毒多の戯れ言

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zoom RSS 「ブログの世界で生きる」…そして死を実感する

<<   作成日時 : 2008/04/26 16:30   >>

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ブログを始めたとき、ブログの世界のワタシは生まれた。
言葉を綴ることで、ブログの世界のワタシは育った。
ブログの世界には多くの人がいた。
ブログの世界で、多くの出会い、多くの別れ、があった。
ブログの世界で友達ができ、話し合った、ケンカもした。
ブログの世界で思索し、教えられ、共感した。
ブログの世界で真剣にワタシは言葉を綴り、
ブログの世界で真剣に友達の言葉を聴いた。
ブログの世界のワタシは、ブログのなかで生きた。
リアルではないワタシが、ブログのなかで生きていた。
ブログの世界の友人と言葉だけで繋がり、お互いを知ろうとした。
ブログの世界で交わろうとした。
ブログの世界で遊んだ。
ブログの世界で、酔っぱらった。
ブログの世界で、自暴自棄になった。
ブログの世界で、泣いた。
リアルでも生き、ブログの世界で生きた。

ブログの世界では、容姿も所有物も問題ではなかった。
そいつがリアルでどれだけ美しい顔で、宝石で着飾り、豪邸にすんでいても関係ない。
そいつがリアルでどんな肩書だろうと関係ない。
そいつがリアルでどれだけ不細工で、貧乏で、みすぼらしくても関係ない。
真剣に言葉を発するヤツがそこで生きていた。
真剣に言葉を受け止めようとするヤツがそこで生きていた。
ブログの世界のワタシは、確かにブログの世界で生きている。
リアルとは違った純粋さをもって。

リアルのワタシはリアルで生きている。
リアルのワタシ、ブログのワタシ、同じワタシだけど違うワタシ。
交錯しながら、生きているけど違うワタシ。
同じなのだけど、違うワタシ。
違うワタシなのに、同じワタシ。
リアルで生き、ブログでも生きる。
リアルの死は、リアルな世界に存在しないこと。
ブログの死は、ブログの世界に存在しないこと。
リアルのワタシが死ねば、ブログのワタシも死ぬ。
ブログのワタシが死んでも、リアルなワタシは死なない。
えっ、なんだ、それは、ビックリだ。
ブログのワタシが死んでも、リアルなワタシは死なないんだ。
これは凄い。驚きだ。

リアルなワタシの死。
それが何なのか、リアルに死んだワタシには解らない(だろう)。
ブログのワタシの死。
それが何なのか、ワタシには解る。
なぜなら、リアルなワタシは生きているからだ。
リアルなワタシは、リアルな死を見つめることができないのに、
ブログのワタシの死を見つめることができるのだ。
これは、凄いぞ、凄すぎる。
しかもブログのワタシは生き返ることさえできる。
なんてこったい!!

ブログの世界のワタシは、確かにブログの世界で生きている。
リアルのワタシとは違う人生を歩んでいる。
リアルとは違うツレとともに、違う空気を吸い生きている。
飯も食わず、仕事もせず、生活という厄介者を気にすることなく生きている。
言葉だけを喰い、吐き、じっと精神を研ぎすませ、生きている。
なんのしがらみもなく生きている。
いや、ちがう。ブログの世界のしがらみを感じながら生きている。
リアルとは違うヤツラと繋がりながら、ブログの世界を生きてる。
言葉だけの世界を生きている。
ときにリアルのワタシと重なりながら、ときにリアルと離反しながら。
間違いなくブログの世界を生きているのだ。

生きている者は死ぬ。
死ぬために生きているのかもしれない。
いや、死ぬためには生きなければならない。
妥協無く、全身全霊をもって。
ブログの死を見つめるためには、
ブログの世界を実感をもって生きなければならない。
楽しんで、苦しんで、ドロドロになって。
ブログを閉じるとき「死」を実感できるほどに。

何んだって、ブログの世界が、楽しいか?
苦しいか? 苛つくか? 安堵するか?
何んだって、ブログの世界のあいつが、恋しいか?
憎いのか? 殴りたいのか? 抱きしめたいのか?
ここまできたらしめたもの。
君はブログの世界で生きている。
だからブログの世界で死ぬことができる。
交錯しているリアルのワタシは、
ブログのワタシの「死」を実感できるのだ。
「死」を知ることができるのだ。
オノレの「死」を見つめることができるのだ。
確かに生きたワタシの死を。
これは凄いことだ。

さて、どうやってブログで死ぬ。
老衰か、飢え死か、他殺か、発狂して死ぬか、自殺か?
ああ、「自死という死に方」はあるな。
これは試せるぞ。
「自死という生き方」。
うん、苦痛も苦悩も何もなく、全てやり終えたことに満足して死ぬ。
老衰ではなく、「生きてすることは全てやったとして」自分で死ぬ。
どんな気持ちなんだろう?
でも、まだまだだな。だけど、なんだかワクワクするぞ。


え、ブログの死とリアルの死を混同するな、この妄想野郎がっ!! だって?
大丈夫だって、たいして変わらないからさ、きっとね(笑)


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ある言葉が発せられるとき、そこには必ずなんらかの理由がある。言葉には根っこがある。しかし、言葉は発せられた瞬間にその根っこから切り&... ...続きを見る
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BLOG BLUES
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dr.stoneflyさんが『「ブログの世界で生きる」…そして死を実感する』と言うエントリーを挙げられました。 それを否定的に取り上げたjabberwockさんのブログでコメントの応酬があり、dr.stoneflyさんは自ブログコメント欄にて『どうやら、「あなた方」指定を受けてしまった.... ...続きを見る
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(いつかはブログを持ちたいとは思っていたけれど、 こんなきっかけだとは夢にも思わなかった・・・ まあ、何かが始まるときというのは案外&... ...続きを見る
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コメント(32件)

内 容 ニックネーム/日時
ひとこと言わせていただく。
私はブログを閉じることを”死”と表現することに強い不快感を持っている。恐らくは、ブログを通じて知りあった方の訃報を聞いたことがあり、その時の感情が残っているからではないかと思っている。どれだけ願ったところで、今後更新の叶わぬこと。それは単にブログを閉じたというのこととは違う。

私に言わせれば、あえて宣言しながらブログを閉じるという行為は”逃亡”と呼ぶのがふさわしい。もちろん、逃げるという行為は選択肢としてあっていい。それによって救われることだってあるわけだ。しかし、それゆえに、”死”に喩えるのは不当であると思えるのだ。

あえて感情に水を差すつもりのコメントです。許して欲しいとはいいませんが、こういう考えもあるということを知っておいてください。
うちゃ
2008/04/26 23:32
はじめまして、とても心惹かれる文章でした・・・・
ネットで知り合ったとても大切な人を、病で失ったことのある私には、「ブログ」のワタシが死ぬもリアルな「私」が死ぬこともどちらも理解出来ます。文章を紡ぐという行為は、時に命を削るほどの重みがあると実感してますから・・
フィビヒ
2008/04/27 08:46
うちゃさん、こんにちは。

>感情に水を差すつもりのコメントです
このエントリーはひとつのブログが閉鎖されたことを機に思索したものですが、感情ではなく、極めて理性で書いていますので、うちゃさんのコメントで、ワタシの感情がどうのこのということは全くありません。
また、おそらくは多くの方に賛同を得られるのも、共感をもたれるのも困難だろうと思いながらアップしました。つねに多数に共感を持たれると思ってもいません。また特にコメント欄にて、「こういうことなんだ」と、本文の補足をすることもいたしません。
不快に感じられたなら申し訳ありませんでした。

>こういう考えもあるということを知っておいてください。
はい。知っておきます。
dr.stonefly
2008/04/27 15:31
フィビヒさん、はじめまして。
つねに多数に共感を持たれるとは思っていない、のですが、やはり共感を頂ければ嬉しいものです。ありがとうございます。
ワタシは、だいぶ前から、ブログの出会いと別れをとても不思議に感じてました。ブログの世界だけの付き合いで、相手がいなくなるというのはどういうことなのか? 
いったい「死」とはどういうことなんでしょうね? エントリーを書きながらとても不思議な気持ちでいます。
dr.stonefly
2008/04/27 15:32
ブログを閉じるのを死と類推させるなら、自殺じゃなくて老衰だと思う。

閉じるのが自分の意思だから自死に喩えるのは変。ブログを作るのは人の誕生とは明らかに違って意志的な行為。一方、人間は自分で意志をもって生まれてくるわけではない。
 気がついたら生まれていたのだから。
kuroneko
2008/04/28 01:44
>気がついたら生まれていたのだから。

しまった。そうでした。つまりはこのエントリーは1行目からして間違いということで、「生」が間違っていれば「死」も間違っている。う〜ん、駄目だ。
やはり、無理があったのか残念。そういえば、ROMの方の位置づけも考えてなかった。やはり駄目だな。
うちゃ様、フィビヒ様、既読の皆様、すみませんでした。毒多は爆死します。(爆)

ただ、「自死」については、読みかけの本「自死という生き方」にある「負の条件がない状況」でも自分の意志で死ぬ、には結構納得しているところではあります。
dr.stonefly
2008/04/28 06:09
ブログでの誕生と死が意志的な行為であっても、ブログ世界で生きていることとリアル世界で生きていることの間には大差はない。

dr.stoneflyさんはここから出発して、生と死を見つめてみようということでしょう。正の有様がリアルでもブログでも同じなら、リアルとブログで異なる誕生と死のあり方が際立つ。まっとうな思考法だと思いますが。
愚樵
2008/04/28 06:16
うっ、あれ、あら? このままコメントに答えつづけると、何か言われるたびにグラグラと揺れつづけ、なんとも軟弱な態度で言葉を綴ったのだろう、という自己嫌悪に陥りそうなので、黙って思索の再検討をします。
dr.stonefly
2008/04/28 10:02
dr.stonefly さま

 類推が合っているとかあってないとかの話ではなくて、自分の心理世界では、よその閉じられたブログは、人が亡くなったのと同じように見える、ということでしょ。
ただ、過度にブログを人格化するのは留保をもったほうがいいかも。新聞記事などと違って、ブログは話体で綴られるから人格を彷彿させるけど…。
ブログを一人格と思っても、複数で書いている場合もある。でもその場合も一ブログだよね。でブログの人格(キャラクター)に自己同一性はあるとしてみ、リアルでは一人ではないことはいくらもある。

一風斎さんのブログはご当人が亡くなっても幸いなことに読めるようです。
http://www.ippusai.com/
「ブログの中に一風斎さんは生きている」は、安直なフレーズだけど、音楽を聴いているとき、生きているバッハの人格に触れているという直感を持つのは、妄想ともいえなそう。
kuroneko
2008/04/28 11:16
んー。でも私は水葉さんもgonさんもリアルでも知らないしメアドも知らないのでやっぱり死に近いかな・・・。

>ご当人が亡くなっても幸いなことに読>めるようです

うーーん。私が突然死したらブログの存在を知らない両親弟妹は削除なんかしてくれずそのままになってしまうのか。なんかちょっとやだ。


さめ
2008/04/28 17:52
それにしても「逃亡者」という言葉のなんと甘美にしてカッコいいことか。敢えてその途を選んだ諸氏の海路平安を願ってやまない。
非国民
2008/04/29 05:33
余計なことを書き込んでしまいますが。

どうしてみな、最初に「私」なんでしょう? 「私」が「私」のところに「私」の文章を書く。その文章を別の「私」が見て、別の「私」なりの感想を綴る。それはいい。

けれど、別の「私」なりの感想が、まず「私」。ほかの人の文章を受けたんなら、まず、その人の思いを「私」がしっかり受け止めることから始めるべきじゃないのか? それをせず、他の人間の文章への感想をいきなり「私」から始める。

なんじゃあ、そりゃあ? と思うことが最近多い。それじゃあいがみ合ってしまうのも必然、と言いたくなりますよ。

すみません。本当に余計です。お気に召さなければ削除してください m(_ _)m
愚樵
2008/04/29 06:04
そりゃ私は波風立てに来たわけですから(^^;

うちゃ
2008/04/29 07:23
命のないものに感情移入するのは人間の特権だと思っているので、ブログ自体の生成と消滅を生死に喩えるのは別に違和感もないのだけど。
ブログと中の人は別だよね。ブログやめたからってこの世から消えうせるわけじゃないし。第一、そこであんまり大騒ぎしたら、次に会った時になんか気まずいじゃないか。
……と思うんだけどね。

うちゃ
2008/04/29 07:40
「死」を馬鹿にしているんですか?
ブログがなくなったことなんて死なんかじゃい。
「感情ではなく、極めて理性で書いています」って、逆ですよね。
理性で書いていたら「ブログの消滅」と「死」を同等に語れるわけなんかない。
「死」んでいながらメールで他人の悪口。
「死」んでいながら他のブログでお気楽コメント。

うちゃさんに同感です。
やこ
2008/04/29 10:51
初めまして。

他の人のブログで、その思考の過程を一緒にたどれるというのは、私にとって大きな喜びです。
なので、それが終わりを告げるというのは、理由はなんであれ寂しさがつきまといます・・・

それは、「思考」の中に「生命の営み」に通じるものを感じるからかもしれません。
生きることは、何かしら「つながり」を生みますから。

「思考の種」を一ついただきました。
どうもありがとうございました。
Light
2008/04/29 14:02
わたしが主婦ブログかなんかやっていて、親か舅・姑の介護で忙しくなってブログをやめたとします。読者が綿々と「死」と比較して感想をいってたら、「やめる自由もないのかよ」とむかつくかも。
まあ、その場合、相手に言いにはいきませんけどね。たぶん。
kuroneko
2008/04/29 16:04
ブログの閉鎖を「死」と捉える「主体」は誰なのだろう? と考えてしまいました。
自分がブログを閉じても他者のブログを見て考えたりするなら自分は死んでいない。
自分のブログがなくなって、それを「死」(不在)と捉えるのは自分以外の人。
他人にとっての「自分の死」(または「自分の死のアピール」)を考えているのかな…と。
kiriko
2008/04/29 16:14
 うちゃさんに波風を立てて頂き、多くの方のご意見ご批判をいただき、再度考えろ、という励ましと受取ります。どうもありがとう。こういう思索が「ブログのなかで生きている」に繋がるのかとも思いますので、またさらなる反感を買うかもしれませんが、書いてみます。

 繰り返しますが、「ブログの閉鎖=死」というは、ブログ自体の擬人化ではなく、ブログを書くその人格を、リアルの身体の維持と言う「しがらみ」をもつ人格よりもさらに純化された別人格としました。そうした別人格がブログで言葉を綴らなくなることを「死」としました。ただ、「死」と呼ぶには、ブログで生きているという自覚をもって思索し言葉を絞り出し綴っているものがブログに綴るのを辞める、ときに限るのかもしれません。
dr.stonefly
2008/04/30 11:02
 そうすると、まず、多くの皆さんの仰るように、「ブログの閉鎖=死」というのが全てのブログに当てはまるのか?、というのは、やはり無理があり、違うのかな、と考えます。上のエントリーでブログ全般という印象を与えたのは失敗でした。ということで、本文に「ごく限られたブログ」ってセンテンスを付け加えるべきかもしれません。それはほんの僅かかもしれない。僅かであれば上のエントリーが成り立たないのか、と言われればそれまでですが……。
 kuronekoアニさんが、挙げたような、例えば「主婦ブログ」のようなブログの形態を否定するものでもありません。また、例えば介護のためブログを辞めれることを否定するものでもありません。
dr.stonefly
2008/04/30 11:02
 むしろ、おそらくは、アニさんがその上で挙げられた「一風齋氏」(ワタシはこのブログを知らないんですが…、知らないでなんで言えるんだ、ツッコまれるかもしれませんが、敢えてアニさんが挙げられたので)のようなブログをイメージしました。一風齋氏のリアルな死で、ブログを続けられない「死」と、一風齋氏がブログを辞めてブログを続けない「死」、ブログでしか繋がりのない私にとって、どう違いがあるのだろう? というのが出発です。(閉鎖という言葉もよくなかったのかもしれない、たんに「辞める」のほうがよかったかな)

 このコメントで、「全てのブログではない」「閉鎖ではなく辞める」としたことで、いくつかの批判に答えられるのかどうかは解りません。

 結局ワタシは、馬鹿にしたくとも馬鹿にもできず、恐れることも笑うこともできない程、何がなんだか解らない「死」を思索するなかで、ブログを辞めることを「死」とみたてて本気の
疑似体験できるのではないか? という試みを書いていたのだろうか? と、自分で書いたエントリーを読み直し振り返ります。
dr.stonefly
2008/04/30 11:03

 で、kirikoさん(多分ここでは初めましてですね、ようこそ)が言われるように「主体」が誰なんだろうということを考えています。「ブログの私」と「リアルの私」を別人格にしたことで、「ブログの私の死」を「リアルの私の死」が見つめるという、ことは可能ではないか、という試みということを思いました。が、「リアルの私」が「ブログの私の死」を見つめながら思索していますが、「ブログで死んだ私」は「リアルで生きている私」のなかで死んだのか?といえば生きてますね。たしかに困ったな。
 おそらくワタシの欲望です。「リアルの死」をみつめる「リアルな私」はいないのだろうか?つまり、「リアルな私の死」を見つめながら「ああ、これが死というものなんだ」と実感できる「私」はいないのかな? それともいるのか? これは解りませんよね。「ああ、これが死というものなんだ」と実感できる「私」を欲しているのかもしれません。
dr.stonefly
2008/04/30 11:03
 リアルで生きた自分の死を自分で見つめることができるのではないか、という欲望が「ブログの死の実感」というエントリーを書かせたのかもしれません。たとえばとことん生をブログにぶつけて、綴るのを辞めるとき「死」を実感できるのでは……、という試行。ここまで書いてまた思いましたが、別にブログじゃなくてもいいのかもしれません。

dr.stonefly
2008/04/30 11:04
 さめさん、ワタシは、リアルのワタシが死んでも、ワタシが綴ったブログが残るのは嬉しいですよ(笑)。ブログは凄い。これがなければさめさんと知り合えなかった。生を綴ることができる。こういうブログの凄さから「ブログの死」を思いたったのかもしれません。


 LIghtさんはじめまして。「思考の種」になりましたか? こういうコメントは嬉しいな。また書いていこうという力になります。こちらこそ、ありがとう。


 非国民さん、こんにちは。
 どうやら、「あなた方」指定を受けてしまったようです。
 それにしても「逃亡者」が甘美でカッコいい、って言える非国民さんはカッコいいですね(笑)。
 ところで「逃亡者」ってのは、一方からの視点で、逆からみると残留者が「見捨てられた」って視点があるかもしれません(爆)。
dr.stonefly
2008/04/30 11:12
はじめまして
お手紙のつもりでエントリー書きました。トラックバックもさせていただきました。
書いてからいきなりでは失礼かと思ったのでご挨拶だけ伺いました。
よろしくお願いします。
ひで
2008/04/30 21:56
ひでさん、ようこそ。
TBありがとうございました。
dr.stonefly
2008/05/01 10:48
このコメント欄にタイトルがあれば「硫化水素」という題にしますが。4月26日時点でも巻き添えの出る硫化水素自殺は話題になっていたんじゃなかったっけな。
今の時点でブログを閉じることが「自殺」に類推されると、ブログを閉じることってそんなに攻撃的ではた迷惑でいけないことに喩えられなきゃいけないのか。よっぽど不愉快な思いをさせられたんだな、という読みをするんだけど…。書いた人の意図と違っていようがいまいが、わたしはそう読んじゃう。

どう読まれようと文句は言えないよね。いったん自分の手を離れた「文芸作品」みたいなもので。
kuroneko
2008/05/01 12:26
>どう読まれようと文句は言えないよね。
 全くそうだね。そのとおり。
 ワタシのなかでは「思索が繋がった」という感じがあり言葉が生まれたのだけど、タイミングが悪すぎたのか? これほどの不快感を持たれるとは思わなかった。というかこれほど反応があるとは思わなかった。ほんとKYだね。

 ここんとここ疲労感が多く、次のエントリーを書く事もできやしないや。というか、すでにエントリーを挙げる躊躇感ってのも生まれてきてるなぁ。
 これも言葉を綴ることの重みだな。ほんとうに勉強になる。
dr.stonefly
2008/05/01 15:05
「あなた方」って・・・。どこで誰が言ってるんでしょう。まあ、どうでもいいことですが。

「逃亡者」という言葉にロマンは感じますが、見捨てられたって感じは無いですね。例えるなら、活動家が地下に潜行するようなイメージでしょうか。私自身が優柔不断な弱虫なもので、革命のロマンとは言っても、大衆を率いて先頭に立つレーニンよりは、ウィーンの薄汚れたカフェで何やらイジケてくすぶってるレーニンの姿にロマンを感じるんです。
だから、逃亡した諸氏には海路平安を願うのみ。そして、くれぐれも、機動隊とともに胸を張って昂然と出て来るようなはしたないことのないように。

自分ところのコメントでも書いたように、たかがブログのやりとりでボロボロに傷付けあって疲弊するなんて、本当に下らないことだと私は思う。だから、どんな時でも逃げるという路を封じてはならない。
非国民
2008/05/02 02:12
はじめまして。

ノスタルジーまたはサウダージという感情ですね。
未来への連続性が絶たれてしまうという悲しみ。永遠に失われてしまうという意味では死別と同じですから。
自分も閉鎖されたブログ主さんに返答をいただいたことがあるのである種の寂しさを感じました。

以下個人的な意見です。

「心の弱さ」や「根源的な恐怖心」が克服可能なのかどうかについての認識にズレがあったように思います。

心も鍛えれば強くなれるかもしれない。自分は強くなったと誇れるかもしれない。
しかし、それは他の人の内面で再現可能かどうかは分からない。

「謝ること」に極度の恐怖心を抱く人にはなにか精神的なものがあるかもしれない、といえるかもしれません。
理屈では分かっていても本能がそれを許さないということです。

ある種の人生経験が合理的な精神的成長を阻むことがあるということです。

では。
ピッピ
2008/05/02 04:07
非国民さん
「逃亡」についても、ムラムラと考えが沸き上がっています。いろいろなことに思索が飛び回ってきました。…なんて大層なことじゃないんですよね。
>、たかがブログのやりとりでボロボロに傷付けあって疲弊するなんて、本当に下らないことだと私は思う。
まったくそうだと実感しています(笑)
dr.stonefly
2008/05/03 09:25
ピッピさん、はじめまして。
後にエントリーを書きましたが、>「ノスタルジーまたはサウダージという感情ですね。」ではないんですが……。やはりどうも表現の形式がまずいのかもしれません。この「詩」のような表現を選んだのは、、、「選んだ」という感覚もなく、自然とこう書いていました。私のなかでは「詩」だから感情、論文だから理性、という区別はありません。つまりは肌感覚で、湧き出てくるままに綴っているという感じです。
>「個人的な意見」以下が具体的に何を差すのか、ちょっとよくわからないのですが、
>他の人の内面で再現可能かどうかは分からない
というのは、面白いですね。なんだか思考がゾクゾクっとします。
dr.stonefly
2008/05/03 09:25

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