毒多の戯れ言

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zoom RSS 「語られる内心のベクトル」…と受け手の構え

<<   作成日時 : 2010/01/21 08:16   >>

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 おそらく読んでくれてる方にもそろそろ飽きられているような気がしている。それでもまだ引っ張るか!? という思いもあるが、もうちょいだけ。
 「内心を語る」について、コメント頂いたすもさんが言うように「その都度確認する」という手もあるが、私的に「内心を語る」について基本的なラインを押さえておかないとその都度も確認できないこと、また本村さんの発言のようにその都度確認できずに世間(ワタシも含めて)を巻き込んで混乱することも多々あるので、この際もう少しずるずると引きずってみたい。
 で、今更ながらだが「内心」の辞書を引用しておく。

 内心:表に出さない気持ち。心のうち。心中。副詞的にも用いる。「―を打ち明ける」「―びくびくだった」
 
 皆さんにコメントを頂いたり愚樵さんにTBを頂いたりして、なんとなくワタシ自身のひっかかりが整理できてきたような気がする。「内心を語る」「内心を語るな」にいろいろな要素があり問題が混在していることがわかってきた。
 ここではTB頂いた愚樵さんのエントリーの「指向性=ベクトル」をワタシなりの理解で(と、言ってもおそらく)曲解しながら、さらには愚樵節風の図もパクらせてもらって整理していくとことにしたい(笑)。

画像


 もともと「一貫して……内心を語るな」と言われ、異常に反発を覚えたところから出発した思索だが、この反発がなにゆえの反発なのか漠然としていてハッキリしないまま、勢いで「内心を語れ」と言ってしまった。ワタシの肌感覚が反発したため出た「内心を語れ」は、愚樵さんがエントリーで引用している内田樹の文章で「身体を大切にする(身体に敬意を払う)」とも絡むような気がする。身体は外に吐き出したがっている「表に出せない気持ち」をカタルシス的に出した方がいいという意味合いの「内心を語れ」。つまり制度を始めその他の外的影響により「語るな!!と指令する脳」ではなく、吐き出したがっている「身体」に敬意を払い、語れとワタシの肌感覚が言わせたものだと思う。
 ここでの「内心を語れ」は、発話者自身のカタルシスを中心に考えているので、まだ受け手のことや、それから発生する問題を考えていない。そうカウンセラーが閉じ込められた内心を引き出そうとするのと同じ。受け手としてはそれがどんな内容であっても(内容の承服とは別に)頷いて聞くかたちになる。カウンセラーでなくとも友人の打ち明け話でも発話者を思いやり、頷いて聞くことはままある。本村さんの「殺したい」という語りも発話者本人の精神浄化としては必要だったと思う。これを図のベクトルAとする。
 他方ベクトルBは、カタルシス的な発話ではなく、また内田樹が言う「身体に敬意」ではなく「脳」の指令であり、内心を語りながら受け手を通し、(または受け手も含め)社会や政治に訴えることになる。
 「従軍慰安婦を強いられた女性の告白」を例にとって考えると、女性が「辛いという内心」を語るとき、全く同じ言葉を同じように涙ながらに語ったとしても、カウンセラー(親しい友人でもいいのだが)に語る場合はベクトルAとなり、集会で語る場合はベクトルBになる。「語り」のベクトルが変わってくるわけだ。
 前出の「水伝」「ルルドの水の喩え話」「靖国」・・・がベクトルAで語られるのかベクトルBで語られるかの判断によって変わってくる。同じ「水伝」「ルルドの水の喩え話」「靖国」・・・でもワタシが「語れ」と言ったり「語るな」と言った理由はここではないかと思う。よくある「靖国」の論争などベクトルAとベクトルBを混同して話がかみ合わなくなるのは、ベクトルの混同の例だろう。

 発話者の内心の吐露が独り言でない前提では、受け手がいる。愚樵さんのエントリーでは受け手の「構え」について言及していたが、「構え」ができたうえで、図ではフィードバックとして現してみた。
 ベクトルAに対してはフィードバックAのカウンセラー的「構え」が好ましいように感じることはさほど問題はないだろう。ときにベクトルAに対して論理性や科学的整合性(フィードバックB2)を返そうとする人がいるのは「構え」ができてないとなるのだろう。
 ベクトルBに対してはフィードバックB1(社会に還元すべきもの)、B2(発話者に還元すべきもの)、またはC(ゴミ箱にポイ)ということになる。
 フィードバックB1の場合に、例えば民主主義的な原則や科学的事実が必要になるのかもしれない。またアキラさんの言うリテラシーであったり判断するための教育の必要性も語られるのだろう。フィードバックB2はよくブログで行われるが、原則や科学的事実の確認作業をすることになる。ここで内心が挟まれると混乱しワケがわからなくなるのは、エントリー「内心を語るな…といわれても」で、管理人自ら実証済み。爆!!

 「ベクトルBという方向で語られた水伝という内心」のように、棒にも箸にもかからぬものはフィードバックCでいいのだが、ベクトルBとして届くものの実際は、現状の原則・科学的根拠だけで判断できないものもあり、結構複雑かもしれない。
 1.「気持ちは分かるが、原則的でない・科学的根拠がない」
 2.「気持ちも分からないうえに、原則的・科学的根拠がない上に公言は害悪である」
 3.「気持ちも分かり、原則的・科学的根拠もあり、社会でもしっかり確認すべき」
 4.「気持ちが分かり現状の原則にそぐわないが、法改正など必要かもしれない」

 おそらく、前半部の「気持ちが分かる分からない」など判断材料にならない、と言われるかもしれないが、「内心から端を発している語り」を前提にしているので、敢えて書いてみた。さらには4.のように、現状の原則にそぐわないが、その内心(気持ち)に普遍性(真理)があり、それに沿って社会も変えるべきではないのか、というケースもあり、やはりベクトルBの場合にも「内心を伴ない」語ることは大切にしたい。

 さて、内心の語りとしてベクトルAとベクトルBと分けたが、現実はそれほど単純なものではないだろう。本村さんの場合はどちらになるのだ、ということだ。これをベクトルCとした。


画像


 もともと無垢な叫びとしてカタルシス的に語られるべき語り、つまりベクトルAだったものがマスコミ(社会)を通過するにあたり、ベクトルBに変えられたもの(愚樵さんが商品化と言ったもののことか?)。これはマスコミの策略もあるのだろうが、いくらマスコミが工作をしても、マスコミを通じて本村さんの語りを聞いた受け手全員(何千万人かな?)が全員ベクトルAに対しての「構え」、フィードバックAを行えば何の問題もなかったのだろう。ベクトルAであるはずのものがベクトルBにねじ曲げられ、フィードバックB1として返したものが多数いたことに問題が発生する。ただ、ベクトルBの方向へねじ曲げられて全体としてベクトルCになるだけではなく、多数がフィードバックBをすべき社会的問題と受け取る要素であるベクトルA的な内心の語りはよくあることではないか?
 「カルデロンのりこさんの無垢な叫び」
 「派遣労働者の無垢な訴え」
 「移植する心臓をくれという無垢な願い」
 「天災により被災し助けてくれという無垢な声」

 受け取るワタシは、フィードバックAという気持ちはあるが、発話者と面識のない現実においてはその要因をつくった社会を変えよう(あるいは変えるべきではない)という声を還元する。法的な変更であったり、人為的な災害の指摘であったり……。つまりベクトルCも結果的にベクトルBとなり、ベクトルBの場合と同じ「構え」が必要になるのだろう。よってフィードバックBか、もしくはCを判断することになるわけだ。
 フィードバックC でポイとなるものが、フィードバックBとして肯定的に還元しようとする声をきくが、これは内心を語る側の問題もさることながら受け手も「構え」の問題が大きのかもしれない。フィードバックCがフィードバックBになる危険性を考えると、いっそ「内心を語るな」と言いたくなるのかもしれないが、これは本来「受け手の構え」を問題にするべきだと考えるし、「内心を語る」ことにより本当に社会に還元されるべき問題が我が身として考えられるという点において「内心を語れ」と言いたい。

 まあ、なんとなくだが、「語られる内心」のベクトルを見抜き、受け手としての構えをしっかりもち、適切なフィードバックをすればいいのではないか、という在り来りな結論を提示しておこう。爆!!


 どうでもいいのだが、実はベクトルDというのも考えた。
 ベクトルCの反対向きで、ベクトルB(公)を装いながら社会的でもなんでもなく、実はベクトルA(のひとつの要素である私的な満足を得る)ってヤツ。よくあるわな。そんな時はフィードバックC、、、ダスト、ということで、よろしく哀愁(笑)。

  
 

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タイトル (本文) ブログ名/日時
『内心を語るな』(阿久根市長発言を考える)
『内心の自由』は民主主義の(基本的人権の)根本原理であるが、『内心の自由』を絶対視する風潮が、現在の日本社会の混乱と精神的な荒廃を招いたのではないか? ...続きを見る
逝きし世の面影
2010/01/21 09:54
石井ふく子演出にひと言
■石井ふく子が気に入らないなら何が良いのかというと、言うまでもなく小津安二郎のような極限まで抑制された演出だ。見るものの感情移入を特定の感情表出の形へと強制するような演出は評価できない。受け手による解釈の可能性を最大限に残しながら、演出家の意図が何であるかについては正確に伝えるといった演出でなければダメだ。 特にそれが日常生活のような誰もが体験する状況を題材としている場合にはそうだろう。誰も体験し... ...続きを見る
愛と苦悩の日記
2010/01/22 14:59
内心は「無」である
dr.stoneflyさんがまたもや「内心について」のエントリーをあげておられます。それを受けて、思うところをいくつか雑然と並べてみることにし... ...続きを見る
愚樵空論
2010/01/22 21:36

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コメント(29件)

内 容 ニックネーム/日時
dr.stoneflyさん。このまとめは内心が発信された後のことでは実に良く出来ていると思いますが、
発信者の内心が出来上がる過程に対しては何も考えてはいず、何の配慮もありません。
内心が極限定された範囲(その内心を共有する程度の範囲)の内輪の話なら何の問題も無いが、広く社会に対して発信された場合には、影響力に応じて当然社会的な責任も生まれてくる。(内輪なら内心→内心となるので誰も他のものには関係ない。)
ここでの話は一応社会的に広く発信された内心の話に限定しますが、
個人の内心が形成される段階で、何らかの客観的な事実が元になっているのですが、客観的事実Aに対して個人的な意識『a』が出来上がるが、社会全体にとってA=『a』であれば問題は生じない。
『a』の内心ならば客観的な科学的事実の裏付けがあるので社会全体の多くの人に共有出来るのです。
ところが客観的存在のAを見ても科学的事実から遠い『b』や『c』だと思う人も要るので話が混乱するのです。
与那国島の海底の岩を見て巨大遺跡痕跡だというのもあるし火星の衛星写真の中に人の顔を見つけて宇宙人の遺跡との考えみたいな『e』『d』話も有るが、『何を考えるか』(内心)はどれ程の意味があるのか。?
誰かが『何を思ったか』は大事ではなく、事実Aとの距離こそが何よりも大事ではないのだろうか。?
逝きし世の面影
URL
2010/01/21 12:01
初めまして。話に割り込んで申し訳ありません。

>逝きし世の面影さま

「事実Aとの距離こそが大事」、これは否定しません。
しかしその一方で、発生した事実が個々の受け手に極端に異なった心証をもたらす事例(レイプやDVなど)がありますよね。
しかもこういった事例では、当事者にしか事実が明らかでなく、加害者が事実の隠滅を図るケースもある。
ことの善し悪しは措き、結果的に事実の検証よりも「受け手側の内心(リアクション)」が先行して顕在化せざるを得ない場合もあるわけで、それを無視できるかというと、そうでもないのではないでしょうか。
発信者も受信者も、否応なしに他者の内心と向き合わざるを得ない、と言いますか。

話は変わりますが、阿久根市長発言にしても、つまるところ科学的事実より解釈(心証)の問題だと思うんですよ。
私のごく親しい身内が重度障害者だった(既に死去)のですが、彼の発言に特に反感は感じませんでした。批判が起こるのは容易に想像がつきましたけどね…。
黒い時計の旅
2010/01/21 17:50
死・セックス・排泄など人間の身体に触れる内心の発露(いや、表現そのもの)には、個々の共同体によって形は違うのでしょうが禁則がかけられてますよね。

阿久根市長のケースは、どちらかというとその「禁則」に触れたために嫌悪や反発を招いたのでは、と感じます。
彼が具体的な数値を挙げて、先端医療(救急救命ふくむ)による後遺症の発生率や重度障害者の生存率を、一切の個人的な所見を加えずにブログに掲載したとしても、それでも彼は批判を受けた可能性は、あると思います。
能動的に内心を語らなくても、受け手の心証により、記載されていない掲載の動機(内心)をそんたくされることもあり得るということ。

下手くそな文と、とっ散らかった論旨で、すみません。
お邪魔致しました。
黒い時計の旅
2010/01/21 18:34
TBありがとうございました。
こちらから一度TBさせてもらったんですが、通らなかったようです。
一応こちらのHNにリンクさせてもらいますね。

発話者がどのようなつもりでメッセージを出したとしても、「受け手の構え」でもってどのみち料理されてしまいますよね。
「○○変換」ってありましたね、以前。
やっぱり、結局は「受け手の構え」問題かな・・と。
僕が考えると、どうしてもそういう問題になってしまうようです。 (^_^;)

ですので、
「受け手としての構えをしっかりもち、適切なフィードバックをすればいいのではないか」
という、dr.stoneflyさんの「在り来りな結論」に同意です。 (^o^)
「発話者の構え」をうまく感受できるかどうか・・が、「受け手の構え」ってことになりますよね。
だからこそ、「受け手の構え」が固定的ではあまり意味を成さないんでしょうね。

ちなみに僕は、エントリー『「内心を語れ」…と敢えて言いたいのだが』での人生アウトさんのコメント5連投(2010/01/18 04:09〜)の「物語り」に、感動をおぼえました。
スゲえ!と思った。


>逝きし世の面影さん

「内心」を語っているものに対して、
【『何を考えるか』(内心)はどれ程の意味があるのか。?】
というのは、その疑問自体に意味がないように思います。
語られてるのは「内心」なんですから。 (^_^;)

「社会的に広く発信された内心」に関して、それと客観的事実Aとの距離がどの程度か・・ということは、発信された「内心」の持つ説得力を計る基準の一つとはなり得ると思います。
けれど、「事実Aとの距離こそが何よりも大事」というのは、逝きし世の面影さんの趣味だと感じます。
アキラ
URL
2010/01/21 22:18
「語られる内心」のベクトルを見抜き、受け手としての構えをしっかりもち、適切なフィードバックをすればいいのではないか、という在り来りな結論

>やっぱり、結局は「受け手の構え」問題かな・・と。

という結論には私は半分同意なんですが、半分は同意できません。

この結論の前提には“私が構えを決めることができる”という「構え」があると思うんです。またさらにいうと、“「個」はすべてパブリック”という民主主義の原則も、この「構え」が前提になっている。また実際、人間はこの「構え」を実行に移す意志も持っている。

で、この意志こそが実は厄介者ではなかろうかと思うわけです(ですので、“『内心の自由』を絶対視する風潮が、現在の日本社会の混乱と精神的な荒廃を招いたのではないか?”という面影さんの疑問提起に同感です)。

私はこの「構え」を違うなと思うのですが、それは、この「構え」はあくまで脳の意志であって、身体の意思とは必ずしも一致しないと思うから。個々人の恣意性が脳の意志から発生するとするなら、身体の意思に耳を傾けることができる人は、脳のもたらす恣意性から自由になっていることになるのではないかと思うのですね。
愚樵
URL
2010/01/22 06:55
黒い時計の旅さんの、
>彼が具体的な数値を挙げて・・・・一切の個人的な所見を加えずにブログに掲載したとしても、それでも彼は批判を受けた可能性は、あると思います。<
は、全く同意見で今度の問題の本質的なものを突いているでしょう。
あの市長は『辞めてほしい市議』だとか市職員個人個人の給与明細などをブログに掲載して当該の当時者たちを怒らせているが、市議や市職員は市民全体から見れば極小数なので、幾ら当事者からは顰蹙をかっても多くの市民からは支持を集めて市長に再選されている。
このやり方は小泉元首相や橋下大阪府知事などが常用したあざといやり方ではあるが、困った事に叩かれた当事者以外には大人気なわけです。(橋下知事支持は80%)
この現象を見るに付けdr.stoneflyやアキラさんなど善良な良識人の個人個人ばらばらの人々とも『内心を共有したい』『内心を大事にしたい』との『美しい内心』と現実との間には大きな乖離があり政治の世界では誰でもが持っている個人の自尊心(内心)を正面から傷つけ踏みつけにする政治家(小泉や橋下)が大衆からは拍手喝采される構造になっている。
逝きし世の面影
URL
2010/01/22 11:15
アキラさん、話の前提条件抜きは駄目でしょう。
内心→内心となる様な誰も他のもの(部外者)には関係ない内輪の話ではなく、。(内輪なら内心→内心となるので誰も他のものには関係ない。)

>ここでの話は一応社会的に広く発信された内心の話に限定しますが<
内容的にも内輪の身内だけに関係する話(内心)ではなく政治、経済、軍事、科学などの様な広く社会的な個人の行う問題提起を論じています。
この場合には、誰かが『何を思ったか』は大事ではなく、事実Aとの距離こそが何よりも大事になってくる。
個人の趣味を論じているなら客観的事実からの距離などはさほど重要ではないが、会話の内容では最重要になってくる。
極個人的な私人の内心の吐露であったとしても、(広く一般に公開されているブログの場合には)語る対象が政治経済社会軍事などすべての人が関わる大きな問題でる場合にはメディアの報道のミニサイズで、同じような問題が生まれてきます。
誰かがどの様に思ったか以前に、客観的な科学的事実と合致しているか如何かが当然問題となってきます。
逝きし世の面影
URL
2010/01/22 11:46
アキラさんの、
>「内心」を語っているものに対して、
【『何を考えるか』(内心)はどれ程の意味があるのか。?】
というのは、その疑問自体に意味がないように思います。
語られてるのは「内心」なんですから。 (^_^;)<
何かは『内心であれば一切の他からの否定的な批判は不用』の様な、問答無用の内心至上主義みたいな話ですね。それでは内心→内心の間をぐるぐる回るだけで内部だけで完結していて、論理の根本が>『語られてるのは「内心」なんですから』では殆ど意味を成していません。
何故それほど御自身(あるいは対話相手の)の内心(何かに対する考え)の無謬性に自信があるのか、?
多くの人は自分が見たいものを見て、見たくないものは目の前にあっても見えないものです。
『自分の目で確かに見た』としても其れが真実であるかどうかは軽々しく断定するべきではないのです。
幾らそれば本人の真摯な内心の吐露であったとしても、その『内心』が形成される前提となった客観的事実と乖離してしまった『内心』には本人以外の共感は期待できないのです。
逝きし世の面影
URL
2010/01/22 13:55
客観的な事実
客観的な科学的事実
客観的かつ科学的に証明可能な事実
客観的かつ科学的にすでに証明されている事実

いろいろあるなあ
naoko
2010/01/22 17:02
ずっと引っかかっていることがあります。
どこかの首長でも著名な文化人でもいい、彼(彼女)がこうブログに記した場合はどうなったろうか。

「先端医療の進歩により、以前であれば死んでいたはずの多くの子供たちが、障がい者として生きられるようになりました。大変喜ばしいこと、素晴らしいことです。」

これが、身体的なハンディキャップは不便を伴うかも知れないけれども決して不幸ではない。生命はあまねく尊厳を持ち、生きることは素晴らしい…という内心から発せられたメッセージであったとしても、やはり批判は起きたのではないかと。

事実には予め特定の価値観が付与される場合がある、ということに由来するものです。

身体や精神に関わる障害を例に取ると、「それに何らかの価値(正負は問わない)を付与する行為自体が不躾(非礼)である」という価値観です。

あまり阿久根市長の話を引っ張るのも芳しくないですけど、
黒い時計の旅
2010/01/22 17:04
承前(変なところで切れました)

個人的に彼の発言に反発を感じなかったのは、こんな考え方をするとああいった発言に対して「まあ牧歌的な死生観・障害者観をお持ちですね」くらいの感慨しか起きないんですね。

もちろん擁護もしませんが。
黒い時計の旅
2010/01/22 17:07
愚樵さん

頂いたコメントが原因不明のスパム扱いになっていました。気づくのが遅れました。大変申し訳ありませんでした。
dr.stonefly
2010/01/22 18:28
いえいえ。スパム扱いにしていただいたおかげで、新たなエントリーをあげることができました。dr.stoneflyさんのおかげです(笑)。

エントリーはTBさせていただいたので、またよろしければご覧になってください。いつもにまして強烈に愚樵節です。ガハハハ。
愚樵
URL
2010/01/22 21:38
>逝きし世の面影さん

話の前提条件を抜きにしてはいませんよ。
ちゃんとコピペで『「社会的に広く発信された内心」に関して・・』と写しましたし、そのように認識しています。

「客観的な科学的事実と合致しているか如何」は、当然問題となってくると思います。
それはその発言の説得力を計る、重要な基準の一つです。
しかし、その「事実Aとの距離こそが何よりも大事」というのは 逝きし世の面影さんの趣味だと思う、と申し上げているんです。
別に「何を思ったか」が何よりも大事だ、などとも申し上げてません。
そのへんも、当然「趣味」の問題になってくるでしょう。
僕自身は「受け手の構え」問題だと認識していますから。
「内心」は所詮「内心」でしょう?

「趣味」と言うと語弊があるかもしれませんので、「逝きし世の面影さんが大事にしてらっしゃること」と言い換えてもいいかと思います。
でも「趣味」とか「好み」とかの方がしっくりきますが。


それから、これは特に逝きし世の面影さんに対してではありませんが、「社会的に広く発信された内心」に関しても、ほかの問題と同様、公人の場合と私人の場合とをゴッチャにして考えてしまっては、分からなくなってしまうと思います。
キチンと分けて論じないとならないでしょう。
けれど問題は、結局「私人以上公人未満」のグレーゾーンなんでしょうけどね。 (^_^;)
どちらかというと、「内心」うんぬんの問題というより、このグレーゾーンをどう扱うかという問題のような気もします。
アキラ
URL
2010/01/22 22:13
>愚樵さん

身体の感受性、あるいは身体の意思も、ニュートラルなものではありません。
その人その人で独特の偏り方をしています。
ですから当然、ある同じ物事に対して、その独特の偏り方なりの感受をします。
その意味で、個々人の「恣意性」は身体の感受性・身体の意思からも発生していると、僕は思うわけです。
加えて、この身体の感受性をベースにしない「脳の意志」も存在しないと思う。
その身体の感受性なりの「脳の意志」の発揮をするように感じます。

僕自身は、その身体なりの独特な偏りを持って感受されたものは、「脳の意志」を差し引いたとしても、所詮ある種の「色眼鏡」を通して受けとっているものの一種だと思うわけです。
発し手の構えと受け手の構えが噛まない理由のひとつは、確かに「脳の意志」問題ですけど、そのほかに当然「身体の意思(感受性)」問題もあるわけじゃないですか。

問題は、何かを絶対視することなんじゃないでしょうか。
「脳の意志」にしても「身体の意思」にしても。
あるいは「神」にしても「普遍」にしても。
「身体の意思に耳を傾けることができる」ことによって、確かに「脳のもたらす恣意性から自由になる」という面は大きいと思います。
同時に、僕としては、やはり「脳の意志」による観察がないと、「身体の意思の偏り」に対して盲目的(無自覚)になってしまうとも思うのです。
アキラ
URL
2010/01/22 22:15
追記です。

ありゃ、でも、
『身体の意思に耳を傾けることができる』=『「脳の意志」による観察』
のようですね。 (^_^;)
そうなると、僕が述べたいものは、愚樵さんの仰っている「脳の意志」じゃないかもしれませんね。
なんだろう?

「身体の意思に耳を傾けることができる」ことによって、「脳や身体のもたらす恣意性から自由になる」道が拓ける・・・でしょうか。
アキラ
URL
2010/01/22 22:39
アキラさん

脳と身体とを区別したとき、私は脳の方が恣意性が高いと思っているんですね。というのは、脳の方が自由度が高いからです。身体は不自由なんですね。

たとえば首ですけど、自由になるのは左右90度くらいまでで、360度ぐるりと回転させることはできませんよね(笑) ところが脳だと、360度回転することを想像できてしまう。想像できてしまう分だけ自由です。

では、身体の不自由は不都合かというと、まあ欲を出せばきりがありませんが、不自由でも通常はそこそこ上手くやれるわけです。また、アキラさんは特に整体なんかをやられているからわかると思うんですけど、何か目的をもって作業をするときなんか、「これ、この体勢!」とかいったポイントがありますよね。こういったことも、実は不自由だからこそだと思う。不自由の枠内で自由に動き回りつつ、逆に不自由を活用できる。こういうのを「自由自在」というのだと思うのです。

で、この「自由自在」が身体だけで発揮できるかというとそれは無理で、それにはやはり脳の助けがいる。不自由を活用しようとする脳の意志がなければ「自由自在」にはなれない。人間ってそういうものだと思うんです。
愚樵
URL
2010/01/23 05:15
「内心を語る」という行為は、「私的」であれ「公的」であれ、コミュニケーションが目的ですが、私は特に「私的」コミュニケーションを「創発的コミュニケーション」といって重視していますが、その理由は、これが身体的だからです。

コミュニケーションに使用する言葉も、見方によっては「身体」ですよね。不自由の中に自由があり、それを使いこなし不自由さを追究する過程で、実はもともと言葉を発するきっかけだったはずの「内心」の方が変化、運動するんですね、人生アウトさんが指摘したように。こうなると、「内心」は果たして誰がどのように作るのかがわからなくなりますが、実際、私たちが「私の内心」と思い込んでいるものは、わけのわからないものでしかない。脳から考えるとわけがわからないけども、身体的にみると、「そのポイント!」というところで内心が定まっていくということがあると思うのです。

「我思うゆえに我あり」ではなくて、「我感じるゆえに我あり」。言葉は内心が作るのではなくて、内心が言葉を作る。だからこそ、おそらくこの一連のエントリーの発端になったのだと思いますが、「障害者として生まれてよかった」という内心も生まれてくる。この内心は、その障害者が自由だから芽生えたのではなくて、不自由であって、その不自由を追究したから生じたのだと思うわけです。
愚樵
URL
2010/01/23 05:47
発信者の公人/私人の差が往々にして問題視されますが、紹介登録制のmixiで私人が限定公開している日記(マイミクのマイミクまでが閲覧可、とか)の内容が第三者の手でネットに晒され批判が起きる事例は稀ではありません。

大概、こういうケースでは第三者のリーク行為が道義的に批判されることは少なく、(特定の受信者に向け私的に発言した筈の)発言者が批判されるわけですが、発言者の発言が無差別にばらまかれることで、結果的に「公人化」されてしまうという状況があります。
私が書いているのはネット批判では全くありません。
そのような形で積極的にネットを使うコミュニケーションが現にあり、そこでは私人が恣意的に公人化(有名な私人)されたりもすると。

これはペシミズムによるコメントでは、ありません。
黒い時計の旅
2010/01/23 13:19
最後に。

dr. stoneflyさま、いきなりお邪魔致しまして、好き勝手なコメントを投稿し、すみませんでした。
エントリのテーマからズレる稚拙な発言ばかりになってしまいましたこと、何卒ご容赦ください。

谷崎の『文章読本』に、古人はおのれの意見を直接的に表すことをはばかったので、歴史上の人物などの言葉を借りて、婉曲に自分の気持ちを表現した〜といった主旨の文がありました。

これは単に謙譲とか含羞とか美意識とかに起因する行為ではなく、本エントリのテーマに関わる類の話なのだと思います。

以上です。
お邪魔させて頂き、ありがとうございました。
黒い時計の旅
2010/01/23 13:50
黒い時計の旅さん

ご挨拶が遅れましてすみません。
いえいえ、お邪魔だなんて少しも思ってませんよ。
とても考えさせられるコメントを頂きありがたいと思ってます。

>「先端医療の進歩により、以前であれば死んでいたはずの多くの子供たちが、障がい者として生きられるようになりました。大変喜ばしいこと、素晴らしいことです。」

など、うーん、と唸ってしまいました。
肌感覚は何かが違う、と言っているんですが、何が違うか分かりません。また考えたいと思ってます。

最後になどとおっしゃらず、内心を吐く、ある面牧歌的なブログですが、よろしければまた遊びに来てください。
dr.stonefly
2010/01/23 16:58
アキラさん、何か話が噛み合っているようで全く噛み合っていないようです。
『内心』が発信された後の話ではdr.stoneflyの今回のまとめは実に良く出来ているし、勿論アキラサンの発言に対しても異論を出している訳ではないのですよ。
私が今回問題にしているのは、その前段階の話なのです。その内心はどうして形成されるに至ったのか。?を問うているのですよ。
何にも無しで『内心』は出来上がらない。内心にとっての因果関係の話ですね。これが一番大事ではないかとの問いです。
逝きし世の面影
URL
2010/01/23 17:21
>愚樵さん

仰っていること、よく分かります。
僕は脳にしろ身体にしろ、「不自由であること=恣意性」というように理解しているものですから、愚樵さんとは逆の認識でしたね。
そのへんの認識の違いがあったようです。

>やはり脳の助けがいる。不自由を活用しようとする脳の意志がなければ「自由自在」にはなれない。
 ・・・・・・・・・・・・
 コミュニケーションに使用する言葉も、見方によっては「身体」ですよね。
<
そう思います。

そうなると問題は、双方向のコミュニケーションが成り立ちにくい場合、つまり多くの「ベクトルB(正当化)」のときにどうしたものか・・という話のようにも思います。
愚樵さんの記事の方の流れで、考えた方がいいかもですね。
アキラ
2010/01/24 08:31
>逝きし世の面影さん

はい、お互いの主張するところでは噛み合っていませんが、認識のレベルでは噛み合っていると思います。

逝きし世の面影さんは「社会的に広く発信された内心」に関して、「その内心はどうして形成されるに至ったのか。?」を問題にし、「客観的な科学的事実と合致しているか如何」を重要視されます。
「ベクトルB」に対する「フィードバックB2」ですね。

僕の方は、「受け手の構え」問題として捉えていて、受け手のリテラシーを重要視します。
つまり、「ベクトルB」に対して、各々適切と思われるフィードバックができる状況があれば それでよいだろう、という立場です。
もうちょっと極端に言えば、適切に「フィードバックC」(ゴミ箱へポイ)ができるリテラシーがあればいいだろう、という立場。
これが適切に出来るのならば、「フィードバックB1」も適切にできるのではないかと思うからです。

「内心」は「ベクトルA」でも「ベクトルB」でも、ほかの誰がどう思おうが・主張しようが、発信されたいように発信されてしまいます。
近代民主主義的な社会だからです。
僕はこれは不可避だと思っています。
ですから まずは、「受け手の構え」問題、受け手のリテラシー問題だと考えている次第です。

このへんの差があるでしょう。
もちろん先に挙げた「公人・私人」問題は、また別の問題です。
アキラ
2010/01/24 08:59
アキラさん
ワタシの感覚もアキラさんに近いなぁ。というか、言いたいことはほとんどアキラさんに言われてます(笑)。
やはりワタシも「受け手の構え」が重要だと思います。ワタシ自身は
>個人個人ばらばらの人々とも『内心を共有したい』『内心を大事にしたい』との『美しい内心』
という構えではなく、厳しく構えてますけどね(爆笑)。
ただ内心の発露が、アキラさんのいう「近代的民主主義により不可避」というだけでなく、発露された「A」という内心が、現実的常識や通念と離れた「b」や「c」であったとしても、そこに「ほんとうのこと」は無いだろうか?を感じ取る「構え」はもっています。

アキラさん、 愚樵さん
そも「身体的」ってのは、科学的証明がされているものなのでしょうか?(なんちゃって)、、、 「脳」が指令を出して身体の各部を動かすとかは聞いたことがありますが、、、。ただね、やっぱり「身体的」ってのが面白くて、「ほんとこと」を感じ考えています。そもこのブログの初期から宣言しているように、このブログ、今回はワタシの構えとしときましょう、、ワタシの構えは「肌感覚」なんです。もう直感的「フィードバックa」か「フィードバックB1」か「フィードバックB2」か「フィードバックc」を感じ取っている。むしろ脳的な理由付けをあとから付ける。ってこんな感じです。これは「身体的」って言えるんですか(笑)?
dr.stonefly
2010/01/24 11:07
再び、アキラさん
「私人」「公人」は別問題といいますが、(どこからが「私人」どこからが「公人」という問題もあるのかな)、ワタシは関係なく「内心を語って」いいと思ってますよ。特に政治家などの公人は「内心をしっかり語ってもらい」淘汰されるは淘汰されるべきなんです(もちろん人間としての淘汰ではなく、政治家として淘汰ですが)。そうです、語られた内心のみにあらず、その公人としての地位もフィードバックCです。

それにね、語られた内心がトンデモの「b」「c」だとしても、アンチとして「ほんとうのこと」を思索する機会になることはよくありますからね。
dr.stonefly
2010/01/24 11:07
dr.stoneflyさん

やっぱり何となく感覚が似てるんでしょうかね。 (^o^)
僕の意見を少々補足しますと、リテラシーが上がってきたとしたって、いつでも適切に「フィードバックC」(ゴミ箱へポイ)できるというのもなかなか難しいわけですから、「とりあえずは保留にする」というリテラシーがあればいいだろう、という立場ですかね。

「身体的」ということが、科学的に証明されているものなのかどうなのかについて愚樵さんにお任せすることにして (^o^)、、、
dr.stoneflyさんの言う「肌感覚」は、僕は「身体的」だと思いますねぇ。
身体的に「ピンとくる」・・というようなことだと思います。
あるいは、身体的に「ピンとこない」とかも。

そうして僕自身が大事だと思っていることは、その「身体的にピンとくる」のを、このピンときたのはどういうことなのか?とじっと見つめる・・という作業です。
これがないと、単なる反射的な反応にすぎず、自分の持っている脳や身体の無自覚な「偏り」(僕の言う恣意性)には気がつけないからです。
愚樵さんの言う「自由自在」への道は拓けないと思うんですね。
また そうでないと、「フィードバックB1」(社会へ還元)を適切にはできないようにも思います。

というようなことを思ってるもんですから、dr.stoneflyさんのブログは好きなんですねぇ。(笑)
アキラ
2010/01/25 09:10
追記です。

感覚が似ているというよりは、「趣味」が似ていると言うべきか・・ (^o^)
アキラ
2010/01/25 09:21
dr.stoneflyさん、アキラさん

>そも「身体的」ってのは、科学的証明がされているものなのでしょうか?

証明はされていないでしょう。あくまで仮説ということで(笑)

>「脳」が指令を出して身体の各部を動かすとかは聞いたことがありますが

とある本に記述してあったのですけど、脳の機能というのは「回転」なんだそうです。情報の回転。

感覚→脳→身体→感覚→脳・・・という具合に情報を回していく。脳は情報循環過程の中の分岐点で、その「分岐」が「指令」にあたるというわけです。
(理性とは、時には意識下で時には無意識に行われる「分岐」を全て意識下に置こうとする意志のことだといっていいかもしれません。)

さて。この「分岐」ですが大まかに分けて2つあると思うんです。1は「内部身体」への分岐。2は「外部身体」への分岐。2は通常の意味での身体。1は要するに言葉です。

「考える」という行為は、情報循環という視点から見ると、感覚→脳→言葉→感覚・・・ということになるわけですが、ここで言葉は内部身体、つまり脳内の身体ですから、「脳的」ということになる。感覚→脳→身体→感覚・・・が「身体的」ですね。

で、アキラさんのいう

>その「身体的にピンとくる」のを、このピンときたのはどういうことなのか?とじっと見つめる・・という作業です。

というのは、脳が行う「分岐」(1へ行くのか2へ行くのか)を理性的に眺めるということになるのだと思うのです。
愚樵
URL
2010/01/26 06:23

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「語られる内心のベクトル」…と受け手の構え 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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