毒多の戯れ言

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zoom RSS 「頂点の25条を目指す」…で、生きることってなんだ?

<<   作成日時 : 2010/04/05 17:42   >>

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 まえの爆狂・暴走エントリーで、愚樵さんに意地悪されて、思いつきで悔し紛れに書いてしまったのが「生活すること」と「生きること」っていうやつ。実は書いたワタシもなんのことやら解らないんだけど、まあ、なんとなくイジメが終わったので、「えいや、あとは野となれ山となれ戦法」が功を奏したのかもしれない、イッヒヒヒヒ。
 で、書いたワタシがなんのことやら解らないのが「生きること」ってことね。解らないまま悔し紛れに書いたのだが、何かはある、とは思っているから、全くのあてずっぽというわけではない。

 前のエントリーのコメ欄では「生きること」と「生活すること」と言ったときに、ワタシは「戦争がなく平和な社会を目指すこと(9条)」が「生きること」で、「健康で文化的な生活をおくること(25条)」は条文どおり「生活すること」ってイメージがあったのだけど、平和を叫びたい基地(戦争)がある地域(オキナワもまた戦争に巻き込まれているのが現実)にとっては、9条もやはり「生活すること」と直結するわけだ。基地(=戦争)によって「健康で文化的な生活」を妨げられているわけだから、9条も25条も共に侵害されているとも考えられる。あれれれ? 地域によって「生きること」と「生活すること」が入れ替わったり時に合体するといったのでは、お話にならないな。というか、ちょっとまてよ。9条というのは25条の要因(原因)として含まれるんじゃないのか。25条を妨げる要因としてすぐ「経済」「労働問題」を思い浮かべるが、健康で文化的な生活を妨げる原因のひとつとして「戦争」「基地」があると言えるよな。やはり9条と25条は対比されるものではなく、9条は25条の原因として含まれるもの、、、というか、ほとんどの条文がが25条(1)に含まれるな。つまり多くの条文は、25条を実践するため、それを妨げる要因を正すために、あるわけだ。やはり、25条を実践するために、9条を叫んでも仕方ないとは「バカ」の考えだということがここからも言える。(……まあいいや、ほっとこ、笑)

 それで、「生きること」に話を進めるが、どうもワタシのように市民運動系の人にありがちのような気がするが、たとえば25条(含む9条)を完全に実施する闘い、、ちゅうかプロセスを「生きること」と捉えている人(実はワタシだったりする)がいるが、こりゃなんかおかしいぞ。だってそうだろ? すべての人が「(健康で文化的に)生活すること」を獲得するのが「生きること」であれば、「(健康で文化的に)生活すること」を獲得しちまえば「生きること」もなくなっちまう。「生きること」は何かが達成されてなくなっちまうようなことではなく、生きている限り続くことのはずだから、矛盾だ。
 それに現状すでに「(戦争とか貧困とかに悩まされず)生活すること」を獲得している人が「生きること」を考えているかといえば、欲にまみれて、飽食、道楽、ゴージャスだの、着飾るだの、、、ワタシがなんとなくイメージする「生きること」からほど遠い人が多く、逆に「(健康で文化的に)生活すること」を獲得できてないといっても、「生きること」、、、「真に」生きることを思い巡らせてくれる人々がいる。ちゅうか、わかりやすく歴史上の有名人をあげるが、「生きること」を感じさせてくれる人は「(健康で文化的に)生活すること」を獲得できてない人が多かったな。
 あれ、あれれ、ああ、そうか。ガンジーにしろ、キングでもマルコムでもいいや、あるいはゲバラか?スー・チーさんでもいいや、25条を獲得するために生きた人に「生きることとは何ぞや?」を感じさせてくれるんだけど、さっきいった矛盾はどうなる。
 「すべての人が健康で文化的な生活」を手に入れたら、ガンジーもキングもマルコムもゲバラもスー・チーも存在価値がないのか?

 ん? この有名人が多くの人に支持されるのは、25条を獲得するための「偉業」をやってみせたからか?

 「すべての人が健康で文化的な生活」が手に入った世界には、ガンジーもキングもマルコムもゲバラもスー・チーも生まれてこないのか?

 支持される理由は「偉業」だけではない気がする。「偉業」ではなく、そこから醸し出される「生きること」を感じるから支持されるのではないか? え、ちょっとまてよ。じゃあ「すべての人が健康で文化的な生活」でない状況は、「生きることを醸し出す」に繋がるかもしれないから、上記のような人々を生み出すのに不可欠なので必要なのか? ってなるとなんだかおかしいよな。別に「生きること」は他人から支持されなくてもいいんだよな。とか。。そういえば、釈迦は、まさに「生きること」を説くにあたり、裕福な家(健康で文化的な生活)を捨てたんだったっけ? え、むしろ25条が達成されないほうが真に生きることが見えるのか???とか、、、25条いらねぇ〜、とはならないよな。

 「生きること」ってなんだ? 言葉にだして言ってみろ、、、と言われても、、、やはりワカンナイ。
 
 

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内 容 ニックネーム/日時
こんにちは。
いろいろとりあえず落ち着いたようなので、出てきてみました〜。
(^o^)

僕自身は「生きること」というふうに、あまり考えたことがありません、そういえば。
「“生きている”ということ」というふうには、よく考えますが。

僕はこういうことについては、実感ベースでしかあまりよく考えられないので、以前記事にしたようなことが、まず第一番に思い浮かびます。
一応コピペしときますが、名前のとこにもリンクさせときますね。

http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51633054.html

この記事で書いているような「どうでもいいようなこと」が、平々凡々と営まれ続けられるように、いろんなことを考えて、変えるべきは変えていかなければならないんだろうと思います。

あと単純に、自分がその状況に身を置いてみて やっぱりヤだなと思うことは、他の人にもそのようなことがないように、なるだけ出来る努力をしたいなと思いますし、どうしてもその状況が不可避なのであれば、みんなで少しづつ負担し合うような格好にしていくべきですよね。
アキラ
URL
2010/04/05 20:47
しばらくぶりにお邪魔します。

今までのエントリー、コメントずっと見させて頂き、いろいろ考えさせられました・・・

戦争や貧困に直面している人にはやはり「生活」という或る意味「観念的」な言葉って伝わりにくい気がしますね。
分けていいものかわかりませんが・・・
でも、そんな状況でも「生きる営み」そのものが「生活すること」なんだろうけど、すべての人が「生きてて良かった」と思える社会って、果たしてありえるのか?っていう悲観的な考えもまた捨てきれません・・・
なんか、ペシミストぶって申し訳ないです。
でも「基地や戦争」は共存できないのは明白です。
戦争って、貧困と強い親和性がありますから。
えちごっぺ
2010/04/06 02:37
 自分が「なんで生きてんだ?」「生きててなんになるんだ?」って感じるときって、心が挫けてしまっているときだと思う。
 にんげんは、ひとりぽっちだと、そんな風にすぐに簡単に折れてしまうこともあるんじゃないかな。

 大切なことは、自分が縁した人を、決してひとりぽっちにしないこと。

 それができないなら、9条も、25条も、単に他人が用意してくれた、大してありがたみのない既成の制度のひとつに過ぎなくなる。
 そのうち、単なる代わり映えのしないお題目のように思えてきて、時には、「自分と全くかかわりのないもの」と感じるようになるかもしれない。

 特に9条は、「そんなの自分にはまったく関係ないね、どうでもいいんだよ」と。
naoko
2010/04/06 04:23
うへえ、めちゃ違和感あるエントリーやなあ。
私はえちごっぺさんと逆で、「生きる」って方が「観念的」だと思う。生活って、めちゃ現実的な「実務」で、それを観念的と思うっていうのは、やっぱそこんところを女性(母親だったり妻だったり)に任せてきたからなのかなあ?なんて感じる。(ごめんね、いじわるで)

このエントリーは、生活感のない人が語る「生きること」の方が説得力があるように感じる、ってことなのかなあ?

私が思い出すのは、死にたい死にたいと思いながらかろうじて生きていたうつの頃、「生きるのってお金がかかるなあ」「生きてるだけでお金がかかるものなんだなあ」と感じたこと。家賃を払い、食べ物を買うために仕事をし、下着を洗って食事を作って食べていた。「生きる」ってことはなんて大変なんだと思った。「生きる(命)」の上に「生活」があって、その上に「生きる」があるんだなあと思った。マズローの五段階欲求みたいやけど。
みみず
2010/04/06 08:04
アキラさん、お久しぶりで〜す。
すっかり落ち着き払ってしまったのですが、感情的な自分も悪くないな、と思ってます。
リンクの記事、エントリーされたときも、ふむふむと思いながら読んだことを思い出します。
「(真に)生きる」なんて思い込みで、実は日常の生活のなかにささいな喜びに「在る」ものかもしれませんね。でも、その思い込みから解放されない自分がいる。きっと思い込みと思ってないからだね。
なんだろうなぁ、、、これが「言葉で伝えきれないこと」なんかなぁ、、、とかいって逃げてみる。

毒多
2010/04/06 09:16

えちごっぺさん
すみません。怒りに任せた、コメントしづらいエントリーを挙げてしまって。
ワタシは、上でみみずさんが書いているように、「生活」のほうが現実的で、「生きる」ってのは観念的だと思っています(みみずさんの言う理由は同意しませんが、、笑)。
「生きること」なんて、自分でいっときながら観念的すぎてよくわからない。
>「生きてて良かった」
ってのは、アキラさんのエントリーに通じるところがありますよね。ほんとはそんなもんかもしれないとは思っているのですが、、人間が存在している理由がある、、のではないか?って嵌りだすと、なんとも、、、ふぅ。

毒多
2010/04/06 09:16

naokoさん
個人的には現状、
>「なんで生きてんだ?」「生きててなんになるんだ?」
とはなってなく、かろうじてですが戦争にも(極度の)貧困にも悩まされることがなく、毎日が楽しく、健康で文化的な生活を送っているんですが、「生きる」って何だろう?とはずっと考えてます。

naokoさんのエントリーを読みながら、んんん?
「個々が生きる」
「みんなで生きる」
ってのが、頭に過ぎりました。また考えてみよ。

毒多
2010/04/06 09:17

みみずさん
違和感かぁ。このエントリーも個々の経験によって受け取られ方がいろいろなんだなぁ。って感じです。
でも、「命」→「生活」→「生きる」って書いてもらっているので、「生きる」という「何か」はある、というのは同意してもらっているんですよね。これは嬉しいなぁ。個人的には「生きること」という観念、それさえ不安で・・・

具体的な経験を書いていただきましたので、ワタシの個人的な経験をひとつ。
市民運動当時「パクられる」か「生活を維持するか」ってのがリアルにおきました。「パクられる」前提が「生きること」(これが「生きること」とは確信はないのですが)と認識していました。結局こちらに選択肢はなくパクられたのですが、その後も「生活」を重視し即拘置から出ることを目指すか、「生きること」を重視し裁判でも闘うか、外(救援対策)でまた揉めました。(このときは不健康で非文化的な生活でした)

個人的にこのエントリーは、このことを思い出しながら書きました。繰り返しますが、上の思い出の「生きること」がほんとに「生きること」かどうかは、ワカリマセンが、、、。


毒多
2010/04/06 09:17
>感情的な自分も悪くないな、と思ってます。
<
はい、僕もそういう毒多さんが好きです。


>その後も「生活」を重視し即拘置から出ることを目指すか、「生きること」を重視し裁判でも闘うか、外(救援対策)でまた揉めました。
<
これ、分かりやすかったです。
なるほど、そういう感じの違いなのかな?って。

ちょっとあるところのある記事のコメント欄を読み直してたんですが、そこで愚樵さんが、
『「引き受ける覚悟」を目指す・重んじる方向性と、「平穏な暮らし」を目指す・重んじる方向性とがあるんじゃないか』と仰ってたんですが、それと毒多さんの上記コメントとがダブりました。
アキラ
URL
2010/04/06 11:14
私もアキラさんと同じく。

>感情的な自分も悪くないな、と思ってます。

そう、感情は大切です。理性なんかよりよほど(笑) それは「生きること」を支える生命力の発露ですから。

>「生きること」ってなんだ?

おのずから湧き上がってくる生命力を費消すること、ってのはいかがでしょうか?
(naokoさんが仰った“心が挫ける”というのは、生命力が湧き上がってこなくなった状態ですね。ニヒリズムです。)

では、「生活すること」とは? これは“生命力の費消”というだけでは足らないものがありますね。25条が謳う“健康で文化的な生活”は、おのずから湧き上がってくるものだけでは足りない。ここには生命力とは別の「力」が必要になってきます。この「力」をなんと呼ぶか? 私は「権力」がそれに相応しいと思います。

この「権力」の用法には違和感を抱かれるかもしれませんが、

>地域によって「生きること」と「生活すること」が入れ替わったり時に合体する

ことと考え合わせてみればどうでしょう? 権力は「生活すること」に必要であると同時に「生きること」を妨げる力としても働く。

生命力と権力とは、相殺関係にあることが多いですね。感情と理性の関係と同様に。

>(ガンジーやキング、マルコム、ゲバラ、スー・チーらが) 支持される理由は「偉業」だけではない気がする。

彼らは、生命力と権力との関係を、相殺ではなくて、相乗にしようとした人たちですね。
愚樵
URL
2010/04/06 20:08
>感情
ははは、でもイイ歳こいてますので、怒りはほどほどに自嘲しなくてはと思ってます。
おお、「生命力の発露」と「イイ歳こいてます」、、、この因果関係はなんかあるのだろうか??

アキラさん

>「引き受ける覚悟」を目指す・重んじる方向性と、「平穏な暮らし」を目指す・重んじる方向性
おお、なんとなく凄い区分けですね。なんとなくですが、前者が「生きること」、後者が「生きている」ことを感じますが、それも違うような気もします。

前のコメントの続きなんですが、市民運動でこうした確認をしたことがありません。確認しないままになんとなく前者だと自覚したり共感したりしていたと思うのですが、あいまいなまま、不測の事態が起きてしまったんですね。
で、ワタシは辛うじて「外」だったんですが、「中」の一人が後者のことを言い出した。でも、「外」の救対会議の空気は前者だった。その空気のなかでワタシは後者を言い出したなかの一人を強く弁護しました。葛藤です。運動としての信念を曲げることは「敗北」で、曲げようが何しようが一日でも早く、その一人が希望する「平穏な暮らし」に戻って欲しい、と意見を言うこともやはり「敗北」という空気がありましたから、、、。
ワタシ自身も気持ちは前者だったんですが、、、その一人の気持ちを踏みにじることができなかった、、、、。ふぅ。

いまだに考え続けています。
毒多
2010/04/07 08:50

愚樵さん
難しいですね。
「生きること」ってのは、
>おのずから湧き上がってくる生命力を費消すること
そんなものかな? そう言わればそんな気もするし、何か納得出来ない気もしてます。

どうも、「権力」というと既存の他者(しかも国家とか警察みたいな、笑)というイメージがあり、それが「難しい」と感じさせているのかもしれないな。「健康で文化的」というのも、個から湧き上がる「精神的な健康」と、個から醸し出される「文化」が本質のような気もしているので、権力によって与えられる、っていうか保障される「健康的、文化的」ってのどうなんだろう、って感じもあるんだよね。、、、、、ああ、もう無茶苦茶だ。言いながら自分が嫌になる。

たぶん、「権力」という言葉の思い込みが、相当ひねくれさせてるんだろうね。
「権力」の既存イメージをぶちすてて、愚樵さんのコメントの意に沿って

>彼らは、生命力と権力との関係を、相殺ではなくて、相乗にしようとした人たち

ってのは、面白いですね。
で、彼らが作り出した純粋な「権力」がいつか、ワタシに刷り込まれているような所謂「権力」に変わっていくのだろうか? とかさ。

毒多
2010/04/07 08:51

えちごっぺさん
前のレスで言い忘れました。

>戦争って、貧困と強い親和性がありますから。

そういう部分もあるのでしょうが、むしろ「戦争と強欲(アメリカ)の親和性」とか「戦争と宗教(イスラム、キリスト各種)の親和性」のほうがより強いような気がしています。

毒多
2010/04/07 08:51
初めまして。代々木界隈をウロウロしている道草クー太郎と申します。

 日本国憲法第二十五条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

戦後憲法の条項の多くは旧憲法体制における弊害を踏まえて作られていると思います。
25条を設けた問題意識もそこにあると理解して良いなら、全ての国民が貧困ゆえの健康破壊や餓死などを免れ、世間一般並みの生活水準を維持できる権利とそれを追求する義務を国に課したものだと思います。その基本はやはり経済的な意味での「生活」の保障にあると考えます。

 この25条的意味での「生活・生存」を「生きる」に対置する場合、「生きる」の意味は「人はパンのみにて生きるにあらず」という時の「生きる」=経済ではなく理念や精神の営みに比重を置いているのではないでしょうか。戦前に比べて経済的に遥かに豊かになった現代人には「生活すること(経済生活)」と「生きること(精神生活)」の区別があまり意味を持たなくなったと言えるかもしれません。
道草クー太郎
2010/04/07 10:26
 問題の発端である「沖縄問題の扱い」にこれを重ねてみると、以下のような構図が無きにしもあらずではないでしょうか。沖縄現地では安保問題は「生活・生存」に関わる面が強いのに対し、沖縄から遠く離れた本土ではむしろ「理念問題」として表象される側面が大きいということ。「安保・沖縄問題より憲法25条こそ争点」という見地は国政選挙を闘う側の政治的リアリズムの吐露ではあるかもしれませんが、それがリアリズムとして正当性を持つのなら「沖縄問題」はやはり沖縄のローカルな問題であって日本人総体にとっては「理念」の問題に留まっていると。私はそういう問題意識から、沖縄米軍基地の移転先を全国の都道府県と全ての市区町村が真面目に検討することの必要性を感じています。

長文失礼しました。
道草クー太郎
2010/04/07 10:27
道草クー太郎さん、はじめまして。
興味深いコメントありがとうございます。

問題の発端をご存知ということは、関連エントリー(他所のものもでしょうか?)をお読みになっているわけですね。お恥ずかしい限りです(笑)。
このエントリーは、問題の発端から進んでしまったのですが、まだ未練を残していて(25条と9条を出すあたり)全体として解りにくものとなってしまいました。

で、発端の部分から言えば、

>沖縄米軍基地の移転先を全国の都道府県と全ての市区町村が真面目に検討することの必要性

これに寸分の異論もなく、日本のなかのオキナワ以外の地域も「観念」「理念」ではなく生活リアリティをもって基地問題を考えなければならないと思っています。またそういう政策をもたなければならない。日本全国オキナワと同じリアリティをもって米軍基地受け入れを考えることができれば、自分のこととして真剣に考えることができれば「米軍基地イラネー」という総意に達する気がしてるんですが、どうでしょうね。

それと25条の中心課題が「経済」ってのも、旧憲法の不備を補完するという発端からいけば、そうかもしれませんね。ただ文面から考えれば、また今後の時代背景により、やはりエントリーのような考えもできる気がしています。

今回のエントリーの主題と関連する部分で
戦前にくらべて「経済生活」と「精神生活」の区別をあまり持たなくなった。
ってのは興味がわきますね。
現実に昔は普通に使われてきたという「哲学」ってのも今じゃ、ほとんど聞かれませんしね。やはり「精神生活」ってのは、経済(金)次第なんだろうか? そうじゃなくて、何かが違うと思いたがっている自分がいるんですが、、、

長文はかまいませんよ。
毒多
2010/04/07 15:26
 えーっと某共産市議とのやり取りからヲチしておりました。毒多さんの突っ込みは彼(というか共産党員、というか政治家全般)の虚を突いていたと思います。

>「米軍基地イラネー」という総意に達する

 「国の安全」を言うなら国民全てがそれと引き換えのリスクを負ってしかるべきです。責任ある主権者には是非ともそういう地点に立って考えて欲しい。政府が内々に移転先を策定している現状は主権者全体を責任曖昧な位置に置き去りにするものであり、沖縄問題の解決には繋がらないでしょう。

 ちょっと修正ですが、前回の書き込みで「沖縄問題」が日本人総体にとっては「理念」の問題に留まっていると書きましたが、これは「理念」というより「観念」と書いた方が良かったですね。「沖縄の人は気の毒だね」という傍観的観念を「理念」とまでは言えないでしょうから。

 「人はパンのみに…」という言葉を引いたように、理念自体の持つリアリティを私は信じています。共産党の人も一応理念は掲げていますが、それが語り手自身の血肉になっていないのか、そもそもリアリティ希薄な理念だからなのか、国民に訴える時には後ろに引っ込めて経済主義に傾斜することが目立ちます。その経済主義も算盤勘定がいい加減だったりして(笑) 絶対的貧困の時代なら支持を集められたでしょうが、現代では不信を買うことすらあると思います。
道草クー太郎
2010/04/07 17:39
>某共産党市議とのやり取りから、、
おお、発端前からですね(笑)。まあほとんどレスは頂けなかったんですけどね。

>「米軍基地イラネー」
「国の安全」を脅かされる恐怖、ってのは国民はリアリティをもっているのでしょうか? ワタシなどブログ界隈でも「平和ボケ」とか言われますが、じゃあ、そう発言する人はリアリティがあるのか?疑問です。どうも、「国の安全を脅かされる」と国民が思い込でもらった方が得をするヤツラの暗示にかけられている気がしています。
という状況の中、「日本国じゅう全ての地域に米軍基地を」で、リアリティのない「国の安全」とリアルな「基地の弊害」を真剣に考え始めた国民の選択は予想がつくと思うんですね。
現実にもアメリカの手先となっているほうが「国の安全を脅かされる」ことに気づくはず、、、というと私見になってしまうので、、、「国の安全を脅かされる」可能性を真剣に考え始めるはずです。

>「人はパンのみに…」
聖書ですね。この後は「よって生くるに非ず」、、、米だって、いや肉だって食いたいわい(すみません、オフザケはつい性癖で)、、ではなく、神の口から出る一つ一つのことばによっていきる、、、でしたっけ? おおお、「ことば」、、、でたなぁ!!「言葉」はこのブログのテーマでもあります。おそらく聖書(キリスト教)でいう「神」はマジ「神」なんでしょうね。「神の口から出る一つ一つの」を省いても深いなぁ。いや、神の口からでない言葉は「ことば」じゃないって言ってるのか? ああ、際限なく妄想が広がってしまう。また考えたいと思います。
毒多
2010/04/08 08:39
>「理念自体の持つリアリティ」というのは、難しい言い回しですね。
理念というのは、現在未到達であるもののどこまでも具現化を目指すもの、とワタシは思っていました。憲法前文なんかワタシの好きな「理念」です。(ちなみに25条を妨げる要因が経済だけじゃなく戦争もあると思ったもこの「前文」(理念)ゆえです。)
この「理念の具現化」が「生きること」「血肉化されること」ってのでいいと思っていたのですが、到達されちゃったら「生きること」がなくなっちゃうじゃないか、と思ったのがこのエントリーです。まあ到達されることはないのでしょうが、と言っちゃうと「理念の具現化」を真剣に考えず「理念は理想」(ご指摘の政党の理念みたいなもの)となってしまい「生きること」とは遠くなってしまう気がする。

などと書いてますが、こうした考ことは個々が考えることなのか、どうかも非常に悩ましい。

政治とはなんでしょう?
とりあえず「全ての人に健康で文化的な生活を保障する」ことなのでしょうか?
それとも「人類が理念(例えば憲法前文のような)の具現を目指す」ものなのでしょうか?
取り敢えず、前者でのち後者なのでしょうか? どちらも期待できない現状では虚しいk切りなのですが。

分かりにくいレスですみません。


毒多
2010/04/08 08:39
ま〜た毒多さんにいじわるだと言われるな、と思いつつ

>沖縄米軍基地の移転先を全国の都道府県と全ての市区町村が真面目に検討することの必要性

>>これに寸分の異論もなく、日本のなかのオキナワ以外の地域も「観念」「理念」ではなく生活リアリティをもって基地問題を考えなければならないと思っています。

クー太郎、毒多さんおふたりの“真面目さ”はよくわかりますが、これこそ「机上のバカ」(失礼!)ではありますまいか。


“考えなければならない”

ええ、それは確かにその通りです。理性に従うなら、私もそこに異論はありません。ですが感情に従って申し上げるなら、

“真面目に考えたくない”

というのが、真面目な答えでしょう。

考えなければならない。そしてリアリティをもって「引き受け」なければならない。それは確かに正論です。その正論を自ら進んで引き受けるというのなら、結構です。大いに賞賛に値することです。ですが、その正論を、自らが引き受けるからといって他人に強要することは出来るのでしょうか? それがたとえ理性に従えば正しいとしても?
愚樵@出戻り
2010/04/08 13:25
敢えていいましょう。米軍基地は日本に必要です。少なくとも過去においては。

その必要性は、日本国の防衛という意味においてだけではなくて、25条が謳う理念の実現においても、です。

これだけでは誤解されそうですね。それは日本がアメリカの核の傘の下にいたから経済的に繁栄することができた、というだけのことではありません。米軍に象徴されるような世界秩序があってこその日本の繁栄であり、その結果としての曲がりなりにも日本国民の“健康で文化的な最低限度の生活”が維持されてきた。この「世界秩序」は、軍事経済あらゆる要素を含んだ総合的な結果です(平和憲法の堅持もその一要因ではありましょうが、あくまで一要因です)。
日本国民の豊かな生活も詰まるところ、世界秩序を維持している「権力」があってこそ。私たちはその「権力」を一方で“当たり前に”享受し、一方では忌避している。その矛盾が現実の問題として立ち現れているのが沖縄なのだということです。

下世話に言えば、本土は「権力」の美味しい部分だけを食べ、その糞を沖縄に押しつけているわけです。

>「国の安全を脅かされる」と国民が思い込でもらった方が得をするヤツラ

といった存在がいることは間違いないでしょうが、しかし私たちだってその「おこぼれ」には与っていることには違いありません。
愚樵@出戻り_その2
2010/04/08 13:57
さて、ここからがいつもの愚樵節になってしまいますが...σ(^_^;


「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が存する

と考えるは理性的です。これは

>現在未到達であるもののどこまでも具現化を目指すもの

である理念が具現化されたという意味で理性的なのですが、その具現化は「権力」の助けなしには実現しなかったものです。

「権力」があれば必ず日向と日陰ができます。なぜなら「権力」はつまるところ搾取だからです。が、理性は理念の実現を目指すがゆえに、理念が要請した「権力」によって生じる影には目を瞑ってしまいます。そして理念が具現した日向はその「権力」も含めて“当たり前”とし、日陰の部分だけを“別の”“非理性的な”「権力」によって生じる問題だとしてしまいます。
(こうした“理性的態度”を私は感情的だと思いますが、そう主張するとおそらく感情的な反撥を喰らうでしょう。)

>>沖縄米軍基地の移転先を全国の都道府県と全ての市区町村が真面目に検討することの必要性

というのが、その“理性的態度”というやつです。

こうした“理性的態度”を理性的に考えれば、それは理性の自己矛盾としかいいようのないものです。にもかかわらず、その自己矛盾が見逃されてしまうのは、「理性的であること」が善であると“感情的に”思い込んでしまっている、つまり「理性信仰」があるからです。
って)浮上するだけです。
愚樵@出戻り_その3
2010/04/08 14:44
(「その3」の

>って)浮上するだけです。

は、カットし損ないです。見にくくててスミマセンm(_ _) )


“考えなければならない”“引き受けなければならない”といった理性的態度が他人に強要されることになるのも、「理性信仰」のなせる業です。

つまり「理性=権力」という構図になってしまっているわけですが、それでは問題が解決するはずがありません。なぜなら「権力」は所詮は搾取だからであり、搾取される方は感情的に反撥するに決まっているからです。たとえ一時は解決したように見えても、また別のところで別の問題が(おそらくはより大きな問題となって)浮上するだけです。
愚樵@出戻り_その4
2010/04/08 14:46
愚樵さん、おはようございます。
で、しかしなぁ、、、愚樵さんのコメントってのは、「理性」を牽制しながら理性的なコメントをしてて、オイラは感情を刺激されて感情的なレスをしてしまいそうになるのだけど、感情的なレスをすると褒められるかといえば、きっと非難されて、会話にならず、かと言って理性を働かせたレスをすると、「あんたは理性だ」と言われればどうすりゃいいのさ、花曇り、、、って感じで弱っちまうんだけどなぁ(笑)

ま、気の向くままにレスしましょ。
オノレらは、「権力」の恩恵をうけながら「権力」を批判するのは、おかしいんじゃねぇか、って言っているなら、そうかもしれない。こういうときばかり、だって無力な一市民だもーん、ってのも通じないかな?
で、どうしよう? 散々、権力のお世話になってきたんだから口をつぶりましょう、ってことを言ってるなら、喧嘩をしてもいいんだけど、そうでもなさそうだしなぁ。ここはご推奨の「感情」に走って、都合の悪いところは知らぬ顔、非難できるところはしましょうか?爆!!
毒多
2010/04/09 08:33
愚樵さんが言うのは、市民運動時代からずっと思っていたことだけど、自己矛盾の釈明がめんどくさくて言わずにいたことなんだよね。
でもやはり、誰かにウンコを押し付けといて健康で文化的な生活に甘んじるのをやめる時期にきてると思うんだよね。オキナワにうんこ、日雇いにうんこ、子どもにうんこ、女性にうんこ、、、ってさ。
世界的に「これまでの世界秩序をベースにした発展の仕方の総括」をするときとちゃうのかなぁ? これまでの発展の仕方を継続しても破滅にむかうだけだしさ。と、僻地のブログで叫んでも虚しいんだけどね。それと正直にいえば、おのれの(裕福ではないけど)平凡な生活をを顧みなくちゃいけないのかもしれないけど。

>沖縄米軍基地の移転先を全国の都道府県と全ての市区町村が真面目に検討することの必要性

これを思ったのは、このまえ徳之島だっけ、チラッと米軍基地の移転先に上げられると、ソッコー島民の一致団結した移設反対行動がおきたでしょ。
あれ、すごいなぁ、と思った。きっと、全国の市町村をつぎつぎと名指しで移転先と指名してきたら、どこでも即反対運動がおきると思うんだよね。全国で押し付け合いになるのか、「イラネー」になるのか、何れにしても面白いと思う。感情的に理性的に真剣に考えなくちゃならない状況ってのは一度は必要だと思ったのさ。
……こういうのが権力の発想ってなら、それでもいいや。

毒多
2010/04/09 08:34
みなさんの難しい議論はすーっと飛ばして毒多さん流に肌感覚で書いてみる。

1)「市民運動なり自然保護活動をしているとき=生きる」、2)「留学する=生きる」、3)「一流企業に派遣研究員として勤務する=社畜みたい=ただ生活のために生きているだけ」

ただ単に3)は心を動かされるほどのことではなかったということなんだろうか?と思ったり。それとも私がとんでもないワガママなのかな?

>どこでも即反対運動がおきると思うんだよね。

そう思います?私は都会ではアヤシイのではと思っていたりします。神奈川県にはすでに基地がありますが仮にあれを拡大する話でも出た日には神奈川県民集会が出来る?ですかね?私は出来ないと思っています。「ウチは離れているから関係ないわ」「ムスメの家の隣にでも引っ越そうかしら」って言う人の方が多く出そうな気がします。この辺の人が自分の土地にそこまで愛着を持っているとはとても思えないんです。同様に千葉県民大会、東京都民大会、、、、想像しにくいですね・・。


さめ@疲労度200%
2010/04/12 00:34

さめさん、お疲れ様。
>1)「市民運動なり自然保護活動をしているとき=生きる」、2)「留学する=生きる」、
やっぱ、そういうもんなんかな、、、
ワタシには死ぬまで解んないかもと思いだしている。

それはそうと、
>神奈川県民集会(千葉県民大会、東京都民大会)が出来る?ですかね?私は出来ないと思っています。
うーむ、そうなんだ。すごく興味があるので基地移転候補に指名してみて欲しいな。
これは
「土地に愛着がある、なし」
「平穏な生活に愛着がある、なし」
「平和に関心がある、なし」
「すべては他人事」なのか
かな、単に白けているのか? それともリアリティの問題か?
東京がすんなり受け入れるなら東京にすればいいのに。
皇居をつぶしてさ。、、、とすると、別に意味で騒ぎになるかな?
じゃ、あそこ、築地の移転先候補っていってるとこ。

毒多
2010/04/12 08:49

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