毒多の戯れ言

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zoom RSS 「日本農業への正しい絶望法」・・・つまり技能なのだ

<<   作成日時 : 2012/12/28 15:53   >>

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 年末だなぁ、、、と、新聞をめくる。朝日である。
 アベシについて何やかやと特集されているなかで、目についたのが小林よしのりで、長らくスルーしていた小林を読んでみようかと思ったのも、ワタシのなかで何かが変わったからかもしれない。相変わらずだなぁ、という感想を用意しながら読み始めたのだが、いやいやいや、読んで驚き、先入観をもつものではない。小林よしのりも随分物事が分かるようになっているではないか。ホント人間変われるものである。

 さて表題は本のタイトルであり、知ったのは某ブログ(笑)の記事なのだが、こうした本にしても、映画にしても、アニメにしても某氏への依存度は高かい一年だった。別に追っかけているわけではないのだが、自分で何かをネタを探そうというのを放棄している錯覚さえ感じる。もちろん全てを後追いしているわけでもなく、紹介されたなかでも面白くなかったものもあるのだが当たりが多い。これは正解だった。面白かったね。
 このブログでも一度書いたが、ずっとむかし大型下水処理施設建設のために田の強奪が強制執行されたことに抗議し、コメの不法耕作をしていたことがあった。機械をつかわず、土作りだとか、無農薬マルチだとかのネタを仕入れてはあれやこれややっていたが出来たコメは不味かった。まあ、当然だわな。この本に叱られそうだ。そのうちどっかで畑を借りて家庭菜園でもやって、、なんてのもこの本を読めばヤル気を無くす。せめてこの本の忠告に従い、バカ舌を治そうかとも思うが、麻痺しきっているだろうから無理そうだ。というワタシも1度はホントに美味いほうれん草に出逢ったことがあるのだが、流通しているものではなく。街のスーパーで売られているものしか食べられないワタシには絶望的だな。
 ちゃんとした野菜を育てられる農家はとことん消滅しているらしい。ちゃんとした農業をするのは「技能」が必要だと言うわけだ。土作りのためには、知識はもちろんのこと、動物の糞の見分けかた、醗酵の度合い、湿度、温度、空気etc.etc、言葉で表せない感覚のおおくを発動させる技能が必要であり、その土を天候にあわせてどのように使うと野菜がどうなるのか、という技能が必要であり、プロセスを分断して分業するようなマニュアルでは野菜はちゃんと育たないという。ちゃんと育った野菜は、農家の顔をみせるとか、オーガニックとこれみよがしに謳うとか、しなくても美味いのだ。さらには個人の技能が優れていてるだけではダメで、回りの田畑が横着をすれば、どれだけ個の技能が優れていても周囲の影響をうけてしまう、、、てな具合。
 今の日本の農業は、(似非)政治の(似非)法律、(似非)識者、(似非)マスコミによって手抜き、マニュアル化を進められ、美化され、流行りものに仕立てられ、つまり「似非」になっているこれが正しい絶望法である。

 というワタシは農家ではない。農家に転業することもないと思う。
 じゃ、何が面白かったか、というと「絶望」と「技能」なのだ。つまりね、この農業への絶望法論は、そのまま多くのことに置き換えられる気がするわけさ。
「日本教育への正しい絶望法」「日本経済への正しい絶望法」「日本政治への正しい絶望法」「日本原発への正しい絶望法」「日本病院への正しい絶望法」「日本社会への正しい絶望法」・・・ちゃんと正しく絶望しなくちゃ、、、てね。
 絶望から脱するのに必要なのは「技能」かな。さしずめ「生きる技能」ってとこかもしれない。分業でもマニュアルでもダメで知識と感覚と経験と感性による技能が必要。技能は一人だけもっていても厳しく、目先の銭金だけの権力が技能をもつことを妨害してくる、ってのもこの本に書かれていることと同じ。

 農業の技能は技術によって衰退し、それは人間の宿命なのか? ただ詠嘆するしかないのか?
 生きる技能は科学によって衰退するのもしかり、か?
 いやさ、たとえば反原発といって感知することができれば技能に繋げることができる。
 それほど捨てたものではない。


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タイトル (本文) ブログ名/日時
技能は霊的回路である
現在の日本は、破局の真っ最中。なぜそうなってしまったのか。「ニッポン・イデオロギー」すなわち「頽廃したアニミズム」だというのが『8・15と3・11 戦後史の死角』の主張だ。 ...続きを見る
愚樵空論
2012/12/30 11:44
「技術」と「技能」
昨日の『北の国から』のアップで今年は最後にしようと思っていたんですが、毒多さんのところが面白かったので、それ絡みで思い出したことを紹介して今年を終えようと思います。 ...続きを見る
光るナス
2012/12/31 10:14

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コメント(21件)

内 容 ニックネーム/日時
当該の本を読んでいないため、原文にも当たっていません。ですからこの突っ込みが的を外れている可能性が大いにあることは予め申告しておきますね。

>ちゃんと育った野菜は、農家の顔をみせるとか、オーガニックとこれみよがしに謳うとか、しなくても美味い

野菜が「ちゃんと育つ」ことと、それが美味いか不味いか、はあまり関係ない話だと思います。
現在の野菜はどれも食用に品種を改良、糖度や収量を変化させたものですから、「美味い味のする野菜はちゃんと育った野菜である」という論旨なら、成り立つでしょう。
しかし、化学肥料・農薬を使用し、品種改良を施した野菜を育成する農業が定着してからの年月を考えると(一応記しておきますが、私の両親の実家は共に自作農でした。頻繁に遊びに行っていたので、彼等の野良仕事は自分の目で見ています)、現代農業以前の野良仕事の「技能」で育成された「ちゃんとした野菜」の味を知っている人は還暦以下の年代にはほとんどいないはずです。
喫煙習慣のある方の味覚など、論外です。語るに値しません。

それが美味い野菜かどうか、を判断できる舌を持った方がどれほどの数存在するかすら怪しいのであれば、「ちゃんと育った野菜は美味い」という命題そのものが、果たして成り立つか。
しかもこの「ちゃんと育った野菜」は今日の野菜と品種が異なる可能性も入れないといけない。かつての技能(灌水や施肥など含め)で「ちゃんと育つ」品種なのかどうか。

また、たとえば果実などは、同じ樹から採れるものでも年ごとに味が異なることがあります。
では、美味い実が成った年は樹がちゃんと育ち、実が不味かったらその年はちゃんと育ってなかったのか……どうでしょう。植物は機械じゃないですから、ケアが最善なら常に安定した味の実が収穫できるというものでもないのでは?
平行連晶
2012/12/30 00:08
コメントの内容がエントリの論旨と幾らかずれてしまいましたね。

今日、少なからぬ農家はとっくに農業に絶望しているのではないでしょうか。より正確には「諦め」かな。本のタイトルに「正しい」と書いてあるのは、絶望の内容について問うているのでしょうね。
ではその絶望の「正しさ」を誰が判定できるのかしら。あてにならない味覚を持った人の「美味い・不味い」でしょうか。

それから、今時有機・減農薬(無農薬)などに希望をかけている農家なんて、どれほどいるんだろう。大体美味いから有機・美味いから減農薬なんて発想自体が野良やってる衆に共有されてるとは到底思えないし。
身内で食べる分は野菜の見かけとか気にしなくていいから無農薬で、とかはありますけどね。
平行連晶
2012/12/30 00:25
これだけ、再度書きます。

野菜が「植物として」もっとも状態よく育つこと。
野菜が「食品として」人間の味覚に最適化されること。

これは関係のない話ですよ。本来。
平行連晶
2012/12/30 00:31
平行連晶さんの主張は「技術」論です。

>野菜が「植物として」もっとも状態よく育つこと。
>野菜が「食品として」人間の味覚に最適化されること。

この2つを成立させるのが「技能」だという話。

別の例として、里山を考えてみましょう。里山という人為生態系は、「植物として」も「食品として」も成立している。里山は人為の加わっていない天然ではないけれども、自然であることには間違いない。自然でありながら、人間の用に適化している。ただし、最適化ではない。

最適化というと、人間は変化しないで、自然の方だけ変化させるという意になります。最適化を目指すのが「技術」ですが、それこそが自然から外れる道。

「技能」は、人間自身の変化も伴う。特に変化するのが感覚装置で、この記事に関していうと味覚でしょう。

(もっとも、本書には「技能が人間自身の変化も伴う」といった旨の記述はありませんが。)
愚樵
2012/12/30 06:04
>「ちゃんと育った野菜は美味い」という命題そのものが、果たして成り立つか。

この命題には、「天然の野菜」と「天然のヒト」とが別個に存在するという命題が前提としてあります。私はそういうものは、そもそもないと考えます。「天然」という概念が、そもそも人の作り上げたものだと思うから。ここには天然と人為の区別がある。その区別こそが自然を損なう。

野菜の「美味しさ」は、当てになるのか。何か客観的な基準を前提として考えるなら、無いとしか言いようがない。けれど、そもそも人間が「美味しい」だとか「美しい」と感じることそのものが謎です。謎ではあるけれども、鋭敏な感覚と鈍い感覚とがあったとすると、鋭敏な感覚の方が信頼に足ることは、絶対的に間違いない。そして、鋭敏な感覚は自分自身が変化して養っていくほかないもの。

「技能」というのは、絶えず変化していく人間とその感覚を基盤にしています。本書に記されているのは、そうした鋭敏な感覚を持った技能者は、一定の広さの耕地から、他のよりも美味な収穫物を他より多量に収穫することができる、という客観的事実。マニュアル的「技術」からは小量美味、多量不美味は考えられるが、このふたつを両立させるには、「技術」だけでは足らないのだという、学者の指摘。そこから見えてくるのが「正しい」絶望という次第です。
愚樵
2012/12/30 06:33
こんにちは。

これはまぁ 無農薬・有機農法で野菜を育てることを、やれば分かることなのですが。 (^_^;)

「畑で野菜を作る・育てる」といった時点で、これはもうかなり「人」寄りですよね。
「植物」じゃなくて「野菜」なんですから。
単なる「植物が育つ」こととは、すでに異なっているわけです。
ですから、「ちゃんと育った野菜」は美味しいです。

「野菜」といった時点で、その植物を育てることに「目的」が生まれてしまっています。
百姓がやることは、その「目的」にすべては照準を合わせ、すべてをそこに集約させていくべく作業をします。
その「目的」が、「美味しい」だったり「安全」だったり、いろいろするわけです。

「技能」については、愚樵さんの仰ることにまったく同感です。

毒多さんと以前やりとりしたことがありますが、自然農法で育てた野菜でも不味いものは不味いんですよね。

http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51679319.html

この記事の後編の、
「育ててる人の育て方というか、個性みたいなものが、そのまま野菜に出ている感じは否めません。」
このへんが「技能」と絡むんだろうな、と想っています。
アキラ
2012/12/30 21:48
みなさん、おはようございます
まず「ちゃんと育った」という表現が本のなかに書いてあったかどうかは、わかりません。学者がこう表現しない気もしますので、おそらくワタシが本を読んだイメージだと思います。この表現から本の主旨とちがうイメージする可能性もあるなぁ、ということは考えました。
ワタシが’本より感じたイメージです。著者を一程度信頼して読み進めていくしかないうえでのイメージいです。本を読んでも「美味い」は実感できませんので、著者の感覚を信じるしかないし、著者が美味いと感じる要因が技能を駆使した農業である、ということも信じるしかなし、なんとなく信じられる気がしつつ、読み進めていけました。本に対してあまり突っ込みを入れなかったのは、農業にたいしての知識がほぼ皆無であり、野菜に関してもまぁ、こんなもんだろう、と感じているからかもしれませんね。
でも、コメントを頂いたので、もう少し考えてみますが、ワタシの美味いというイメージは、スーパーで売られている栽培種の「フキノトウ」は不味く、野生のそれは美味い。養殖の魚介よりも野生の魚介のほうが美味い、あと、キノコ類の栽培種と野ばえの比較もしかり、、と、こんな経験から美味い不味いを判断していたと思います。
野菜という人為でも、あの美味いかもしれないな、と。
とすると、矛盾なんですよね。実はエントリーに書いたワタシが美味いと感じたほうれん草は、畑の脇でのばえさせ、ほかの植物と生存競争させた10cmほどの単発映えのもので、これが美味かった。これ技術を無視していますが、技能も無視していますよね。とこういう疑問は生じますが、著者が美味いという野菜を食べてないのでそことの比較はできません。
実際に食べ比べてみたら、
マニュアル野菜<技能野菜<野生(のばえ)
かもしれません。
毒多
2012/12/31 06:29
この本では、技能で経済性も優位にたてる、と主張していますので野生(のばえ)の野菜は完全に除外されるでしょう。もちろん野菜の主旨として、効率よく収穫できる需要に耐えうる植物ということで、野生はすでに野菜ではない、のでしょうが。

で、面白かったのは「技能」となるわけです。
人為の用い方のこの言葉は面白い。有用です。
技術がアタマだとしたら、技能は身体(経由)。技術が目先だとしたら、技能は全体。技術が思考だとしたら、技能は思索。と感じたわけです。
とすると、技術→技能は、人間の変化を伴う、、というのも解ります。(これいいですね。流石愚樵さん)

天然と自然については、ワタシ自身混同しています。里山は自然じゃないだろ、と思っていました。ここで、天然という言葉が登場した。またまた面白い。自然という言葉を天然と思っていたのかもしれない。また思索します。

毒多
2012/12/31 06:30
せっかくですから、参考までについでに言っておきますと。

毒多さんが仰っている
「実はエントリーに書いたワタシが美味いと感じたほうれん草は、畑の脇でのばえさせ、ほかの植物と生存競争させた10cmほどの単発映えのもので、これが美味かった。」
なんですが。

僕の経験で言うと、これは「畑」寄りの植生です。
つまり、野生というよりは自然農法的に育った野菜。
ですから、どっちかというと「技能」くくりになる範疇だと思います。

「周囲の影響をうけてしまう」わけです。
畑の脇というのは、「畑」寄りの自然なんですよね。
直接的でないけれども、人の手入れの影響はけっこう強く受けている状況だと思っていいと思います。

もう何年も、無農薬・無肥料で、かなり放任、草刈りだけはギリギリしてる(マメではない)・・といった畑?環境の中、うちが食べている菜っ葉は、こぼれた種が勝手に芽を出し、育ち、花を咲かせ、種をつけ、それがこぼれ、また勝手に芽を出し・・と何度も繰り返され、雑交配し・・といったところで育っている菜っ葉類を、食べて美味しそうなものだけ穫って食べている状況です。

それを食べていて思うんですけど、だんだん「美味しく」なくなってる気がするんですよね。 (^_^;)
僕の感覚では「人に媚びない」感じなんですけど。
本来に近くなっていくのかな・・と思いますけど、どんどん美味しくなっていく・・ってことはない気がしてます。

その意味では、よく自然農法をやっている人たちが「肥料を入れなくなって、また耕さなくなって、年が経てば経つほど どんどん美味しくなっていく」と言っているのには、少々疑問を抱いているところです。
アキラ
2012/12/31 11:55
みなさま、今年もよろしく

あ、あれが自然農法(的)だったんですね。ご教授ありがとうございます。そういえば自然農法ってのは具体的にどうするか、知識もありませんでした。
ただ、その畑の持ち主に「技能」があるとは思えませんので、偶然だったのかもしれません、
そういえば、ワタシがベランダのプランターで放置したイチゴが2年、3年目も実を付けだんだん粒が小さくなりましたが、徐々に美味くなったのを思い出しました。

ただ、アキラさんの
>だんだん美味くなくなっている
ってのを読んで、のばえが美味いってのは、妄想だったのかもしれない、と思い始めています。
品種改良をされつくした野菜は、その改良が最大に生きるように育つ最善の補助が必要なのかな?
前出の「ふきのとう」や、今、思い出しましたが「自然薯」の栽培種なんか、食えたものじゃないのですが、これらは野菜ではない、ということかもしれないな(笑)。

毒多
2013/01/01 06:50
年越しを挟んじゃいましたね。 (^o^)
今年もよろしくお願いいたします。

毒多さんが美味しいと感じた畑の脇のほうれん草、美味かったと思いますよ。
そういうのが一番美味いんです。 (^o^)
その単発のほうれん草はたまたまだったのでしょうけど、そういうのを意図的に多量に育てようとするのが有機農法的・自然農法的「技能」になるんだと思います。

あと、例えばうちの自然発芽の菜っ葉は生命力はとても強いように感じます。
で、「生命力が強い」ということと「美味しい」ということはイコールなのか?
あるいは、それらは両立するものなのか? という話が一方で出てきます。
平行連晶さんが仰っていたことは、そのようなことなんじゃないかと思うんです。

僕が思っているのは、「肥料を入れなくなって、また耕さなくなって、年が経てば経つほど どんどん美味しくなっていく」と言う人たちは、そのようなものを「美味しい」と感じるように味覚が変化していった人たちなのかな?ということです。

僕の中の「美味しい」の基準は、何にも言わずに誰かに食べさせてみて「美味しいね」と言われる、それが基準だと思っているので、上記の人たちの言うことに疑問を持ってしまうわけです。
アキラ
2013/01/01 14:23
年越しコメありがとう(笑)

味覚の変化ですね。
感覚の変化ってのは、考えどこですね。
またしてもアホテレビの「格付けチェック」を見てしまったのですが(笑)、相変わらずストラディバリウスが判らない。というか、もともと聞いたことないのですが。
価格によって良い音に聞こえたり、美味いと感じたりするのはよくあることで、自然農法への「思い入れ」が美味いと感じている可能性はあるかもしれませんね。
感覚というのが「鍛えられたり」「研ぎ澄まされたり」するものかどうか、というのも面白いし、万人が美味いという味があるのかは、さらに面白いですね。
本のほうは、バカ舌が多くなっているからダメなんだ、という論法なんですが、、、。

毒多
2013/01/02 09:36
お久しぶりです。
年末より暫くネットから離れていました(実家がFTTHを解約してPCもなくなったので)。

で、私が何でこういう話を書いたかというと、アキラさんのいう“「生命力が強い」ということと「美味しい」ということはイコールなのか?”と近いことがらです。

むかし擬態に関する本を読みましたら、ミュラー型擬態とベイツ型擬態という術語で出てきましてね。
マダラチョウの仲間は食草から毒を取り込んで、自分の体に毒性を持たせます。ちゃんと育つと、捕食者にとっては不味くて食えない代物になる。
でもって、このマダラチョウと外見や飛翔のスタイルが似ている無毒の蝶が捕食者に避けられ、生存確率が高まる(と言われている)。これがミュラー型擬態。

植物は食害を受けると警戒物質を放出して、食われていることを周囲に知らせます。これは現在のところ科学的に立証されている。植物は食われることを忌避する。

生育状態が良くなるほど捕食者の嗜好性が増すのであれば、「美味く」育つことは植物の生存にとってはあからさまにマイナスです。自然下では、美味く育つことは淘汰圧を自ら高めることになる。

他方、植物には果実を食わせて捕食者に種子を運ばせる・蜜を吸わせて受粉させるという側面もありますので、捕食者の食性を杓子定規に忌避しているわけでもありません。
とはいえ、植物が「美味い」こと自体がそもそも「自然において特異な」状態である可能性は、否めない。
そもそもあらゆる植物の中で「食用に適する」植物がどれほどあるのかを考えてみれば、「美味い・不味い」は、たまさか食用に適する植物に対する人間・動物の味覚・食性の親和性(とその揺らぎ)に収斂してしまう程度の問題かもしれないのです。
平行連晶
2013/01/20 12:59
訂正です。
>術語で出て → 術語が出て

味覚の問題。
技能・技術の問題。

私はこれを分けて考えます。

味覚の発達は、人間の脳の容積が大きくなったことによって偶々もたらされたものと考えます。ラマルキズム的な用不用の「用」により伸長してきたとは、私は見なさない。

子供時代、私が面倒を見ていた飼い犬は悪食で、散歩の途上で路上に落ちている「食えそうな」ものなら何でももくもく食っちまいました。土まみれでも、半分腐ってるようなものでも委細構わず食って、それで腹も下さず恬淡としている。その味覚における無頓着さには感心さえ覚えました。

恐らくもともと味覚は「食えるか・食えないか」のラインを判断するセンサーだったと思われます。
恒常的に餌にありつけるわけではない暮らしをしている動物が、食えるけど生育状態が芳しくないので味に劣る…要らないとか言ってたらお陀仏ですから、味覚の嗜好性が先鋭化されすぎれば生存にとって不適となります。

不味くても腐っていてもものともせずに喰らう。
生存能力の高い生物とはそういうものではないですかね。
動物や昆虫などには「専食」という極端な偏食の生態を持つものがいます。これが味覚を基準にしたものかどうかは分かりません。ただ、他の動物と食性を変えることで餌の取り合いを避けるとい利点がありますので、選り好みにも生存にとってプラスになるものはあると言えるでしょう。
平行連晶
2013/01/20 13:47
余談ですけどかつて飼っていたメキシカンキングスネークは、冷凍マウスを好む一方で冷凍ラットを嫌がって食いつきが悪かったですね。冷凍マウス(もちろんラットも)は保存期間が長くなる(古くなる)とミネラルが破壊されて質が低下すると言われていますが、うちの蛇は新鮮なラットには見向きもせずに腹の辺りが変色した古いマウスを喜んで食べていました。
原産地にはラットがいないのかもしれません。しかしキングスネークは蛇食(蛇を食べる)という食性があるのです。蛇とマウスだったらラットとマウスの方が遥かに臭いも喉越しも、そして滋養に関わる組成も近いはずですよね。

嗜好性の問題と生体としての味覚「機能」の鋭敏さ。これが私にはそれほど直截にリンクしているとは思えないのは、こんな小さな経験によるところが大きいのです。

経験を語る愚、と言われればそれまですけどね。

技能についても書こうと思ったものの、さすがに長すぎるので、短く。
現在、稲は様々な品種が固定されており、多品種との交雑が起きないよう品種改良によって稲穂を変形させられています。
人為的交配を除き、自家受粉しかできない稲穂の形に変えられている。

これは愚樵さんの言葉を借りれば、技能でなくて技術です。
私のようなど素人が育てても、コシヒカリは自家受粉しか出来ない稲穂を実らせるわけですから。風媒は起こり得ない。

つきつめると、愚樵さんはこのような品種改良「技術」も批判することにならざるを得ないと思うのですが、いかがでしょう。
平行連晶
2013/01/20 13:56
平行連晶さん、コメありがとうです。

愚樵さんへの「問」で締められていますが、愚樵さん島移住後やっとネットに繋がったばかりのようですし、めちゃ忙しそうなので、はたしてちょっと古めのエントリーに気づくかどうか?って(煽っておいて・・・笑)、思うところを少し。

この間「サヨっち、ウヨピー」というエントリーを挙げました。サヨっちとウヨピーと分けて何が違うのかを整理したってのはあるのですが、実は本当に思索したかったのは、

>形而上|人間(のシステム)|野生(自然)、環境

という図のほうで、|は「境界」として、一番右の「野生」ってのは「自然」にしようかと思ったのですが、人間が自然かどうか、、とか、、、アタマがシステムで身体が自然だ、、、みたいな話もありますので、とりあえず「野生(自然)、環境」としてみました。
毒多
2013/01/21 16:58
もともとのエントリーの本は、「野菜」にしても「農業」にしても、それらに付随するアレやコレやにしても、人間(のシステム)の内の話だと思うのです。ただ対象の野菜も生き物ということで、割りに「野生、環境」の境界辺りにいる。で、土とか、植物のもっている生命力とかと関連づけたいのだろう、と思えてきます。または、境界の右向き(野生方向)でいたいという希望を述べているのではないだろうか、とも思えます。
つまり人間と野生の境界辺りにいるとして、技術(科学)が人間(のシステム)の中心へ向かうベクトルならば、技能は右の野生(自然といいたいwww)に向かうベクトルにある。ということ。ただ、「本」では、そこにかこつけて、法律とか流通とか生産性とかの農業事情に絡ませるので、ちょいとややこしくなる。
おそらく、境界といっても一本線の境界でなく、緩衝地帯(野生(志向での)との共存)ということで、里山的な話になってくるのではないか、と考えました。技能(野生志向のベクトル)のほうが、上手くいくんじゃないのかいな、という提案になるのかな。
毒多
2013/01/21 16:58
味覚もシステム内で考える味覚と、野生(自然)のなかんで味覚の果たす役割は違うと思います。またシステム内における味覚の違い、嗜好の違いで味覚も違うことには同意します。

どうも、ややこしくなるのは、システムの内にいてシステムのことを思索するのか、一旦野生(自然)に身をおいてシステムをみるのか、境界に立ちどこに向けて考えるのか、、、というような風に個人的に整理してみました。

毒多
2013/01/21 16:58
>毒多さん

技能→技術への転回において、最初に技術に手を伸ばしたのは技能社会における敗者(弱者)だろうと私は推測しています。

毒多さんは楽器を演奏なさいますよね。
以前書いたかもしれません。私も数年間器楽をやっていました。手弾きの演奏というものは、もろに技能の領域です。マニュアルを読み込めばそれで身に付くといったものではない。

そして、「天分の差」が残酷なほどはっきり露呈するものです、技能の領域は。私はそれを経験しています。自然も同じですよね。まさに優勝劣敗そのものです。ダメな奴はダメ。

野菜を栽培したことはありませんが、生物飼育は好きで色々育てました。食い物ではないので味で確認は出来ませんが、飼育の技能がなければ、生物はコロコロ死ぬ。そこで判断が付く。
でね、飼育する技能が身に付かない人間ってのも、いるんですよ。生物を生かすことが出来ず、殺してしまう者が。ダメな人はやっぱりダメなんですね。ここにも天分が関わってくる。

天分ってのは、自然の領域であると私は感じます。収斂で到達できない領域が、明らかに存在する。

そこで、ダメだった人・技能の領域における落伍者を救ったのが、技術だったはず。その技術が人間の疎外や創造性のスポイルを招いたと言うことも、また事実でしょうけれどね。

平行連晶
2013/01/22 20:44
訂正です。
>収斂で到達できない
→修練で到達できない

父方の従兄が自作農なんですが、私の父に言わせると「ちょっと足りない人」で、野良の才があまりないみたいなんです。確かにこの人の作った米とか、あまり美味くない。コクゾウ湧かせちゃったりね。

でもね、この人が農家を何とかやっていられるのは、多分現代農業の「技術」があるからだと思います。技術の力で食っていくだけの収量や、なんとか売り物に出来る質の作物を得られている。それがなかったら、農業で生きていけず、食い詰めたんじゃないかな。まあ間違いなく古の技能社会では落伍していたでしょうね。技能が身に付かないタイプの人。

まあ、そういう弱者もいるんですね。
平行連晶
2013/01/22 20:54
技能が天性のものであるとすると、エントリーの元の本は、結構無茶振りしてますね。才能のないものに習得しろ、みたいな(笑)。
まあ、技術によって技能が退化した、ってことはあるのかもしれません。これは農業だけでなく、すべてに言えそうです。
味覚も、臭覚も、触覚も、技術(システム)によって、敏感でなくても生命は維持できる、というような。時に先祖返りではないのですが、先天的に臭覚に優れた人が現れ、「調香師」になる。それでも、システムに埋もれて行くと、その臭覚も麻痺する、、というような。

技術ってのは、個人的技術と全体的技術がありそうです。個人的修練によって伸びる技術と、科学的技術によって修練しなくてもなんとかなる、と、いったような。いやいや前者には技能が必要なのか、、、。
後者は、システムと密接な関係になりますね。
毒多
2013/01/25 08:18

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