩く姿。強烈なインパクトで、ワタシの「絶対戦争はいけない」という原点はあれからきていると言ってもいいのかもしれない。その後出会う数々の資料や作品により強化された「絶対戦争はいけない」というバイアスは、どうあっても修正されることは無さそう。否「ワタシ」にとってのバイアスに留まらず、人類にとっての真理だとさえ考えている・・・・
 という原点である「はだしのゲン」が、どこぞの公立図書館から締め出される、と聞いて怒り沸騰、オイラの原点を否定しやがった、とイラっとしたわけさ。・・・な、な、なんだと、は、は、は、はだしのゲンが、閲覧禁止!! ざけんじゃねぇぞ、ひょひょひょ表現が過激で子どもに悪影響?、アッ、アホか!!、だいたい、いつの発行で、これまで何十年の間にどれだけの子どもが読んできたと思っんじゃ、、誰がトラウマになって欝を患っとんねん、、どれだけの人間の、戦争は絶対いけない、という「真理」の原点に触れたと思っとんじゃい、、、はっはーん、さては、これも安倍の意向か? 悲惨な過去はもみ消せ的歴史改ざんか? それとも「稲田」の「否だ」がまた発動されたんか? かぁあああ、 く、く、く、糞、か、か、かかってこんかい。どいつもこいつも、必殺7年殺しをかましたるねん!!!!  いや、あまい。問答無用じゃ、そこに雁首並べやがれ、ポン刀で首根っこ叩ききったんねんんんんんん!! そんでもって晒首にしたんねん、、、、、はぁはぁはぁはぁ。あれ?

 どうも感情にまかせて視野がせばまると、突っ走るだけ突っ走って、とことん逝ってしまうからいかんなぁ。これじゃ、どこぞの教育委員かや安倍や稲田、はては戦争の狂気の最前線に置かされ、精神を冒された元は善良な市民だった兵士と変わりはしないじゃないか。一旦おちつかなければ。

 ということで、元に戻って「はだしのゲン」が一教育委員会の差金で図書館の「児童コーナー」から締め出されたり、学校の図書室から締め出されたりしたという、若干古いニュースを取り上げてみる。、おっと、今朝のサンデーモーニングによると、「手続きの不備」から撤収を撤回されたらしい。が、「手続きの不備」は下手な言い訳かもしれないが、それがなければ継続されていたと考え、ちょっと思索してみる。
 ワタシは二つのことを見落としていた。一つは「児童コーナー」において、ということもう一つは、「はだしのゲン」がワタシの知っている「はだしのゲン」の続編があったということ。で、問題になっているのが続編の描写らしいこと。
 ツレアイによると、「そうやって、なんでも事前にオブラートに包み、遠ざけ、触れさせないようにするから、今日日のワカモンは打たれ弱く、軟弱なんじゃい」とブツクサ言っていたが、今日日の若者と接点がなくよく知らないので、そこはノーコメントにしよう、だが、どんな残虐なシーンも全てを不特定多数の子どもに晒してはいけないだろうという前提はある。だから、描写による線引があるのは仕方ないということは同意しよう。
 「はだしのゲン」がその線引に抵触するか? 否、問題視されるのが遅すぎる。
 とすると教育委員会がほんとうに「描写」が理由で閲覧できないようにしたのか、が問題なのだが、「事実と違うから」ということも言っていると聞き、とすると政治的だと考えられる、それは問題だろうと考えるわけだ。ん、「はだしのゲン」もワタシの未読の後半部分は個人的政治表現を中心に描かれている? とすると教育委員会vs作者の政治対決になるわけか? 政治的にしてもここにきて何故?という疑問が生まれ、安倍色が強まり、日教組が弱体化した、ということ? いやいや日本中の教育委員会の方針ではなく、手続きの不備ということで、一教育委員会のしかも極少数の権力行使の可能性が高いので、描写に問題はなく、閲覧禁止を問題にするほどのことではない、という判断がいいのかもしれない。
 政治的なものを公立図書館の児童コーナーにおいてはならない、ということが厳密に行われるなら歴史書をはじめ相当数の本が焚書化されるだろうなぁ。

 「児童コーナー」ということで、前のエントリーでNANさんへ書いたコメントをコピペしておこう。
 
 >子どもってのは、バイアスがかかってなくていいですよね。素直に直接精神に反映させる。そんでもって「本当のこと」を知るのはずった後になってから、ってのは、「普通の成長」でしょ。子どもの頃の思い込みの事実でなかったなんて今だにありますよ。でも、思い込みと事実が違うほうが深く思索することができる。大人になってバイアスがかかりまくってから「知る」ほうが面倒です。子どもってのは大人が思うほど小さくなくダイナミックだと思いますよ。むしろバイアスのかかった大人が制限しないほうがいい。
 もちろん「一歩下がった大人」(平行連晶さんが教えてくれたサイト記事より)が周囲にいて、見守ることがいいにきまってますが。

 どうやら焚書問題で話題になる以前よりも「はだしのゲン」が読まれているということも聞くので、かえって良かったとなんとなく言っておこうかな。

 うーん、それにしてもバイアスのかかったエントリーになってしまったなぁ、、、うふふ。
 書きながら噛み付かれるだろうか、と考えたのは「戦争は絶対いけない、は、人類の真理」という部分。これはまた書かなくちゃいけないかな?


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当該報道(みのの『朝ズバッ!』でも連日採り上げてましたしね)を目にして私が真っ先に思い出したのは、コレです。
hp1.cyberstation.ne.jp/straycat/watch/news/rekishi/1999/02.htm

警視庁が都に対して、鶴見済『完全自殺マニュアル』の有害図書指定を求めた一件。
『はだしのゲン』と『完全自殺〜』では、作品のテーマ/メッセージ性等全く異質であり、並列すべきでないという意見もあるでしょう。

けれども、どちらも作品の内容に対して、これを知らしむべからずという思想があって、官公庁/行政という公の組織が動いて公開・流通の妨げが生じ(『完全自殺〜』に関しては、群馬・岡山県で有害図書指定をされたと聞きます)、さらにそれが報道されることで話題を呼び、一種の販促へとつながっていったという類似点があります。

『はだしのゲン』は、件の報道がなされてから間をおかずコンビニに単行本が並び、サラリーマンが立ち読みする光景を目にしました。恐らく版元が雑誌コードを使って即席に再刊し、話題に便乗したものと思われます。コンビニ本の版元がどこかは確認しませんでしたけど、汐文社では売り上げ3倍ですとか明かしていましたので、社主のコメントとは裏腹に笑いが止まらなかったんじゃないですかね。

いずれにせよ、官公庁/行政などは好コントロール装置であり、基本的に大衆に知恵を付けたがらないとみて間違いは無いでしょう。あとは何らかの口実があればよい。『ゲン』の場合は市民からの陳情、『完全自殺〜』の場合は、自殺した生徒の部屋に本書があった。
平行連晶
2013/09/01 15:18
一方で今日の日本では、表現媒体に対してあからさまに公開・流通が禁じられるという事態はあまりないわけです。
森美術館の会田誠展『天才でごめんなさい』の展示作品が性差別的かつ性暴力的であるとして女性団体が撤去を求めた件が記憶に新しいですが、私の周りにもこの騒ぎで興味を持ったという人が結構おりました。
まこと盛況でしたよ。会田誠展。

情報が過多だからこそ、「禁止」や「糾弾」「非難」が却ってニュースバリューを付与してしまう。
そうした意味では、『ゲン』の閉架処置は下策だったと言えるでしょう。知らしむべからずの逆を行ってしまった。

余談ですが、フィンランドに「オンカロ」という施設が建設中でしてね。以前愚樵さんとこにちょこっと書いたのでご存知かもしれませんね。高レベル放射性廃棄物の深地下処分場です。ここに人類の手に負えない核のゴミを封印して、10万年保管する。
10万年の間には、ホモ・サピエンスが滅んで現行の文字や伝達媒体が全て喪われている虞があるでしょう?
だから、ポスト・ホモ・サピエンスにいかにして「開けるな」と警告すべきか、科学者や思想家が侃々諤々やってます。

「封印解いたら超ヤバイっす、って絵文字で彫っとく? 封印の上から」
「それダメ。ゼッテー開けるなって言われたら、ゼッテー開けるべ?」
こんな感じ。

もうひとつ。作家・医師の松田道雄は、子供にホラー映画を見せるのは良くないと言っています。残酷描写の影響で悪夢を見て、うなされるのだそうです。職業柄、そういう症例を色々見てきたのでしょう。
個人的には、恐ろしいものに触れて自身の精神の中で恐ろしいものと格闘するということはそれなりに大事ではないかと思いますが。
人を怯えさせるくらいの力すら無くて、何の表現かとも感じます。
平行連晶
2013/09/01 15:47
主不在の内に調子に乗って追記しますよ。

『はだしのゲン』閉架処置についてはもちろん私は反対です。
他方『ゲン』が、反核・反戦・反差別・日本軍の醜行を活写した等々の「良書」であるが「故に」閉架に抗議するという態度があるとすれば、私はそれに対し疑問を覚えます。気に入らない。

そもそも文芸作品というものは少なからず、人間の悪徳・負の面からインスピレーションをうけて創作され、またそれらを主題とするものです。時間による淘汰を乗り越えて生き延びた諸作品の中に、社会の不正に対する怒りや真善美を描いたのでない作品を見出すことは、決して難しくありません。

そんな中で、「それが良書たるが故に」子供達に読ませるべし/側に置くべしというのは、結局は形を変えた検閲に過ぎないのではないでしょうか。
子供は大人が煙たがるような、或いは好コントロール装置が遠ざけたがるような文芸作品(漫画含む)を、どうやってか自力で探し出して読み耽るようになるものじゃないんでしょうか。
そうして多様性を孕む存在になっていくものでは。

『ゲン』は、リベラルな良識人が歓迎する「良書」だからこそ、開架を求める擁護の声が引きも切らない。でもそこには、良識と鑑識眼のある選者が推奨する銘柄を子供にあてがっておけば、それで宜しいというお仕着せの厭らしさが窺えるように私には思えますよ。
平行連晶
2013/09/02 23:09
平行連晶さん、おはようございます。

とりあえず、
>人を怯えさせるくらいの力すら無くて、何の表現かとも感じます。
笑いました。そうですね。

リベラルな良書だから「〜べき」は、保守的な良書だから「〜べき」と同じイヤラシさがあるかな? エントリー冒頭ですが、もともと掲載されていた週刊少年ジャンプの同時期の掲載のなかでどれと対比させようかちょっと考えました。「トイレット博士」は大人からみれば良書じゃないだろうね、でも、一緒に読んでいたぞ、というささやかな主張だったんです。これまた同時期掲載の荒野の少年イサムはどうでしょう。人気もあり、テレビアニメ化もされていた記憶がありますが、犯罪者を問答無用で拳銃で撃ち殺す、ちゅうか問題の解決が決闘、ネイティブを虐殺・・・サヨっちからすると有害図書になるのか?

「はだしのゲン」以外に話題にもならず、閉架処置された図書はあるのかな? あるとするとどんな作品なのか、ちょっと興味がありますね。
毒多
2013/09/03 08:37
>話題にもならず、閉架処置された図書はあるのかな? あるとするとどんな作品なのか

出久根達郎が自身の少年期を綴った『逢わばや見ばや』に、古本屋が地方に遠征して同業者や貸本屋などから掘り出し物を買い付けて高く売る、所謂「セドリ」の話が出てきます。今で言う転売ヤーですね。
出久根をセドリ旅行に帯同した目利きの古書店員が、貸本屋のおばちゃんを巧みに言いくるめて戦時中に刊行された雑誌をせしめるエピソードがあるんです。目利きの若いセドリは、鬼畜米英やら八紘一宇やらを喧伝する類の雑誌は再刊されないから高く売れるんだよと出久根に教える。

この話を私の仕事仲間に振ったら、GHQが占領期に軍国主義の許で書かれた雑誌や書籍の類を書店や版元から“占領国民に知らせずに”回収・処分していたという事実を教えてくれました。
その際図書館の刊行物は回収の対象外だったそうで、国会図書館はもちろん古い図書館には当時の出版物が今も残ってるんじゃないのということです。
ただし閉架されていたら書名がわからないと出して貰えないから、まず読めないよねとのこと。

まあ彼が言うには、「戦時中の出版物は紙質が最低で、開いただけで砕けて崩れちゃうこともあるから読むのは物理的に難しい」とのこと。

ちなみに私は長いこと国会図書館には足を向けていないこともあり、閉架された館蔵品の目録をどうすれば確認できるのかなど全く知りません。いずれにせよ存在しても「ない」ものになってしまう状況は、さほど珍しくはないと言えそうです。特に改めて「抗議」する人がいないような本の場合は。
平行連晶
2013/09/21 21:32
追記です。検閲について別の角度から。
映画『悦楽共犯者』のパンフレットに掲載されているヤン・シュヴァンクマイエル(以下JS)とテリー・ギリアム(以下TG)の対談から抜粋しますね。

TG:最近プラハの映画祭に行ったとき、皆が旧体制の検閲について話していた。そのとき私は、私たちにのしかかっている西側の経済的検閲について考えさせられた。興行的に成功しない映画は見ることができないということをね。こんなに違ったシステムが同じ結果を生むというのは、実に奇怪千万だ。

JS:多くのアーティストと違って、私はチェコの体制が変わることが、芸術に大きな影響を与えると思ったことなどなかった。全体主義も商業システムも両方ともが同じ文明から生まれた。芸術はシステムよりも文明のルーツそのものから影響されているんだからね。

TG:アニメーションによってあなたは、旧体制でより多くの自由を得ることができましたか?

JS:初めは、アニメーションは危険であるとはみなされていなかったので、さほど厳密な検閲はなかった。“現実には”何も起こっちゃいない、と思われていたわけです。ところが、検閲官が映画クラブを訪ねて、私の作品に対する観客の反応を見たとき、観客がどれほど熱心に隠喩を読み解こうとしているのか悟られてしまった。

TG:西側では誰もが東側の象徴主義を理解するとは思えないけど。

JS:原始的な抑圧のもとで生活することを強要されているわけではないからね。東側の全体主義システムの中では、人々は真実のかすかな手がかりにも飢えている。そしてそして想像力をはたらかせて映画を見るようになる。
平行連晶
2013/09/21 22:11
TG:体制が変わっても、より若い観客が象徴主義を理解するようになると思いますか。それとも、そういう表現は消えていくと思いますか。

JS:プラハの観客のほとんどは、若い人たちに占められている。ある映画館では、満席になる大盛況だったのに、次のアメリカ映画の初日が決まっていたから、たったの1週間で打ち切りになってしまった。

以上、ユーロスペース発行『悦楽共犯者』映画パンフレットより。

「検閲」とは、ある作品ないし表現が公開・流通する機会に対してこれを統制し操作する行為であるとするならば、私たちが暮らすこの社会は既に至るところ検閲に満ち溢れているとも言い得ます。その主たるものは、テリー・ギリアムのレトリックを借りれば「経済的検閲」ということになるでしょう。

『ゲン』の閉架処置がトピック足りえたのは、「検閲」のプロセスが如何にもマスコミ受けのする“わかりやすく面白い事件”であったからに過ぎない、私にはそんな風に見えなくもありません。

『はだしのゲン』のコンビニ本は今もローソン辺りの本棚に並べられています。回転の速いコンビニに今でも置かれているのですから、やはり売れているのでしょう。
まさに「経済的検閲」の結果です。
平行連晶
2013/09/21 22:35
平行連晶さん、遅レスすみません。

「経済的」なものを「検閲」というかどうか、、ちょっと考えてしまいますが、そも値段のつかない、つまり評判にもならないものは、「検閲」以前の問題ということですね。「はだしのゲン」は、プラスであれ、マイナスであれ、なんであれ兎に角評価される作品であることは間違いなかったという証だったわけで、ここにきての「検閲」で再評価されたというオチだった。

よっぽでなければ「検閲」以前に閉架される、とすると、古い作品で閉架されないものは、名作といえるのかもしれませんね。
毒多
2013/09/26 16:49

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