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zoom RSS 「ヘイトデモあれこれ」・・・本性が属性に駆逐される

<<   作成日時 : 2013/04/24 18:20   >>

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属性とは、、、
例えば、「日本人」「韓国人」とか「ウチナンチュ」さらには「関西人」やら「名古屋人」、はては「西区民」・・(って民族かよw)
そうでなければ、「一流企業」「町工場勤め」「フリーランス」「派遣社員」「ブルーカラー」・・・・一見属さない「無職」でさえ「無職」という属性となる。
またまた、「理論派」「共感派」「サヨっち/ウヨピー」・・・
果ては、「男・・」「女・・」「大人」・・・「健常」・・・
やたらに属性によって括り、分類する。
「日っ本男児たるものかくありなん!! なんて女々しい奴だ!!」なんて、今日日ウヨピーでも言わないかもしれないが、属性を基準に語るものは、大概同じようなことを言っている、気がする。
「こいつ反日だな・・・」
「日本人なのに・・・」
「労働者たるもの・・・」
「庶民なのに・・・」
「人民よぉ、連帯せよ・・・」
「この権力がぁ・・・」
「在日の分際で・・・」
「ネットの住民のくせに・・・」

差異を認めあえれば何の問題もないのだろうが、差異に固執し「属性」という視点を持った瞬間に、完全に認め合うことなどなく、多くは敵対しあうことになる。それが属性で括るということだから。
「どこそこで生まれた」「女として生まれた」・・・なんでもない差異の多くは「社会的都合」により「属性」として押し付けられてきたし、個々も「社会的都合」で「属性」を創作してきた。「社会的都合」とはつまり、社会のなかでに所属する属性が相対的に不利を被ることなかれ、あわよくば優位になることを望む、という都合であり、あくまで相対的優位にたとうとすることである。
属性を疑わぬものは、自分が属する属性に固執し、そこが相対的に優位になればいいと望む。
相対的不利な場合は、権利の向上を訴える。
そうしたことの究極にあるのは「排除」である。
「属性」は「社会」の目的として横たわるのである。
社会運動というものも、やはり「属性」を基準として権利を訴える。という意味で「属性」の固定化に寄与するということを注意しなければならない。
そも「属性」を認め合いましょう、という言い方自体に無理があるのだ。

人間は「社会的」だし、「社会的」でなければ生きていけないために「属性」も仕方ないのか?・・・・たしかに、仕方ないのかもしれない。
社会を否定できない以上、つまり属性も否定できない。そうした宿命にある。
だから、社会運動も否定することはできない。
ただ、属性を基準にした社会の歪をただそうとうする運動もまた属性を基準にすることに矛盾があるのだ。

そこにあるのは所詮属性なのだ、と認識しなければならない。
「属性」など所詮「属」性なのだ、と、人は忘れている。
社会を潤滑させるための油みたいなものであることを、忘れている。
潤滑するからそれを利用するのはいいが、たかが「属性」ではなく、それを「本性」にまで昇華させてしまうのだ。社会的問題を語るための「属性」が「属性」であることを忘却し、それがあたかも「本性」であるかのように、ムキになり語りはじめる。また、語られるほうもそれが「本性」であるかのように受け止める。
まるで「属性」が世界の中心のように。本性であるとこの中心生命がないかのように。
いったい「本性」がない「属」とは、なんなんだ?

「あなたは誰だ?」と問うた時、だれもが属性でしか応えられない。
属性にしか、思いがいかないのである。
属性ではない、本性を忘却しているである。
何に属するものでない自分を考えない。
ヘイトデモ、あるいはカウンターデモに悲哀を感じるとするなら、
「本性」のない薄っぺらな「属」に必死にしがみついているからかもしれない。

では、何者でもない自分とは・・・?、
向き合おうとするするほど解らなくなるのだが、、、

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コメント(28件)

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 属性の一番基本的なものの一つは性別ですかね。

 >何に属するものでない自分を考えない。

 「盤珪禅師語録」という本が岩波文庫にありまして、江戸時代の禅僧、盤珪永琢が庶民に説いた説教ややりとりが記されています。
 その中で印象に残っている話。覚えている範囲の概要です。子供を産まないで年とった奥女中だったかな。「子どもを産まない女は成仏しないといいますが、どうしたら救われますか」とノイローゼ気味で、盤珪禅師に問いかける。禅師は彼女をじっと見て、「そなたいつの時に女人に生まれたのだ」と一言。それでその奥女中はすっと気持ちが楽になってささやかでもコンバージョンを得たということです。
kuroneko
2013/04/24 22:32
kuronekoさん、おはようございます。

人にとって、もっとも基本的な属性は「人間」かな?
「人にとって」と言っているうえでは、「性別」になるのかもしれませんね。
基本というか、社会にうまれて最初に「社会的(思考)」に分けられる属性、、、かな?
生まれた(あるいは生まれる前)に、人は性別を属性として社会に沿ったかたちで認識することを、あらためて考えると、なんとも不思議な気持ちになります。
あ、いや、その前に生まれてくる場所、、、というか、両親の属性によって生まれる前から(仮)決定される属性は多々ありそうですね。
いやいや、他とくらべて性別というは、変更しにくい属性ということで、根源的な差異かもしれないな、、、ということで、基本かな?
この思索のなかで、性別という「差異」が「属性」になるということで想定したのが、男女不平等社会とカウンター運動であるところのフェミニズムという社会運動です(あるいは、身体の性と脳の性が反対だったという、、専門用語がわからないのですが、、、それを認めさせる運動など)。
その運動は社会性という面では解るのですが、そこに傾倒しすぎてそこが全てになっている人をみると、なんとなく違和感があり、その違和感は何だろうという思索ですね。(社会運動ということでは性差是正でなくても同じなんですが、、、)
毒多
2013/04/25 08:43
すみません、思索途中なので、うだうだと書いてしまいましたが、ご教授の話なのですが、、、、アタマの悪いワタシはちょっと考えてしまいましたが、、
“「属性」から解放されて気持ちが楽になった、、、”ということですよね。
ふと思い出したのが、いつぞや社会権力がいった「女性は子どもを産む機械」という言葉です。これは「属性」を端的に表した言葉ですね。
ちょっと無茶を言えば、属性を中心に生きるということは、こうした言葉も受け入れなければならない、、、ということになるかな?
毒多
2013/04/25 08:43
こんにちは。

興味深く読みました。
あ、この一つ前のも興味深く読んで、なにかコメントしようと思ってるうちに、時間が流れてしまって。。。
すみません。 (^_^;)

「差異」と「属性」かぁ、なるほどなと思いました。
「男」とか「女」とか「人間」というのは「差異」かな、と思いました。

で、「属性」というのは人間社会に属するときの属し方なのかなぁ?とも。

ですから、「差異」としての「男・女」もあれば、人間社会に属する属し方(属性)としての「男・女」もありそうですね。
僕なら、「属性」の方は「男性・女性」と言いたくなってしまいますけど。 (^o^)
アキラ
2013/04/25 10:24
アキラさん、どもです。

>「属性」というのは人間社会に属するときの属し方なのかなぁ?

あっ、それ、そうですね。その「属」で「言葉」通りですね。
でもって、属するにあたって「人間社会」か「個」か、主体がどちらなんだろう、という問題もうかびました。
あたかも「人間社会」が主で、おまえはどの「属」でいなさい、と強要されるのか、、、「個」が主体で、自らすすんで「属」を変えるかという問題。
後者のような属、、たとえば国籍などは、個が主体となり変更できますが、性別は基本的にできないというように「属性」もいろいろです。また、エントリーの発端になった在日とか部落出身とか歴史によって属が(捏)造りだされた、、というケースもあり、いろいろですね。いずれにしろ、どれをとっても「社会の都合」であり、属性は所詮「属」であるという認識が必要だと思っています。

アキラさんが面白いという理由を推測しますと、
「属」がメインになってしまうと、本性=「身体」を駆逐し不調をきたす、ってとこがアキラさんのテーマと通底すると考えます。「属」するためにこうでなければならない、と我が身を束縛する(される)ことによる不調。それに対して属に影響されない、なにものでもない「身体」の「本性」を追求するのが本来の生きるかたち、、という感じで考えることができるので、面白いと感じるのではないか? という推測ですが、いかがですか?(笑)

>「属性」の方は「男性・女性」
そうです。そうです。気が付かなかった。失敗。今後書くことがあったら採用させていただきます(笑)
毒多
2013/04/25 16:55
毒多さんが仰るように、自ら選び取ることができるものと、最初から身に帯びるしかないものとがありそうですね。

僕が興味深いと思っているのは、〈属性〉【属性】みたいなことです。
毒多さんが焦点を当てているのは【属性】の方ですよね。

僕が興味深いと思っているのは〈属性〉の方なんです。
それは、愚樵さんがたまに言っていた「役(やく)」ということ。
つまり〈属性〉=「役(やく)」なのかな、と。

人っていうのは、どうしたって変わっていく存在ですよね。
ですから、当然 ある人との関係性というのもまた、変わっていってしまうものです。

ところが、その人と人との関係性が〈属性〉=「役」を帯びた関係になってくると、関係性がいつまでも変わらないでいることができる。
「親・子」とか「先生・生徒」とか「先輩・後輩」とかいうように。

3月に『変わらないからこそ 変わっていく』という3部作の記事を「光るナス」に書きましたが、この関係性が「変わらない」ということがあるからこそ、安心して変わっていける・・みたいなことがあるんだと思うんですね。

僕らはどうやら、そもそも無意識に「思わず頼っちゃう存在」のようなんです。
で、思わず頼っちゃう先が「変わってしまう」ものだったら、安心して頼れないじゃないですか。 (^_^;)
アキラ
2013/04/25 23:17
(つづき)


でも「関係性が変わらない」と、その「変わらなさ」にどこかで安心して、その「変わらなさ」に頼りながら どんどん自分は変わっていける。
「関係性が変わらない」というのは、そういう「ホーム」な感触なんだろうなぁ、と思ったわけです。

人というのはどうしたって変わっていってしまう存在ですから、そこで〈属性〉=「役」のようなものがあると、変わらないで済むことができるんですよね。
例えば親というのは、いつまでたっても親です。
だから、その「親・子」という変わらない関係性に依存した関係を保つことができる。
「親」がその属性から抜けてしまって「恋愛対象となる異性」とかになっちゃったら、安心した関係を保てないじゃないですか。 (^o^)

〈属性〉=「役」ということになると、そういうよさもあるよなぁ・・とちょっと前に思うに至って、それをナマ愚樵さんと話したりしたことがあったので、この記事がとても興味深かったんです。
アキラ
2013/04/25 23:18
おはようございます。
アキラさんが「面白がる」憶測は外れていましたか(笑)

で、「思わず頼っちゃう存在」ですから「社会」があり、「頼っちゃう」=「社会」とも言えるのかもしれません。頼っちゃう社会への属しかたが属性ですね。
ワタシもやはり「頼っちゃう存在」ですから「社会」があることも、「属性」があることも否定しません。
その「属性」にも〈属性〉【属性】があるわけですね。なるほど。

仰る通り確かにワタシは【属性】というベクトルで語っていますね。元ネタが「ヘイトデモ」ということもありますが、ワタシがサヨっち的傾向がそう見させるのかもしれません。【属性】的関係ばかりが気になり、あげく「属性」を語ることについて、「社会」とは【属性】になることは必然で、だからそこを「属性」を全てにすべきではない、とまでエントリーでは言ってしまう。痛いヤツかもしれないなぁ(汗)。
でもやはりどこかで「どうせ頼っちゃう存在」ならば〈属性〉を望んでいることを告白しましょう。
毒多
2013/04/26 10:01
エントリーでは、「外(社会)に向かう」のが全てではなく「内に向かって」みてはどうか、「内」を無視して「外」に向かうことはできない、ということを言ってみたつもりでしたが、〈属性〉【属性】は外への向い方の区分けになるでしょうか。心構えか?
アキラさんの三部作を読みなおしてみましたが、どうもアキラさんの「変わらないからこそ変わっていく」の主張も
>自分自身が変わり・・・真の力を身につける
と、内に向かうための〈属性〉と読める気がするのですが、そこはどうですか?
愚樵さんのいうところの「役」だとしたら、たとえば「親」という「役」がそのものを「親」にさせるみたいな、〈属性〉もしくは【属性】が「内」を形成する、、、みたいな、想像が浮かんだので、聞いてみました。

〈属性〉が個を形成させる、、と、ともに【属性】もやはり個を形成する、、というのも妙に信ぴょう性がありそうな、、、
毒多
2013/04/26 10:01
ありとあらゆることの総体、あるいは生きとし生けるものすべての総体を「世界」、文化や歴史を含め 人間が生きているところを「社会」とすると、僕らは元々「世界」的存在ですよね。
でも、同時に「(人間)社会」内存在であることも事実。
そうやって重層的に存在してるのが僕らの在りようじゃないですか。

で、毒多さんが言っている「本性」というのは、言ってみれば「世界」的存在にくっついてるものですよね。
で、その「本性」が同時に「社会」内存在として人間社会に属するときの属し方が「属性」。
そう見ることが出来るかと思います。

だから本来は、「属性」にはいいも悪いもないんだと思うんですけど、実際にはいいも悪いもあったりする。 (^_^;)
それが〈属性〉【属性】の違いだったりするのかなぁ、と。

僕は『「世界」的存在でいきましょうよ♪』派なので (^o^)、毒多さんの言う「本性」あってナンボだよね、だと思うんです。
だから、毒多さんの仰ってることはなるほど なるほど、なんです。
アキラ
2013/04/26 16:36
(つづき)

毒多さんの言ってる【属性】の人は、仰るとおり元々の「本性」を忘却し、「属性」があたかも本性であるかのようにカン違いしてる人たちなんだと思います。
「属性」に憑依してしまって、属性自身になってしまっている。
「属性」に生き霊がとり憑いてるんです、そこに生き生きとしたいのちの活動などないですよね。
【属性】の人はゾンビみたいなもんなんでしょう。

そしてこれまた毒多さんが仰るように、「本性」を忘却することなく「本性」主体に生きて、「属性」を〈属性〉として服を着るように身につけていれば、〈属性〉の変わらなさが効を奏して、自分も相手も変わっていくんだと思います。
その意味では、〈属性〉は人としての「本性」を育てる気がします。

また、どうしたって変わってってしまう僕らも、時として後からくる人たちのための「ホーム」にならなければならない場合がありますよね。
親の立場とか、先輩の立場とか。
変わらなさに安心できるという要素が「ホーム」には必要ですから、そのときには〈属性〉は非常に役に立つツールになっていると思うんですね。

で、変わらないのは〈属性〉自身ですから、それ以外のこちらも相手もその「変わらない関係性」を頼って変わっていく。
ですから毒多さんが仰るように、相手も育つけれど、自分自身も育つ。

これがもし【属性】になっちゃったら、もう変わりようがないですよね。
その人自身が育つこともないでしょうし、相手も変わりようがない、育ちようがない。
そこに「生きている」はないですね。
アキラ
2013/04/26 16:37
すっきりまとめて頂きありがとうございます。

でもやはり〈属性〉【属性】は生じるでしょう。
だから「社会運動」は必要だと、ワタシは考えています。これもひとつの「ホーム」造りではないでしょうか?
社会・歴史により【属性】を強いられることもある。強いる多くは【属性】に毒され、それを意識もなしに当たり前としている人たちによってです。
社会運動は【属性】を〈属性〉に変える運動でなければならない。ところが社会運動をしているなかで、ときによって、というかちょくちょく【属性】に対峙しているうちに、自らが【属性】に侵されていく。コレも当人に意識がないうちにです。
だから自らが意識して〈属性〉に居ようとすることも必要かもしれません。

また、【属性】を強いられた人のなかで、みずから〈属性〉を見出していく人は真に強いと感じます。こういうことがあるから単純に【属性】が悪いとはいいきれない、、、、てね、爆!!
毒多
2013/04/28 10:46
ちょ〜、お久しぶりでございます。

そういえば、初めてこちらにコメしたのはカルデロンのり子さんに対する在特会のヘイトデモの記事でしたね。

話は飛びますが、今日すぺーすのいどさんとこちら新潟でミニオフ会をやりました。聞くところによると、粟島(新潟県北部の離島)に行かれている愚樵さんに会いに行かれるとのこと、新潟市で一泊されるので急遽お会いすることになりました。
それにしても、すぺーすのいどさん楽しい方で、行動力にはびっくりしました!
軽く酔ってしまったので、訳わからんコメお許しください。
えちごっぺ
2013/04/29 22:07
えちごっぺさん、ほんとお久しぶりです。

楽しそうなオフ会でよかったですね。
すぺーすのいどさんは、以前にも愚樵さんに会いに行ったと聞いています。ほんとフットワークが軽いですねぇ、羨ましい(笑)。
愚樵さんの粟島へはいつか行きたいと思っているので、その際には、ワタシも新潟一泊しようかな。オフ会よろしく、笑、、、(ヘビーフットワーク故に、ついになることやら、汗)
毒多
2013/04/30 08:03
「役」といえば、昨日ようやく観に行ったミヒャエル・ハネケの『愛、アムール』が、「役」を全うすることについてよく描かれていて、面白かったですよ(娯楽的な意味で「面白い」のではありません)。

知的で教養に溢れた老夫婦の夫人が発作を起こし、半身不随→認知症→意識混濁と病が進行して妻の役を降りざるを得なくなった時(夫婦は夫という役と妻という役を担う2人がいて初めて成り立つものですよね)、もう片割れである夫が、いかに役を務め上げようとするか、を静謐に冷徹に、そしておそらく慈しみを込めて描いています。

在宅介護の中、もう「痛い」以外の言葉を発することがほとんど出来なくなってしまった妻が、それでも僅かに残った清明な意識を頼りに食べることも飲むことも頑なに拒み、無理やり口に含まされた水を夫に噴きかけるシーンがあります。
恐らく結婚生活の中で初めて、夫は妻を殴りつけてしまい、呆然とする。
《献身に抵抗で応えることへの、怒り》私はそう捉えました。

夫はこれまでの結婚生活においてしてきたように、誠実に、身を捧げて役を務めます。
しかしその献身は、病身の妻にとってはもはや苦役に繋がるものでしかない。
妻はもっと別の「献身」を求めるのです。

夫は妻の求めに応えようとすれば、彼の望まぬ「役」を引き受けねばならない。妻の求めに従うことは、夫が呪詛を負うことに直結する。それが夫の心に葛藤と怒りを引き起こす。

面白い映画ですから、機会があったら観てみてください。
平行連晶
2013/04/30 12:23
おはようございます。

面白そうな映画ですね。
コメント欄で紹介された愚樵さんの言う「役」が、どういう文脈で話されたか、定かではありませんが、「役」について考えてしまいそうです。

「役」が呪詛になる、、、とか、、
「役」を自らに強要する、、、とか
「役」を他者に是認させる、、、とか

あれ、まさか「ヘイトデモ」も、ああいう「役」を何か(ex神)に演じさせられている、、、ってことはないよなぁ・・・とか

いずれにしろ紹介ありがとうございます。是非観たいとおもいます。
毒多
2013/05/01 08:17
えちごっぺさん、どうもです。

お土産の笹団子、すぺーすのいどさんと一緒に美味しくいただきました。

今、スペースのいどさんは私の横で居眠りです(^_^;) まもなく、馬に乗ってのトレッキングに出かける予定です。
愚樵
2013/05/01 13:34
楽しそうですね、うらやましい(笑)
毒多
2013/05/03 08:21
>毒多さん

「属性」に関連して、ちょっと興味深い論考(記事)が上がっているので、紹介させていただきますね。
当該記事より一部抜粋します。

“僕は学者でもジャーナリストでもなく「支援者」だから、本人たちが必要であれば、たとえその裏に近代社会がもつある意味「暴力的カテゴライズ」に気づいていたとしても、それに反対はしない。

■アスペがせっかく市民権を得たのに……

で、そうした暴力的カテゴライズによって安定する障がいのひとつが「アスペルガー症候群」に代表される発達障がいだと僕は思っている”
bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20130503-00024704/

私はこの論考に対して特に付け加える言葉はありませんが、「属性」とは元来当人のためのものではなく彼を取り巻く者たちのためのものであったのでしょう。
属性により括ること・分類することで周囲の者による対象の捉えが安定する。
それは当人の処遇の安定に関わる。

ただし、「属性」は一度括ってしまうと、境界で切り分けられないグレーゾーンがばっさり切り捨てられてしまう。

雌雄の性差など、典型的ですよね。かつては外性器・内性器・生殖腺の差異という最も判りやすい物差しで属性が切り分けられてきた。
こんにちではインターセックスと呼ばれる概念が台頭し、性別は果たして雌雄のみなのかという問題提起に繋がっています。
雌雄に切り分けることで確保されていた安定が揺らいでいるわけですね。そして、この揺らぎによって何かを得られる「当人」がいる。

属性を定めることにより安定し、それに伴い得られるものと喪われるものがあり、属性を取り払うことにより喪われるものと新たに得られるもの(或いは回復できるもの)があるということです。
平行連晶
2013/05/03 21:54
追記です。

>属性を取り払う

これは良くない表現ですね。私を含め、すべての存在はさまざまの属性で括られざるを得ません。言葉によって切り分けられることからは、逃れられない。おそらく取り払うこと自体はできない。

ただし、視点の方を変化させて属性を捉え直すことはできるでしょう。また、括るための言葉を変えるという手段もあるかもしれない。

「精神分裂病」という病名は、こんにち「統合失調症」という語に置き換えられています。
私は当初、「統合失調症」という言葉がしっくり来なかった。意味不明な造語のように感じました。
しかし今は「統合失調症」の方がしっくり来ます。それは私がこの症状に関する文献を読み、私自身の視点が上書き(更新)されたからです。身内に医療施設関係者がおり、この症状を持つ人に関する話を聴いてはいましたが、それだけでは視点が変わることはなかったでしょう。

例によって取りとめのない散漫なコメントになってしまいました。
繰り返しますが、私を含め人間は言葉で万物を切り分け、分類せざるを得ない生物です。属性は分類と不可分です。

属性の問題は、言葉に関わるたぐいの問題であるというのが、今の私の見方です。
平行連晶
2013/05/03 22:22
毒多さん

エントリーに対してのコメントを今更ですが。

>社会を否定できない以上、つまり属性も否定できない。

このセンテンスに、一部私は不同意なんです。「社会」が「大きな社会」なら完全同意なんですが。

人間に属性が必要になってくるのは、ヒトの関係性処理能力を超えた「大きな社会」を維持するため。関係処理能力内のメンバーしかいない「小さな社会」では属性は生じません。

平行連晶さんが上のコメントで言葉と属性の関係に言及されています。言葉は物事を切り分ける作用を持ちますが、その作用がとりわけ強いのは「書き言葉」。「大きな社会」を維持するには「書き言葉」は必須で、「書き言葉」に習熟することが「大きな社会」の統治者になるための絶対条件。

「大きな社会」で力を持つのは、物事をクリアカットに切り分ける言葉。【属性】はそうした言葉がはじめにあって、現象をその言葉に向かって押し込めることで生じるもの、と言えばいいでしょうか。

それに対して〈属性〉は、現象がまず存在していて、その存在に言葉が後付けでついてくる――といった感じでしょうか。

〈属性〉【属性】を考えるときに、言葉の後先は大きなポイントだと思います。先行する言葉に取り込まれてしまうと、アタメデッカチな【属性】人間になる。それは、右翼も左翼も同じだと私は見ています。
愚樵
2013/05/04 09:20
愚樵さん

わざわざ御丁寧にありがとうございます。
粟島にまだ行ったことのない新潟県人の私ですが(汗)、いつか行こうと思っております。
すぺーすのいどさん、落馬せずに乗れたでしょうか?(笑)
粟島のたべものが美味しいとブログに書かれておられたので、我事のようにうれしいです。
しおかぜ留学の記事、新潟日報でも拝見いたしました。

毒多さん

コメント欄の私的流用お許し下さい(爆)
えちごっぺ
2013/05/04 10:10
>愚樵さん

仰るとおりだと私も考えます。
あえて言葉を足すと、一度「属性」という捉えが身に付いてしまうと、たとえ“関係処理能力内のメンバーしかいない「小さな社会」”を構成したとしても、やはり属性から逃れることが困難になるのではないかと疑っています。

近年ちょくちょく耳にする「ママ友地獄」「ランチ会地獄」なんてものも、かかる症例の一つのように感じます。
属性による選別があり、選別を通過したメンバー同士の中でさらに属性に則った所作が暗黙裡に強要されるような、そんな小さな集団。
平行連晶
2013/05/05 23:54
平行連晶さん

またまた興味深いグログの紹介ありがとうございます。

>アスペがせっかく市民権を得たのに

おそらく客観的に観る「属性」と、渦中にある「属性」では違うのかもしれません。エントリーとしてワタシは明らかに客観的にみている。客観的に観るある種の白々しさは感じています。が、

>「変わった人たちをマイノリティとしてカテゴライズして一定のルールのもとに統率することで、社会そのものを維持していく」ことは仕方のないことなのかなあと思うことで僕は折り合っている。

がね、何かが違う気がする。「ホント」じゃないけど「折り合う」しかない、というのは、ほんとに「仕方ない」のかな、、みたいなね。この「仕方がない」があるとき【属性】を呼び起こすのではないのか、と邪推したりして、、、。

毒多
2013/05/06 08:50
愚樵さん

コメありがとうございます。一応の納得したうえで、ツイッターで紹介の「スクールカースト」を、ザクっと読んでみました。で、またまた考えてしまうことになるのですが、あれは何なんでしょうね?
「関係処理能力内」の閉鎖空間でカーストという「属性」で区分けされる。カーストで区分けされるどこの属性(上位でさえ)も「真に」満足しているわけではなさそうで、「役」を演じているようでもある。(「役」に耐えられなかった上位の生徒が退学しますね・・・)
スクールカーストはあきらかに【属性】だと感じるのですが、現象がまず存在していて、言葉が後付なような気がする。は、いいのですが、、、

人間(社会)は、表面的安定を得るために【属性】をつくる本能がある、ってのは、否定してほしいのですが、考えてしまいます。

毒多
2013/05/06 08:50
えちごっぺさん

読んでいて笑がこぼれるような、フレンドリーな私的流用はまったくかまいませんよ(笑)

毒多
2013/05/06 08:50
エントリーに関連する記事がアップされていたので、ご紹介します。参考まで。

dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/stratified_society/?1368841808
<ママカースト>収入差や生活スタイルで序列化 母親たちを呪縛

こういう事象自体は昨日今日始まったことではなく、包装紙を新しくしましたという趣がなきにしもあらずですが、共同体というか集団が安定化を図るために「属性」を自己設定し排除と収斂を高めていく過程が透けて見えて、面白いですね。

まあ、安定化といっても、常に緊張感をはらんだ「均衡」「結束」なんでしょうが、異質なものと常に向き合う心理的負荷よりはまだしも、というところなのでしょう。序列化に耐えられなくなった人は、自分が安定できる他の階層へ移転するわけですから。

>資産家の“ボス”よりランクの高いバッグは持ってはいけない……暗黙のルールは多岐に

面白いなあと思ったのはこの下りですね。
私もブランド服がかなり好きなんですけど、「意匠に金を払って」いるだけで、社会的な階層を示すアイコンとしてブランド(焼印)を誇示しているわけではない。

記事で書かれているような集団の中では、服装や所持品がIDカードや階級章の機能を果たすわけですね。なるほど。ドレスコードです。
平行連晶
2013/05/18 11:56
おはようございます。

紹介の記事よみました。
ママカーストですか? ほんといろいろありますね。
ワタシが記事中目に止まったのは、

>今は『個性的』って、あまりいい意味ではない。ママたちは同じでありたいし、同じじゃなきゃ許さないでしょう

この辺りの心理ですね。同じであることに安心する。またその同じである集団がステイタスを求める、ある場面では【正しさ】を求める。
それが閉鎖空間であればあるほど、大きくなる。
一番の問題は、そこを閉鎖空間にしたがる層【属性】がある、ということでしょうか。

この閉鎖空間の「閉鎖」度合いは、考え何処かもしれません。
スクールカーストとしての「教室」かママカーストとしての「子育て地域」か、、それとも「国家」か、、、広くなれば組み込まれない要素が増えるとはおもうのですが、、、、
毒多
2013/05/20 08:50

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