毒多の戯れ言

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zoom RSS 「困ってる人」その1・・・所詮、他人事かもしれない

<<   作成日時 : 2011/10/07 11:19   >>

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 この世の地獄とは、見ることと体感することでは、大違いであった。
 わたしは、これだけ見て歩いても、なにひとつとしてわかっていなかったのである。ただ頭でわかったようなつもりになっていただけだった。「難」は、タイやビルマに確かにあったが、それは所詮、他人事であった。


 最近どっかのブログで(笑)紹介されていた本「困っているひと」(大野更紗著)の序章(p53)の部分である。
 老眼で文字が見難くなってからここ一年ぐらい、文字を視認するのが億劫で本はおろか漫画さえ読んでなかった。ところがである、あまりに仕事にアブれヒマすぎる。このままいけば必ずや経済難民に陥いるだろう。ということで「本が読める」という肉体的精神的経済的余裕があるうちに、さらには某ブログ主の「面白い」という言葉を信じて(笑)、老眼という難に負けず読もうと買った本である。案の定ボケる文字を追うのに苦労して集中して読めない。が、なんとか読みすすめると、「難病」の本題に入る直前に冒頭のセンテンスにぶち当たり、考えこんでしまった。
 ああ、これだ、、、という感じ。
 ワタシもこの著者と同じ。自分の苦しみではなく、他者の苦しみをほっておけず社会運動に入ったくちだった。若かったあの頃は「見て」「話して」「聞いて」「動いて」「疲れはてて」分かったつもりでいた。当該に「お前ら支援にはどうせ帰る家がある」といわれても認めたくなく無茶をやった。とにかくそれを掴みたく、とことんまでやった。さらには、青カンを生み出すシステムはワタシのいる社会の問題であって、それは自分の問題なのだ、、、と他人には言った、、、、、が、本心からそう思っていたか? またはホントにマジでとことん自分の問題として捉えていたか?? 非常に怪しい。
 「所詮他人ごと」・・認めたくなかったが、どこかでそのことは知っていた気がする。
 認めてしまっては、何もかもが嘘になる気がしていたのかもしれない。
 
 ブログでもあれやこれや書いてきた。極力他人事ではなく、自分のことと考えて書いてきたつもりである。それでも何度かは言われたな。・・・実際に沖縄に住んでないあんたにゃ分からん、、、実際にレイプされたことのないあんたにゃ分からん、、、黙っとけ、とまでは言われなかったが、何も言えなくなった。
 瞬間沸騰!"#\ 怒りに震えながら、それをいっちゃ反則だろ、関心をもって何かを言う(書く)ことが許されないなら、実際に苦しんでいるあんたらが勝手にやっとけや、知るかボケ!!、と心のなかで逆切れ(この逆切れが他人事の証左かもしれない)したが、ワタシ自身も「青カン」に関してはブログにおいても同じように他者を責めたことがあるので、その時のオノレの心理を思い出しつつ、冷静になるように務めた。それにもまして、その「青カン」で他者を責めた自分が

>なにひとつとしてわかっていなかったのである。ただ頭でわかったようなつもりになっていただけだった。

ことを知っていたのかもしれない。それを認めたくない心理ゆえに、、、それにしても、
所詮他人ごと、、、これはキツイな。
 あんたにとっちゃ所詮他人ごとでしょ、と言うしかなくなる心理もキツイし、心の底のどこかで所詮他人ごととしている自分を認めるのもキツイ。ああ、身も蓋もない、である。でも、どこまでもついて回る。
 昨今の問題でいけば放射能のことしかり、、、である。「放射能を持ち込む」「放射能を移すな」というまさに他人事というレベルではなく、たとえば休日ごとに被災現地にボランティアいく支援者にも「所詮他人事」と心のどこかで感じている自分と闘っている人がいるかもしれないな。
 「所詮他人事」が大手を振って前面になってしまっては、運動も支援もクソもブログもなくなってしまう気がするのだが、、、

「それは所詮他人ごとだったかもしれない」という著者は、どこに向かうのか、、、他人事だけど先を読みすすめることにする。

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コメント(11件)

内 容 ニックネーム/日時
君の心がわかる、とたやすく誓える男に
なぜ女はついてゆくのだろう そして泣くのだろう
君がすさんだ瞳で強がるのが とても痛い
憎むことで いつまでもあいつに縛られないで

ここにいるよ 愛はまだ
ここにいるよ うつむかないで

空と君とのあいだには 今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる

・・・。

ご存知、みゆき姉さんの『空と君とのあいだに』ですね。

ようべつでは、http://youtu.be/DeoWTEy6AxI などいかがかと。

他人事だと悩んでいるところに愛は存在してりするんですね。ただ、その愛は、それだけでは無力ですけど。
愚樵
2011/10/07 18:41
『当事者しか判らない。』ことは案外多いですね。
ですから経験者と未経験者では天と地ほど、判断が違うことは良く起きます。経験とは知識よりも遥かに大きな意味や『力』があるのです。
ただ『当時者だから→自分が一番良く知っている』という判断は思い上がりか勘違いであり根本的に間違いですよ。
だいたいですね。
事件事故の当時者とは、基本的に何らかの大失敗をしたから、その事件や事故の当事者になってしまったのですよ。
囲碁では岡目八目との言葉があり、対局者当人よりも周りで観戦している他人の方が冷静に判断でき正確に大局観を得られるので8目も有利であるとされている。
これは競技の全てに当て嵌まり、グラウンドで対戦する選手よりも見ているコーチなり監督なりの判断が遥かに上なのです。
実際に選手なり事件事故の当時者は頭の血管を大量のアドレナリンが駆け巡る為に正常な判断は無難しいのです。
遭難事故では自分が死にかかっている状態で正しく情勢判断する能力は、なによりも一番大切なんですが『言うや安く行いは難し』ですね。
宗純
2011/10/08 11:02
こんばんは。

老眼に鞭打って、読書に励んだら新たな(抱え込んでいた?)悩みにぶち当たってしまったようで、お察しいたします・・・
なんて言ったところで、これも結局「所詮他人事」でしかない訳で、どうしたらいいものか私も困っちゃいます(苦笑)
しかし、よくよく考えてみると、対象性の問題だどうだと言う前に、自分以外の問題との関わりってすべて「他人事」でしかありえないと思っちゃいます。
逆に当事者でなければ、本当には分からんとという問いに対しては、当時者じゃないから見えてくるものがあるはずと信じないことには、何もできませんし、進展がないはずです!
なんだか、恐れ多くも宗純さんと少しかぶったようになりましたが、改めて毒多さんってナイーブな人だな〜と、感心してしまいました(ごめんなさい)
えちごっぺ
2011/10/10 21:21
愚樵さん

最近、ほんと守備範囲広いねぇ(笑)
ワタシにとっての中島みゆきは30年来の守備範囲なんだけど、全然結びつかなかった。というか「愛」ですか。
「愛」なんかなぁ・・・よく解らない。
毒多
2011/10/11 09:20
宗純さん

当事者には解らずに、他者だから解るということは多々あるでしょうね。ただその「解る」にしても本当に「解っているのかどうか」と自問するときに、「他人事」ということに引っかかるわけです。オノレの経験で解ることもオノレの理解で、それこそ「内心」があると、オノレの理解が他者の思いと異なるのは普通でしょう。つまりは所詮他人事として限界を自覚しなくてはならないくなる。それは解っています。それでいいとも思っている。
それでも、人は「所詮」他人と関わろうとする。そして共感したり、役立ちたいと思う。そこでまた他人事という限界を越えようとする。不思議なものです。

事件事故の当事者が基本的に大失敗をした、、、というのは、どうでしょう?
自然災害の被害者にしても、原発事故の被害者にしても、必ず誰かが犠牲になるシステムによってはじき出された貧困者にしても、、、当事者の失敗というのは厳しすぎる気がします。

毒多
2011/10/11 09:21
えちごっぺさん

ははは、そうそうナイーブですよ。そのうえアイム ソー デリケート(爆)
なかなか他人事と思えない心がワタシの甘いところかもしれません。「他人事とは思えない内心」と「所詮他人事である現実」の葛藤ってのは、下らないのか? ついてまわるのか?
でもさ、小泉のころの(今もそうだけど)「仕組まれた自己責任」の被害者を他人事にしていいのか?という疑問もあるし・・・さ。
毒多
2011/10/11 09:21
はい。この手の問題は、愛を語るしかないんじゃないでしょうかね。

ある現象のなかに潜む法則性といったようなものは、宗純さんが仰るとおり、経験したからとって必ずしも理解できるものではない。でも、経験によって生じた感情はまさしくその人のもの。私たちはその事実をとうに知っているんだけれども、その事実を改めて突きつけられると、動揺してしまうんですね。

でも、本当に当の本人は自分の感情を知っているのでしょうか? ある経験をして、感情が惹起される。その経験をした「私」は、そのときの「私」のすべてを知り尽くしているのでしょうか?

人間というものは、自分自身ですら他人事にしてしまうことも出来るんです。自身に対する自己愛がないと、そうなる。「あんたにゃ、わからん」といったような言葉を吐くのは、大抵の場合は自己愛を喪失しているから。まあ、それは無理のないことなんですけどね。傷つけられたんだから。

そんなときは、

ここにいるよ 愛はまだ♪

というしかないでしょう。もっとも、そのように言わなければならないというのではない。義務感でもって愛を語るのは傲慢というものです。
愚樵
2011/10/11 14:40
>「あんたにゃ、わからん」と言うほうも傷つけられている、、、

そういうことなんだよね。
でも言われると無性に腹ただしくなるのは若かったからかもしれない。「あんたにゃ、わからん」は当たり前のことで、あえて言う必要もないと思うが、無意識のうちにそれを乗り越えようとするのが人かもしれない。
ああ、乗り越えようとすることが「愛」かもしれないね。
自分についても同じ。自己を知ろうと葛藤するとこに自己愛があるのかな。
しかしね、どうもね、「愛」っていうとちょっと引いてしまう自分がいます(笑)

ところで愛については、【愛】ってのがない、ってことは言えそうですね。
【愛】になったとたんに「愛」ではなくなる。

もしかしたら、誰かを支援しようとか、助けようとする行為は「愛」を実行しようとしているのか?
むかし、支援とか人助けとか運動とかが「有給」になることにすごく抵抗があった。理由ははっきりしなかったのだが、それは違うと感じた。これはもしかしたら「愛」が【愛】に変わると察していたのかもしれないな。

しかし老眼のオッサンが「愛」「愛」と書き綴るのもなんだかなぁ、、、と感じるねぇ、爆!!

毒多
2011/10/12 08:40
>【愛】になったとたんに「愛」ではなくなる。

あいや、それはなかなかそうとは言えないのではないですかね。いえ、毒多さんの主張を否定するわけではないのですが。

これは次のように定義づけられると私は思います。

自己愛=〈愛〉
自我愛=【愛】

主体が「自己」か「自我」かで愛の形は変わる。自我を確立した人間にとって愛は、どうしても【愛】になりがち。そして、近代社会が個人に要請するのは「自我の確立」です。

自我というのは、早い話が所有者ですね。我が他者を所有できるのは、我と他とが区分されているから。他人事だからです。

でも、自己というのは、他人との関係性を断絶したところでは確立されない。

「私が私であるのは、あなたがいるからだ」

というやり方でもって確立されるのが「自己」です。ということは、「自己」を愛しているということは、そのまま「あなた」を愛していることにほかならない。

「私自身を愛するために、あなたが必要だ」

と言い換えてもいい。

 ♪ここにいるよ 愛はまだ♪

の「愛」はこちらの自己愛ですね。

>助けようとする行為は「愛」を実行しようとしているのか?

この場合も、その「愛」を必要としているのが自己なのか自我なのかということを考えてみる必要がありますね。その「愛」の対象が代替可能なら、それは【愛】=自我愛と言っていいんじゃないでしょうか。自身のポジションを保持するために、ですね。
愚樵
2011/10/12 17:11
>老眼のオッサンが「愛」「愛」と書き綴るのもなんだかなぁ

戯れ言を放つがごとく、軽やかに愛を語れるようになれればいいですね。
愚樵
2011/10/12 17:13
暇にまかせて読了しました。

>【愛】が自我愛
>自身のポジションを保持するために

となったときに、それを「愛」という単語で表現できるのかなぁ、、という主張というか感覚でしょうかね。

たしかに、軽やかに愛を語るオッサンはカッコイイかもしれませんねぇ、、、あたしゃ、まだ其の域まで達してないのかな(笑)



毒多
2011/10/13 08:31

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