毒多の戯れ言

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zoom RSS 「千葉法相の死刑立会い」…システムの内外のこと

<<   作成日時 : 2010/08/08 15:14   >>

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 さて、出遅れたけどこれは書いとこうと思う、
 死刑制度がある日本のなかで死刑制度廃止論者であった千葉法相の死刑執行捺印と執行お立会いである。
 と、書いた一行だけでこんがらがったリールのように問題がからみ合ってワケがわからない。そこにオイラ個人の混乱がこま結び的にこんがらがって糸をいじってる間に糸が指先に絡み、さらに腕に、ついには全身までまきつき、身動きがとれなくなってしまって卒倒。虫の息である。
 あ、本文に入るまえに断っておこう。「戯れ言」の古くからの読書は知っているかもしれないがオイラは「死刑制度反対」と表明している。理由は「生のなかのことは、生のなかでしか解決できない(解決できないこともまた生のなかのこと)」からである。

 で、何故釣り糸が全身に巻きつきこんがらがっているか、、、というとまず、ベルトコンベヤ式死刑野郎の鳩山が盲判(差別用語です、すみません)を12回も押し倒したときに、オイラは「テメエの手で首吊りを実行しやがれ」と毒づいたが、ゲゲゲ、やべぇ、千葉法相がホントに立会いやがった、ということ。オイラにしてもホントに立ち会えばいいと思って言ったわけじゃないのになぁ。しかも千葉立会いのタイミングは個人的には最悪で、バーベキューをするためにヤギを殺すのに立ち会うかどうか、で揉めていたときなのだ。
 あ、死刑に立ち会っただってぇ? 
 ふん、立ち会うことで問題は解決するのかよ?
 そんなもん欺瞞じゃないのかよ?
 それとも贖罪かぁ?
 問題提起にもなりゃしねぇ。
 意味ねぇだろ
、、、、って言えば、ブーメランのように返ってきそうな悪寒。

 オイラには、しなければならない嫌なこと(と、取り敢えず仮定しといて)を、他者に押し付けて自分がのうのうとしているわけにはいかない、という心性はよく解るつもり。だから個人的には千葉個人が立ち会わざる得なかった気持ちは理解できる。ただ、肌感覚ではそれが問題解決はもとより問題提起にもならないんだろうなぁ、とは思う。あくまでも個人のなかのけじめのつけ方(納得の仕方)のような気がするわけだ。
 ただ言ってしまえば、オイラが立ち会おうとした「絶対にさけられない食う(生きる)ために殺す」ことと、「罰(生を否定する)のために殺す」ことでは違うんではないか? ということ。さらに言うならば「不可避の殺しはシステム以前の問題」で「死刑での殺人はシステムのなかのこと」と言えないか? オイラがヤギ殺しに立ち会おうと思ったのは前者だからで、罪人の生を否定するために殺してしまうことは「絶対に避けられない」ことではなく、システムの変更によってむしろ避けることができることなので、個人的な心性としては解るはずの「立会い」を評価できないわけ。

 よく言われている、死刑のゴーサインは法相の「仕事」ってことがある。
 うーん、「仕事」ねぇ。そういえばサラリーマンは嫌な仕事でもやらなきゃいけないことが多そうだもんなぁ。個人の思想を犠牲にしてもやらなきゃならない仕事もある。仕事の内容の好き嫌いでより好みして「やらなかったり」したら馘首になるよね。お、馘首かぁ、、絞首って仕事をしなければ自分が馘首になる、、、どっちにしろ首がとぶなぁ、、やられないようにやる、、、かぁ。でも絞首は実際に人を殺すんだが、馘首は職を失うわけで命までは取られないもんなぁ。
 しかし殺人が仕事っては、サラリーマンの仕事のより好みと同じレベルで語れることなのか?
 オイラが法相だったら絶対殺らないけどね。問題提起は「やらない」ことですればいいわけだし。ってそんな単純なことかな??
 問題提起として以後死刑制度がなくなっても、その死刑で死ぬ者がいるってのはこれまで「死刑制度反対」をしてきた個人としてはどうなんだろうなぁ?? とかさ・・・。
 サラリーマンの好き嫌いは「システム外」のことで、仕事をやらなきゃ馘首になるのは「システム内」のこと。千葉個人の死刑を反対する気持ちってのは「システム外」のことで、実際に死刑のゴーサインは「システム内」のことってわけだ。サラリーマンがシステム内の仕事としてやらなきゃならない以上に、千葉法相という「システムの中枢をなす者」がやらなきゃならないわけね。で、システム外の千葉個人の精神は「立会い」ということでバランスをとったかもしれないな。(まあ、死刑制度反対で実際に動くのはシステム内のことだから、これほど話が単純ってわけじゃないんだろうけどさ)

 愚樵さんが某所コメ欄で言っていた。「だいたい、なんで法相だけの立会やねん。法相はもとより死刑判決をだした裁判長から裁判官から一般人である裁判員からさらには裁判の弁護士からみんな立ち会わなあかんやろ、そうすれば、、(以下略)」(※某所とは逝きし世の面影さんとこね)。これはシステム内のやり方としてはいいんじゃないかと思う。いやちょっとまて、そうだなぁ、このさいだから死刑を望んだ被害者家族も立ち会おう。ちゅうかここは肝心なとこで、殺してやりたいほど憎い加害者がブラインドの向こうで人知れず殺されることなどあっていいものか。法相の代理立会いなどまったく意味がない。ちゅうことで死んで欲しいと願う被害者家族は立会い決定。と、ここまでくれば死刑制度存続廃止問題の真の問題提起になるのか?
 なんとなくだけどね、ただでさえ追い込まれている被害者家族の「解決」をみるのは、加害者が生きていても死んでいても難しそうだ。被害者家族が立ち会うことで殺してやりたいという言葉が達せられ満足することができるかというと、そんなことは全くなく2次被害を受けるような気がしてならない。もともとの被害を受けたというのは「システム外の問題」で、そこから派生した被害者の感情も「システム外の問題」である。これを死刑という「システム内」の制度で解決しようと被害者家族が立ち会うことに無理があるのではないか。そうだな立会いってことで「システム外」の問題を問題提起してシステムに取り込もうとすることに無理を感じる。


 やっぱり、システム外(以前)の問題はシステムでは解決できないのかもしれないなぁ。





 

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
>やっぱり、システム外(以前)の問題はシステムでは解決できないのかもしれないなぁ。

だと思います。ゆえに私も死刑に反対。殺してしまう意味を見いだせない。

私が某所に入れたコメントの根っこもここにあります。

死刑判決を下す。これはシステム内です。でも人間はシステムの中だけに生きているわけではない。システムに沿って判断を下しても、システム外にある自分自身は葛藤を覚えざるを得ない。その葛藤を意識したとき、果たして人間は死刑判決を下せるか? 

ハラスメントのところで多々引用しましたが、外的規範に〈心の領域〉(インターフェイス)が侵食されてしまったアイヒマンのような人物なら、何の呵責もなくできるでしょう。職業裁判官や検察官にはそういう人は多いかもしれない。が、一般の裁判員はなかなかそうはいかないでしょう。普段、法律というシステムとは無縁で、だからこそ「市民感覚」なんだから。
愚樵
URL
2010/08/08 16:32
もうひとつ。千葉法相擁護の件について。

死刑執行立ち会いが果たして問題提起になるかどうは、それはわかりません。

千葉法相が立ち会うということを決意したのは、システムの一員としての法相としての部分からではなくて、システムの外にはみ出た人間として決断したのだと私は感じているわけです。面影さんが指摘されていますが、絞首刑はかなり執行に時間も要する非効率な方法。ということは、見ているだけでもかなり神経に負担ががかる。通常の者なら目を背けたいはずです。

それを直視しようと決意した。この決意はシステムの枠内ではなんら意味のないものです。そのことは千葉法相自身もわかっているだろうし、官僚からのレクチャーだってあったでしょう。

が、それでも彼女は決意した。その決意の源がシステムの内側であるはずがないのです。

で、それが問題提起になるのか? 私はなると思いますが、そこは受け取る方の感性の問題でしょう。システムとしては何ら意味がない、と思えばありませんし、システムの枠内からはみ出す人間がシステムを造るのだと思えば、意味がある。

これは、己とシステムとの関わり方の問題でもあると私は思うのです。
愚樵
2010/08/08 16:47
このエントリーを書いているうちに気づいた、システムの内・外、という捉え方で、こないだうちのアースリングスからモンモンとしていたものが、ちょっとスッキリした気がします。どうもこの「内外」を混同して捉えるとややこしくなりそうな気がしています。混同して捉えていたのでややこしかった。
個人的には千葉法相のことが書かれている他の方のエントリーも「内外」を考え読むといろいろ見えてきます。

千葉法相の立会いは、やはり千葉個人と千葉法相のせめぎ合いを強く感じますね。ワタシにはシステムに負けて逃げちゃいかん、というシステムのなかにある個人の慟哭が聞こえてくる気がしますが、一方で「オマイらワシたちあうんやさかい、ちょっとは考えてくれよ」という計算もあるんだろうなぁ、、、転んでもただおきへんで、みたいな。
で、実際はどうなんでしょう?
どっか、問題にして喧々諤々やっているのでしょうか?
そんなブログなんかがあったら紹介してください。

>己とシステムとの関わり方の問題でもあると私は思うのです。

うん、そうですね。
いずれにしろ、まず「己」があってそしてシステムに関わりたいのですが、、、つまり「己=主、システム=従」だとワタシなんかは考えたいのですが、往々にしてシステムが暴力的に己をエグってくる。だからややこしくなるんだろうなぁ、ということは考えますね。

毒多
2010/08/10 16:29
まず「己」である。それはそうでしょう。が、その「己」がどこを軸に置いているかなんです。「考える己」か「感じる己」か。理性か感性か。

死刑反対の立場に立った上で理性を軸に据えるなら、今回の千葉法相の「決断」は悪です。死刑は悪であり、それを執行したことは悪。だから非難に値する。

でもね、こう考える人たちは肝心なことを見落としている。では、もし仮に千葉法相が「己」の信念に従って(己が主、システムは従として)サインをしなかったらどうなるか。“今回は”死刑は執行されない。が、それで死刑執行はなくなるわけではない。“次回”に持ち越されるだけでの話です。

どこでは今回の千葉法相と比較してサインをしなかった過去の法相を讃えたりしています。でもね、サインをしなかったことで死刑がなくなったわけではないんです。ベルトコンベアのようなのが出てくれば、それで終わり。「サインをしなかったこと」の意味は霧消する。

理性的ならば、そのことに気がつかなければおかしいでしょう? でも、気がつかない。なぜか。「己は正しい」からなんです。

私はサインをしなかった。だから「正しい」。

ここに「せめぎ合い」はありません。次の法相がサインをしても、「私は正しかった」。それで終わり。千葉法相を批判する者たちも同じ。理性を軸に「正しい」「正しくない」と割り切って、そこに「せめぎ合い」はない。
愚樵
URL
2010/08/11 04:17
理性を軸に既存のシステムを批判する。それはそれで必要なことです。が、私は一番大切なことだとは思わない。

その行為は、実はシステムを支えている「システム的なもの」から一歩も外へでていないから。私がいつも〈システム〉と言っているのは、この「システム的なもの」のこと。システム思考とでも言っておきましょうか。システム思考の枠内から出ないから、「せめぎ合い」がない。

では、感性を軸に据えれば「せめぎ合い」になるのか? それは“感情的”死刑賛成派をみればそうとは言えませんよね。彼らにも「せめぎ合い」はない。感情を軸に「正しい」といっているだけ。

また「せめぎ合い」をしさえすればよいというわけでもない。「せめぎ合い」はモニターされなければならない。モニターするのは理性でしょう。「せめぎ合い」をモニターしてそこから言葉を紡ぎ出す。その営為を「思索」という。

私は「思索」を“生きること”だと言いましたが、なぜそういえるのかというと、それはとてもエネルギーを必要とするからです。「せめぎ合い」を維持しモニターし、さらに言葉にするのはとてもしんどい。このエネルギーを「生命力」と言ったりしますが、生命力を費消する主体が「己」なんです。

そう捉えると「考える己」も「感じる己」も(アキラさんところで議論しましたが)効率的でエネルギーをあまり消費しないんですね。で、余ったエネルギーをどこへ振り向けるかというと、他人に向ける。「考える己」も「感じる己」も、“私は正しいから、私に従いなさい”と主張する。そこのエネルギーを費やす。

こうしたエネルギーの在り方が「権力」です。システムは権力から組み立てられる。
愚樵
2010/08/11 04:50
今回の千葉法相の決断が提起したのは、議論以前に「思索」だと私は捉えています。

それが彼女の本意だったのかどうかは知りませんし、知りようもない。また、知ったところで「思索」には関係ない。「思索」は、千葉法相の決断が正しいか正しくないのか、そんなところを判断するためにするわけではないからです。たとえ判断が出たとしても、それは派生物でしかない。

そこここで行なわれている議論は、その大抵が「権力」をぶつけ合う議論でしかありません。それらは“私が正しい”ことを主張し相手を屈服させるためのものでしかなく、いずれも「システム的なもの」の内側にしかいない。私はもはや、そういった議論に関心を維持できないんです。だから、「そんなブログ」と言われても思い浮かばないです。

己を主とし、システムを従とする。それはそうあるべきですが、十分に注意していないと、従としたシステムを介して他者を従としようと企てることになります。この場合のシステムは論理と言い換えることができるでしょう。

論理を振りかざし正誤を判定しようとする者は、「権力」主義者への道を歩んでいると思った方がいいでしょう。その道から逃れるためのツールが理性の最高形態であるところの「自省」ですが、その「自省」は「せめぎ合い」をモニターする「思索」とほぼ同義です。

「権力」主義者は、その「自省」「思索」を善意をもって放棄します。“地獄への道は善意の石で舗装されている”と言われる所以です。
愚樵
2010/08/11 05:57
 解りやすい。ストンとおちます。何度も読み直したくなります。特にレスになくてもいい気もします。(このエントリーだけではなく)ながながと辛抱強くお付き合いいただき感謝。
 とは言え少しだけ。

 最近政治ブログを真剣に読む気がせず、たまたまそこで行われている議論もなんだか、、、と感じていたのは「システム的なものの内側」の話だからかもしれません。しかも「己」が見えないのか、もしくは置き去りにされているのか、それとも「己のなかのせめぎ合いがない」と感じたからか・・・。むしろ、ワタシにとっては千葉法相の「せめぎ合い」の(モニタリングの)ほうがずっと肌に突き刺さるものがあったのかもしれません。そういう意味でワタシにとっては何かを提起された。千葉法相のほんとのとこ(真意)がどうであろうともです。

 もう少し考えます。「己」と「システム」、、もし「システム」がなければ「せめぎ合い」はなく「思索」はないのでしょうか?。ワタシは「在る」と思っていますが、現実にはシステムによって己がえぐられて(疎外されて)いくことがほとんどで、それによって「せめぎ合い」が生じ「思索」となっていくことが多いのでしょう。
 うーん、愚樵さんの言うとこの、システムの内の権力となってしまう(システムが第一義になってしまう活動家)に違和感を感じていたのはこんなとこかなぁ。そういえば、己でせめぎ合いながらシステムと対峙していく姿をみると人間的な魅力を覚えるなぁ。障害者Kくんの母みたいな人。システムの内のものとしてシステムと闘うんではなくて、屈するんじゃなくて、「せめぎ合う」なかから生きているってのはそんな感じかもしれない。

毒多
2010/08/11 17:04
 でも、システムによってエグられ思索につながる、ってのもシステムを認めたうえでのことで、なんだか悔しいものがあります。システムを一程認めざる得ないことはわかってはいるんだけどね。
 千葉法相の行動に関しては、千葉個人の「せめぎ合い」を感じることはできる。でも殺された人間個人の「せめぎ合う」機会を奪ってしまった。ここに問題を感じています。「せめぎ合う」のも「思索」するのも、生きているからできることですから。
 
毒多
2010/08/11 17:04

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