毒多の戯れ言

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zoom RSS 「河村市長のリコール」…アホーマンスに付き合うほどヒマじゃない

<<   作成日時 : 2010/12/17 09:09   >>

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 さて、リクエストのあった河村“the facts ”市長である。
 愚樵さんリクエストか煽りか解らないが、ツレであり客であるW氏も「書け」と炊きつけるので、ちょっと書いてみる。と、いっても政治ネタを面白く書き上げる自信はすでに皆無である。え、政治ネタ、、、が、、、面白い? ここが、なんだか違うような気がするんだけどなぁ。政治なんぞ日陰でこっそり民衆に気づかれないように、民衆の平安ためにするものであって、政治家が目立つってとこで既に何かが狂っている気がしてたまらない。現実は“民衆に気づかれないように”甘い汁を搾取したり、好き勝手なことをやってきたから、愚民にならずに政治に目を向けようって話になるのだろうけど、甘い汁を吸うのが楽しい人生な奴(政治家)はいつまでも吸っていればいいじゃん、と考えると政治に目を向けるのも面倒臭くなるわけだ。誰かがズルして金をせしめているのを、ズルイなんて思わなくなった今日この頃である。とはいえ、実際に金がなくて困っているとこに回すべく金を掠め取るってのは黙ってられないから政治ブログは意味があるんだろうなぁ。
 と、話の最初にもどってW氏は河村(リコール)支持と言っていったからきっとお気の召す記事は書けそうにない。まあ、そのW氏にしても支持の理由は「河村は嫌いだけど、議会はもっと嫌いだ」というのだから、いつぞやも書いた「〜よりまし」って哀しい選択を「強いられている」のだけどね。やっぱそこに乗ってしまうのは哀しいのではないかなぁ。じゃあ、誰がいいと思っている?とW氏は言うが、答えられないこの質問も妙に悲しいんだよなぁ、、、
 国政も併せてあきれ果てて、愛想つかしてるので、ここのとこ河村に関してもリコールに関しても何も情報を集めていない。テレビでも河村の顔がでようものなら、消してしまっている。河村を見ていると吐き気がするからである。そうでなければ非情に気分が悪くなり、頭痛が痛みだす。そうだ、ゲロと頭痛とどちらがマシなんて選択は強いられたくないぞ。なぜこれほど嫌いなのかは考える価値がありそうだな。

 いったい河村はリコールで何がしたいのか?

 「定率10%金持ち優遇(別にいいんだけどさ、)市民税の恒久化」
 「議員報酬の半額」


 やっぱ金ばっかだな? そう金のことばかりなのである。そういやThe Factsも賠償金を払うのがいやで名前を連ねてるんじゃないか、こいつは。よく発言をきいててみ、こいつの口からでるのは金に直結することばかりだから。さすが新自由主義の王道を走るバカだけのことはある。その金のための裁決が通らず、独裁に走りたいために、税金4億5千万をつかいリコールをしたわけだ。
 たしかに議員報酬は高いと思うしある程度の削減はすればいい、じゃ浮いた金をどこにもっていくのだ? 金持ちから免除する市民税10%の穴埋めか?? なんも聞こえてこない。ただ、半減したいだけなのか? 半減のための4億5千万ってなんだ? 訳がわからない。 
 まあ金のことはいいんだけど(ホントはよくないけど、、)、そもリコールってのは市民の武器じゃなかったっけ? それも選んだ自分たちがバカだったと反省しつつ、恥を偲びながらそれでもこいつをトップにをおいて権力を持たせていてはロクなことは起きない。ってことでギリギリの市民権の発動がリコールじゃないのだろうか? それを権力のトップにいるバカが使うってのは全然違うんとちゃうか? しかも権力闘争(市長と議会)に利用される、、、話し合いを放棄し「独裁」を目指すために市民の武器を利用するなんざ、ふざけ過ぎである。普通は使われた市民は怒るべきだろ。なんでそんなリコールが成立するわけ???

 そんでもって河村は何がしたいのか?

 「彼の目的が、公約の実現ではなく、とにかく目立つための議会解散をしたい。そして全国的な注目を集めた後に再び国政へ返り咲き、総理を狙う by 後房雄名古屋大学教授(元河村ブレーン)」すぺーすのいどの部屋より

 結局ね、河村がほんとうにやりたいことは「定率10%金持ち優遇市民税の恒久化」「議員報酬の半額」ですらない、目立ちたい河村ポピュリズムのために市民のものであるリコールを利用されたのだよ。目立つためにね。もちろん意志やら正義なんぞないリコールがまともにやられるわけがない。「河村 リコール」でググってみるとの実際としてこんなブログ記事もでてきた。

>河村一派が、いかにデタラメな署名集めをやってきたの か。署名期間の最中に、回覧板で署名用紙が回っている、他市町の人が署名をやっている、喫茶店に署名用紙が置いてある、郵便受けに署名用紙をポスティング した等々の声が出ていた。この声がマスコミにも載った。選管にも届けられた。選管から注意もされた。
蟷螂舎斧助のページより(コメント欄に「勝手に名前がつかわれた」とあるなぁ、オイラの名前も勝手に使われてるかもしれないなぁ、、、)

 結局パフォーマ河村とその周辺はこんなもんである。そうそう権力しかも個人のパフォーマンスにリコールを利用されてしかも成立してしまう。あ、結局は市民がアホなわけだ、、、小泉で懲りてないのか? 書いてて虚しくなってきた。だから政治ネタは書きたくないのである。
 ちゅうか河村のパフォーマンスに付き合うほど暇でもない。こいつが出てくる度にテレビを消すのは正解なのである。岩下俊三さんの言うところの「見る(付き合う)国民がアホなのだ」を教訓に、実践をしている今日この頃である。
 とはいえ、このまま河村独裁が決定して、しかも大村県知事になった日には、東京都痴事、大阪不チヂを超越して列島最悪の地域になることは間違いないとは思う。日本一マゾ住民が、、、(以下略)




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おはようございます。

注文した手前、コメントしないわけにはいきませんよね。

なるほど、毒多さんの河村嫌いはよくわかりました。河村の最終目的が総理大臣になることであり名古屋市長は腰掛けに過ぎない。リコールもそのためのパフォーマンスだ、というわけですね。

まあ、そういう一面もあるんでしょうねぇ。

で、ということは、毒多さんは今回のリコールに署名した名古屋市民は、河村のアフォーマンスに踊らされた愚民だというわけですか。そして、法令に違反して恣意的に署名を無効とした選管の行いは、アフォーマンスを阻止しようとした「正しい」行いであった、と。
愚樵
2010/12/18 04:24
愚樵さん、おはようございます。
別にスルーしてもらってもよかったんだけどなぁ(笑)。

これね、エントリーもふくめて、どう書こうとも河村の宣伝してるみたいで厭なのね。目立ちたい河村はどういう風にでも関心を示してくれ、と思ってるだろうしね。
ワタシの河村嫌いは、ここに書いただけじゃなく、もっとなにか根本的に嫌いな理由がある気がしているのだけど、まあ時事でいけばこんなとこかな。ホントの本当は「どうでもいい」のだけどね。

で、ツッコミね。

1.リコールに署名したのは愚民か?
2.選管の行いは正しいか?

本文にも書いたけど今回の騒動の対立軸は、市民vs権力ではなく、市長vs議会とみてます。つまり権力争いでしょ。だからね、ワタシとしてはリコールそのものを認めたくないわけ。ということで2は「正しい、正しくない」以前の問題と考えてます。
で、1ね。
答えにくい質問をするねぇ。愚民です、って答えると小泉のころの「B層議論」の再開になるのかな? 
でも、W氏のように河村は嫌いだけど、なんだか息苦しい閉塞感は打破したいという気持ちは解らないではないからね。河村以上に議会が嫌いってのもありだと思うしね。
かといって、なぜダメとダメの権力争いに乗っからないとダメなの?そこで乗ってしまうとこが愚民じゃないの、しかも河村は小泉候ポピュリズム独裁を目指してるわけだしさ、、やっぱ独裁を望むのは愚民だね、、、とは、思っているよ。言わないけど。(これ言っちゃうと、またツッコまれるんだろうなぁ、、、ははは)

ダメをもってダメを制す結果、ってのは、国政の政権交代とも似てるね。

毒多
2010/12/18 09:06
おはようございます。

>愚民です、って答えると小泉のころの「B層議論」の再開になるのかな?

そういう答えを期待してるわけではありませんけどね。「次」へ行くためのStepということで(^_^;

政治ネタを面白く書こうと思うのでしたら、そう断言するのも手だとは思いますが。


>ワタシとしてはリコールそのものを認めたくない

ははぁ、なるほど。そこらが毒多さんがこれまでリコールに触れなかった理由なんでしょう。そして、それはアフォーマンス主導だからという事なのでしょうね。ここのところが私が毒多さんから最も聞きたかったことなのかもしれません。

>今回の騒動の対立軸は、市民vs権力ではなく、市長vs議会とみてます。

はい。リコールの発端はそうなのでしょう。でも、原因がなにであれ、多くの市民が意思表示をし、その意思を権力がねじ曲げたという時点で、「市民vs権力」になってしまっているのではないですか?

毒多さんが政治に関心を失い、市民であることも辞めるというのならいいんですけどね。もしくはアフォーマンスに乗せられる愚民は市民ではないというのなら、それはそれでいい。しかし、毒多さんが市民でありたいと思い、愚民もまた市民だと認めるのなら、実際に起きたリコール運動から目を逸らすのはどうかと私は思います。
愚樵
2010/12/19 07:24
ども、再ツッコミありがとう。

正直にいってどのQにも、ハイ、とも、イイエ、とも答えたくないんですよね。そういう気分です。
否定も肯定もしない。ここの煮え方の甘さがこのエントリーを書かせたのでしょうが、、、

多くの市民がした意思表示が本当に自分の考えからきているのか、ここに疑問を感じていますね。河村の三文芝居に乗せられたんじゃねぇーの、って感じ。

市民の意志をねじ曲げた、、これは選管(議会OB多数)のことでしょうか? 実はそこの事情には詳しくないんです。それと、署名の集め方の実際にもね(本文では他のブログを引用はしましたが……)。もし選管がねじ曲げたなら、その事実は不味いと考えます。

>毒多さんが政治に関心を失い、市民であることも辞めるというのならいいんですけどね。

市民で有りたいと思っているのかどうかは熟考をようしそうですが、実際に市民であることはやめられないでしょうね。それと愚民という言い方はやはり不味いかな。ブツブツ言ってるのももうちょっと考えようぜ、って気持ちがこもっているのは違いないわけですから市民だと認めているのでしょう。

実際に起きたリコール、、、って、時期によってはブログのエントリーでも徹底的に詐欺師河村を叩いただろうね。その点、河村もワタシがボケーっとしていた時期でよかったんじゃないの。
ちゅうかどうなんだろうね、愚樵さんが「どうかと思う」かどうかは別にして、腹が立つってのもホントだし、愛想尽かしているってのもホントだし、目をそらすってか喋る気もしねぇなぁってのもホントだし、脱力感でいっぱいってのもホントだしね。

でも、とりあえず一つエントリーを挙げたぐらいには見ていたってとこかな

毒多
2010/12/19 17:27
おはようございます。なんだか不愉快な気分にさせてしまっているようで申し訳ありません。これで最後にしておきます。

>多くの市民がした意思表示が本当に自分の考えからきているのか、ここに疑問を感じていますね。

これはいけませんね。哲学的に考えるのなら可でしょうが、政治的に考えるのなら不可でしょう。個人には個人の意志があり、署名はその意思表示です。そこを前提にしなければ民主主義なんて一歩も前へ進みませんよ。


「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

有名なボルテールのお言葉ですが、「河村リコール」の話もここに尽きると思います。ここでは“あなた”がアホーマンスにのせられたバカかどうかなど問われることはないはずです。

けれどもね、今回の毒多さんの主張を聞いていると“バカな意見は主張する権利もない”と言っているように聞こえるんですよ。
愚樵
2010/12/20 05:40
おはようございます。

あ、気分を害すのはいつものことで気にしちゃいませんよ(笑)。ちゅうか、何か言われて気分を害すのは「図星」ってのが多いわけだしね。

ただ、「最後にします」っていうこのコメントから始まればもう少し冷静でいられるんですが、、、まあ、愚樵さんにしてみれば確認してから指摘したほうが、痛快、、、じゃないや、ちゃんと手順を踏んでいもうとしている、といは理解しますが。

トゲトゲしくなっているのは、更年期障害、、いやいや、焦れったいせいかな、エントリーでうさを晴らしたり愚樵さんに当たるってのは的外れってのも解っているんですが、まあ、甘えていると判断して赦してやってください。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

ふーん、なるほどねぇ。有名と言われるが知らなかった。知らなかったうえになるほどねぇ、と感心します。ご教授ありがとう。確かにねぇ、なるほどねぇ、、です。
毒多
2010/12/20 08:28
確かに今回のワタシは“バカな意見は主張する権利もない”と言っているようですね。これは紛れもなく河村と同じだね。河村を批判しながら河村と同じレベルに身を落とす、我ながらバカとは思います。まあ、なんとなくこんなような矛盾を肌で予感していたから「書かなかった」のかもしれません。「書け」といって、さらけ出させといて分析するのはブログの醍醐味でさらには愚樵さんのようにズケズケと指摘する人がいないとこういう展開にはなりませんね。

で、本題ですが、
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

本音は、理では分かるんですがなかなか情がついてこない、ってのが実際ですね。また実際になんにもなく机上で言うのは容易いのですが、実際に起きた「ワタシはあなたの意見には反対だ」のとこで、言うのはなかなか難しいと実感してます。もちろんお利口さんになって、そのとおり、って言う事もできますが、、それもなんだか、で、黙ることになる。で、無理やり口を開かされれば、お前は違うといわれる、、、いかん、どうも書いてるうちに愚痴っぽくなるね(笑)。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

覚えておきます。
いつも自分で言ってるとこの、他人ごとのときに冷静に判断して我が身に降りかかっても冷静に判断できるようにする、というのを実践しなくちゃね。

毒多
2010/12/20 08:28
おはようございます。

これで最後というのは撤回させていただきます。撤回してもよさそうなので。よかった。(^0^)

>「最後にします」っていうこのコメントから始まれば

ああ、確かにそうかもしれませんね。でも、お分かりかと思いますが、あのボルテールが最初からあってコメントしていたわけではないのですよ。「対話」を続けていくなかで浮かんでくるんです。最初からボルテールへいくように設計していたわけではありません。

大切なのは「対話」なんだと思います。で、「対話」というのは“開かれて”いなきゃできない。議論は“閉じて”いてもできますけど、「対話」はそうはいかない。そして“開かれて”いるためには「情」が必要なんだと私は思っているわけです。


>本音は、理では分かるんですがなかなか情がついてこない

はい、これはよくわかります。でも、違うんじゃないかと私は思っている。「理」だと思うから、「情」が切り捨てられてしまうのではないか、と。ここで必要なのは「共感」だ、というのが私の主張です。

「共感」は共鳴ではありません。相手に同意しろ、というのではない。「理」には必ず「基盤」があるんです。そしてその「基盤」には、たぶんに「情」が混ざっている。そこを察知しよう、というのが「共感」です。

でもね、相手をアホバカとやってしまうと、そこは“閉じる”んです。察知できなくなる。だから相手の「理」に破綻がないかを争う、非建設的な議論にしかならなりません。
愚樵
2010/12/21 05:37
いいじゃないですか。河村が総理大臣になりたいと野望を抱いたって。その野望を源泉にパフォーマンスをしたって。“開かれて”いればそう受け取ることができると思いますし、そう受け取れば、

>署名期間の最中に、回覧板で署名用紙が回っている、
>他市町の人が署名をやっている、
>喫茶店に署名用紙が置いてある、
>郵便受けに署名用紙をポスティングした

は、別に悪いことだと感じなくなります。これらはそれぞれの「善意」なんだろう、と。またそう感じれば、「善意」も行き過ぎは拙いなとか、「善意」の押しつけは迷惑だとか、思索の幅は広がりますし、「善意」も相対化できる。そしてその相対化の目を自身に向けたとき、それは「自省」という態度となります。

「自省」は「理」そのものですよね。

つまり。「理」を追い求めようと思うなら、「理」だけを追いかけていてはダメなんです。いや、ダメとは言い切れないかもしれないけど、いろいろなブログ、それも特に政治ネタを扱うブログなんかを眺めていると、「理」だけを追いかけて「自省」に欠けているものが多いと思う。そのくせして「理」が最も大切、なんてことをいうんですね。
愚樵
2010/12/21 05:57
あ、別に「撤回して」続けてもらってかまいません。

どうも
>最初からボルテールへいくように設計していた
と思っていたので、回りくどいやっちゃなぁ、と誤解してましたね。
つまり「対話」ではなく「指導」か「説教」か「誘導尋問」を受けているような気分でした。そういう「誤解」をよく受けませんか?

>その「基盤」には、たぶんに「情」が混ざっている。そこを察知しよう、というのが「共感」です。

これね、例えばリアルのW氏の会話では「このエントリー」のようにはならない。一生懸命W氏の言い分を聞き分かろうとしている自分がいる。この「分かろう」ってのは、「解ろう」とか「判ろう」ではなく、「分かち合う」って感じの分かろうね。「情が混ざっている」ってのは、こんな感じでしょ。リアルのワタシは優柔不断といわれるほど、断定はしないんですが、不思議なことにエントリーにすると「分かろう」はなくなりますね。これはネットだからなのか、ブログのエントリーが「一人舞台」の場だからなのか、、、考えれば、面白いかもしれません。
まあ、コメントが付いたところから「一人舞台」ではなくなるのですが、なんでだろうね、リアルでW氏と話しをしているときにはあり得ないような「誤解」をする。信頼とかいうのだったら、けっこう愚樵さんのことは信頼しているつもりですが、それでも現実「誤解」をしたわけですから、何か他の理由があるのかもしれませんね。

これは、今回のことだけでなく、ブログのコメント欄ではちょくちょく見かける。言葉だけのやり取りの難しさなのだろうか? それとも「理だけのやり取り」になってしまうからだろうか? 不思議なものです。

毒多
2010/12/21 17:35
おはようございます。

いえ、「誘導尋問」の意志は私にはありましたよ(^_^; その意志がなければボルテールが思い浮かぶはずもないじゃないですか。だから、決して毒多さんの誤解ではないと思います。

リアルで対面していればそうした「意志」の「察知」は容易ですが、テキストのみを介したやりとりでも何となく“解る”ものですよね。ただブログなんかだと“分り合い”は、かなり難しいようです。

>不思議なことにエントリーにすると「分かろう」はなくなりますね

はい。そうなりますね。実は、ここのところが今の私にとっては悩みのタネでして。

>ブログのエントリーが「一人舞台」の場だからなのか

私はこれが原因かな、と考えています。問題は「場」なんです。

私たちが「場」に欲するのは快楽でしょう。心地よい「場」には「思い入れ」も生まれる。そうした「快」とか「思い入れ」を「情」という言葉で括ったわけです。

他者との「場」では、信頼が「快」になります。でも「一人舞台」では、自身の「思い入れ」こそが「快」になりますよね。ブログエントリーは自身の「快」の表出であり、表出されることで「場」は完成してしまうんでしょうね。心理的にも。

そうすると「快」のために求めるのは、どうしても信頼より賛同になってしまう。「快」に流されるのは人間の常ですからね。

私が「正しい」に懐疑的なのはここのところなんですよ。たいていは自身の「快」のために「正しい」と言っているに過ぎない。「正しい」は、それを主張する者にとっては「快」を釣り上げるためのエサ、それも疑似餌でしかないと思っているんです。
愚樵
2010/12/22 07:30
>いえ、「誘導尋問」の意志は私にはありましたよ

やっぱ、不快になる一つは理由はこれじゃないのかな。「誘導尋問」される方は気分がいいものじゃないからね。とはいえ、「対話」ってのは「誘導尋問」の掛け合いみたいなことはあるのかもしれない。「誘導尋問」というよりは、言いたいことを解らせる(解ってもらう)ために導くってこと。
「理」のみで「誘導尋問」を掛け合うのは政治ブログでよくあると思いますが、これまた有りがちな「勝った負けた」がゴールであるなら、やっぱりツマラナイとは思います。勝って「快」、負けて「不快」ってのは両者がその勝負を楽しんでいるならばいいのでしょうが、おそらくブログ及びコメント欄ってのは、そうじゃないんでしょうから。

ブログ「一人舞台」において言い切って「快」で満足したいのであればコメント欄を閉鎖すればいい。それではツマラナイから他者がどう思うかが知りたくてコメント欄を開放する。賛同があれば快ですね。でも、ブログにおいて賛同される「快」はその場限りの快ともいえるかもしれません。あまり「快」が尾を引かない。尾を引く「快」は「分かる」(または「解る」)にあるものでしょう。「快」は長引いたほうがいいと考えます。
 これはコメントする側にも言えるのかもしれません。
一体このコメントはどうしたいのだ?というのは、ままあります。たんに賛同というのは分かりやすいのですが、そうじゃなく、論破したいのか? 自己顕示欲なのか? さらに追求したいのか? それとも「分かり(あい)」たいのか? 
この辺を整理しておくと、冷静にレスできるものかもしれないな、とふと思いました。
毒多
2010/12/22 16:51

「正しい」が、主張する者の「快」ね。なるほどね。
そうした意味での「正しい」ってのはあるでしょうね。でも、その「正しい」はただしくない。主張するものだけにとっての「正しい」っては正しくない。
真に「正しい」というのは、その言葉通り「正しく」なければならない。誰にとっても何処にいても、どんな状況でもね。

愚樵さんが言うとこの「正しい」に懐疑的なのは、「正しくない」からでしょ。

毒多
2010/12/22 16:52
>「誘導尋問」される方は気分がいいものじゃない

ええ。そうでしょうね。まわりくどいですしね。

では、矛盾を指摘するのにどういう方法ならば気分良く行えるのでしょうね? 誰にとっても何処にいてもどんな状況でもうまく行く方法ってあるのでしょうか?

>主張するものだけにとっての「正しい」っては正しくない。

いえ、そんな「正しい」なんてありえないですよ。「正しい」を主張するには何らかの根拠がなければならないし、根拠は共有されていなければならない。だから、相手を「正しくない」というのは、“根拠を共有していない”というのに等しいことになるわけです。論理を解しない、科学を解しない、民主主義的ではない、非人間的、全部“共有していない”です。

「正しい」を主張することは“共有せよ”と迫るのと同じことだし、迫られるから不快になるのでしょう。
愚樵
2010/12/23 05:59
おはようございます。

>矛盾を指摘するのにどういう方法ならば気分良く行えるのでしょうね?

解りません。どうすればいいでしょうねぇ? ただ、「矛盾を指摘」されても、気分良く対話できるときと不快になるときがあるのも事実ですね。
>「正しい」を主張することは“共有せよ”と迫るのと同じ
これ読んですぐw44を想起しました。即不快になりますねwww。

ところで、人は何故「矛盾を指摘」するのでしょうか? 
「私の正しさ」の承認を得ようとしているのでしょうか?(それは何故?)
「主張の正しさ」を共有させて何かを達成(exその人にとっての理想の社会)させようとしているのでしょうか?(不快にさせるようじゃ逆効果ですね。)

ワタシの場合は「誰にとっても何処にいてもどんな状況」でも共有できるものを探しているのかもしれないな、と思いました。

愚樵さんは、何故「矛盾を指摘」しようと思うのですか?


毒多
2010/12/24 06:36
おはようございます。

>ところで、人は何故「矛盾を指摘」するのでしょうか?

ふたつあると思います。ひとつは毒多さんご指摘の理由ですね。達成のため。「自己実現」のためです。

もうひとつは「自己超越」とでも言っておきましょうか。「自己超越」へ至るための「対話」の一方法としてしての「正しさの主張」。あくまで一方法ですから、「自己の誤りを認める」こともその方法のひとつ。正しいとか矛盾とかで線を引くのではなくて、時に正しく時に過つ存在である自己の存在を確かめるための方法としての「対話」。「対話」を通じて自己を認めると同時に、自己は他者の存在を通して認められるのだということを、認める。

「自己実現」には「外部基準」が必須です。自身の外の基準。国家も貨幣も科学も人権も、みんな「外部基準」です。「外部基準」に照らして達成度を測る。そのために、「外部基準」は正しくなくてはならない。

逆なんです。「外部基準」が「正しい」から自分は「正しい」のではなくて、自分が「正しい」ためには「外部基準」は「正しくなければならない」。「正しくなければならない」から主張し、矛盾を指摘する必要に迫られるわけです。
愚樵
2010/12/25 05:58
話題が河村たかしから離れ離れて弁証法の話になってきましたね。

毒多さんと愚樵さんのやり取りを高校時代に習ったソクラテスの話を思い出しながらながめていました。
自己超越には不快感が伴うこともあるでしょう。

現にソクラテスはソフィスト達と対話しましたが、相手方の無知をさらけ出すことにより憎悪を生みだしてしまい、最終的には死刑判決を受けるに至ります。

ソクラテス的の問題としては対話や議論を行う上での前提として「無知の知」の自覚(自己超越のため、自分自身の立ち位置や限界を知る。)が重要なのではないでしょうか。

また、自己を超えてより普遍的・一般的な知識(真理)にたどり着くには、知に対する誠実さ(自分自身の快・不快より優先するとう意味で)が必要なのではないでしょうか。
 
ダジャレイ夫人の付人(学童砦の一役人改め...
2010/12/25 07:31
愚樵さん、おはようございます。

ワタシの先のコメントは「誘導尋問」の意図はなく、安直な疑問でした。真摯にお応えいただきありがとう。
「自己超越」、うーむいい感じですね。これはゾクゾクします。快です。言葉に身を委ねている気持ちよい感じです。
「個々の正しさを闘わす」のが不快と思っていましたが、そも何のために「対話」しているのか「解らなくなる」「見失う」そのことが不快なのかもしれません。

池田アッコの言うのとこの「私が言葉を喋っているのではなく、言葉が私に喋らせている」ってのにも通じるのかもしれない。「対話」=言葉によって、自己(個)を超越していく感じとでもいうのでしょうか、、、今朝は爽快だ(笑)

毒多
2010/12/26 09:38
ダジャレイ夫人の付人さん、おはようございます。

コメントありがとうございます。
ははは、なんだかワタシはソフィストかな?(笑)、と考えましたが、もとより無知の自覚はあるので大丈夫だろうと、思ってます。爆!!

>自己超越には不快感が伴うこともある

自己支配による不快感があるうちは自己超越はできないということかもしれませんね。
しかし、これも時々ちゃんと確認しないと忘れてしまう。今回のワタシのように不快がワタシの内部でドバッと広がるんですね。いや、時々ちゃんと確認だけじゃ危ないかもしれない。ずっと確認してないとね。

>自己を超えてより普遍的・一般的な知識(真理)にたどり着く

これにしても、自己のみの思索によって「普遍、真理」には辿りつけない。だって自己のみえですからね。辿り着くには「他者」による確認が必要ですね。ここで「対話」になるんだな。なるほど、なるほど。「対話」の意味を確認しなければやはり「不快」がともなってくるんだろうなぁ、、、と、だんだん見えてきました。ヒントをどうもありがとう。

毒多
2010/12/26 09:39
おはようございます。

毒多さん、真摯と受け止めてくださいますか。ありがとうございます。それこそが私にとっての「快」です。

ついでですから(笑)、もう少し。

私は言葉は「対話」一手段でしかないと思っていますし、「他者」は必ずしも言葉を解する人間だけとも思っていません。身体を使って自然と「対話」をするのも「自己超越」のための立派な方法だと思っています。

なのでダジャレイ夫人の付人さん、ソクラテスの話は、そのように連想して頂いてうれしいと思いつつも、ちょっと違うところもあるとも思うのです。古代ギリシャ人は身体的なものも重視したらしいとは聞いていますが、私たちが持っているイメージでは、ギリシャ的「対話」の相手は人間に限られていますから。

自然との「対話」、つまり労働を想像していただければ解ることですが、それは一次的(身体的)には不快なものです。しかし、その「不快」を乗り越えなければ「対話」にならない。労働の負荷を不快と感じている自分の身体も「他者」だと捉えて「対話」することで、自然との「対話」にもつながっていき、二次的(精神的)「快」に辿り着く。

この過程で言葉は必ずしも必要ではありません。ただ、言葉にすることはできる。歌(短歌etc)や俳句は、そのような類の言葉でしょう。
愚樵
2010/12/27 05:18
おはようございます。

>身体を使って自然と「対話」をするのも「自己超越」のための立派な方法

この辺りは、アキラさんとも時々話題になってますね。「言葉の国の住人」のワタシ(爆!!)としては、なかなか実感しにくいところですが、ときにひとりで無性に森のなかへ入りひたすら歩きたくなるのは、なにか繋がりがある気はします。これはワタシの言葉の感覚では「労働」とはならないのですが、、、。長くなりそうなので、またの機会ということで。


毒多
2010/12/27 08:28
出ましたね、「言葉の国」(笑)

私は言葉にも「定時法」「不定時法」があると思うんですよね。毒多さんの国はどちらですか?

ゆっくり考えてみてください。それでは(^o^)/~~~
愚樵
2010/12/28 05:56
愚樵さん

こんばんわ。
趣旨としては身体知を包含していたのですね。
現代人にありがちなように自分は身体知部分が弱いと日頃思っています。
健康診断で運動不足を指摘された中高年のような感じですかね。

不定時法の愚樵さんらしい言葉だと思います。

ついでに「ツァラストゥラはかく語りき」の次の一節を思い出しました。

「あなたの最善の知恵の中よりも、あなたの身体の中にこそより多くの理性があるのだ。」(少し違っていたかもしれませんが…)





 
ダジャレイ夫人の付人
2010/12/28 19:43
・ダジャレイ夫人の付人

おはようございます。

すみません。エラそうなことを言ってしまいまして。ここツァラストゥラが出てくるとは、まいりました(^0^)v

私はニーチェが夢想した超人はなんのことはない、不定時法の世界の住人なのではないかと思ったりもしています。

「最善の知恵」とは「外部基準」なのでしょう。その最高形態が「神」であり、ニーチェはそこを否定した。代わりに持ち出したのが「身体知」つまり「内部基準」。

また、そう考えると面白いことに気がつきます。われわれ日本人は「知恵」というと「内部」、「理性」というと「外部」をなんとなくイメージしますが、それがひっくり返っているんですね(それとも私だけ?)。
愚樵
2010/12/29 07:53
おはようございます。

定時法にすっかり毒されて、大掃除などをしています。お二人の知的対話が面白そうなので入りたいのですが、今から忘年会(というこれまた定時法? あれ?不定時かも?)に身を委ねます。

>日本人は「知恵」というと「内部」、「理性」というと「外部」をなんとなくイメージ

ワタシはそうでもありませんよ。どちらかといいうと逆っぽいかな? また考えてみますね。
毒多
2010/12/29 10:33
愚樵さん
毒多さん

>われわれ日本人は「知恵」というと「内部」、「理性」というと「外部」をなんとなくイメージしますが、それがひっくり返っているんですね(それとも私だけ?)。

すいません。
実は書込みをした私も少し引っかかっているのです。

昔の記憶を元に書いたものですからいまひとつ自信がない部分があります。
翻訳の問題もあろうかと思います。
できる範囲内で確認したいと思います。
(さすがにドイツ語原文に当たるのは難しいですが…)
ダジャレイ夫人の付人
2010/12/29 13:09
話題が脱線しない程度に、理性の話を。

ダマシオの『生存する脳』に書かれていたエピソードです。
前頭前皮質の腹内側部を損傷した患者が、知覚能力・過去の記憶・短期記憶・新しい学習・言語・計算能力を全く損なわれず優秀な成績をマークしたまま、社会生活が成り立たないほどの行動欠陥を示すという症例があったそうです。
研究所の試験では倫理的ジレンマと財政的問題を問うテストをクリアできる。
しかし、実生活で全くそれが出来ない。

この患者が脳の損傷により失ったのは「感情」で、自身が生活破綻者になってしまったことに全く苦しみを感じていなかったそうです。
黒い時計の旅
2010/12/30 02:29
端折りますが、どういう話かというと、感情(情動)は合理的な思考・行動(行動の帰結を推測し実行に移す)と直結しており、感情が欠落した場合、同時に理性も失われるということです。

前述の患者はある検査を妥当な選択によりクリアした後、微笑みながらこう言ったそうです。


「そうはいっても、やっぱり私は何をしたらいいかわかってないんだよ」
黒い時計の旅
2010/12/30 02:47
ダジャレイ夫人の付人さん、おはようございます。

どうも「知識」の乏しい管理人は教えて貰うことが多いのですが、もし仮に引用元(解釈)と違っていても思索をくすぐるもので問題ないです。
とはいえ、「定時法」「不定時法」「内部」「外部」「知恵」「理性」などの基礎的な理解(共通基盤)を深めないと取り残されそうです。勉強しなくちゃ、できるのかなぁ。徐々にということで。
毒多
2010/12/30 10:50
黒い時計の旅さん、おはようございます。

なんだか凄い記事ですね。
行動のベースは「情動(感情)」である、、ということでしょうか? とすると、理性で書かれているように見えるコメントも、そのコメントを書かせる動機は「情動」である、とも言えそうですね。(よく考えれば当たり前のような気もしますが、理性的に言葉を綴ろうとそこばかりに気を取られると忘れがちになります。)

>感情が欠落した場合、同時に理性も失われる

いつぞやの騒動であったような「情」を否定し「理性」をだけを肯定するようなエントリーやコメントも、そもそうしたエントリーやコメントそのものが矛盾に満ちている、ってことになるのかなぁ。そういえば、「情」を否定した方々のコメントも充分に感情的だったかな(笑)

感情が理性を見失わせるって思える場面はありそうですが、感情がなくても理性は失われる、となると感情の度合いがポイントとなるのか? とりあえず「理性」だけでは成り立たないということは覚えておきたいと思います。

この被験者の「微笑み」は感情じゃなかったのか?、、、凍った微笑み、、、だったのかな。
毒多
2010/12/30 10:50
毒多さん

>どうも「知識」の乏しい管理人は教えて貰うことが多いのですが、

だいぶ買い被っているようですね。
私は哲学的な教養がある人間ではありません。
せいぜい昔高校の倫理社会で習ったこと+αぐらいです。

このブログでの毒多さんと私の立場の違いは、与党(管理者=毒多)と野党(私)といったところでしょうか。
与党は全ての質問(コメント)に答えなくてはいけませんが、野党は自分のやり易いことだけ質問だけやれば良いのです。
割引いて考えた方がよいですよ。

他のエントリーにコメントしようと思って考えがまとまらず時期を失したことが何回かあります。
たまたま今回は、ポイントをついたコメントができたというところでしょうか。


>もし仮に引用元(解釈)と違っていても思索をくすぐるもので問題ないです。

ありがとうございます。
正に今回のコメントは、愚樵さんに指摘されたポイントが自分でも気になりました。
でもこのブログでは、エントリーからどんどん話題が展開していくので即時応答性が大切と思い多少自信はなかったけどコメントしました。

そのうち昔自分が読んだものの確認と別の訳者ものの記述ぐらいを比べてみようと思っています。
ダジャレイ夫人の付人
2010/12/30 17:05
おはようございます。

いやいや、このところホント知識のなさを痛感してます。半分開き直っていますが(笑)
展開が早かったり、遅かったり、とんでもない方向へいくのは与党の気まぐれですが、特権でもあります。特権を行使しすぎると愛想を尽かされるという難しさもあります。

いろいろ考えながら来年もやってくつもりです。
よろしくお願いいたします。
毒多
2010/12/31 10:28
愚樵さん
毒多さん

明けましておめでとうございます。

去年からの宿題の「理性」の解釈ですが問題の一節は「ツァラストゥラはかく語りき」の第1部4章「身体の軽蔑者」にあります。

この一節の少し前で「大きい理性」と「小さい理性」について述べられおり身体的な知を含んだものを「大きい理性」、通常の理性つまり精神や形而上学的なものを「小さい理性」と呼んでいます。

従って、問題の個所の解釈としては特に断りはないけれども「大きい理性」を意味していると思われます。

ただ、通常「理性」という言葉(ここで言う小さい理性)には精神的なニュアンスや形而上学的なニュアンスが付きまとい愚樵さんの言う所の「外部」的なイメージに繋がるのではないでしょうか。

なお、正確な訳は次のとおりです。

あなたの最善の知恵のなかよりも、あなたの身体の中に、より多くの理性があるのだ。氷上英廣訳

ダジャレイ夫人の付人
2011/01/01 10:25
ダジャレイ夫人の付人さん
明けましておめでとうございます
ここの管理人はホント読者の方に助けられているなぁ、と痛感します。ありがとうございます。

ワタシのなかでは「小さい理性」が「理性」でした。
良く考えてみれば「身体のなかにある理性」というのは、当たり前なのかもしれない、とも思えますが、当たり前すぎて解らないことなのかなぁ、とも考えてしまいます。と、この「考えてしまう」理性というは身体を安定維持するための行動なのかなぁ、とか、「考えてしまう」時点で一端「小さな理性」に集約されているのか、それとも、つねに「大きな理性」のなかの「小さな理性」なのか、、、、いずれにしても「大きな理性」を実感するのは難しそうで、それを「考える」のが「小さな理性」だから考える時点ですでに大きな理性を実感できなくなったり、、、、、ああああああ、すでに何を言いたいのか解らなくなってしまいました。、、、分からなくなったとこで大きな理性が不安を感じたり、、、、、

ちょっと今年は「大きな理性」を留意していきたいと思います(笑)。
今年もよろしくお願いします
毒多
2011/01/02 08:49

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「河村市長のリコール」…アホーマンスに付き合うほどヒマじゃない 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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