毒多の戯れ言

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zoom RSS 「生きる技法」(2)・・・ジタバタするのは自己責任(笑)

<<   作成日時 : 2012/05/01 17:07   >>

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 つまり結局は「善い友人を持とう」ということだな。異議なしである。善い友人を持つために、善い自分であろう、というのもまた異議なしである。善い自分とは虚飾により自分を誤魔化さない、またオノレに虚飾を強いるハラスメントを見抜くといったとこか。自分が「善い」であれば、おのずと「善い」に囲まれ、オノレを「虚飾」で誤魔化せば、おのずと「虚」に染まる、となる、かな。

 というワタシは、もともとこの「技法」を実践していたと思う。
 虚飾に染まらず、知らず知らずのうちに「善い」だった気がする。
 もともと、学歴もなくエリートから程遠く人が羨むような地位も能力も、もちろん収入もないうえに、習慣やら伝統やらセレモニーやらを毛嫌いする性格で、ファッションやらにも興味はなく、さらにはいわゆる商売の「営業」などせずに仕事以外の部分、銭金に直接繋がらない「青カン支援」に没頭していてそこで仲間ができていった。ここでの仲間が〈友人〉と言ってよいと思う。
 現実に本に書かれているように、経済的な面においても、特に営業などしなくてもどういうわけか本当に困るまえに誰かが仕事を世話してくれたし(という意味では「助けてください」とも言わなかった)、ヤツらとそこそこ言い合っても「雨降って地固まる」だった。また、そこ以外の「友人」もワタシが「青カン支援」の話をすることで自然に淘汰されていった。恐らく青カンに関わるヤツなんぞが「友人」というのは体裁が悪いと、去る者は去り、知ったうえでも変わらず付き合ってる奴とは今も付き合っている。もっともそういう奴が【虚飾】的な部分がないかといえば、全くないとは言えないのかもしれないが、すくなくとも「友だちだろ」と言って「友だち」を強要してくるやつはいない。
 その後は息子の成長とともに保育園、学童保育とそれぞれに関わる社会運動にそれなりに入れ込んでやってきた。この辺りの動機は「息子のため」なんだが、測らずも息子と〈繋がる〉ことで、〈友人〉をつくることができた。「青カン支援」時代もそうかもしれないが、そこで〈友人〉をつくるということを意識することもなくとも、結果的に〈繋がり〉ができ、〈友人〉が出来ていったわけだ。そしてまた意識することなく〈友人〉たちになんやかやと与えられ、何かを分けることができた気がする。

 やりだすと結構、力を入れてやるため、「仕事はない」という「隙間」をそんな「社会運動」で誤魔化してきた、などと自分を揶揄していってみたこともあるが、実は逆だったのかもしれないと思うな。
 もっとも、これが本により〈友人〉をつくる、という言葉での説明と理解してしまうと意識せずに成り立っていたことが意識してしまうことになり、その意識するが【意識して繋がる】つまりその意識そのものが虚飾になるのではないか、という危惧がでてしまうのだが、、、(笑)

 話は変わるが、この本は「青カン支援」時代からのひとつの疑問に答えてくれた。
 それは「この自己責任社会から弾き出された青カンを、またその自己責任社会に戻す支援をすることは矛盾ではないか?」という疑問。
 社会の問題を並べ立て、社会が悪いから青カンが輩出されるのだ、と叫んでみても、結局はその社会をどうすることもできず、そのどうすることもできない社会に復帰させているアホらしさ。とはいえ、アホらしいと感じてはいるものの「何とかなっていってる」という事実はどう考えるのか? 
 まさに最初の疑問が「自己責任(社会)に毒された」疑問であり、解決法はコペルニクス的転換なのかもしれない。
 そこにあったのは、金がなくてもなんとかなっているという事実。そこは【支援】ではなく、人と人との〈繋がり〉が生きていて、ギブ・アンド・テイクでなく、損得でなく、無一文になり「助けてくれ」と言えた青カンが実証している世界だったのかな。ありゃ「支援」ではなく、〈繋がり〉の実践だったんだな。コペルニクスでいけば、この社会の最下層が最先端でありモデルケースなのかもしれない。もっとも【最下層】だからこそ提示できてるわけだが。もちろん他のケースもあると信じているけどね。

 さて、ワタシの話に戻ろう。
 まずワタシの最大の問題は、この「生きる技法」という本が、今いい本だと思ってしまったということである。
 つまり、いい本だと思うということは、それができていないのだ。昔は無意識のうちにできていたはずの「生きる技法」が今は出来てない。もし「生きる技法」が無意識にでも実践していれば、これを読んでも「だから何?」ってなものだろう。でも、今はこの本を読んだことで明らかに「ハッ」とした。それは言葉により言い表されたというよりも、できてない自分がいるということ。さらに問題はできていないことでイライラしている。ちょっと重症だな。
 そういえば子どもが学童保育を辞めてから3年かぁ。それぞれの時代の友人たちは今も友人だけど、合わないと忘れて、忘れ去られて、薄くなっていくな。今の不安はこの希薄になってしまった「繋がり」のせいかもしれない。
 やはりそろそろ何かやらないとダメなのかもしれないな。ここの「何かやる」部分は〈自己責任〉なんだよな。だからといってヤリたくないことを無理にやっても必ず【繋がり】になってしまうわけだし。とにかく、ピンと来るものにぶち当たるまでジタバタするしかないやさ(笑)
 さて、どんなやり方でジタバタしたもんかな。
 

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
 生まれてきた個人の生存費用までも自己責任で済ます動物的精神レベルの人類社会を進化させましょう。生きていくための費用など、身体という精神のインフラを養う費用に過ぎません。
 善意の助け合いも将来的な展望を欠いたままでは、片輪を欠いた人力車と同じで、いつまでも同じところに留まり続け、結果として現状の維持に手を貸してしまうことになります。
 「生存費用の社会保障」こそ、世界の人類へ希望の灯をともすオベリスクとなるでしょう。これが真の助け合いです。
山路 独
2012/05/02 04:39
山路さん、こんにちは

生存費用は、みんながそこそこ働き助け合えば稼ぎだされるのでしょうね。ただ食えればいい、であるならばそれほど困難でもないのでしょう。
問題は、本質的な「将来的な展望」が見えにくいということにあるのかもしれません。
テーマの本の「生きる技法」では、締の部分で「成長」とあります。日々成長することで不安が除かれ「安心」できると書かれていました。
ワタシは、「成長し安心」できることが「生きること」かというわれると、解らない、というのが本音です。
毒多
2012/05/02 15:13

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