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zoom RSS 「悪霊と韓流と放射能と」・・・何が怖くて、何を信じる?

<<   作成日時 : 2011/09/29 10:17   >>

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 あぁ除霊である。娘に取り憑く悪霊を取り除くために滝行と称し椅子に縛り付け水を浴びせかけつ続けた結果、娘さんは死亡してしまったらしい。うぎゃぁぁぁ、アホなヤツもおったもんだ。なんちゅうことすんねん。気が狂ってまっせ。と、思うんだが、、、。亡くなった娘さんのことを思うと、おそらく10人中10人、100人中100人、、、は、暗い表情になり欝な気分になるのだろうなぁ。でも(多分)少なくとも数人は真剣に悪霊祓いをしようとして、真剣に滝行モドキを強要したのわけだ。
 というわけで韓流である。テレビ番組のなかに韓国ドラマが多いということに日本の行く末が危ないと怯え、ネットに書き込むだけに飽きたらず、テレビ局を囲んでデモをした。これは10人中1人ぐらいは同様な感覚をもつのだろうか? それとも100人に1人か? 現実にデモには2000人とも6000人とも言われている人が真剣にデモをした。特在会しかり、かな?
 さてさて放射能である。福島第一原発より撒き散らかされた放射性物質から逃げるため生活を犠牲にしても逃げまわり、果ては財産を家族を失い健康を害してしまった。こうした人が何人いるかはわからないが確かにいるだろう。そして放射線の危険を信じてデモをする人は何万といると報じられている。

 いずれにしても個々が「信じている」ことは変わらない。悪霊怖いも韓流怖いも放射能怖いも個々の思いであるとこの「信じている」そのものが違うわけではない。それぞれは他人の「怖い」はバカにしながらも自分が怖いは真剣そのものである。もちろん全部怖い人もいるかもしれないし、3件中2件が怖い人もいるだろう。3件中怖いものなしでも他の何かが怖い可能性もある。他の何かを信じて、その3件は信じない、ということは言えないか? それで?である。自分の怖い・信じるは「正しく」て、他人の怖い・信じるは「アホちゃうか」になっていないのか? 少なくともオイラはなっている。悪霊怖いと韓流怖いはアホちゃうか、と感じていて、放射能怖いはなんとなく解る気がしているのだ。しかしなぁ、これでよいのだろうか?とは思うんだよな。「よい」とすると何を根拠として「よい」となるのだろうか? オノレの怖いは正当で、他人の怖いはアホ、、ってのもなぁ、、、なんだかなぁ。
 悪霊怖いが人を殺してしまったから基地外じみているとなるのか? 韓流怖いの連中もネット上ではさんざん「氏ね」「頃す」を連発しているし、放射能怖いも意識しないながらも他者を死においやっている可能性もある。この可能性を否定するのは、悪霊払いが「自分が殺した」を否定するのも変わらない気もする。
 そも「信じる」の正当性があるかは何によって判断されるのだ?
 時代の風潮か? 多数決か? マスコミ登場回数か? それとも肌感覚か? ・・・・
 悪霊払いなど古い昔の話かもしれないが確かにあり、その時代の人は真剣に信じ人殺しまで行なっていた、と聞く。韓流怖いの人も若干古い時代を引きずっているのかもしれないが、真剣に信じて怯えていることに間違いはない。放射能怖いにしても未来にどういう評価がされるなんて解らない。今、溢れている情報にしてもそれぞれが「信じる」を根拠にしている情報も多い気がするな。
 きっと怖ろしいのは「失う」のが恐ろしく何かを「信じる」のだろうけど、ときとして「信じる」が全てになりその「信じる」が原因で失ってしまう。それでもまだ「信じる」ことを辞めず、何か「信じる」ことになる。
 原発でもそうだね。何かを失いたくなくて「絶対安全」を信じ、失ってから「絶対危険」を信じ、その信じがまた何かを失うのかもしれない。「金」ってやつもそうかも、、(笑)

 「怖い」のもとは失うであり、何を失うのが怖いかといえば命で、命を考えるということは生きると死ぬを考えること、、、ってのはこのブログの繰り返しになっちまうな(苦笑)。でも、考えてみるとそうとばかりは言えないのが考えどこ。
 そも人は「信じる」ものが無ければ生きていけないのか? たとえ「信じる」ことが原因で生きることができなくなっても、何かを「信じる」ものなのかな。ときとして「生きる」よりも「信じる」が大切になるものなのか? そういや自殺ってのはそういうものかもしれないな?? 武士の切腹とか、自爆テロしかり。とすると、人にとって最上位は「信じる」ことか?? でもさなんか変じゃないだろうか????と、考えてしまうのだが。
 
 

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コメント(26件)

内 容 ニックネーム/日時
 予測された未来が実際に来るのかどうかはその未来にならなければ不明故、それぞれの何らかの思い・思い込みに従って判断せざるを得ず、そこに信・不信が入り込む余地があるのは?未科学事象に対する対応と同じ気がしますね。
山路 独
2011/09/30 02:25
山路独さん、書いた本人さえ混乱しているエントリーにコメントありがとうございます。

はい、ひとつの判断材料として「科学」ってのを思いつきましたが、現実の放射線汚染の見解も科学者によって違っているような気もします。さらには、人の心ってやつは、科学的事象よりも何かしらの要因での「信じこみ」のほうが強力でもあります。ときに予想された未来よりも、どころか今の我が身よりも「信じる」が上位にくることさえありそうな、、、。いったい「信じる」とは何だろう? と考えています。

毒多
2011/09/30 09:34
おはようございます。

何を信じて何におびえようとそれは個人の自由だと思います。問題はそれを他人に強要したりそれを信じない人を批判することなんじゃないかなと思います。

悪霊の存在を信じ水をぶっかければ除零できると信じるのは自由だけど他人である娘にそれを強要しちゃだめです。

福島産を必要以上に恐れるのは自由です。しかし放射性物質が検出されないなど科学的にみて安全なものにまでケチをつけるのは間違っています。安全な福島の花火を恐れるのであれば、恐れている人が花火大会の会場から避難すればいいのです。安全な福島産の作物を福岡で売られるのが怖いのであれば、その怖がっている人が福岡から逃げればいいのです。安全なものを危険だと信じるのは自由ですが安全であることを論理的、科学的に覆すことができないのに実行する人や主催者を批判することは暴力であると思います。

韓国ドラマが多いということに日本の行く末が危ないと怯えデモを行った人たち、その怯えにしっかりした根拠があったとしても(たぶん無いけど)テレビ局ではなく番組を見ている視聴者を批判するべきです。テレビ局は視聴率が稼げるから放送してるんでしょうし、その高視聴率に貢献しているのは視聴者なんですから。

朝っぱらからうざいコメントを続けてすみません。

nobu
2011/09/30 09:40
nobuさん、おはようございます。
うざいコメントではないと思います。

>何を信じて何におびえようとそれは個人の自由だと思います。

以前より宗純さんも「内心は自由でアンタッチャブル」というようなことをコメントされていました。が、現実はなかなかそうな行かないようですね。
人にとって「科学的事実」「事実誤認」よりも「信じる」は上位にくるようです。それも自由だとは思いますが、たとえ法に触れなくても「信じる」ことで他者に影響をあたえる(ときに暴力になる)のも現実でしょう。

>問題はそれを他人に強要したりそれを信じない人を批判することなんじゃないかなと思います。

人は自分の信じるにしたがい、批判し、いがみあい、断絶し孤立しても、、、それでも「信じる」に固執する、、、不思議です。

毒多
2011/10/01 06:31
 はたして、わたしは、今日、隕石が落ちてきて、自分の周辺に大被害が起きることはない、と信じているのか……、と考えたら、「信じている」という能動的な形ではなく、「思いつきもしない」という否定形のかたちで、日常を過ごしているのでしょう。
「東京タワー」のそばに行かないという精神科の患者さんがいる、って話を子どもの頃に聞いたことがあります。その場合は、「信じている」ではなくて「心配している」というべきか。
野菜にはビタミンが豊富であると「信じている」のか、というと、分析結果を示されて、その事実を認めているのは、「信じている」の範疇か、どうか。
人間のする全ての判断は、「信じている」のであって、絶対に確実ということは原理的にあり得ない、というかたちの「懐疑論」はありえるでしょうね。

三陸沿岸に住んでいた人は、津波が来ることは想定していたでしょうが、あんな巨大津波が来ることはないと、「信じていた」といういい方でいいのかどうか、ちょっとわからない。わたしが東京タワーのそばに平気でいけるように、考えていなかった、というようなもんじゃないかしら。

もっと、多くの人に承認されない命題、放射能の危険とか、韓流による日本文化の危機とか、悪霊払いとかを、「信じる」という語でまとめて比較するのがいいのかな。
「コラーゲンは体にいい」とか、「夫婦は同じ姓でないと家族の一体感が損なわれる」とか「70年以内に南関東に大地震が起きる」とか、命題として質に差があるものを、全て等価に並べて何らか発見があるかしらん。
kuroneko
2011/10/01 12:43
毒多さん、こんばんは。

「信じる」という精神作用にも二種類あると思うんですね。1.は知的パフォーマンスを低下させる【信じる】。2.は逆に、知的パフォーマンスを向上させる〈信じる〉です。この2つを混同してはいけない。

例えば、科学を「信じる」といっても、やっぱり2つに別れる。【信じる】だと科学教になるし、〈信じる〉だと科学者としての矜持になる。そしてこの【信じる】と〈信じる〉は非常に見分けがつきにくい。そう、【良心】と〈良心〉の場合と、全く同じです。

現代社会において悪霊を信じるは、まず【信じる】だと考えていいでしょうね。古代社会ならば〈信じる〉というケースも十分あり得たでしょうが。

韓流はどうも陰謀論的な香りが漂いますね。陰謀論もあくまで仮説として扱うならいいですが、確定的に扱うなら【信じる】としかいいようがない。

ちなみに、【信じる】ことを強要する者を権力者というのですね。
愚樵
2011/10/01 19:26
さて、最大の問題は放射能。これは【信じる】or〈信じる〉? 

>そも「信じる」の正当性があるかは何によって判断されるのだ?

はい。知的パフォーマンスが向上しているか否かを見ればいいのですね。〈信じる〉の場合は、必ず高い「認知コスト」を支払って自問しています。放射線被曝の危険性があるとして、自分は何をなすべきか? はたまた何を訴えるべきか? 

放射能の危険性は、いずれ科学的に判明するでしょう。隠蔽される可能性も大ですが、広範囲に撒き散らされているのです。完全に隠しおおせるはずもない。

高い認知コストを支払う構えがある者は、仮にその〈信じる〉が誤っていたとしても、己の姿勢を容易に訂正することが出来るでしょう。ゆえに、危険が考えられる以上、後の訂正の可能性も考慮に入れつつ、現状は安全策を採るのがベターだという結論に辿り着く。これは極めて合理的な選択です。

対して【信じる】だけの者は、事実が判明して己が間違っていた場合には、スルー。正しかった場合には、鬼の首を取ったように騒ぎ立てる。いかにも権力者らしく振る舞うことでしょう。

上で、〈信じる〉【信じる】は見分けがつきにくいといいましたが、それでもその人の「構え」を見ていればだいたい判別はつくもの。そこは、己の肌感覚を〈信じる〉しかないでしょう。そして信じるべきは、【信じる】ではなく〈信じる〉。〈信じる〉ことが出来る人は、たとえ信じたところが結果として誤っていたとしても、十分に信じる価値がある人です。
愚樵
2011/10/01 19:30
反韓流報道デモについて、私の感じているところは少し違うのですね。

あれは「“韓流ドラマやK-POPを橋頭堡とした文化侵略の片棒を国内マスコミが担いでいる”と信じる」というよりも、既存マスコミを信じられないという「不信」が契機になっていると感じます。

私は木村太郎が報道番組で「韓国が国策としてK-POPの国外輸出を振興している。YOUTUBEでのK-POPでの再生回数の多さは韓国による細工である」という発言している場面を偶々TVで見ました。
木村がきちんと裏を取った上で発言をしたのか不明ですが、内容の真偽はさておき彼がかかる発言を実際にしたのは事実です。

それと、ふかわりょうがラジオ(ネットラジオかも?)で民放のK-POPに関する報道を記事広告やインフォマーシャルになぞらえて、「広告を広告でないコンテンツのように演出して放送するのは感心しない」と発言していたのはネットに掲載されていたものを聴きました。
こちらはかなり用心したというか、尻尾をつかまれないように腐心した話しぶりでした。
以下続きます。
黒い時計の旅
2011/10/02 21:03
私は、韓国政府またはその出先機関が、実弾を駆使して日本のTV各キー局や大手広告代理店を篭絡しているというような事態が実際にあるのかないのか、全く分かりません。

ただ、そういう事象が現実にあっても不思議はないと思う程度には、日本のマスコミを信用していません。
ですから、デモに参加した連中と「不信」という一点のみを通じて共感できるものがある。

デモ自体はほとんど既存マスコミにまともに取り上げられてはいなかったようですから、これをもって大衆の目を何か別のところに逸らさせようとしたと考えるのも難しいと感じます。

詭弁ぽく聞こえるかもしれませんが、こうは言えませんか?
「放射性物質による被曝の危険」を信じないなら、消極的にではあるが放射性物質の安全性を是認することになる。
同様に、「マスコミの偏向報道」の実在を信じないなら、消極的にではあるがマスコミの報道における公正さを是認することになる。
どうでしょう?

断っておきますが、私は以前書いたようにいかなるデモも嫌いですよ。
黒い時計の旅
2011/10/02 21:20
少々、補足しておきます。
ふかわりょうは記事広告やインフォマーシャルを批判したのではなく、これらは「広告である」というクレジットが表記される、または予め認知されるつくりになっていることを例示していたのです。
これは某民放キー局傘下の音楽出版社が、日本で活動する主要なK-POPアーティストの楽曲の版権を保有していることに対比されているとみるべきでしょう。

まあ正力松太郎がCIAと組んで世論を誘導し、日本に原発を導入するお先棒を担ぐくらいですから、韓国と日本のTV局が組んで何らかの意図(これは私にはさっぱり分かりません)の下にビジネスを仕掛けても、大した違和感はないようにも感じます。
どうでもいいですけどね。
つまらない長話、失礼しました。
黒い時計の旅
2011/10/02 21:40
kuronekoさん、おはようございます。

はい、確かに命題として等価として並べるのは無茶かなぁ、、と思いながら“えいやっ”とエントリーを立てた部分はあります。
もともと、「信じる」自体が問題になりうるかどうか、怪しげんな命題ですからね。
でも、無茶かな?(何かしら発見はあるのかしら)という思い(疑問)も、ワタシの思う(信じる)ところです。その「信じる」に固くなに従うならばエントリーとして成り立たなく、upすることもなかったのですが、その「信じる」にちょいと疑問を感じてみよう、ということでupしてみました。詭弁っぽいかな?(笑)
まあ、疑問に思ったのでupしてみれば誰かがコメントしてくれるだろう、というブログならではの甘えです。くだらないとされ、スルーされるブログならではの覚悟も常にあります(笑)。
毒多
2011/10/03 12:58
愚樵さん、コメありがとうございます。

おお、相当すっきりしました。ありがとう。
今回の「信じる」はとうぜん、【良心】と〈良心〉を意識して書きました。ワタシのなかのイメージとして「信じる」は「良心」よりもさらにドロドロしているというか、人間ぽい気がしています。
いずれにしても、「判断がつきにく」「構えが問題だ」というのは、胸のつかえが取れる気持ちです。特に「構え」の問題として固定化されているか否か? というのは、ブレまくるワタシの納得いくところです(笑)。

>ゆえに、危険が考えられる以上、後の訂正の可能性も考慮に入れつつ、現状は安全策を採るのがベターだという結論に辿り着く。これは極めて合理的な選択です。

>対して【信じる】だけの者は、事実が判明して己が間違っていた場合には、スルー。正しかった場合には、鬼の首を取ったように騒ぎ立てる。いかにも権力者らしく振る舞うことでしょう。

笑ってしまいました。まるで事故以前に反原発運動をしていたワタシのことのようだ。騒ぎ立てはしませんが、ほんの少しだけ「だから言っただろ」という気持ちがある。いずれにしてもベターで合理的な選択をするにおいても【信じる】に陥らないよう気をつけたいところです。確信しない態度がいいのかもしれなせん。
〈信じる〉【信じる】の判別においての肌感覚もやはり「構え」が大切だと思っています。

蛇足ですが、「金」に関してはデフォが【信じる】になり、【信じる】で成り立つ社会が・・・という話題に繋がるのでしょうが、、、どうも、、、萎えてしまいます。すみませんね。

毒多
2011/10/03 12:58
黒い時計の旅さん、コメントありがとうございます。

ワタシは韓流報道からデモまでの流れは細かく追いかけていないので、心理まではわからないのですが、木村太郎は【信じる】の匂いをワタシの肌は感じますね。
ふかわりょうは、意味がわかりにくいです。ふかわはマスコミ不信なのだが、それを有りていに言うと自己矛盾を起こすというような心理が働いているのでしょうか? とすると【信じる】ですね。


詭弁っぽく、以下の部分は、難しいです。
安全か危険の二択しかないのか? になるのか、、、でも考えれば大きな害がないのは安全と言っているのか、、、、
偏向か公正しかないのか、、、公正がデフォとすると公正でないものは偏向なのか、、、、
いずれにしても「信じないを信じている」という言い方はできそうで、愚樵さん風にいけば、その信じているも、〈信じる〉【信じる】がある、となるのかな。
毒多
2011/10/03 12:58
悪霊の話は『信じる。信じ無い』で正誤が正反対に逆転する。
これとは大きく違い放射能は科学の話なので『信じる』者にも『信じない』者にも無関係に普遍的に作用する。
低容量では単に一般的な科学のように確定的に結果が現れずに、確率的に現れてしかも枝野ではないが『直ぐには健康に影響が無い。』
時間がかかるので原因と結果との因果関係が証明し難いだけ。基本的に『信じる』など個人の内心とは何の関係も無い。
微妙なのは韓流ですね。
マスコミ総がかりの北朝鮮バッシングが始まった丁度同じ時期にNHKなどで韓流ドラマも始まっているので、十分政治的な動機があったのでしょう。
実は今、イサンに嵌っています。
主人公が絶体絶命の危機に陥るのでその続きが気になるのですが、良く考えたらこれ、大昔の駄菓子を売っていた子供相手の紙芝居のやり口そっくりですよ。
インチキ臭いのです。何が微笑みの貴公子ですか。日本ではあんなものは一番気持ちが悪い薄笑いですよ。
頭を打って記憶喪失なんか珍しくも何とも無く、今までの何遍も見てきたが記憶が無くなるほどのダメージを脳に受けているえば自動的に痴呆状態になるので恋愛なんかになるはずが無い。
宗純
2011/10/03 13:59
いつも出しゃばってすみません。毒多さんの問題提起は、私にとってはちょうど良いというと語弊があるかもしれませんが、考えをまとめるのに美味しい手がかりを提供してくれるのですね。今回も「美味しい」エントリーで、ごちそうさま、とお礼を言わなければなりませんね。

ご馳走ついでにもうひとつ。

〈信じる〉【信じる】「認知コスト」の話は、〈強い絆〉〈弱い絆〉の話へとも繋がっていきます。

『学びへの痛切な理由』のところでも述べましたけれども、認知コストを要求というのは場合によっては非人道的ですらあるほど、人間にとっては厳しいものです。でも、そうした対価を、これも場合によっては進んで支払えてしまうことも人間にはある。

そう。高い対価を進んで支払えるのは〈強い絆〉があるときなんです。〈強い絆〉があるときには自ずとその「構え」が出来てくる。〈信じる〉になるのです。

高い代償を支払うに値しない【弱い絆】では、もちろん【信じる】になります。

>「金」に関してはデフォが【信じる】になり、

ええ、そうですね。以下はまだ私もうまくまとめられずにいますが、「貨幣とは、経済活動という非平衡開放系のなかに出現する散逸構造だ」という安富教授の研究結果を引用しましたが、。これは物理的に考えたときにも貨幣の存在は合理的ということ。つまり、経済を少ないコストで整理できるということなんですね。このコストは人間にとってはもちろん認知コストです。貨幣があった方が人間には楽ということなんです。

ということは、貨幣が行き渡り過ぎるとどういったことになるか、容易に想像ができます。みんな【弱い絆】ばかりになってしまう。そしてそれがデフォになると、余計に〈強い絆〉は高コストになってしまう。現代社会がまさにそれです。
愚樵
2011/10/03 18:15
>毒多さん
「信じないことを信じる」
これはただのレトリックですよ。そのような言語表現が成立し得るという以上の何かではないです。

なぜ韓流デモはメディア不信が契機となっている、と私が考えるか。

例の悪霊払い溺死事件には、中山身語正宗という教団施設も教義もそなえた既存の宗教団体の僧侶が「滝行」儀式に直接関わっているという事実があります。
教団は、事件に関わった僧侶が教義を著しく逸脱した滝行を行ったと説明していますが、これは同教団の教義に「滝行」が実在することを示しています。
これら全てが立派なリソースです。

対して、韓流デモには信ずるに値するどんなリソースがありますか? 何を対象に信ずるというのでしょう?
K-POPや韓流ドラマそのものに視聴者をコントロールする恐るべき力がある・・・そんなことを考えている者がいるわけがない。
K-POPのDVDを買い、韓国映画を映画館やDVDで鑑賞することを好む私ですらそんなことは考えもしません。

韓国政府が日本国内のマスメディアに隠然たる影響力を行使しているなどという話にも、「決定的な、動かしようのない証拠」が出て来ているわけではないのです。
信じるに足るリソースなどない。

「鰯の頭も信心から」という言葉がありますが、鰯の頭ですら触れることも齧ることも出来る立派なリソースですよ。
黒い時計の旅
2011/10/04 01:09
追記しておきます。

人が何かを信じるにあたっては、信じるに見合うだけのリソースが不可欠です。
私は特定のブランドの服を好んで買いますが、これはそれらの服の肩幅/身幅/袖丈/アームホール等の総体的なバランス、質感(生地感)、縫製、デザインの傾向などに関するリソースを予め私が保有しているからです。
つまりファブリックというものに信を置いている。
愚樵さんの言葉を借りれば、リソースを保有するという対価を支払うことで、認知コストを下げていると言えます。

他者を信じるということも、同様です。
見知らぬ他人より旧知の友人を信じるのは、相手に関するリソースを保有しているからですよね。
人はリソースのないものは信じない。
信じるというモチベーションを喚起されない。

ただし信じなくても恐れることはできます。

澁澤龍彦がある婦人の話を引用していました。
その婦人(名前を失念)は幽霊を信じるかと訊かれ、こう答えたそうです。

「いいえ、信じません。けれど私は幽霊が怖い」
黒い時計の旅
2011/10/04 07:42
宗純さん、おはようございます。

「直ぐに健康に影響が現れ」出したら、信じる、信じない、何を信じる、とは別に問題になりますね。直ぐに解らない今だから「何を信じる」って内心によって行動したり、批判したりすることになり、それが少なからず現在の自他の健康を左右するかもしれないところがあると思います。というか、今、現実社会を動かすのは、事実よりも内心の集合体の要素のおおきいのかもしれません。だから内心が気になるのかもしれません。

それにしても、宗純さんは意外と剽軽ですねぇ。
韓流のイサンに嵌っています、、、といいながら、インチキ臭いと評価する(笑)。インチキ臭いを認識しながら面白がる余裕は好きです。
こういう余裕がなく怒りだすのが、【信じる】の牙をむくネットをはじめ昨今の傾向のような気がします。
毒多
2011/10/04 09:24
愚樵さん、レスありがとうございます。

多分ね、ワタシはすべての【・・・】に嵌っていて、6年間ブツクサとエントリーしていたような気がしています。
【信じる】【良心】【弱い絆】・・・で認知コストが高くなり、クソめんどくせー!!、糞面白くねーぞ、コラァ、、、となる。いま一番リアル実感しているのが「町内会」。もう鬱陶しいことこのうえない(爆)。【構え】ないとやってけねぇ。と、おもいっきりローカルに走りましたが、おそらく【町内会】が日本の縮図になっているのかもしれません。
ただやはり、「嵌っていて」ってか「嵌められていて」この辺は個人の努力で全て解決できるものではなく、ついつい形而上にエスケープしたくなるのでしょうか(笑)
さて、「嵌っていて」ってか「嵌められていて」のどちらを強く感じるのか、、、、

毒多
2011/10/04 09:26
黒い時計の旅さん、すみませんでした。

確かに「レトリック」でしたね。自らブログの質を堕とす愚をやらかしてしまいまいした。

リソースがない韓流デモでも、行なっている人たちはやはり何かを「信じている」気がします。何かの心理によって行動しているというのかな。仰るようにマスコミに対する不信が、「たまたま」韓流が的になったのか? 
もともと何らかのリソースによる韓国不信に、テレビ局の番組編成が符合して反韓流デモになったのか?
「信じる」根本のリソースとは別のものが「的」になる、ってのはさらに問題が広がりそうですが、、、、

>ファブリックというものに信を置いている。
反韓流デモってのは、ファブリックに信を置けない心理なのかな?

「信じないけど怖い」ってのは、ワタシもうなんですが、やっぱ信じているのかなぁ? 

毒多
2011/10/04 09:27
>毒多さん
謝らないでくださいな。お邪魔して駄弁を振るっているのは私のほうですから、謝るべきなのは本来私です。

服の話を書きましたが、ここでリソースと読んでいるのは、カタログに載っている寸法や色合いの話ではなく、自ら様々な服を買い、自分で袖を通し、生地に触って、裏地の縫製まで確認して、その上で得た経験的な知覚の集積です。
fabric=製造物として立ち現れた「表現」を通して、作り手の意思や感受性を受け取り、自分(の体)との相性を判断するということ。

信じるという行為は、そういう手間をかけた末に得られたリソースがあって初めて喚起されるものだと思います。
もちろん永続的なものではなく、こちらか向こうが変化することで失われることもあります。

韓流デモをやっている連中のほとんどは、そのような形で対象に向き合っているようにはとても見えません。
映画を例に取ると、彼らの大半はパク・チャヌク、キム・ギドク、イ・チャンドン、ポン・ジュノといった監督の映画などほとんど観てないでしょう(実際はこの辺りの監督の作品は「韓流」にふくまれていないんですけど)。

おそらく韓国の大衆文化にまともに向き合ったことも、向き合う意志もさらさらない。
あるのは、二次情報として仕入れた反日感情の断片(反日感情の存在を否定はしませんよ)を収集してフラストレーションを感じ、猜疑心を募らせているといった状況ではないですか。
知らない。知ろうともしていない。拒絶しかない。
その延長線上にある心の働きを「信じる」と呼ぶのは適切か?
私がいいたいのは、まあそういうことです。
黒い時計の旅
2011/10/05 21:28
ファブリックは完全によく似た違う単語と読み違いをしていました。お恥ずかしい。爆!!

>知らない。知ろうともしていない。拒絶しかない。
その延長線上にある心の働きを「信じる」と呼ぶのは適切か?

たまたま思いついた言葉が「信じる」だったのですが、ちょっとその深さに戸惑っています。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、、、、いつぞや袈裟が憎いがメインになり、坊主は忘れ去られた。坊主憎いも、なぜ憎いのかも忘れ去られ憎いだけがメインになってしまった。そんな事を感じました。
もともとの要因はまったく別のもの、もっといえば自分自身の心にあるのに、、、。

放射能も、、、

>知らない。知ろうともしていない。拒絶しかない。
その延長線上にある心の働きを「信じる」と呼ぶのは適切か?

と安易になり易いのかもしません。
放射能憎けりゃ東電まで憎い、、、と、安易になりがちなものを「信じる」と呼ぶのは適切か否か、、、、考えものです。
毒多
2011/10/07 09:21
>毒多さん
私の話に付き合わせてしまって、すいません。
何でこのテーマに私が食いついたかというと、人が何かの行動を起こしたり大きな感情の動きが生じる時に、「信じる」が介在することは寧ろ少ないのではないかと推測しているからです。「盲信」も含めて。

医薬品。
医師の処方である薬を「初めて」出してもらった時、あるいはある市販薬を「初めて」買うとき、毒多さんはその薬を「信じ」ますか?
知的パフォーマンスの上がる(信じる)でも、下がる【信じる】でも、どちらでもかまいません。

私はどちらでもありません。効いてくれるといいね、医者が薦めてるんだし小麦粉とか飲むよかマシだろとかの「若干の期待」ならあります。
多くの人が私と似たようなものだと思います。それが証拠に、薬が効かない・薬効がないので返品・返金を求めるという話を聞くことは少ない。効かないこと自体はまず問題にならない。

なるのは、副作用による後遺障害・死亡などが生じた時だけです。
場合によっては大して効かないのに副作用だけが出ても、薬なんてそんなもんだろと自分を納得させてしまう。
黒い時計の旅
2011/10/08 08:59
承前。
自分が手にしている薬の成分が、どのような機序で体組織に働き、効果を顕すものなのか詳細な知識も持たない。
知的パフォーマンスを上げる(信じる)どころか盲信すらもしていない。
そういうものをわざわざ対価を支払って入手し、体の中にまで入れてしまう。

いや、それは「科学教」(これは池田清彦が好んで使う言葉でしたっけね)をベースにした【信じる】なんだろという意見があるかもしれませんが、たとえ盲信であれ信じるという心の働きが強ければ強いほど、裏切られた時の失意や落胆は大きいはずですよ。
でも現実には、先述したようにそうはならない。重篤な副作用さえ出なければしょうがないなで済ませてしまう。

リウマチで苦しんでるうちの母が、まさにこれですよ。
大して信じてないものを手に入れるために大金を払い、医者にかかり、服用し、やっぱりこれも効かないわと苦笑いしている。でもそれは母だけじゃない。
大半の人間は心の中では信じていないもののために動く。対価も払う。
黒い時計の旅
2011/10/08 09:01
長くてすみません。
おまけに、映画の話を書いておきます。

『4人の食卓』という韓国映画がありまして、劇中、主人公(男)に対して婚約者(ヒロインではない)が、ある村で旱魃が続き村人たちが雨乞いの願をかけるために教会へ集まったという昔話をするくだりがあるのです。

男「で、雨はふったのか?」
女「降ったわ」
男「つまらん話だ」
女「でも、傘を持って行ったのは、たった一人の子だけだったの。
お祈りをしたら雨が降る。
だから、傘を持って行こう。
そう思ったのは、たった一人だけだった」
黒い時計の旅
2011/10/08 09:21
黒い時計の旅さん、おはようございます。

言われてみれば、人は「信じ」なくても行動しますね。
ただやはり、それでも何かを信じている気もします。藁をも掴む思いで、僅かながらの可能性を信じて、、奇跡を信じて、、、
と、書いたところで果たしてワタシは何が疑問だったのだろう?となるのですが、ああ最後は「信じる」と「生きる」の関係を疑問形で終わらせていました。
うーん、「薬」に「雨乞い」かぁ、、、やはりどこかで可能性を信じて行動している気はするのだけどなぁ。そういえば、以前紹介した末期がんの娘は西洋医学療法を信じずに、民間療法にはしったな。あの娘は「信じる」「信じない」に重きをおいていたのか?
宝くじを買う人は、可能性を信じて買うのだろうか?
ん? 可能性を信じる???
あぁ!? 滝行の人は「可能性を信じた」のだろうか?
放射能の人は「可能性を信じる(信じない)」のだろうか?
「可能性を信じる」であれば、あらためて、とりたてて言うことでもないのかもしれない。エントリーのとき感じたのはもう少し違う「信じ込んで」というイメージなので一般性のない行動をするにおいてかもしれません。
毒多
2011/10/11 09:20

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「悪霊と韓流と放射能と」・・・何が怖くて、何を信じる? 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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