毒多の戯れ言

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zoom RSS 「生きる技法」(3)・・・これはイマジンだ!! それとも憲法前文?

<<   作成日時 : 2012/05/03 14:51   >>

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 もともと個の生き方の提案が書かれている本だとは思うのだが、これをちょいと「国家」に、というよりも「日本」に当てはめて考えてみる。日本に「生きる技法」ができるかどうか、ってね(笑)

 この本の冒頭にある「コペルニクス的転換」ってのは、自立についてのことで、つまり、本来「自立」ってのは他者の助けをかりずに自ら立つ、と思われがちだったんだけど、本当の「自立」とはなるべく多くの他者と「繋がり」、他者の力をあてにすること(そうした関係をつくる)だというわけさ。それが「助けてください」と言えたとき自立している、という本の帯のフレーズにつながる。
 個人ばかりでなく、今や国家も他国との繋がりがなくしては成り立たたず、極力多くの〈繋がり〉をもち「助けてください」と言える関係、、というか、「助けてください」と言わなくても助けてもらえる関係をもつことが「生きる技法」ということができるだろう。
 日本は自給自足率の低さを批判するひとも多いのだが、コペルニクス的転換としての自立としては自給自足を放棄して、多くを他国に頼っていて、一見多くの繋がりにより生きているようなのだが、はたしてそれが「生きる技法的自立」だろうか?と考えてしまう。まあ、常に計算によって取引されていたり災害時の救援を断ったりするところ、必要もない軍隊を引き受けたりと、単純に〈自立〉してますといえるのかは非常に怪しい。
 本によると、コペルニクス的転換の自立をなすには、付き合う人(国)、付き合い方が問題とされている。ちょっとその部分の「命題(多少略してあります)」を抜き出してみよう。

〈命題1-6〉友だちとは、互いに人間として尊重しあう関係にある人のことである。
〈命題1-7〉互いに尊重し合う、互いに真の姿を探求し、勝手な像を押し付けない。

 いろいろな国との関係を思い浮かべ苦笑してしまう。
 だってねぇ、一番「親友だろ」と親友を押し付けてくるあの国のことを思うとさ(笑)
 そして、「友だちじゃないか」「きみやこういう人だろ」といい自分の都合のよいことを押し付ける、また押し付けあうことが人間関係の本質だという構えの人(国)のことを「破壊的構え」としたうえで

〈命題2-3〉誰とでも仲良くすると、あなたも破壊的構えに吸い寄せられる

 どうやら破壊的構えの人というのは、今の世のなかでいうとこの「成功者」が多いらしい。まあ、日本は誰とでも仲良くすると、、、ではなく、破壊的構えの国に吸い寄せられ、従属しているのだけどね(笑)

〈命題2-7〉嫌だと感じる人と、友だちのフリをしてはいけない。
〈命題2-8〉表面的な平穏さは、毒である。


 だってさ。ガハハハ、もう笑うしかないな。
 さらに、人は、誰かに脅されて「恐怖」を感じるとき、そうやって脅してくる人(国)を「自分のためを思ってやってくれているんだ」と合理化しようとする。そして「悪いのは自分」だと思い込むとしたうえで、

〈命題2-12〉「恐怖」には原因があるが、それを隠蔽しようとすると「不安」になる

 なんだって(笑)。

 このあとも、〈命題〉ごとに日本を当てはめると笑えてしまうのだけど、あまり書きだすと著者の安冨さんに悪いので、抜き出すのはこのぐらいで簡単に追加すると、近隣国にたいして日本ってのは「自己愛(ナルシスト)」(従軍慰安婦etc)だし、信頼関係より金で解決する(領土問題)って感じだし、、、、だし、、、、だし、、、、だし、、、、

 でもね、これって日本だけなのだろうか? ってことは考える。「アンチ生きる技法」ってのは、そも「国家」ってやつの宿命っていうか存在理由ではないのか?ってね。嫌だと感じる国とも表面的にうまく付き合って、へつらったり脅したり、金の力をもって取引をし、金に執着し、自国の利益のみを追及してetcetc、、、憲法前文なんて蔑ろにされ、、あっ!! 「アンチ国家」ってのは、憲法前文やらイマジンなんかだとすると、アンチ「アンチ国家」であるとこの「生きる技法」ってのは憲法前文やらイマジンにつながっていく気がしてきたぞよ。
 憲法前文の実践とか、9条の実践とか、イマジンの実践が国家の実践にならないのは、その対極に国家の存在理由があり、国家ってのは「アンチ生きる技法」でしかあり得ないのではないだろうか?

 そんな国家のなかにいるワタシたちが「国家の存在理由」に隷属したまま、「生きる技法」を実践することは困難だと言えるかな。ただ、個々の多くがコペルニクス的に引っくり返り〈自立〉できるのなら、国家そのものもひっくり返らざる得ないのではないかな。個々の多くは国家を構成するわけだからさ。もちろん「国家の存在理由」という環境よりも、「生きる技法的国家」という環境のほうが個々の自立もなしやすりだろうしさ。
 「国家」がこうだから個がそこに従属するのは仕方ないではなく、個が変われば社会、、国家もかわる、、となるはずである。変わっていく個は、個にとどまらない。この本は、このエントリーの冒頭に書いた、個々の生き方に対する提案にとどまらず、社会、国家、をひっくり返すものであるのかもしれないな。

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コメント(5件)

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・毒多さん、なんだかお久しぶり?

>個々の多くがコペルニクス的に引っくり返り〈自立〉できるのなら、国家そのものもひっくり返らざる得ないのではないかな。

国家が“ひっくり返る”というより、“溶ける”という感じかな、と私は思いますね。

よく国家が先か国民が先かという、鶏卵論争があるじゃないですか。あれは、歴史的にみれば国家が先なんです。国家が先にあって、後から国民が出来て、国民主権というのができた。

国民主権は大切だ! に異論はないけれども、でもそれは結局、国家を守ることに他ならない。国家あっての国民主権なんだから。

では、個々の人間が〈自立〉し始めるとどうなるか。主権も大事だけど、もっと大切ものがあるよ、ということになるでしょう。きっと。

けれど、よくよく考えてみれば、み〜んな実は主権者であることより大切なことを抱えているんだよね。だから、選挙にも行かなかったりする。けど、いままではそういう現実を受け入れないで、それじゃイカン! 民度が低い! とか叫んでいたわけです。

いいではないですか。主権より大切なものがあったって。それを認める代わりに、都合の良いときだけ主権に頼るのは卑怯だからやめましょう。

そうやって始まってくるのが「自治」でしょう。今、よく地方分権なんて議論されていますけど、これはまやかし。あくまで主権の下でですから。そうではなくて、主権は、もうたくさん! からはじまる自治。

こんなことをいうと、またぞろ、中国の脅威はどうするとか叫ぶ者たちが出てくるんだろうけど、そういうのは放っておいて。

>「生きる技法的国家」という環境

これ、いいね! です。
愚樵
2012/05/05 04:11
愚樵さん、おはようございます。

すみません。お久しぶりにしてしまって。
空論の「あのエントリー」にコメントしようと思ったのですが、結局コメントをまとめることができませんでした。ただ「何かを感じています」と書くのもなんだか、、、と思ったまま時間が過ぎています。

このエントリーを書きながら、その続きとして思っていたのは、結局「生きる技法」という本は、何を目指しているのだろうか?ということです。別に「生きる技法」でなくてもいいのですが、結局は「何故生きる?」とか「そも生きるとは何?」に回帰してしまいました。
個々が「善く生きる」でいいのでしょうが、人が生きるということは個が「善く生きる」では飽き足らないのだろうなぁ、ということです。
おそらく愚樵さんの「生きる」は「世界を〈霊〉で満たせ」なのでしょう。これは(ワタシが真に解っているか別にして)ワタシがみても〈善い〉と感じますし、それを見いだせたのは羨ましくも感じます。そこに至るまでに生半可なプロセスではなかったことも想像します。
で、その「生きる」は「自身を満たせ」ではないんですね。おそらくここは「お裾分け」ではなく「世界を満たせ」という生き方なのでしょう。
では、「満たした後」は、とかんがえました。「満たす」が目的なのか、「満たしたあとの世界」が目的なのか、はたして「満たしたあとの世界」はどんな風景が広がっているのか、、、、。
いずれにしても、「個が満たされる」はプロセスであって、目的ではないんですね。というこか「個が満たされる」で完結しえようがない、でしょうか?

>主権はもうたくさん!
はい、そうですね。民主主義ももうたくさん、だし、「みんな一緒」もうたくさん、だし、「差別をなくそう」ももうたくさんだし、ただ「生き長らえる」ももうたくさん、、、ああ、また嫌われそうだ(笑)。

毒多
2012/05/05 09:28
遅レスになってしまいました。

>おそらく愚樵さんの「生きる」は「世界を〈霊〉で満たせ」なのでしょう。

はい。ただ、少し付け加えさせていただくなら、「世界」=「社会」+「インターフェイス」なんです。

〈霊〉の居場所は「インターフェイス」なんですが、それは同時に人間同士の「間インターフェイス」=「社会」にも、存在するものでして。

といっても、これだけでは何がなにやらわけがわからないでしょうね。近々、ブログ更新しますので、お待ちください...なんて、宣伝になっちまったよ!

えっと、次の次か、次の次の次くらいです。もっとも、予定は未定ですが。
愚樵
2012/05/08 18:42
愚樵さん、おはようございます。

次の次?なんて書いてますが、さっそく更新されてますね(笑)。核心が次の次ということかな?

正直申しまして、ここのとこ愚樵さんのエントリーを深く読んでいませんでした。それでね、やっと読みたいと思えるようになって、今朝も過去記事を読んでました。「当事者」のエントリー、面白いですねぇ。面白いのですが、自分をふり返るとさらに苦悩しそうです。
もちろん今回のエントリーもゾクゾクします。
はたして、ワタシがその演奏を聞いた時に直接「魂」で感じることができるかどうか、非常に不安を感じますが・・・・感受できたら涙するかもしれません。

ところで、あのエントリーの最後に登場した「画」ですが、アキラさんとこで少し会話した「おにぎり」に繋がってしまいました。
梅干しが「魂」で、その周りを飯が囲んでいて、飯の上にミカンのヘタが乗っている。ってやつを想像しながら、読みました。
整体でいうとこの飯は「潜在意識」で、みかんのヘタは「顕在意識」、、梅干しは「本当の自分」だそうですが、ワタシは梅干しが「魂」で、飯が「人間たらしめるもの」として考えています。だんだん握り飯の飯の厚みがあつくなる。だんだん「魂」が深いところに追いやられる。だんだん届きにくくなる。これね、空論でコメントすると、じゃ、障害者は人間じゃないのか、、、、と誤解されそうで、躊躇してしまいますが、ちょっとこんな考えをもって思索(途中ですが)しています。
毒多
2012/05/09 09:31
・・・
あ、肝心なとこを書くのを忘れた。
ワタシのアキラさんとの会話からの妄想では、、、愚樵さんの画におにぎりを当てはめると、インターフェースと書かれている部分が「飯」であり、「人間たらしめるもの」になるなぁ、、、はたして、うまく収まるのだろうか(笑)




毒多
2012/05/09 09:37

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