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zoom RSS 「癲癇患者の運転」・・・運転しなくても不利じゃない社会なら

<<   作成日時 : 2012/04/17 09:50   >>

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 癲癇患者が車を運転して事故をおこすことについて、いろいろな意見があることを知った。
 いつ気を失うか解らない人が車を運転するのは危険だから運転免許を取得できないようにすべきだ、ってのは「普通」であり「多数」の感覚なのかなぁ?
 反対意見としては、危険といえば、車を運転するにあたりどんな人間も危険要素をもっていて、事故の確率としては特に癲癇が原因によるものが高いわけじゃない。癲癇患者だけを法により危険と認定して免許取得に差をつけるのは差別である、という意見もある。まあごもっともだね。
 今回「癲癇患者の運転」についての元になったのは、京都の不幸な事件がきっかけのようだけど、警察によると事故の原因は癲癇の発作ではない可能性が大きい、と容疑まで書き換えた、つまり、「その他の危険」にもかかわらず「癲癇患者の運転」だけがクローズアップされバッシングの標的になっているのはかなり差別的ではあるね。はい、それが差別であることは認めます。
 でもね、ワタシのなかのどこかで「やっぱ病気によっていつ気を失うか解らない人は車の運転しないほうがいいんじゃないのかなぁ」と思っているんだよね。正直なところ。どうしても確率
が少ないのだから、とか、車の利便性を健常者だけの特権として差別すべきではない、、だから、癲癇患者の運転もOKです、とは思えないんだよな。免許の許可不許可とか処罰の厳格化なんて思わないけど、やっぱワタシもやっぱ差別者なのかもしれない。

 っていうのも、例えば、自分が、もしくは自分の子どもが癲癇患者だったら、国家からの許可不許可とか、もしものときの罰が重いから、、、じゃなくて発作によって事故がおきれば「本人が不幸になる」からという理由で運転の反対をする気がする。京都の彼の家族もこれが理由で運転を反対していたんだと思うんだけど、これにしても「じゃあ、君は君自身も君の息子も自動車の運転をやめたほうがいい。事故の確率が癲癇だから高くなるわけじゃないんだからな」と言われるんだろうね。困ったな。これ以上反論するときっとご都合主義的な言い訳を言い出すに決まっている。
 でも、その差別に反対している人にたいして、こうは言えないだろうか?
 自動車免許のあるなしが「自己責任の社会」のなかで有利不利に働くから、癲癇患者だけの免許の取得を差別するな、、、というのであれば、それは「自己責任社会を助長させている」、そして「癲癇患者」のことを本当に考えてないのではないか、ってね。少ない確率でもそのことによって事故をおこす可能性があるなら、やはり不幸だと思う。差別性を言う理由は、その「不幸」を社会のなかの有利不利という視点で免許取得を差別するのは「不幸」としているんだよな。癲癇協会なんかも「癲癇」だから不利ということの是正を「自己責任社会」前提の権利の主張でなくて、「自己責任社会」そのものを問題にしてほしい気はするんだけど、、、なんとなく、現実ばなれの言葉遊びっぽいのかな。

 結局、車社会だけでなく、今のこの社会の全てが生命存続の危険をはらんでいる、ということを認識するか否かかな。車とか発電とか文明によって殺される人間はかならずいるなかで、どこで線を引くと多くの人が「納得」するということになるのか? 何によって線は引かれるのか、だな。もちろん文明によって助かる人間もいるわけで、文明そのものを否定できないのだけどね。文明によって助かるが100%で文明によって殺されるが0%なら良さそうだけど、それはあり得ないという前提もあるのかもしれない。
 助かる人:殺される人の割合が、9:1ならいいのか8:2ならいいのか? きっと2:8じゃ誰も許さないと思うけど、それを原発に感じている人が多いということかな。でもさ、9:1で犠牲が1なら納得しなくちゃならないのかというなら? そこにも疑問を感じてしまう。やっぱり0を目指す社会じゃなきゃさ(笑)。
 

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
>差別性を言う理由は、その「不幸」を社会のなかの有利不利という視点で免許取得を差別するのは「不幸」としている

功利主義が根底にある反差別、ですよね。
こうした反差別は、結局功利主義を温存してしまう形を取らざるを得ないわけです。

私は、自動車免許を持ってません。
原付免許は持ってますが、ずっと前から乗ってません。1台目は事故で廃車、2代目は盗難され骨組みだけにされ廃車ってのが切っ掛けなんですが、実際は運転中にぼんやり物思いに耽る癖が抜けなくて、こりゃ運転に適性がないなあと思って乗らなくなりました。
これは自分で決めたことで、他人からとやかく言われた結果ではありません。

しかし、かつて郷里の友人からこんなことを言われたことがありました。
「ここいら田舎では、車の免許持ってない奴はカタワみたいなもんだ」って。この意見は、おそらく彼だけの特殊なものではないでしょう。

健常者(嫌な表現ですが敢えて使いますよ)が車(の免許)持っていないとカタワであるという価値観と、癲癇患者には車の免許を与えるなという価値観は表裏一体です。
根底にあるのは、功利主義です。
やるせない話。
2012/04/17 22:30
あ。名前欄にタイトルを入れてしまいました。すみません。

承前です。

モータリゼーションを支えているのは、前述の功利主義です。この功利主義は、車に乗れなければ時として職業選択に制限が生じるという状況を生み出す元となっています。

癲癇患者さんたちの中には、職に就くために自動車の運転をせざるを得ない方もいらっしゃるでしょう。運転というスキルをもって自動車社会にコミットするのが当たり前という思考が、暗にそれを強いるわけです。

社会生活全般において、車なんて別に運転できなくとも構わないさという価値観が自明のものになれば、もう少し状況は変わるのじゃないかとも思いますが、癲癇患者さんたちから自動車運転の機会を奪うなという意見が「今日の自動車社会」を前提にものを考える価値観を補強するのであれば、結局のところ癲癇患者さん以外の方々の運転による自動車事故をも惹起する遠因になりかねないのじゃないですかね。
平行連晶
2012/04/17 22:48
今回はツイッターではなく、こちらにコメントを。

予想ですが、癲癇患者の運転は規制が強化される方へと動くと思います。理由は、それが合理的かどうかなんて関係のないところです。

とにかく今回の事件では、自動車運転の危険性が露わになったわけです。そして、それがどうも癲癇患者によって引き起こされた、と。

自動車運転の危険性でいうならば、なにも癲癇患者に限った話ではない。これから高齢化社会が進むとボケ老人だって多くなる。かなり猛威を振うと思いますよ。ご老人たちの誤操作による自動車暴走は。

でも、みんな、そんなところへ目を向けたくない。だから、適当なところで癲癇患者へ処罰感情を向ける。それでとりあえず「安心」して、本当の問題は先送り。

こういった「意識の構造」にメスを入れていかないと、癲癇患者自動車運転の可否も、原発の安全厨vs危険厨のような、不毛な争いにしかならない。

と思いますです。ハイ。
愚樵
2012/04/18 04:46
「生きるためには仕事をしなければならない個人責任の社会」においては、当然起こりうる混乱の一つです。
 根本治療は社会運営方式の変革=共生社会化しかありませんが、このような理解が一般化するには50〜100年ほどは必要ですから、このような混乱は当分続くでしょう。
山路 独
2012/04/18 06:01
おはようございます。
エントリーの補完、発展、ありがとうございます。個別レスしても内容が同じようになる気がするので今回は皆様へということでお願いします。

「功利主義」って言葉を提示していただけたので、改めて辞書引きしてみました。

1功利を第一とする考え方。
2幸福を人生や社会の最大目的とする倫理•政治学説。「最大多数の最大幸福」を原理とする。英国のベンサムやミルによって唱えられた。功利説。

 で、2の方を引用しますが、ポイントは「幸福」についてになるのかなぁ。いろいろ難しそうです。
 「幸福」が100%の人にとって「幸福」であれば問題あるやなしや、、というところから、いったい「幸福」とはなんぞね、、、になり、しかもやっぱり「最大多数の最大幸福」と「最大多数」しかあり得ないんだよね。ってことになるのでしょうか?
 問題は、現社会、現文明の発展、享受を「幸福」としてよいのか? もし100%「幸せ」と感じる発展享受であれば「幸福」でいいのかなぁ? 
現実は「最大多数」でしかありえない。しかも「最大多数」が「男」で「若者」で「健常者」で、さらには「日本国籍」で、、、、と限定されていき、その限定最大多数の確保のために法で縛るが、デフォの社会ってことになるのかな。
 文明は、「そんなことはない、その最大多数の枠を広げるために技術を磨いて、例えば癲癇患者が気を失っても安全な車、意識や運動機能が低下した老人でも安全な車の開発をしているんだ」と言うのだろうか?
 でもどこまでいっても「最大多数の・・・」でしかあり得ないわけだな。
毒多
2012/04/18 09:18
 
 つまり、それはこの文明発展のベクトルを前提とし、是認したものになるのだろうね。
 一度ちゃんと「幸福」とは何ねん、と根本に立ち返らなければならない。「脱原発」「反脱原発」の意見を読むときも、この「幸福とはなんぞや、という根本にちゃんと立ち返っているか否か」が判断材料になりそうです。

 「共生(社会)」ってのはいいなぁ。でも、制度を変えて「共生社会にします」っていうのでは、失敗する気もしています。今回でいえば「そも幸福ってなんやねん、という原点に立ち返る」個々が多数をしめることで自然に生まれてくる「共生社会」でなければならないのではないかな。と思っています。その「そも幸福ってなんやねん、という原点に立ち返る」ってことが出来ないことを現社会のせいにしてはいけない。そこには「自己責任」がある気がしているんだけどね。

 このコメントは再度考察して書きなおして、新たにエントリーしてもいいかもしれないなぁ。と「つぶやく」(笑)

毒多@つづき
2012/04/18 09:19
>癲癇患者が気を失っても安全な車、意識や運動機能が低下した老人でも安全な車の開発をしている

自動車事故の大半は、車両自体の抱える構造的欠陥(運転席のマットがブレーキペダルの下に潜り込んでペダルの踏み込みを阻むとか、ホイールを車体に固定しているボルトが金属疲労を起こして走行中に断裂、車体からホイールが外れて歩行者に激突・死亡などありましたが)ではなく、各種のヒューマンエラーによって引き起こされるものでしょう。
これは車両自体の衝突安全性をどれだけ高めても解消される類のものではありませんので、ヒューマンエラーを排除するためには運転という行為から人間を排除していく方向に進むしかなくなります。

ただし、これには問題があります。技術的な障壁以前に、フェイルセーフ/フールプルーフをどれほど高めても、それらが機能しないケースが必ず生じます。

それが起こったとき、誰がその責任を負うかという問題。

現在は、自動車会社やディーラー、中古車販売業者が構造的に安全であると確認された自動車を売った時、それを運転する者が誰をひき殺そうが自分の手足が千切れようが「弊社は関知いたしません」で済みます。

しかし、運転者のヒューマンエラーを排除したはずの自動車で事故が生じれば、今度は責任を問われるのは設計・製造者のヒューマンエラーです。
製造者が自己責任としてそれを背負うことを良しとするでしょうか。
平行連晶
2012/04/21 13:15
平行連晶さん、おはようございます。

レスとエントリーが前後してすみません。
「ヒューマンエラー」を考えだすとキリがありませんね。
誰もが納得する「仕方ない」が限界なのか? そんな「仕方ない」は得ないのか?
事故はなくならず、その都度「責任追及」するしかないのか?
とことん追及すると人間の存在が言及されそうです。
こういうのは究極のパラドクスになるのかな。

責任のなすりつけ合いってのは、「普通」にありそうですね。
これからは、責任のなすりつけ合いではなく、どうするかが問われているのかもしれません。などと書くとカッコイイのですが、さてどうしたものかと悩んでいる「普通」のブロガーです(笑)。
毒多
2012/04/23 08:35

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