毒多の戯れ言

アクセスカウンタ

zoom RSS 「オスプレイ訓練はじまる」・・・問題の本質を確認したい

<<   作成日時 : 2013/03/08 08:28   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 20

 オスプレイが日本で「訓練飛行」を開始したことがニュースで流れていた。
 オレンジとかなんとかとかの色の名がついた訓練コースの近辺に住む人々から「安全性」について不安の声があがる。
 市民運動家は「未亡人製造機」と揶揄し「安全性」を危惧し、テレビのなかの人は、オスプレイがいかに「優れた性能」なのかということと「安全性」について「専門知識」を披露する。
 何かが違うと感じる。問題のすり替えられている。
 もし「安全性」が第一の問題ならば、100%安全であれば許容できるのか? 
 「騒音」が問題であれば100%無音であれば許容できるのか?
 「コスト」が問題であれば100%税金が投入されなければ問題ないのか?
 オスプレイに対する嫌悪感が「安全性」「騒音」「コスト」だけに由来するものか、否か?
 
 「優れた性能」とは、武力(暴力)で他者を殺す、もしくは押さえつけるための優れた性能であるのだろう。あ、ちがう。優れた劣ったではなく、「殺す」(殴る)、牽制する(隷従)性能が第一の問題ではないのか? としたうえで、「優れた」というのは「さらに危険」であると同意である。
 まず、そこを確認することが必要だと感じる。そのことを確認することなく「安全性」「騒音」「コスト」だけを問題にする、もしくはむしろ「安全性」の有無が第一の問題にするのは間違っている。敵認定された他者には「危険」極まりないものだから。
 
 暴力で教育することをできない、と大声でたたくその口で、オスプレイの「安全性」が第一義のようなことを言うことができるのか? 「安全」な暴力を聞いている気がしてたまらない。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(20件)

内 容 ニックネーム/日時
毒多さんのエントリをきっかけに、テーマに則ったような、そうでないようなことをぼんやり考えています。

私はピーコートやトレンチコートが好きで着ています。これらは元は軍服です。軍隊の装備品。
自分が着ているのはもちろん軍装品でなく、これらのディティールを若いデザイナーが今日流行しているシルエットに融合させた意匠の服です。ですから、例えばトレンチコートならば手榴弾を取り付けるためのフラップが省略されていたり、エポレットが無かったりする。
ゆえに軍服そのものではないが、モチーフは軍服と言っても間違いではない。

そこで、オスプレイ。
ちょっと意地悪な表現になるかも知れませんが、オスプレイを、軍服に置き換えてみます。

・どちらも暴力装置(軍隊)の装備品
・どちらもそれ自体は殺傷や破壊の機能に特化してはいない、製造物

で、ですね。「墜落する」「騒音」というのは、製造物としての構造・機構上の欠陥や欠点ですね。製造物が本来具現化を求められている機能そのものではないです。

墜落しない・動作が静粛であるとはどういうことかというと、欠陥・欠点が解消された製造物であるということ。

ところが、欠陥・欠点が解消された製造物とは、より効率的・効果的に殺傷・破壊を行うのを助ける、暴力装置の装備品であることに直結するわけですね。
平行連晶
2013/03/09 23:24
トレンチコートやピーコートに話を戻しますと、これらの前ボタンがダブルになっていたりチンガードが取り付けられていたりするのは、単なる装飾のためではもちろんありませんでした。

兵士が寒冷地で快適に軍務を遂行するのを助けるための、機能です。つまり製造物として良く意匠されたトレンチコートやピーコートは、暴力装置がより優れた暴力装置であるように補佐する装備品であったということです。

軍服ならば、すぐに破れたり着心地が悪かったりすれば装着している本人が困るだけですが、オスプレイは落っこちたり騒音が五月蠅いと他者に被害が及びます。そこが違います。

私が何に引っ掛かっているかというと、暴力装置の装備品であることは、そもそもいけないことなのか…ということです。
オスプレイが負性を帯びるのは、それが製造物としての欠陥を持っている(らしい)からなのか、それとも軍隊で使用されているからなのか。

暴力装置のアイコンとして、負性を帯びているのならば、私が着ているコートは、どうなのか。水兵がピーコートを着ていたのは昔の話ですよ等と言うことは可能ですが、では過去のものであれば、それでいいのか…。
平行連晶
2013/03/09 23:50
あるいは、軍務において現用されていることこそが負性を帯びるというのであれば、軍務に用いられる装備品はすべて、医療器具であれ通信機器であれレーションのような糧食であれ、すべからく負性を帯びるのか……。
平行連晶
2013/03/09 23:59
訂正です。

>手榴弾を取り付けるためのフラップ
→手榴弾を取り付けるためのリング

フラップというのは、トレンチコートの右胸に付いているボタン留めされたフラップですね。
あれは何のために付いているかというと、ライフルのストックを支えてリコイル・ショックを軽減させるものだそうです。
私のトレンチコートでは省略されてます。

…また連投になってしまいました。だらだら書きの悪癖を直すよう、以後気をつけます。
平行連晶
2013/03/10 02:32
平行連晶さん、コメありがとうございます。

コメが長くなるのは気にしないでください。短いコメで真意が伝わらないほうが面倒です。

このエントリーはまさにコメの指摘に行き着くものだと思います。マスコミやら何やらが表面的なこと「だけ」にこだわるので、ちょっと指摘してみたくなったエントリーです。

過日、電話機やらネットワークやらの営業を仕事とする古い友人と遊んでいるときに「インターネット」ももともと軍が開発した云々という話がでましたが、思想的会話がつづく友人ではないので、そこで話が終わりました。
仰るように医療であれ、通信であれ、コートであれ、軍からの派生した技術が民間に降りてくることは多岐多大に亘っている。おそらく、国家から予算が無制限(とはいいませんが)、即「費用対効果」に結びつかなくても予算が途切れることなく降りてくる、という状況があるのではないか、と妄想します。これが他の開発費用ではそういうわけにいかないのではないでしょうか?
でも、だからといって軍=暴力装置を認めるわけにいかない、という意見がワタシのなかにあり、オスプレイが負性を帯びるのは軍隊で使用されるものだから、、、と、いうベースをもつエントリーです。
毒多
2013/03/11 09:02

ところで平行連晶さんが「ピーコート」が好きなのは、デザインそのものが好きなのか、暴力装置から派生したから好きなのか、実用性が好きなのか、実際に暴力装置に付随する実用性が省略されているということであれば、暴力装置がなくとも、そうした実用的なコートはデザインされたんじゃないでしょうか? 他、医療、通信、発電方法etcも軍がなくとも純粋に平和に開発されることも可能とは違うのでしょうか? むしろ「破壊要素」を前提とする技術が転用された発電所の危険性は露呈されたような気もします。

人間が戦争することによるのみおいて技術開発できる、という遺伝子を持つ、、、という命題が、成り立つのか? どうか?に繋がるのかなぁ? 有史以来戦争が途絶えたことはないのは、、、、ねぇ。
毒多
2013/03/11 09:03
>デザインそのものが好きなのか、(中略)暴力装置がなくとも、そうした実用的なコートはデザインされたんじゃないでしょうか?

デザインを「意匠」と解釈した上で説明しますね。
私が好んで選ぶのは、かつての「トレンチコート」「ピーコート」が備えていたディティールを現在の流行を取り入れた意匠により再構成した製造物、ということになるでしょう。
この場合、私がかつての軍装品のディティールを好んでいるとは言えると思います。

では軍装品のディティールであるが故に好むのかというと、そうではない。例えば1951年に米軍が採用した野戦用のコート“M-51”。60年代にロンドンのモッズが好んで着用し「モッズパーカ」という渾名が付きました。昨今は女の子たちがよく着ています。毎日見かけない日はないくらい。
このモッズパーカ、私は着ません。ちなみにM65もN-3Bも着ません。ですから軍装品のディティール全般に関心があるわけではない。

より正確に言えば、「軍装品のディティール」とは私にとって、服の形状にバリエーションをもたらす様々の記号に過ぎない、ということになると思います。
そして、軍装品のディティールという史実そのものが、私にとって特段の感慨をもたらさない、記号と言い得ます。かつて軍装品であったという、単純な史実。それだけ。
平行連晶
2013/03/13 22:52
補足しておきますと、昨今女の子達が着ているモッズパーカとは、もちろん「軍装品のディティール」を再構成した製造物です。
着ている子達の多くは、それが元々軍服であったと知らないかも知れませんね。よし知っていたとしても、そこに負性を感じることは恐らくないのではと推測します。

理由は、これら「軍装品のディティール」は、暴力装置が暴力装置であるが故に要求した単純な機能性・実用性を具現化したものであって、暴力装置の暴力性そのものに因るものではないからです。また、単純な機能性・実用性を要求した実体がいかなる者であったかは、敢えて追及する必然性がない。

オスプレイにまつわる、「墜落」「騒音」という問題が、毒多さんが考えるような本質に向かわないのも、同様の背景があってのことと思います。

オスプレイは暴力装置が暴力装置であるが故に求めた、単純な「機動性」「搬送能力」を体現しただけの機械、です。
この機械はそれ自体により暴力性を担保している、とは言えない。昔風に言えば、「軍馬」ですよ。
人は馬を戦に使役するという「行為」に負性を感じるかも知れない。しかし、軍馬それ自体に負性を感じ取るかというと、何とも言えない。少なくとも私にとっては、馬は競走馬も農耕馬も軍馬もどれも同じ、ただの馬、です。

私が興味があるのは、なぜ毒多さんが暴力装置の装備品に負性を感じ取るか、です。
これは理屈ではなく毒多さんの肌感覚から来るものでしょう。私にはそれがない。オスプレイの墜落もボーイング787の燃料漏れも、原因が異なるだけで、機械の不具合という点で「同じ」です。

異なるのは、米軍が何らかの構造的な不具合の疑われる機種の稼働にあくまで固執することの異常性。それだけです。
平行連晶
2013/03/13 23:41
平行連晶さん、レスありがとうございます。

うーん、解るような、解らないような。感じです。
ワタシの感覚は、製造物が製造物として独立して存在する、とはならないので平行連晶さんの言われることと齟齬が生じるのかなぁ、、、。ワタシの感覚では、なんらかの目的をもって作られる創造物はその目的を付帯する、と考えてしまうようです。つまり目的を内包して存在する、とります。・・・となると、インターネットなどの通信も、医療も、衛星をつかうナビも意識して使っているのか、ということになりますねぇ。そこで違和感を感じないとなると「ご都合主義」になってしまうのか?

戦闘機、核爆弾、ピストルなど直接的な暴力装置も、その物自身は、やはり単に「機械」という存在ということになりますか? 機械・装置そのものを嫌悪しても仕方ないということは解るのですが、どこか違和感を感じる。線引ができるとは思いませんが装置にコメられた意志を露骨に感じれば感じる機械ほど嫌悪するのは・・・、装置にコメられた「意志」に嫌悪感を感じるのか。この嫌悪感は理性ではないかもしれませんね。
確かにエントリーにあるような、ワタシ個人の嫌悪感を他者に強要できるのか、といえば無理のあるエントリーになるのかなぁ?ふぅ。

馬は、装置でも機械でもありませんのでまた別の問題も孕んでそうな気がします。馬に使役させる意志の問題かな? 意志の問題か、意識の問題か、ただの馬なのか、人馬一体なのか、、、、ワタシにはまったくわかりません。
毒多
2013/03/14 16:59
>ワタシの感覚では、なんらかの目的をもって作られる創造物はその目的を付帯する

>装置にコメられた意志を露骨に感じれば感じる機械ほど嫌悪する

毒多さんの感覚は毒多さんの感覚で、良い(好ましい)と思います。その肌感覚を大切にして欲しいというのが、私の率直な気持ちです。
私のような感覚の人間が多いために、今日の世界がかくの如くであるのかも知れませんね。

先日、円空の仏像を集めた企画展があって上野の国立博物館に足を運びました。あそこは中世〜近世の刀剣類を収蔵していまして、江戸時代の刀も常設展示されているのです。

その中に、銘は忘れましたが前田家の何某が試し斬りをしたという太刀が飾られていました。見事な拵えの太刀でした。江戸時代辺りの刀で試し斬りというと、刑死者の屍体を斬ったのでしょう。
私はその太刀をしげしげと眺めながら、一体どんな禍々しさを覚えるか自分の感覚を探ってみましたが、いかなる負の感覚も生まれませんでした。目の前の太刀は、用の美を極めた業物として、ただただ美しく輝くだけでした。

私はほとんどの兵器を生で見た記憶がありません。しかしそれらを直に見れば、間違いなく美しいと感じると思います。それは理屈ではなく、肌感覚がそういうものであるということです。暴力装置云々は、目の前の製造物を前にして、後付けの理屈にしかならないと思います。
ただ、それが好ましいことかというと、そうでもなかろうとも感じます。
平行連晶
2013/03/14 22:27
『田宮模型の仕事』という、田宮の会長が書いた本があります。その中に、ドイツの模型屋の話が出てきます。店のショーウィンドウに戦車の模型を陳列していたら、投石されてガラスを割られたことがあるとか、何でこんな模型を飾るのだと詰め寄られることがあるとか、目を背ける人がいるとか、そんな話が紹介されていました(記憶違いで細部は異なるかも知れません)。

会長は自分たちが戦車の模型を製造していることもあり、そんな話を聞くと胸が痛むと書いていました。

ドイツ人は前の戦争でソ連軍の戦車に街を蹂躙された記憶があり、模型はその忌まわしい記憶を蘇らせるのだろう等といったことも、書かれていました。

「製造物が製造物として独立して存在する、とはならない」領域があるのは間違いないと思います。
ただ、私は幸か不幸かそういう領域を知りません。知らないからこういうことが書けてしまうのかも知れないのです。
平行連晶
2013/03/14 23:01
おはようございます。

いろいろ考えさせられる命題です。
前回コメントをした後も「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺を考えていました。ワタシはこの諺に「本質を掴んでいない戒め」のような解釈をしていました。坊主を憎むのであって、袈裟を憎むのは「滑稽」だ、という意味ですね。果たしてワタシはこれに嵌っているのだろうか? という思索です。
袈裟の欠陥によって迷惑を被ることがあれば、袈裟そのものを問題にすればいい、というのは確かにその通りです。が、しかし、逆に袈裟の欠陥にばかり目がいき、もとの坊主のことを忘れているような気がするのが今回のエントリーです。
うんんん〜ん? 坊主と袈裟の関係かぁ? なんかワタシの言でいけば、袈裟にも坊主の意志というか坊主そのものが染みこんでいるようですねぇ、何か滑稽なのかなぁ? もし袈裟に坊主を先鋭化する機能が組み込まれていれば、袈裟から坊主の本質を暴きだしすことも可能ではないか?、、とかですね。いやいや、あくまでことの本質は坊主自身であるので、いくら先鋭化する機能があっても別に考えるべきものだ、、となるのか?
毒多
2013/03/15 08:45
坊主から切り離されてしまった袈裟を憎むのは滑稽だなぁ、とは思います。コートのようにね。・・・はい、正直に話しましょう。正直にいえばワタシは戦闘機に「カッコ良さ」を感じます。流線型が好きなのかもしれません。感性です。それを否定するワタシもいます。殺人の為の戦闘機に「カッコ良さ」を感じてはいけないという理性でしょうか。個の葛藤の結果、カッコ良さを認めながら存在を認めてはいけない、という矛盾に到達します。理性が勝ってますね。理性が勝つわりには、坊主と袈裟を分けられない。「ご都合主義」で構わないってのは開き直りかな(笑)

別の問題か同じ根なのか分かりませんが、ギターは製造物でもハンドメイドのほうが好きな傾向にあり、道具でありながら使い馴染んだものが良い、ということは強く感じています。
毒多
2013/03/15 08:45
>「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」

坊主と袈裟を引用なさったのは、面白いですね。袈裟を憎しと思うのは、坊主に対して感じ取った負性を袈裟に移染させていると言ってよいと思います。
で、ですね。負性の対極には聖性があります。袈裟に聖性が宿るという信仰は、普通の人が当たり前のように持っているものですよ。呪物崇拝(フェティシズム)です。パワーストーン信仰なんかも、そうですね。天然石のブレス巻いてる人とか、昨今幾らでも目にするでしょう。

聖骸布って、ご存知ですか? 磔にされたキリストの屍骸を覆った布です。只の布だけれども、キリストを刺した聖槍と共に聖遺物としてカトリック教会で信仰の対象になっています。

このことに関して、Wikipediaで興味深い記述を拾いました。
「〜カトリック教會は聖遺物を重視してきたが、宗教改革後、分離したプロテスタント教義では単なる”物”としか看做さないため、槍は教会の隅に置き去りにされ〜」

槍がこのような扱いである以上、聖骸布も推して知るべし、でしょう。ここで注目したいのは、まず先にキリストの聖性を布や槍に移染させてそれらに聖性を感じ取る「呪物崇拝」が生まれ、時代が下り「改革」が起きると、それらは再び只の「物」に戻ったということです。

「製造物が製造物として独立して存在する、とはならない」という感覚は、人間の持つより原初的な呪物崇拝に則ったものであり、「軍装品のディティールは、記号である」という感覚の方が寧ろ、理性によって誘導された感覚なのかも知れません。

私が毒多さんの感覚を「好ましい」と感じるのは、それが原初的でより人間の身体感覚に親しいとどこかで感じ取ったからかも知れませんね。
平行連晶
2013/03/16 12:02
・アグニ/インドの大陸間弾道弾。アグニは炎の神。
・ナイキ/アメリカの地対空ミサイル。ギリシア神話の勝利の女神ニケより命名
・ポセイドン/アメリカのSLBM(潜水艦発射弾道弾)。ギリシア神話の海神より命名
・トライデント/アメリカのSLBM。トライデントはポセイドンが持つ三叉の槍。

先刻のコメントを書いていて思い出しました。人間は核ミサイルを含むこれらの強力な現代兵器に、神や神の携える武具の名を冠しています。これが呪物崇拝でなくて一体何なのか。

思えば、日本神話に登場する三種の神器の内、一つは剣でしたね。残り二つの勾玉・鏡がどちらも実用品と呪物の境界がはっきりしない領域から生まれてきたのに対し、剣だけは純粋な実用品として誕生したものです。他の用途にあったものが転用されたわけではない。それが神器として祀られ崇拝されるようになった。

もともとは神に戦の勝利を祈念したことが、武器・兵器が呪物崇拝の対象となるきっかけだったでしょうが、人間にとって武器・兵器は他の実用品や機械と根本的に異なる存在なのかも知れません。

毒多さんが仰る「本質」とは、軍隊云々の問題よりも、もしかししたら呪物崇拝に関わるものなのでは……。
負性と聖性は表裏一体です。
私が国立博物館の太刀に感じた「美しさ」が本当に単純な「用の美」に対するものであったのか? 自身を省みる必要がありそうです。

楽器についても一言。
かつて数年間楽器を演奏していた経験から思うのですが、楽器というのは案外武具・兵器に近い存在なんじゃないかしら? どちらも身体の運動系を拡張する道具ですし、それだけでなく…。
平行連晶
2013/03/16 12:46
平行連晶さん

遅レス失礼。
楽しい脇道なのですが、
ふと
>毒多さんが仰る「本質」とは、軍隊云々の問題よりも、もしかししたら呪物崇拝に関わるものなのでは……。
と元に戻ると、はて、何だったんだろう?、と混乱してしまいます。まあそこが思索と言えば思索なんでしょうが。

脇道では呪物崇拝の考察をしていますが、元々は、オスプレイの問題の本質は「危険」ではなく、「軍事目的」だろ、、、という指摘です。軍事付随物でなければ、わたしは製造物に思い入れ(観念)を入れるか否かの判断は保留するだろうことから、やはり軍事付随物か否か、また軍事が形骸化した派生物ではなく、直接戦闘行為を為すに直結するかが、ワタシにとってはポイントのようです。

で、呪物崇拝にポイントをおくなら、ハンドメイド好きなワタシは「呪物崇拝」の卦があるのかもしれません。だからオスプレイ(とか戦闘機とか)も嫌悪するんだろう、と言われると、そうなんかなぁ、と違和感があります(笑)
毒多
2013/03/20 09:08
>元々は、オスプレイの問題の本質は「危険」ではなく、「軍事目的」だろ、、、という指摘です

ああ、私の言葉が足りなかったですね。
呪物崇拝について触れたのは、

>何かが違うと感じる。問題のすり替えられている

に対する推測ですよ。
「軍事目的」に対して起こる負の感覚を帳消しにする程度の、別の心の働きがあるのでは?という推測です。

単なる無関心と言ってしまうことも出来ますね。でも軍隊の装備品って、設備投資にも何にもならない単なる消費物ですよ。基本的には生産性がない。それが許容されている。前提として許容されているからこそ「運用上の」安全性という次元での話に終始するわけでしょう。マスメディアにせよ何にせよ。

何故、「軍事目的の装備品」が大衆に許容されるのか。許容の根底にあるのが呪物崇拝なんじゃないのかしら、という推測です。だから私には脇道じゃなくて本道なんですよ。

そもそも不合理な話でしょう。何ら生産性のない物を開発・購入・装備するため&人件費に今年は約1兆9000億円つぎ込むのです。わが国は。

>医療、通信、発電方法etcも軍がなくとも純粋に平和に開発されることも可能とは違うのでしょうか?

毒多さんがこう仰るとおりですよ。でも実際はそうじゃない。現代のテクノロジーの少なからぬ部分は、軍隊からの「お下がり」です。この強力なインセンティブは、何が原動力となっているのか。
平行連晶
2013/03/22 09:23
こちらは脇道です。スルーしてくださいな。

ルポライターの本田靖春が讀賣の社会部記者になりたての頃、動物園をテーマにした企画記事を任されて、チンパンジーにエレキバンドを聞かせたらどう反応するかという企画を立てたそうです。
本田によれば当時エレキブームがあったそうで、彼の新米記者時代というと50年代後半、ロカビリーやロックンロールでしょうか。本田はエレキバンドとしか書いてませんのでジャンルがわかりません。まだガレージロックなんかは登場していなかったでしょうね。

で、上野動物園に掛け合い、エレキバンドを雇ってチンパンジー舎の前で大音量で演奏。
チンパンジーは驚愕、暫くバンドや本田ら取材陣に背を向けていましたが、やおら向き直って何かを投げつけてきたそうです。

糞。投げつけてきたのは、糞でした。

チンパンジーはバンドの音楽を自分に対する「攻撃」と認識したのでしょうね。怒って反撃してきた。

音楽であっても身体に対する「攻撃」の側面を持っているんです。クラブでサブベースと呼ばれる重低音のシーケンスに晒されると、身体まるごと侵犯されている感覚に陥ります。快楽とは薄められた苦痛であるという言葉がありますが、わからなくもないです。
私を含む大衆は音楽の持つ攻撃性に馴化して、自ずから不可視化しているのでしょう。だからといって攻撃性そのものがなくなっているわけじゃない。

裏を返せば、攻撃性があろうとも馴化すれば不可視化されるということではないですかね。
平行連晶
2013/03/22 10:24
平行連晶さん、おはようございます。

ん?理解が悪くてすみません。戻ってしまうかもしれませんが・・・

もともとワタシが
「戦争(嫌悪)」→「軍事目的装備品(exオスプレイ)に憑依」→「呪物崇拝では?」
で、そうかもしれない、あれれワタシには呪物崇拝の気があるのか?

大衆が
「戦争」→×→「軍事目的装備品とはいえ単に製造物」→「呪物崇拝ではない」
(最初の「→×→」は観念が絶ち切れている。)
と、ワタシは理解したのですが、平行連晶さんは
「→×→」ここの断ち切れの根底に「呪物崇拝がある」のでは?と言われるわけですね。

「→×→」というように断ち切れるのではなく、「戦争」→「軍事目的装備品」の部分が「一体化」していて尚且つ「許容」されると見るのか? その深層が「呪物崇拝」となるということでしょうか?

 「呪物崇拝」というのは、観念的、身体的のような気がします。理性とは逆のベクトルですね。アタマとカラダでいくと、カラダ(の自然な動き)になるのか。ワタシが最初にワタシ自身を呪物崇拝?と判断した理由に、「戦争嫌悪」というアタマ・理性がありますが、大衆がもともと一体のものとして「許容」しているのはカラダ(感性)のみで、とすると、人間の「戦う」という本能があり、それが許容していると思えてきますね。人間にとっては「戦う」が感性で、「戦いを回避する」が理性なのか?
「戦う祭事」→「呪物」ってのは多々ありそうですね。

 現状の「軍事」は産業でしょうし、一部のお利口さんが金儲けのために大衆の恐怖を煽っていると考えていますが、それらも人間の本能である「戦うがデフォ」が許容しているのかもしれない。または、お利口さんがそんな人間の本能を巧みに利用して金儲けしている、と考えますが、いかが?
毒多
2013/03/25 09:16
サヨっちはアタマ(理性)に忠実であれ、
ウヨピーはカラダ(本能)に忠実であれ、
ではないのかな?

と余計なことを付け加えてみる、爆!!
毒多
2013/03/25 09:18

コメントする help

ニックネーム
本 文
「オスプレイ訓練はじまる」・・・問題の本質を確認したい 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる