毒多の戯れ言

アクセスカウンタ

zoom RSS 「内心を語れ」…と敢えて言いたいのだが

<<   作成日時 : 2010/01/13 17:02   >>

ガッツ(がんばれ!) ブログ気持玉 9 / トラックバック 4 / コメント 28

前のエントリーのコメ欄では、感情によってコメントしてしまったので冷静になろうと2日程ブログから離れていた。ブログに戻り、多くの意見を読むのに1日かかり、どうコメントしようかと考えているうちにさらに1日かかった。そうしているうちに更にコメントを頂いて、すでに個別レスができる状態ではないうえにやたら長くなってしまったので新たにエントリーをたてることにした。正直な内心をストレートに書く。(いきなりの余談だが、過去にリアルで、やたら(内心だけが理由ではないのだが)凸撃しすぎたため、反省を込めてネットでは極力遜って書いているのだが、あまり遜って書くと馬鹿だと思われ、さらに話をややこしくしているのかもしれない、ということは感じ反省している。ちなみにワタシはコメントを頂いた方のメンタリティはコメントを読めば読み取ることができ、またこう書けば他者の内心を引き出せるだろう、の計算ぐらいできる。馬鹿ではない・・・と自分で言うのは馬鹿馬鹿しいのだが)

元々は「内心を語るな」を一貫して主張している、と言われたことが耳に障り、次のエントリーを書きあぐねたレベル、つまりいつまでも耳鳴りが続くとこのブログの死活問題であり「このブログの終焉つまりひとつの精神の死」という極めて危機感をもったレベルであったのだが、そうした個人的事情だけではなく「民主主義の原則」ということに絡めるのは思索する価値があると思い敢えてエントリーを挙げた。ちゃんと考えるべきことと見ぬいて、または感じ取って多くのコメントを頂いたと考えている。真摯に意見を頂いた皆様には感謝します。

ここでの始まりの内心は、「内心を語るな」の文脈で規定された「科学的根拠のないもの」「普遍性のない」(「プライベート」)と些か辞書的意味から離れたものであったが、それに加え敢えて辞書的意味や感情的内心も含めて振ってみた。当然のように「内心」とはなんだ、という話になってくるとは思ったのだが、コメント欄で皆さんによって、うまく整理してくれたように思うし、、、多くのコメントは一定条件を満たせば内心を語ることに異議はないと読め、それに同意したい。

ワタシについては(ワタシだけじゃないと思うが)、感情や自分だけの特殊な内心だけを吐露し続けても他者に相手にされない(されなくなる)ことは分かっていて、そんな内心は吐露しない。先のエントリーの出発点である、「内心を語るな」で規定された「科学的根拠のないもの」「普遍性のない」(「プライベート」)であってもワタシの思索を語り、読んだ方の内心を問いつつ共感を目指している。そうしたなかで「覚悟」や「思いやり」が必須なのは当然で、覚悟という点では、指摘され再考し間違っていれば謝罪し訂正する覚悟は常に持っている。強弁などして意地でも正当化しようとは思っていない。思いやりに欠けるという指摘があれば再考し、話しあい分かり合おうとする覚悟はある。(ちなみに「障害者でよかった」に健常者であるワタシが賛同を表すにあたり、別の障害者の方からの反発も想定していました。)

さて、出発点である「私が一貫して主張していることは社会的な制度や法律などを問題とするべきであり、民主主義の原則である個人の聖域としての『内心は語るな』」は、「政治ブログでは(危険物であるとの意識無しに)普遍性のない『内心』の扱いは慎重にならざるを得ないのです」に変わっているので、それならば認め受け入れるとして、このブログは「政治ブログ」ではなく時々「政治的なことも語るブログ」であるので、政治的なエントリーを上げるときには留意することにする。ただ、エントリーそのものではなくコメント欄で「今回規定された内心」を出して貰うことになんの抵抗も感じない。是非内心を語ってほしいい、やはり会話のダイナミズムもそこからしか生まれないと思っている。
だいたいが、もともと「政治ブログ」という旗揚げをしていない、とうのはズルイ言い方かもしれないので言わないが、このブログは読んでくれた誰かひとりだけにでも、それこそ内心に向け何か少しでも(それが科学的根拠の薄いほんの些細な勇気だったとしても)が贈与できればいいと思って書いている。そういう類のブログなのだ。

さてさて問題は、後者の「内心」である。つまり辞書的意味での内心や感情的な内心の吐露のこと。(ここは愚樵さんに問いたいのだが・・・)
民主主義の原則として、プライベート・実名での内心を語るな、に関してもあるめん納得しながら直感的に何かに引っかかったのである。頂いたコメントを読み進めるうちにハッキリとしてきた。特に依頼によって削除せざる得なかったコメントには端的に書かれていたのだが、社会によって(もしかして民主主義の原則によってかもしれない)内心を語ることを抑圧されている可能性。(極めて政治に近い部分を挙げるが)リアルで実名の人々、沖縄の怒り、従軍慰安婦を強いられた年老いた女性の苦しみ、望まないのに靖国に祀られている故人の家族の嘆き、世間からの襲撃に心も傷つけられる青カンの叫び、、、は民主主義の原則により語ってはならないものか!? ということなのだ。これにはワタシの内心が反発しろと言っている。
またこのブログではそうした声(内心)を聞き紹介してきた。民主主義の原則では語るな、といわれるこうしたプライベートな内心も紹介スべきではない、になるのだろうか?
冗談じゃない、ワタシは人々の内心を抑圧し蓋をすることなどできない。むしろ語って欲しいと思っている。「内心を語れ!!」なのだ。とは言え、恐らく語るのには想像を絶する覚悟がいると想像する。だから安易には言えないのだが、それでも「語るな」なんて言えない。
指摘があったように、語ったからすぐ社会が変わるものではないかもしれない。が、そんなことではないのだ。まずはただ聞きたいと思っている。他者が発する叫び(内心)を感じたいと思っている。ワタシの内心が呼応すれば紹介し広げなければ、と思うことになる。

ただ一度、ワタシ自身がこのブログで「内心を語るな」と言ったことがある。
学童保育の行政交渉、、一元化の説明会に関するエントリーだったかな。
極めてクールだったのだが、あれはなんだったのだろう? エントリーの性質上クールにならざる得なかったのかもしれないが、他者の怒りをセーブしたことは間違っていた。今更だが、謝罪しよう。申し訳ありません。
リアルの運動を離れ机上での思考ばかりをしていたからかもしれない。合意的に考えようとばかりしていたのかもしれない。ときにネットを捨てよ町へ出なければ、大切なことを見失いそうだ。内心、、、感性はリアルと真に触れわないと育たないものかもしれない。また離れていると麻痺していくものなのだろうか?
リアルな叫びと離れているうちに感性が麻痺してるのかもしれない。つまらないことである。警戒しなければと思う。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 9
ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!)
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス
面白い

トラックバック(4件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
正しい科学としての優生学(阿久根市長発言を考える)
何時も物議をかもす竹原 信一阿久根市長のブログ発言を擁護するという・・・何とも無理筋の話なのですが・・・・幾ら小さな田舎の一都市の市長とはいえ不味すぎる。 ...続きを見る
逝きし世の面影
2010/01/15 12:01
あなたにとって「日本の恥」とは?
「たかしズム」アンケート第二弾!! =============================================== 皆さんにとっての「日本の恥」とは一体なんでしょうか?忌憚のないご意見をお願いします。 =============================================== なお、このアンケートは無期限です。た.. ...続きを見る
たかしズム「ネトウヨ、バカウヨ、ネット右...
2010/01/16 00:18
今日のブクマ(2010/1/16)
1.ホンマタイムス : 続報 ホントに今更で大変恐縮ですが、ブログ開設おめでとうございます。 ・・で、コメ欄がすごいコトになってますが(笑)スティ−ブン・セガールと杉良太郎への言及に「さすが本間さん」と唸ってしまった(←ソコかよ!)確かに「新吾捕物帖」で杉良が見せ ...続きを見る
迎春閣之風波
2010/01/16 11:08
内心について〜「告白」と「正当化」
「内心」っていったい、何なんでしょうね? “困ったことになった”と自分自身に呟きつつ、困っていることを喜んでいる私がいまここにい&... ...続きを見る
愚樵空論
2010/01/17 11:35

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(28件)

内 容 ニックネーム/日時
やはり、「内心」を語ってこその毒多節・・・だと思います。

(簡単にひとこと。)
×第二迷信
2010/01/13 22:18
dr.stoneflyさんが仰るように、目線の問題はあると思います。

差別を身に受けてきている被差別者自身が、それでも「内心は語るな」と自ら言うのであれば、僕はすごい天晴だと思うんですね。
だけど、それだって、被差別者全体に普遍化は要求できないでしょう。
その人が天晴だというだけの話であって。

さらに、もしそういう立場ではない人が「内心は語るな」と言ってしまうのであれば、
『誤った制度は正そう。しかし「内心」問題には踏み込むべきでないから、そこはお互い触れない、語らないようにしようね』みたいな話になっちゃうわけで、
そうなると無自覚に差別的言動を振りまく側の、とても都合のいい「お手打ち論」「封じ込め論」にしか聞こえなくなってしまう。

しかし、「内心」の野放し状態もどうかと思う、ってことですよね。
どこぞのセクハラ騒動のように、その「内心」を天下の御旗のようにして、ごり押ししまくる。
「内心」はどうしたって普遍化できないわけですから、天下の御旗にはできないんですが、そこが分かっちゃいない輩も多い。
ウェブ上でのやりとりは、その人が「どこから物を言っているか」「どの程度の物言いをしているか」が非常に見えにくいので、難しいと感じます。
また、意外と『「内心」はどうしたって普遍化できないのだから、天下の御旗にはできない』ってことが、共有されていないようにも思います。
それさえ共有できていれば、相手の「内心」を聴くことは、とてもよい学びになると思うんです。
アキラ
URL
2010/01/14 11:00
ご指名のようですし、こういったお付合いは嫌いではないので、喜んでまかりこしました。



ここは一点、“「内心を語るな」が民主主義の原則である”という点について。というか、私は「内心を語るな」が民主主義の原則とまではいった覚えはなくて、単に“生活上の知恵のようなもの”から浮き上がった1つのルールだという認識なのですが。

こういう具合に考えてみましょう。「内心を語る」と「内心を表現する」は違う。そして民主主義において優先されるのは「内心を表現すること」、すなわち自分の内心に従って選挙権を行使することである、と。実際、憲法にも内心を語らない秘密投票を保証する規定がありますね。

秘密投票が必要とされる背景には、“内心を語ると抑圧を受けるおそれがある”ということがあったわけです。個は全てパブリックであることが前提の民主主義では、そういった事態は好ましくない。1つの個が他の個から影響を受けることも、また影響を与えることも好ましくない。個はあくまで独立した個として「内心を表現」しなければならないわけですから。

とはいえ、個が自己の内心を形成するには、他の個との「内心の対話」が不可欠。ここがdr.stoneflyさんの主張するところだと思いますし、私も同感ではある。

しかし、「個が個に影響を及ぼしてはならない」とするところからすると、これは御法度なんです。だから影響を受けるにしても、「個から個へ」ではなくて、「公から個」という形を取らなければならない。つまり一旦「公」をかませて「個→公→個」という体裁を取らなければならない、というルールになったのだと思うのですね。で、「個→公」としなければならないが「内心を語るな」なのです。
愚樵
URL
2010/01/14 17:51
社会によって(もしかして民主主義の原則によって)内心が抑圧される可能性は、この「個→公」としなければならないところに生まれてくることになります。個としての感情の吐露はだれにでもできます。しかし「個→公」としなければならないというルールが適用されると、個人的な感情の吐露は、「個→個」であるとされて疎外されてしまうんですね。特に「公」であることが厳正に求められる公務員といった立場の者には。
(彼らはそのことを逆用して個を疎外しますが。)

これが個をパブリック(=公)とする民主主義原則から派生する現象なのではないのでしょうか?

「実名では内心を語るな」というのも、以上の説明から繋がっていくと思います。実名はリアルであり、リアルは民主主義ではパブリックですから、ここでの語り方は「公」を装ったものでなければならない。対してブログ等での仮名ではリアルと直接関連しませんから、ダイレクトに「内心」を語ることが出来るようになる。ただ、この「内心」にも様々なレイヤーがあって、取り扱いはなかなか一筋縄ではいかない、そういったことだと思うんです。

で、私の立場ということでいうと、共感派ですからもちろん「個→個」ということになりまって、他人の内心にはドンドン干渉すべしということになり、ひいては「個は全てパブリック」という原則も打ち壊すべし、という具合になるんですね。
愚樵
URL
2010/01/14 18:25
先のエントリでは、なんか書きづらかったんですが(^^ゞ
ちょいと書きなぐらせていただきます。

「民主主義という理念」において、個と公は等しいのでしょうか?
私には、どうもそうは思えないんです。
尊重されるべき存在としての重み付においては、「個=公」の関係は成立すると考えます。
それが近代以前の社会理念と大きく異なるところだと。
(書物等で聴き及ぶところの大日本帝国では、明らかに「公≫個」だったと思えるのですね)
しかし、その他の面においても「個=公」だと果たして言いうるのか?
「個」に干渉する「公」という存在、これは「民主主義の運用」でも否定できないと考えます。
そういった側面にまで「個=公」の概念を持ち込むから『内心を語るな』という言葉の解釈でいろんな考え方が出てきたのかなぁ…と。

民主主義の原則では、内心の公表を抑圧することは基本的に不可ではないでしょうかね。
むしろ、「個」の集合体が「公」であることが前提なのですから、「公」的な意識は「個」の内心のせめぎ合いによって定まるのではないかと思うのです。
したがって、「個」が住みやすい「公」的空間を成立させるためには、「個」対「個」の内心の表明の可能性の確保ということは、むしろ必要不可欠な条件なのではないかとも思うのです。
とみんぐ
2010/01/14 23:53
ただ、こう云ってしまうと「民主主義=多数決」の罠に嵌まりやすくなってしまいますけどね。
しかし、互いに「相手の言わんとしていることは何かを理解しよう」という姿勢の下に行われる「内心の表明」は、折伏とは全く異なるものであると考えます。
「民主主義=多数決」の論理は、相手を理解しようとする姿勢から逸脱して、相手(あるいは第三者)を折伏しようとすることにつながりがちであり、その点において、「民主主義の理念」からの逸脱だと思います。

例の騒動は前記の「姿勢」において、民主主義の理念から逸脱した人たちが起こしたものだと思っております。
以上、脳内お花畑からお届けしました(^^)。
とみんぐ
2010/01/14 23:54
とみんぐさん

>むしろ、「個」の集合体が「公」であることが前提なのですから、「公」的な意識は「個」の内心のせめぎ合いによって定まるのではないかと思うのです。

この定義は昔の「寄合い民主主義」によく当てはまると思うんです。共同体の意志すなわち「公」は、「個」が内心のせめぎ合いを「寄合い」という場で行うことで決定された。

ところが近代民主主義が導入されると、「寄合い」は「公」だと認められなくなった。まず「官」だけが「公」となり、ついで限定された国民が「公=選挙民」として認められるようになった。戦後になって成人した男女は全て「公」だと認められるようになりましたが、このような近代民主主義が広がる歴史的過程から出てきた潜在意識が“「公」は一種の資格、あるいは身分”というものではないかと思うのです。

しかも、「個」と「公」といった区別意識が導入されたのも「公」が資格だと認定されるのと同じくしてですから、ここで「個=公」という結びつきも生じたのではないか。

とみんぐさんがいう「折伏をなす姿勢」は、「折伏」をする側の人間のが、自分はそれを行う「資格」があると思い込みなんでしょう。これは「全ての個は公」に至るまでの過渡期の「姿勢」なのかもしれませんね。そう考えると、左派にそうした「姿勢」の者が多いというのも納得がいくというものです。

現在は、一応「全ての個は公」というところに達して、そこから再び「寄合い民主主義」的なところへ回帰している局面なのではないか私は思っているのです。
愚樵
URL
2010/01/15 05:32
アキラさん
コメントありがとう。
「内心」を野放しにできないことも、「内心」を「天下の御旗」にしてはならないことにも賛同できるんです。が、やはりどこまでが「許される内心」で、どこからかが「野放し」なのかの線引きが困難なのでしょうね。エントリーに挙げた「叫び」はワタシの基準では「切実で語って欲しいもの」なのですが、やはりある人々にとっては「天下の御旗としての内心」と受け取られているようですし、「美しい日本」など、ワタシがケッと感じることでも、ある人々には切実な内心なのでしょう。これは「共有」できるものだろうか、と遠くの空を見てしまいます。
ただ、共感を求める言説では「内心」のみを語ることは少ないでしょう。どこかに科学的根拠や普遍性で理由をつけようとする。また内心だけを語ったものにしても、聞き手がそこに科学的根拠や普遍性を見つけようとする、そこに共有があるのではないかと思いました。
dr.stonefly
2010/01/15 15:20

とみんぐさん
どうも、どうも、書きづらくしちゃってごめんちゃい。一気に静まってコメントしやすくなったでしょ。「主」自ら盛り下げるブログでございますよんorz。

>「個」の集合体が「公」であることが前提なのですから、「公」的な意識は「個」の内心のせめぎ合いによって定まるのではないかと思うのです。(以下略)

これこれ、こういうのもどっかで思ってて「内心を語れ」と言いたかったのですが、寄合い民主主義かぁ、、、さらに分からん??

ねぇ、、、愚樵さん、、、、


dr.stonefly
2010/01/15 15:20
というわけで、愚樵さん
まずは、本題の前に

>私は「内心を語るな」が民主主義の原則とまではいった覚えはなくて、単に“生活上の知恵のようなもの”から浮き上がった1つのルールだという認識なのですが(以下略)

について、どっかで「民主主義の原則として・・・内心を語るな」に賛同されていた気がしたので、そう言ったと勘違いしてました。ごめんね。
(もちろん、「何処そこのエントリーでこう言ってたではないか、これはこういう意味に違いねぇ。こちとら魚拓もとってあるんだ、観念して認めやがれ」というような気色の悪いうえに質の悪い粘着はしませんよーん。ここで、「そんなこと言ってないよ」と言われたら、あら、ワタシの勘違いなのね、と言って謝りますとも、ククク)

という前置きはよしとして、ワタシにも解るレベルでコメントして頂いたと想像するのですが、やっぱり分かりません(やっぱ馬鹿かもしれない)。いやいや「内心を表現する」も「生活上の知恵」ってのも解るんです。分からないのは「個」が「公」ってのは分かるようでピンとこない。
dr.stonefly
2010/01/15 15:21
「個」ってのはなんとなく解るんです。で「公」が分からない。
「個=公」ならば、「個の発言」は「公の発言」にならないのか?とか、
「個=公」といいながら、現代では「官」だけが「公」だ、となったり。
「個→公→個」にしても具体的に、どの公になら個から内心を言えるのか?
「公」が官公・役所ならば、例えば先にだしたような、「行政交渉」で「個の内心」を切々と訴えるのは、「個→公」になるのか?とか。
「個=公」であるなら、ブログってのは「公」に向かって発言しているのではないのだろうか?とか。
 「内心の対話」で自己の内心を形成する、ってのは、どこまでいったら「完成形」になるのだろうか? それは「達観」? 「達観」しちゃたら民主主義とか関係あるのかなぁ?とか、、これは脱線か(笑)。

 だいたい、ブログだけではなく、民主主義社会の日常行われているほとんどの会話は内心をベースにしているのだろうけど、それは「個=公」の民主主義に背いているのだろうか?とか。ここまでくると、そもそも何が問題だったか、が分けが判らなくなるわけです。ここが基礎学力のなさの限界。
dr.stonefly@つづき
2010/01/15 15:22

で、お願いなのですが、具体的な例を上げますので、民主主義の原則のもとではどう理解(解釈)するのか教えてください。

 エントリーにも書いた、実際にあった「過去に従軍慰安婦を強いられた女性の気持ちの激白」です。
 今の日本のリアルの「ある集会」で実名で行われました。女性は集会に集まった大衆の前で(苦しく辛い)内心を語りました。これは「個→個」「個→公」どっちだったのでしょう。愚樵さんの説明だと「個→個」のような気がします。ワタシは「個の内心」だと思うのだけど「公」を装っているのだろうか?とか・・・この「内心の語り」について「民主主義の原則」の観点ではどう理解するばよいかを教えてください。
 (リアルでのこうした語りは、語った本人が生活を困難になる可能性がある(共同体のルールに抵触する)、というのは解ります。それ以上の考察があればお願いします)


dr.stonefly@つづき2
2010/01/15 15:23
お答します。

といってもdr.stoneflyさんが挙げられた具体例が「個→公」なのか「個→個」なのかは判別が尽きません。理由は簡単で、私はその話を聞いていないからです。

ある集会で従軍慰安婦を強いられた経験がある女性が語ったことは、彼女の内心に基づくものであったことを私は疑いません。しかし、それが「公」を装っていたかどうかまではわからないとしか答えようがありません。

しかし、これでは答えから逃げているように思われるでしょうから、別の実例を出すことにします。これは私も目撃しましたし、おそらくdr.stoneflyさんもご存知のはず。それは不特定多数に向かってはなった言葉であるにもかかわらず、まったく「公」を装うことがなかった発言でした。

「それ」とは、すなわち光市母子殺害事件での被害者遺族である本村氏の会見でした。あれは確か、「死刑でなければ私が殺す」と言ったのだと記憶していますが、私はあれを見たときに、「これはあぶない、メディアはこんなものを報道すべきではない」と思ったものでした。

この時の私の意見は今も変りません。あれはあまりにも無垢な内心そのままの姿であり、だからこそ多くの人の心を揺さぶったのでしょうけれども、それゆえにこそ私はあの会見はそのまま報道すべきではなかったと思っています。
愚樵
URL
2010/01/15 19:39
話が少し先に行ってしまいましたね。

「それ」は、話す相手が不特定多数であったにもかかわらず、また実名と素顔を曝していたにもかかわらず「個→個」として内心を語った珍しいケースだと思います。

(dr.stoneflyさんの挙げられた例が「個→個」だったのか、それとも「公」を装っていたのかは、「それ」と比較しれみれば判断がつくのではないでしょうか?)

本村氏のことを思い出したおかげで揺らいでいた意見がすこしまとまってきました。やはり「公」を装わない無垢の内心を語ることは、民主主義の原則に反するとまではいかなくても、近代民主主義を支えている暗黙のルールに違反しているのだろうと思います。

ただ、そう言いながらも私はまだ「暗黙のルール」がどういったものなのか、きちんとつかみきれていません。ですので、まだ意見は変る可能性はあります。

もう少し考えてみますので、時間をくださいね。
愚樵
2010/01/15 19:54
愚樵さん、お馬鹿な毒多におつきあいくださってありがとう。
時間をかけてもらって結構です。というより、あまり早く答えられると、ワタシのほうが追いつけない。(笑)

で、取り敢えずここまでのとこで、従軍慰安婦を強いられた女性の件について、デテールをトレースできないので中途半端な追記はやめますが、

1.内容によって「個→個」か「個→公」かが変わる。
2.集会の聴衆も「公」になる。

でいいですね。

本村さんのほうは、当然覚えています。エントリーにも挙げました。
この具体例での説明を望みます。多くの人が内容も覚えているでしょうから。

上記「女性」と「本村さん」でどちらも大衆にむけての内心の吐露だと思うのですが、ワタシは「女性」には「語れ」、本村さんには「語るな」と感じました。
この「語れ」と「語るな」は矛盾なのか? 何か普遍的基準があるのだろうか? 民主主義の原則のもとではどうなのだろう? というのが解りたいところです。

dr.stonefly
2010/01/16 06:09
dr.stoneflyさんの『語ってよし』『語っちゃアカン』も、愚樵さんのそれも、結局 各人の内の個人的・恣意的な線引きによって判断されているように見えます。

となると、『内心』は『天下の御旗』(他律的理性?)にならない ということが、教育によって共有されていれば、それでいいんじゃないでしょうか。
それが、いわゆる『リテラシー』なのでは・・という気がします。

その教育、共有が現実には成り立ってないので、『単なる内心を天下の御旗にする』アホンダラが多数いるわけで、
その現実を踏まえて、『だったら政治問題については、すべて内心は語るな』というのも『あり』なんじゃないかと。
アキラ
2010/01/16 10:19
dr.stoneflyさん、
この違いは極簡単なことですよ。
>上記「女性」と「本村さん」でどちらも大衆にむけての内心の吐露<
どちらも心の中を正直に語っているだろうが、私が何べんも何べんも繰り返しているように、一方は法律とか科学的事実(歴史)とかの普遍的な価値観を共有しているし、市民一般に広く支持されている道徳や常識(此方の方は完全に普遍的ではないが其れに準じている)でもある。
ところが本村氏はそうではない。
我々が善であると信じている近代民主主義、共通言語である遵法精神とか基本的人権とかの埒外にある『内心』を語ってしまった。(本村氏も武士道云々と自分の論の正当性を主張していた)
此れは民主主義などの科学や文明のような普遍的な価値観の否定、あるいはこれ等普遍的なモノの上位に自分の『内心』をおいたものです。此れは民主主義のルール違反ですよ。何故なら一人に許されるなら其れ以外にも許さなければならないが、それでは社会がもたない。
このように公開の場で多くの人に向かって発言する場合には、法律の制度や今までの科学的な蓄積(知識)の裏付けのある内心以外は、語るべきではないのです。
光市事件家族の発言は当事者だけに出来る発言(内心の吐露)で、多くの一般大衆や大マスコミや最高裁まで動かした絶大な力を持っていたが、あれは如何考えてみても民主主義のルール違反ですよ。
逝きし世の面影
URL
2010/01/16 10:25
反対に新しい歴史教科書を作る会などは『女性発言』の方に対して激しく反発している。
理由は女性と作る会とは、社会や歴史などの本来は共通言語であるべきモノが完全に違っているからですね。
民主主義の原理原則の柱である基本的人権において個人の内心は聖域として守らなければならないが、だからといって無条件で『内心の吐露』が許されているわけではない。
社会が受け入れている科学的な事実や制度(客観的事実)の前提を共有している(お互いが同じことを認め合う)から、『内心の吐露』が歓迎されるのです。
この土台部分(客観的事実)を無視して話される『内心』は時には光市事件のように大問題にもなり社会をも巻き込んで騒動にもなるがとばっちりを受ける人達は大迷惑ですよ。影響で今まで一桁の死刑判決が二桁になるし死刑囚は三桁になり年間二桁の死刑執行が行われ冤罪を疑われている人までが刑死する。
アキラさんとは部落問題に関連してハンセン病の差別問題で『今も昔も変わっていません』との発言に対して、論争になっていますが、
治療法が無かった時代のハンセン病と今とが同じだとの主張は『当時は結核や脚気も不治の病で多くの人の命を奪っていてハンセン病と同じ様に差別もあった』これ等の病気は致命的でないハンセン病と違い死亡原因の第一位なのでとんでもなく恐れられていた。
ですから、(今と昔では置かれている客観的条件が大きく違っているが)自分の考え(内心に限定すれば)『いまも昔も変わっていません』なら正しい。
しかし、客観的事実の前提(お互いの共通言語)抜きに語られる内心は、田母神の懸賞論文と同じで単なる『妄言』にもなることがあるのです。
逝きし世の面影
URL
2010/01/16 11:08
愚樵さん

愚樵さんの仰る「寄り合い民主主義」。
語感としては、なんとなく判ります。
それは「フィードバック」というシステムの動作かなぁ…と。

寄り合いの範囲なら、フィードバックの効果も判りやすいものです。
それが見えにくくなったのが「近代」なのかもしれませんね。
で、「近代」を超えた「現代」は、ツールの発達によってフィードバックの効果が見えやすくなってきた時代なのかなぁ。


「民主主義」云々以前に、(社会)システムが正常に動作するうえでフィードバックを取り入れることは重要なはずであり、そのフィードバックに「誰が」介入できるかという点が○○主義の違いになるのかもしれません。

(プラントの世界ではフィードフォワードなんてのもあるそうですが…)
とみんぐ
2010/01/17 21:11
で…
ふと気がついたのが、「語る」ということは「語られる」相手が居るということなんですね。
このエントリーは、発する側と受ける側、どちらか一方のみの視点では堂々巡りになるんじゃないか…と。
私のコメは受ける側に重きを置いていたかも知れませんねぇ(^^ゞ。

ただ、やっぱりこういう言葉の遣り取りは受ける側にもそれなりの「覚悟」を要求するのかもしれない。
愚樵さんが例示した件では、受ける側の覚悟が無さ過ぎたのではないか…と。
このあたり、アキラさんがかねがね懸念されている「教育」の問題に通じるものかな?(自問)
とみんぐ
2010/01/17 22:38
言ってはいけないこと(が何か)って、話の都度確認したらいいんじゃないかなと思うんですけど…。逝きし世の面影さんがかつて「内心は語るな」ということ(ルール)を取り上げられたように、「そういう発言は(ここでは)良くないよ。なぜなら…」って話がそこに成立するのなら。
本村氏にみられるような発言の例でも、発言に対する一般大衆からの強い非難の声があがり、発言に対する共感の声がとても少なかったら、極刑化の動きにもそれほどの影響はないのかもしれません。(ただやはり、情報操作や法制度に関わる権力側の「動き」がある場合それは注視しとかないと…。)
だから、一人の発言が契機になって大変なことにならないようにするためには、発言を規制するよりも、その発言に応えることや議論の場をつくることが必要なのではないかと思います。

民主主義のルールも、それをいろんな側面から深く理解できるようになれる場がもっとあってもいいんですよね。それが、自由に「内心を語れる」ようになるためにも必要なことだと思います。
またとりとめのない私の内心話を、、皆さますみません;;
すも
2010/01/18 00:38
ふと思い出した――斎藤茂男の「生命かがやく日のために」。
ダウン症と内臓疾患を併発して生まれてきた赤ん坊、すぐに内臓手術しなければ命にかかわる。しかし手術してもダウン症は残る。
手術を薦める病院に両親が言った言葉――

「こういう子供をもった人でなければ、私達の気持ちはわからない」
手術拒否。情が移るから抱かない。このまま死なせろ――。
(結果、赤ん坊は死にます)


語るとはなにか。わかるとは何か。
内心とはなにか。
人生アウト
2010/01/18 04:09
Q.内心を語るとはなにか?

A.
ネットをやっていて、(特に若い人は)誰もが感じたことがあるでしょう。
「自分の気持ちなんか誰もわかってくれなかった。どんなに気持ちを語っても、勝手に括られて終わるだけだ」「ネットにはかろうじて、同じような仲間が集っている」

微分的に考えて、私達の気持ちというのはどこにあるのでしょう? 一秒前に考えた私と、一秒後の私が同じである保証はどこに?(なんか哲学ぽい)
言葉で闊達に語ることのできるブロガーは、しばしば他人の気分が理解できません。言うことがコロコロ変わる気分屋な他人が、まるでアホに見えます。
しかし、「言うことがコロコロ変わる」ことと「考えが長期間変わらない」ことの間には、性質的な違いはあっても優劣は存在しません。あなたの自我は、慣れない力仕事・慣れない長距離移動・慣れない食事・慣れない他人に曝された時、激しい分裂を経験します。考えがまとまらなくなる。それを避けるために、慣れ親しんだ殻で身を守ります。(ダウン症児を抱かないことで親は、身を守った)。派遣労働者やネカフェ難民は、日々この分裂の危機に曝されているため、長期的な自画像を保つことが困難です。
意識・内心というものは、食事・会話・運動が一定のメロディーに乗っている時にはじめて、「変化しつつも安定」した状態に保たれるのです。胡蝶の夢で言うなれば、蝶と私を行き来しつつある状態そのものが、「内心」。その変化、運動こそが自我の本質。(経済の本質が、金そのものでなく貨幣の流通過程にあるのと同じ)
人生アウト
2010/01/18 04:30
そして、言語闊達なあなたの脳は、この運動が安定軌道に入っています。その代わり、外界の急変動に対応できません。これに対し気分屋な人は、この運動が激しく、外界の変動に対応しています。だから言語的には滅裂になるけれど、安定した運動を行っている点では同じです。
――外界の変化に振り回されたり、殻にこもったりしながら、なんとか「一秒前の私と一秒後の私が同じである」ように維持できている、かろうじてそうであるのが『内心』なのです。(この維持に失敗すると、メンタルのダメージが深刻になる)
人生アウト
2010/01/18 04:31
さて、内心が外界の変化に対して
・殻をもって身を守る
・気分を変えて適応する
のいずれか、またはその組み合わせによって、連続性を維持しているということがわかりました。
となれば、日々変化と遭遇の中に生きている私達が、破滅的なクラッシュを避けるにはどうすればいいか――。

極端な結論を先に言うと、「内心を語らせる隙さえ与えずに話を終える」です。赤ん坊にミルクを飲ませる時、熱くないかどうか、いちいち内心を聞いていたら火傷します。交差点で、どちらが先に通るか、交渉や議論をするのは無益です。
もっと極端な言い方をします。「頭のいい方が、相手の内心を先読みして対応しなければならない」。人間は対等であってはならない。親は子の欲求を先読みしなければならず、金持ちは求められるより前に社会奉仕しなければならない。
「内心を聞く」のは、強者が弱者に向けていう姿勢です。みなさん、自分より強い相手の内心を聞こうなんて思いますか? そうではない、自分より弱い立場に置かれた相手の内心を聞こうとする筈です。
そして、内心は外界の変化(食事・他人・ストレス)によって変動するものです。強者が弱者の内心を聞こうとする時に、あらかじめ余分なストレッサーを取り除いておくのは大前提です。ストレスフルな環境をそのままにしておいて、「さあ内心を語れ」と言っても、安定した内心が語られるわけがない。(障碍者にとって生きにくい社会がそのままでは、ダウン症児の親が語る内心が「この子は死なせる」になるのは必定――私はそんな内心など尊重しない。この、内心を語らせる前提状況自体がまず間違っているのだから)
人生アウト
2010/01/18 04:46
>「自分の気持ちなんか誰もわかってくれなかった。どんなに気持ちを語っても、勝手に括られて終わるだけだ」
>「ネットにはかろうじて、同じような仲間が集っている」

多くの、私達が想像する内心とはこうしたものです。しかし再度言います、内心は環境の変動に応じて殻にこもったり急変したりする、と。
だから、私は内心をほとんど必要としない。他者の内心をおそらくは理解できない。自分の内心を他者が理解する必要などない。内心は、そこに保存されてあるべきものではない。総体としての内心群(すなわち社会)が、人の内心をして過酷な変化やストレスによって千々に乱れることのないよう、事前に計算されセットされなければならないシステムとしてあるのだから。

派遣村で貰った金をパチンコに消費したのは、彼らの内心の発露です。内心がそうであるようになってしまってから、内心を尊重してみても何の解決にもならない。システムの崩壊を逆算して、再設計から行わなければならないのだから。

(以上、コメント終了。この論の問題点は、「それでも私の歪みや痛みは、大切な内心である。仄暗い淵の深みもひっくるめて我が内心であるところのものを、システム万能説は黙殺している」というところです。人を機械と見做し過ぎている)
人生アウト
2010/01/18 04:58
皆様、コメントありがとうございます。
それぞれにこれまでの思索の確認ができたり、さらに新しい視点を頂けたりしてます。
ただ、ここのコメント欄におきまして、皆様がコメントを書いて頂くことはいいのですが、ワタシは愚樵さんに対し質問をしましたので、礼儀として愚樵さんのレスがあるまで皆様に対するレスは控えていました。(すでにエントリーが主から離れ独立歩行していて、それぞれのコメントが充実しているのでワタシのレスが必要かどうかも疑問なのですが、、、)
質問をした愚樵さんからTBでレスを頂いていて、これまた面白く読まさせて頂いています。(ただ、やはり愚樵節は難しい)。愚樵さんのエントリーはまだ続くかもしれず(笑)、ワタシとしても時間がかかるかもしれませんが、皆様へのレスとあわせて何か書きたいと思っています。

それはそれとしてこの間、現実的な問題としてエントリーをしたいことを耳にしました。時間に余裕がないことでありますので、そのエントリーを上げさせてもらいます。決してこの問題を蔑ろにして次に進もうというものではありません。
何卒、ご理解ください。

dr.stonefly
2010/01/18 13:16
私のところへのコメントありがとうございました。こちらでお礼を述べさせていただきます。

コメント頂いたエントリーは、期せずしてとみんぐさんが提示された視点と重なるものになっているようですね。つまりフィードバックです。志向性が「私」なのか「公」なのかは、「個」が想定しているフィードバックの種類の違いといってもよいのかもしれません。

私もまだ続きを書くつもりですけど、dr.stoneflyさんの続きも期待しています。気長にやりましょう。
愚樵
URL
2010/01/18 19:13

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
「内心を語れ」…と敢えて言いたいのだが 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる