毒多の戯れ言

アクセスカウンタ

zoom RSS 「体罰から」・・・自殺、教育、システム、本能etcを考える

<<   作成日時 : 2013/01/26 09:15   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 54

 さて例の事件から話題になっている体罰である。
 最初に断っておくが、システム内においての教育として「体罰」というものはなく、教育の場で行われたとすれば単に「暴力」であり、暴力を振るう者の自己欲求か、もしかしたら人間の本能のダダ漏れ的発露であり、完全にダメである、と、システム内にいるワタシは考えている。……と、何故わざわざ断らなければならないのか、というと、いろいろ面から思索したいがためのブログに変貌しつつあるということが未だに見えず、自信過剰な視野狭窄で単純な人から勘違いな罵詈雑言がかけられる、そのことを前もって牽制するためなのだ。
 想像するに、例の教師なんかは自らの思い通りになるないことに腹を立て、もしくは腹立ちさえもない本能的な自己満足のために、怒りに任せて、そうでなければ自分のもつ権力の確認のため好き好んでで子どもを殴ったり、また言葉の暴力もまた浴びせ倒しんだろうなぁ、と思う。あの教師も(教師自身のなかでは)信念をもって妙な自信をもっていたんだろうね、だから暴力も暴言も教師自身にとっては正当化されているんじゃないのだろうか? ・・・これね、他人のふりみて我がふり直せ、じゃないけど、ブログなんかで議論するなかで、たとえば最近であれば「体罰」を完全否定しながら、自分の信念と違う意見や違う階層で話しているものに対して、「怒りにまかせて暴言を吐く」って人がいたら、それはあの教師のメンタリティと同じだから気をつけたほうがいい。まさか「体罰」否定する人にそんな人はいないと思うけど。でも、どっかの市長みたいに怒りにまかせて(または自己満足のために)権力を振う人もいるから、もしかしたら、市長同様、自分を振り返れない人もいるかもね。まったくもって同じ穴のなんとか、、、、である。
 いずれにしても他所のまっとう(システムど真ん中)なブログとは違うアプローチをするので、気分の悪くなりたくないまともな人は、読まないほうがいいよ、とハッキリ警告しておきます。

 ありふれた「体罰はダメ」の他にちょっと考えたいのは自殺した生徒のこと。このことを書くと死者に鞭打つとか、完全な被害者を批判するタブーとか、なんとなくアンタッチャブルな空気が充満している? 空気が読めず書いてしまうと、死ぬほど苦しんだ可哀想な生徒の気持ちを想像することさえできない鬼畜に祭り上げられるだろうね。はいはい、鬼畜で結構、あたしゃ自分の息子のためにも考えずにいられないんだから。
 彼は何故自殺したんだろう。まさか決意の焼身自決のように「体罰を告発」するためか、または暴力教師に復讐するために命を掛けたわけじゃない、と信じたい。信じたいのだが、体罰に苦痛を感じていた、というメモなんかが遺されていたことからそうした側面も多少はあったのかな? もしそうであれば、これだけ社会問題になったのは成功かもしれないし、教師への復讐もシステムのなかで失うものが多いので成功かもしれない。でも、そこに彼はいないのである。自殺以降は、彼自身の「生」がない世界での出来事なのである。彼の「生」にとっての解決は永久にできないのである。他人は無念だっただろうね、と涙するが、それさえも彼が知るか、どうかは解らない。彼にとっての「生」の問題は、彼の「生」のなかでしか解決できず、「生」から無になってしまった。とりあえず、今「体罰etc」で苦悩している人に言いたいのは、自殺はやめようね。自殺以降は本人にとっては「無」でしかないのだから。まあ、命を掛けて、ということがいつどんなときも無意味ではないかもしれないが、「体罰の告発」は「生」のなかで行えるだろうし、実際多くの問題(体罰以外での苦悩を持った人)で「生」のなかで闘っている人はゴマンといる。少なくとも一人の暴力教師への復讐なんて命を掛けてやることではない。

 彼が自殺したのは「告発」や「復讐」ではなく「体罰」と呼ばれた「暴力」に、どうしようもなく追い込まれたんだろう、と想像する。苦痛!! まさに苦しく痛く、死を決意するまで追い込まれた。逃げ出すこともできずに自殺した。いや、引き返すことのできないとことんまで逃げてしまったのだが。とことん逃げてしまった、、、彼はオノレに苦痛を与える「体罰」を否定したかったんだと思う、でも結果として、彼のアタマは彼のカラダに究極の「体罰」を与えてしまった。あれ? カラダが、アタマに体罰をあたえたのか? どっちだろう? 
 アタマ(システムに依存して思考する)が、カラダ(自然)の苦痛から逃避させるために、殺したのか、本能的にカラダが、アタマをシステムから逃避させるために、殺したのか? 実は後者なのかな、、、とすると、アタマでする「告発」「復讐」なんかではないな。人間が究極の逃避をさせるための行為を本能とするのだろうか???

 彼はどうすればよかったのか? 逃げればよかったのだ。トンコである。彼は苦痛からの逃避を計った。それは究極の逃避をいきなりしてしまった。逃げればよかった、とはいえ、システム外どころか「実在」からの究極の逃避のことではない。
 彼にはシステム内にいながら、逃避の道はいくらでもあった。たった一人の暴力教師からの逃避などさほど困難なことではない、と思うのは、ずっと逃げまくってきたオッサンの考えで、彼にとっては、その世界が「全て」だったのだろうと想像する。システムから逃げるどころか「生」から逃げちまったのだから。
 けっして「生」に愛想つかして逃げたのではなく、未練を残して逃げたと思う。システムがなければ「生活」できないのかもしれないが、システムの辺境でも「生」きることはできる。むしろ辺境のほうが解ることが多い。という教育はされないんだろうね。システムのなかでどうするか、どうシステムの歯車になるのか、という教育しかされない悲劇なのだ。しかも彼のおかれた位置は、社会というシステム中の、さらに学校というシステムの中の、さらにさらに運動部というシステムなかという、システムのなかのなかのなかの、、、、雁字搦めの世界が全てだった彼。「その世界観は間違いだ」とシステムの学校教育が教えることはできない。自己矛盾になるからだ。システムが構築する教育にシステムの外に逃げることを教えることができない。ではどうするか、自分で求めるか? もし敢えてシステムに拘束されない教育が出来るものがいるとするなら、親なんだろうな、とは思う。教育というよりも、ちゃんと逃げ場になってあげよう。と、自分に言い聞かせる。

 もうひとつ考えたいのは「暴力」そのもの。「体罰」という「言葉」をつくりだし「暴力」を正当化したいほど、人間は「暴力」と無縁になれないのだろうか?
 野生としての人間(カラダ)は、怒りを覚えるとその対象にむかい暴力(暴言)を振るうのは天性のものなのだろうか? また自己満足を得るために対象にむかい暴力(暴言)を振るうのは自然なのだろうか? 暴力がダメだ、というのはアタマ(システムの中のルール)によってなのだろう。野生動物のように暴力によって「生き残る」にならないようにシステムがある。だからシステムを否定することはできない。あれ?、いやいやちょっとまてよ。野生動物が対象を傷つけ、殺し、食らう行為を「暴力」とはいわないよな。人間が人間に対して、食らうではなく、相手を傷つける行為を暴力というな。なぜ傷つけるかといえば、「怒りにまかせて衝動」「優位に立ちたいという願望」「優位に立っていることを自覚する」あたりか。これらは本能なのだろうか? 野生生物のなかにもこうした行為は見られる、とすると、人間にとっても本能である可能性もある。この本能を許さないシステムは、本能の否定であり、かといって本能を完全に否定することができずに葛藤は永遠につづくと考えられるな。システムによってどれだけ規制しようが暴力が無くなることはなかったし、これからも無いだろう。
 「体罰」と言い訳を付け正当化する、また別の言葉におきかえ正当化することが永遠に続くなら、それを前提に「見抜く力」をつける教育が必要となる気がする。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(54件)

内 容 ニックネーム/日時
こんちは!

どくたさんらしい切り口の記事ですね。
こうゆうの好きです。

>彼は何故自殺したんだろう。…

詳しいことを知っている訳ではないですが、私は彼は死に至ったのだと思います。
システムからの絶望光線はあらゆる角度から様々な強さや種類で放たれています。
なので誰もがその光線に当たってはいるのですが、運や防御で何とか死に至らない程度に納まっているだけなのではないでしょうか?
想像でしかないですが、彼は受けた攻撃が予想より強くて防ぎきれなかった上に、きっと急所に当たってしまったのでしょう。

例えば、大きく報道などされる訳もないでしょうが、昨年末の衆院選の結果を知り、それに絶望して自殺した人が、日本中どこにも居なかったとは、私には思えません。
すぺーすのいど
2013/01/26 12:27
つづき

>もうひとつ考えたいのは「暴力」そのもの。…

これはなかなか難しいのですが、私は「暴力」と言うのは物理的な行動のみを指すのではないと思うのですね。
私はいわゆる否定されるべき「暴力」というのは「ハラスメント」のことだと思っています。
「ハラスメント」ですから、じゃあ対象は人間どうしだけか?と言われると、私はそうとも言い切れないのかな?と思います。
動物の虐待というのも最近はよく耳にしますよね。
スーパーで安売りの肉を買うのは実はハラスメントに加担しているかも?です。
せめて口にする前には感謝の「いただきます!」はしっかりしたいものですね。

では人間以外の生き物どうしでは「ハラスメント」はあるのでしょうか?
難しいというか考えてもしょうがない気もしますが、ただ、ライオンは空腹を満たすためにシマウマを狩ることはあっても、ライオンがシマウマを絶滅させてやろうと思って狩をしているとは思いません。それが地球上最後のシマウマを狩った場合であっても。
羊だって牧草を根こそぎ喰うことを目的にしてはいないでしょう。

>「怒りにまかせて衝動」「優位に立ちたいという願望」「優位に立っていることを自覚する」

本能かどうかを問う前に、なぜ「怒って」いるのか?なぜ「優位」に立ちたいのか?は考えるべきですよね。その理由をうわずった声で言い訳や正当化するようであれば、それは「ハラスメント」なのでしょうね。
すぺーすのいど
2013/01/26 12:28
また自分語りから入ります。ウザイかな?

だいぶ前ですけど、実家にいた頃つがいのセキセイインコを飼っていました。雛から手乗りで育てた。片方は14年(17年だったかな? 忘れた)生きました。獣医がギネス級だと驚いていました。

ともあれ、「つがいで」飼ってきたセキセイインコ。
成鳥になっても全くつがいになる気配なし。片方が折々にもう片方を苛める。つつきまわして出血させたりするし、水を換えると必ず自分が先に飲んで水浴びまでしてしてしまう。完全ジャイアン−のび太状態。
おかしいだろと言うことで買ったペット屋に持っていったら、「こりゃ両方雄ですな」

勘弁してくれよ。

毎日新しい飼料を足して、粟殻を吹いて、水換えもして、ボレーも定期的に補給して、2羽で暮らしていくには十分すぎるだけの食環境を与えても、「cage」の中に入れられたらインコは暴力を振るうのです。
しかも彼らはそこを自分達の帰るべき巣だと理解している。部屋の中で遊ばせてからケージの戸口に持っていくと、2羽共いそいそと「檻」の中に戻っていく。苛められているほうもね。
平行連晶
2013/01/26 13:03
で、そんなジャイアン−のび太な2羽のインコは、普段ケージの端と端に離れて眠っていました。しかし凍える季節が訪れると身を寄せ合って暖をとり、眠る。もともと群で生きる鳥ですから、野生でも寒ければそうして眠るのでしょう。

この小さな群の中で行われている暴力は
「縄張りの確保」
「序列の(再)確認」
これら2つでしょう。

群をなす動物や鳥の間では「モビング」という現象が見られることがあります。力の弱い個体に対して複数の強い個体が暴力を振るう。
群は個体が生きるための大きな助けになる。しかし個体には止み難いテリトリー確保・序列確認の欲求がある。
おそらく群を形成する動物にとってのジレンマです。
平行連晶
2013/01/26 13:47
人間に関する思索については、毒多さんのエントリに私のほうから付け足すことは何もありません。強いて付け足すとすれば、人間は設定された状況によって見解を都合よく変えがちな生物であるということ。
たとえば、尖閣問題のような局面であれば「システム外のシステムからの暴力に対しては暴力で抗するべし」と考える者が、教育現場に関しては「システム内の下位者は上位者からの育成管理を目的とする暴力に忍従すべきである」と主張したりする。
そして彼は「暴力」という言葉はいかにも物騒
なので、前者の暴力を「実力」、後者の暴力を「体罰・しつけ」と呼称する。このように名前を変えることで、自他に対して「剥き出しの現実」と対峙(による苦痛・懊悩)することを回避させてしまう。
かかる「欺瞞」に耽溺するのは人間だけでしょうね。

おそらく自殺した少年はこの欺瞞を論理的に読み解き、他者を説得する回路を持つ機会があたえられなかった。そもそも子供が大人を説得する機会など、現行のシステムでは許されていません。
体育科に在籍するということはスポーツ推薦ですよね。同年代の生徒に比べて相当身体能力が高かったはずです。でも、鍛えられたその強い身体は彼を生かすことが出来なかった。

体育は、個体の生きる力を高めるために修めるはずのもので、それが少年を殺した(生きる力を育てるどころか枯らしてしまった)。
本末転倒にして体育の敗北なんですけれども、体罰が体育の一部として常態化していることからは目を逸らして(本音のところでは容認して)、今回も目に留まる部分だけを剪定して終わる流れでしょうね。

体育は、体罰に耐えうる・体罰を容認する人間を量産し、サド・マゾヒスティックな支配と隷属のシステムに供給する役割を果たしているに過ぎない。これに目をつぶれば、何も変わりません。
平行連晶
2013/01/26 14:10
自立には〈自立〉と【自立】とがある。
〈自立〉であれ【自立】であれ、自立が出来ない人間は絶望に至ることになる。

〈自立〉は、イコール〈依存〉。「助けてください」という言葉を発することが出来ること。
【自立】は、イコール【正当化】。「私は正しい」という言葉を発することができること。

〈自立〉であれ【自立】であれ、「自立」という字義とは裏腹に、相手が必要。〈自立〉の場合は〈依存〉できる〈個人〉。【自立】の場合は、【正当化】を承認する【システム】。

体罰教師は教師という「立場」を【システム】から承認されることで【自立】をし、その【自立】をさらに確認するために生徒に暴力を振るった。その結果、生徒を死に至らしめ、教師は【システム】からの承認を剥奪され、【自立】を失うことになる。

自殺した生徒は、【自立】を【暴力】によって妨げられていたことは間違いない。

【暴力】とは、【自立】も〈自立〉も奪う行為である。その行為の内容が身体的な実力行使であれ、言葉であれ、【暴力】だ。

一方、【自立】への回路を抑制し、〈自立〉への道を促す行為もあるはずだ。それを〈ふるまい〉と呼ぶことにしよう。

いわゆる「しつけ」は、そもそも〈ふるまい〉であったはず。身体的実力行使を伴う「愛のムチ」という形をとる〈ふるまい〉は、私はありえると思う。

〈自立した個人〉の行為は〈ふるまい〉になる。【自立した個人】の行為は【暴力】になる。
愚樵
2013/01/27 05:28
>いわゆる「しつけ」は、そもそも〈ふるまい〉であったはず。身体的実力行使を伴う「愛のムチ」という形をとる〈ふるまい〉は、私はありえると思う。

仮に「愛のムチ」なるものがありうるならば、子供から親への、生徒から教師への、部下から上司への「愛のムチ」が容認されてしかるべきですよね。親/教師/上司、いずれも学びの不要な存在ではないはず。学びとは「下知」する・される関係において生じる類のものではない。

にも拘らず現実には、生徒が指導能力がない教師・コーチに「愛のムチ」を振るう・「しつけ」る事例など絶えて聞きません。現実に振るわれる「愛のムチ」とは、序列を根拠に発動する行為の域を出ないと思われます。

仄聞するところによると、世には「体罰の会」なるものがあるとのこと。こういう会を主宰する人たちは、自分自身に「体罰を受ける権利がある」とは微塵も思っていないのでしょう。
平行連晶
2013/01/27 06:02
私は体育というものは本来、この動画に出てくる男が持つ技能のような生存能力の開発を助けるためのものであるべきだと考えています。
生きることは身体を駆使することであり、体育とは身体の使い方の基本を教えることに他ならない。
www.youtube.com/watch?v=Ko3OHo76TKc
www.youtube.com/watch?v=DpIKwJ8NE_M
www.youtube.com/watch?v=NXSJCvRYkGs
www.youtube.com/watch?v=rE1z4gN_VP4

ただし生存能力がどういう方向に開発されるかは、本人次第。また、「正しい」生きる力が身に付いたかどうかを評価する基準などありえず、またあってはならないと考えます。そんなものは身体という多様な個性に向かって特定の生き方を強要する行為にしかならない。

現行の体育というのは所詮「軍事教練」の延長線上にあるものに過ぎません。兵隊を量産するためのカリキュラム。ライン生産される製品のごとく、共同体の部品として機能しうる均質な身体能力を付与させるためのカリキュラム。
兵士に暴力を駆使させるために暴力(体罰)が用いられていたことは言わずもがなです。根底に同じ思想が通うカリキュラムが、同様の内容から構成されるのはまた言わずもがな。
自衛官に自殺者が極めて多いことと、今回体育科の生徒から自殺者が出たことはまったく同根と見るべきです。
平行連晶
2013/01/27 06:34
「暴力論」は難しくて手に余るからパスして、被害高校生が自殺したことへの感想。

「自殺するのは弱虫」みたいな俗論とか「体罰の他にも原因があったはず」という推測への警戒感というのは、わたしのいきつけのブログなんかでもあるわけです。そうした警戒感は当然あることだろうと思う。でも、それが自殺というケースのブラックボックス化だったらそれもちょっとやばいかなと思う。
すぺーすのいどさんの
>想像でしかないですが、彼は受けた攻撃が予想より強くて防ぎきれなかった上に、きっと急所に当たってしまったのでしょう。

>例えば、大きく報道などされる訳もないでしょうが、昨年末の衆院選の結果を知り、それに絶望して自殺した人が、日本中どこにも居なかったとは、私には思えません。

という想像力の羽ばたきは大事だと思う。
もっと怖い想像も思い浮かんだけど……。
kuroneko
2013/01/27 12:45
すぺーすのいどさん、こんにちは。

カンタティモールはどうでしたか? また機会があれば感想を聞かせて下さい。

>本能かどうかを問う前に、なぜ「怒って」いるのか?なぜ「優位」に立ちたいのか?は考えるべきですよね

まさにそこを考えたいと思っていて、本能かどうか問う「前」ではなく、「本能」か「【システム】そのもののが原因」か? を考えたかった。
何故?と問うということは、理由があり、しかもシステムのなかに(原因)ある、と思えます。もし本能であれば、理由はなくなってくるからです。本能であるとすると、システム(道徳や倫理も含む)はその本能を抑えるためにあり、システムの捉え方が変わってくる。そこを整理したかった、ということもあります。
おそらく、本能の行動を制御するためにシステムがり、本能の行動と制御の矛盾をかかえますので、システムが万能になることはありえない。
かといって、システムによる本能の制御がなければ、人間の社会はなりたたない。スムーズに成り立たせるための〈システム〉は、本能に悪用され容易に【システム】になりうる。

そうしたなかで、人が【システム】の犠牲にならずに育つには、やはり「見抜く力」になるのかな? どうなんでしょうね。
毒多
2013/01/27 16:17
平行連晶さん、こんにちは。

ウザいことはないですよ、っていうか、エントリーの「ある部分」は完全に平行連晶さんに語りかけていますし(笑)

>「縄張りの確保」
>「序列の(再)確認」

これは人間の本能でもあるのかどうか、知りたいところですね。
現実世界では共に散見できますが、それが本能ゆえか、システム故か? 
本能なので、システムによって制御している、って気はしていますが、どうなんでしょうね。制御されていても、例えば家父長制etcのように固定するように制御されているシステムもあり、やはり、都合により変動するのがシステムといえるでしょう。で、権力の都合によって変動すると【システム】となる。
毒多
2013/01/27 16:17
愚樵さん、コメありがとう。

〈自立〉と【自立】、、うーん解りやすい、ストンとおちる。
〈自立〉イコール〈依存〉というのは、安冨さんの例の本ですね。〈依存〉せずに自分で解決しろ、という教育がなされているなかで、〈依存〉するのは困難なのかもしれません。安冨さんも相当齢をくってから気づいたようですので、高校生には困難極まりない。しかも【運動部】ってのもあるでしょうし。それにやはり【システム】と対立していることがポイントですね。子どもが「助けてください」というまえに、親が〈依存される〉関係をオープンにできないものか、と考えてしまうわけです。これも〈依存〉同様に難しいのかもしれませんが、しなければならない、でしょう。
ところで【システム】ばかりが目についてしまいますが、〈システム〉もあるはず。【システム】から〈システム〉へ以降できれば、多くの問題も解決出来る気がして来ました。もしかしたら愚樵さんの言う「里山」も〈システム〉ってことですか?

余談ですが、安冨さんの本は「生きる技法」でしたっけ? あのタイトル「生きる技能」のほうがよかったんじゃないんかな(笑)

「愛のムチ」〈ふるまい〉は、うーん、どうかな? ちょっと考えてみます。

毒多
2013/01/27 16:17
再び、平行連晶さん

>現行の体育というのは所詮「軍事教練」の延長線上にあるものに過ぎません。

うーむ、大胆な、というか、【体育】ってのは、そんなものなのかな。
そういえば、行進なんかの行動のときに規律を重視するみたいな感じはあって、そこが重要だった気もするね。そこを特化した部活から発した問題というは、システム内の問題としては重要かもしれませんね。
毒多
2013/01/27 16:18
kuronekoさん、コメありがとう。

貴ブログのコメ欄でちょっと考え始めた「自殺した学生」をもとに思索してます。残念ながら、話し(の次元)が解らない人が書き込みはじめましたので、不毛になることを避け、弊ブログですることにしました。この話題が落ち着きしだい、おじゃますることにします。

>「自殺するのは弱虫」みたいな俗論とか「体罰の他にも原因があったはず」という推測、などの短絡的なことを言っているのではない、ってのは読み取って頂けると信じております。というか、どこのブログか知りませんが、そんな警戒を敢えて言わなければならないのかぁ、、、なんとなく哀しいなぁ。

自殺そのもの、体罰(暴力)そのもの、を考えなければ答えはでません。
残念ながら【システム】前提での、表面的な浅はかな提案に効用があるとは思えません。

暴力論は手に余るからパスということですが、今回の件で、体罰が実質的に暴力とするなら、ここを考えることは大切だと思いませんか? 人間にとって暴力はなくなるものか、どうか? どう思います?? ワタシはここを考えずに先にすすめませんでした。


毒多
2013/01/27 16:18
>学びとは「下知」する・される関係において生じる類のものではない。

もちろんその通りです。〈学習〉とは、他者とのコミュニケーションを通じて自身が変化すること。自身は変化せず、学習するフリをして、相手の変化だけを誘導するのは【ハラスメント】です。

「愛のムチ」があり得ると考えられるのは、〈学習〉を促すコミュニケーションの手段に特に限定はないと思われるから。身体的実力行使も、行使した者の〈学習〉を伴っているのなら「愛のムチ」となる。

自身の〈学習〉を伴った実力行使は、人間以外の生命と関わっていると、よく実感できるところでもあります。他の生き物は言葉が通じませんから、身体的コミュニケーションしか手段はない。そうしたなかで、実力行使は、危険ではあるが大変有効な手段。

私はヒトは他の生き物とは一線を画すという見方には賛同しません。言葉を話す特殊な動物としかみていない。動物に「愛のムチ」があり得るのなら、人間にもあり得る。そう思うだけです。
愚樵
2013/01/27 16:51
>愚樵さん
>自身の〈学習〉を伴った実力行使は、人間以外の生命と関わっていると、よく実感できるところでもあります

これは、或いは犬のことかしら? 違っていたらごめんなさい。謝ります。

私も犬を飼っていましたが(後に猫も飼ったがこれは妹が面倒を見ていて私はほぼ遊び相手のみ)、犬が身体的な「ふるまい」を従順に受け容れるのは、行為者をボス(上位者)であると認めている時だけですよ。

愚樵さんがもし犬たちに身体を介したアクセスにより躾を行った場合、犬たちが従うのは、愛のムチでも何でもなく「ボスである愚樵さん由来の命・禁則」だからです。
私が飼っていた犬は、家族の中で一番私になついていました。しかし「躾」を行う者として認めていた相手は私の父だけでした。
犬は私の父が群の最上位者で、私は序列において父の下位だと理解していたから。
だから父が叩いたりして教えたことには絶対的に服従した。私が父を真似て叩いたって、にべもない。ガン無視。
もちろん父も私も危険なものを犬が誤飲して死んだりしたら大変だから、とっさに叩いたりするのであって、行為に対する「罰」ではない。制止です。

そもそも、動物に行為−罰を因果関係として解する能力が備わっているかどうか、わかりません。罰と言う概念があるのかしら。

猫の場合は、面従腹背というか、躾に従うふりはしまう。とりあえず飼育者の目の前では禁則は犯さない。見ているところでは。
そして、躾に不満なら必ず報復してきます。大事な靴やテレビの裏に放尿したりとか。
おそらく序列の認識が犬よりも緩い。服従を好まない。単独性がより強いからと思われます。
平行連晶
2013/01/27 18:59
訂正。

>躾に従うふりはしまう→躾に従うふりはします

ちなみに犬において誰がボスであるか決めるのは、従う側です。下位者が己の意思でついてくるから群になる。俺が一番強いんだと力を誇示したところで、「あんた強いだけ。ボスじゃないわ」と思われたらそれで終わりです。

人間の社会では、システムが担保し序列に権威を付与することで、下位者に「こいつがボス。お前従え」と命じているだけ。ボスはシステム。下位者が「この人を俺のボスにしたいよ」と思ってボスを選ぶわけでも、選べるわけでもない。

私が犬だったら、毒多さんか愚樵さんをボスに選ぶよ。タイプは違うけどどっちもいいボスになりそうだし。
平行連晶
2013/01/27 19:14
平行連晶さん

私は現在、馬の「調教」のトレーニングをやっているんですがね。

体が人間よりも圧倒的に大きな馬を自由に操る。暴力的な行いを多々やりますよ。代表は
ハミかな。金属の棒を加えさせて、ひもをつけて引っ張るんです。馬は痛いから、引っ張られた方向へ動こうとする。

でも、そういった苦痛だけでは馬は従わない。あちらの方が馬力は圧倒的にあるんだから。嫌なら、一時的な痛みを我慢して、人間を引き倒そうとするし、できる。

もちろん。人間は賢いですから。もっといろいろな手段を駆使して馬を痛めつけることもできます。でも、それをやると馬の心は徐々に死んでいく。

人馬一体と昔から言います。馬は人と一体になれる生き物だそうです。それは馬の「愛の形」がたまたまそうだからです。しかし、心の死んだ馬と一体になることはできません。

犬が人間に従うのは、彼らがもともと持っていた「愛の形」がたまたまそのようなものであったから。

>犬たちが従うのは、愛のムチでも何でもなく「ボスである愚樵さん由来の命・禁則」だからです。

これこそ人間の勝手な解釈に過ぎません。「ボスの命令に従う」は彼らの「愛の形」です。彼らは強制的に従わされるのではなく、自発的に従うのです。
愚樵
2013/01/28 04:53
「縄張りの確保」
「序列の確認」

これらは、実は人間の「愛の形」です。愛が暴走するから【暴力】になる。

暴走はバランスが崩れたときに起きます。何かが欠けるとバランスがこわれるんです。では、何が欠けるのか?

「仲間の必要性」

この世に生まれ落ちたヒトにとって、もっとも重要な仲間は母親です。母親がいなければ赤ん坊は生存不可能だから。ヒトという種を尊像させるため、母親は我が子を愛するという「愛の形」がヒトにはセットされている。母性愛です。

一方、「序列の確認」は父性的です。社会が大きくなると、父性原理が増大して母性が圧倒され、バランスを崩す。そこを関知せず、序列を「正当化」してしまうことから【暴力】が発生する。

そもバランスがとれていれば、つまり自然であれば、「正当化」なんて必要ないんです。〈自立〉は、ヒトの持つ「愛の形」なんです。
愚樵
2013/01/28 05:04
>人間にとって暴力はなくなるものか、どうか? どう思います?? 

 暴力を考えることは重要ですが、人間の思考には、「棚上げ」ということがあります。
 法律を考えるうえで、人間とは何かを考えることは重要だとしても、その解決がつくまで法について何も考えられないということはない。
 経済を論じるのに、効用が何かは基礎になるとして、「人間にとって快・不快とは何か」って哲学的疑問を考えなければ経済学が学べなかったり、論じられたりできないわけではないんです。
 日常言語の使用範囲で、暴力という語の意味が議論相手と共有できるであろうと見極めがつけば、「暴力とは何か」を深く論じないで、体罰問題でも「しごき」でも、街中のトラブルでも考えることはできます。
 平行して、根源的な思索をすることは大事で、トータルとしてどれもあるのが人間の思考だと思いますが、まあその辺は、一人でやらないでもいい。

 ソレルでもベンヤミンでも、sv400s_dracin さんをそそのかして、読ませてリポートをコメントさせて済まそうかなんぞと無精な算段。

 「人間にとって暴力はなくなるか」という問いは立ててもいいけど、役に立つかどうか。「人間の社会で犯罪はなくなるかどうか」って問いだって、問いそのものは重要だけど、答えがあったらかなりばかばかしい答えだろう、というのが、わたしの感覚。(理想的な共産主義になったら社会矛盾がなくなるから犯罪もなくなる、って形の答えを考えてみると、なんとなくわかってくれるかしらん)
kuroneko
2013/01/28 10:52
>「縄張りの確保」
>「序列の(再)確認」

先日だったかな?テレビで「ダーヴィンがきた」という番組を観ていました。アマゾンの流域に棲むオオカワウソのはなしで、群れをなすこと、縄張りの確保することは明確にテーマになっていました、序列のこともあったかな? オオカワウソでなくても上記ふたつはあるでしょう。ということでワタシは「生きるための本能」と考えます。
上記を遂行するために、「争い」になります。また弱者は生きられなくもなる。ここを解決するために「システム」があり、すでに定着している。逆に本能ではなく、システムから行動させられる、というところまで来ている。けど、ときおり本能が顔をみせるのが人間ということになる。

「母性」という言葉自体はルソーが考えだした、と聞いたことがあります。社交遊戯のために育児放棄した母親が社会問題化したときのようで、それを母性という言葉で育児をするように仕向けた、とか。その育児放棄というのもシステムがなせるわざで、もともと生物として親(オスメスのいずれか、もしくは両者)が育てるというのは本能でしょう。本能が一旦システムによって阻害され、阻害されたからシステムで戻そうとする、ってのもなんだかなぁ。ある本能は阻害されないように生かして、別の本能はシステムで規制する、、、ってことになるのか。

そういえば、「母性」云々を本で読んだのは、(息子の)「保育園時代」だった。当時(このブログでも書いたが)、子育ては親と社会と保育の専門家が協同して行うべき、、、という、ことを書いていましたが、これは結構、システマティックなことだと、あらためて考えています。

エントリーから離れてしまったな(笑)

毒多
2013/01/28 13:28
kuronekoさん

はい、言われることは解ります。何もかもを答えのない哲学的な思索にもっていっては、何もすすみません。なので、システムにマッチした議論や、応急的な問題解決法に意味がないとは思いません。でも、そうじゃなく考えてしまうのは「性分」なのでしょう。
この「性分」を浅いとか、バカとか、、、言われてもねぇ、、、って、誰にいってるんだろう(笑)
結局ブログコメ蘭なんかだと、「性分」による住み分けになるんでしょうね。たまに我慢しきれなくなって、ちょっかい出すのは別にいいんだろうけどさ。

それにしても
>理想的な共産主義になったら社会矛盾がなくなるから犯罪もなくなる
は面白い。万人にとって「理想的」なら無くなるのかな? なくならなかったりして・・・。
毒多
2013/01/28 13:29
www.google.com/gwt/x?gl=JP&hl=ja-JP&u=http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130119/waf13011912000012-n1.htm&client=ms-kddi-gws-jp&source=sg&q=%E6%A1%9C%E5%AE%AE%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E9%83%A8%E5%AE%9F%E7%B8%BE
(記事を見れるかな?)

大学硬式野球部出身から言わせて頂くとですね…

部活指導で体罰を使う指導者には大きく分けて二通りのパターンがあり、『偶発的』に使う者と『意図的』に使う者がいる

偶発的とは…選手の普段の練習態度や試合展開等によって、その場の空気で指導者が自身の感情を抑え切れずに「つい?」体罰でもって選手相手に自らの意思を伝えること

意図的とは…叱られ役等のチーム内でヒエラルキーをわざと作り、ああいう立場になりたくないという選手達の心理を悪用して、チームを自らの意図通りにしようとする、体罰を一つのチーム運営技術として利用すること

桜宮高校バスケ部顧問は、記事を読む限りは明らかに後者(下手をすると両方?)に分類される。
どちらも問題ありだが、後者は特に悪質と考え…

まず…この顧問は体罰の是非に関係なく、自らの指導技量による結果責任において、教育現場及びバスケ界から去るべし!
NAN
2013/01/28 22:54
>愚樵さん

馬でしたか。やはり私の思い違いで、申し訳ない。
馬の面倒はまったく見たことがありませんし、愚樵さんの見解は概ね受け容れます。大きな異論はありません。
2つだけ。

>これこそ人間の勝手な解釈に過ぎません

これは人間の解釈ではなくて、私の解釈です。だから勝手なのは、私です。愚樵さんが遠慮した表現をなさったのかもしれませんが。

>「ボスの命令に従う」は彼らの「愛の形」です

私には「愛の形」というのは難しくて、理解できているかわかりません。愚樵さんの仰るとおりかもなあとは思います。ただ、私の実感では、犬にせよ猫にせよ、もう少し二枚腰というか何というか…強かな駆け引き・計算高さみたいなものが窺えることがままありましたね。
平行連晶
2013/01/28 23:22
>毒多さん

コメントで私はこう書きました。
>部屋の中で遊ばせてからケージの戸口に持っていくと、2羽共いそいそと「檻」の中に戻っていく。苛められているほうも

インコについて言えば、自然下では「檻」の中にはいないわけです。群における個体のテリトリーのサイズも、寒暖や繁殖期かそうでないかで大きくも小さくもなる。
無秩序な攻撃(暴力)に常に支配されていれば、群そのものが保ちません。だからモビングのような方向付けられた暴力が生じる。暴力にも秩序があるんでしょう。

うちの2羽のインコも、常に一方による他方への攻撃が行われていたのではなく、お互いに羽繕いし合うこともあり、また先述のように寒くなれば身を寄せ合う。だからしいて別々に飼育せず、2羽一緒にしておきました。

問題は、cage(檻)です。檻は自然化にあるものではなく、故におそらく自然下では状況によって膨張するはずのテリトリーを満たすだけの物理的な空間を確保できていなかった。
それが彼らの間に一方的な攻撃(暴力)を発動させた。
おそらくこの見方は、間違っていない。

この「檻」に当たるのが、私達の社会(生活空間)です。人間相互の物理的な距離・社会的なかかわりの密度が、すでに「自然」ではない。

近年の人類学では、人間が戦争を始めたのは定住し農耕生活を開始して以降であるという説が有力です。移動型の狩猟・採集生活をしていたころには群の間で戦争が起きることは殆どなかっただろうと言われています。
平行連晶
2013/01/28 23:41
前に愚樵さんのところでも引用しましたが、笙野頼子の「土地の所有が自我を発生させた」という説は、核心を突いていると思います。

動かない「土地」を所有し、場に定着する=自身を定位してはじめて、「立場」が生ずる。常に流動するものは「立場」を持たないでしょう。

その先には「魅力的な立場」を奪い合う世界が開けている。
平行連晶
2013/01/28 23:49
連投ごめんなさいね。思い出したことがあるので書いておきます。

>愚樵さん

井崎脩五郎が昔、こんな面白いことを書いていました。
馬の中でも、抜群に頭のいいタイプの馬は競馬に向かない。頭が良いので「俺がなんで走らなきゃならんの?」って考えて真面目に走らない、って。
これは、私が動物に持っているイメージにわりと合致します。
平行連晶
2013/01/29 00:05
おはようございます。
ここはいつも賑やかですね。\(^o^)/

カンタ!ティモールは嫁と行ってきました。
嫁は泣いていましたよ。
私は愚樵さんやどくたさんの評を読んでましたので、その通りでした、というのが感想かな。
ティモールの人や風土の空気を感じさせるよく出来た映画だと思いました。

>何故?と問うということは、理由があり、しかもシステムのなかに(原因)ある、と思えます。…
私は直接の原因はその人本人にあると思っています。が、その原因がその本人の中に存在する原因にはシステムの不具合が関連しているとは思っています。

>人が【システム】の犠牲にならずに育つには、やはり「見抜く力」になるのかな?…
私は人の社会のシステムは永遠に完成することなどあり得ないと確信しています。
つまり人類が滅亡するまで永遠の課題だと思います。
そしてその不具合の代償は永遠に「たまたま選ばれた犠牲者」によって払われ続けるのだと思います。
私たちは「たまたま選ばれた犠牲者」の想いを汲み続ける必要があります。それが「人道」でしょう。

「たまたま選ばれた犠牲者」に「自己責任」という言葉を投げることが「言い訳」、「自己責任」である理由を述べる事は「正当化」と呼び、それをすることを「ハラスメント」と言うのだと思います。
すぺーすのいど
2013/01/29 04:32
平行連晶さん

犬と馬の違いで納得しあえる、愚樵さんとのやり取りはワタシには解りません。今のところワタシにその経験、感知の能力はないということです。

人とはカゴのなかの鳥のようなもの、、、なるほど、こちらは解ります。鳥にとってカゴは人間に「作られたもの」ですが、人間にとってのカゴ(社会システム)は自ら作ったもの、となりますね。犬も馬もカゴのなかに引き入れた犬、馬という理解でいいのでしょうか? カゴのなかの動物は野生(人間のカゴによって野生も影響を受けているというのはおいておいて)ではなく、カゴのなかの動物になりますか。それでも野生を本能を垣間見る、と考えていますが、カゴのなかの人間は野生の人間としての本能を垣間見るのか、カゴによって本能は喪失しているのか。カゴは本能を喪失させるものなのか? 本能とカゴとの葛藤は永遠に続くのか? 続くんだろうなぁ、、と思い始めています。
毒多
2013/01/29 08:28
すぺーすのいどさん

カンタティモール、よかったでしょ。よかったよかった。大風呂敷を広げたものですから、、、、あの、、、その、、、、笑

〈システム〉は永遠に完成せずに、【システム】が消えることはない、、、ということですが、つまり、ハラスメントがなくなることはなく、自殺者がいなくなることはない、、、という理解ですね。つまり、人間はハラスメントや自殺者と永遠に向き合いながら生きていくしかない、となるのか。なんか哀しいですね。とはいえ、有史以来ハラスメントも自殺者もなくなることはなく、今後もなくなるとは思えない、ところを見ると普遍なのかな?
それでも、〈システム〉に向かうのが人道か、なるほど。

人間のすべてが、カンタティモールだったら〈システム〉に到達する可能性も0ではない、と思いませんか?
それとね、【システム】を是正するために「法で縛る」「処罰で禁ずる」ってのも【システム】を増強させるのではないか、ということをふと思いました。
毒多
2013/01/29 08:28
NANさん

記事は読むことができました。考えさせられますね。

えっと、NANさんは体罰には二通りあり、いずれも問題ありと言われてますので、体罰(による指導)を否定(指導能力がないと)されているんですよね。とすると、体罰の「是非」ではなく「有無」が顧問がやめなければならない理由のような気がするのですが、、、、。
「指導技量の結果責任」という問題は自殺者がでた、ということですか? ワタシはそこを問題にして辞めるしかない、と思っていますが、自殺者がでなければいいのか、って話になってしまうと、それはちょっと違うとも思う。
結局、世間というか【社会システム】のなかでの指導技量は、運動部として勝ち進むことになっていますよね。そこに価値をおく生徒も多く「好い顧問」という評価もされている。運動を通して豊かな人間性を育てるがゲームに勝ったことのない指導者が顧問を続けられないだろうし、指導技量があるという評価もされないでしょう。
結局だれもが【社会システム】を是認していて、そのなかで少しだけマシな方法を模索し議論しているような気がするのです。

うーん、やはり、システム前提のうえでのエントリーもしなくちゃいけないかな(笑)

毒多
2013/01/29 08:29
召還されたので…私は、至極単純です…まず、桜宮高校の問題を相対化するのをやめようよって事です…問題の解決を相対化することって、結局、玉虫色にする事にしか、ならないんじゃないの?って事…思想畑につうか、政治畑の人たちと話といつも、いらっとするのは、なんだか知らないけど、相対化したがる…まず、目の前にある問題をきちっと解決しないとダメなんじゃないの?…ミクロの問題である個別の問題をおざなりにしてきた付けじゃないの?って、論陣を基本的に張っております…でも、なぜ、彼が自殺に至ったのかを考えるのは大事だと思います…それも、個別のケースワークになりませんか?
sv400s_dracin
2013/01/29 11:06
sv400s_dracinさん

召喚…したわけではないのですが、、何かというと妄想が膨らみ形而上まで昇天したくなってしまうブログですので、超マクロかな、と思ったまでです。もちろんそこに解決法はありません。

「あの」事件について語るのであれば、おっさるように個別桜宮高校を総括検証しなければならないでしょうね。でも運動系(体育会系でなくて市民運動系ね)の人が個別でなく相対化したがるのは宿命でしょ。だって社会運動なんだもん。広く世間に訴えるためには、あんたの側でも起きてるよ、と言わなければならない。
ついでにいえば、橋下を嫌いだから、橋下の発言も認めないってのは相対化でさえない。橋下の発言も個別捉えないといけないのでしょう。というワタシは橋下が嫌いなので、彼が何をいっても穿ってみてしまいますが、、自戒、爆!!

桜宮高校の問題を検証すれば、結果的にそこかしこで起きている同根の問題も検証することになるとは思います。そのためにもちゃんと桜宮高校を検証するべきだと思いますよ。
もっとも同根の問題を行なっている、もしくは被っている当事者が同根と考えるかどうかが疑問ですが。

>彼が自殺に至ったのかを考えるのは大事だと思います

ここで、「自殺」するのは人間だけなんだよなぁ、、、と、考えてしまう病気を抱えているワタシがいろいろ言っても説得力がなさそうなんですが、、、
毒多
2013/01/29 13:46
暴力をなくすことが出来るか、という問いに私なりに答えておきますと。

【システム】によって暴力をなくすことは不可能。sv400s_dracinさんがイラッとされたのは私と同じところから出ているのかどうかはわかりませんが、相対的思考は【システム】思考なんです、結局。個別の事件に社会はどう向き合うか、なんて考えているうちは絶対解決しない。

暴力を無くすことが出来るのは、〈個人〉です。一人では無力なので連携は必要ですけれど、あくまで〈個人〉です。連携といっても秩序だった組織ではなくて、自生的秩序によって内発的に作動している連携です。どのような社会をを作れば暴力を無くすことが出来るかという思考は、秩序を考察することで〈個人〉がそこに関わることを放棄しているんです。

〈個人〉の放棄という点で言うと、サヨもウヨも私から見れば同じ。放棄の仕方が違うだけ。

〈システム〉というのは、〈個人〉を育むためのものです。さしあたっては【システム】に魂を呪縛されている者たちの脱植民地化を目指す、ということになる。

で、そうした〈個人〉においては、時と場合によっては「愛のムチ」もあり得る。だから〈暴力〉はなくならない。

好ましいとは言いません。好ましくないものです。この「好ましくなさ」を〈個人〉が受け止めようとせず、【正当化】してしまうとその受け皿として【システム】が生成されて行ってしまう。悪しき【宗教】がそこから生まれる。

サヨの思想が体罰全面禁止にしかならないのは、結局その思考が【システム】だから。そういった【システム】思考は、かつてのアメリカの禁酒法と同じような結末しかもたらさないでしょう。
愚樵
2013/01/30 05:50
「システム前提の体罰」というようなエントリーを挙げようと思ったのだが、他所様で散々やられているようだし、なんとなく結論めいたコメントを頂いたので、やめよ。

愚樵さんのコメントに対して経験的なことを書くと、多く〈運動〉は〈個人〉の発露から発するのですが、これが連携していくと【システム】化していくといのが市民運動、、、【システム】に対抗するため自ら【システム】化するという矛盾を抱えていく。けれど、その自覚はない。より大きな【システム】に対抗するために【市民運動システム】として【連携】するためのやり方などを考えるようになる・・・・【連帯】した【システム】は、疎外をするようになる、、、、、やっぱ、やめとこっと、
毒多
2013/01/30 08:37
sv400s_dracin さま

>まず、桜宮高校の問題を相対化するのをやめようよって事です

 この場合の「相対化」ってどういう意味なのかいま一つわからない。
 あるケースを、全体の中の一部分だとするって意味なのかなあとは思うけど。
 最初は、「相対化」が「総体化」の誤変換かと思いました。いきなり問題を「総体」にして論じる態度、という意味かなと。

 何が「総体」なのか無前提に言えちゃうってのは、少し危なっかしいと思うけど、個別ケースを考えるといっても、その思考は一般的な観念や社会全体への視点を抜きには考えられないでしょ。
 この場合、「体育科」というこのケースの特性を考えていくのは、「体罰一般」を考えるより個別だけど、ケースを考えるときに「体育科」という切り口で広く考えていく点では、個別ケースから一般化の方向へいくのではないかしらん。
 個別ケースを考え抜くというのは、なかなか大変なことで、「体罰一般」を考えるほうが、アンチョコの受け売りで済ませられる。本当は「一般的な言明」だってその構築は大変な力がいるんでしょうけどね。


kuroneko
2013/01/30 10:54
>その思考は一般的な観念や社会全体への視点を抜きには考えられないでしょ。

そうですか?そうなのかなぁ…それって、ただの処分で終わっちゃいませんか?…個別…「桜宮高校体育科」っていう…ケースを徹底的に分析して、解決しないとダメだと思うんだけどなぁ…最近、あっちこっちにコメントしすぎて、自分自身のコメントがとっちらかってるなぁ…なるべくそうならないように、自分のコピペを多用してるんだけど…自分でも良くわからなくなってきた…

>個別ケースから一般化の方向へいくのではないかしらん。

それは、わかりますけど、「桜宮高校」「体育科」って、間口、広いですかねぇ…私は「体育科」って、今回、始めて聞きました…「なんだ?それ」って、びっくりしました…だからなんだけど、当初から、「体育科」って、必要なんだろうか?って、あっちこっちにコメントしてたけど、ほとんどスルーでしたね…

 高校ですよ?…教育と体育?…体育教師になるには、大学進学が必要ですよね…その進路に何があるんだろうって思いました…じっさい、桜宮高校体育科では、進路と部活と顧問の関係性が教育の範疇を…いびつに…超えてるようにも思いました…

村野瀬さんところに、石を投げたのも、
>そもそも、教育問題では、正解がただ一つということはないはずです。みなさんがもっと落ち着いて話し合い、静かに深く考えた方が、橋下徹よりも良いアイデアが出るのではないでしょうか。

この一文でした…ここで、教育問題って言っちゃうのか?って…大阪市立桜宮高校の問題でしょ…橋下さんは、大阪市長なのに、大阪市長に期待するな、口出すな…話がこれで、大きくなるし、おまけにあんな記者会見しちゃうし……

私は、教育からスポーツを切り離す事が一番有効だと、思ってるんだけど…きっと、それじゃ、困る人っているんだろうなぁ…それは別の話です…
sv400s_dracin
2013/01/30 13:08
sv400s_dracin さま

>「桜宮高校体育科」っていう…ケースを徹底的に分析して、

 だからさ。ケースを徹底的に分析するには、体育科って何じゃ、って情報あるいは知識がいる。「体育科」ということで体育系の大学に進学して教員であるとか、あるいは他の企業でも就職に有利とかいう事実があるとしたら、そうした知識も考慮しないと、この個別ケースの理解もできないのではないか。「体育科」に関しての、社会全体への視点が必要だと思います。

 この個別ケースでいえば、当の生徒が心理的障害(世に言うPTSDって急性なものかどうか知らないけど)と診断されて精神科に入院したら、世論の動向は全く違うと、わたしなどは想像します。
 このケースを考えるにも、心理的外傷などの一般的観念は必要だろうな、と思う。
 一般論って別に、「体罰は悪い」って建前論の別名ではないですからね。

 この「事件」が、教育問題ではなくて、心理的な障害による広義の「殺人事件」だとしても、一般論で考えることは必要だと思うけど。
kuroneko
2013/01/30 13:57
なんとなく、わかったようなわからないような

>そういえば書類にサインをくれというのでフォトショで描いて送ったら駄目だと言われたので紙にサインしてスキャンしたらOKだった

っていうツイートを見たけど、そんな違いなのかなぁ…
sv400s_dracin
2013/01/30 14:39
こんばんは。
ちょっと忙しくて間が空きました。

>つまり、人間はハラスメントや自殺者と永遠に向き合いながら生きていくしかない、となるのか。なんか哀しいですね。…

う〜ん、悲観的な感じじゃないんですよね。私のは。だから哀しい訳じゃないです。
今までも人類は進歩してきたし今後も進歩し続けると思うのですよ。
そして、何かの問題を解決して前に進むと言う事は次の新しい扉を開けることだと思うのですね。
その新しい扉の向こうには新しい世界があって、そこにはやはり新しい夢や希望が実現してるけど、当然新しい問題も発生するとおもうのですね。そうするとやはりその問題で犠牲は出るだろうし、その新しい問題に対峙して解決していかなきゃならない。それの繰り返しだと思うのですよ、進歩って。そういった前向きな意味で完成しないということです。

人類の可能性は無限ですよ。地球が寿命まではね。そう思います。

たかが人類が作ったシステムが完成する訳が無い。そんなもん原発の安全神話と変わらないと思います。
【システム】が形のある固定の物を想定するのなら、もし完成したと宣言したら、その瞬間以降は嘘をつき続けることになります。

でもその【システム】が形の定まらないむにょむにょしたままで良いと悟ることが出来たら、それはそれでそのむにょむにょで完成なのかもしれません。ですが、それはもう「システム」という言葉の意味を完全に逸脱していますね。www
すぺーすのいど
2013/01/30 20:10
>犬と馬の違いで納得しあえる、愚樵さんとのやり取りはワタシには解りません

あ、私にはそこまで理解力があるわけではないですよ。私にわかるのは、犬の群と馬の群では群の機能が違うということです。
馬の序列と犬の序列は自ずから特性が異なるということ。

犬も馬も、野生の状態で家族単位を超える規模の群を作ります。馬と犬とで最大に異なるのは、餌が逃げるか逃げないか、です。野犬などは、血が繋がっていないのが自発的に寄り集まって群を作る。1匹よりもチームで狩を行うほうが歩留まりがいい。狩にはおおまかな役割分担があり、指揮者がいる。めいめいがてんでばらばらに動いていては、獲物に逃げられちゃいますからね。

そこで、犬は「これだ」という奴の下につこうとする。でもって、自分が選んだボスが使えねえなとか、俺のが偉いだろとか判断したら、今度は自分がボスになろうとする。
これは飼育下でも起こります。例えば、私の実体験でなく書物に紹介された一例ですが、家の中でボヤが出たのを吠えて家族に知らせた飼い犬がいて、家族は家を危機一髪救った犬に対して下にも置かぬ扱いで接していたら、そのうち犬は家族に噛み付いたりして、全く言うことを聞かなくなってしまった。家族の態度の豹変に接して「俺が群の中で一番上」と判断するようになったからです。それで、家族に暴力を振るうようになった。犬は序列の下位者とみなす家族に自分のポジションを誇示するために、噛むわけです。
平行連晶
2013/02/01 09:25
私は体罰とは、こういった行為の延長線上にあると捉えています。ただし人間(そして動物も)の行動はウォークインクローゼットのような作り付けの「反射的」なものとは異なります。
例えば犬が群の下位者を噛む際に対象を服従させることの是非や根拠を自問することは(おそらく)ないのと異なり、人間は行為の普遍性を自問せずにはいられないのです。

だから「罰」を措定せざるを得なくなる。犬であれば「俺がルール」で通るのですが、人間の場合そうはいかないんですよ。「神」や「法」といったより上位の権威から、自分の行為にお墨付きを貰わねば不安なんです。

「俺がルール」ってのは、ボスになった後が大変。
多摩動物公園で雄ライオンの「ボス」交代劇に遭遇したことがあります。それはもう凄まじいものですよ。2頭がお互い流血しながら、死にもの狂いで組んずほぐれつ取っ組み合いです。天辺取ったら今度はいつ自分が追い落とされるか判らない。枕を高くして寝られない。その意味でも、普遍性という箔付けが入用になるわけでしょう。
※ただし、私がみた「ボス交代劇」とは、例のケージの中のインコのような、飼育下で狭隘な空間に押し込まれた状態で生じた拘禁反応のバリエーションに過ぎないかもしれませんよ。いずれにせよ動物園で滅多に見られるものでは無いと思います。
平行連晶
2013/02/01 09:37
「罰」が何故必要になるかといえば、それが単なる「暴力」と見なされる限り、群の成員からコンセンサスを得られないからです。
言い換えれば、群の成員からコンセンサスを得られる暴力は「罰」と呼ばれるということ。

コンセンサスは、重要です。今朝たまたまTVを点けたら、AKBの峯岸という子が男性問題をFOCUSされたとかで、自己懲罰として丸坊主になってましたが、丸坊主が「罰」として機能するのに、根拠も何もないですよ。ただコンセンサスだけがある。普段から坊主頭の私には「髪形変えました」以外の意味は持たないけれどね。

同様に、平手打ちしたり拳で殴打したりすることと「罰」との間には、本来合理的な関係性はないですよ。まず「まつろわぬものを隷従させるための暴力」「隷従を証し立てるため暴力」があり、それを「罰」と名づけた。

一度「罰」という概念が確立されれば、それは何にでも適用できるんです。たとえば宴席での「罰ゲーム」なんてのもありますよね。じゃんけんで負けたらペナルティ(野球拳)、など。そこにはじゃんけんで負けることが何故処罰の対象となるかということに対する、合理的な判断は何もありません。
スポーツも同様。競技で負けたら罰として殴られる。勝敗が付き物の競技で負けることが罰せられる根拠がどこにあるのか。そこに合理的な判断はありません。
すべてコンセンサスです。

これは「罰」だから。暴力じゃないから。大丈夫。やりすぎなければ、大丈夫。
コンセンサス。
平行連晶
2013/02/01 10:12
蛇足ですが、前述の「やりすぎなければ、大丈夫」とは
「この程度でやめておけば、自殺したりはしないだろう」ではなく、
「この程度でやめておけば、コンセンサスは安泰だろう」でしょう。

みのもんたの朝ズバを眺めていたら下村博文文科相が出てきて開口一番、オリンピック招致に向けて信頼回復・スポーツ界の信頼回復と発言していました。最初の問いが女子柔道の「不祥事」と五輪招致を結びつけるものだったことから、流れとしては当然といえなくもないものの、「信頼回復」という言葉がことの本質をよく表していると思いますよ。

何よりもまず回復が優先されるのは、踏み付けられ傷つけられた被害者の心じゃないんですかね。イベントの招致やメダル蒐集は、そんなに大事なことですか。
平行連晶
2013/02/01 11:40
平行連晶さん

コンセンサスがあればよい、ということですね。生存のために群れをつくる動物が身体に直接アタックするのはコンセンサスが本能で得られているというのはその通りでしょう。同様に人間も生存のためであればコンセンサスを得られるのかもしれない。もっともアタマであるところの人間は、直接のカラダに直接与える力を抑え、法による力でコンセンサスを得ている。
生存のためではないバスケのあれを、コンセンサスが得られればOKとなるかどうか??コンセンサスが被体罰者の総意であれば、問題ないのかなぁ? 確かにゾロ体罰狩りを始める風潮にもひっかかるものはあるんだけどね。
いずれにしろ、自殺にしろ告発にしろコンセンサスが全く得られていない、体罰者側からのコンセンサスの強要ではお話にならないということは間違いないと思います。この強要がハラスメントですね。
あぁ、システムも強要するが、被強要者のコンセンサスが得られていれば成立する、ということか。コンセンサスが得られた時点で「強要」ではなくなるのかな。でもある種の法律なんか、コンセンサスを強要されている気がしてたまらないんだけどね(笑)

女子柔道の件の信頼回復ってのは知りませんでしたが、体裁重視で某学校教師会や教育委員会、、、柔道連盟(でしたっけ?)と何も変わらない、同根でしょう。メダル獲得も高校総体優勝も甲子園優勝も同じ。結局文科省トップがそんなもんだから、体罰問題の根本解決などできるわけない。
とはいえ、人は「勝つ」のが好きで仕方ない。「勝つ」に対して感情を露にする。こんなもん指導者だけじゃない、体罰を批判している多くの者もただの観客である人々も同根。これは本能なのかな。
そこを見抜かなくっちゃ、ってより自覚しなくちゃいけない、ってことかもしれないな。

毒多
2013/02/02 08:52
>生存のためではないバスケのあれを、コンセンサスが得られればOKとなるかどうか??

指導者が生徒の失敗等々に対して「思わず感情的になり」体罰を振るった、などとよく弁解しますよね。報道などで。ではこの指導者が自分の上長による同程度の失敗に対して「思わず感情的になり」同じ行為を働くか。まず、あり得ないでしょうね。
下位者が上位者に対して感情的になりこれを罰するという行為自体が許されていないんですよ。そういったコンセンサスが存在しない。
まずコンセンサスを支える文脈があって、文脈に則り一連の条件が満たされると、体罰が発動すると考えられます。

私が中1の頃だったか、実際に上級生から受けた体罰の話をします。

上級生を含め、10数人のグループで校内美化とか、そんな活動をしました。私はそこで、何か小さなミスをした。些細なミス。必要な道具をそろえ忘れたとか。

で、その場で最も力のあるボス格の上級生が私に罰を与える、ついてはグループ全員参加により、箒で一発ずつ私を殴ると宣言した。誰も反対するものがなく、私は全員から箒で背中・尻・太腿などを背後から打たれた。

殴る方の反応は、様々です。
同学年で私とわりと親しい連中は、すまなそうな表情で痛くないように、そっと箒の柄を当てる。
上級生の中でも、しらけた眼で「ばかばかしいが、場を収めるためにちゃちゃっと片付けよう。お前ちょっと我慢してろ」といった風にぽんとはたいて終わりにするのがいる。

そして何人かは「これはミスに対する罰である」という名目で、自身を一切危険に晒さず安心して暴力を振るえる喜びをあからさまに示して、フルスイングで私をぶちのめした。
平行連晶
2013/02/03 12:52
承前。
私にとっては惨めで屈辱的で理不尽な仕打ちでしたが、子供の頃からの癖で、人間(特にその集団)の行動を観察し、どうしてそうなるのか、を考えてしまうんです。

・人間の暴力への志向(嗜好)には、個体差がある
・暴力の発動には、加虐・被虐双方の関係が影響を及ぼす
・無制限の、無秩序の暴力を忌避する者であっても「罰」のような一定のベクトルを持つ暴力であれば心理的な抵抗は減ずる
・暴力に対する嗜好は処罰感情と親和性がある、或いは暴力への嗜好は自らを処罰感情に偽装する
・集団の成員すべてによる積極的な賛同がなくても、コンセンサスは成立する
・コンセンサスに必ずしも論理性は介在しない、むしろ往々にして不合理
・序列は上位者と下位者との間で共有され、内面化され初めて機能する

当時感じたことを今の私が言語化すると、概ねこんな風になります。
人間が暴力的であるとか、暴力が本能であるとか、そういうことを私はあまり考えません。どうでもいい。

寧ろ、人間は関係と状況により刻々変化するのであり、関係や状況が罰や暴力の培地となりトリガーとなると考えます。

でね、上級生や同級生のグループ全員から箒で殴られた=罰を受けた私も、罰に対するコンセンサスを形成していたわけですよ。

それは、私のミスに対して、かかる仕打ちは割に合わないこと、ミスと箒で殴られることの間にはミスを補完し失敗の許しを求めるという働きがないこと、そもそも私にはミスについてグループの成員に謝り、許しを求める機会を与えられていないこと、上位者が処罰の程度を一方的に決めることについて反駁する機会を与えられていないこと…これらの理由により「不同意」という意思表示が出来ず、結果的にグループのボス格の決定に従わざるを得なかったということです。
服従することでコンセンサス形成の一部となっていた。
平行連晶
2013/02/03 13:24
上の文章、文脈がおかしくなってしまいましたね。
・ミス⇔罰の間に釣り合いが取れていないこと
・ミス⇔暴力の間には関連性がないこと
・謝り許しを求めること

これらを相手(グループの成員)を不快にさせず説く能力が当時の私にあれば、もしかしたら私は殴られずに済んだかもしれない。今の私のコミュニケーション力があれば、おそらく回避できたんじゃなかろうか。

ちょっと話変えます。ボス格の上級生が、「罰として平行連晶に皆の前で全裸でオナニーさせる」と宣言すれば、たぶん却下されたと思います。
ただし、置かれた状況(タイミングetc)と、上級生・同級生と私の関係性によっては、そこまでやらされていたかもしれない。
罰に合理性はない。集団の成員による「大体、このへんまでだろう」という漠然とした目分量の共有の度合いで変化していく。その意味では、罰の内容はミスそのものや罰を受ける者よりも、寧ろ母集団の性格に強く影響されるものではないでしょうか?
私の例でいえば殴る方も殴る強さで調整してくる。コンセンサス形成に参加している者も、やり過ぎだろうと思えば婉曲に加減の仕方で意思表示をする。

私が考えていることは2つあります。
ひとつは、体罰が生じる状況を個人が回避するには、どうしたらいいか、です。個人が個々の場で理不尽なことには理不尽であると唱えて共感を求める、或いはこれは理不尽であると自覚できる、そういう回路を開くことで、暴力の発動を減らせるかもしれないということ。
平行連晶
2013/02/03 14:10
もう一つは、体罰(暴力)を支えているものは集団のコンセンサスであり、序列を支えているのもコンセンサスであることを、まず集団のひとりひとりが気付かなければならないことです。自分達がコンセンサスを形成していることを、自覚して、そこからが始まりです。

コンセンサスの形成のしかたによっては、体罰(暴力)を漸次的にではあれ軽微にしていけるかもしれないんですよ。その意味では、私は絶望はしていません。とにかく、体罰に関するコンセンサス形成に参加しているのは、誰でもない私でありあなたである、ということを言いたいのです。

今回また連投連投で長くなってしまって、本当にもうしわけないんですけど、私の思っていることは概ねこんなところです。うまく伝わるといいなと思いますよ。
平行連晶
2013/02/03 14:16
平行連晶さん

丁寧にありがとうございます。
納得できるまとめです。なるほどなぁ、と思います。
ワタシが拘っていた「本能」よりも、「環境」(書かれたような、対人関係やコンセンサスの生成のされかた等)を考えたほうがよい、というのも納得します。余談ですが、映画「es」を思い出しました。
今回話題になった事件と照らしあわせても、指導コーチの心理が見えてくるようです。指導コーチというか、団体で行うスポートチームの根本的あり方かな。ああ、個人競技でも同じか。
作戦を立てて、指令するものがあり、上下関係が生成され、選手はその作戦にのっとり忠実に動く。そうしたコンセンサスが指令、選手ともにある。という感じでしょうか。動けない、動かない選手には罰が与えられる。・・・他にもいろいろな要因があり、複合的なことになるのでしょうが。

体罰の回避をする方法としては、具体的には「気づいた」女子柔道の告発を彷彿とさせますね。

毒多
2013/02/04 08:51
人それぞれ…己の答えを出す為に知りたいと思う情報の範囲は違うけれど

社会で何かしら問題がおこったときに、自分に置き換えて考えないと真剣に考えられないと思う…本人に関係なくとも、家族や友人に問題が降り懸かってくるかもしれんし

よって「他人事ではない&念のためにおことわり」の内容に賛同しますw
NAN
2013/02/04 17:25
NANさん、おはようございます。

多分、思索したいと思える社会問題は他人ごとと思えず、知らず知らずのうちに自分に置き換えているような気がします。それで、個で思索するのに満足しきないものをブログで書いてみる、、、ということになるのかな。
思索する過程で、どういう個別どんな状況だったのかも知りたくなりますね。
特に日本のなかの出来事は、同じような環境や同じような構造になっている可能性が高いので、問題がおきたということは、そのまま自分への「気付き」のきっかけでもありますから。

ただね、ほんとのことを言えば、ヤツの言うことは解るのです。
ワタシとしては、立場的に近いということで学生の親に言及したのですが、その親に言及したのではなく、その親に映したワタシ自身に言及したつもりでした。いくらなんでも、自分の失敗が悔い、傷心しているだろうその親の責任を、今、追及しようとは思いません。にもかかわらず、追及しようとするかのようなセンテンスを書いたことは失敗だったと思っています。
その失敗には、ちっぽけな個人ブログである、という甘えがあります。でも公開されている以上、その親がこのブログを知る可能性も「無」ではない。知ればさらに傷つくだろうという予測は立ちます。その親は、たとえばM村氏とは違う。傷つく自分よりもマスコミを利用して社会に広く訴え、多く者に思索を促そうとしたM村氏とは違います。
傷心の人間へのデリカシーはもたなければならない。配慮にかけていたのは認めざる得ません。

ブログ運営は難しい、ということは再認識しなければならないと思っています。が、しかしだ、ヤツの態度は別問題、「俺様」野郎はまとわりつくな、ってね、爆!!
毒多
2013/02/05 08:49
ほっときゃええねんて…

あいつが1番!死者を冒涜しているのは誰が見ても明らかなんやからさ…不必要に絡むと損するだけ
NAN
2013/02/06 14:19
なんとなく、NANさんには申し訳ないなぁ、と思いながらここと他所様でコメントしていましたが、気分を害したならごめんなさい。実はワタシ自身腹立ちのあまり寝れなかったのですが、、、爆!!

まあ、こんなブログにも歴史あり、ってことでワタシなりのケリをつけました(笑)。

相手の立場や思考、人格に関わらず、いろいろな考えや構造を知り、考えることは必要だろうなぁ、とやっと考えられるようになりました。

それと、「死」を「冒涜」したり、「弔う」という意識が希薄なワタシが一般的には異端だという自覚はあります。世間はワタシのようなヤツを死を冒涜すると言うのかもしれません。

こんな優柔不断なブログですが、よろしく哀愁。
毒多
2013/02/07 08:20

コメントする help

ニックネーム
本 文
「体罰から」・・・自殺、教育、システム、本能etcを考える 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる