毒多の戯れ言

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zoom RSS 「ハンガーストライキ」…やっぱ、何かが違うよね

<<   作成日時 : 2011/02/03 13:04   >>

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 つまりハンストである。ガキの頃は♪国鉄のぉストォライキィ〜♪が流行っていたり、時限ストなんてのがあったからハンストは半分(もしくは反日じゃなくて半日)ストライキかと思っていた、そのハンストである。半ストではなくハンガーストライキなのだが、これまでよく考えたことがない。ところが今回はハンストについて書かれた面白い記事に出会ってしまって嵌ってしまった。TBすればいいのだが「メンバー限定」の記事なので、TBもしないしブログ名も伏せることにする。
 何やら、原発の中止を訴えるってんで、5人の若者がハンストを行っているらしい。そのブログには、ハンストなんてやり方で「何か変えることはできないし」「稚拙で甘いうえに、自分を大切にしないやり方に腹が立つ」というようなことが書かれていた。
 まあ、あれだ。オイラはハンストどころか、ストライキもやったことがない。オイラがストライキを起こしたとこで誰も困らないし、見捨てられるだけの気がするしなぁ。その5人もきっと同じだろう。で、命ね。ハンストで命を掛ければ誰か話をきいてくれるのかしら、、、グスン。キショ、なんちゃってね。

 とはいえ、中途半場なサヨクで運動もかじったオイラはハンストもありかな、と漠然と思っていたけど、このエントリーを読んで、うーむ、なるほど、と妙に納得をしてしまった。そうだそうだ、良く考えてみれば論理矛盾さえおこしている気もする。
 そもこの若者5人は何を訴えているんだろう?
 想像するに原発などという反人間的なことは、生活のなかで「尊い生命」の維持を阻害する可能性が高いので、原発建設か原発運営反対!!と訴えているのだろう。そう自らの「命の尊さ」を盾にとってね。尊い命が阻害される出来事の阻止に、自らの命の尊さを賭して訴える。自らの命の阻害を条件に出しているわけで、ここの矛盾はどう考えるのだろうね。
 多くの人の「命の尊さ」を護るために自分は「犠牲」になるつもりなのだろうか? でも原発が「尊い命」を阻害するのでマズイと考えているのは「自分」なのであって、多くの人ではない。自分の命と引換に自分の考えを通したあとに、仮にその考えが実現したとこで、「生きて」いなければ実感できないわけだ。
 うん、多分この矛盾はこの5人も解っているんだろうな。つまり5人はもともと死ぬ気なんてないのである。死ぬ気もないのに「死んでやる」(死ぬことを条件にだす)のは、やはり甘い、ちゅうか、バカっぽい。
 またまた青カンの話になるんだけど、青カンのほとんどはハンガーのわけさ。そんでもって脅しじゃなくてホントに死ぬのね。食えなくて衰弱死してるの。ストライキじゃないけど、やっぱりそれはオカシイんじゃないの!!?食うために仕事くれ!! って運動は訴えてきたから青カンと運動と合わせ技で表面的にはハンストかもしれないな。でもなんも変わらなかったな。実際に死んでも変わらないのだから、「死ぬぞ。死んでやる」って脅しじゃ変わらないわな。北九州の例やどこぞの役所の駐車場の車のなかで仕方なく死んでいたって話も、それで何かが変わったことはないようだし。
 青カンの件は表面的にはハンストっぽいと書いたけど、実際に食えないなかで絶対にハンストなんてしないの。派遣切りなんかで食うや食わずのハンガーなやつが、ハンストなんかするもんかよ。食うために必死なの。マジ食えなくて「食うため」(命を持続するため)に社会に訴えている人々は、ハンストをする人をどう見るんだろうねぇ?? バカにされていると思うかもね。
 ってこんなふうに考えていくと、やっぱ、ハンストなんて自己愛みえみえの欺瞞じゃないかと思えてしまうわけ。(ここでふとタイガーマスクが浮かんでしまったが、やめとこ、笑)

 そういえば、ハンストなんて中途半端な脅しじゃなくて、いっきに「焼身スト」とか「割腹スト」とかする人もいるけど、ありゃ訴えて何かを変えるっていうんじゃなくて、こんな世に見切りをつけったって表明なのかな? ちょっと嫌がらせっぽいと感じてしまう。ホントに命を賭けたハンストなら「焼身スト」とか「割腹スト」とあまり変わらない。
 

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内 容 ニックネーム/日時
ぼくもハンスト打った口だ。

解雇食らって、あきらかにおかしいのに組合は、そっぽを向く。孤立無援、訴え方も知らんし、かーちゃんとがき連れて、所沢の地方新聞社のそばで(畑だったか)、座り込んだ。
すると、いろいろある。テントを貸してくれるやつ、そいつに小便かけに来るやつ、カンパをくれるやつ、新聞記者に週刊誌、聞きつけて、遠方から駆けつけるダチ……ドクターも来た。
それでまあまあの“和解”をせしめたが、地方版に載ったせいで、どこも雇ってくれんし、後遺症で目が霞み、今にいたる。

そんなことがあったんで、むつかしいことは分からんが、その5人のにーちゃんには、声援を送ったね。

声援を読んで、たぶん、うれしかったと思うけどな。

田中洌
2011/02/03 20:31
田中さん、お久しぶりです。
百戦錬磨で酸いも甘いも知り尽くした田中さんにコメント頂いちゃ、頷くしかないのかなぁ、笑。

うん、ボクも「実際に行動」する5人を応援してますよ。「情」としても共有したいと思ってます。
ただ今のボクは、例えばこの5人がゲバ棒なんかもって暴力に走ったら、それはちょっと応援出来ないんですね。で、ハンストってのも凄く暴力的な感じがするんですよ。自分に対するね。今までハンストのことをあまり考えたことがなかったんですが、今回「考えさせられるエントリー」を読んで、そこのとこが気になってしまって。

考え出すと、ボクのほうがあまり「うれしく」なくなってしまった。
声援をうければ5人はうれしいかもしれないけど、考えてしまったボクはうれしくない。
どうせなら、みんなが「うれしい」やり方でやってもらったほうがいいね。

何かを訴えて世の中を変えていくのも、みんなが嬉しくなればいいのだけど、そのみんなのなかに「訴えている自分」がいなくちゃ、と思う。ハンストで死をかけちゃ、訴えが成功しても本人が死んじゃえば、やっぱ嬉しくないしさ。生きている社会を変えてナンボでしょ。
毒多
2011/02/04 08:36
毒兄。この前、タイガーマスク運動というゆるい運動に不快感を示した狭量な私が言うのも何だけど(笑)、それではいったい運動初心者はいったいどこから入ったらいいんだろうか?平和ウォークや防衛省前抗議行動、果てはジュゴンの歌を歌うなんて笑っちゃうほど何の役にも立ってないんだけど、それを否定しちゃうのはどうかという思いもあったりする。
韓国の三歩一拝(3歩進んで額ずくことを繰り返す仏教の礼拝の一つ)http://bit.ly/hjU0qM
の映像なんかを見るとものすごくキツいんだけどこれはいいのか?阻止行動の現場でこちらは非暴力でも相手に傷つけられることはある。それはいいの?
毒兄も私も最初から運動上級者(?)だったわけじゃないよね?甘ちゃんだった頃もあったと思う。若者が期間限定10日間ならばハンストでも何でもやってみればいいと思うんだよね。中高年者がやったらアホかもしれないけど。少なくとも5名の連帯感は得ただろうし、それは家でゲームしてても得られないものだし、何でもやってみたらいいんじゃないかと私は思う。
さめ
2011/02/04 11:22

シーシェパードは相手を傷つけるという点においてアカンと思うんだけど、死なない程度に何かやってみるというのはいいんじゃないのかな?私はむしろ今の閉塞感あふれる社会でエジプトのような運動が一切起こらない日本人(特に若者)の気概のなさにがっくり来るよ。
あともう1つ。私が5名を応援したいと思ったのは「顔や名前を公表すること」がどんなに厳しいか知っているという点もある。沖縄なんかだと特に個人情報を公表せずとも車のナンバーで割り出されてリストが作成されてるし。匿名とは違う厳しさがある。だからタイガーマスクより好感が持てる(笑)。
あとはハンスト(沖縄で反戦平和の)を老人がやる場合は本気だよ。まだ生きてるからどこかでお休みは取ってるんだろうけど本当に自分が死んでも子孫に平和な社会を残したいと思っているのが伝わってくる。役所の人は徹底無視するけど通行人の何名かに一人は足を止めて話を聞いてるよ。これも否定されちゃうのかな?
さめ
2011/02/04 11:32
さめさん、こんにちは

ちょっと落ち着いて下さい。運動を否定はしてませんよ。
やれることをやればいいと思いますし、現実に動いて頑張っている人々を否定するわけないです。特に運動から離れているワタシが否定できるわけがない。頭がさがりますよ。

ここに書いたのは「ハンスト」についてです。
なんでもありとは思うものの、良く考えてみれば「ハンスト」ってのは、ちょっと違うんとちゃうやろうか、という考察です。
「本気」でハンストをするならば、「焼身スト」とか「割腹スト」とかはたまた「自爆」とどうちがうというのだろう、と思いませんか? さめさんも「死ななければ」という言葉を使ってますね。ハンストというのは死ぬことを前提にした主張だと思うのですが、いかがですか? 考えれば考えるほど「死」をチラつかせて「主張する」ってのは、嫌悪感があふれてきます。

それはそれとして、
>老人がやる場合は本気だよ。
これは新たに疑問に思いました。老人の場合は老い先が短いので「死んでも」いいと言っているのでしょうか。それはどんなものかな? 凄く違和感があるんだよなぁ。人というのは年齢に関係なくその瞬間、瞬間を生きていると思うのです。老人だから、若者だから、、、死を掛けて行動するってのも何かが違う気がします。
老人が死を掛けて残された自然を目の前にした子孫は一体どんな気持ちになるだろうか?

最近のワタシはまったく活動家から離れたところにいるなぁ、と実感しています。

毒多
2011/02/04 17:36
毒兄が運動を否定してるわけじゃないのはわかってるよ。だいじょうぶ。エンドレスの運動を見続けていると「期限付き」のハンストや座り込みなんて遊びの延長の範囲にとどまっているという気がするんだよね・・・。(愚樵さんから「またきつい方向に・・」と言われそうだけど・笑)

最近、基地のない沖縄や基地のない辺野古を結局見ないままこの世からいなくなる知人が多く、いろいろと考えてしまいます。

高江(http://takae.ti-da.net/)と辺野古(http://henoko.ti-da.net/)が強行されている今、死ぬにも死ねなくてまだ魂がその辺にいるんじゃないかと思う。冷静さを欠いていたらごめんね。
さめ
2011/02/04 21:16
毒多さん、さめさん、おはようございます。

ハンストが暴力的に感じられる。私もその感覚を共有します。ただし、この感覚は誰もが共有するものではない、とも思います。

ハンストに暴力的な感があるのは、「共感の強制」が感じられるからです。

ハンストは命をかけて行われます(本気かどうかの議論なんて意味がないと私は思います)。生命あるものが持つ「生きている」という感覚は誰もが共有するものです。食を断つことで生じる飢餓感も共有できるものでしょう。ハンストは、こうした生命感の「共有」を彼らの主張への「共感」へと転化・拡張させようとするもの。「共有」の否定は困難ですから、「共感」の否定も難しくなる。「共感の強制」です。

これはある意味でハラスメントです。例えば、男の上司が女の部下に“色っぽいね”と声をかけたとする。“色っぽいね”は「男と女の関係」を示しますが、それ以前に上司と部下の間には「組織の関係」が「共有」されている。この「共有」が否定できないために、“色っぽいね”という「男と女の関係」もまた否定しがたいものになる。“色っぽいね”への共感を強制されてしまう。典型的なハラスメントですが、ハンストにも同じような構造があるといえます。

また、誰もが転化・拡張を強制的だと捉えるわけではないという点でも、ハンストはハラスメントと一致します。“色っぽいね”は「男女の関係」を望んでいるものには強制的には感じられません。ハンストも同様で、彼らの主張をもともと共有している者は強制を感じない。ハラスメントは受け取る者の主観に大きく左右されますが、その点、ハンストも同様です。
愚樵
2011/02/05 05:47
さめさん、おはよ。

前のレスで書き忘れたんだけど、ワタシは「運動上級者」じゃないよ。
当時も負け続きだったし、いまだに「運動」とは、何をどうすればいいことなのかわからない。
「上級者」というのがあるとすれば、「継続」なんだろうなぁ、と思います。そしてその「継続」ってのは、すでに「運動」ではなく「生きること」になってるのかもしれないな、と思います。
生きてるあいだは、「生きること」を続けなければならない。
たとえ老人だとしてもね。
毒多
2011/02/05 08:58
愚樵さん、どもども、コメありがとうございます。

説明しにくかったところを言葉を変え書いてくれてありがとう。
「共感の強制」ね。ほんとそんな感じです。となると、「強制」されてできた「共感」はホンモノか?ってことになるんだけど、こりゃニセモンだとういうことが分かる。
「運動」という立場になってみれば、「共感」なしに「強制」していく相手と同じ手法になります。その相手を批判し反対の意志をしめすのに、同じ手法をとっていく、、ってことになるのかな? 
という意味では「死を賭けない」座り込みとかも同じ理屈になってしまうのか?
うーむ、と新たな問題を抱えそうな気がするね。
「利害」が最優先される人間にとって、ホントの意味で「共感」を広げる「運動」ってのはいかに困難か、、、ほんま、エンドレスだなぁ〜。

ちょっと今回の問題にもどって。
例えば、おそらく原発に反対しているだろう5人の主張をワタシは共有してますよ。共有をしていてもそのやり方に強制を感じる。しかも一番してはいけない「死」で脅す強制だと感じている。ということで、

>ハンストも同様で、彼らの主張をもともと共有している者は強制を感じない。

必ずしもそうじゃない、とは思います。
毒多
2011/02/05 08:58
すみません。

>必ずしもそうじゃない、とは思います。

はい。私もそう思ったから、上のようなコメントを書いているわけで。

>という意味では「死を賭けない」座り込みとかも同じ理屈になってしまうのか?

なると思いますよ。

まあ、理屈はともかくとしても、ハンストも座り込みも、なかなか共感の輪は広がらないじゃないですか。マスメディアで報道されないという問題もありますけど、沖縄や山口の件が、さほど大きな輪にならないのは、それなりの理由があるはずなんです。

一方でタイガーマスク運動には、共感の輪が広がる。

この現実が嘆かわしいといえばそれはそうで、その「悲嘆」に共感しないわけではないですが、しかし、私からすれば、この「悲嘆」にもどこか「強制」を感じるところがあるわけです。

一応念を押しておきますが、私はなにも「悲嘆」を批判するつもりはありませんよ。それは人間としてごく自然なこと。同様に、「強制」を感じてしまうことも自然なことではないかと考えているだけ。

それは、同じ身体構造を共有していながら、同じ環境は共有できない人間の、どうしようもない矛盾のようなものです。
愚樵
2011/02/06 07:37
愚樵さん、おはようございます。

タイガーマスクも運動になったのですね、笑。
うーん、考えさせられますね。まだ考えている途中ですが、、、
今、辺野古や高江が実際に壊されようとしている。もし、ワタシがその現実を目の当たりにしてそこに住んでいれば、「座り込む」ような気がします。過去「座り込んだ」のは、やはり現実を目の当たりにしてそこに住んでいたからのような気がします。たしくに途中までは「運動」だったんです。「共感」を得るためのね。
しかし、最後の最後は、「共感」も「運動」も関係ありませんでした。上で田中さんが書いたように「声援」をもらっても嬉しくも悲しくもない。もしかしたら、目の当たりにしたそのことさえ、どうでも良かったかもしれません。

理ではなく、ただ、そうせずにはいられないかった。

つまり、すでに共感を得ることが前提の「運動」ではなかったということです。

と、取り敢えずここまで考え、、、、、
これは、もう少し考えてできればエントリーしたいと思っています。
毒多
2011/02/07 06:17
ハンガーストライキですが、これはストよりも実質はデモンストレーション(デモ)で、示威行動すよ。
それに栄養不良のホームレスとは違い、健康なら滅多に死にません。
例外はキューバのグァンタナモで米軍に拘束されている連中とかIPAの活動家のように命のやり取りを実際に行っている場合です。
普通はインドのガンジーのように1ヶ月程度なら別に命には関係ない。
80歳を越えている瀬戸内寂聴師も湾岸戦争に抗議してハンストしていてブッシュのイラク戦争でもハンストする予定が周囲が『実際にしなれては困る』と反対して諦めたそうです。
いわゆるハンストは1週間以内なので教育宣伝活動の範囲です。
私もハンストではないのですが遭難状態で動けなくなって全く食料無しで1週間雪に穴を掘って耐え忍んだ経験がありますが、空腹よりも耐え難い寒さには真底恐ろしかった。何も食べないと糖代謝が起きないので寒さが身にしみるのです。
終戦直後には日本中が食料難で、私の兄弟の昔話では『あの時は寒かった』と語り合っています。

伊達直人ですが、バレンタインデーがチョコレート業界が、節分の巻き寿司丸かぶりが海苔業界の宣伝(仕掛け)であったように実はパチンコ業界が仕掛けた出来レース(パチンコ台タイガーマスクの宣伝)であったとの噂もあります。
大体ですね。児童養護施設は何処もかしこも金と人が足りません。
ランドセルなど無い人には絶対必要だが、あるものにとっては余分に貰っても迷惑なだけ、単なる粗大塵ですよ。
あの話ぐらい偽善的な、くそ腹立たしい話も無い。
宗純
2011/02/07 17:34
宗純さん、こんにちは。

ちょっと考えていたんですが、たとえば「命を賭けた登山」ってのがあっても、命を落とす前提での登山ではないですよね。実際に死ななくても、やはりハンストってのは命を賭けた示威行動のわけです。実際に死なない分さらに嫌らしさを感じてしまいます。
そういえばガンジーもハンストをしたんでしたっけ?瀬戸内寂聴は知りませんでしたが、誰がやってもやはり一旦にじみ出た嫌悪感は消えそうにありません。
ただ、ガンジーなんかの場合、示威行動から離れてしまっている気もするんですね。もう我が道を行く、これが私の生きる様、、、みたいな。瀬戸内寂聴もそうかもしれませんが、それならそれで、個々の自由、勝手にやればいいし、共感する人もいるかもしれない、という次元になりそうです。

ここで「生きるということは、共感を呼ぶことなのか」という新たな問題になりますが、それは「運動」とは違うんだろうな、ということは感じています。
毒多
2011/02/08 12:01
山は力士が『命がけで相撲をとる』と一緒で命を賭けて行うことは無い。命を失うのは単に本人が失敗しただけ。
登山者なら誰彼の例外なく勝てば官軍負ければ賊軍で、死ねば批判される。
ハンストも同じで死んだら何かの失敗です。(毒多さんの勘違いで、決して死は予定されていない)
大昔、煙突男と言うのがあった。
これは何かの例えば逃げた妻に帰って欲しいとかの極個人的な要求を掲げて一番高い場所(風呂屋の煙突とか工場の煙突)に登りアピールする。
落ちれば大怪我をする危険性があるので皆はら晴らして説得するが、要求貫徹までと頑張るわけです。
この煙突男では、世界平和とか戦争反対みたいな大きな話聞いたことが無いが、ハンストの場合にはガンジーのように民族自決、瀬戸内寂聴の戦争反対とか要求が矢鱈と大きい。
要求の大きさの違いだけで大昔の煙突男と原理は同じです。
決して神風アタックとは違い『死ぬ』ことは予定には入っていないのです。
ですからハンストと死を結びつけるのは、考え間違いで、統計的にも多分死亡率は極端に低いと思いますよ。
何故ならコッソリ目立たないようにやったら死亡率は極端に上がるが、ハンストも煙突男もなるべく目立つように行うのですよ。
登山の死亡率の高さは誰も見ていない所で行うからであり、この反対に一見危険に見えるオートレースなどモータースポーツではハンストと同じように衆人環視の中なのでアイルトンセナの事故死のように極珍しい確立でしか起こりません。
瀕死の重傷でも助かるのと自力脱出が出来ないと助からない差です。
UR(旧住宅公団)で高齢者の単身所帯が増えてしまいとうとう孤独死が1日に2人も出る凄まじい有様に。
山の遭難と同じ原理で、誰も見ていないので動けなくなっても自分で自分を救助しないと下手をすると、したくも無いのにハンガーストライキ状態でミイラ化の危険がある。
宗純
2011/02/08 14:08
毒多さん、宗純さん、こんにちは。話の範囲が広がってきたようなので、私もまたもや参加させてもらいますね。

ガンジーのケースを考えてみたいんです。

ハンストが示威行動だというのはそのとおりでしょうけど、私が思うに、ガンジーの場合は、示威した相手が他のケースと異なるんですよ。ガンジーが示威したのは、当時インドを支配していたイギリスではないんですよ。イギリスに支配されていたインド人民だったんですね。敵ではなく味方に示威した。

それに対して他のケース、寂聴にせよ、上関の若者にせよ、煙突男にせよ、示威の相手は敵です。ここのところが大きく違う。

ガンジーのハンストが味方に大きな共感を呼んだ理由はごく簡単なことだと思います。それは、餓えている人が当時のインドには多かった(今も多いかもしれません)。ガンジーは餓えずに済ますことが出来た人なのに、ハンストをすることで餓えている人たちと同じ苦しみを共有しようとした。だから支持され、民族自決への道を切り拓くことになったんです。

そう観ると、その他のハンストがあまり共感を得ない理由も見えてきませんか? 誰だって餓えたくはないんです。餓えたくはないのに、ハンストによって示威されると強制的に飢餓感を共有させられるような気がする。だから目を背けたくなる。しかし、否応なく餓えている人は強制を感じないでしょう。それ以前に実際に餓えているのですから。

つまりです。ガンジーは戦略的にも戦術的にも適ったハンストを行った。が、他のケースは示威する相手も方法も誤っている。人権など省みない者達を相手に人権を建てに取り、餓えたくもない人間に餓えを感じさせる。甘えだとか、そういった次元の話ではないんですね。ガンジーのハンストの成功を、上っ面だけ真似ただけのことなんです。
愚樵
2011/02/08 18:12

以下は今回のハンストや反原発について充分知識がないままのコメントです。

反原発について考えてみると、ハンストや焼身自殺とかの示威の手段にかかわらず「共感」が得にくいテーマなような気がします。

ガンジーがハンストしたインドの飢えた人々や、青年が焼身自殺したチュニジアの抑圧された人々のように、「今まさに直面している現実の問題」は共感を呼び易いと思いますが反原発問題は「不確定な未来に起きる可能性のある危険」がテーマになってくるので人々の琴線に触れるのはなかなか難しいと思います。

非常に理知的に説得するか、人々の漠然とした不安感に訴えかけるしか(一種の神経症的な状況?)ないような気がします。
なかなか運動として盛り上げるのは難しい気がします。(事故でもあれば別ですが…)


だからと言って反原発を否定するつもりはありません。
ダジャレイ夫人の付人
2011/02/09 00:09
宗純さん、おはようございます。

>毒多さんの勘違いで、決して死は予定されていない
はい、ハンストで死ぬ人は聞いたことがないので、現実には死は予定されてないんでしょうね。しかし、ハンストというのは、
「おーい、オラの要求(提案)を受け入れてくれろ〜、受け入れてくれないとオラ、オヌシの目の前で何も食わずに、空腹でのたうち回って死んでやるべよ。そしたらオヌシが殺したようなもんだべ、オヌシも人殺しになりたくなければ、オラの要求受け入れろ〜。死んでやるべ〜」
というデモだと思ってました。
死を前提にしてない、ということは
「おーい、オラの要求(提案)を受け入れてくれろ〜、受け入れてくれないとオラ、オヌシの目の前で何も食わずに、空腹でのたうち回って・・・・・、のたうち回って・・・・。のたうち回って・・・・やるべ。・・・以下略」
になってしまい、ピエロみたいだし。
という意味で「死を前提」と言ってみましたが、やはり勘違いかなぁ?

毒多
2011/02/09 09:51
と、宗純さんのレスではかいてみたものの、

愚樵さん、おはようございます。

ひとつは愚樵さんがいうように、ベクトルの問題は見落としていたな。
ハンストがどこへ向いて行われるか。確かにガンジーのような場合は、「死を前提」としていませんね。「共感」を目的とした「生を前提」としているように思われます。
なるほど、なるほど、、、こういうことか、と思えますね。

>ガンジーのハンストの成功を、上っ面だけ真似ただけのことなんです。

上辺だけのマネは根本的な間違いを起こすということでは自戒しなければと思います。
そういや、過去青カンといっしょに「居た」ときは、ハンストをしようとは思わなかったなぁ。「居る」だけで一程度の共感があったような記憶があります。

毒多
2011/02/09 09:51
ダジャレイ夫人の付人さん、おはようございます。

>反原発について考えてみると、……「共感」が得にくいテーマ

 確かにそうですね。意識なく普通の生活で過剰に電気をつかっている私たちにとって、急に質素に暮せといわれれば「反発」さえありそうです。原発がなくたってある程度の生活ができるのかもしれませんが、火力発電(化石燃料浪費)、水力発電(ダム自然破壊)も大いに問題があるし、風力発電でさえ問題があると聞きます。
 原発反対は、すなわち今の贅沢な生活の否定につながっていくとなると、、、、ワタシ自身も反原発をうたってますが(笑)、じゃ質素な生活にどれほどリアリティがあるんだ、と問われると、、、。

 原発の恐怖が、>「今まさに・・・」になるのは、チェルノブイリ級の事故が多発するか、核廃棄物がいよいよもって市民生活を脅かすか、、、になるのかな? 事故は不確定かもしれませんが、捨て場のない核廃棄物は確実にふえていくので、それにリアリティをもってからでは遅いというのが今の運動なのでしょうね。

毒多
2011/02/09 09:52
またまたお邪魔します。すみませんね。

ダジャレイ夫人の付人さんが仰るように、このテーマはなかなか共感が得にくいところはあります。とはいえ、多くの人が漠然とでは原発に対して不安を抱えているのは事実だと思うんですよ。が、一方で、その漠然たる不安に向き合いたくないという気持ちも強い。反原発運動は、そうした多くの人の「気持ち」を斟酌することなく、悪くいえば不安を煽るような運動の仕方をしている。私はそれでは心理的なハードルを越えることはなかなか難しいと思っています。

そうなるとですね、考えられるのは不安を煽るのではなくて、不安をなだめる向きの運動の仕方だろう、ということになります。といって、不安を否定しては賛原発運動になってしまいますから、危険性を指摘しつつその危険性から逃れる、という方向性を取るのが良いのではないか、と思ったりするんですね。

そういった考えをもとに、私は原発ハザードマップを作ったらどうか、という提案をとある反原発集会でしたことがあるんです。でも、この提案は共感を得られなかったんですね。事故が起こってからでは遅い、その事故を阻止するための運動だ、という論理です。

正直、わかってないと思いました。具体的な事故を想定し具体的な行動をイメージしてもらうことで、漠然とした不安からリアリティある不安へと転換を促すことがハザードマップの目的なんですけどね。危機管理意識を高めていくことで究極の危機管理、つまり原発廃止へ繋げていこうとするものなんですが。

ま、でも、そういうのは気に入らないみたいなんです。理を振りかざして闘争して、勝利を得たいらしい。それが多くの人を遠ざけているのに気がつかないんですね。
愚樵
2011/02/09 16:17
原発に関してはですね、愚樵さんが指摘するように不安を煽る行為は矢張り、いくらその主張が正しくとも嫌がられて当然なのです。
水力は立地条件があるので無理なのですが火力発電では消費地になるべく近い場所を確保する。
理由は送電で可也のロスが生まれてしまうのですね。
だから大都市に近い場所に発電所を作るのですが、それなら本当に電力会社や通商産業省の主張通り絶対安全で大事故が日本では起きないのであれば大阪とか東京名古屋のど真ん中に造る。温排水は各家庭に暖房用に無料で配ればみんなに喜ばれる筈なのですが、誰もそんなアイデアは出さない。
皆さん薄々は『危ない』とは気が付いているが誰もはっきりとは認めたくはないのです。
何となく今大騒ぎしている相撲の八百長と同じなのです。薄々はみんなが知っているが日本人全員が認めたくない。
そういえば毒多さんが何故ハンストに反感を感じるかもこれと同じでホームレスの本物の飢餓とは違い、関係者の馴れ合いであり何となく八百長臭いのですね。
宗純
2011/02/09 17:58
愚樵さん、おはようございます。

愚樵さんのコメントに昨年秋からつづいていた微反感が、だんだん共感にかわってきている気がするなぁ。こりゃ、愚樵さんの根気の「勝利」かもしれない(笑)。
>「ハザードマップ」
うーん、確かにと思いました。

「運動」ってのは「理」かざして闘争して勝利を得たい、、、ってのは、確かにそういう側面はあるでしょうね。「運動」そのものが目的になっていしまっている。(ワタシが他人のことはいえませんが、、)いまどきの「活動家」は「社会の問題点」を探しだし、一つ解決すれば(実際には解決しなくても)、次の問題へ、次の問題へ、と乗り移って(もしくはハシゴして)「理を振りかざした」闘争を展開しているような気がします。その一つ一つの問題が問題ではなくて、自分がいかに問題に関わりつづけるかが問題、、、みたいな。
 私はこれを否定しませんが、、、考えたいとは思っています。

とは、別に、「触れたくない」のですが「河村連合」が7割の「共感」を得ました(爆)。この「共感」はなんだ、、、と考えてしまいます。

毒多
2011/02/10 08:52
宗純さん、再コメありがとうございます。

「八百長」、、、貴ブログの当該記事は興味深く拝読させていただきました。

 ハンストが八百長ってのは、ワタシの思いをかなり言い当ててる気がします(笑)。でも、とすると、大相撲の八百長をべつにいいんじゃないの、と思うと同じくらいに、ハンストの八百長もいいんじゃないの、という気にもなっています。
 もともと、ハンストにそれほど抵抗がなかったなか、とあるエントリーを読んで考えてしまったのですが、結論としては「ご自由に」になりそうです。「ハンスト」というやり方で、すくなくともワタシは「共感」しませんけど・・・ね。

 貴エントリーでは八百長は賭博に由来する、と書かれていて「なるほど」と思いましたが、もしワタシが純粋に相撲ファンで賭博をせずに勝敗に一喜一憂していたとしたら、やはり憤慨するかもしれないな、とは思います。ただ「余暇」としてのファンですので、ファンをやめるだけのことで、大した問題ではありません。
 これが「運動としてのハンスト」にも言えるかもしれません。「運動」を齧ったワタシにとっては関心事(ファン)なのですが、ハンスト(が八百長と感じた)時点で、ファンをやめるか、一程度の距離をおくか? 白けるか? だけのことになるのかもしれません。
 「運動」は「余暇」じゃないというクレームもきそうだな。その辺もあわせて一度考え、整理しなくちゃならないのかなぁ、と感じています。

毒多
2011/02/10 08:52
>「河村連合」が7割の「共感」を得ました(爆)。この「共感」はなんだ、、、と考えてしまいます。

斜に構えてみるとドイツにおけるナチスの台頭、戦前の日本における軍部の台頭や関東大震災における朝鮮人の虐殺などには民衆の大いなる「共感」がありました。

「共感」を「集団心理」と考えると、ある集団で多数が有する「共感」が存在すると合理的に是非を判断しないまま、特定の時流に乗るような力が発生します。
また、時流に抗う者は排除されます。(斉一性の原理)

集団心理の起源は、敵が出現した時の団結本能だと言われているようですが、「名古屋市議会」は「スケープゴート=敵」にされたという見方もできるでしょう。

別に名古屋市議会を擁護するつもりは毛頭ありませんが7割の「共感」は微妙に危ない数字であると思います。

ダジャレイ夫人の付人
2011/02/11 06:46
毒多さん、ダジャレイ夫人の付人

おふたりに質問したいのですが、反原発「運動」や反貧困「運動」など、「運動」が目指しているものと、「河村連合」が得たものと、どこかどう違うのでしょうか?

「河村連合」の主張は、「反」市議会という部分では十分に「理」はあると思いますし、その「理」に市民たちが共感するのも、部外者の私だってよく理解出来ます。名古屋に限らず今の政治に漠然たる不安を抱えているのは、日本国民の共有するところでしょうから。

「反」原発運動も「反」市議会運動と同様に「理」はあると思う。でも、あくまで「反」の部分だけでしょう。「反の先」が正しいかどうかはわかりません。省エネが正しいのか、自然エネルギーの開発が正しいのか。どれもこれも一見正しいようだけども、少し踏み込むと単純に正しいとはいえない要素が出てくる。「河村連合」の減税の主張も同じで、一見正しいようだけども、踏み込むと危うい要素はぞろぞろ出てくる。

反原発運動は「反」の部分“だけ”は、「反」市議会と同様に支持は得られると私は思います。それが実際に大きな支持にならないのは「反の先」に大きな支持が得られないからです。しかし、もし得られたとしても、それは「河村連合」と同じ危険を孕むことにならないのか。

私はそうした「危険」をハンストを敢行しようとする者たちの「構え」の中に見えるような気がするのです。だからハラスメントという言葉を使ったんです。正義によるハラスメント、「ジャスハラ」とでも言えばいいでしょうか(苦笑)
愚樵
2011/02/11 08:05
おっと、ここにリプライしておかなければ。

>昨年秋からつづいていた微反感が、だんだん共感にかわってきている気がするなぁ。

v(^o^)v 素直に嬉しいなぁ。

正直なところ、毒多さんもよくお付合いしてくれたな、と思います。私の態度は反感を持たれて当たり前なんです。「情」といいながら、実態は理詰めに近いものでしたからね。理詰めは嫌われる(苦笑)

かといって、情に訴える方法を主にしてしまうと、これはこれで「共感の強制」へと進んでしまいかねない。なかなか難しいんですよ。

ま、結局は「対話」の「勝利」ということでしょうか(^o^)
愚樵
2011/02/11 08:43
愚樵様

>おふたりに質問したいのですが、反原発「運動」や反貧困「運動」など、「運動」が目指しているものと、「河村連合」が得たものと、どこかどう違うのでしょうか?

愚樵さんの質問の意図がいまひとつつかめていなのですが、私はとりあえず質問に回答すると愚樵さんのおっしゃるとおり「両者の違いはない。」と思います。

でもこれで回答になるのでしょうか?
それとも名古屋在住の二人に、河村たかし及び彼が惹起した政治状況についてコメントを求めているのでしょうか?



ダジャレイ夫人の付人
2011/02/11 10:12
・ダジャレイ夫人の付人さん

(前コメントでは敬称を付け忘れました。失礼しましたm(_ _)m )

ダジャレイ夫人の付人さんも、名古屋にお住まいでしたか。知りませんでした。

>河村たかし及び彼が惹起した政治状況についてコメントを

いえ、それはまた別の場を毒多さんが設定してくださるでしょう(^o^)

>7割の「共感」は微妙に危ない数字であると思います

私の質問の意図は、この発言が意味するところを伺いたかったのです。

単に「河村連合」への支持は“危ない”というのと、あらゆる「運動」へ支持は“危ない”というのでは、同じ“危ない”でも意味合いが大きく異なってきますから、ね。
愚樵
2011/02/11 16:30
愚樵さん

>7割の「共感」は微妙に危ない数字であると思います。

コメントの全体の趣旨としては「河村連合」を話のまくらに集団心理の危険性に触れたかったのです。
ですから「河村連合」の是非を必ずしも問題にしたかったわけではありません。

「7割の「共感」は微妙に危ない数字である」の意味するところは、一般的に議会で首長支持派が7割を超えるような状況になれば、一種の翼賛体制になってしまうのではないかという懸念です。(まあ、首長選挙と議会選挙の性質上、なかなかそのような状況は起きにくいと思いますし、所詮市議会レベルであり警察権力を握っているわけではないからそう心配することもないのかもしれませんが・・・・)

最後に河村たかしについ述べると政策について評価できる部分もないわけではないですが、「ソフトスターリニスト」ではないかという疑念が払拭できずにいるためいまひとつ肯定的に評価できない理由です。(でも毒多さんよりは評価は高いのかな?)



ダジャレイ夫人の付人
2011/02/11 18:40
ダジャレイ夫人の付人さん

>集団心理の危険性に触れたかった

はい。そういうことなんでしょうね。

ですが、その集団心理こそが既存の制度を改革するエネルギーを生みだすわけですよね。エネルギーがあるから、危険性もあるというわけです。ということは、ある程度の「危険」は覚悟しないと、改革など望めないということにもなる。

つまり、改革に犠牲はつきものだと。革命家などが考えそうですね。

そこのところをどう考えるか。

また、そう考えるなら、「ソフトスターリニスト」の出現くらいで大騒ぎすることもないということになりませんか?“ソフト”が“ハード”になると問題ですが、“ソフト”なうちは民主主義の範囲内でしょう。 

そもそも選挙という制度が自体が、“ハード”な革命の“ソフト”な代替物でしょう。
愚樵
2011/02/12 06:26
ペース早っ!!
とってもワタシの思考速度では追いつけません。
ということで、新たに「エントリー」を書いておりますので、ワタシの「応え」は少々お待ちください。

ああ、それと、自分で振った「河村」ですが、別の機会にも「政治状況」は語りません。スルーってのでもないけど、「政治」はしょせん「政治」、うつろいゆくもの、だなぁって感じです。





毒多
2011/02/12 11:40
愚樵さん

こんにちは。
このエントリーの愚樵さんとのやりとりはどうもしっくりきていません。
やりとりを通じて、私には愚樵さんとの間にクリティカルな点はあまりなく、認識に差はないように思えてしまいます。(ただ「革命家」の視点を共有するかどうかは問題ですが…)

愚樵さんの意図をいまひとつ掴めていないため、何に向かって喋ればよいか分からずダイアローグ(対話)というよりはモノローグ(独り言)に近い感覚を持ってしまいます。

多分直接会って話せば解消できる程度のちょっとした前提を共有できていないためだと思いますが、ブログでのやりとりの難しさを感じてしまいました。

どのように話を持ってけばよいのか分からないので取りあえずこのエントリーでの発言は次のコメントで取りあえず最後にしたいと思います。
また、このブログお会いすることあると思いますが特に他意はないのでまたよろしくお願いします。

ダジャレイ夫人の付人
2011/02/13 15:50
(コメント続き)
愚樵さんの出された「革命家」という言葉には少し触発されました。
「革命家」は革命後には通常「為政者」になります。
「革命家」の能力と「為政者」の能力は別物と言えるでしょう。
毛沢東は周恩来という有能な「国家の執事」がいたから建国後は皇帝然と悠々自適に振る舞えばよかったのでしょう。
 カストロの場合だと平気で10時間に及ぶ演説をやってしまうし、テレビのインタビューを観た印象だと性格的に問題がありそうであまりお付合いしたくないタイプに思いました。
 チェゲバラのように途中で死ねばかえって良いのかもしれませんが、戦うことを失った革命後の「革命家」の余生は難しいと思います。

 河村たかしを「革命家」と捉えるなら第一次の革命は当選した段階で終了し第二次の革命へと向かっています。
 当選により「為政者」として側面が加わっていますが、彼には為政者としての能力が低く、優れた補佐役にも恵まれていないように思え、「裸の王様」に近いような印象を受けます。
河村たかしは「ソフトスターリニスト」というより「ソフトな革命家」と考えた方が適当かもしれません。
ダジャレイ夫人の付人
2011/02/13 15:52

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「ハンガーストライキ」…やっぱ、何かが違うよね 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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