毒多の戯れ言

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zoom RSS 「金曜脱原発デモ」・・システムが恐れるものは

<<   作成日時 : 2012/10/11 16:50   >>

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 前々回は「まどか☆マギカ」で前回は「湯浅誠」かぁ、いったいどんなブログやねん。と我ながら分裂症ぎみかなぁ、とも思う。
 で、今回は「金曜脱原発デモ」のことを書こうとしているのだから、さらに分裂症状が加速している気がしなくはない。でも、なんとなく繋がっているような気もしている。
 「国会前の反原発デモ」のことは、主催者?通知に拠る「(組合とかの)旗揚げ禁止」とか「てめえらハネるんじゃねぇ」と藤波心ちゃんが叫んだとか叫ばなかったとか、と噂になったときに書こうと思ったんだけど、こんなに遅れてしまった。もし、そのころ書いていたら元サヨっち運動家のアタイとしては、ケッ!! 多少ハネるのは仕方ねぇだろうが、ふん権力と仲良くやりましょうとはならねぇつうんだい、このガキが!! だいたいデモ指揮はどうなっとんねん!! ガキにデモ指揮させとんかい!!!! とか書いていたかもしれない。、、でもでも書き遅れたので、そう書かずにすんだ。あぁ、よかった。うんうん。
 それにしても10万人かぁ、10万のデモ指揮っていったい、、小澤征爾でも無理やろなぁ、と想像しながら浮かんだ画にあっけに取られたり、いやね、それにしても10万人ってのは凄いなぁ、、、運動としてアチキが増やせた仲間って何人だろう、と思って落ち込んだり、いやいや、とにかく、10万はスゴすぎだろ、と元運動家としては思わざる得ない。
 実は「湯浅誠」の講演を聞きながら10万人の画を思い浮かべていた。10万の行動をこの講演で説明してくれやぁ、ってね。運動論においてどれだけクリエイティブにしようが変化球をなげようが、「運動」であるかぎり限界があるんじゃないのさ、ってね。10万集まっているのは「運動」じゃねぇよなぁ、ってさ。頭で考えたり、変化球なんて考えている限りそれは「戦略」でしかなく、「戦略」では10万の「魂」は「覚醒」させられない気がするんだけどなぁ。え? 
 なんでいきなりで、とつぜんの、「魂」「覚醒」やねん、てか?
 おもうんだけど、福一の人為事故以前も散々「反原発運動」ってのはされてきたし、叫ばれてきた。運動による言葉によって、集会によって、デモによって、でも実際に動こうとした人は少数だった。たとえ説明を聞いても、熱心に説かれても、それでも多数は動こうとはしなかった。なぜ動かなかったか? 伝える方も「考えて」伝えて、受け取る方も「考えながら」受け取ったんだろうねぇ。考えた結果、動かなかった、と、思うわけさ。
 でも、今回の10万は動いた。考えて動いたのか? 否、知らず知らずうちに動いていたんじゃないのかなぁ、と思う。身体が動かずにいられなかった。気づいたら動いてしまったんじゃねぇ、ってね。その「身体が動いてしまった」ってのの「魂の覚醒」:と名付けたいと思うの。
 湯浅誠の講演は「運動論」としては面白いんだけど、やはり「運動論」なんだよなぁ。10万の魂は覚醒させられないのとちゃうやろか? 、、ちゅうか、湯浅誠自身の魂を覚醒させているのかな、とさえ思ってしまう。いや、湯浅誠にしてももともとのとっかかりは魂の覚醒のなせる行動だったと思う。動かずにいられなかった、気づいたら身体が動いていた、でも、序々に考えるようになる。「運動論」「方法論」「変化球」ってさ。
 でもね、それは社会のなかの「運動論」「方法論」「変化球」じゃないかなぁ、って思うわけ。社会ってのは多数をコントロールするシステムを持っている。持っているというか制御そのもの。湯浅氏が講演で話した「運動論」「方法論」「変化球」もコントロールを前提にしたもの、いやいや、もっというならコントロールが前提の社会を前提にしたものじゃないか、ってね。それは、氏自身の魂の覚醒をも阻害しているんじゃないのか、と思うんだよね。氏の言葉でいけば、その事自体がハードルになっていてまたバリアになっている。
 多数が魂を覚醒させるのは「頭」で考えた「方法論」ではない。
 まどかは考えている間は動けなかった(契約しなかった)。最後に契約したのは、もう考えてじゃなくて、身体がそれをせずにはいられない、、という状態だったんだと思う。もしまどかが「何のために」「意味は何」「評価ってどう」「誰が認めてくれる」なんて考えていたら、おそらく行動(契約)しなかった。まさに身体が動いて(契約して)いた。ということだ。と、同様に10万の身体は動いてしまっていたんだろう。
 魂の覚醒として動いてしまった多数にとって、無意識に制御・コントロールをともなう「運動」に違和感を感じていたのではないか。その結果、運動の象徴であるとこの「旗禁止」「ハネ禁止」となって表れた気もする。
 ただね、「魂の覚醒」を維持するのは難しい気もするんだよね。だれしも頭をもっているわけだから考えるでしょ。どうすればいいのか、あれこれ考えるさ。当然だよね。湯浅誠でなくても考える。考えると覚醒した魂にまた制御してしまう。考えるということは魂の覚醒をコントロール・制御すること。勝手にうごく身体が、、勝手にデモ行進している身体になんでだろう、と疑問をもち考えると魂の覚醒が制御されることになる。(「旗禁止」「ハネ禁止」ってのはコントロールだからね。)
 制御されるということは、社会のシステムと同じ構造になっていくかも?そうなったとき、社会のシステムのほうは「社会運動」にたいするのと同じように「恐れない」かもね。社会システムが恐れるのは、違う土俵にいる「魂の覚醒」かもしれない。
 可視化された「魂の覚醒」。覚醒された魂の振動の波がひろがりより多くの魂の覚醒をゆさぶることを、個々の魂を制御しようとする社会・システムは恐れるのかもしれないな。

 このまま、魂の覚醒が増幅していけば、なにかを見ることができるかな。見えたら面白いな。
 ただね、この論でいくと、社会秩序というめんでは面倒なことになるかもしれない。でもとりあえず面倒になるのは既成の社会秩序。とはいえ、・・・・




どうでもいいんだけど、元運動人のアタイにとって「魂の覚醒」への「運動」と言う名のバリアがあって、そのバリアを克服するのはなかなか大変だなぁ、と実感している。



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タイトル (本文) ブログ名/日時
希望の純粋形
『魔法少女まどか☆マギカ』ネタ。 ...続きを見る
愚樵空論
2012/10/12 03:21

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内 容 ニックネーム/日時
我々の間では、しばしば「思索」という言葉が出てきます。

思考(考える)≠思索

私の定番であるところの、〈 〉と【 】を使って表現すれば、

【思考】≠〈思索〉

『魔法少女まどか☆マギカ』は、まどかの〈思索〉の物語。

〈思索〉の行き着く果てが「空」になるのは、当然と帰結です。(ワタクシメの愚考記事をTBさせていただきます。)

〈思考〉と【思索】の差異は、言葉の使い方の違いです。

〈思索〉【思考】はいずれも疑問から始まる。疑問はモヤモヤしたものですが、そのモヤモヤを言葉を当てはめていく。言語パズルみたいなものですね。言葉は、モヤモヤを埋めるための「部品」ですが、その部品そのものには疑問を持たない。

疑問を持たないためには、その「部品」はなるべく共通規格のものがいいわけです。だから、一生懸命【勉強】して、共通の、しかもなるべく最新の「部品」を手に入れようと躍起になる。

「市民」というのは、そういう【勉強】をする者たちですね。

一方、〈思索〉というのは、モヤモヤが言葉に昇華するのを待ち続けること。なので当然、そうした言葉は共通「部品」ではない。その者自身の、オリジナルな言葉になる。

こういう行動を取る者を指す言葉を、論語では君子。アリストテレスなんかは賢人と呼んだのでしょう。

まどかは君子ですね。
愚樵
2012/10/12 03:35
「魂の覚醒」が起こるのは、魂の作動を阻害する【蓋】が外れるからですね。では、【蓋】とは何なのか。【言葉】です。【思考】で「部品」として用いられる【言葉】。

“日本では「市民運動」より「庶民運動」のほうが力をあるような気がする。というより、「庶民運動」が「市民運動」へと変質しだすと力を失う。”

↑ は、私のツイートですが、本文で取り上げられた10万人は「庶民」ですね。「庶民」とは、【言葉】によって【蓋】をされる前の人。と感じたことを、【思考】せずに、そのまま行動に移す人たち。だから言葉を持たない。【言葉】も〈言葉〉も持たない。

>このまま、魂の覚醒が増幅していけば、なにかを見ることができるかな。見えたら面白いな。

偉そうに言わせていただきますが、私には見えています。正確に言えば、見えているような気がしているだけかもしれませんが、とにかく、ビジョンはある。それを、私のオリジナルの言葉でなら、表現はできる。

が、オリジナルな言葉は共通性がないために伝わらない。言葉は情報ですが、情報は共有されければ価値がない。伝わらない言葉には価値はない。

価値こそ、秩序の源泉。価値を生まない言葉は、無価値。無意味ではないけれども。

無意味ではないが、無価値。このギャップが、私の抱えているジレンマです。
愚樵
2012/10/12 03:52
付け足し。

上二つのコメント。なんだか、私は賢人で君子だ! と宣言したみたいに読めてしまいそうだけど、違います。

賢人とか君子とか言われる者のイメージは、掴んだと思ってはいる(間違いかも知れないけれど)。そのイメージを掴んだからこそ、自分が賢人でも君子でもないことがよくわかる。

君子とか賢人とかいうのは、「価値」を生み出す者でなければならない。オリジナルな言葉だけでは「価値」は生まれないんです、残念ながら。だから、〈運動〉が必要になってくる。

ここでいう〈運動〉は、もちろん市民【運動】とは、別種のものです。

この〈運動〉を成功させることができれば、私も君子になれるかもしれないな。わはは。

この世には、アニメと違って、キュウべえは実在しませんからねぇ
愚樵
2012/10/12 04:01
ひとつは、ワタシ自身について。
運動をしていたという事実が【蓋】になって「魂の覚醒」を阻害しているいち【市民】なんだなぁ、と自覚していることを書き留めておきます。すんなり「脱原発デモ」やら「集会」にいけない。知らず知らずのうちに身体が動いていきません。身に染み付いた感覚ってのはけk恐らくこういうワタシであるので、「魂の覚醒」が増幅された結果(行く末)が見えないのかもしれません。

ワタシはここのとこモヤモヤしていたので〈思索〉はしていたのでしょうかね。
まどかと湯浅誠と脱原発デモが繋がったのはラッキーだった。でもその間に愚樵さんのエントリー「言葉」があったのは間違いない。
最近の愚樵さんの「言葉」はわかりませんでした。とはいえ何となく解りそうな気はしてましたが、、、。もう一歩がモヤモヤしていた。
「オリジナルの言葉」は共通性がないといいますが、伝わらない、繋がらないわけではないですよね。むしろ伝わった・繋がったときの広がりは大きいような気もします。
毒多
2012/10/12 13:15
やっと貸し出しの順番が回ってきて、今夕『原発危機と東大話法』を読みました。
とても面白いですよこの本。自分自身の欺瞞を告発され暴かれる快感があります。刃がまっすぐ自分を刺してくる感覚が気持ちいいです。

覚醒。覚醒させた「功績」は、何よりも放射性物質の皆さんにありますよね。ディヴィッド・フィンチャーの俗悪極まる素敵な『セブン』に「こんにち他人に話を聞かせようと思ったら、頭をハンマーで殴りつけるしかない」という名台詞がありますが、結局覚醒するには放射性物質自らによるハンマーの一撃を待つしかありませんでした。殴られなければ、耳を澄ますこともない。悲しむべきことかもしれません。

今は、覚醒した者達が欺瞞への拒絶反応を体で表しています。それが反原発デモ。シュプレヒコールは痛み・恐怖・嫌悪・不信の叫びと重なります。

そして、今。
デモはハンマーたり得るか。
もちろん相手を打ち倒すための、でなく、話を聞かせるためのハンマーです。欺瞞言語の強固な武装に対して、打撃を加えられる、ハンマー。

ハンマーを探しています。
まず自分自身に対して、話を聞かせるためのハンマーが必要。
欺瞞でない、真の呪いの力が、まだ足りません。
Evil against Evil.
平行連晶
2012/10/14 01:02
>システムが恐れるものは

システムに心はないでしょう。
心を持っているのはシステムを成り立たせている一人一人の人間です。
あとは、その心が何によって動かせるか、ですよね。
平行連晶
2012/10/14 01:21
平行連晶さん、おはようございます。

 安冨さんの「東大話法」は、愚樵さんがさんざん「読め」といっているのに、未読で、未読なのに愚樵さんと話そうとしている態度はそうとう欺瞞なんだろう、と申し訳なくは思っているんですが、、、最近のワタシはどうも行動が遅いようです。老眼が急速に進み物理的に本が読めないことも原因なんですが、、、、
 
 運動時代の「反原発」は、本心より恐怖やら危険を感じていない思考的な行動で、今の「脱原発デモ」は感覚的な行動ですね。前者はハンマーを頭で考えて、ハンマーで殴られることを考えて、殴られた結果を考えて、そのうえの行動。後者は実際に殴られた上での行動。
 空論での愚樵さんとアキラさんの会話では、前者が「正常」な行動、後者が「健全」な行動になるような気がしています。
 前者と後者が見た目「同じデモ」という行動にみえても、異質なものというのは、前者が「社会」を前提としたうえで異を唱える、後者は純粋に自身の感覚によっておきた行動と考えると、「社会運動」がマイナス150だなぁ、と書いたのは「正常な社会を前提」にしている、からです。
毒多
2012/10/15 08:33
 しかしね、ハンマーがないと行動できないってのも、そうとう肌感覚が鈍っていると思うのですが、結局は「正常な社会」で満足というか、慣れ合って過ごせてきたと言えるのではないでしょうか。「蒙」を意識することなくきた。
 あれ?「蒙」にわりに敏感だった人が社会運動を肌感覚ではじめた(動かざる得なかった)と考えると、その最初の行動は「感覚的」とも言えるわけでマイナス150というわけでもないか。むしろ「正常な社会」前提として思考するってのが問題なんだろう。ワタシが運動をしていたころ考えていた「矛盾に満ちた社会(多数にとって正常な社会)から、切り捨てられた青カンを元の矛盾に満ちた社会に戻すのは矛盾に満ちてないか?」という疑問の答えがようやく見えそうです。

 むかしブログコメント欄でアキラさんと話したのですが、アキラさんは「社会運動」という感覚がまったくないから、ワタシのような運動人が何を言うのか興味があると言ったこと。またそんなアキラさんが「むかしばなし」のなかでワタシが運動人として凸する話しに違和感を感じないとコメントしたことを思い出しています。

 「空論」での愚樵さんとアキラさんの会話は面白い。久々に思索意欲が沸きます。
毒多
2012/10/15 08:34
 >システムに心はない
 なにをして、ワタシが「システムが恐れる」と書いたか振返ってみすと、システムに疑問もなく乗せられている庶民とシステムを操り都合よく操る権力とわけていました。権力が恐れるものは、、、ですね。「正常な社会」前提でのシステムです。
 おっしゃるように実際のシステムは全ての個々の統合ですね。
毒多
2012/10/15 08:35
追加です。

動かずに居られない:思考して動く・・・の例。
普天間の米軍基地・オスプレイ反対運動:思考して運動的に反対すること。
放射性物質が飛んできたとされる東京の脱原発デモ:飛んできたとされない名古屋の脱原発デモ(いかん、叱られる。でも、それほど盛り上がっているとは思えません)

いずれの後者も現地にいってハンマーで殴られれば前者になれるんだろうと思います。
とすると、現場に飛び込んでいる湯浅氏は前者なんだよな。

動かずに居られない:思考して動く=健全な世界:正常な世界
という式は成り立たないのかもしれないなぁ・・・・
毒多
2012/10/15 08:50
>毒多さん

>「蒙」にわりに敏感だった人が社会運動を肌感覚ではじめた(動かざる得なかった)と考えると、その最初の行動は「感覚的」とも言えるわけで

この、感覚的な人たちが「理論的な支柱を打ち立てた」人たちによって排除される過程というものがあったはずです。というか今でも、あるでしょう。

音楽の話がありますが、アレック・エンパイアやら中川敬やらといった人たち、この人たちは所謂リベラル・反権力・反グローバリズムという思想・姿勢のミュージシャンです。
彼等は互いに交流もなければ、やってる音楽のジャンルも違いますが、共通して面白いことを言ってるんです。

「自分の(主宰する)レーベル(のミュージシャン)に対しては“極めて資本主義的な”姿勢で臨む」

要は、個人としての思想の面では強欲資本主義や権力の専横に激しく抵抗するが、自身が権力を掌握している場においては、自身の嗜好・商業性などに則り検閲を行使する、ということですね。

安富氏が指摘する、立場主義の鑑です。

20世紀初頭のシュルレアリストの中にも、反体制・反権力を掲げて社会運動にコミットしていた作家たちがおり、それに参画した女性の作家が、グループの中ではあからさまな性差別やパターナリズムが横行していたと批判を向けていました。誰だったか、名前は忘れましたが。
平行連晶
2012/10/17 12:26
前述の音楽の話に戻りますと、レーベル運営なんてのは、音楽ソフトのプレス資金調達やらプレス枚数の調整・在庫管理(この辺はデータDL販売の伸長で状況変わってますが)・販売戦略・ミュージシャンとの契約など、各種の企業家としての仕事を求められますよね。

こういった「事業」活動のノウハウに斬新なアイディアを持ち得なければ、既存の成功モデルを流用するしかないでしょう。
すると必然的に、彼等が厭う「システム」を参照・複製することになる。

社会運動においても、組織化・組織運営には理念の共有や人事といった面に関して、既存のシステムを参照せざるを得ないことが多々あったはずでしょう。
すると、そういった面に通暁した個体がオーガナイザーやその領袖として頂点に立ち、一方では組織化に伴って立ち現れる「複製されたシステム」に対して身体感覚で“また、これですか?”と感じ取ってしまう個体が出てくる。両者が対立すれば、複製されたシステムに依拠する側が優位に立つに決まってますから、違和感を覚える側は淘汰されるしかないですよね。飲み込まれていくか、排斥されるか。
平行連晶
2012/10/17 12:44
はい、仰るとおりですね。
 はじめ「感覚的」に動いたり、歌ったり、書いたりしているのにいつのまにやらシステムの参照、複製をしている。運動においては、結局ワタシも同じことをして、モヤモヤしていましたが(ブログにおいても)、、、ようやくここにきて、そういうことだったんだなぁ、と考えることができるようになりました。一方でシステムのなかに在って「感覚的」に動いているだけで、食っていけるかぁ!! ということになります。それとこれとは別みたいな感じでいて、実はずっと割り切れなかったんですが。
 けっきょく食っていきながら、脱システム化、システムの改革、を意識するという矛盾を抱えなければならない、そこがネックというか、なかなか脱することができないところです。精神的に脱している、でいいのだろうか、という疑問もありますし・・・少数の青カンはシステムに阻害された結果「感覚的」に動けるようになった、でも食っていくのが困難、でも、感覚的に連携できる「青カン」村が点在したりする、、、ってのも思い出します。

 個としてドロップアウトしていけばいいのか、連携して脱システムしていかなければシステムそのものが変わることはないのか? 
 連携して脱システムすること自体がシステム化してはもともこもないので、「感覚的」な連携を意識しなければならにのだろうけど・・・・

中途半端なコメントですみません。
毒多
2012/10/18 08:31
>連携して脱システムすること自体がシステム化してはもともこもないので、「感覚的」な連携を意識しなければならにのだろうけど。

そういう意識に基づいて生活している人たちに、大鹿村で会ってきましたよ。

「部族宣言」
http://members.jcom.home.ne.jp/kyamaji/buzoku.htm
愚樵
2012/10/19 07:00
いつぞやは貴twitterを汚し申し訳なかったね。

 ワタシが大鹿村を訪れたのは観光客としてだった。現地の人との触れ合いは宿屋の主人ぐらいしかなかった。宿屋の主人もどこか他所者と壁をもっているようで、積極的に交わる人ではなかったような気がする。それでも5年ほど通ううちに徐々に観光客ではなく、旅人になり、さいごには古里のような懐かしさを感じるようになっていた。そんな感じにさせる里だったと思う。

 「部族宣言」。大鹿村を思い出しながら、あの里の空気がそう言わせたのかな、と、ふと思う。空気と戯れる木々がみえなければ、深い夜の闇と満天の星がみえなければ、辿り着くのは困難かな。「システム」から「魂」を取り戻すのは、環境も関係するような気がしてならない。と、ここまで書いたところで、点在する青カンの小さな生活集団を思い出す。そういえば、彼らは他の生活集団を「隣りの部族」と呼んでいたな。あれにも「部族宣言」を見るような気がする、、、が、、、決定的に違うことがある。
 「システム」からドロップアウトさせられた、、と、、自らドロップアウトした、、、という違い。せざるを得なかった、と、しなくてもいいものをした。
毒多
2012/10/19 08:52
 「寄らば大樹の陰」という、批判的につかわれる言葉がある。でも、その批判は「システム内」における批判で、大樹の蔭だろうが大樹から離れようが、五十歩百歩なのかもしれない。この「大樹」が「システム」だとしたら、そうした意味で「寄らば大樹の陰」と使われるなら、非常に厳しく、決意して「宣言」しなければならないだろう。「宣言」することは、強くなければならない。

 宣言なしに実践している青カン村ってのは、強いのか否か? 支援は青カン村を解体し、システムに戻そうとしているのか? 支援に説得させられた青カンは村を解体してシステムに戻るのか?
 「宣言なし」にさせられた青カンは、幸運なのかどうかわからないが、都会(システム)から圧倒的に見下されている。システム人から見下され、支援から見下され・・・

 あれ、この「部族宣言」って、、、、1967年、、、、って。
 涙がでてくるな。
毒多
2012/10/19 08:52
>少数の青カンはシステムに阻害された結果「感覚的」に動けるようになった

>宣言なしに実践している青カン村ってのは、強いのか否か

青カンさん達の村が存続できたのは、「大きなシステム」から遺棄された、というか、システムのニッチに入り込んだからですよね。

「大きなシステム」を掌握する人々にとって資源としての価値がある、もしくは脅威となるほどの存在であれば、どちらにせよ介入を受けることになるはずです。
平行連晶
2012/10/19 22:34
支援は、青カンの「生活保護」獲得をめざし、住まいと食事の獲得をめざす。システムは「保護」を許容し、システムのなかに再度とりこむ。この介入をどう判断するか?

これをどう思索するか?  

感覚的に動くことと、システム内にいることが完全に矛盾するのか?
なんとなく不思議な感じはしています。

毒多
2012/10/22 08:32

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「金曜脱原発デモ」・・システムが恐れるものは 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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