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zoom RSS 「授業参観と懇談会」(2)…親の罪

<<   作成日時 : 2006/07/12 12:47   >>

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  前の記事からのつづきである。(この記事では「懇談会のなかでの一番の問題児」をA君、「懇談会のなかでの二番目の問題児」をB君としよう)
 実は随分まえに、息子からもA君には乱暴されている、と聞いていた。しかし、その後息子はA君の「乱暴」について、あまり話したがらないのであえて聞きはしなかったのだが、昨夜、懇談会のこともあり久しぶりに息子に聞いてみた。

 「今日は、学校、どうだった?」
 「……」(子どもにとって、こうした抽象的な質問が一番困るらしい)
 「今日は、A君にいじわるされなかった?」と単刀直入に聞き直す。
 「されないよ。だって一緒に遊んだもん」と、笑う息子。
 「へぇー、一緒に遊んだんだ」思わぬ展開に気分がよくなってきた。
 「何して、遊んだの?」
 「ヤゴとった…」
 「え、ヤゴ? ヤゴなんて学校にいるの?」
 「いるよ、なんか水たまりみたいなとこが、あって、いっぱいいた……」ビオトープみたいなものがあるのだろうか?
 「ふーん、よかったねぇ。それで、A君と二人で遊んだの?」
 「ううんん、えっとボクとA君とC君とD君、みんなA君に誘われたの」
 「A君に誘われたんだ、で、C君ってだれ?」
 「えっと、○○のC君…」よく話を聞いてみると、上に二人兄弟がいる末っ子で今年のクラスは『大はずれ』と漏らしていた親の子どもだった。
 「へー、ああ、そうなんだ」どんどん気分が爽快になっていく。
 「で、B君はなにしてたの?」ついでに2番目の問題児君のことも聞いてみる。
 「あっ、B君もいっしょだった。一緒にヤゴとってた」
 「じゃあ、5人で遊んでたんだ」
 「そうそう、5人、5人……、それでね、A君は昆虫博士なんだよ」
 「え、そうなの昆虫に詳しいんだ。すごいねぇ、で、君は?」
 「ボク? ボクはねダジャレ博士」
 「がくっ」と声に出し肩をおとす父をみて、笑う息子がいた。 

 なんのこっちゃない、ちっちゃな子どもたちは屈託なく一緒に遊んでいるのだ。叩かれたり蹴られたり、泣いたり喧嘩したりしながら、次の機会には一緒に遊んでいるのだ。こんな子どもの声を聞くと、本当に親の「懇談会」はつまらぬ大人の世界であることが浮き彫りになる。詰まらぬ価値観を確認しあう「懇談会」などやらない方がましだな。

 かなり前のことだが、最初に息子がA君に乱暴された話を聞いたとき、確かにちょっと酷いいたずらだったので「顔をしかめた」。その後も、たまにA君のことを聞いたりしたのだが、息子は話したがらないのだ。昨晩の会話から考えてみると、息子はA君の「問題行動」に「顔をしかめた」ワタシに対し「A君を庇って」いたのかもしれない。子どもは、乱暴者だけどA君のいいとこを知っていて、A君を問題視したワタシに無意識に反抗していたのではないだろうか。ワタシが一度「顔をしかめた」ことを息子はしっかり記憶している。なぜなら昨夜は笑って話すワタシに、本当に嬉しそうに話していたのだから。

 「懇談会」であった発言のように、クラスのなかには、乱暴をされ怖がっている子もいるかもしれない。しかし、その子にしても本当にいつまでも怖がっているのだろうか。親に怖がるように仕向けているとは考えられないだろうか? 排除の対象として恐怖を子どもに植え付けているのではないか、と想像してしまう。
 親は、形式としての「道徳」で友達と仲良くしなければならない、と子どもに言い、「問題児を排除しなさい」とは言わないかもしれない。ところが、子どもは間違いなく親の表情をみている。自分が言ったことで親の表情が曇るのは嬉しくない。逆に親が喜ぶ顔は嬉しい。「排除」を望む親の子どもは、クラスでA君と関わらなかった報告をすると、親がホッとし喜ぶことを知っているのではないか? そうしてその子どもは徐々にA君を排除するようになる。親の喜ぶ顔みたいばかりに、自分でも気づかず排除をよしとする。子どもは、そうしたことを身につけながら大人になっていくのかもしれない。

 ちいさな子どもの世界は大人の凝り固まった頭では想像できないほどの、寛容で、許しや、共に生きようとする感性で満ちあふれているのではないか、とは買いかぶりすぎだろうか? 
 いや、買いかぶりではないと言い切ろう。子どもはつまらぬ大人のつまらね価値観によるつまらぬ洗脳でつまらぬ方向へむかわされるに違いない。そして学年が一つあがる度に子どものなかで「つまらぬ」が固定化されていくに違いない。

 つまらぬ親と「愛国心」をはじめとするお仕着せの道徳教育がタッグを組んだ時、学校に子どもたち居場所があるのだろうかと危惧してしまう。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。
(1)の方はため息ばかりでしたが、コチラの記事は読ませていただいてホッとしました。なんだか“ありがとうございます”とお礼をいいたいような気持ちです。お礼はちょっと変ですが...。
何よりも安心したのは、子どもたちの世界は我われの頃と変わっていないようであること。
>ちいさな子どもの世界は大人の凝り固まった頭では想像できないほどの、寛容で、許しや、共に生きようとする感性で満ちあふれているのではないか
>そして学年が一つあがる度に子どものなかで「つまらぬ」が固定化されていくに違いない
全く同感です。大人に向かって成長していくということが、小賢しい知恵を得て瑞々しい完成を失っていくことであるとするなら、成長するということの意味は何なのか? そんなことを問いたくなってしまいます。
愚樵
2006/07/12 19:31
おはようございます。
「排除」を望む親を批判っぽく書いていますが、息子の話す言葉をきき、ワタシも反省させられました。>子どもたちの世界は変わってない。おそらく子どもの年令が低ければ低いほど、どの時代も同じなのでしょう。
となると、大人の生き方が、子ども達に影響をあたえることになるのでしょうが、…陰鬱ですね。せめて息子には変わり者と呼ばれても、世間から「○○ちゃんが可哀想じゃありませんか」と責められても、自分で思考することを教え、必ずしも多数が正しくはないことを、何が真理であるかを自分で考えることを、教えたいと思ってます。
dr.stonefly
2006/07/13 08:12
ご承知の通り学校では個人面談の季節です。当然愚妻も「出頭」します。6年の愚息が「なぜ歴史(社会)の教科書の中には、権力者の記述しかないのか?」(あ〜〜〜と夫婦のため息)と担任の先生との「交換日記」(のようなもの)に書いて出したとのこと(私はそんな日記があることすら知りません)。愚息は塾も習い事もなにもせず、親の「勉強しなさい」もなく、ひねもす遊び惚けて「くねくね」育っているようです。そろそれ「非行」に走る季節ですが、家に火だけはつけるなと言っています。賃貸アパートだから・・・。教師や学校、大人・社会の考えを相対化する力を「学校」という閉鎖空間を踏み台にして身につければ、大人・社会の打算や欺瞞など簡単に見破ることができると考えています。ただ、その結果が愚息がどうなるか?不安と楽しみではありますが、ダメオヤジが関知するところではありません。巣立った鳥を小屋に戻すことはできないのですから。
ダメオヤジ
2006/07/13 14:10
お疲れ様です。愚息ちゃんは賢いですねぇ(感嘆)。
>「なぜ権力者の記述しかないかのか」を個人面談で親にチクったということは、想像するに、教師はそれを問題視していることですね(まさか逆ではないですよね?褒めるために親に言ったって……)。ワタシゃ賢い愚息ちゃんの質問の教師の答えに興味がありますよ(笑)。

今朝、息子に「傘もってけ」というと、「嫌だ」というので、「何でだ」というと、「だってパパ、TVの言ってることも、大人が言ってる事も簡単に信用するな、自分の頭で考えろ!って、いってるじゃん」といいます。「濡れるぞ」というと、チラッと顔をみて「わかったわ」と渋々傘をもってきました。いま、窓の外は晴れています。全然駄目な親です。反省しています。
dr.stonefly
2006/07/13 17:34
 今晩は。白石正久氏の姿勢、実践したいのですが器の大きさが違うようです。加齢と共に自分の器は乾いて小さくなる一方で…。
 子どもの感性は無限だと実感しています。一方「個性尊重」と謳いながらも「出る杭は打たれる」社会です。価値観をワクに嵌める社会⇔教育⇔家庭により、無限の感性が輝きを失われていると感じています。そこに自分も加担していると思うとゾッとしますが、責任は逃れられませんよね。ゴキブリを嫌うようになったら、社会性や常識(?)が身に付いた証拠なのかも知れません。野良猫や鼠への嫌悪然り。
 喧嘩しても、すぐに仲直り出来る。あの時代の自分らの心は何処で失われたのか、探したくなります。「子どもは社会の鏡」と言いますが、その通りだと実感しています。その前に家庭の鏡なのでしょうけど。では、今日の社会の下の家庭では拙速な目先の利益を重視する議論しか交わされないのでしょうか? 親父さんお袋さん次第なのでしょうね。自分は過激にも、TVは「一億総〇痴の機械」と母に教わりました。『北の国から』は別のようでしたが…。少なからず感謝しています。
life_is_beautiful
2006/07/14 01:06
お早うございます。
「白石さんの姿勢、器の大きさ」なんてことを現場で働かれている方にいわれると、口だけで言うワタシなんぞ器以前、土でしかないですね。お恥ずかしい限りです。
 一方「子どもは社会の鏡」というのは、徐々に実感しつつあります。子どもが生まれる以前は子どもとの付き合いが余りなくて、保育園時代は、園の方針や感性が自分と似通っていたので特に「子どもは社会の鏡」という感じはなかったのですけど、どうやらこれから痛いほど打ちのめされそうです。
dr.stonefly
2006/07/14 05:48

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