毒多の戯れ言

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zoom RSS 「母の死」・・・親の死に目に立ち会う

<<   作成日時 : 2011/12/11 10:07   >>

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 チェッ、やっぱり年頃になるとジャンプができなくなるな。真央、おまえもかよ!! とブツクサと言いながらもフィギュアスケートのグランプリファイナルを観ようと思っていた。けど、真央がでないことになり観る気が失せたところをみると、やはり真央ファンなのかもしれない。跳べなくても華がある選手ではあるのだろうな。

 で、浅田真央がグランプリファイナルをキャンセルして帰国したのは母の病気の悪化であり、結局は死に目に間に合わなかったと聞いた。
 最初にこのニュースを聞いたとき、ワタシが感じたのは「あれ、仕事をキャンセルして帰るんだ」ということ。とくに誰にも言わなかったのだけど、死に目に会えなかったとニュースが流れていたとき、ツレアイにぼそりと言うと「私もそう思った」と言った。でも「今どきはそうかもしれない」と続けて言った。
 どうもね、ワタシなんかの世代はそういう教育を受けてきたのかな? 責任のある仕事があれば親の死に目より優先する、ってのがデフォだった。親の死に目に会いに行かずに頑張った、というのが「美談」として語られることがよくあったな。
 もっともこれが「美談」として語られる背景には、「親の死に目」に立ち会うのは重要なことであり何よりも優先されることである、という前提があり、だからこそ、それを反故にしても仕事を優先させることが「美談」だったわけだ。そういう話をいくつも聞かされていたから、「あれ、真央は帰っちゃうんだ」と感じたのだろうな。
 今時はそうでもないのかな? でもね、ワタシなんかが洗脳させられてきた「美談」ってのは「誰が」「どういう理由」で仕立て上げたかを考えると、なんでそれが「美談」なんだと感じるわけで、責任をキャンセルしてでも親の死に目を大切にするほうが素直さがあっていいのかもしれないな。「美談」に洗脳されなければ普通のことかもしれないな。しかも「真央の帰国」にあまり批判的な意見を聞かないのも「この素直さ」を認める世間になってきている、ということか。それはそれで結構なことかもしれない。

 ただ、「責任ある仕事」よりも「素直さ」が何においても通用するかといえばそうではないだろう。「素直さ」が「やりたくないから」という理由であれば世間も認めない気がする。とすると、「親の死に目」は世間に認知されている理由なのだろう。本人の気持ちの重要度にかかわらず、認知される理由と認知されない理由はあるわけだ。ふぅ。もっとも認知されるかどうかによって許されるのかどうかは、(それ以降の本人の)収入に影響するかどうかという問題なのかもしれないのだけどね。
 ところで「死に目」に立ちあわなければならない、立ち会いたいというのは、どういう心理からきているのだろうか? 多分人間だけだと思うから本能ではないんだよな。なんとなく不思議な気がするのはワタシだけかもしれないのだが・・・。 

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こんばんわ(。・ω・。)

私も最近父を亡くしましたが、仕事を休ませて貰いました。でも実質1日で逝ってしまいましたが。

私は看とれて良かったです。あのまま仕事を続けてたら仕事に逃げて父が亡くなった現実を受け入れられないままだったかもしれないからです。

真央チャンは仕事放棄したとは思いません。何が大事か。。。後悔しないように生きていってほしいです。

この先何があるかもわかりませんしね。御冥福をお祈りします。
ゆう
2011/12/11 18:11
間を置かずに新たなエントリーですね。思索モードへ調子が戻ったんですかね? 

美談というのはいずれにせよ厄介なものです。この美談こそが素直/ヒネクレの変換装置。美談に取り上げられると大抵ろくなことはない。

でも、この美談を観ることで社会の「空気」が推察できる。この点、流行歌や娯楽を「観る」ことと共通しているでしょう。

さて、で、「親を看取る」というのがデフォになったということは、日本社会が〈社会〉再建モードに入ったということだと私は解釈します。

「親の死に目より云々」は、いずれにせよ「やせがまん」です。しかし、これがデフォの時代も間違いなくあった。なぜか「やせがまん」ができた。みんなできたからデフォになってできない人間も「やせがまん」を強要された(←これが「美談効果」)が、今はみんなできなくなったから、今度は「やせがまん」が非難されるんですね。たとえ素直にできたとしても。

〈社会〉の絆が濃いと、人間は「やせがまん」ができる。その時代、親の死に目よりも優先された「仕事」は文字通り「事に仕える」だったのでしょう。今は「ビジネス」ですね。

「事に仕える」ことができるようになるには、親を中心とする共同体からたっぷりと栄養分(愛情)を吸収していなくてはならない。そうして「自立」して大人になった。「自立」して初めて「仕事」ができ、そうなると「親の死に目より」になる。

現代は、こうした「自立回路」はほとんど機能していませんよね。今回の真生ちゃんの「美談」は、そのことを社会が認めたことを意味すると思います。それはまた、かつての共同体が崩壊したことをも意味する。

ビジネスよりも共同体。このことが素直に認められるということは、社会が共同体という〈社会〉の価値を見出しつつあるということでしょう。

愚樵
2011/12/12 05:05
親の死に目より重要な仕事を優先するというのは「やせがまん」なのかなあ?
人によりけり、親との関係性によりけりだと思うけどなあ。
仕事の重要度にもよると思うけど、ここ一番の仕事と重なったら、私は仕事を優先するような気がする。そしてそのことを後悔したりしないのに、そういう自分に罪悪感を覚えるのよ、きっと。
みみず
2011/12/12 17:33
みみずさん@愚樵

罪悪感を憶えるなら「やせがまん」でしょ。

>人によりけり、親との関係性によりけりだと思うけどなあ。

一般論としても同意。個人的にも同意(苦笑)

ここのところは、私も上のコメントを書く際に()付きで限定を入れようと思ったのですけどね。話の流れからいって、特に必要ないかと思って割愛しました。

人によっては、親との関係性への負担が、仕事orビジネスへの関係性を深めるインセンティブになっている人もいますね。それも少なからず。この傾向は「偏差値の高い」人によく見受けられるような印象も受けますし、何を隠そう、私もそうしたひとりです。

って、みみずさんはご存知でしたよね、確か。

ん? ちょっと待てよ。「親との関係性」は必ずしもそういう意味ではないか。

でも、そうでないとするなら、「ここ一番で仕事優先」できるのは「親を中心とする共同体からたっぷりと栄養分」を吸収できているからということになると思うのですが。

それでも、やっぱり「ここ一番」とは重ならない方がいいに決まっているわけでしょう?
愚樵
2011/12/12 19:20
>愚樵兄

>罪悪感を憶えるなら「やせがまん」でしょ。

ちゃいます。後悔しない自分になので、親の死に目に会えないことに対する罪悪感じゃないの。

「親を中心とする共同体からたっぷりと栄養分」を取ることをとっくに放棄してるから「死に目を優先しない」ことができるんじゃないのかな。「親を中心とする共同体」から今後得る栄養分より、仕事を優先させた方がメリットがあるからできる選択なわけだし。

「ここ一番」とは重ならない方がいいですねえ。親が死んだとき、その場で自分がどんな気持ちになるのか、それをじっくりと感じたいから。
みみず
2011/12/12 22:31
・みみず姫

ええ、後悔しない自分を自省しての罪悪感でしょう? 

>とっくに放棄してるから

うん、やはり割愛した方のようですね。

>仕事を優先させた方がメリットがある

この問題はメリットの問題ですか? というか、ここで言われるメリットってなんですか? 栄養分を得られるということ?

生命というのは、身体も精神も、成長の時期に応じた栄養分というのがあると思うんですよね。子どもに必要な栄養分と大人のそれとは異なる。子どもの頃に必要な栄養分を十分とれなかったら、大人になっても補いはつかないんですね。

>とっくに放棄した

というのは、十分にとれなかったケースのことを言っているわけでしょう。もはや補いはつかない、と。でも、不足していることには変わりないんですよね。

毒多さんに応えたのは、充足して卒業したケースを言ってます。それがデフォだったから「親の死に目より仕事」がデフォになったんだ、と。

不足の方がデフォだったのなら、仕事優先がデフォになるのは無理がありすぎでしょう。
愚樵
2011/12/13 04:21
罪悪感って自省とは限らないと思うんだけど?
むしろ「持たされるもの」であることの方が多いような気がするけどなあ。

兄さんの「栄養分」の定義がわからないんだけど、愛情とかそういうものかな?

>子どもの頃に必要な栄養分を十分とれなかったら、大人になっても補いはつかないんですね。

そうでもない、というのが今の発達心理学の流れだと思うよ?重篤な虐待ケースでも、子どものレジリエンスが確認されることもあるし、人間ってすごいなあと感動する。

それに、親との確執による愛情不足なんかは、大人になって別の人間からもらうことが十分可能。

>「事に仕える」ことができるようになるには、親を中心とする共同体からたっぷりと栄養分(愛情)を吸収していなくてはならない。

昔は充足して卒業していた、って、これこそが「美談」なんじゃないかと思うけどなあ。昔の方がずっと虐待は多かったよ。子どもに人権なんかなかったんだから。
みみず
2011/12/13 07:53
ゆうさん、はじめまして、かな?
コメントありがとうございます。

普通は仕事を代わってもら、相手に事情を話して約束を先延ばししてもらうなりして対処しますよね。代打がきかない仕事などの場合は悩むかもしれません。
今回の浅田さんはどうだったんでしょうね。悩んだのかな?悩まずに帰国したのか? 完全に代打のきかない仕事で、そこで優秀な成績を修めるのは「母の希望」でもあったはずです(噂によるとですが・・・)。母との精神的な繋がりを成就するという意味では、仕事を続けるという選択もあったかもしれません。もちろん、こう決めつけて「美談」にすることは不味いとは思いますが・・・。
「死に目に会う」というのは身体的な別れで、そこを経ないと精神的な別れも困難なのかどうか? どうもよく分からないところです。
毒多
2011/12/13 08:47
愚樵さん、おはようございます。
思索モードに戻ったかどうかは解りません。リハビリ中のような気もします。

みみずさん、お久しぶり、、のような気がする(なんやかんや書きながら、やきちゃんとのデート(オフ)を羨ましがったり、やっぱオフでは会わない方がいいと思ったり、、、ぶれブレ、笑)

昨夜お二人にコメント(の下書き)を書いたのですが、一晩たってとても古いものになってしまいましい、どころか想像(提議)以上の興味深い展開になって、ますます考えないとコメントできそうにありません。でも、取り敢えず。。

個人的には、ワタシもやはり愚樵さんのいう、
>「親を中心とする共同体からたっぷりと栄養分」を吸収できている
という部分にひっかかり、そうかなぁ、と感じたのが第一感でした。ワタシもやはり(笑)、そう感じない人(親への不信感のあった)のひとりで、故に「死に目を優先しない」気がしています。でもね、いざその場になり、特に代打不能な用事がないかぎり、多少の用事なら他に先のべしても、死に目に立ち会う気がしているですね。何故立ち会う気がするのが(本文にも書いた)不思議なのですが。

愚樵さんは、今の(若者の感性による)社会のほうが善い方向へ向かっているという前提で、「自立して」「事に仕えることができ」るよりも「自立できず」「事に仕えることができない」ほうがいいと言っているようにも聞こえますが、そうなんですか? 
みみずさんのコメントの「今のほうが親の愛情が深く」ゆえに、今のほうが善い方向へ向かっている、としたほうが理屈としては解りやすい気がするのですが・・・

毒多
2011/12/13 08:48
どくたさん、こんにちわ。

私はどくたさんが浅田まおに抱いた感情も解る気がするし、浅田真央が世間的に大事な試合を母親の危篤でパスした気持ちも解る気がしますよ。

だから、どっちが正解とか、良し悪しとか無いんじゃないですかねぇ?

またこんな投げやりっぽい書き方すると、突っこまれそうですが、これって、カレーとラーメンのどちらが好きであるべきか?みたいな話の様な気がします。
それぞれの話は真剣で的を得ているかも知れないけど、決して交わる事が無い。

愚樵さん、みみずさん、こんにちは。
こちらの話も同じ様に、子ども達を取り巻く環境は、みみずさんのおっしゃる様に昔よりよくなったところも有るし、愚樵さんのおっしゃる様に、昔の方が良かった部分も有ると思います。

例えば、昔は今より生活に余裕が無い人が多かったので、子どもをかまう余裕が無かった。だから、子どもの嫌いな束縛や干渉は少なかったけど、保護も少なかったんじゃないですかね?現代はその逆かと。

人と人が理解し合うなんて幻想。
「みんな違って、みんな良い」
自分と違う他人を認める事が基本でしょ?
すぺーすのいど
2011/12/13 13:03
すぺーすのいどさん、こんにちは

はい、正解とか良し悪しではありません。
今回は浅田真央のことから思索のネタをもらって、ちょっと書いてみました。とくに浅田真央への個別の感情をもったわけでなく、ワタシが「何か不思議な感じがした」というような具合で「何かが変わってきているのかな」「何か理由があるのか」と考えたことを掘り下げています。

確かに多様な人がいて、すべてがありだよね、で締めくくってしまう、というやり方もあるのかもしれませんが、それはワタシ(のブログ)の方法ではないんですね。そういうふうに言われると身も蓋もないブログになってしまいます。
正解とか良し悪しではなく、「ワタシがひっかかったのは何だろう?」ということです。
それに乗ってくださった、愚樵さん、みみずさん、(他のエントリーではすぺーすのいどさんはじめ多くの方に思索をいただき)に大変感謝しています。また、今回の愚樵さん、みみずさん、それとワタシが決して交わることがないとは思っていませんよ。

毒多
2011/12/13 15:09
すぺーすのいどさんの合いの手が入ったところで止めにするべき何でしょうが。

というか、もともと交わらないんです。私とみみずさんとは。かつては天敵呼ばわりされてましたし(笑) でも、交わらないことが交わることだったりする。その関係は宗純さんとも似たようなもので、交わらないだろうなぁと思いつつ、コメントを入れたりする。今朝入れたコメントなんてケチョンケチョンですよ。わかってないなぁと思うけど、向こうもそう思っているだろうけど、それでいいんです。仲良しゴッコをやりたいと思っているわけではありませんからね。

でと。ひとつだけ毒多さんに。

>「自立できず」「事に仕えることができない」ほうがいいと言っているように

自立して仕事ができる方がいいですよね。どうあったって。問題はこの「自立」のイメージなんだなぁ。一人前に稼げることなんかが「自立」ではない。そんなのは「依存」でしかない。アイデンティティを確立することでもない。

たぶんですが、青カンのオッサンでしょうね。毒多レパートリーのなかであげるとすれば。いささか特異な「自立」であるので「仕事」とは繋がりにくいかもしれませんが。

まあ、またボチボチやりましょう。
愚樵
2011/12/13 18:55
えー、せっかく面白くなりそうだったのに、やめちゃうの?!
今回のテーマは、私のライフワークともかぶるので、キャッホー!と思ってたのにぃ。

愚樵兄は天敵っちゃあ天敵だけど、オフで初めて会うなりハグされたことは忘れてないぞwww
みみず
2011/12/13 19:56
あ、またやっちまったみたいですね。
作文は難しいね〜(^^ゞ

でも、今回は仕事中に入力した割にはマシな文章だよな〜と自己評価してますけどね。

僕は別に皆さんのジャマしたかった訳じゃないんです。
僕には僕の立ち位置があってそこから意見を言ったつもりだったんですよ。

確かにコメ欄の流れが、私にはなんか良い雰囲気に見えなかったので少しチャカそうとした節はあります。

でも、その後のレス見ると私の考えすぎだったのかな?
みみずさんすいません。愚樵さんもすいません。
お互い楽しんで応酬してるんならドンドンガンガンやってください。\(^o^)/

どくたさんもごめんね。
どくたさんは、なんか最近「元気いっぱい」とは言えない状況みたいで、エントリもコメ欄の文章も、やや下方面に向いているような気がして、それが私的にはちょっと心配な気持ちもありました。
どくたさんのリアルなど何も知らない私が、ちょっと視点を上に変えてみたら?的な生意気なコメでしたね。おせっかいかなとはちょっと思っていましたが。すいません。m(__)m
すぺーすのいど
2011/12/13 21:58
<続き>

ちなみに私も今夏に実父を亡くしました。
半年ほど闘病していたのですが、亡くなる5日程前の週末に会って話をしたこともあり、容体が悪化したと母から連絡があった時も、まぁその時で良いかな?と思ってました。
そしたら、電話で連絡した嫁の方が怒って「サッサと行きなさい!」と言われちゃいました。

結局、それから仕事を早退しましたが、自宅で出発の支度中に亡くなってしまいました。
それはそれでなんとも思っていません。しょうが無い。

その時の仕事に名残があった訳でもありません。
どっちかって言うと、あんまし早く行ってもしょうが無いし、くらいに思っていました。

「死に目」こだわるべきか、否か。
それはやはり極々プライベートな価値基準だと私は理解します。
なので私にとっては「カレーとラーメンのどちらが好きであるべきか?」と同等なのです。
すぺーすのいど
2011/12/13 21:59
いやはや。面白いったらありゃしない(笑)

すぺーすのいどさん、みみずさん、おはようございます。

>私のライフワークともかぶるので、キャッホー!

そうそう、そこなんですよ。その構えがね、前足で地面を掻きながら首を振って、エスカミーリョに飛びかかろうとする闘牛みたいにみえたでんしょう、すぺーすのいどさんには。それで、まあまあ、と割って入った。ところがエスカミーリョはマタドールだった。それで、なんだ、これは闘牛というエンターテイメントだったんだ、と。

こんな感じでしょう? もちろん、エスカミーリョは私です(爆)

(ちなみエスカミーリョはカルメンに振られて殺してしまう役どころ。ストーカーですね。)

みみずさんが闘牛というのは冗談ですが、闘士ではあるでしょうね。「ライフワーク」という言葉からもそこがなんとなく窺える。で、みみずさんが闘士たるにはその「前提」があるんですよ。これは毒多さんが

>愚樵さんは、今の(若者の感性による)社会のほうが善い方向へ向かっているという前提で、

といったのと同じ。歴史観と言い換えてもいいですね。
愚樵
2011/12/14 05:41
毒多さんの提示したこの問題は、追いかけるとかな〜り深いところまで掘り下がっていくんですね。人間の「自立」の在り方。共同体の歴史。んで、ここの部分が「交わらない」んですよ。

端的に言って、みみずさんは共同体から離脱することが「自立」だと捉えている。んでもって、昔から比べると日本人は自立してきている。でもまだ不足だから、もっと自立を! ってんで闘士なわけです。いかにも左翼です。運動家毒多さんもこの路線ですね。

でも、私は共同体を確立することが「自立」だとみている。逆に共同体から離脱することは「依存」だと見る。だから自由が拡大してきたこれまでの日本社会の流れはになってきた流れは、個の喪失と依存への流れと見ている。そしてその反発が起こっていると見ている。

この双方がそれぞれの「前提」なんです。そこから「親の死に目に云々」という問題を眺めている。だから、すぺーすのいどさんの言うように、それは個々人の問題でしょ、ではないんです。デフォを問題にしているわけだから。

でも、だからといってすぺーすのいどさんがまったく的外れなことを言っているわけではないんです。双方とも、終着点は「美談」など蹴散らして「個々人の問題でしょ」をデフォにすべきというところでは一致する。それは「自立」すれば自ずとそうなるんです。ただ、この「自立」の在り方はやはり交わらない。

こんなことを論争しだしたら、そう簡単に収拾はつきませんよ。んだもんで、マタドールの私としては、闘牛の突進をひらりとかわそうかな、なんて思っていた。その矢先のすぺーすのいどさんの「合いの手」だったわけです。
愚樵
2011/12/14 06:03
愚樵さん
いきなりハグしたんですか!!!・・・羨ましい、と、取り敢えずツッコんどいて、、、(笑)

すぺーすのいどさんの「合いの手」で中断ぼちぼちと延期せずに12/14/05:41のコメントを頂けたのは「ワタシは・・」救われます。これがないと分けわからないまま、終ってしまいます。
「前提」・・・これね大切なことで、ここを確認しないと、話が訳がわからなくなる。あと自立という、言葉の捉え方の確認も必要でしたね。
簡単に収拾はつかないでしょうが、あまりに消化不足だと「リハビリ」にもならないので、もう少し書きます。
もともとのエントリーの歴史観の推移と理由と今後、、というようなことで愚樵さんが提示してくれたのが、

A「かつて」
1.親を中心とする共同体
2.自立(共同体からの自立)
3.事に仕える
4.死に目に合わない

B「今」
1.社会を中心とする共同体
2.(共同体からの)自立回路がない
3.ビジネス
4.死に目にあう

4の「死に目に会う・会わない」から発しているが、その辺りはまあどちらでもよくて、そこから見える
1.2の辺りが問題で
Bの2の自立について、共同体を再構築するという「自立」はある。
おそらくA以前の-A「昔」には共同体を構築する「自立」はあり、一度A「かつて」で失われたが、昨今B「今」で再構築されようとしている。で、それを歓迎する、ですよね。
さらに言えば、Aを経てBによって再構築される共同体は、-Aの共同体への回帰ではなく、新しいものになるだろう、、、ってとこでしょうか?
毒多
2011/12/14 11:05
そうしたうえで、A 「かつて」の1は、「親を中心とする共同体」だったのかなぁ、と感じたわけです。ああ「親を中心とする共同体」はそうかもしれませんが、「愛情」を吸収したかなぁ、、、と自分の体験から感じ、むしろ逆で「親に対する反発」で自立(経済的自立という意味よりも共同体からの自立)しよとした気がするんですね。
Bの1の「社会を中心とする共同体」というのは分かり難いのですが、これは勉強不足があるのかもしれません(けいおんも見てないし、笑)
Aの3の「事に仕える」というのは以前、愚樵さんも書いていたような気がしますが、どういう見解だったのか思い出せません、TBでもしていただけると有り難いのですが、、、AよいもBとするならば、「事に仕える」よりも「ビジネス」となり、え?そうなん? と、感じたところでもあります。

青カンの話がでてきたので、少し書きますと、青カンにかんしてはAの共同体から離脱させられた。むりやり自立させられた。むりやり自立させらた者で、あらたな共同体がつくられる。その共同体をなんとなくいいんじゃないか、と感じているワタシ(毒多)がいる、、、、これが、愚樵さんのいうところの「共同体を構築する自立」という感じになるのかな? 
とすると、なんとなく具体的なイメージとして実感できるのですが。

毒多
2011/12/14 11:05
ああ、それと「垂直」「水平」ってのは、以前ワタシも図まで書いてエントリーを挙げたような気がしたので、探してみたのですが(http://dr-stonefly.at.webry.info/200807/article_6.html)、たしかに「共同体から離脱(し、形而上まで突き抜ける)」するの垂直的イメージとして使っていて、そこに「共同体」の存在がありませんので、愚樵さんの自立の解釈の指摘,A「共同体からの離脱」は合っているような気もします。
ここでいう、A「共同体からの離脱」というのは精神的なものに関して言っています。精神的(観念的)に共同体から離脱し、物質的(唯物的)に共同体に依存するのが、A「かつて」だったのかもしれません。
とすると、B「共同体の構築という自立」というのは、精神的(観念的にも)共同体に融合されていく、融合されつつ創られる共同体、、、というイメージですか?

いずれにせよ、ワタシの「垂直」の解釈に「共同」という意味は含まれていませんでした。ここもやはり確認が必要かもしれません。
毒多
2011/12/14 11:34
誰がウシじゃいwww

>みみずさんは共同体から離脱することが「自立」だと捉えている。

そうかもなぁ。共同体というのが親を中心とする家族や親戚や地域だとしたら、私は息苦しくって仕方がなかったからねえ。

私は「女の子でしょ」「女のクセに」というのがとにかくイヤで、おそらくそれはどこの共同体にも多かれ少なかれあるんでしょうけど、親の共同体から抜け出て、他の共同体の中で「よそ者」でいる限り、その圧力はずいぶん弱まるからね。なので私は基本的に「流れ者」なんだと思う。

なんかズレてるレスだと自分でも思うけど、ここ数日あまり寝てないので許してー。
みみず
2011/12/15 17:47
おっと、闘牛が美牛になったww

睡眠不足は美容の大敵ですよ。

>私は基本的に「流れ者」なんだと思う

うん、そうなんでしょうね。
でも、そんなみみずさんもまた自身の「共同体」を築いているんじゃないのかな。

これは何も家族に限らない。仕事かビジネスかしらないけれども、そこでだって共同体は出来上がっているでしょう。電網を通じて繋がっている関係だって、共同体の一端ですよ。

これは他でもない、みみずさん自身が築いたものでしょう。育むのも壊すのも、こればっかりは自己責任でしょう。

自身の共同体を確立した以上、親だってその共同体の一員でしかない。共同体のなかにも優先順位があって、それは親といえども介入できないし、逆にその「自立」を認めるのが親というか大人だろうと思うんですよね。

親の死に目云々は、各々の「自立」の在り方から派生してくる問題であって、社会なんか本当は関係ない。

私が「自立回路」と言ったのは、こうした各々の自立を相互に承認し合う「大きな共同体」の機能のことなんです。
愚樵
2011/12/16 06:14
むかつきながら、こっちに来てみたら、なんだ、このトーンの違いはwww

共同体って「人間関係」のこと?
だとすると親を中心とする円(縁)の中にいた自分が、大人になって自分の円を作って、それらの円が複雑に重なり合ってるっていう感じなのかな。
自分は親の円の中に入り続けるんだけど、自分が作った円の中に親も入ってるという一方的ではない関係になるというイメージかな?

自分が親の円の中だけにいる状態なら親の死はとても重いものになるだろうけれど、親が円の中のほんの一部になってしまうと、相対的に価値は下がるんじゃないのかなと思ったりします。

どこかずれてしまうのは「共同体」というイメージが私にないからかもしれない。自分が築いてきた人間関係も、家族さえも「共同体」という認識が薄いんですよね。個々人がゆるやかにつながっているというイメージは「共同体」という言葉で表現するのに抵抗があるんです。
みみず
2011/12/17 18:41
先般あのような醜態を晒したんで暫くなりを潜めるつもりだったのですが、気になる点があったのでひとつ書かせていただきます。

親の死に立ち会う:仕事を遂行する

この対立軸ですが、私にはどちらも「業務」上のプライオリティの問題にしか見えません。

私はこの手の問題について考える時「置き換え」を行う癖があるのですが、このテーマについて死者を「自分の子供」に置き換えてみてください。

昔は新生児や乳幼児の死亡率が今より遥かに高かったですが、「子供の死に目にも会わず、仕事を優先した」という言葉はありませんよね?

自分の子供の死を看取らず、仕事を優先する。

これは美談にはならないですよ。たぶん。
下手をすると親としての人間性を否定されかねないと思います。
親は通常、子よりも先に死ぬものです。起こるべくして起こる事態、大抵の人間が直面する現象といっていい。
かつては三世代・四世代同居で、しかも家族総出で一次産業に従事という形態が基本でした。
職住が分離して自営よりも勤め人が増えた状況は、歴史的にみてまだ日が浅いです。
共同体にとって「親の死に目に立ち会う」という状況は美徳でもなんでもなく「状況的にみて当たり前」だったでしょう。
先に死ぬと定められている者の死に立ち会う=愛する者の死に立ち会う、ではありません。

だから「『親の』死に目」なんでしょう。
コレ自体が「仕事」なんですよ。
親に愛情があろうがなかろうが、疎ましかろうが憎かろうが、その死には立ち会う。
それが共同体にとっての暗黙のイニシエーションみたいなものだった。
「親の死」と「仕事」は天秤にかけることが許されるものだったんですよ。もともと。だからそういう慣用的な言葉として残っている。

自分の子供が死んだ時、同じように天秤にかけることが果たして許されるのでしょうか?
黒い時計の旅
2011/12/18 01:30
蛇足。

昔、祖母が亡くなった際に葬儀で親族が集まり、骨を拾った後に一同実家へ戻り食事を頂きました。
祖母の死に立ち会った伯父達が酒も入って一杯機嫌でちょっとした宴席のような状態になり、私は祖母に結構可愛がってもらってたんでそれを見て不機嫌になってたんですよ。
あんたら不謹慎だろって感じでね。

そしたら、それを見ていた父が言ったんですよ。
あれでいいんだよ。(祖母は)長生きしたんだから和やかに送ってやればいいさって。

伯父たちは一仕事終えた後のような快活さで笑いあっていました。
祖母の死に目に会えず、通夜からの参列になった伯父もいたと思いますが、一緒になって笑っていました。

なんていうのかな、「親の死に目に会う・会わない」っていう表現を多分に感傷的に捉えるのは、核家族化が進んで「親をほったらかしにしている」という後ろめたさ・負い目と表裏一体になっている気がしますがね。
普段は放置してきたからせめて死ぬ時くらいは…みたいな。

毒多さんと別の意味で引っかかる話題でした。私には。
黒い時計の旅
2011/12/18 01:56
管理人が出張る前に(笑)

・みみずさん

>個々人がゆるやかにつながっているというイメージは「共同体」という言葉で表現するのに抵抗がある

まあ、それはわからなくはない。そんなのいっぱいありますよね。「絆」に抵抗を感じるのも同じでしょう。

でも、言葉ってどんどんとイメージが入れ替わっていくんです。共同体も絆も、その言葉ができた当初はあまりよいイメージではなかった。が、絆がそうですが、良いイメージに変わりつつある。そこを「絆は悪いんだ」と言い立てたって、あまり意味がない。逆に言葉の変化を捉えられていない、すなわち「硬直している」ということの証明になってしまう。

移りゆくイメージを後追いするか。先取りするか。いずれにせよ先取りはなかなか理解されないものです。もちろん、誤った先取りである可能性は高いですよ。
愚樵
2011/12/18 05:31
・黒い時計の旅さんにも。

>職住が分離して自営よりも勤め人が増えた状況は、

いえ、それは違うはずです。日本の貨幣経済の発達は一般の認識以上のずっと早くから進んでいた。交通が未発達な昔の方がずっと職住分離が進んでいたんですよ。

農村でも、子どもはある程度大きくなると奉公に出されるのが当たり前。一端出されると何年も帰ってこれない。親の死に目に会えないという状況は山ほどあったはずです。江戸時代、武士だって参勤交代という制度があったりして国元を離れることが多かったわけでしょう。

が、当時の倫理基準は儒教だったんですね。親の死に目に立ち会わないのは、儒教的には最大の不徳。でも、これは日本文化の特徴ですが、そっくりそのまま受容しないんですよ。なんちゃって仏教、なんちゃって儒教になってしまう。「親の死に目より仕事」が「美談」になったのは、儒教が「なんちゃって」になる過程で起こったことだろうと私は推測するんですよ。

で、その美談がひっくり返った。これがこのエントリーの問題提起ですよね。

上の流れでいうならば、「なんちゃって」にする力――芥川が『造りかえる力』と呼んだもの――が弱まったから。この力の源泉が共同体だいうことなんです。

儒教も仏教も〈システム〉です。でも〈システム〉としては運用しない。換骨奪胎して共同体に合わせてしまう。が、近代化でその力が弱くなったんです。その端的な場面を黒い時計の旅さんは記してくれましたね。

>あんたら不謹慎だろって
>あれでいいんだよ。

なぜ「あれでいいんだよ」と言えるのか。ここに共同体の秘密――力の源泉があるんですよ。
愚樵
2011/12/18 05:55
>愚樵さん

>交通が未発達な昔の方がずっと職住分離が進んでいたんですよ。
>農村でも、子どもはある程度大きくなると奉公に出されるのが当たり前。

女子は結婚で家を離れることもあったでしょうし仰るとおりですが、それでも子供が全員奉公に出されて生家を離れるわけじゃなかったと思うんです。
親の死に立ち会うという「役回り」は長子であるとか、家に残った子ども誰かがすれば良かったんだと思います。というかその程度のことだったのでしょう。

>親の死に目に立ち会わないのは、儒教的には最大の不徳

=親の死に目に立ち会うのは、徳ということでしょう。徳というのは、人工的で不自然なものですよ。
これを私は「仕事」と感じているのです。
人間の本性に則ったものに感じられないということです。
ですからどちらも共同体の要請の問題に過ぎないように見えています。
まあこの辺は愚樵さんは分かって書いているように思えますが。

そもそも、皆そんなに親の死に目に立ち会いたいものなのですか?
私は嫌ですよ。親のことは大好きですけどね。
黒い時計の旅
2011/12/18 17:08
愚樵さん

>管理人が出張る前に

(スルーしたおされているし、爆)もう出張りませんよ。好きにやってください。と言っても、もう散々かな(笑)

アイデンティティがなくなり、フラフラになっている管理人は何でも受け入れ考え込んでしまいますが、そうではなく芯が確率されそれを基に人格形成されているために、それを阻害する思索は受け入れられない人もいるということです。まあ、それが解っていても「諦めず」語りあう人々がいるってことですが(笑)。

毒多
2011/12/18 17:43
黒い時計の旅さん

>醜態
って誰が? 少なくとも黒い時計の旅さんが醜態をさらしたとは思っていません。どちらかというと無能な管理人の醜態ばかりを感じています。それでブログが書けなくなったというのも多々あります。だから出来れば「なりを潜め」ないで欲しいのですが、、、、くだらないエントリーにまで無理にコメントをくださいとはいいませんので。

我が子の死との置き換え、というのは、相当なっとくしました。
愚樵さんが指摘しているようなことは、思いつきませんでした。
毒多
2011/12/18 17:43
>毒多さん

あれはかなりの醜態だと自分で感じています。
余所様の庭でやることじゃないです。すみませんでした。

で、共同体と親の死に目(臨終)に立ち会うか/仕事を選ぶかの話、もう毒多さん興味なくしてるかもしれませんけどもう少し蛇足の話を書いていいですか?

親の臨終に立ち会うという問題に関して、共同体の過去・現在を比較して最も異なるのは、世帯当たりの子供の数(兄弟姉妹の数)だと私は思います。

1989年の合計特殊出生率が1.57という値だそうですが、私の父(先日書いたエピソードは母方の祖母の息子達の話です)は9人兄弟(姉妹)でした。一人が夭折したので8人。父の母が逝去した際は恐らく全員が臨終を見届けたわけではなかったはずです。何人かは立ち会ってなかったと思う。

これがどういうことかというと、親の死を見届けるという非常にストレスフルな状況に際し、一人当たりの負担がかなり軽減されるということです。
なにしろ、8人のうち半分が死に目に会わなくても、それでも4人が立ち会っている勘定になる。立ち会えない4人にも、あと4人が親を見送ってくれているという絶大な安心感がある。

共同体の強さというものを私が感じるとしたら、こんな身も蓋もないマンパワーです。
これがひとりっ子だったら、どうなるでしょう。親の死を「子が見届ける」という負担・責任全てを1人で背負わないといけません。

しかも1人しかいない子供が「仕事を優先」したら、親の死に立ち会う子供は0人です。

「親の死に目に会えない」意味合いが全然違うと思いませんか?
そして、現在は合計特殊出生率が1.3とかそういう領域でしょう?
このさき、仕事を優先して美談なんて悠長なことを言っていられる状況じゃないのではないかと思うんです。
黒い時計の旅
2011/12/20 11:55
浅田に話を戻すと、彼女には姉がいましたよね。wikipediaには23歳と書いてある。他に兄弟姉妹がいるのかは知りません。

浅田が戻らなかったら、親の臨終を見届ける重さがそのぶん姉に圧し掛かることになります。23歳には、眼前の親の死は重過ぎるでしょう。

まあ浅田が母親が死ぬと予測して帰国したとは、実は私は思っていませんが。自分が戻れば持ち直してくれるんじゃないか、そこに望みを繋いで戻ったのであって死に目に会うつもりはなかったんじゃないかと私は感じています。でも、それはまたエントリと方向の違う話ですね……。

ともあれ、「親の死」に直面した時に支え会える「担い手」の人数が少なくなっているんです。そのぶん負担は増えている。
それを「親か仕事か」、社会があれこれ評価できる状況じゃないと思うのです。今は。

「親の死に目に立ち会う」行為そのもの、その責任が、昔よりずっとずっと重くなってしまった?
私はそう感じています。正しいかどうかは、わかりません。ただ、そう感じます。
黒い時計の旅
2011/12/20 12:23
黒い時計の旅さん、遅レス失礼です。ちょっとバタバタしてました。

「親の死に目」を黒い時計の旅さんのコメを読みながら再考してみましたが、年齢によって違いそうですね。若い頃の親の死は、親に対する精神的依存が大きいので感情によって、死に目(というより側へ)行こうとする。
 年がゆき、精神的依存関係が逆転すると保護者として理性で死に目に会いにゆく、、と、なる。
 感性と理性の比重が若いころと年をとってからでは変化しそうです。「親の死に目」に会う「責任」ということでいけば、理性の比重がおおきくなってからのことかもしれません。

 仕事に復帰する浅田真央は「母の死を乗り越えて」とゾロ、マスコミによって美談が仕立てられています。白々しく嫌悪感を感じます。
 金さんの死をもだえ嘆く市民は、精神的自立がなされていないのか、、、、小芝居だという話もありますから、理性全開かもしれません。
毒多
2011/12/23 08:37
これが荒川静香だったら、「プロが仕事をほって」になるけれど、
浅田真央は「アマチュア」で、大会は「単なる名誉」(優勝者に賞金がもらえるのはおまけ)
だから、
プライベート優先しても「責任」を問われるわけではないと思います。

オリンピックで負けて「謝罪」会見するような選手を思えば、
「ただの大学生」としてはマトモに見えます。

「親の死に目」は、昔の情報や交通の発達してなかった時代に、「いつ親が死んだのかもわからんような極道生活を送っていた」者への非難だったと思います。
(本当に「親の死に際に居合わせなかった」からと非難されたわけではない。)
meisinn
2011/12/28 23:39
meisinnさん、コメントありがとうございます。

そういえば、と思いだしたのですが、ワタシ自身も20歳代前半の大阪にすんでいた頃、親が死ぬかもしれない(くも膜下出血)と連絡をうけ、「感性」によって名古屋までわざわざ帰った覚えがあります。
やはり年齢がポイントかなぁ、と思いました。
毒多
2011/12/29 10:27
年齢が若くても、石川遼だったら「プロ」だから、
決勝ラウンドを「私用」ですっぽかしたらアカンでしょうね。

まあ、「親の死に目」も、「妻の出産」も同じだろうとは思いますが、
「妻の出産・・」を問題にされた野球選手や芸能人やサラリーマンは聞きませんね。
(駆けつけた人がマスコミ的に「絵」になることはありますが)
meisinn
2011/12/29 16:51

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「母の死」・・・親の死に目に立ち会う 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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