毒多の戯れ言

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zoom RSS 「アンチ現状」・・・共感か?否か?何が違うのだ

<<   作成日時 : 2011/02/12 14:44   >>

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 前のエントリーのコメ欄からの続きエントリーです。
 最初は表題に「アンチテーゼ」と書いてはみたものの、不勉強なワタシには、これがアンチテーゼなのかどうかも解らない。ということで、「アンチ現状」と書いてみた。「現状に反対」の表明である。「反」が出現するということは、「現」が在り、「反」により「現」が変わった先には何かがある、、、それが「新たな現」なのか「現」と「反」の先にあるので「統合」なのか解らないが、とりあえず「統合」とするか。

 「現状」に納得がいかずに「反」(アンチ)を表明する。ワタシもこのブログにおいても多くの「反」を表明してきた。その「反」を認めてもらい「共感」して欲しい、と思ってきたのだと思う。そうやって「反」を表明してきたワタシが、ワタシが気に入らない「反」(例えば河村(連合)の7割支持)を否定できるのだろうか? 他者の「反」そのものを否定したときに、ワタシの「反」も自ら否定していることになるのだろう、ということは解る。
 「現」に対する「反」はいずれも、その事自体の「理」としては同じなのだろう。でも、ちょっぴり引っかかる「反」がある。何がひっかかる。何故ワタシには、受けいられない「反」と、共感する「反」があるのだろうか? 
 「反」そのものは否定できないが、その理由が気に入らなのか? その先にある「統合」を危惧するのか? 何かが引っかかるのだ。まさか、こんなワタシといえ流石に「好き嫌い」(河村の人格が嫌い)ってだけで、その「反」に対して引っかかることはないだろう。うーん、判んないなぁ〜。その「反」に反感なのか、共感なのかは肌感覚なのか? 「理」はあるのだろうか、、、ねぇ〜。
 しゃーない、取り敢えず思いつく「反」を列挙してみるか。

「反」名古屋市議会の、、、河村某(連合)
「反」消費税の、、、社会党
「反」派閥or郵政or福祉の、、、小泉某
「反」自民一党支配の、、、民主
「反」ムバラク独裁の、、、エジプト市民
「反」黒人差別の、、、キング
「反」軍部独裁の、、、スーチー
「反」原発の、、、市民運動
「反」米(米軍基地)の、、、辺野古周辺
「反」貧困の、、、雨宮処凛
「反」捕鯨の、、、グリーンピース
「反」八百長の、、、
「反」死刑制度、、、
「反」臓器移植法、、、
etc.etc.etc.

 うーっむ、「の、、、」の後が、個人か、多数か、政治家か、市民か、、、ってのがあるのは気づくな。漠然と個人ってのはヤバい気がする。たとえキングやスーチーや雨宮処凛でもね。ただ、共感するものが多くその共感するものの「代表」ってことになれば、かならずしも個人ではないな。という意味では、河村某や小泉と条件は変わらないのか。多数が「共感」することの怖さということでいけば、エジプト市民も同じになるな。いやいや数の多少だけでなく共通するものがあるぞ、利害だ。上に列挙したほどんどの「アンチ」は利害がからんでいるではないか。「利害」がひっかかっている理由ということになれば、普遍性のない理由になるな。普遍性のない理由は「好き嫌い」とさほど変わらない気もする。「利害」だけでいけば、その時々の状況で移ろう。いまワタシ個人的な利害でいけば上記のほとんどは「直接」関係がない。現在進行形の河村でさえ、ワタシに影響を及ぼすとは思えない。
 それでも、上に挙げた「反」のそれぞれに、「共感」もしくは「反感」をもってしまうのは、「多少」や「利害」ではなくもう少し普遍的な理由がある気もするな。
 やはり、あれか「正しさ」か、(笑)、、、ここで愚樵さんののツッコミと苦笑が予想されるが、ここでいう「正しさ」はより普遍に近い「正しさ」であり、それを理由にしたい、、、というのは、このブログではずっと言ってきたことのわけだ。
 「正しい」のひとつは、「現」も「反」も「統合」にも存在する「命をもち生きている」、ということ。
 できうれば、その命をもち存在するものが、豊かに生活できればいい、というのも「正しい」にいれてもいいんじゃないか? 誰かを殺して他者が存在する、、てのも、誰かを犠牲にして他者が豊かに生活するってのも「正しくない」と考えられる。ここでの「豊かさ」は物品を浪費する豊かさではなく、エゴによる金銭的豊かさではなく、善く生きるって感じになるのか、、、。自然とよりそったり、他者を思いやったり、かな。こうして考えて言ったときに、「現」に共感もしくは反感したり、「反」に共感、反感したりするのかもしれない。

 「反」の方法においても、誰かが犠牲になって「反」を貫く、が納得できない。
 そうしたことにおいても、前のエントリーのように「ハンスト」を批判したのかもしれないな。そういう意味でいけば、死者を多数だしたエジプト市民のやり方にも批判的になる。テレビに映しだされたあのデモでは、反「反」の誰かを袋叩きしてたもんな。まったく共感できないね。あれ、あれあれあれ、河村は取り敢えず「犠牲者」を出してないではないか、、袋叩きもしてないし、、。そして「未だ」誰も殺してないし、誰も踏み台にしていない、、、。それでもワタシが河村に引っかかるわけ、その先の「統合」が豊かになると思えない、、、思えない、、では弱すぎるか!? というわけで河村については、もう黙っていようと思う。
 そうだな、ただ、普遍的な「正しい」だけ考えていようかな。

 あ、ツッコまれる前に、断っておくけど、「正しさ」でもって誰かに何かを「強要」するつもりはないからね(笑)。



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内 容 ニックネーム/日時
前エントリのコメで毒兄の書いてる運動が目的化している人は確かに多いけど、多くの問題に共通する何かがあるという側面も多いです。共通点は環境アセスメント法の不備、日米問題、沖縄差別、科学者と称する人の匿名性etcetc。複数が混ざっているケースが多いです。

しかしながら個別の問題にいちいち全力で対処していてはどうにもならない。辺野古と泡瀬の2か所だけに全力で取り組んだ私はよくわかる。この2つでも息切れしそうだったのに増やせない。ならばどうするか?たとえば環境アセスメント法の方に変わってもらうことが1つ。そうすれば辺野古、泡瀬、上関、築地、etc一度に転換させることができる。そう思って何か大きな根幹に横たわるもの(環境アセスや海岸法など)を変えようとしているんですね。運動が趣味な訳ではないですよ。・・・とはいえ関東圏に住みながら築地の問題に全く関与できないのも悔しいのも事実。指のすき間から大事なものがどんどんこぼれ落ちる感じ。神様にはより多くのトラブルを背負えるように強い背中にしてくださいとお願いしているのに。

原発はマジでやばいので毒多さんご提案の共存式は私もNOと言いますが、たとえば反捕鯨とか反漁業なばらそんな禁欲的なこと言ってないで持続可能に使えば基本的には良いと思います。

「反」の後にどれだけ共感できるかは、その人が興味持ってるかどうか、生活と関わりがあるかどうかが大きいのかなぁ。「反」八百長には全く共感できない。興味ないし一生関わらず過ごせそう。まぁこの感覚も危ないんだけど。自覚のないところで大きな関わりがあるかもしれない?(←これに限ってはないと思うんですけどねぇ・・・)
さめ
2011/02/13 01:07
ご期待に添って「正しさ」にツッコミをいれておきましょう(苦笑)

>より普遍に近い「正しさ」

ってなんなんですか? よくわかりません(×_×)

宗純さんは“普遍は大きな特殊である”と喝破されましたが、この「喝破」は普遍といえますよね。ということは、前の「普遍」と後の「普遍」とでは意味するところが異なる。で、

>より普遍に近い「正しさ」

と言ったときの「普遍」ってのはどちらなのか? 前の「普遍」なら、より「正しさ」というのは「より大きな特殊」を意味するだけ。だったらば、「より大きな特殊」を求めるということは「小さな特殊」を排除していくことに他ならないが、毒多さんがこの立場だとは、私には思えないんです。
(だからしつこくツッコミを入れさせてもらっているわけですけど)

逆に後ろの「普遍」だとすると、

>より普遍に近い「正しさ」

は意味が通りません。“普遍は大きな特殊である”というのは“「正しい」なんてものはない”と言っているのですから。
愚樵
2011/02/13 07:21
このエントリーで掲げられた「アンチ現状」ってのは、私がしばしばいう「アンチ・システム」と通じるものがありますよね。

「システム」には「普遍」が不可欠なんです。もちろん前の意味での「普遍」です。この「普遍」は「区分け」「線引き」としてもいいが、要するに恣意的なんです。誰が設けたのはわからないが、そうである必然性などない。「システム」はこの「区分け」が「正しい」という信奉がなければ機能しない。ですから「アンチ・システム」とは「アンチ・区分け」でもある。「区分け」を否定するなら「特殊」もないし、「特殊」がなければ大きいも小さいもない。

とはいっても、否定できない事実はあります。私は私であり、毒多さんは毒多さんである。それぞれが「個」であるし、構造はほぼ同じだろうけれども、それぞれが別々の「身体」を持っている。恣意的な「区分け」を否定するとすれば、残るのは「個別の身体」から出てくる「共感」だけ。毒多さんが「肌感覚」といっているのも、それに近いものだと思っています。

だったら、他人の「共感」を否定する根拠なんて何処にもないということです。肯定できるか否かしかない。出来ないのは仕方がない。「個別の身体」なんだと言うしかない。でも肯定できれば「個別の身体」を越えることができる。社会なんてのは、個々人が「個別の身体」を越えることで出来上がっているものですよね。

後の意味でのは「普遍」というのは、こういったものだと私は考えているわけです。
愚樵
2011/02/13 07:50
愚樵さん、おはようございます。

(×_×) ←は異様にムカつくけれど、「“より”普遍に“近い”」というのは、矛盾していることを認めましょう。普遍(正しい)は「命が在る」でやめておけば良かったと反省しています。ところが、そこでやめると哀しいかな言葉が繋がらない。繋がらないならば、何故繋がらないのか?いずれ繋がるのか、表現できるの否か、というところまで思索すればいいのだけど、、、、いやすべきだった。

どうもブログってのは、急かされているような強迫観念に襲われる。ワタシのような小心者はビビるわけです。で、「えいやっ」でupしてしまう。小心を否定するようにね。未熟さを感じずにはいられない。と、いいながら今回のコメもそうかもしれない、(×_×)。

>他人の「共感」を否定する根拠なんて何処にもない
同意します。

>「個別の身体」を越えることができる
ゾクゾクします。

ちょっと戻って

>恣意的な「区分け」を否定する
理由を「命が在る」とした立場では否定します。

>とすれば、残るのは「個別の身体」から出てくる「共感」だけ
ただ、「共感」できないこともやはり在る。と、この共感できる、できないは、「共感だけ」の次の次元のこと。
そこに新たな「区分け」「線引き」が現れるのか? 恣意的でなくても現れます。

>肯定できるか否かしかない

このエントリーの主題は、ここでした。
ワタシは何故、どうして「現や反」を「肯定したり、否定したり」するのか、です。
どうやら、「命が在る」の否定かどうか、「利害」(線引き)かどうか、、、のような気がしています。

河村にかんしては、どうも新自由主義っぽいぞ、それは社会的弱者の「命が在る」を脅かすのではないか、、、という「予感」により「ワタシは」共感できない、、という表明をします。
毒多
2011/02/14 08:47
さめさん、おはようございます。

あえてレスする順番を変えました。
「ワタシがなぜその“反”もしくは“現”を肯定的に捉えるか、否か」です。
ただ単に「興味」とするのは浅すぎる気がしました。

>指のすき間から大事なものがどんどんこぼれ落ちる感じ。

この大事なものは何なんだ? ただたんに「興味」じゃないよな、という感じです。
エントリーで列挙した一つ一つを「肯定か、否か」を考えたら、ワタシにとっては「命が在る」か「利害」なのか、、と思えます。
大事なのは、「命が在る」ということ。
ゆびのすき間から、、、は、目先の利害によって「命」がこぼれ落ちるのではないか、と感じます。
「命が在る」を脅かされる、ことも否と言いたい。
辺野古で、沖縄で、基地がなくなることで「生活」(命が在る)が脅かされる人がいる。その人の「命が在る」まで含めた「反」であれば、共感が広がる気がします。

さめさんが、八百長にまったく関心がないのは、「利害」のみに特化した問題だからではないのだろうか、と考えました。

ところで、
>原発はマジでやばいので毒多さんご提案の共存式
ワタシはどこかで「共存式」を提案しましたっけ?

毒多
2011/02/14 08:48
すみません。いま現在、ネットにつながる環境にいません。当コメントはケータイから。

どうもね、ケータイからの投稿ってのはやりづらくていけません。ネットに繋がる環境へ戻るのに2、3日かかりますが、戻ったらまたコメントさせて頂きますので、しばらくご猶予をくださいませ。
愚樵
2011/02/14 17:10
こんにちは。

>「ワタシがなぜその“反”もしくは“現”を肯定的に捉えるか、否か」
<
これを読むと、僕は単純に
「それは毒多さんが、毒多さんなりのある“物差し(色眼鏡)”を持っているから」
だと考えます。

ですので、毒多さんがやってらっしゃるように、自分が何を肯定し、何を否定していくかを羅列し、そこに一貫して流れるものを見つけられれば、自分で自分の「物差し(色眼鏡)」を認識することができるんだろうと思います。

そして、それが多分一番大事なことなんじゃないかな?なんて、思います。
僕自身は、僕自身の「物差し(色眼鏡)」を自覚していることは、すごく大事なことだと考えているので。
アキラ
2011/02/15 20:47
アキラさん、ども、こんちには。

>毒多さんが、毒多さんなりのある“物差し(色眼鏡)”を持っているから

はい、そうなんでしょうね。その自覚はあったつもりなのですが、、、
知らず知らずのうちに、なんとなくその「色眼鏡」を多数、できれば全員に認めさせたくなる。そのために、全員に通じる「理由」を探しだそうとする。
ところが表現しきれずにツッコまれたりする(笑)。

もう一度、元にもどって自覚したいと思います。
ありがとう。
毒多
2011/02/16 12:39
なるほど。
「普遍」って、言い換えれば「誰にでも通用する」「どこででも通用する」ってことなんだと言えると思います。
そういう「めっちゃ大きな色眼鏡」ですよね。

であれば、『全員に通じる「理由」』が出てくれば、それは「普遍」たり得ますね、きっと。 (^o^)
アキラ
2011/02/16 13:14
>「めっちゃ大きな色眼鏡」

どうやら、限りなく大きくなっても「色眼鏡」であるうちは、普遍じゃなさそうですね(笑)

もう「色眼鏡」かどうか?、いや「眼鏡」かどうか、いやいや? 「なんなのか」認識できないほど大きくなれば普遍かな? 「理由」といってしまう次元で普遍じゃなくなるのかもね。
毒多
2011/02/16 13:47
僕と毒多さんとの違いは、1つにはこの「普遍」といったものに対する把握のしかたにあるようですね。

僕は、「普遍」はやっぱり所詮「(大きく共有し得る)色眼鏡」だと認識しています。 (^o^)
アキラ
2011/02/16 15:29
>把握のしかた

ああ、そうか。そういうことなんだ。

というワタシも、「生が在る」「身体が在る」「精神が在る」から次の普遍は解らないんですけど、、、、、ね。
だから次にくる「大きく共有しうる」を考えればいいのかもしれませんね。

毒多
2011/02/16 15:58
毒多さん

河村たかしについては現在進行形で中々評価の難しい部分はありますが現段階での私の認識です。

>河村にかんしては、どうも新自由主義っぽいぞ、それは社会的弱者の「命が在る」を脅かすのではないか、、、という「予感」により「ワタシは」共感できない、、という表明をします。

私としては河村たかしの「新自由主義っぽい」ところはそのとおりだと思います。
でも「市場原理主義者」だとは思っていません。(竹中や八代ぐらいだったらそう言ってもいいのかもしれませんが、原理という程の知識もないように思います。)
彼は、名古屋市(市役所)を官僚的な社会主義的国家のように考えていて、その体制を打破するための新自由主義的な手法、地域委員会や中京都(適正な基礎自治体への分割という意味で)なような気がします。
そういう意味では全く言ってることが分からないでもないのですが、マスコミやその他(市役所インサイダーを含む。)から入ってくる彼自身についての情報からすると「為政者」としての能力に著しく欠けているように思えます。
「予感」または「憶測」に過ぎないと言えばそのとおりですが、事後に評価を下せる「後世の歴史家」ではなく、不十分な情報の中で間もなく選択を迫られる「一市民」としての意見です。
ダジャレイ夫人の付人
2011/02/16 23:10
ダジャレイ夫人の付人さん、こんにちは。

>不十分な情報の中で間もなく選択を迫られる

また「市議選」がありますね。ふぅ。今回はじめて「投票したくない」気分になっています。これまでもそれに近い気持ちになったこともありますが、投票辞退はせずに、党派なしの市民運動に近い人か、そうでなければ共産党ww(投票したものが当選したためしなし、)に入れていたんですが、どうも今回は、テンションがダダ下がりです。いけませんね。

そういえば、河村は「納税者よりも、税金を使う方が豊かというのはおかしい」と主張しているようですね。

毒多
2011/02/17 11:57
毒多さん、おはようございます。ちょっくらお久しぶり。

>>「めっちゃ大きな色眼鏡」

>どうやら、限りなく大きくなっても「色眼鏡」であるうちは、普遍じゃなさそうですね(笑)

>だから次にくる「大きく共有しうる」を考えればいいのかもしれませんね。

う〜ん、やっぱりまだ把握の仕方が違うような? それとも把握の違いがわかって「大きく共有しうる(めっちゃめちゃ大きな)色眼鏡」を考えようと言っているのでしょうか?

「共有」ということは、その前提に「個別」があるわけです。「個別」がなければ「共有」もそもそもない。これは「(色眼鏡ではない)普遍」だと言っていいですよね。で、「個別」が「普遍」だとすると、「色眼鏡」もまた「普遍」なんです。「個別」だから「色眼鏡」がある。たとえ広く「共有」され「めっちゃめちゃ大きな色眼鏡」のように見えても、それは「大きな特殊」でしかない。

科学があるところまで「普遍」なのは、科学の世界には「個別」がないからなんですよ。物質的には、私も毒多さんも宗純さんも、ほぼ同じ要素出来上がっている。生物学的にもそう。遺伝子といったレベルになると差異が出てくるけれども、それも遺伝子というレイヤーで差異を包括してしまえる。私と毒多さんが別人だというのは、遺伝子が異なっているからというのと、「個別の身体」だからというのとでは、同じ別人だと言明するのでも、大きな隔たりがあるでしょう? 
愚樵
2011/02/18 06:49

「共感」というのは、当たり前のことですけど「個別」を前提にしています。「共有」というのは「個別」を滅却しようという営為ですけど、私が「共感」と言うときには逆で「個別」を際立たせようとする営為なんです。「個別」だからこそ「共感」できる。だから当然、「色眼鏡」もありなんです。

“それがあなたの「色眼鏡」、これは私の「色眼鏡」”

というのが「共感」です。そのように認め合うことで「個別の身体」を超えようとする。

「共有」というのは、

“これは私とあなたの「色眼鏡」”

というものです。「色眼鏡」を「共有」しようという約束が「契約」で、「色眼鏡」から逸脱すると「契約違反」となり罰せられる。

次エントリーのコメントでの

>普遍的であるべき法律問題

というときの「普遍」は、「契約」が前提の「(色眼鏡としての)普遍」なんです。

ついでに言いますと、私は「(色眼鏡としての)普遍」を、たいていは「虚構」と表現しています。
愚樵
2011/02/18 06:57
ついでにもうひとつ。エントリー違いですけど

>道徳は個人(内心)に属する

について、触れておきます。

「道徳は個人に属する」という言明には同意しますが、属する在り方には2種類あると私は考えています。

ひとつは「共感」によるもの。もうひとつは「契約」によるもの。

「契約」によるときの道徳とは、「契約」を遵守できるかどうかであり、この遵守はあくまで内面なところのものになる。内面は個別であり、個別であるから意志をもつのだけれども、その意志により「契約」することが道徳になる。ということは、この種の道徳には必然的に「共有」されるべき「普遍」が要請される。もちろん「色眼鏡」としての「普遍」です。

対して「共感」による道徳には「普遍」は要請されません。「個別の身体」の間の個別の「共感」が基礎です。ですが個別の「共感」のレベルではふつう道徳とは呼ばれない。個別がある程度のまとまりをもって俗に「空気」と呼ばれるような状態になって「道徳」というものになる。つまり道徳とはもともと「空気」なんです。

今の日本で道徳と呼ばれているものは、前者と後者のキメラみたいなものになっています。「空気」に「契約」しろと迫るのが道徳になってしまっているんです。小沢の政治資金問題がその典型ですね。
愚樵
2011/02/18 07:29
愚樵さん、
>『宗純さんは“普遍は大きな特殊である”と喝破<
は間違いですよ。
『普遍』は信じるものも信じないものも同じ結果しか出ない科学以外には在り得ない。と言い続けているだけですよ。
この言葉は多分当方のブログ記事『ティーパーティ(茶会運動)が公的医療保険に反対する理由』2011年01月22日だと思うが、そこには、
>『科学』とは違い、政治の世界で『普遍』と呼ばれるものの多くは『大きめの特殊』に過ぎず、『世界』もまた『大きめの地域』に過ぎないケースが多い。
例えば、経済におけるグローバルスタンダードや新自由主義の様に『大きめの特殊』アメリカが、自らを『普遍』と称して『小さい特殊』日本を虐め排除し支配しているだけではないのか。
メイド・インUSAでしかないユニバーサルモデルやグローバル経済を世界中に押し付けている現在のアメリカ合衆国自身は、決して普遍的(universal)でも世界的(global)でもない。
それらは単にアメリカ自身が描く自己宣伝、自己欺瞞に過ぎず、真実の姿からは程遠い。<
ですよ。
愚樵さんの引用例とは大違いです。
科学以外には『普遍』はなく、今回論じているような本来別々であるから値打ちがある個人の内心を論じている時には不向きですね。
宗純
2011/02/18 14:31
宗純さん

「普遍は大き目の特殊に過ぎない」と仰ったのは、もう少し前のことだと思ったのですが。まあ、いいでしょう。宗純さんがそう言おうが言うまいが、私の主張に変わりはありません。「宗純さんが喝破した」というのは撤回させていただきます。

>科学以外に『普遍』はない。

問題は『普遍』が意味するところです。常に同じ結果が出ることを『普遍』と定義するなら、科学以外に『普遍』はないといえますが、「普遍」を人間が認識できるすべての現象と解すると、科学は人間が認識できる世界の一部、「大きめの地域」に過ぎません。

そしてです。「普遍」という言葉にしたって、他に例えば「抑止力」という言葉にしたって、このように使わなければならないという普遍性は存在しない。言葉をどのように使おうが、それは基本的に言葉を語る人間の自由。「普遍」という言葉が個人の内心を論じるのに不向きだというのは、宗純さんの特殊な判断であって私の判断ではないし、現にその言葉を使って毒多さんや他の方々と「対話」しています。
愚樵
2011/02/19 06:06

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