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zoom RSS 「脱原発と反脱原発ブーム」(2)…やはり対立するものではない

<<   作成日時 : 2011/07/29 06:42   >>

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 さて、いったい現状はどうなっているのだろう?
 ほんとうに、フクシマは「敗戦」なのだろうか?
 狭い徘徊先のブログ上では「脱原発」が多数、「反脱原発ブーム」が少数のような気もするが、リアル世界まであわせると「脱原発」はが本当に多数なのかどうなのか解らない。この地方での脱原発デモなどに参加してみても、それを脇から観て通りすぎる通行人のほうが圧倒多数であり、判断保留、思考停止、指示待ち(か指示待ちですら無く)、ショッピングか家で娯楽番組を観ているピーポーのほうが圧倒多数のような気もする。
 事故原発は「制御不能」になり、その制御不能が社会(システム)まで制御不能になっていくように見えるが、かといって「脱原発」と叫ぶ人々が、実際にシステムが制御不能だと考え、変わらなければならない、と考えているかどうかはやはり疑問である。ただ単に現状システムを維持しつつ「脱原発」さえすればなんとかなる、と考えている「脱原発派」も多いような気もする。「反脱原発ブーム」は、その制御不能は煽られパニクッた脱原発派によるもの、もしくは脱原発ブームを利用しようというヨコシマなたくらみによるものだと言うわけだ。
 きっと、いろいろな意見を素直に聞いてしまうワタシはちゃんと整理しないと混乱するばかりなのだろう、ということでワタシなりに考えてみる。

 フクシマは「敗戦」なのだろうか? とはどういう意味か? 
 ここで言う「フクシマ」とは原発のことであり、それが事故ったことは事実で、事故原発はいまだもって制御不能でいつ制御可能になるかもわからない、というのも事実だろう。原発が事故によって放射線をまきちらし、制御不能な事故により今後とも撒き散らし続ける可能性が無視できない程度あることも事実。
 放射線が撒き散らかされたことが原因で、農業、畜産、その他の産業のこれまでのシステムに不備が出ているのも事実。また地震津波よってでた瓦礫・ゴミ等が被曝しその処理が難航していることも事実。
 これらの事実は、核という自然・科学との戦いに敗れたということだと考えられるのだろうか。これは単なる負けではなく、これまでのシステムの負けであり、今後も生きていこうとするならばシステムそのものが変わらなければならない、、というのが、一つの考え。
 ただ、一方でそも「敗戦」ではないという人もいれば、「敗戦」であっても「敗戦」によってもたらされたものが、たかだかただちに健康に害のない程度の放射線であり、システム維持しつつ修正すればいけるでしょ、という意見もある。今、慌ててシステムそのものを変えるということは、現実に苦境に陥っているものを切り離すことになるので、慌てるでない。と言う。「現実に苦境に陥っているものを切り離すことになる」ときけば、その可能性は高いと肌では感じるが、よくよく考えればこれまでのシステムでも散々弱者は生み出され切り捨てられてきたわけで、社会(システム)が変わることそのものが問題になるのは違う気もする。「反脱原発ブーム」の人もシステムが変わる事自体を否定しているのではなく、変わり方を問題にしているのだが、その「変わり方」を論じているのかもしれない。
 ただ「脱原発」のすべてが被災者をはじめ弱者を切り捨てて「変わろう」としているのかも疑問なのだが。

 ひとつ焦点は、撒き散らかされた放射線がどれだけ人体に影響があるか、だろう。
 「脱原発」の原点は、あとづけされた自然への畏怖でも、スローライフでも、自重でもなく、「放射線によって死ぬ」が根本で放射線が人畜無害であればいままでと何の変わりもなく生活しているに違いない。「反脱原発ブーム」の根拠も、現実に撒き散らかされた放射線はさほど人体に影響がない、ということになっている。人体にただちに影響があるという認識があれば、デマに踊らされているなどとは言えないはず。ただ被曝が人体に@「まったく」影響しない、という認識はしていないのではないか。
 実際には、どの程度人体に影響するかは解らない、というのが現実だろう。
 人体への影響度合いは解らないが、事故による人口的な放射線に被曝する量も機会も増加した。度合いにかかわらず被曝の人体への影響はある、という予測からできうるならこれまでの自然被曝以上に被曝しないほうがよい、ということになっている。
 事故による制御不能で被曝せざる得なくなったわけだが「反脱原発ブーム」を言う人々としても、たいして影響もないのだからどんどん被曝しないさい、とは言わないだろう。「被曝を避けたほうがいい」ということでは一致しているのではないか。
 被曝しないほうがよい、ということではシステムそのものが変わらなければならない、というのが流れだろうな。そこに脱原発があるわけだな。

 前のエントリーで「脱原発」と「反脱原発ブーム」が同じ方向を向いている、と言ったのは、「被曝しないほうがいい」「システムは変わるべきだ」の部分で、変わるにおいて故意、過失にかかわらず今回の地震津波被災者をふくめ社会的弱者を切捨てるなよ、と言っているに過ぎず対立するものではない、と考える。

 さて、「敗戦」なのかどうか、変わらざる得ないシステムはどう変わるべきかに続くわけだが、、、エントリーもつづく、、、と思う。

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コメント(48件)

内 容 ニックネーム/日時
どうも前のエントリーにコメントが出来なくなっている(原因不明)ようでこちらで失礼します。

愚樵さん、おはようございます。

ワタシに対してはちょっと走り過ぎです。フクシマが「敗戦」であるかどうかも考えがまとまっていません。システムが変わるのかどうかの予測も立っていません。ただ、直前のコメントは考える参考になります。ワタシにとっての、とりあえずの問題であった「反脱原発ブーム」をクリアしてから次へ進みたいと思います。
毒多
2011/07/29 06:45
えちごっぺさん、先日はお邪魔しました。

どうも貴ブログへの書き込みは、常連さんに気を遣いあまり過激にかけないので、なかなかコメントできません(笑)

おそらくえちごっぺさんにとっても徘徊先であるブログが、厳しく「脱原発」を批判していることで、えちごっぺさんもワタシ同様、動揺しているかもしれませんね。ちょっと取り敢えずそこの整理をしたいと思いもう一本エントリーをかいてみました。
毒多
2011/07/29 06:46
毒多さん、失礼しました。「敗戦」というのは共有できていると思ってましたので。

しかし、ここが共有できていないとなると、話の接点がありませんね。困りました。いや、なぜ接点がなくなるかという話はできるか。

「敗戦」というのは、言い換えれば「復帰限界点」です。何が復帰するのかは明確ではないですが、私たちの間で〈システム〉と読んでいるようなものですね。私はとうの昔に復帰限界点は超えたと思っていましたが、フクシマによって、それが多くの者に感知されるようになった。というようなところでしょうか。

困ったことに、この「復帰限界点」は可視化が難しい。感知するしかないような性質のものです。パラメーターが多数あって、情報過多で計算不可能なのです。だから、感知するしかない。

たとえば。大雨で崖が今にも崩れそうだとします。ですが「崩れそう」は見えません。いろいろと兆候は出ます。異音やひび割れなど。でも、それで復帰限界点を超えたかどうかは、わかりません。兆候が復帰限界点を超えていたかどうかは、事後的にしかわからない。崖が崩壊して、あれがサインだったのだな、と後でわかる。そうした性質のものです。
愚樵
2011/07/29 18:44
そのような危険を前にして、「まだ崩れていないのだから大丈夫だ」と言い張ることは可能です。実際、大丈夫かもしれない。わからないんです。

「わからないから大丈夫」
「わからないから危ない」

この二者は折り合えません。わからないんですから。ですから、私たちがまず為すべきは、どちらの立場に立つのか。ここが定まらないと何も出来ません。「わかってから動く」は「何もしない」と同義です。

もちろん、後になってわかってから、間違いだったということになるかもしれません。しれませんが、私は別にどうということはありません。そんなのは「間違えていました。私がバカでした」で済む話です。

まさか毒多さん、「大雨は降っていないかもしれない」なんて言い出しませんよね?
愚樵
2011/07/29 18:56
毒多さんこんにちは。

>過激にかけないので・・・

お気遣い恐縮です(笑)
私の日記自体が「ある小市民の日常」を綴るものなんで気を使わせたようで申し訳ないです(汗)
ただ、思うことがあれば書いていただけたらなとは思っております(笑)

>動揺しているかもしれませんね。・・・

まさしく図星で、何故か毒多さんも書き込みされたブログでは私のリンクがはずされてましたし?「自分でも徘徊先のブログはきっと同じ考えだろう」という根拠のない想い込みが見事に崩れ去り、どうしていいのか分からないというのが今の心境です・・・
ただ、自分としては「核」などというものはまだ?人間が扱える性質のものではなく、もうやめにすべきだという思いだけです。これは日本だけでやっても意味がなく、世界中で必要なことですが、そう考えると無力感しか湧いてきません・・・
また、被災者の支援と「脱原発」は両立するはずだと思うのですが・・・
ただ喫緊の課題は被災者の支援だと思います。





えちごっぺ
2011/07/30 14:31
愚樵さん、おはようございます。

 「敗戦」か「否」かまで戻って頂いてありがとう。
 咬み合わない話のズレを確認することは大切ですね、お付き合いいただきありがとう。
 原発事故当初ワタシの肌は「敗戦」だと感じました。トチジの「天罰」という言葉は使いませんが、変わらなければやっていけない、と直感しました。もっとも、ワタシのブログでも愚樵さんのとこも「変わるべき」というのは、「フクシマ」以前からずっと話してきましたよね。すべての記事(とはいわないけど)、結局そこへつながっていたと思います。そして今回の「フクシマ」です。
 「変わるべき」から「変わらざるえない」にまでいってしまった。この現実に変わることに戸惑っているのかもしれませんが、「変わっていこう」と「変わらざる得えない」というのは、相当な違いがある気もしています。「変わっていこう」という意識が正のベクトルであるなら、「変わらざる得ない」は負のベクトル。同じ「変わる」なんですが「変わる」にあたって後者のほうが、弊害が大きくなる予想はできます。
 「反脱原発ブーム」を言うブログも、平時は「変わるべき」と訴えていたので、いま「変わらない」と言うということは、「変わらざる得ない」ときに「変わる」ことの弊害を指摘しているようにも思えます。かと言って、「フクシマ」をさておき以前のシステムに復興しようというのは、違うと考えますし、そして「フクシマ」とセットにした復興しか考えられない、というのが率直なところです。という意味で「敗戦」で「変わる時」という立場にたちます。
毒多
2011/07/31 09:39
 ただ現実的に「フクシマは敗戦」だと思うが、何に対しての敗戦で、何を総括して、どこを目指すのか? が分からず少しずつ思索を重ね整理していきたいと思っているところです、、、、と、こういう「ゆっくりさ」現被災者には苛つのかもしれませんけどね。

 そうそう、ワタシのブログでは「変わるべき」というのは、ずっと言ってきたと書きましたが、そうでもないかな。「9条」というのは現システムだし、もともと「シンドイ」のが嫌いで、システムなんて「変わらなくてもですむ」であれば変わらなくていいと思っている、ので、もともと現システムの修正ぐらいの書き方しかしてこなかったのかもしれません。
 ところが今回の「フクシマ」で根本から「変わらざる得ない」になってしまったから戸惑っているのかもしれません。

毒多
2011/07/31 09:40
えちごっぺさん、大雨大丈夫でしたか?

動揺というのは書きすぎで、同様と書いたのでダジャレで書いてみただけです(笑)。
それにしても、えちごっぺさんもやられていますが「リンク」「ブックマーク」の開示ってのはいろいろ物語(悲喜劇)があって面白いですよね。やっぱりリンクを張られると嬉しいし、張られていたリンクが外されるとドギマギする。
リンクを張る、外すという意思表示が第三者にも「公開」されるわけで、それでブログ主のひととなりも「公開」されるような気がします。ワタシも何度かリンク集を公開しようと思いましたが、小心者のワタシは、何故自分のブログがリンクされないのだ、と思われるのも、何故自分のブログのリンクの外されるのだ、と詰め寄られるのが厭で、公開していません。
ワタシもいくつものブログにリンクを貼ってもらい、そして外されました。特に外されたブログは記憶しており「ある種」の「意識」はしています。はずされても訪問するブログは、訪問するのですが、、、。

>喫緊の課題は被災者の支援
そう思います。ただその支援の仕方も(取り敢えずフクシマの事情を除外した)、従来のシステムに向かった支援でいいのか? それは違うという思いがあります。

毒多
2011/07/31 09:40
お蔭様で私個人には被害はありませんでしたが、前回の7.13水害に匹敵する被害があり、自然に対する人間の無力さを感じています・・・

>リンクが外される

どこのブログかはすぐお分かりになったと思います(苦笑)自分なりに主張されていることは分かるつもりですし、同意する部分もあるのですが・・・
ただ、コメントはしばらくしていなかったので、意外といえば意外でした。

>従来のシステム

そうですね。ここで「システム」を変えていくことが始まらなくては、未来永劫変わることは難しいのではと個人的に思います。
復興構想会議など、まさに従来のシステムの上に立った組織で、震災に乗じて被災地を「草刈場」にするものであり、住民の目線からの復興にはほど遠いですね。
宗純さんも言われていましたが、ある意味「自分たちで案を出せ」と言った、あの前復興担当相が案外的を得ていた気がします。
えちごっぺ
2011/07/31 12:25
・毒多さん 

>「フクシマ」で根本から「変わらざる得ない」になってしまったから戸惑っている

ここは、次に毒多さんに突きつけてやろうと思っていたところです。先を越されてしまいました。

この戸惑いは、たぶん多くの人が共有していると私は思っています。なんとなくもう原発はダメと感じてはいる。でも、「変わらざるを得ない」とまでは、まだ認められない。変わるのはシンドイし、どう変わればいいのかもはっきりしない。そのような局面で、「変える」と覚悟を決めること、負のベクトルを正へとひっくり返すことには覚悟が要る。

覚悟を出来ない人間に覚悟をせよと迫っても不毛です。人間は、どうやれば覚悟ができるのか。何があれば覚悟ができるのか。それを私は〈強い絆〉と言っています。誰にだって〈強い絆〉はあるはずなんです。見失っているだけです。探せば必ず見つかります。シンドイですけど。

そんでもって、〈強い絆〉を見つけるということは、「生きる意味」を見つけることと同じです。自分は何者なのかを識るのと同じです。

あなたは、何処にいるときにもっとも自分自身でいられるのか。誰の前に立ったときに自身を実感できるのか。神でも子どもでも、イワシの頭でも何でもいいんです。何でもいいが、自分で見つけるしかない。

これから日本はますます生きづらくなって行くでしょう。そんなときだからこそ、己が大切なんです。自分が自分でいられる場所が大切なんです。どれほど変わっても、変わらない軸を見つけることが大切なんです。
愚樵
2011/07/31 15:14
毒兄

お久しぶりです!と言うためにコメ欄に来ました。
相変わらず頭で考える前に心が動く方へすぐ動いてしまう私はみなさんの難しいやり取りには全くついていけてないのですが、

えちごっぺさん(はじめまして!)の
>「自分たちで案を出せ」と言った、あの前復
>興担当相が案外的を得ていた

私もそう思います。

特に「松本ドラゴンを惜しむ声」(http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-1083.html)、「ゾンビ菅内閣の裏を読む」(http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-1073.html)などを読み、沖縄の新聞と読み合わせると、原発も基地もセットで日本を売るためのツールであったといやでも気づかざるを得ない。アメリカの意向でシステムが変わってしまう日本ていったい・・・。いやしかし日本政府の意向でシステムを変えてきた沖縄というのもあるか。
さめ
2011/07/31 18:23
私自身は以前より係る、というよりも心の一部を持っていかれてしまっている米軍基地問題の方から変えようという覚悟はしていたので、311直後はもちろんショック状態ではあったものの、あまり覚悟ができなくて困るという状態ではないです。むしろ沖縄は覚悟を決めたのだから本土にもぜひ覚悟をきめて欲しいと思う。

>覚悟を出来ない人間に覚悟をせよと迫っても不毛

愚樵さんもお久しぶりです。周囲にたくさんいる放射能が見えないフリをする人たちが、低学歴な訳でもなく新聞やネットにアクセスが出来ない訳ではないのにいったいどうしてそんなに腰が引けてるのかと不思議に思っていましたがそうだったんですか・・・。
さめ
2011/07/31 18:26
愚樵さん

先を越して言ったというのは、なんとなく気分がいいものです(笑)
「突きつけ」られずに済む、突きつけられるのは余り気分のいいものではありません(笑×2)

はい、「変わる」ことが先に進むこと、までは共有できました。
「変わる」までいったとしてですね。
「変わるべき」と考えている人の多くも「システム」が「変わるべき」と考えているような気がします。どうも愚樵さんの「変わるべき」は個々人が変わるべきのように読める。ワタシは感覚的にもともと「そっち派」なので異議はありませんが、多数の意識、発言は政治やらのシステムの事が多いし、前のエントリーのコメ欄では「民主主義」という話になっていたりする。ここがややこしい。
「強い絆」はシステムではありませんよね。
 ちょっとさめさんへのレスでご意見ください。
毒多
2011/08/01 09:01
さめさん

お久しぶり、を言うために、なんて泣かせるじゃないですか。お久しぶりです。
(論)敵ばかりが増えて行きそうなネット空間で、ずっと付き合ってくれるのは涙ものですよ。感謝。論敵は敵ではなく友である、、と、いきたいものです。

 で、ちょっと愚樵さんとのやりとりのなかのさめさんの登場で思ったのですが、愚樵さんが言う「変わる」ことというのは、「システム」ではなく「個々人」のことだと受け取っています。そして「変わる」ことは個々人が「自立」することである、とね。そのために「強い絆」をもつのがいいだろう、それが神か、いわしヘッドか、、、、というとこで、感じたのですが、さめさんは「強い絆」でもって「自立」しているのじゃないか、ということです。
 で、なにと強い絆を築いているかというと「珊瑚(を介した自然かな)」ですね。「米軍基地」などこの世的な批判対象でしかない。それで「強い絆」があるから動じない。これが「米軍基地問題」そのものを「絆」にしていると、システムが変わるたびに右往左往する。弱い絆だと思います。
 米軍基地にかかわらず、システムそのもの(から派生するものも含め)を「絆」としている運動家、活動家は、システムという流動的な道具に絆をもとめるわけですから実は非常に弱いのではないか、と考えます。
 
毒多
2011/08/01 09:01
えちごっぺさん

 いやいや、実はワタシもこのほど「反脱原発ブーム」の先鋭ブログからリンクを外されましたので、お気持ちはお察しします。

 前復興大臣のおっさん、、、もね。相当イタイとは思いますが、まあ、言葉の本質を抉らず表層だけを叩くマスコミと世間のほうが、さらにイタイのか。
まあ、政治家というのは「システム」をどないかする仕事なので、ちょっとまとが違いかもしれませんが、あのおっさんも愚樵さんの言うとこの「強い絆」が感じられない。解同という「システム」にのっとった絆ばかりが見えてしまう、ということは感じます。
 システムを構築するのが仕事の政治家というのは、「自立」した人がやるべきだと思うのは、哲人が政治家をやるべし、と過去に言った人もいたかな?

毒多
2011/08/01 09:02
毒多さん、おはようございます。

論点が整理されていくようで、良い感じですね(^o^)v

私が言っているのは、順序の問題なんです。人が変わればシステムもかわる。システムが変われば人は適応する。

システムを機軸に人が変わるべきという考え方は、典型は「勝ち組」「負け組」です。適応の度合いで勝ち負けが決まる。毒多さん周辺の人(さよく?)は大抵これには反対ですよね。でも、反対する人も実は同じ考え方をする。別のシステムを想定して(おフランスなんかを例にとって)、それを機軸に人を変えようとするんです。で、変わらない人間、変わろうとしない人間は理念を理解出来ないバカだと見下す。

私は、どちらも「アマタデッカチ」だといって批判してきました。現在、システムも人も「変わらなければならない」事態に直面していますが、アタマデッカチはやっぱりシステムの方から考える。だから、変わることが出来ない人間はバカなんです。リンクを外されたりとかいう話ですが、そういうことなんじゃないですかね。いまどき流行りませんが、イデオロゴーグなんでしょうね。

私は順序は逆だと言っています。人が変わればシステムは自ずと変わる。新たに〈クラウド〉なる言葉を持ち出しましたが、日本人の場合はそちらへ変わっていくだろう、と。で、人が変わっていく機軸が〈強い絆〉だ、というように言っているわけです。
愚樵
2011/08/02 05:38
もう少し言葉を継いでおきましょう。

「適応」というのは、別の言い方をすれば「洗脳」なんですよ。人はシステムに適応すればするほど、洗脳度が深くなっていく。さらに悪いことには、洗脳度が深い人ほど、適応するのに努力してきたわけです。だから、「勝ち組」は「負け組」が努力が足らないと言う。理念を深く理解した(適応した)サヨクは、理念を理解しない(努力をしない)人間をバカだと言うんです。同じ構造をしているんです。

私が「自立」と言っているのは、そういった「洗脳」から解脱することです。己がどのように「洗脳」されていったか、その束縛を一枚ずつ剥がしていくことなんです。
愚樵
2011/08/02 05:48
あれれ、>人が変わればシステムは自ずと変わる。
というのは、ワタシも愚樵さんとこで言いませんでしたっけ? 言ったきがするんだけどなぁ(笑)。いずれにしても同意します。人が「自立」したうえで生じるシステムがより生活しやすいと考えています。
というか、「システム」と「自立」を同一線上であると考えることが間違い、だと思うんですね。以前、自戒もこめて「(サヨっちが)文句を言う問題をすべて解決した社会で、(サヨっちは)さてどう生きる?」というエントリーを挙げたことがありました。おのれが「生きる」なかでシステムの問題が全てになってしまって、手段と目的が転倒してしまったようなサヨに対する皮肉で挙げたのですが、そのエントリーでさめさんは「珊瑚とたわむれて生きる(それが幸せ)」みたいなコメをしていたのが記憶にのこっています。ああ、それなんだ、と思いました。
「強い絆」が、神であったり、いわしヘッドであったり、珊瑚であったり、、ということで、いつしか話題にした「山登り」もそれかもしれないと考えます。
そのときは宗純さんが言われてましたが、「山登り」はシステムの上から見たときのメリットは何もない、と解釈できるようなことを言ってた気がします。野口健や片山右京なんかの山登りはシステム的であることの批判であったのだと今わかったような気がします。
それでも「山登り」に固執する人々がいるのは「強い絆」ゆえなのかとも感じます。
山登りが絆だ、というと、ゴルフが絆だ、車が絆だ、と趣味的な絆をあげることもできるかもしれませんが、結局システムの上になりたつものへの絆は、システムに束縛されていて、自立としての絆には成り得ないですね。

毒多
2011/08/02 14:37
一応報告しておきますが、骨肉腫を患った甥が2年足らずの闘病をしましたが、昨夜14年の「生」を終えました。またエントリーしたいと思っていますが、いろいろと考えています。
毒多
2011/08/02 14:37
さる7月27日に死去したアゴタ・クリストフに「絆の喪失」と関連する発言があるので抜粋してみました。
以下引用。

「〜自分はロシア人が怖いわけではない、私が悲しいのは、それはむしろ今のこの完璧すぎる安全のせいであり、仕事と工場と買い物と洗濯と食事以外には何ひとつ、おこなうべきことも考えるべきこともないからだ。(中略)
 彼の気を悪くさせずに、しかも私の知っている僅かなフランス語の言葉だけで、あなたの美しいお国は私たち亡命者にとっては砂漠でしかないのだと、どう説明すればいいだろう。この砂漠を歩き続けて“統合”“同化”と
呼ばれる状態まで到達することを私たちは求められている。当時、私はまだ知らなかった。幾人もの仲間が永久にそこまで到達できぬことになろうとは。
 仲間のうち二人が、禁固刑が待っているというのに、ハンガリーへ戻っていった。他に二人、それは独身の若者たちだったが、さらに遠くへ、米国へ、カナダへと旅立っていった。そして他に四人がもっと遠くへ、人が行けるかぎりの遠い場所へ、大いなる境界の向こう側へ行ってしまった。私の知り合いだったその四人は、亡命生活の最初の二年のうちに、みずから死を選んだのだ。一人は鎮静剤で、一人はガスで、他の二人は縄で死んだ。最年少の女性は十八歳だった。彼女の名はジゼルだった」
(来日記念講演『母語と敵語』より)
strepsiptera
2011/08/03 14:10
あ。またHN間違えてしまいました。もういいや。

コメントの続きで、アゴタ・クリストフは同講演でこうも語っています。
「〜これが始まり、砂漠の日々の始まりだった。社会的砂漠、文化的砂漠。革命と逃走の日々の高揚のあとに、沈黙と空虚さが取って代わる。重要な、おそらくは歴史に残るであろう何かに自分は参加しているのだと実感できた日々へのノスタルジーが、ホームシックが、家族や友人と会えない日々の淋しさが取って代わる。
 私たちは何かを求めてこの地にやってきた。何を求めていたのかは私たち自身にも不明だが、少なくともこんな現実を予想してはいなかったと思う」

絆(どうも私には、この言葉は妙に座りが悪くて苦手なんですけど)は、喪って初めてそれと気づくような類のものなのかもしれません。

何人もの亡命者が新天地で自殺した傍ら、クリストフはなぜ生き延びられたのか。
私にはよくわかりません。
何らかの絆を自分の手で獲得したのだろうと思いますが、それが何であるか、他者が勝手に答えを出すべきものではない気もします。

私は私の絆が何なのかもわかりませんが、それをいつか喪った時には、自力で作り出さねばならないんだろうなとは思っています。
共同体とか神とか、誰かがそれをしてくれるわけではないのだろうなと。

strepsiptera
2011/08/03 14:32
脱原発と反脱原発が同じであるとか、対立するものではないとか。
議論の基本となる、根本的な視点が欠落しているのではありませんか。
『脱原発』云々とあるが、そもそも正しい言葉は『反原発か』と、『原発推進か』の政策的な対立ですよ。
そしてその基本と成る考え方の差は、原発は安全か、危険かの根本的な差です。

ところが日本で安全神話に骨がらみになっている影響で正しい日本語である『反原発』は今では忌み言葉とされているか、トンデモ扱いなので、皆さんが使いたがらないから、仕方なく無く怪しい『脱原発』なる不思議な言葉が生まれた経過が有るのですね。
禁煙や反核はあるが、脱煙や脱核は無いのです。
その無いはずの『脱核』とは、多分オバマのオスロ演説ではないでしょうか。
プラハ演説でのアメリカの反核の姿勢を示したので評価されたのですが、その後のノーベル賞受賞演説では核抑止力を強調して顰蹙を買っていた。
宗純
2011/08/03 14:44
もうひとつ。

>毒多さん
私の従兄は筋ジストロフィーで15歳くらいで亡くなっています(小学生の時からずっと自宅療養だったので、私には正確な歳がわからない)。
従姉の子供も同じくらいの歳で、同じ病気で亡くなっています。

従兄と私は非常に親しかった上、彼の死は私にとって最初の身近な人物の死だったので、私の死生観に大きな影響を与えました。

私は他人の心というものがよくわからないのですが、自らの経験と記憶から類推して、ほんの…ほんの少しだけ毒多さんの気持ちを理解できるような気がします(傲慢ですかね?)。
死は不躾で得体の知れないものだけれど、でも受け入れるしかないんですね。
他になにもできることはないのだから。
strepsiptera
2011/08/03 14:51
誰でも自分を基準(物差し)にして物事を考えるので、経験や良識が優れている分、逆に大失敗してしまうことが有る。
現在、福島第一の事故の真っ最中。
それなら今の日本では全員が『原発は危険である』と思っていると判断する。
福島を見れば、『原発は危険である』との原則が誰にでも判るだろうとの判断は、確かに正論では有るが、困ったことですが事実とは違う。
未だに以前の通りの『原発は安全である』との原則(神話)を信じている人々が政府や財界やマスコミなどに大勢いるのです。
勿論ブログ界にも大勢いる。
しかも問題なのはこの度し難い安全信者達ですが、まるで隠れキリシタンのように人前では『原発は絶対に安全』との自分の信仰を明らかにしない。
弾圧される(アホ扱いされる)ことが良く知っているのですよ。
経団連の米倉会長ですが、ストレステスト実施を机を叩いて非難している。
米倉が、『原発は危険である』が色々な諸般の事情を熟慮した結果、苦渋の選択として再稼動させるべきでだとの結論に達した可能性はあるか。
其れは多分間違いで、今でも『原発は安全だ』と思っているから、あんな恥ずかしいことが出来るのです。
ですから、一番肝心な視点は『原発は安全』と信じている隠れキリシタンの信者と、
現実を見て『原発は危険である』と、全く正反対の方向の考えの人々の反目です。
佐賀県知事を見れば良くわかるように、『原発は絶対に安全だ』とは信じているが、人前では福島第一事故の手前絶対に本心は口に出さず、正反対の発言をする場合もあるが、本心では『原発は安全』だと今でも少しも変わらず信じているのですよ。


『原発は危険』だと判っても、『車は急に止まれない』の安全標語ではないが、巨大なシステムはなかなか止まらないのです。
宗純
2011/08/03 16:25
宗純さん、コメントありがとうございます。

「脱原発」と「原発推進」という対立項は大きな範疇のもので解りやすいです。
また「脱原発」か「反原発」かという言葉の問題も、「脱」と言い換える理由も心理も弊害も、またそれが大して意味のないことかも解っているつもりです。障害者と障がい者と書き換えるみたいなものだと理解しています。

 ワタシ個人ローカルな問題としての「脱原発」と「反脱原発ブーム」の問題は、従来同じベクトルだったようにみえたブログ周辺の「脱原発」と「反脱原発ブーム」(具体的ブログとしては「+++PPFV BLOG+++」さん、「非国民通信」さん)との論議です。(実際には、具体的な論議にはなっていないのですが・・・)。両ブログとも「原発推進派」ではなく、どちらかと言えば「反原発」だと考えています。しかしながら「原発」のみに拘るあまりに、その他の問題が蔑ろにされている、また原発に拘るあまりに、その他の問題が拡大している、と訴えるわけですね。
 この辺りの問題は愚樵さんが最新のエントリーで挙げてくれた「単線的二項対立」と「総リスクを減らす視点」ということで整理し思索できそうな気はしてきました。

 ただ、おっしゃるように福島事故原発は進行中であり「根本にある」放射線の健康への度合いが焦点になりそうです。「脱原発」と「反脱原発ブーム」もこの見解の違いがみられ、この見解の違いがすべてかもしれません。
毒多
2011/08/05 15:01
strepsipteraさん、HNはなんでも結構です(笑)

いつも、ワタシの知らないことのご教授ありがとうございます。「絆の喪失」は興味深いですね。
>砂漠
ハンガリー人にとってスイス(フランス語圏)?が砂漠であったわけですが、スイス人にとってスイスは砂漠ではなかったと思います。たんに安全、便利、至れり尽くせりな場所。
そうした場所を砂漠と感じていないだろう、至れり尽くせりのスイス人に絆はあったのでしょうか? スイス人にとってはおそらくハンガリーこそが砂漠だと考えていたのだと思います。ところが苦悩が大きかっただろうハンガリーから来た人間がスイスを砂漠だという、そして絆を見つけられずに死んで行った。ではもともとのハンガリーには絆があったのだろうか? そも絆とは場所によって持てたり持てなかったりするものだろうか? 疑問は尽きません。
なんとなくシステムやら環境より絆が上位にある、と思いたいのですが・・・

これまたなんとなくですが至れり尽くせりこそが、絆をもつ感性を劣化させる気がしますが、かといって原発事故がおきてよかったとは思いません。人間がつくる環境に左右される絆ってのは、どんなものなのでしょうね?

甥の死のことを気遣っていただきありがとうございます。
ワタシの気持ち(傲慢などと思いません)はさておき、今回ワタシの子どもが甥の意識があった前日から死に目から拾骨まですべてを経験しました。人の「死」に初めて接しました。幸か不幸かワタシなど初めて死に接したのが40歳をすぎてからなのに。
「死」を目の当たりにして、これでもか、というほど泣いていましたが、おそらく彼の死生観にも影響をあたえたと思います。

毒多
2011/08/05 15:02
えちごっぺさん

「リンク」にかんしてはエントリーを挙げられていましたね。ワタシには誠実さを感じられます。

毒多
2011/08/05 15:02
管が『確実に安全が確認されたなら原発に賛成』と発言してバッシングされたが、私も原発が安全なら賛成する。
根本的な問題点は『原発は安全』なのか?
それとも福島の現実を見て『原発は危険』の違い。
『賛成反対よりも被災者を考えろ』は筋違いの感情論。
『ヒロシマ原爆の賛成反対などよりも被災者を考えろ』、この論の無茶。ため息は出る。
原発反対は
明日はわが身で、可哀想な原発被災者が人事ではないから。
次は明日かも知れない。
若狭湾で起きれば数千万人の水源地が汚染する。
ですから、最初の話に戻って、
原発は安全か、それとも危険かは最大の課題であり、『どちらも同じ』など無責任の極みです。
此の頃の愚樵さんですが、あの世に俄然興味があるようで困ったことです。これはアキラさんも同じなのですが何か『死』に対しての必要以上の興味があり到底ついていけません。多分一神教的な執着ですよ。昨今のエントリー記事ですがキリスト教の神学論争ののようで見ていられない。
何か近くでの死に出会ったのでしょうが、死の本質が見えていない。あるいは自分自身のことだとは理論では判っているが体感することが出来ずに、神学論争を始めたのでしょう。
自分自身が問題の渦中にいれば、『賛成反対は同じ』など絶対に言わないが、死でも同じですよ。
自分が死ぬ事実が判れば絶対に人前では言わないのです。
昔の話ですが登攀を行っていた時には人目では絶対にしないが、入山前には日記やエロ本の類の後で人に見られたら困るものは処分していた。
昔の父は『もう直ぐ自分は死ぬ』が口癖だったが肺がんになってからは絶対に言わない。
原発を稼動させると毎日広島原爆3発分の死の灰が溜まるが、精鋭的な登山をやめてから一番困ったことは原発問題と同じで、エロ本が捨てないものだから何十年分が大量に溜まって処分に困ったことですね。
宗純
2011/08/06 14:04
>宗純さん
>『賛成反対よりも被災者を考えろ』

まあ、断崖絶壁に突っ立って風に吹かれながら、「墜落するまでは未だ落ちていないということ。まず、ここから落ちて怪我をした人のことを考えろ」と言っているようなものですからね。

つい数日前にも、1号機と2号機の間の主排気塔下付近で10SV/h以上が検出されたばかりなのに、全くシュールな話です。

>毒多さん
その時私は確か13歳でした。いや12歳かな。
死に目には会えませんでした。
通夜の時も葬儀の時も、一切泣きませんでした。
家族を除くと従兄と最も仲が良かったのは私だったでしょうから、何の感情も見せない私を見て周りの人たちは不審に思ったでしょうね。

泣くことができた息子さんが、本当に羨ましいです。
いや、私も一度だけ裏山へ行って泣きました。
別離が悲しかったのでなく、死に負けて恐怖した自分が惨めで、自分の薄情さと卑小さが惨めで、泣きました。
strepsiptera
2011/08/07 00:03
宗純さん、レスがおくれてすみません。

 人間が便利さを求めて作る全てのものに「完全に安全」はない、ということで、どの程度安全か、どの程度危険か、ということになり、便利さと危険さの差し引きに公式はなく個々の見解だと考えています。ワタシ個人的には現状(事故原発とその影響)は非常に危険だと感じていますが、伝聞による危機感がベースになっていることが正直なところ。「死に至る病」的にパニクることはないよう冷静でいたいというのがワタシの現状ですね。

 愚樵さんやアキラさん(はどうかな?)やワタシもそうですが、「死」「あの世」を思考することは多分ずっとやってきたことで、「死」を思考することはすなわち「生」を思考することで、「困った」といわれても困ってしまいます。この場合の死は具体的な自分の死ではなく死そのものなのです。と、多分ここが宗純さんと、ずっとスレ違っているところだとは思いますが、、、。
毒多
2011/08/09 08:54
strepsipteraさん、おはようございます。

 やはり、「ここから落ちて怪我をした人」のことは考えたい、と思っています。これは人情です。
 ただ、おそらく、ホットスポットができているとはいえ、事故原発からの距離は大きな要素になると思います。脱原発よりも震災被害者救済というのかで、どのような救済をするかを考えなければならないと思っています。
 もしかりに「反脱原発ブーム」の主張が、放射線の影響がたいしたことないし、そこから離れるのは「いろいろな意味で」大変なのだから「現地にて復興しよう」というのであれば、ワタシは反対します。原発事故とセットでなければ救済も考えられない。ということになりそうです。

 多分のワタシも泣けなかったかもしれません。今考えれば、そういう育てられ方をした子どもでした。いわゆる屈折してました。大人になって「親」をみることができるようなると、納得しました。
 子どもを育てるのはなかなか難しいと感じていますが、素直に感情を出せることができるので、取り敢えずは上手くいっているような気はしています。
毒多
2011/08/09 08:57
strepsipteraさん

>『まあ、断崖絶壁に突っ立って風に吹かれながら、「墜落するまでは未だ落ちていないということ。まず、ここから落ちて怪我をした人のことを考えろ」と言っているようなものですからね。』<
すごい過激な例えですが、素晴らしく的確です。
アメリカの原爆使用に対して、もしも誰かが、『ヒロシマ原爆の賛成反対よりも被災者を考えろ』といったとしたら久間防衛相の『仕方がない』発言以上の大バッシングの嵐に曝されることは確実なのです。
その腹立たしい話と今回の『賛成反対よりも被災者を考えろ』の話は同じ発想です。
これ以上に被災者を小馬鹿にした不真面目な態度は無いでしょう。
地震や津波でも天災の部分と人災の部分があるのですが、原発は100%人災なのですよ。今現在ですが10万人がしているが、事故前の普通の基準値なら数百万人が疎開しないと駄目なレベルなのです。
そして勿論原爆も100%の人災なのです。
広島の原爆碑には主語が何処にも書いてない。
『過ちは 繰返しませぬから』が、そもそもの大問題であり正確には『アメリカに過ちを繰返しませぬから』で無いと、残されて者達は『安らかに眠って下さい』といわれても 安らかに眠れる筈が無い。
原爆被害者の死者が安らかに眠るなど、妄想に近い話で本来は原爆の廃絶以外の方法は無いでしょう。
100%の人災との視点に立てば、今回の様な賛成反対が同じレベルなどの発想は出て来ません。
宗純
2011/08/09 16:51
毒多さん、

>『多分ここが宗純さんと、ずっとスレ違っているところだとは思いますが、、、。』とあるのですが、
実は、>『この場合の死は具体的な自分の死ではなく死そのものなのです。』<
という毒多さんの理解ですが、これは私の判断と全く同じなのですよ。
そして私が批判している部分とはまさに、『この場合の死は具体的な自分の死ではなく死そのものなの』である事実なのですよ。
ですからすれ違っているようですが、この部分だけなら完璧にぴったり一致しているのです。
『死そのもの』というか『死一般』というか、普遍的な『死』の概念とは、実に問題でありこれは必ず宗教論争に変化する不思議な性質がある厄介な難物なのですね。
この場合の多くの人が考えているような『生』と『死』とは対立する概念ではないらしいのですよ。
二項対立とかあるいは並立する概念であると捉えると必ず宗教の迷宮に迷い込んで抜け出せなくなるのですね。
ルドルフ・シェーンハイマーの生命が物質の動的平行、バランスや流れであると考えれば、生と死は対立もしていなければ並立もしていない。
ブッダは死後の世界も霊魂も決して語らなかったのですが、『生』にはとんでもない大きな意味があるが『死』には何の意味も無いのですよ。
死は考えるだけ無駄ですが、多くの人には何故か興味があるのでそれで宗教が科学万能の世の中でも大流行するのでしょう。
みんなが考えている『普遍的な意味の死』ですが、実際に自分の身に死が迫った時の圧倒的な暴力で、そんなものは即座に吹っ飛びます。これはある種の快感ですね。
宗純
2011/08/09 17:18
毒多さん

甥ごさんお亡くなりになられたとのこと、お悔やみ申し上げます。

ところで、論点がかなりズレているような。
いや、毒多さんにはかなり冷静に論点整理していただいていると思っています。ありがとうございます。
PPFV
2011/08/09 23:09
宗純さん

ちょっとエントリーと離れて行きそうなのでここまでにしますが、もともと「生」と言う概念はなかったと考えます。いや「死」という概念がなかったのか? 「死」(生)がなければ「生」(死)もない、死と生は一体であり、コインの裏表のようなものではないでしょうか?
一体をなすものの片方に意味がなければ、逆の片方もしかりと考えます。現実には「死は解らない」のですから、「生も解らない」となり、よく解らないものが宗教に繋がっていくいくことになるのかもしれません。
ただ、よく解らないのだから「考えても仕方ない」「考えても無駄」とは思わないのが、スレ違いなのかもしれませんね。
毒多
2011/08/10 09:07
PPFVさん、おはようございます。

コメしにくそうなブログ(エントリー)にコメントをしていただき感謝です。甥の件では心遣いありがとう。

正直に申しまして、「反原発」と「反原発ブーム」はなかなか難しい問題でワタシ自身が整理しきれてません。どこにおいても、直接議論にならないのが何かを物語っている気がしています。
本来ならPPFVさんにも非国民通信さんにもTBをおくって、あと「反原発」ブログにもTBをおくりちゃんと議論できるエントリーを立てればいいのですが、とてもワタシには進行する理解も力量もなさそうです。

ワタシは「反原発」と「反原発ブーム」は対立するものではないと考えています。いずれ自分たちも原発に殺されるという恐怖で「反原発」をいうのも、今現実に原発に殺される(かもしれない)被災した人々を救出できないようでは、「いずれ自分たち」の時も自分たちを救うことはできないでしょう。具体的には事故原発の見通しがたたず、高濃度の放射線物質を流出し続けるなか、被曝を無視した被災者救援はない気がしています。・・・多分、被ばく線量と現実の健康被害の見解におおきな違いがあると思いますが、ここの同意をどう得るかがポイントであり、「よく解らない」から同意が得られないというのが現実だと思います。

毒多
2011/08/10 09:08
>毒多さん&宗純さん

「賛成反対よりも被災者を考えろ」というスタンスは、脱原発派同士がお互いの立場について暗黙の了解を意識した上で、「脱原発」vs「反脱原発ブーム」という対立を緩和するために発している言辞に過ぎないですよ。

東電・関電・九電の幹部や経団連の会長辺りが「原発賛成反対よりも被災者を優先すべし」と公式に発言したら、毒多さんはたぶん怒るか不快感を覚えるでしょう。
この表現は発言者を選ぶ。

原発推進派が「被災者を守る・原発も守る」という立場で発言することが道義的に許容されない、本質的な同志を懐柔するための言葉ですよ。
strepsiptera
2011/08/11 07:50
それと、終わった話を蒸し返すのも宜しくないのですが、少し補足を。

私が泣けなかったのは、屈折していて素直に悲しみを表すことが出来なかったからじゃないですよ。
通夜の時も告別式の時も、悲しくなかったからです。

ただ、怖ろしかった。
目の前の死者が。
生前は親族であり、大切な友人であったはずなのに。
恐怖に堪えるだけで精一杯でした。逃げ出したかった。

私が息子さんを羨ましいと言ったのは、永遠の別れの時にちゃんと悲しむことが出来たからです。
死別の機会は一度しか来ない。
もう取り返せないんです。二度と。
strepsiptera
2011/08/11 08:01
strepsipteraさん

>対立を緩和するために発している言辞
はい、そうだと理解してます。が、「反脱原発ブーム」のブログを読むと後ろめたい部分もあるので、ひっかっかていると自己判断。

死別に関しては、貧相な想像でコメをしてしまい申し訳有りませんでした。
毒多
2011/08/11 15:58
>原発は100%人災

スリーマイルアイランド事故やチェルノブイリ事故は100%人災ですが。
福島事故はそもそも津波が原因なので100%人災とまでは言えません。

>原発は安全か、それとも危険か?

自動車よりは安全なんじゃないですかね。今回の福島事故でも、被ばくで死んだ人はいない。

>事故前の普通の基準値なら数百万人が
>疎開しないと駄目なレベル

事故前と事故後で避難基準は変わってませんが。

>若狭湾で起きれば数千万人の水源地
>が汚染

http://www.earth0311.jp/

↑6/28(火)放送内容1参照。

http://www.jsrtrps.umin.jp/

↑こんなのもありますけど。

今はその気になればネットを使って簡単に事実関係をきちんと調べられる時代なのに、ろくに調べないで、トンデモ系情報ばかりあさって手前勝手な思い込みと空想を膨らませる。
そのような軽挙妄動が被災者に追い撃ちのダメージをもたらすという現実に対して、反原発・脱原発派は全く無自覚無反省。
latter_autumn
2011/08/11 17:25
ウルトラマンがウラン怪獣なり放射能怪獣なりをやっつける際に町や集落を巻き添えで壊してしまうのは、仕方ないかもしれない。
しかし反原発・脱原発派はウルトラマンと同じではなかろう。

>賛成反対よりも被災者を考えろ

そもそも原爆は殺人兵器として作られるものですが、原発はそうではない。
原発は本来、現代文明社会に欠かせない電気を作って、人々の生活を豊かにするものですから。
「原発の賛成反対」と「原爆の賛成反対」を同列に論じることこそ筋違い。

反原発・脱原発の熱に浮かされている連中が、被災者の救済とはまるで反対の言動をふりまき、デマを広め恐怖を煽って風評被害を助長し、復興支援の妨害をしているから、「(原発)賛成反対よりも被災者を考えろ」と批判されるのですよ。
latter_autumn
2011/08/11 17:27
dr.stoneflyさん、
それを言って仕舞うと・・・それは宗教なのですよ。
死と生はコインの裏表のように、並立するものでも対立するものでもないのですね。
確かに生と死は切り離せないのですが、これは例えるなら竹輪と竹輪の穴の関係なのですよ。
穴が無いチクワはチクワとは呼ばれ無くて蒲鉾になってしまうが、チクワの本体が大事なのであり穴に拘る今の態度は、・・・それでは大事な本体をないがしろにしかねない危険がある。水騒動で良く御存知だと思いますが、何事も簡単に宗教化するのですね。
菊池誠のニセ科学教なんて不思議なものまで生まれるが、しかし宗教との対話は基本的に無理なのでこれ以上私もコメントはしません。
火山のような天然物でない、電力会社が作って管理する原発の事故が100%人災で無いとか、事故後に20倍に規制値が緩和され本来なら放射線管理区域として部外者を厳重に立ち入りが禁止するレベルに子供や妊婦が住むなどは無茶苦茶。
このように、今でも原発安全神話は、原発事故でも少しも傷つかず健在なのです。
宗純
2011/08/12 09:29
latter_autumnさん

>今はその気になればネットを使って簡単に事実関係をきちんと調べられる時代なのに、ろくに調べないで、トンデモ系情報ばかりあさって手前勝手な思い込みと空想を膨らませる。

同じ言い方で脱原発派からも言われます(笑)。

現状、被ばくで死んだ人がいるかどうかもわかりません(自己原発作業員のこともありますから・・・)。歴史的に自動車事故で死んだ人よりも少ないことは事実でしょう。ただ、この先は解らない、というのが実際ではないでしょうか?
今の溢れている情報も、提供者の意図によって変わったりするので何を信じていいかわからない。「ただちに健康に被害がでるものではない」というのは正しそうですが、「ただちに」の程度も不明。
統一見解がもてないなかでの対立は続きそうで、その事実も受け止めたうえで、冷静に現被災者、被害者の支援救援にあたるしかないか、と考えます。

このエントリーを最後に個人的に「対立」そのものに振り回されるのはやめることにします。

毒多
2011/08/13 09:56
宗純さん

宗教ではなく、哲学だと言ってもらえると、もう少し気分よく終われるのですが、、(笑)。
おそらく生きている限りは何度もいきつくテーマですので、またの機会に。
毒多
2011/08/13 09:58
もうこれ以上のコメントは止めようと言ったんですが、毒多さんが余りにも素晴らしいこ返答のコメントをするものだから、止めたいのに止められない。
宗教と哲学ですが、その差は極々僅かでありほとんど同じモノですよ。
ところが日本人では『宗教的である』は自動的に罵倒語であり、『哲学的である』と言われた尊敬語なのですね。
なのとも不思議なのですね。
これは正に蝶と蛾の違いと同じような話で、この両者を完璧には分離できないのです。
違いが無い。
ところが一方の蝶は人が追いかけて、一方の蛾は人が追いかけられたと勘違いして逃げ惑う。
正に日本人にとっての哲学と宗教なのです。
日本の宗教の聖職者の社会的地位は極めて低いし、この原因は基本的に信用されていないのですね。
蝶と蛾は世界共通なのですが、ところが宗教と哲学は日本だけの特殊な事例。
外国では哲学よりも宗教が上で、勿論聖職者の地位も、世俗の学問や哲学などの大学教授なんかよりも遥かに高い。
なぜ世界では哲学教授よりも聖職者の方が地位が上かの理由ですが、哲学はブッダと同じ『生』しか語らないのですよ。
そして『普遍的な死』を扱うのは哲学ではなくて宗教のなのです。
ところが、毒多さんはもろ日本的に『罵倒語』であると解釈しているのですから、面白いですね、
宗純
2011/08/14 13:40
宗純さん

ははは、ワタシはやっぱり日本人でしょうか?
どうもね宗教には個人的なトラウマがあるんですね。トラウマの直接の要因は「キリスト教(プロテスタント)の教会なのですが、ワタシのなかの宗教のイメージは「達観」みたいなものですが、現実社会のなかの宗教(といわれているものは)は程遠い。そのなかのドロドロの人間関係、赦しのなさ、選民意識、排他志向、権威主義、、、、笑っちゃいます。
よく考えれば、これは日本だけでもキリスト教だけでもない気もしますが、、、
ワタシの嫌悪感(宗純さんいわせれば罵倒語)は、この辺りからきていると自己判断。
毒多
2011/08/15 09:00
『赦しのなさ、選民意識、排他志向、権威主義』何か丸々其のままで今の共産党の悪口です。
筆坂問題を見れば『そのなかのドロドロの人間関係』まで有りそう。共産党はいやに宗教くさいのですね。正確には一神教に色色な特徴が似ている。
仏教では基本的に『死』は語らない。
死を語るのはキリスト教などの一神教の特徴なんで、日本人で『普遍的な死』に対して興味があれば必然的にキリスト教に近づくのですが、ところが、ここに来てやっぱり日本人的な『一神教的な宗教に対する猜疑心』が邪魔をして信じ切れない。
毒多さんの嫌悪感とは基本的には猜疑心ですね。判りやすくいうと科学的な『なぜだろう』という『疑う心』です。
疑う心と信仰心とは、基本的正反対なので、相性が悪いのですよ。だから日本ではお隣の韓国であれ程流行るキリスト教が1%程度の最低ラインで流行らない。ついでに正しい政策の共産党もなかなか流行らない。
アキラさんも毒多さんも愚樵さんも、共通項はこのキリスト教との微妙な位置関係ですね。反発してはいるのだが否定も出来ないで普遍的な死をやっぱり考えている。
日本人でキリスト教は無理で宗教者の社会的地位が低いのは日本の伝統。
欧米社会では伝統がある古い大学はみんな教会付属の神学校として、当時の最高の学問であると考えられていた神学を勉強する場所として大学が発祥しているのですよ。
日本では当たり前の技術系の工学部が大学の正式が学部になるのは極最近の話で、それ以前は物理学なんかよりも一段低い低級な学問であると看做されていた。
対して日本では大昔から坊主や神官などは、インチキ臭いほら吹き連中程度であると武士などのインテリ層からは見られていたのですから正反対なのです。
それで外国では『宗教的』は褒め言葉であり、わが日本国では悪口に聞こえるのですよ。
宗純
2011/08/15 16:55
宗純さん

>何か丸々其のままで今の共産党の悪口です。
・・・・苦笑、、、でも、そんなものですかね。

ワタシとキリスト教との関わりは親がクリスチャンだったという理由からです。という意味では、親が共産党員とか、親がナンミョーってのと似ているかもしれません。
純粋に同化するか、それともできずに反発するか、、、結果として後者となってしまいましたが、これは純粋に「宗教」を考えた上でのことではないことは追記しておきます。
熱心に信仰している人のリアルな言動が何故そうなる? にはじまって、、(以下略)。そうした部分が目に付くということで、本質的な宗教嫌い、共産党嫌いとはちがい、純粋な信仰者や純粋な党員?は好感が持てるかもしれません。
宗教にしても政治にしても、本質と現実世界の実質は乖離するのは人間がヤル以上は必然なのかもしれません。
ということが、日本特有である、ということは伺っておきます。

俗世的な似非ゆえに「日本的に宗教と言われると悪口」と感じることは認めますが、普遍的な生を考える、普遍的な死を考えてると辿り着く本質的な「宗教」は大変興味があります(本質的な宗教も人間が考えること、ということも含めてね)。

毒多
2011/08/16 09:01

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「脱原発と反脱原発ブーム」(2)…やはり対立するものではない 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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