毒多の戯れ言

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zoom RSS 「Mが死んだ」…何故セレモニーをする?

<<   作成日時 : 2009/10/22 14:06   >>

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 Mが死んだ。
 で、何かを書き記したいという感情が沸き起こるのだけど何を書いていいのか解らない、というのが正直なところ。結構不思議に感じるのは、もしあのコンサートに行かなければ、この一ヶ月がまったく別のものになっていただろう、ということ。

 昔、市民運動で出会ったMと15-6年振りに再会はしたが、Mは癌に侵された身体をひきずっていた。
 若いということは癌の転移もはやい、というのはホントのことだった。コンサートの後すぐに入院。一度見舞いにいったときは痛みに耐えながらも笑っていた。その後痛みが激しくなり、またMが面会疲れをしていると聞き見舞いを遠慮していた。
 そのあいだにMは病院の対応に不信感をもち、家族との相談の結果ホスピスに移る決心をしたようだ。数日後、ホスピスに移り痛みの緩和がほどこされた。あと2,3日もすれば痛みがとれ中庭に出れるだろうという医者の言葉を伝え聞いた。痛みが引いたら、もう一度会いに行こうと思った。
 朝、「早く会いに行ったほうがいい」というメールが届いていた。昨夜のものだった。
 もしMに会えなくても行かなければ、と午後に見舞いにいこうと予定をたてたとこに、
見舞いにいくのが遅そすぎた、、、という電話が。
 その朝はやく夜明け前、死んでいたということだ。予想以上に突然だった。
 ぼんやり想いを馳せているなか、前夜式と告別式の知らせが届いた。

 前夜式で神父の決り文句や賛美歌が響くなか、ボクはぼんやり考えていた。

 この再会は何だったのだろう?
 もしボクがコンサートに行かなければ、もしこの一月のMの様子を知らず、また死を知らなければ、15-6年前に別れたきりならばボクのなかのMは死んではいなかった。ん、死んでいないか? いや、忘れていたのだから存在しなかった、と言えるのかもしれない。死んでいないかもしれないが、生きてもいない。ボクのなかで存在しないのだ。現実のMは存在していたのに、ボクのなかでは存在していない。それは死、それとも生?
 あのコンサートで再会し、Mは再びボクのなかの存在となった。その後現実のMとは2度しか会っていないのだが、あきらかにMはボクのなかでは存在し、生きていた。ん、生きていた? なぜその存在が生きていると思うのだ? これは感覚。ボクがMからメッセージをうけとり思索していたからMはボクのなかで生きていると感じたのだろう。ん、あれ、Mのメッセージは、身体の死とともに断絶するのだろうか? 過去のメッセージだけがいつまでもボクのなかでグルグルと回っているのか? もう新たなメッセージは聞こえないし見えないし感じない。新たなメッセージの断絶をやはり死というのだろうか・・・・・?
 ボクのなかでMが生きていたということは、ボクがMから新たなメッセージを受けていると感じることなのか? たとえMが脳死になっても、脳障害になって喋ることができなくなっても、ボクがMから新たなメッセージを受け続けていると感じている限り、ボクのなかのMは生きていると言えるのだろうか? たとえそれが言葉でなくてもメッセージを受けることができるのはこの一月で感じていたこと。

 
 人が死ぬとセレモニーを行う。その死を知らない人にも知らせようとする。
 「Mは死にましたよ〜」
 黒い服があつまり、ボクもそこにいた。何故そんなことをする? 人々がMの死を知らなければ、人々のなかでMは生きていたかもしれないのに。それともMの死を確認するためにセレモニーを行うのか。人々がMの死を確認するためのセレモニー? そうだ、これは死んだMのためのセレモニーではない。生きているボクたちのためのセレモニー。これは余りに独りよがりなのだろうか?
 それにしても、もしボクがこのセレモニーだけに呼ばれたら、この一月がなく、15年ぶりに再会したのがMの死体だとしたら、今感じている、こんな感覚を持てるだろうか? もてない気がする。ん、もてないか? 解らない。どうだろう? この一月の強烈なメッセージは受け取ることはできないが、たとえ死体からでも何かしら感じることはできたかもしれない。セレモニーに集まった人々がMのことを話す、Mの歴史を話す。そして共感し思索する。またMからの新たなメッセージの断絶について確認する。ああそうか、セレモニーは、身体の死は、これまで発信してきたMのメッセージを甦らせ刻み込む場なのかもしれない。



 それとも死そのものが強烈なメッセージなのか?


 セレモニーは終わろうとしている。




 箱のなかのMは薄らと笑っていはいたが、確かに死んでいた。




 それにしても、支離滅裂な文章だな。一体、何を書きたいのだろうか???
 
 
 



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内 容 ニックネーム/日時
「死んだ人のためではない」というのは、昔からの真理なんだろうな、と思ってます。

ハゲタカ産業、といったらハゲタカが怒るやろなあ・・・。
×第二迷信
2009/10/23 00:06
×第二迷信さん、おはようございます。

>「死んだ人のためではない」というのは、昔からの真理

この辺は、多くの人が認識していることなのでしょうか?
このセレモニーはカトリックの教会で行われましたが、
「Mが天国へいけるよう祈りましょう」をくり返していました。
とすると、やはりMのためのような気もしなくもありません。
宗教的儀式としては「葬送」ってことになるのでしょうね。
魂を天国に送る、みたいな。
でも、「死後のことは生きているものには解らない」と考えると、解らないもののためにセレモニーを行っているのは、落ち着きませんね。それで考えてしまったわけです。
「生きている者のためにする」ということになりました。

生きているワタシがセレモニーで考えていたことは、
Mが奇跡的に癌を克服してまたここを離れて、会う事も喋ることもないとしたら、それは死んで「会う事も喋ることもないと」とどう違うのだろう、とか・・・子どものような疑問ですね(笑)。

それと、箱のなかのMは確かに死んでいました。Mから受ける新たなメッセージの断絶を感じました。それは、微動だせず「死んだ様に眠る」といったものとは違っていました。そこで思ったのですが、例えば「脳死」の人は、死か?生か?という問題に際して、「脳死の人」の周辺の人々が「脳死の人」からメッセージを受け取っていると感じている限り、「脳死の人」は生きている、と言える気がしました。


dr.stonefly
2009/10/23 08:35
>Mから受ける新たなメッセージの断絶を感じました。それは、微動だせず「死んだ様に眠る」といったものとは違っていました。

このこと、とてもよくわかります。熟睡している人と死んでしまった人は、違います。魂があるかないか、という違いを感じます。ここから「脳死」と人の死を考えるとは、さすが。なるほどと思えるご意見です。
非戦
2009/10/23 21:39
ここで死に対する文化儀礼について考察することは場違いなんだろうなーとか思います。

死者と遺族とが死生観を共有する場合、例えば死者は遺された者が行うであろう儀礼を期待するわけで、また同時にその死生観が魂を肯定するものである場合には、残されたものは鎮魂のためにその儀礼を行うという意味が生じる。である以上、『魂の存在は確認し得ない以上、その儀礼は専ら遺された者のために行われるのである』という言は、まさに不躾な心情の蹂躙でしかないのではないか。とか。
うーむ。場違い。

ともかく。
喪失感の伝わってくる文面です。
私にとってはまったくの他人で、どこの誰とも知らないその方ですし、またバックボーンとなる宗教観もまったく異なりますが、こちとら煩悩を払う鐘の音を聞いたその次の日に、神社で一年の健康という煩悩そのものを願ったりする連中の一人です。
厚かましくもお悔やみを言わせてもらいますぜ。
sutehun
2009/10/23 23:17
う〜ん、何を書いても嘘っぽくなるので、なにも言えません・・・(申し訳ない)

>セレモニーは、身体の死は、これまで発信してきたMのメッセージを甦らせ刻み込む場なのかもしれない。

私もそんな気がします。
誰でも死から、逃れられませんが、忘れられるのはつらいかな・・・

でも、「死んで無になるから生きていられるのかな〜」とも思っています。
昔、辛いことがあった時、父に「人間、死ななきゃ楽になねぇーぞ!」と言われ、妙に納得してしまいました(苦笑)
支離滅裂ですいません。

私も厚かましくもMさんのご冥福をお祈りいたします。
えちごっぺ
2009/10/24 10:22
どうも。はじめまして。
敬虔な感慨を述べるなんて、私には手に余る所のものであります(^(00)^;;
今から二十年以上前、サークルの同期の女の子が不慮の事故で亡くなりました。
その時は、「葬式なんて、酒飲むための口実だって」とかほざいてました。「日本全国酒飲み音頭」の悪影響と解され。不謹慎ですね。
私はかくも不謹慎ですし、唯物論者なんで信心もないですが、人間の値打ちが商業的に値踏みされる現世でも、人間の喪失、人間の欠落は平等と思いたいし、セレモニーとは人間の欠落を再確認し、もはや故人とのコミュニケーションを取れないことを惜しむ場なのではないかと、思い直しています。
でわ。
buhi
URL
2009/10/24 22:46
キリスト教徒(カトリックの人たちとあまり付き合いがないので、解釈は偏ってますが)
の方々が「送る」というのは、「神様のところに返してあげよう」ということだと思います。
 ただ、キリスト教では「復活」ということが言われます。
 「どこに復活するか」というのは、結局、残された人々の心の中に、ということなんじゃないかと言えるんじゃないでしょうか。
 「そこに私はいません。眠ってなんかいません」は、宗派を超えて支持されてるでしょう。

 誰かが覚えてくれる、ということがなくなったときが、本当に「亡くなった=無くなった」
になるのだと思います。
 思い出を大切にしてあげてほしいと思います。
×第二迷信
2009/10/25 14:08
お久しぶりの方も、始めての方も、毎度の方も皆様、おはようございます。コメントありがとうございます。これほどコメントを頂けるエントリーと思ってませんでしたので、驚いています。感謝、、、ですが、また考え込んでしまいまいた。

まずsutehunさんの言われる
>ここで死に対する文化儀礼について考察することは場違いなんだろうなー
ですが、ほんとそうです。何故セレモニーの最中にそういうこと考えてしまうのか、我ながら不謹慎だと思うのですが、セレモニーの最中、自分が何故ここにいるのだろう?ってふと考えてしまったのです。今回、ワタシなんかよりMに近い人(親族ではない)がセレモニーを嫌い出席しなかったりしたので余計に考え込んでしまいました。(死を確認しなければMは生き続けるという心理があるかどうかは知りませんが・・・)

>『魂の存在は確認し得ない以上、その儀礼は専ら遺された者のために行われるのである』という言は、まさに不躾な心情の蹂躙
うむ、申し訳ない。そうかもしれない。ただやはり考え込んでしまいまいした。
おそらく葬儀とは、古今東西もっとも普遍的に行われているセレモニーなのでしょうね。しかも宗教的なセレモニーになるのでしょうか? とすると
>死者は遺された者が行うであろう儀礼を期待する
のはそうなのでしょう。
ただ、その死者が死ぬ前に期待したもので、死者である今その魂が期待通りセレモニーが行われていることに満足しているかどうかは、生きている者には解らない。おそらくここに「信じる」ということが入って来るのでしょうか?そも、宗教は信じることでしょうから。
dr.stonefly
2009/10/27 08:49
ワタシも葬儀を宗教的儀式だと思っているのですが、宗教的儀式でなくても、やはり執り行われる気がしていて、今回もワタシはやはり参加しました。
buhiさん(はじめまして)も唯物論者と言われてますが参加されてます。唯物論での「死」の捉え方がよく解りませんが、やはりセレモニーに参加されていますよね。
おそらく、多くの人は宗教、唯物論などとは関係なく「死」を特別なものと捉えているのでしょうか?(死は普遍なのですけどね)
>故人とのコミュニケーションを取れないことを惜しむ場
やはり、メッセージの断絶を確認することになるのでしょうか?
そこでは死者が残したメッセージを再度刻み込むしかない。
これはえちごっぺさんも感じて居られますね。

第二迷信さんが言われる、
>誰かが覚えてくれる、ということがなくなったときが、本当に「亡くなった=無くなった」になる
これは凄い。ちょっと考えつきませんでした。そうか、そんなものかもしれませんね。ただ、その故人が誰から記憶からも無くなっても、メッセージは残されたものの思考と重なり融合して残っていく。そして誰か他の人に伝えられ、他の人のなかで熟成されまた他者に伝えられる。いつか多くに融和され残されて行く、と考えることはできると思ってます。
dr.stonefly@つづき
2009/10/27 08:50
それにしても、「式」「セレモニー」のなかで葬式・告別式ってのは特別な気がしています。結婚式や卒業式など一程の祝い事のような気がしますが、葬式・告別式にはそうしたイメージがない。式のもつ区切りという意味合いでは、生と死の区切りを確認する場なのかもしれません。
もしかしたら「存在」の意味を思索する場なのかもしれない。
それと、離れ離れになった古い仲間との再会の場にはなっていました。Mが呼び寄せてくれたっていって・・・、これは二次的な意味か??

ただ、Mが死んだ事の喪失感に浸っていればいいのに、つい考えてしまうのは悪い癖だな。みなさま失礼しました。
dr.stonefly@つづき2
2009/10/27 08:50

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