毒多の戯れ言

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zoom RSS 「受容」・・・アレを受容しなければ始まらない

<<   作成日時 : 2011/06/11 09:43   >>

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 ある保育士とメシを食った。不倫ではなくツレアイも同席でしかも昼飯である。
 彼女は仕事の話をした。「自分は力不足で落ち込んでいる」と言った。具体的な話をしなかったので、実際に「力不足」かどうか知らないけど保育士歴はほぼ20年であるので、惰性に走らず、慢性にならず、「自分の力不足」を認識して落ち込めるセンスはいいんじゃないのかなぁ、とワタシとツレアイは彼女に言った。妙に自信をもったトンチンカンな人間よりずっと好感がもてる。
 後で知ったのだが、彼女の具体的な悩みは保育園児の親に対してだった。ある子どもが軽度発達障害のような気がする。経験上かぎりなくグレーゾーンにみえる。軽度発達障害の一般的認知は相変わらずだが、医療的には研究され対処法も進んできているらしい。もちろん親も認識して早く専門医にかかったほうがいい。ということで、彼女は親に話すのだが、親は自分の子どもが発達障害かもしれないことを認めようとせず、専門医に診断さえることもしないらしい。と、この親を説得できないのが具体的な悩みのひとつということだ。
 これは後で知ったことで彼女には話してないが、それはちょっと「保育」士の能力以上のことで悩んでいるのではないかい? と思う。その子どもの親も駄目だなぁとは感じるが、それにしても全く知らなかった(かどうかは判らないが)ことを突然言われて受容できないだろうし、拒否の意志をしめした以上受診を説得させることは保育士はもちろん、誰であっても相当困難なことだと思う。軽度発達障害は現状、例えば「発疹」のように目に見えず、園児である今「ただちに生活に障害」はない。だから親は受容せず、みないことにしても過ごせる。しかし彼女にしてみれば治療もさることながら「知っている」「知らない」では子どもに対しても大きな違いがでると考え説得しようとしているのである。と、第三者であるワタシは冷静に判断、思考できる。

 この話には、「彼女」「親」「ワタシ」と登場人物がいるが、リアルなアレに関してワタシはまさにこの「親」だな、と考えている。当事者であるハズのワタシがアレを「受容」できないのだ。「受容」しなければならない、ことは解っている。「受容」したうえで現状に対して、未来に対して対処しなければんない。やはり、目に見えず、ただちに影響ない、ことが要因なのだろうか? ほんと情けないほど「受容」できていない、、、のである。
 それでこの「脱力」感である。リアルでは何変わらず元気に生活しているのだが、ブログ(思索)に関して脱力感が続いている。これも「受容」できずに、どうせ何を考えてもどうにもならない、という脱力感に繋がっている気がする。アレさえなければ復興も思索も容易いと思ってしまうのだ。
 ただ現実にアレに怯えているとはいえまだ生きているのであり、アレを受け入れ、アレのことも、アレ以外のことも総合的に考えなければならないことは解っている。容易い思索など何の意味もないこもと解っている。現実にはアレを見ないフリはできないし、アレだけが全てではないことも解っているのだ。
 もうすでに「受容」しなければ、何も前にすすまないところにきている。

 ワタシは、「彼女」ではなく、「親」でもなく、冷静な「ワタシ」でなければならないのだよな。
 
 

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えちごっぺのヘタレ日記
2011/06/12 13:47

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内 容 ニックネーム/日時
「軽度発達障害」という名前がよくないよなあ、と私は常々思っております。「軽度」だから「治る」と思っちゃうんだよね。あと精神科受診に抵抗を示す親も多いですね。
ただ、そういう子どもは集団生活に適応しづらく、大人からすると「問題行動」を起こしがち。親が「困っている」部分に焦点をあてるのがポイントです。
今の知能テストはよくできててね、その子の「得意・不得意」が分野別によくわかるようになってる。なので、それを知ることによって親も子もストレスが減って、その子の個性を伸ばしてあげられるようになるんじゃないかなあ、という言い方を私はよくしています。例えば、目で見て理解するのは不得意でも耳で聞けばわかる子であれば、問題を読み上げてあげると解けたりする。

ただ、こういう「提案」は、保育士には難しいというのもあるだろうなあ。「自分がちゃんと保育できないのを、子どものせいにしてる」と思われたり。なので保育士が親に発達障害では、と伝えるのではなく「専門家につなぐ」というのがいいんじゃないかなあ。私は保育士よりその分野においては「専門家」と言えると思うけど、私でも「軽度発達障害ではないか」とは言わないもんなあ。
みみず
2011/06/11 10:11
やっぱ「可視化」していかないと実感に繋がらないというのはあるよね。可視化のツールが、知能検査だったり、ガイガーカウンターだったりするんだと思う。
「現実と直面する勇気」が、よりよい未来を創るんだと思う。
みみず
2011/06/11 10:15
連投ゴメン。そうかあ、私たちが福島の人たちに「危ないから逃げろ」と言うのは、保育士が「アナタの子、発達障害の疑いがあるから精神科に行け」と言うのと似てるのかもね、、、。福島で「専門家」が機能していないことの問題の大きさを痛感するね、、。
みみず
2011/06/11 10:20
困り具合で考える。

その保育士がこの親に理解させないとやばい、と感じてるんだとしたらそこも考慮に入れてあげるべしよ。

たとえばこんな感じ

「でも自分の職分ではそれはできないんだよな。

自分だったらこういうふうにこの子と人生を歩んでいくのに。

そのことを親に理解させないと伝わらないんだろうし、でも、伝えたら拒絶反応がきそうで、

事実に対する拒絶反応ならじっくり話せば分かってもらえる。だろうけど、もし、それが、この子に対する拒絶反応だったら

親が子に拒絶反応を示す。そんなことはない?本当に、有り得ない?

いいえ、とんでもない。

私は知っている。親に拒絶された子がいることを。そして、その子たちに私たちがしてあげられることには限界があることを」

ということかも、とか。

保育士は発達障害の専門家じゃないけど。

日頃向き合ってる子どものことを真面目に考える人ならそのへんくらいまでは突き詰めると思うよ。

話してる内容が「浅い」と感じたのなら、まだそこまで詰めてないのかもしれないし。

でも、そういうとこに引っかかる人、そんなふうに悩む人こそが、いい保育士になる、だろうし、実際いい保育士だよね。

ごん
2011/06/11 21:00
ああ、もちろん、その保育士さんが

俺の想像したみたいなことを考えていたのだとしたら、その一番の悩みはこうだよね。

この親はきっといつかは知ることになる。そのときに私はいない。今だったら誰も持っていないこの子の愛くるしさを伝えられる私はもういないんだよなその時には。

この親がこの子の、このことについて、理解せざるを得ない時が来る、

その時には私はいないんだよな。

(どうすればいいんだろ)

と。

ま、俺はもうこういう悩みからは、枯れてるけどね。

汚れっちまった悲しみに〜♪




ごん
2011/06/11 21:25
ああ、俺ならこう言うよ

悩んでいる福島の親たちに、

癌の再発に脅える我が子と一緒に歩む人生を覚悟できるのなら、それと引き換えに何かを決めているのなら、

それでいいんじゃないかと。

人間のできることはその程度だろうと、

俺は思ってるから。

きっと、

数%に該当したのなら運が悪かったんだ、私は99.7%という確率を選ぶんだ。当然だろ。という親1000人のうちの3人の子どもより、

数%になることに悩み続けた親「あの子は私の子だったのかもしれない。我が子にもあの子にもごめんなさいごめんなさい。本当にごめんなさい。わが子のためにあの子のために、あの子が幸せになれますように、きっと償いをしますから」という親1000人のうちの3人の子どものほうがうまくいくのだと思ってる

他の条件はまったく一緒だとしても。

ごん
2011/06/11 21:50
みみずさん、おはようございます。
ちょっと彼女にエントリーのことを知らせたくなるコメントをありがとう。
彼女は昔はこのブログの読者だったけど、今でも読んでいるかどうかは知りません。

とつぜんですが、逆もありますよね。親のほうが深く勉強していて、勉強していない保育士が「親の育て方が悪い」と言ってしまうパターン。むしろこちらのが普通だった。
いずれにしても「伝えたい」という思いが大きいほど、力が入って「伝え方」がマズくなることはよくありそうですね。ブログのやりとりでよく経験します。実際に彼女が親御さんにどのように伝えているかはまだ知りませんが、ストレートに「発達障害ではないか?」と言っている可能性もありますね。この辺になると相手の心理もかんがえ「伝える」ことになり、そのテクニックの悩みということになるのかな?

>福島で「専門家」が機能していないことの問題の大きさを痛感するね

うん、前のETVのときも思ったのだけど「信頼できる」専門家が必要なんだろうなぁ。
ところで、ガイガーカウンターをネットでググってみたんだけど、食品まで測れるヤツは20万以上するんだ。空気だけのヤツで5−6万。でもちゃんと受容して対応していくには「食品」まで測れるヤツが必要な気がする。ここでまた、何でずっと反対していて本来なら必要なかったものに20ウン万も払わなくちゃならないんだ、、と、受容を拒否したくなってしまったりするわけです。って、金かい、爆!!
毒多
2011/06/12 09:24
ごんさん、コメントありがとう。

この「発達障害の親と云々」という話は、食事のあとで彼女の旦那がワタシにツレアイにぼそっと話したことで、まだ彼女とは詳しく話していないので彼女の困り具合はわかりません。彼女が困ったという自己分析ができているのかどうかも解りません。
どこまで突き詰めるかもわからない。

毎年毎年多くの子どもを保育しなければならないが仕事の彼女が、一人ひとりの子どもの「いつかくる自分が側にいることのない将来の心配」までしているのかどうか? 出来るのかどうか? はワタシには解りません、が、おそらく仕事としては成り立たなくなりそうな気はします。ただ今して出来ることが出来ない苛立ちなのかもしれません。
ただ、これを書いていいのかどうか解りませんが、彼女のお子さんも軽度発達障害の診断をされたとききましたから、その思いもあるかもしれません。

あの子がワタシの子だったかもしれない、というのは理性では思います。でもワタシの子でなくてよかったという感情も分かります。分かるというその卑しい感情に悩みます。綺麗事を吐きたくありません。でもでも、どの子どもも健康で育って欲しいと思うのも事実です。これらは矛盾しますか?

自分の無力さは感じています。

毒多
2011/06/12 09:25
一緒にその困難を乗り越えていける場所にいる人がやるしかないんじゃないか、ということ。

私たちはそれぞれの人生を結局はそこに託しているんじゃないかということ。

教員をやっていれば、この子、ここではうまくやってるけど「社会」でうまくいけるかなあ。その前に手帳をもらうなり、それなりの職業訓練をしていたほうが本当はいいのかもしれない。

というような気持ちになるよ。でも、それは傲慢(と言ってもそれほど悪い意味ではないけど)かもなと最近は思うようになった。

どこにでも人はいるよ。その子の困り具合を分かってくれる人が、

と。

そうじゃないと人間はやっていけない。やってこれなかったと思うようになっているから。

>分かるというその卑しい感情に悩みます。

悩むんじゃなくて謝るんですよ。自分が卑しい人間だったということを悩むなんて傲慢だと思いませんか。だから「ごめんなさい」なんです。

誰も放射線の被害を受けてほしくない。そう願った、つまりは放射線の被害を受けたあなたの不幸を規定した私たちは、あなたが幸せになるために、あなたの不幸を想定した(卑しい)人間として出来る限りのことをしましょう。と。




そうだ。うれしいんだ生きるよろこび。

たとえ、胸の傷が痛んでも。

何のために生まれて、何をして生きるのか

答えられらないなんて、そんなのはいやだ。

『アンパンマンのマーチ』

規定さえしなければ、生きるよろこびはあるんだと思う。

たとえ、胸の傷が痛んでも



ごん
2011/06/12 10:20
毒多さん

「受容」で思い浮かべるのが、「死の受容」で有名なエリザベス・キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』の中で終末期の患者について、次のように纏められている。(必ずしも、すべての患者がこのような経過をたどるわけではないとも書いている。)
第1段階:否認
自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階
第2段階:怒り
なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階
第3段階:取引
なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態
第4段階:抑うつ
なにもできなくなる段階である。
第5段階:受容
最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階

障害受容の参考になるもと思いコメントしました。

ただ、その作者自身の終末期は、理想像を見せてくれるだろうという周囲の期待に反して、寝たきりになってもひとり暮らしを続け、怒りに満ち孤独に自分の死を待ち望んでいたようです。
作者自身のが赤裸々に見せ語った終末期の苦悩の様子はNHKのドキュメンタリーで数年前にやっていました。

受容について一番理解しているはずの人間でも自らの問題では受容が難しい。
知り合いの保育士さんが職業的使命感から気にするのはわかりますが、周囲ができるのはほんのささやかことしかできないような気がします。
ダジャレイ夫人の付人
2011/06/12 12:02
毒多さん追伸です。

本来は保健所の3歳児健診などで引っかかるとよいのでしょうけれど、多分そのタイミングをスルーして、この機会を逃したら場合によっては大人になるまで気付かないままかも知れない状況なのかなと勝手に想像しています。

 その保育士さんは多分小規模連時代のお知合いなのでしょうね。
我が家では一番上の子が小規模連の保育園に通っていて、そこでは障害保育に積極的に取り組んでいました。
 下の子の保育園の保育士と比べるとえらい違いだと思います。
 実際問題として、保育園によりその後の子どもの療育に大きな差が生じてしまいます。
 保育士は日頃の仕事の中で、数多い他の子どもとの比較することができるので、ある意味で深い知識を持った保育士ならば早期発見の一番の適任者となります。
 知り合いの保育士さんの無念さはよくわかる気がします。

 また、近隣の学童保育所でも軽度発達障害らしき児童が入所しており、障害児対応として指導員配置など特別な対応を行っています。
 しかし、ここでも悪いことに親の受容がない。
 指導員は子どもの将来を心配するとともに、正式に障害児と認められた場合に受け取ることができた名古屋市からの助成金1,472千円を残念がっていました。(ご承知のように学童にとって非常に痛い金額…)

 発達障害児が増加傾向にある今の世の中、ありふれていると言えばそうですが、なかなか難しい問題です。
ダジャレイ夫人の付人
2011/06/12 19:09
ごんさん

はい、悩んでも仕方ないことですね。
でも当該にしたら謝られても仕方ない、かもしれません。
いずれもやはり「ワタシ」の問題であり、そのことを「受容」しなければならないのでしょう。

唐突ですが、最近までは思考より先に体が動いていたのですが、最近体が動かなくなっています。

毒多
2011/06/13 09:06
ダジャレイ夫人の付人さん、おはようございます。

ロスの「受容」の話の自身の最期のあがきは、何かで読んだ気がします。他人のことは解るのだが、自分自身のことになると難しいということは解る気がします。
さらにアレの場合は、「死」とちがって「必ずしも出会わなくて済んだはずのもの」という気持ちがありますから「受容」もさらに難しくなるのかもしれません。
保育士である彼女には、勝手にネタにした後ろめたさ(笑)があるのですが、やはり読んで欲しいコメントを多く頂いたので知らせようと思います。

いわれてみれば現実的な問題として、助成金や保育士・指導員の加配で手厚い保育ということもあり、制度としてある(制度として勝ち取った)のに、まるで受ける側が拒否しているようなジレンマもあるでしょうね。これは運動的にはオルグしきれてない、、となるのかな? 今時こんな言い方もナンセンスかもしれませんが、、、(笑)。でもやはり「受容」の問題で、別の問題と考えたほうがよいのでしょうね。

>発達障害児が増加傾向にある今
おそらく医療の発達のための「認定の増加」になるのでしょう。
「医療の発達」で、また思索は違うベクトルへ行きそうですが、今回はやめておきます。

毒多
2011/06/13 09:07
おはよ。

>でも当該にしたら謝られても仕方ない、かもしれません。

広島で被曝した女の子が後にアメリカで看護師として働いてる時に、あるアメリカ人のおばあちゃんにその傷の由来を尋ねられて、「広島で」と答える。

そうしたら、そのおばあちゃんがひとこと「ごめんなさい(英語で)」というシーンがテレビに出てた。

その二人のやりとりがごく自然だったのが印象に残ってる。

僕の言ってるのは、そういう、ごめんなさい。

自然に口をついて出てくるようにこなれた、ごめんなさい。

ごん
2011/06/14 06:29
某ケント・ギル◯ートが何かの番組で

<『太田総理』とは違う番組。『太田総理』が始まるずっと前のこと>

「あれはあれでよかったんです」

<彼はたしかに「よかった」と言う日本語を使った>

と言っていたのと対照的。

その時は、嫌なものがこみ上げてきた。

歴史を背負う僕らに、ふたつの生き方があるのなら、ふたつの生き方しかないのなら、深い思索を通して、その胸のうちで何度でもつぶやいた、「ごめんなさい」の言える生き方をしたいと思ってる。

「仕方なかった」ではなく。

ごん
2011/06/14 07:55
ごんさん、おはようございます。

>二人のやりとりがごく自然だったのが印象に残ってる。

一言で第三者にこう感じさせる奥深さがいいですね。
ほんとに深い思索(苦悩や受容や赦し)、また時間を通したすえの一言だと思います。しかも「二人とも」そうでなければ一言で分かり合える会話にはならない気がします。

(ワタシ自身もふくめ)みながこうであるなら、少しは違った社会になるのかもしれません。



毒多
2011/06/14 08:46

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